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川沿いの森に潜んで進むこと2日、とうとうゲニムを目前にした河まで着くことができた。
だけど天気はあいにくの雨。
晴れでもバケツをひっくり返したみたいに降るこの島の雨だけど、今日は空も薄暗い。
雷鳴も激しく轟いて、ドラムとか太鼓とかって悠長なレベルじゃない。
知らない人に背中をドンドンと叩かれてるみたいな差し迫った恐怖を感じる。
雨が川面を砕くように打つ様子も滝壷みたいで恐ろしさしかない。
「さすがにこれでは止したほうがいいだろうな」
「雷、すごいね…」
「お前が来てからはここまで鳴ったのは初めてかもな」
割れるような轟音は、頭上を掠める爆撃機を思い起こさせる。
こんな天気の時はそれも来ないから、ある意味じゃ一番平和で、安全ともいえる日。
それだけが救い。
向井さんと山根さんの携帯天幕で、寝袋を3つ覆える屋根を作った。
雨でもこれのおかげで凌ぎやすさが全然違う。
激しい雨で垢を落として、不格好な坊主頭を洗う。
昇さんと阿久津さんは天幕の下で軍服を脱いで向こう側に出て行った。
だからってあたしが脱げるわけじゃないけど、できるだけ丁寧に服の中で擦り流した。
こんなにサッパリしたの、何日ぶりかな。
4月の25日にここへ来て、もうGWも終わるって頃なのに、軍服に着替えた日以来な気がする。
というか、そのあとの毎日は、いつ、何をしたかなんて憶えてないんだ。
歩いて、食糧を獲って、食べて、寝る。ただそれだけを必死に繰り返してきた。
その間に、仲間を亡くした。
憶えてるのは、それだけ。
「さぁー!腹いっぱい雨水食うぞぉ」
阿久津さんが、褌一丁で妙な雄叫びを上げる。
昇さんがそれを見て笑った。
よかった。
あたし、ずっと川が怖かった。
渡るのが怖いとかじゃなくて、渡るのももちろん怖いけど。
川で山根さんが危ない目にあって、向井さんが死んじゃったこと、昇さんがずっと自分のせいだって抱えてるんじゃないかって思って。
もちろん、忘れてなんかいないだろうけど、それでも。
渡河を前にして笑えるんなら、それで充分。
この河を渡るときは、今度こそ無事に向こう岸へ行くんだ。
雨は強まったり弱まったりを繰り返して、時には天幕に穴が開きそうな勢いで朝まで降り続いた。
その音が銃声みたいで、なかなか眠れなかったし何度も目が覚めた。
昇さんと阿久津さんも同じだったみたいで、時々うーん、と唸っているのが聞こえた。
何度目かの目覚めで、阿久津さんが天幕から出ていくのが見えた。
まだ夜明け前には少し早いのに、どこ行くんだろ。
はじめはおトイレかな、くらいに思っていたけどなかなか戻ってこないから、だんだん心配になってきた。
暗いから迷っちゃった?
それともぬかるみにはまって動けなくなった?
あたしはいてもたってもいられなくなって、昇さんに声を掛けた。
「昇さん、昇さん!起きて。阿久津さんが戻ってこない」
「ん…、ああ?阿久津が?」
「うん、だいぶ前に出ていって、そろそろ明るくなってきたのにまだ戻らないの」
「ほんとか!?」
「俺が、どうしだって?」
「阿久津さん!」
あたしが慌てているところに、夢のような甘い香りと共に阿久津さんが戻ってきた。
手には、大きな房ごとの……バナナ。
クリスマスツリーみたいな大きさだ。
「阿久津!バナナじゃないか!よく見つけたな」
「河を見だ時によ、向ごうのほうに葉が見えだから、朝んなっだら見にいぐべと思ってだんだけど、何度も目ぇ覚めで腹へっぢまっで」
「すごい…バナナってこんなにたくさん実がなるんだ」
雨のせいか少し潰れて傷んでるけど、バナナだ。
こっちに来て初めて見た。
南国ならバナナくらい普通にあると思ってたのにぜんぜんなかったんだよ。
腕ぐらいの太い茎にぐるりと房がついて、それが4段くらい。
ぐるりじゃなくて、らせん?
ううん、互い違いになって重なってるのかも。
とにかく、3人でも食べきれるかわからないくらいの量がある。
天幕の中が、あっという間にバナナの香りでいっぱいになった。
「しっかり食っで、河を渡っだらゲニムだ」
「うん」
阿久津さんが一つもいでくれたバナナを持ったら、朝食バナナダイエットなんてものを思い出した。
毎日毎日、あたしはこのバナナを食べてた。
テレビの朝番組をぼーっと見ながら、牛乳で流し込むだけのダイエット。
あの頃はなかなか痩せなくて微妙だなとか思ってたウエスト、今は2週間たらずで緩々だよ。
ふふ、っと、ちょっと前の自分を馬鹿にするみたいな笑いがこみ上げてきた。
手の中のずっしりした重みに、ゴクリと喉が鳴る。
皮を剥いて、かじりつく。
……。
なんて甘い。
ここに来てこういう食感のものを食べていなかったせいか、喜びが体の底から胸に押し寄せて、身体じゅうがぞわぞわ騒ぐ。
甘みが口の中に広がって、耳の下がぎゅーっと痛くなる。
しかもお芋みたいな、食べてる!食べてます!って噛み応え。
「弥生ぢゃん?」
美味しくて、嬉しくて。
逆に今ままであたしがどんな食べ方をしていたかを思い出して、腹が立った。
ヒモが渋いとか、黒いとこ邪魔とかいいながらそれを避けてちまちま食べて、挙句の果てにぜんぜん食べないで捨ててたことも…
「未来ではね、バナナって、基本的に地味でぜんぜん主役じゃない果物なんだよ。イチゴとかメロン、ぶどうに桃って、オシャレで美味しいのがいっぱいで。南国系でもマンゴーとかパパイヤみたいに高級感もインスタ映えもしないから子供は好きだけど大人で大好き!とかいう人あんまりいなくて」
「そうなのか」
「うん。あたしも毎朝食べてはいたけど、ちょっと黒いとこあるとポイって捨ててたりしたの」
「それは罰当たりなごとを」
「うん…もしかしたらあたし、バチが当たってここに飛ばされたのかも…」
「あ、いやぁ冗談だ、冗談」
「神様がいるなら、謝りたい。あたし、他にもたくさん食べ物粗末にしてたの。ここに来て、雑草に虫まで食べるようになって、ああ、なんて幸せだったんだろうって…」
前なら、バナナをありがたがるなんて絶対に考えられなかった。
だけど今、あたしの体はバナナひとつでこんなにも幸せに満ちてる。
幸せ過ぎて震えるなんて、よくわからない例えだなとか思ってた。
でも例えなんかじゃなくって、本当に震えるんだ。
たかがバナナで、鳥肌が立って、震えてるの。
「まあ、その、なんだ。気付いたんなら、それでいいじゃねえが!ほれ、もっど食え、ウマイだろ?」
「ん…おいしい……」
「うん、旨いな」
「最高だ」
それ以降、あたしたちは無言でバナナを頬張った。
夢中で、剥いては食べ、剥いては食べた。
虫が食ったような穴も、熟れて割けた傷が黒くなってるのも気にしないで、全部、残さず、泣きながらむさぼった。
雨音は相変わらずだったけど、最高の朝だった。
魚の日以来の満腹に、あたしたちは満ち足りていた。
雨はまだ降り続いていて、河は渦を巻くようにうねり、唸っていた。
それでも今までにない勇気が湧いてくる。
食べ物の力は偉大だ。
そう、思った。
「頑張ろうね!」
「おう!」
「……」
「何だ松田、腹でも壊したが?」
ただひとり、昇さんだけは違った。
「もう1日、待たないか」
ああ、大丈夫かと思ったけど、やっぱり前のことを引きずってるんだな、と思った。
確かに天気は悪いけど、昨日よりは明るいし、雷もない。
何より今はたくさん食べたから体力がある。
明日また昨日みたいにゴロゴロ来たら、ゲニムでの合流の機会を逃してしまうかもしれない。
そうしたらまた物資の補給がないまま、今度は200㎞以上も歩き続けなきゃならない。
この3人のまま。
3人じゃ、助け合うにも限界がある。
やっぱりここは今だ、そう思った。
「松田、俺らは死なねえよ?行ぐべ」
「うん、流れは速いけど浅そうだし」
「……わかった。注意していこう」
阿久津さんも同じく思ってたみたい。
岩がゴツゴツしているから、そこを掴みながら進めば行ける、そんな強い気持ちで水に足を浸した。
思った通り、水深は浅かった。
あたしでも腰までないくらい。
だけど、思ったよりも流れを体に受けて、体を支えるのがやっとだった。
「弥生、進めるか?」
「う…、ん、頑張る…っ」
「慎重になぁ!」
なんとか中ほどまで進んだあたりに中州みたいなところがあった。
「そこで一旦休もう」
昇さんの指示で中州に上がったあたしたちは、激流の中でしばしの休息をとることにした。
体がガチガチにこわばって、すごい筋肉痛の前触れみたいになってる。
だけど前の渡河でも同じ感じで、筋肉痛にはならなかった。
栄養が足らなくて、痛む筋肉もないのかも。
「あど5mってとこが」
「そうだな」
「あんまり休むと却って疲労が溜まる。そろそろ行くぞ」
「うん」
そこから先は、あまりよく覚えていない……
あたしの目の前で立ち上がった阿久津さんが、一瞬で視界から消えた。
え、と思って下を向いたら、頭から血を流して流されそうになってる阿久津さんがいた。
昇さんが叫びながら手を出していたような気がする。
だけどその全部がスローモーションみたいな景色の中、阿久津さんが赤いリボンみたいな血の帯を引きながら遠ざかって行く。
モノトーンの中に鮮血だけが赤くて、あたしはゆらゆら揺蕩うその帯を見つめてた。
赤い帯は見る見るうちに流れに消されて、見えなくなった。
「阿久津さん!!」
叫んだときは、もう阿久津さんの姿は見えなくなっていた。
コントロールが利かない岩だらけの流れの中を下って追いかけることは、昇さんでも無理だった。
どうやって渡り切ったかわからないけど、あたしたちはとにかく夢中で岸に上がって、川下に向かって走った。
阿久津さんは、すぐに見つかった。
どれほど流されてしまったかと思ったのに、しばらく走ったところで、大きめの岩にもたれかかっているようだった。
だけど、もたれかかっているわけじゃなくて。
たまたま、そこにひっかかっているだけだと、すぐにわかってしまった。
腕に力はなく、波にまかせて揺れていて、身体じゅうあちこちが切れて皮がめくれているような所もあって、日焼けしていない背中の血の気は消え失せていた。
蝋人形みたいだった。
これは阿久津さんで、まだ生きているかもしれない、そう思いたいのに、なんだか得体の知れない気味の悪いものを見てしまったような気持ちでいっぱいだった。
昇さんがまた河に飛び込んで、阿久津さんの元へと向かった。
だけど阿久津さんの顔を見た途端、足を止めて引き返してきた。
その様子を、あたしは他人事みたいに眺めていた気がする。
「行こう。風邪をひくぞ」
昇さんが、そんなようなことを言って、あたしの肩を重く叩いた。
その後、あたしたちは何事もなかったみたいに歩いた。
というか、何も考えたくなくて歩いた、が正しいかもしれない。
何も言わない昇さんのあとをただ黙々とついて行った。
雨の日は暗くなるのが早くて、あと少しのはずのゲニムには着かないまま日没になった。
あたしは唯一の出来ること、天幕張りをいつものように済ませて、渡河で使い果たしたカロリーをもうこれ以上使わないようにと、天幕製の寝袋を準備する。
「阿久津の形見だ」
「え?」
そう言って、昇さんがくたくたのバナナを差し出してきた。
「渡ったらみんなで食おうと思って、3本だけ軍服に挟んでおいたんだ」
「昇さん……」
「阿久津のぶんは半分に分けよう」
それは、潰れて、灰色みがかった中身が飛び出した、どうみてもゴミみたいな姿のバナナ。
だけど、朝食べたのと同じ味がした。
最高の朝だった、あの時の空気が蘇る。
『しっかり食っで、河を渡っだらゲニムだ』
『松田、俺らは死なねえよ?行ぐべ』
…………っ。
「死なないって…、言ったのに…っ。阿久津さんの嘘つき……っ!」
ゲニムはすぐそこなのに……
あたしたちはまた大切な仲間を失った。
阿久津さんの大きな笑い声も朗らかな歌も、もう聞こえることはない。
バナナの甘い香りが天幕の中に空しく漂っているだけだった。
次の日、あたしたちは朝日を浴びて目覚めた。
晴れた朝は久しぶりだ。
「阿久津は……太陽みたいなやつだったな」
「そうだね」
本当に、太陽みたいだった。
太陽が、西に向かうあたしたちの背中を押すみたいに後ろから照らす。
阿久津さんがもう少しだ、頑張れって言ってくれてるのかも。
くよくよしてられない。
足に力を込めて、一歩ずつ。
ゲニムは、すぐそこだ。
***
盆地のような少し開けた場所が見えた時、昇さんが立ち止まった。
「昇さん、もしかしてここ……」
「ああ、おそらくな」
「着いたんだ!やったぁ」
「まだだ。このまま森で少し待機だ」
「どうして?すぐそこなのに」
ここへきて慎重な昇さんに、あたしは尋ねた。
いますぐにでも走っていきたいのに。
「あそこには将校はじめ他の兵たちも多くいるだろう。お前が女だとバレたら俺も終わりだ。いっそ軍服は捨てて正直に理由を話すか…」
「頭の固そうなオジサンたちがタイムスリップなんて信じると思う?なんとかどさくさに紛れて出発まで過ごせればいいんでしょ?そのあとは少し離れて行動すればいいよ」
「うーむ」
昇さんが決めかねて、腕を組む。
仕方がないのであたしもその場で座って、休憩だと思うことにした。
「おい、貴様ら」
ビクン!
腕組みしてぶつぶつ言っている横顔を何気なく眺めていたら、後ろから声を掛けられた。
「はっ、報告いたします!第18軍所属、輜重第41連隊、町田昇、以下2名。ホルランジヤより転進、只今ゲニムに到着いたしました!」
「よし。報告は本部前だ。…よく生きてここまで来たな、向こうまで行けば粥もあるぞ」
「はっ!ありがとうございます!」
昇さんが即座に声を張って機敏に答えたおかげで、あたしのことはチラっと見られただけで済んだ。
「今の、偉い人なの?」
「階級章は伍長だったな。俺よりは上だ」
「そうなんだ」
「お前が座ったままで肝が冷えたよ、この状況下だから腹が減って立てないとでも思われたんだろう」
「あはは…ごめんなさい」
あのチラ見はそういう意味だったんだ…危なかったぁ。
「さあ、粥を食いに行こう」
「うん。あ、そういえばさっき町……」
昇さんがさっき自分のことを「町田」と言った気がして、訊こうとした時だった。
話しかけながら立ち上がった途端、ぐらりと視界が揺れた。
あ!
この感じ、ダメ…っ!
今はダメ!昇さんにまだ何にも言ってな…………――
あたしが次の瞬間に見たのは、白い天井だった。
体が重くて、全神経を研ぎ澄ましてやっと、自分の指を自分の意志で動かせることを確認した。
ここ…病院?
だよね。
あたし、めまいで倒れでもしたのかな?
だけど、どこかが痛いとか、そういう感じじゃない。
ただただ、体が重くてだるい。
まともに首も動かない状態で、なんとか見える範囲を見渡す。
白い天井はパネル状になっていて、照明が埋め込んである。
天井からはオフホワイトの細いポールが等間隔に伸びて、同じ色のカーテンレールがぶら下がっていた。
カーテンは清潔そうな明るいパステルオレンジで、上の方は目の粗いネットになっている。
壁はピーナツクリームみたいな明るくて爽やかなモカ色。
ドアや棚がそれより少し濃いめの茶色い木目で統一されているようだった。
全体的に、昭和19年のものじゃない気がする。
ゲニムにこんな設備の病院、あるのかな?
それか、本当に元の時代?
じわじわと少し違和感のある左手に気付いて神経を集中させると、腕を少し持ち上げることができた。
なんとか視界に入った手の甲には、肌みたいに柔軟で透明なフィルムが覆う清潔そうな極細の点滴針と、そこから伸びるしなやかな細いチューブがついている。
やっぱり。
ここは現代だ。
あの時代、しかもあの島に、こんな綺麗で進んだ病院や医療器具があるはずがないんだから。
…戻って、きたの?
ううん、そもそも。
タイムスリップなんてあり得ない。
この状況から察するに、きっとあたしは海でなにかあってここに運ばれたんだ。
それで、長い夢を見ていたって考える方が、自然だよね。
ということは、阿久津さんも、山根さんも、向井さんもいないんだ。
もちろん、昇さんも…
見送ったみんなが実在しなかったのなら、辛い死に方をした人がいないということ。
ホッとして涙がこぼれた。
だけど同時に、安堵の涙はすぐに例えようのない喪失感の涙へと変わった。
ずっと必死にあたしを守ってくれた昇さんが、いない。
存在すらしていなかったなんて、耐えられない。
「…っく…、うっ…」
胸が張り裂けそうなほど、苦しい。
涙が後から後から溢れてくるのが、余計に辛い。
だって、さっきまでは汗も涙も、まともに出ることなんかなかった。
嗚咽で、息が出来なくなる。
会いたい。
会いたい!
夢だったなんて、嫌だよ!
もう歩き疲れて、臭くて汚くて、お腹がすいて仕方がなくて、悲しくて辛くてどうしようもない日々だったけど、それでも。
昇さんと過ごしたことの全部が夢だったなんて、そんなの嫌だ!
「古賀さん、点滴交換しますねぇ~……っきゃあ!!」
シャー、とカーテンが開いて、看護師さんがやってきた。
と同時に幽霊でも見たのってくらいに叫ばれた。
ここ、病院だよね?
お静かに?
「え?えっ?意識、戻ったんですか!?って、気がつかれてから勝手にどこか行ったんですか!?」
「え?いえ、まだ…どこにも…」
「だって、その恰好…っ、しかもそんなに汚れて、おまけにその頭…っ!病院なのに困ります!」
そう言われて、自分の指が泥汚れで真っ黒なのに改めて気づかされた。
そういえば確かに、さっき点滴のチュープを見た時は、違和感があった。
汚れた腕に点滴針を刺すはずがないのに。
だけど自分が薄汚れていることを、あたしの脳はごく自然に受け入れてた。
だからその違和感をスルーしてしまっていたんだ。
あたしの腕に軍服らしき袖。
看護師さんの驚き具合からして、間違いなく着てる。
つまり、あたしがタイムスリップしてたのが夢じゃないってことだよね?
初回に砂を付けて戻ったのと同じで、あたしは身に着けたものそのままで戻ってきたんだ!
夢じゃなかった!
それだけで、胸が高鳴る。
行っていたんだ、あたし。
確かに、あの時代の、あの場所に。
思い出したくないような出来事ばかりだけど、ただひとつ。
昇さんと過ごした時間が夢じゃなかった、ただそのことが。
本当に本当に嬉しい。
「先生呼んできます!」
「あっ、待って!今日、何月何日ですか!?」
「5月7日ですよ、2週間近く眠ってたんですよ、古賀さん」
……あってる。
と思う。
防水のはずのスマホが渡河のせいか充電切れか、ずっと正確な日付の確認をしてなかったけど、毎朝昇さんと日付を確認しながら進んだから、たぶんあってる。
やっぱり同じだ。
時間の進み方が同じ。
このあと、あの島で日本軍がどうなるか、調べなきゃ!
日本は負ける、それはもう誰もが知ってる事実で。
だけどあの島の事をあたしは何も知らない。
知らなきゃ!
まもなくやってきた先生にも驚かれ、看護師さんたちに体を拭いてもらった。
その時、鏡で見せてもらった顔は浅黒く日焼けしていて、髪も不揃いなあの坊主頭。
なぜこんなことになっているのかをかなりしつこく聞かれたけど、わかりませんの1点張りで通した。
だけど自分のこの姿を水鏡以外でみたのは初めてだったから、予想以上に男前で笑ってしまって、かなり怪しまれてしまってると思う。
でも本当の事を話したって、大人はきっと信じない。
結局、不審者の侵入の可能性、なんて言って、警察沙汰になってしまって、ちょっと面倒くさかったし、病院には申し訳ないなと思った。
だけど着ていた軍服を証拠品として警察が持っていってしまって、すごく焦ってる。
あの軍服自体は名前もわからない人のだけど、刀とポケットの中見は、向井さんと山根さんの形見なんだ。
それに、昇さんのフィルムも入ってる。
何とかして返してもらわなきゃ……
夕方になって、学校の終わった葉月を連れてお母さんが見舞いに来てくれた。
「なんだよ姉ちゃんその頭!わはははっ!ダッセェの!」
「こら葉月!お姉ちゃんずっと意識なかったんだから。だけど本当にどうしたの…」
「あたしにもよくわかんないんだよ、お母さん。葉月、来てくれてありがとうね」
「え、姉ちゃん頭打ってねえ?なんかキモいんですけど」
「打ってないよ、また葉月に会えてうれしいなって思って」
「え?ええー?まじどうしちゃったんだよ、まじキモい、まじウザい」
「…お母さんが言うのも変だけど、弥生、いつもだったら「うっさい死ね!」って言うとこじゃない?やっぱりちゃんと検査してもらわないと…」
「大丈夫だよ。死ねとかもう言わないことにしただけ」
あたしの変わりように、葉月とお母さんが困惑気味でおもしろい。
前のあたしは、死って言葉をものすごく簡単に口にしてた。
だけど目の前であんなに人が死んでいくのを見てしまって、自分もいつ死んでもおかしくない状況の中で過ごして、そんな簡単な言葉じゃないって、思ったの。
だからもうそんな風には使わない。
「それより、あれ、持ってきてくれた?」
「ああ、ノートパソコンね。はいこれ」
「ありがとう」
これで、あの島の事がきっとわかる。
約2週間ベッドで眠り続けたあたしは、身体じゅうの筋肉がすっかり落ちてしまってる。
体のダルさ重さの殆どはこのせいらしい。
自分の腕を上げる筋肉もないってどんだけ……
毎日少しずつの運動で元に戻るといわれて、リハビリの先生に教えてもらいながら筋トレをすることになった。
それ以外の時間は遅れた勉強を進める……じゃなくてあたしにはやることがあった。
親に持ってきてもらったノートパソコンを起動して、インターネットブラウザを開く。
キーボードがフリックじゃないからやりづらい。
画面は大きいから、そこはパソコンのほうが好き。
検索ボックスに「ゲニム」と入れる。
……ナニコレ。
遺伝子がどうとか、塩基配列が、って、生物の授業みたいなのがズラリ。
もしかしてゲノム、じゃないよ!
「ゲニム」がマイナーなのか、自動的に検索頻度の高い語句に変換されてしまった。
もしかしないの!
ゲニムでいいの!
「ニューギニア」「戦争」を追加する。
そこには、あたしが戦争について持っていたイメージや知識なんかとは全然違う文字がずらりと並んでいた。
『地獄の戦線』
『死の行進』
『命をトル川』
『敵は飢えとマラリア』
『仲間の肉を食べた日本兵』
……何?
どういうこと……
仲間の、肉…って?
人間の肉ってこと?
確かに食べるものがなくて、辛かったけど…
あたしたちはカエルやカニで何とか凌いだよ?
さすがに人の肉は都市伝説でしょ……
恐々ページを開くと、あたしたちのいたエリアとは違う場所の話だった。
だけど、そんな話がいくつもあって。
信じられない気もしたけど、あの状況であと数日、なにも食べるものがなかったら?
そう考えると、どうしても否定できない気もしてしまう。
地図で確かめたら、ゲニムからサルミへの距離はあたしが歩いた距離の5倍。
昇さんが言ってたとおり、約250㎞。
途中、川はあるけど湖はない。
タナボタで魚が食べられる機会だって、そうそうないはず。
迷わず直線を進んで250㎞だから、実際はもっと長い距離をさまようことになると思う。
もしそんな時、近くで虫もカエルも獲れなかったらと思うと……
もしかしたらこのあと昇さんも?
そんな考えが頭をよぎって、ぶんぶんと横に振り払う。
やめやめ、よそう。
本当かどうかわからない話をちゃんと調べるのは、後だ。
あたしが知りたいのは、このあとあの島が、昇さんがどうなるか。