「まさか、童顔君が猫被ってるとはねー」
澪南はベッドの上に仰向けに転がった。
風呂から出たばかりで、髪が濡れているが、本人は気にしていない様子である。
「あ、高月の家、訊かないと」
勢いよく、起き上がり、メールを打てば、地図が送られてきた。
澪南の最寄り駅より、二駅前で、そこから歩いて10分程で着くらしい。
今日は金曜日で、勉強会は明後日の10時から。
遠くないので、9時に家を出れば、余裕で間に合う筈だ。
「ふふっ、楽しみだなー」
と、呑気なことを考えていたが、当日、大変な事態になったのである。

学校の時より、遅めの七時半に起床した澪南は、朝食を摂りに、リビングに向かった。
やけに騒がしいと思い、ちらりと、見れば、父親がいた。
普段は、仕事が忙しく、澪南も必要以上に家族のいる一階に行こうとしないので、あまり、会わない。
ただ、偶然顔を会わせれば、悪口雑言を浴びせるのだ。
絶対に関わりたくないランキング一位である。
見つかりたくない、と思い、踵を返したが、生憎、下の弟と妹に見つかってしまった。
「あ、お姉ちゃん!」
「おはよう!」
天使のような笑顔だが、あまりの無邪気さに内心恐ろしい。
ちらりと、父親を見れば、睨まれた。
手に持っていた、マグカップを置き、のそり、と近づいてきた。
痩せてはいるが、長身の上、寝不足そうな顔で睨みを利かせていて、随分と迫力がある。
澪南は、この父親の容姿に慣れてしまって、怖がりはしないが、面倒だと思っていた。
「お前、休日だからって、ダラダラと寝てるな!!」
予想通り、怒鳴られた。
「この間の中間テストで、高得点取れたからっていい気になるな!」
最初の一言は、まだ納得出来るが、今度は意味不明である。
実は澪南の通う学校は偏差値70とかなり高く、その上学年一位の成績だ。
普通の親なら、何かしら、誉めるが…。
澪南は、内心、舌打ちをした。
中学の時も、学年一位なのに、同じような事を言われ、若干頭に来ていた澪南は高校を入学したばかりの頃にある質問をした。
それは、澪南も解くのに時間がかかった問題ではあるが、そこそこ頭の良い、一般男性には、普通に出来る筈だった。
だが…、
「は?こんな問題も解けないのか。つくづく馬鹿だな。簡単なことなんだから、自分で考えろ」
そう言っていた目が泳いでいたので、澪南は悟った。
案外、父親は馬鹿なのだと。
そして、毎度口先だけは立派なのである。
「ほら!さっさと勉強しろ!」
「え、ご飯がまだ…」
「死ぬ訳じゃないんだから、平気だろ!」
そう言って、無理矢理、階段付近まで、連れて来られてしまった。
これでは無理そうだと、澪南は諦め、自室に戻った。
一旦、誰が来ても平気なように、勉強道具を机に置き、私服に着替える。
高月の家に行くことができれば、何とかなるが、そこまでが無理である。
玄関に行くには、ドアも何もない、リビングを通らなければならないし、もし、気付かれずに行くことが出来ても、ドアの音で、わかってしまう。
澪南の部屋は二階で高さもまあまああるので、飛び降りるのは危険だ。
狙うは、父親が何かの用で、リビングからいなくなったときだが、運良く行けるとは思えない。
「うーん…」
と、唸っていたが、携帯の着信音が鳴り、見れば高月からだった。
「はい?もしもし」
『来栖さん…。ごめんね、樹にバレた』
「はぁ?」
面倒なことが一気に押し寄せてきて、澪南は頭を抱えた。
『実は、來斗が、ちょっと失言をして、それで樹に勘づかれたんだ。で、まだ時間より速いし、出発していない筈だから、来栖さんを迎えに行こうって、行ったから、大事にはならなかったんだけど…』
「もしかして、私の家の近くにいる?」
『そうだよ』
窓を開けたら、高月と、少し離れた所に河野と樹が道に立っていた。
「じゃあ、童顔君に変わってくれない?ちょっとお願いがあるし」
『あ、うん、わかった』
高月は少し、不思議そうにしながらも、樹へと、携帯電話を渡した。
『もしもし、来栖さん?』
「あ、そうそう。で、お願い聞いて貰えるかな?」
『勿論!で、どうしたの?』
「うーんとね、私の家のインターホンを押してくれないかな?あと、高月にでも相談して、私の父が出てくるように。いいかな?」
『インターホン、押すだけで良いんですか?』
「うん。でも、絶対、私の父が出てくるように。母じゃなくてね」
『わかりました!じゃ、早速実行しますね!』
樹は、高月に何か言っているようなので、大丈夫そうだ。
安心して、澪南は窓を閉め、リュックに勉強道具を入れて、階段をゆっくりと降りていった。
ピーンポーン、
とチャイムの音が鳴り、母親がはい、と出た。
何か、上手く言ったようで、母親は、リビングへ戻り、父親は玄関のドアを開けたようだ。
よし、と思い、澪南はリビングにいる家族と父親に気付かれないよう、忍び足で玄関へ向かい、靴を履いた。
そして、父親が話に熱中している内に、上手く、家から出た。
「おい!お前家から出るな!さっさと勉強しろ!」
流石に、父親に見つかりはしたが、距離はあるので、平気そうだ。
父親を呼び寄せていた高月は、澪南を捕まえようとした手を引っ張った。
「怖いですねー」
「あ、童顔君達は、一緒じゃなかったんだ」
「まあ…、あの様子じゃ、可笑しいのには気がつきますよ、って、うわっ!」
澪南の父親は顔を真っ赤にして、高月に手を離させようと、掴みかかってきた。
そして、高月を殴るよりも速く、澪南の父親に一発くらわせたのは、樹だった。
「うるっさ、オッサン」
「は?オッサン?年上に対して…うぐっ」
かなり痛かったようで、澪南の父親は気絶した。
「え、父さん、こんな弱いんだ。私でも、何とか出来たかもな…」
澪南は、情けない父親の姿に呆気にとられるばかりだ。
「来栖さぁん」
ニコニコして近づいてきたのは、樹だった。
先ほど見せた怖い顔とは、違って、今は満面の笑みである。
「あ、童顔君ありがとね」
「やったー」
可愛く感じて、頭を撫でれば、かなり樹は嬉しそうにした。
「犬と主に見えねぇか?」
「うん。同感だよ」
本当に、そう思える。
端から見れば、樹は尻尾を機嫌良く、振っているようだ。
「あ、ていうより、来栖さん。この二人に、俺が猫被ってること聞いたでしょ?」
少し声が低くなり、背筋に悪寒が走った。
高月は、心底迷惑そうにしており、河野は青ざめているので、恐らく河野が話してしまったのだろう。 
「うん。あ、でも、童顔君。本性のときのほうが私好きだよ」
かなり、樹は狂暴だと、二人から聞いており、何かされるのは気の毒に思ったので、澪南は少しフォローをした。
それでも、犬の幻覚は消えないので、樹は澪南の前だと、こんな感じなのであろう。
「そういえば、来栖さん。何で、あんな変な状況に?話したくないのなら、いいんだけど」
「三人とも、人に話さないよね?ここじゃ、なんだから、高月の家で話すよ」

一同は高月の家にたどり着き、澪南は話し始めた。
「小さい頃に、私の両親は離婚。母さんは元々育児が好きじゃないから、父さんに私を預けたんだ。で、その後、父さんは再婚。今は父さんと新しいお母さん、妹、弟と暮らしてるんだ」
一旦、言葉を、区切り、ジュースを飲んでから、話を続ける。
「お母さんも妹も弟にも、良くしてもらってんだけど、問題が父さん。何故か何かと突っかかってくるんだ。今日なんかは、この間のテストは悪くないのに、悪いみたいに罵って勉強させられたって訳。頭良くない割に、口だけは達者なんだよねー」
昔はそうじゃなかったけど、と澪南は思った。
澪南は懐かしいあの日々を、思い出す。

「お父さん、お母さん!」
「どうしたんだい、澪南?」
記憶の中の父親が、優しく問いかける。
「あのね、幼稚園でね、お友達が出来たんだよ!」
「そりゃ、よかったな」
と、頭撫でてくれた。
それはもう、温かい手で。
「あら、本当?仲良くしなさいよ、澪南」
母親は、台所から出てきて、嬉しそうに微笑んだ。
「うん!」

小学校に入る前のことで、母親の顔は、綺麗だったという、記憶しかないが、あの時の父親は、優しかった。
今更、昔と同じようにして欲しい訳ではないが、あの頃は楽しくて、幸せだった。
「あのー、来栖さん?」
河野の言葉で、はっと、我に返る。
長い間、感慨にふけっていたようだ。
「あ、ごめんね。ちょっとぼーっとしてた」
そうは言ったものの、頭が本当にぼけーっとしてきて、その後の勉強も楽しい会話も、あまり、頭に入って来なかった。
そうこうしている内に夕方になり、皆帰り支度を始めた。
「来栖さん、俺、送るよ」
「え、悪いからいいよ」
「俺がしたいから。ね?」 
樹に一度は断ったものの、押しきられ、一緒に家まで戻った。
「…私はどうして欲しいのかな…」
「え?」
あまりに小さい声だったので、樹には届かなかったようだ。
澪南は段々と意識が薄れていき、その場に倒れかけたところを、樹に支えられた。
「来栖さん!大丈夫!?」
そう呼びかけられたところで、澪南の意識が途切れた。