大会一日目の帰り、僕は圭美と千駄ヶ谷駅近くの喫茶店に寄った。平日はサラリーマンがスポーツ新聞を読みながら喫煙するチェーン店だが、土曜日の夕刻の店内に客はまばらだ。
圭美は紅茶、僕はコーヒーを頼んだ。コーヒーは墨汁のように黒々と煮つまっていて、ミルクをたっぷり入れないと飲めないほどだった。
市販のティーバッグで入れたと思われる薄い紅茶に口をつけ、圭美がかすかに顔をしかめる。
「そっちもまずい?」
僕が訊くと、圭美が今度はおおげさに顔をしかめた。
「すっぱーい」
隣のテーブルに聴こえないトーンで言った。
「賢介、いよいよ明日が勝負だね」
ティーカップを手にしたまま、圭美が見つめてくる。
「うん。やるだけはやった。でも、全国大会を体験したオレと体験できなかったオレ、その後の人生って、違うのかな」
「絶対に違うと思う。だって、ほかのたくさんの人よりも大きな喜びも厳しさも体験するんだから。福島で賢介はもっと強い賢介になるんだよ」
圭美の顔が今まで見たことがないほどの優しさに包まれた。
きれいだと思った。僕は生まれて初めて、人を強く抱きしめたいと思った。
その時、目の前の圭美が表情をゆがめた。すっぱい紅茶のせいではなさそうだ。彼女の視線は僕の後ろに注がれている。
ふり向くと、木下がレジで支払いをしようとしていた。僕たちのテーブルから死角になる奥のエリアにいたらしい。弥生高の男子選手五人も一緒だ。佐久間の姿もあった。こちらに気づいた木下に、僕は立ち上がって頭を下げた。
「明日のリレー、うちと同じ組だね」
木下は僕と圭美の姿にやや戸惑いの表情を見せたが、それでもこちらのテーブルに歩み寄ってきた。
「はい。おたがい全国へ行けるように頑張りましょう」
僕は木下から佐久間に目線を移しながら応じた。
「できれば勝ち逃げしたかった」
僕の本心だ。
「四〇〇の借りを返すチャンスがないまま卒業されてしまうかと思っていましたよ」
佐久間が目を輝かせる。
「僕もそう思っていた」
「全体練習の後、スタートとターンを毎日くり返しました。おかげで速くなりましたよ。あの四〇〇のレースで負けた成果です」
「明日は五〇メートルプールの長水路だから、スタートとターンは一度ずつしかない。佐久間君が有利だね」
そう言って僕はもう一度木下を見た。
「明日、同じ組になれたのは幸運でした。前回のリレーはうちの第三泳者に不幸な出来事があって遅れましたけれど、明日は競ることができそうです。競ればそれだけ全国大会が近づきます」
「こっちもその展開を望んでいるよ」
木下は表情を崩し、いつものように握手を求めた。
僕は木下と握手をしたくなかった。その手が圭美に触れていたことを激しく意識してしまうからだ。それでも握り返すと、木下はさらに手に力を込めてきた。自分が年上で、しかも水泳選手としてははるかにレベルが高いにも関わらず、まったく態度に出さない。こういうスポーツマンらしいところを圭美は好きになったのだろうか。
その時、圭美が不意に木下に訊いた。
「今日は、岡林さんはご一緒じゃないんですか?」
木下の表情がゆがむ。
弥生高の選手たちがうろたえる。佐久間が助けを求めるようにこちらを見るが、僕もとまどうばかりだ。
「いや……、ほかの部員は試合の後すぐに帰った。星野さん、岡林に何か用事かい。ことづけようか?」
木下は平静を装うが、目は泳いでいる。
「うかがっただけです」
圭美はいつも通りの表情だ。
「だったら伝言の必要はないね」
「それにはおよびません」
圭美が落ち着いたトーンで言い、木下はいつもの表情を取り戻した。
「じゃあ、また明日、頑張ろう」
木下は再び僕と圭美を交互に見て、逃げるように去った。
その後ろ姿を圭美がせつなげな目で追ったのを、僕は見逃さなかった。それまで経験したことのない、大切なものを失うのではないかという恐怖と、嘔吐しそうなほどの嫉妬を覚えた。
大会二日目、千駄ヶ谷駅の改札を出た時の朝の陽の光を、風を、プールへ向かう道を包む輝く緑の匂いを、鳥のさえずりを、そして蝉しぐれを、僕は生涯忘れることはないだろう。
今日の一本にオレのすべてを出し切る――。
これほどまでに迷いなく、まじり気のない心になったことはない。
「石神!」
呼ぶ声にふり向くと、堀内がいた。目に力を感じる。
「いよいよ勝負だ」
僕の背中に軽くグーパンチを入れる。
「うん」
ふり向きざま、僕も堀内の硬い腹筋にグーパンチをめり込ませる。たわむれる僕たちを見て、どこかの学校の女子選手が笑いながら追い抜いて行った。真っ黒に陽焼けした顔はまだあどけなさを残していた。
「石神、あの子、一年かな。きっと来年も、再来年も泳ぐんだぜ」
「うらやましいな」
「うん。一年の時、練習がきつくて、オレは毎日辞めようと思っていたのに、今はまだまだ選手として泳げる一年生がうらやましい」
「堀内も辞めたかったの?」
「ああ」
「なんで辞めなかったんだ? お前は柔道部からも誘われてただろ?」
「一年の時、野波と一緒にラグビー部の三年にボコボコにされかけて、青木先輩に助けられただろ。あれは大きかった。ただ、水泳部を続けた理由は、やっぱり仲間、かな。チームメイトから離れたくなかったんだ。水泳部にいる時のオレが一番自分らしい気がした。それに、二年生の途中からは速くなるのが嬉しくてさ」
「オレもだ。自分の意思ではなく入部しちゃったけれど、途中からは水泳部じゃない自分が考えられなくなった」
「オレは心の底から全国大会へ行きたい。リレーで、野波と、津村と、石神と、四人で行きたい。今日は、今あるすべてで一〇〇メートルを泳ぐ」
「ベストパンツ、まだはけそうか?」
堀内についてはそれが気がかりだった。
「すっけすけ状態だけど、あと一本はいける」
「そうか、気をつけてはいてくれよな。アップは別のパンツで泳げよ」
「あと一日、ベストパンツには頑張ってもらわないとな」
そう笑って、堀内は急に真剣な表情になった。
「石神、オレたち、一年生の時からバカみたいに泳いできたよな。なのに、なかなか勝てなくてさ。水泳にはプロはないし、あったとしてもなれっこないし。オレ、ときどき、何のためにこんな苦しい練習をしてるんだろう、って考えてたんだ。でも、ひょっとしたら、これって、生きていくための予行演習なんじゃないかなって思った」
「予行演習?」
「うん。うちの親父なんか見てると、仕事、大変そうなんだ。口にはしないけど、思い通りにいかないことばかりみたいでね。でも、世の中って、もしかしたらそういうものなんじゃないかな。頑張っても頑張ってもうまくいかないことばかり。それでも努力してると、ときどき思いがけずいいこと、あるだろ。水泳部で、オレたち、大人になってから負けてもへこまないためのシミュレーションをしているんじゃないか」
「堀内、そんなこと考えて練習してたのか?」
「三年になってからだけどな。キックとか、きつくてさ。オレ、受験勉強もやらないで、なんでバタバタ水を蹴ってるのかな、って。全国大会へ行かれたからって、将来なんて何も約束されないのに。それでも、泳がずにはいられなかった。なんでだろう、って、いつも考えてた」
僕たちの右には国立競技場がそびえ、左に大会の会場、神宮プールが近づいてきた。
「堀内、オレたち、大人になって、泳いでおいてよかった、って心から思えるかな?」
「思えるといいな」
「でも、それっていつだろう? 中年のオヤジになった頃かな」
「ジイサンになって、死ぬ間際に思うのかもしれないけどな」
「そんな先じゃいやだなあ……。その後すぐに死んじゃうんじゃ、せっかく頑張ったのに活かせないじゃないか。でも、とにかく、泳いでおいてよかった、って思うためにも、今日は勝ちたい」
「石神、ジイサンになった時、勝った思い出を語り合おう。負けた思い出じゃなくてね」
「堀内、秋吉に気持ちは伝えるのか?」
「ああ。今日のリレーが終わったらな。全国へ行かれても、行かれなくても言う。でも、今はレースのことだけを考えている」
そう言って堀内が今度は僕の腹にパンチを入れた。
サブプールでアップを終えて上がると、目の前に秋吉がいた。二日目は出場種目がないので、Tシャツに短パン姿だ。
「石神君、ストレッチ、手伝うよ」
思いもよらぬ申し出に、僕はちょっととまどった。
「秋吉はそんな、気をつかわなくていいよ。一年にやってもらうさ」
やんわりと断った。
「今日は私、レースがないから、マネージャー兼トレーナーだよ。それに、ストレッチの補助、一年生よりも私のほうがずっと上手だよ。キャリアが違うからね。まかせなさい」
秋吉はおおげさに胸を張った。
結局、体をふき、Tシャツを着て、プールサイドの隅で秋吉のサポートでストレッチをした。尻をついて座る僕の肩や腕を秋吉が後ろから羽交い絞めにして引っ張る。そのとき、背中に豊かな胸が当たり、僕は無口になった。
ストレッチを終えると、秋吉は上腕部から指先まで、丁寧にマッサージをしてくれた。
「昨日のレース、かっこよかったよ」
僕は背後の秋吉を祝福した。まじめな秋吉は一年生の時からこつこつと練習を続けてきた。苦しいメニューも弱音をはくことなく、こつこつと。
「あらたまってなによ」
秋吉が顔をほころばせる。
「個人種目で全国へ行くなんてすごいよ」
リレーでの全国大会出場は、チーム四人の総合力で競う。持ちタイムが一番遅い僕は、ほかの三人に少しずつ負担をかける。個人種目では全国大会へ行かれない。
「個人種目もリレーも同じだよ。私たち、ずっと同じ水で一緒に練習をして、一緒に戦ってきたでしょ。もし同期に石神君がいなかったら、堀内君がいなかったら、私はたぶん三年間練習は続かなかった。どんな種目もチームの力だよ。だから、みんなで、福島、行こう。もう一度同じ水で泳ぎたい」
「うん……」
僕は秋吉に体をゆだね、されるままになっていた。緊張していた筋肉が少しずつ少しずつほぐれていく。
「石神君……、星野さんのこと好き?」
不意打ちだった。
「えっ?」
「星野さんと付き合ってるの?」
「付き合っているような、いないような……」
「星野さんのこと、好き?」
秋吉がまた訊いた。
「うん……」
「そっか……。じゃあ、福島に連れていってあげなよ。今日、勝って、連れていってあげなよ」
「ああ」
ふり向くことなく僕は答えた。
東京都大会二日目の最終種目、四〇〇メートル自由形リレーの招集がかかり、僕たちは素肌の上にジャージを着て召集所として設営されている黄色いテントに集まった。
リレーのオーダーは、堀内、津村、野波、僕。いつも通り、持ちタイムの速い順だ。
召集所で、僕は、津村がいつもの津村ではないことに気づいた。
表情がさえない。あの、ちょっと傲慢にも感じられる自信が津村の表情からうかがえないのだ。個人種目のレースで泳いだ疲労から回復していないのだろう。
「津村……」
近づいて、堀内と野波に聞こえないように小声で声をかけた。
ふり向いた津村は、しかし、すっと視線をはずした。
「どうした?」
やはり小声で訊く。
「心配するな」
津村は迷惑そうな表情を足もとへ向けた。明らかに疲労が回復していない。二日目の一〇〇メートル平泳ぎも全国大会行きを決めていたが、プログラム上、そのレースを終えて時間が経っていなかった。
自由形の個人種目とリレーは重複して出場する選手が多いので、疲れがとれるように時間を開けてプログラムが組まれる。バタフライや背泳ぎも自由形に次いでメンバーがリレーと重なるので、個人種目からある程度時間が開くように配慮される。その結果、どうしても平泳ぎはリレーとの間隔がせまくなってしまう。
だから、リレーメンバーに平泳ぎ専門の選手がいるチームは不利だ。一〇〇メートルの平泳ぎを全力で泳いですぐのリレーはベストコンディションで臨めない。
「石神、気にするな。水に飛び込めば問題ない。お前は自分のタイムを縮めることだけ考えろ」
津村は強がるが、表情はさえない。
僕たちのすぐ横では弥生高のメンバーが肩を回したり、腕のストレッチをしたり、レースの準備に余念がない。弥生高は佐久間をはじめ四人全員が自由形専門の選手で、十分に準備ができている。
「石神さん、一緒に全国大会へ行きましょう」
佐久間が挨拶にきた。いつも気持ちのいい男だ。
係員から呼び出しがかかり、僕たちはスタート台へ向かった。十コースあるプールの、阿佐高は第三コース、弥生高は第四コースだ。
ジャージのままスタート台の前に移動し、第四コース担当の計時員二人に会釈をした。
この年、東京都大会で初めて電光掲示板が設けられ、タイムが百分の一秒まで表示されるようになった。電光掲示板はスタート合図のピストルと連動して作動する。しかし、ゴールは計時員が手動のストップウォッチを押す。デジタルとアナログが融合された中途半端な状況だった。
参加校とオーダーがコールされる。
「第三のコース、都立阿佐谷高校、堀内君、津村君、野波君、石神君」
スタンドの自陣が応援でわく。そちらへ向かって、僕たち四人は大きく手を振る。この時は津村も表情をくずした。
自陣の一番前で腕を組む青木の横に圭美の姿が見えた。昨日寄った喫茶店で「賢介はもっと強い賢介になるんだよ」と言った。あのときに彼女が見せた顔がよみがえる。人を好きになるということはこれほどまでに力になるのか――。圭美と出会えた喜びをかみしめ、しかし同時に自分の単純さを滑稽にも感じ、口もとがほころんだ。
「石神、なににやにやしてんだ。大丈夫か? しっかり泳いでくれよな」
野波がジャージの上から僕の腹に軽く少林寺拳法のスタイルで突きを入れる。
「お前こそ、トイレはすませてきたんだろうな」
僕は野波の尻に膝蹴りを入れる。
「今日はたっぷりと出してきたぜ」
野波が大胸筋を上下させた。リラックスしている様子だ。
第一泳者の堀内だけがジャージを脱いで立ち、あとの三人はスタート台から少し離れたパイプ椅子に座った。
レースのスタートを告げる笛が鳴った。堀内がスタート台に上る。自慢のベストパンツはつるつるで、肌が透けている。
「位置について」
「よーい」
東京都の高校の全水泳選手が集まる広い会場に響きわたるピストル音とともに十人の選手がスタート台を蹴り、電光掲示板が動き始めた。
上から見る限り、堀内は好調だ。力強い腕のかきで先頭を泳いでいる。
隣の第四コースを泳ぐ弥生高は安定して全国大会の標準タイムを切っているので、これ以上ないペースメーカーだ。弥生高に勝つか競り合えば、全国行きを期待していいだろう。堀内は五〇メートルのターンをしたところで、弥生高の第一泳者よりも体一つ先行している。
第二泳者の津村がジャージを脱いでスタンバイする。スタート台に上がって、二回、三回……、軽く跳躍した。
堀内が近づいてくる。
津村がスタートの体勢に入る。
堀内が壁にタッチする。
同時に津村が跳び込んだ。
いつもの通り、水の抵抗を感じさせないバランスのいい泳ぎで津村が進んでいく。
堀内は肩で息をしながらも満足そうな表情だ。すべてを出し切ったのだろう。
「お疲れさん!」
僕が水から上がろうとする堀内に手をさし出すと、激しく拒否された。
「筋力は全部レースに使え!」
睨むようにして自力で水からよじ登ってきた。
五〇メートルを折り返したところで、津村のペースが明らかに落ちた。やはり疲れをためていたのだ。津村は個人種目の平泳ぎのレース前のアップで一度体をつくっている。しかし、その後、リレーまでに時間が少なく、十分な休息もとれず、アップもできていない。弥生高の第二泳者に抜かれ、反対隣の第二コースの選手にも追いつかれた。
「津村!」
堀内が叫ぶ。
第三泳者の野波がジャージを脱いで、スタート台に上がる。
「堀内、石神、オレのクロール、よく見てろよ」
野波がふり返って言った。さっきまでのこの男とは別人のような目だ。
津村が力をふりしぼって帰ってくる。最後の五メートルで、津村はさらに二人に抜かれた。
野波がスタートの動作に入る。そして、津村が壁にタッチした瞬間に跳んだ。
堀内がすぐに津村に手をさしだし、水から引き上げる。
「すまん、抜かれた」
津村が青みがかったくちびるをかみしめる。こいつがこんなに悔しがる姿を初めて見た。
水泳のセンスに恵まれた津村は、三年のこの日まで泳ぐたびにタイムを縮め、勝ち抜いてきたのだ。
「野波と石神が取り返してくれるさ」
堀内が津村の肩に手を当てる。プールに目を戻すと、野波が競っていた。右隣とも、そのさらに隣とも、競っていた。そして、少しずつだけど、先行しつつある。
野波は一年生の時からずっと平泳ぎを泳いできた。一日一万メートルを超える練習をこつこつと続けてきた。しかし、三年の夏休みにクロール主体の練習に切り替えた。平泳ぎで伸び悩んだのだ。競ったら勝てない、という勝負弱さも指摘された。それでも心をくさらせることはなかった。気持ちを新たに、全国大会へ進む可能性のある四〇〇メートル自由形リレーにかけたのだ。
決心のきっかけが、今泳ぎ終えた第二泳者の津村だった。津村と毎日隣のコースで練習することで、野波は自分の限界を知った。
しかし、転向したクロールでリベンジをしようとしている。平泳ぎに、そして自分自身にリベンジしようとしている。競って、競って、一人抜き、今二人目も抜いた。五〇メートルのターンをしたところで、三人目も捕まえた。
「野波! 来い! 来い!」
興奮した堀内がプールに乗り出してこぶしをふるい、計時員から注意を受けた。
ついに野波は三人目も抜いた。前を泳ぐのは弥生高の第三泳者だけだ。全国大会の制限タイムを安定して切っている弥生高に勝てば、阿佐高にも可能性がある。
隣の四コースで、佐久間がジャージを脱いだ。
「石神さん、先に行きますよ」
そう言って、落ち着いた動作でスタート台に上がった。
続いて僕もジャージを脱ぐ。
スタート台に上がると、体中がひりひりするほど高揚した。思わず、右手のこぶしを握り、左のてのひらをパン! と叩く。
弥生高の第三泳者を追って野波が帰ってくる。まるで獲物を狙うシャチのようだ。差は体一つ半。近づいてくる野波の力泳を見て、涙があふれそうになった。
水泳は個人競技だ。チーム戦のリレーも、泳ぐときは一人。誰の助けも得られない。しかし、前を泳ぐ選手の気迫や勇気は、絶対に次の選手に引き継がれる。
隣のコースの弥生高の第三泳者が壁にタッチし、佐久間が飛び込んだ。続いて野波の手が壁に近づく。僕は野波の手のかきを目で追い、思い切り跳んだ。
一回、二回、水中でドルフィンキックを打つ。
体が水面に浮かぶと、いつも通り、左右二回ずつ交互に大きくバタ足を打ち、姿勢を安定させる。
ひとかき、ふたかきして、上目づかいに前を見ると、隣のコースの佐久間の陽焼けした脚が力強くビートを打っている、そこだけ真っ白い足の裏が、ひらひらと、まるで僕を誘うように水を蹴っている。
逃げる佐久間。追う僕。練習試合の四〇〇メートル自由形とは逆の展開である。佐久間を捕まえることが、全国への切符を捕まえることだ。
腹筋、背筋、キック……。自分のフォームを頭の中で点検していく。
イメージ通りだ。入水を確認する。少し甘い気がする。もっと肩を突っ込み、遠くの水をつかみたい。
入水を遠くに持っていくと、ストロークの度に右半身、左半身それぞれに体重がかかり、体が大きくローリングする。その時、背骨から腰の軸がぶれると水の抵抗を大きく受ける。泳ぎがくずれないように、もう一度腹筋を強く意識する。手を伸ばした時に腹がねじれる感覚が心地いい。
水色のプールの底に僕の影が波を打って映っている。僕の影も必死に水をかいて進んでいる。
〈腕が引きちぎれても、心臓が破裂しても、全力で行けよ〉
自分の影を叱咤した。
前方に意識を戻すと、佐久間の脚が近づいている気がした。
二週間ほど前は、佐久間のほうが速かった。四〇〇メートルで僕が勝ったのはスタートとターンの技術の差だ。その佐久間に近づいているということは、僕の状態がいいということだ。
濃い青の向こうから壁が近づいてきた。間もなく五〇メートルのターンだ。
長水路、つまり五〇メートルのプールで一〇〇メートルを泳ぐので、僕が得意とするターンは一回だけ。この一回を最高の状態で折り返したい。
利き腕の右手で水をつかみ、思い切り体を返す。わずかに膝を曲げる。足の裏が壁に当たった。理想的な感触だ。顎を引き、両手を伸ばし、思い切り壁を蹴る。体を包む水が心地よく後ろに流れていく。
目線を右に向けると、佐久間の脇腹があった。ターンで一気に体半分差まで迫っていた。
あとはただ水をつかみ、力の限りかくだけだ。
〈前へ、前へ〉
〈もっと遠くへ手を伸ばせ〉
〈もっと遠くの水をつかめ〉
クロールの基本を頭の中で反芻して進んでいく。
〈オレは水だ〉
水と自分の体が同化していくのを感じる。
ゴールまで一〇メートルを教えるコースロープの赤いブイを通過した。
〈壁にタッチした時にはすべての力を使い果たした状態でいたい〉
強烈に思った。
呼吸は四ストロークに一度。水面から顔を上げると、水飛沫の彼方に、一瞬、スタンドの自陣が見えた。
そこには青木がいた。青木の横でこぶしを握って声援を送る圭美の姿もあった。
〈ありがとう〉
心から思った。青木がいなければ、圭美がいなければ、自分をここまで追い込むことはできなかっただろう。
ラスト五メートルのラインを過ぎた。
限界まで手を伸ばす。力いっぱいかく。
そして、右手でゴールの壁を思い切りタッチした。視界に入った佐久間より一瞬早く壁に触れたことがわかった。
顔を上げ、反射的に電光掲示板を見る。
まだ表示はない。
やがて、数字が表示されたが、陽の光がまぶしくて判読できない。
上を見ると、堀内がこちらに向かってガッツポーズを見せた。
野波が手で大きく「55」と示した。三分五十五秒ということだろう。
全国大会への切符を手に入れた。コースロープを挟んで、やはり標準タイムを切った佐久間とおたがいをたたえ合う。
係員に早くプールから上がるように促されたが、力を使い果たした僕はなかなか壁をよじ登れなくて、津村が右手を、野波が左手をつかみ、引き上げてくれた。
その横で、堀内がくしゃくしゃの笑顔で自陣に手を振っていた。
一週間後に福島の会津若松で行われた全国大会で、阿佐高は日本中の強豪校と一緒に泳ぎ、下位の成績で終えた。
タイムは津村が復活した分東京都大会よりもよかったが、それでも優勝校より十秒近く遅かった。距離に換算すると一五メートルほど離されたことになる。
堀内はもうベストパンツをはけなかった。東京都大会のリレーの後、ついに破れたのだ。新しいパンツで泳いだ堀内は、それでも自己ベストをマークした。
津村は個人種目の一〇〇メートル平泳ぎと二〇〇メートル平泳ぎ、どちらも全国大会では通用しなかった。
福島での僕たちは、勝負よりも参加することに意義を見出す発表会のようなものだった。
ただ一人、秋吉だけは二〇〇メートル個人メドレーで六位に入賞した。弥生高の岡林、桜桃高の石垣には勝ったが、桜桃の一年生にはここでも敗れた。
全国大会を最後に僕たちは水泳部を事実上引退し、受験勉強に勤しむ生活に入った。
しかし、気持ちの切り替えはそんなにかんたんではない。全国大会を目指して泳ぎつづけた水泳部生活のような高揚感は勉強から得ることはできず、無気力状態になった僕は、放課後の練習もないのに教室で毎日居眠りを続けた。
なんとか気持ちを切り替えようとはした。しかし、どうすることもできない。そんな自分を自分が好きになれず、ばつが悪いので、推薦入学が決まっていた圭美に話しかけるのはためらわれた。
秋の気配が深まり、水着の跡も薄れた十月、帰宅してポストをのぞくと圭美からの手紙が届いていた。
青い便箋には、くっきりと黒いインクで別れの言葉がつづられていた。
石神君へ
お元気でしょうか?
毎日学校で顔を見ているのに、お元気でしょうか? なんて訊くのはおかしいけれど、教室での石神君は居眠りばかりなので気になっています。
クラスの女子たちは夏休み前に水泳部の練習に備えて眠ってばかりいた石神君と同じだと思っているみたいです。でも、プールで力強く泳ぐ姿を知っている私には一学期の石神君と今の石神君は別の人に見えます。
今日は石神君に伝えなくてはいけないことがあります。
福島での全国大会の後、私にはいろいろなことが起こりました。
そして、石神君とこのままお付き合いできなくなりました。
ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい。
こうしてお別れの手紙をつづっておきながら矛盾するけれど、石神君のことは今も好きです。毎日毎日あの第一コースで朝から夕方まで泳ぎ続ける姿、東京都大会のリレーで最後の最後に弥生高の選手を抜いて勝った姿は、今も私の心に強く焼き付いています。石神君と一緒に夏を戦えたことは私の誇りです。
そして、二人で涙を流した『ラスト・ワルツ』は、きっと一生忘れられない映画になると思う。石神君が好きだと言った「イット・メイクス・ノー・ディファレンス」、そして帰りに歩いた日比谷公園の蝉の声は、今も私の胸の中に響いています。
ただ、ひと夏を超えて、九月を迎えても、私は木下さんを忘れることはできませんでした。忘れようと思えば思うほど心の中の木下さんの存在の大きさを知り、苦しみました。
きっとすぐにわかってしまうから、自分から打ち明けます。私は今、木下さんとお付き合いをしています。
福島での全国大会の最後の夜、私は弥生高が宿泊しているホテルを訪ねました。もう会えなくなる木下さんにお別れを言うつもりでした。
でも、彼の顔を見たら、だめでした。さようならの言葉まで考えていたのに、正反対の態度をとってしまいました。年上への甘えもあったのでしょう。彼を忘れられない思いをありのままぶつけてしまいました。私はそのまま朝まで泣きつづけました。あんなに泣いたのは、幼稚園生のとき以来だったと思います。
水泳部での私、石神君の前での私はたぶん強い女でした。でも、それは強がっていただけ。ほんとうは自分よりももっと強く大きな誰かに抱きしめていてほしいことを福島で知りました。
石神君のおかげで私はきらきらした夏を体験させてもらえました。
お話できなくなるのは悲しいことです。でも、これきりがいいと思いました。
たぶん明日も教室で顔を合わせるのに変かもしれないけれど。
さようなら。
受験、頑張ってください。応援しています。
星野圭美
その日から、僕はただ苦しく、食事をしても味がわからなくなった。
圭美からの手紙がていねいな言葉でつづられていたこと、そして彼女にとっての僕が「賢介」ではなく「石神君」に戻っていたことにひどく傷ついた。
読み終えて、東京都大会初日の帰り、喫茶店から去る木下の後ろ姿を目で追った圭美を思い出した。それまで見たことがないほどせつなげな彼女の表情を。
「福島へ行って、賢介はもっと強い賢介になるんだよ」
圭美の言葉がよみがえった。全国大会へ行ったことが、水泳とは別の試練を僕にもたらした。いや、きっとそうではない。福島へ行かれても行かれなくても、おそらく圭美と僕との関係は終わりを迎えたに違いない。
福島の最後の夜、僕は圭美と一緒に過ごしたくて、ホテルの彼女の部屋に電話をした。しかし、何度かけてもコール音がくり返されるだけだった。
圭美は疲れて眠っている――。そう思おうとした。でも、落ち着かず、部屋を訪れようともした。しかしあの時、心の中のもう一人の僕がそれをやめさせた。取り返しのつかないことになる予感があったのだ。
ふられた事実よりも、福島で木下と圭美がどんな夜を過ごしたかを考えてしまい、僕は苦しんだ。木下の長身が、長い腕が、僕が見たことがない裸の圭美を朝まで抱きしめていていた。それを想像すると、気が狂いそうになった。木下のバランスよく筋肉がついた裸身を知っていることで、僕の苦しみは増幅した。
別れの手紙に返事は書かなかった。自分を貶める内容をつづってしまう気がしたのだ。
ほどなく、木下が岡林と別れたとも聞いた。受験勉強に集中するために岡林が別れを切り出したという噂だったが、真実はわからず、また知りたいとも思わなかった。
圭美とはその後も教室で顔を合わせたが、言葉は交わさなかった。話をしたらどういう態度をとってしまうのか、自分が怖かったのだ。
ふられる前に一度だけ、圭美と口づけをした。水泳選手として戦った余韻が残る全国大会の直後、渋谷に映画の試写会を観に行った帰り道だった。映画は『グッバイガール』というアメリカのロマンティックコメディ。ニール・サイモンの原作で、マンハッタンが舞台の、男に逃げられてばかりの子連れの女ダンサーと売れない役者が結ばれるまでを描いた物語だ。ラストシーンでデヴィッド・ゲイツが歌う主題歌がよかった。
映画の帰り、圭美と僕は山手線の原宿駅方面へ向かう林の道を並んで歩き、秋の虫が鳴く木陰で、かすかにくちびるを重ねた。僕はものすごくぎこちない動作だったと思う。肩も寄せず。触れたか触れないかわからないほど短い口づけだった。
そのとき、あれは気のせいだっただろうか。夜なのに、蝉しぐれに包まれたように感じた。
圭美のTシャツの大きく開いた首まわりから、焼けた素肌がのぞいた。水着の肩ひもの跡が残っていた。同じ夏を、同じ時間と感情を共有したしるしだった。
「ごめんね……」
離れた時、圭美が目を伏せてつぶやいた。あの時、彼女の心はすでに決まっていたのだろう。
阿佐高水泳部の同期で、津村だけが大学でも水泳を続けた。種目はもちろん平泳ぎだ。大学でも二年生の時から全国大会に出場して、四年生の時には一〇〇メートルも二〇〇メートルも四位に入賞した。
卒業後外資系の製薬会社に入社した津村は、今も週末はプールで泳ぎ、年賀状には短水路のマスターズ五十~五十四歳の部で優勝した自慢が表彰台に立つ写真とともに印刷されていた。
「昨年の大会では久しぶりに虹を見たぞ」
それだけは直筆で書かれていた。
高校生の時に津村に連れていかれたON劇場は二〇〇一年に閉館した。妻子のある津村が今もストリップに通っているかは聞いていない。
野波は大学を卒業して家電メーカーに就職した。今は広報課長だが、本人いわく人望がないそうだ。強い者に弱く弱い者に強い性格はその後も変わらず、上司に対して腰が低く、部下に負荷をかけているらしい。
野波は「オレ流の処世術だ」と主張しているが、僕はほどほどにしたほうがいいと言っている。
堀内は、国立の教育大学を卒業し、和菓子屋は継がずに弟に譲り、都立高校の教師になった。担当科目は世界史だ。
そして、秋吉と結婚した。東京都大会の後、態度のはっきりしない秋吉を押して押して押しまくり、交際し、大学卒業後まもなく籍を入れたのだ。
しかし、四十二歳で急逝した――。
急性骨髄性白血病だった。
職場の定期検診で白血球に異常が見つかった時、堀内の様子はいつもとまったく変わらなかったそうだ。それでもその日のうちに緊急入院をした。翌日には高熱などの症状が表れ、担当医に余命三か月と言われたという。
進行は速く、医師はすぐに余命を一か月と訂正した。そして、検査からわずか三週間で息をひきとった。
堀内の葬儀の日、十数年ぶりに水泳部の同期と再会した。青木も駆け付けてくれた。
やせる間もなかったのだろう。棺の中の堀内は生前のたくましさがそのままで、穏やかな顔で眠っていた。高校時代はいつも無精ひげがぼうぼうだったが、本来は育ちのいい美しい顔をした男だ。
「ああー、福島、行きてえなあー!」
そう言って今にも起き上がってくる気がした。彼の傍らにはギターが添い寝していた。「Gibson」とヘッドに彫られたグレコのSGだ。
そのわきに、僕は妙なものを見つけた。青っぽい布がくるくるっとねじれている。
とっさに秋吉を見た。目が合うと、喪服の彼女が泣き笑いのような顔でうなずいた。それは堀内が大切にはいていたベストパンツだった。東京都大会のリレーで泳いだ後、脱いだままの状態で残されていたのだ。
僕は、野波の横腹をつついて、そこにベストパンツがあることを教えた。
「お前が砂場に埋めたパンツだ」
見た瞬間、野波は母親に叱られた幼児のように咆哮した。
「堀内! 堀内―!」
気が狂ってしまうんじゃないかと思うほど、野波は何度も何度も名前を呼び続けた。
涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らし遺体に抱きつこうとするので、津村と二人で必死に抑え、棺から引き離した。
四人で泳ぐ機会は永遠に失われた。
圭美は阿佐高を卒業して推薦枠で東京女子学院大へ進んだ。卒業後は誰もが知る大手の都市銀行に入り、しかし一年もしないうちに辞めて、ニューヨークへ渡った。総合商社に勤めて駐在が決まった木下を追っていったのだ。
そして、そのまま結婚した。今はニューヨークの、マンハッタンから鉄道で一時間ほど離れたアップステイトで暮らしているという。堀内の葬儀には、「木下圭美」の名で花が届いた。
水泳部を引退し、圭美に失恋し、無気力に過ごした僕は、当然の結果として受験に失敗した。浪人生活を送った末に入ったのは東京郊外の私立大学だ。
大学卒業後は小さな出版社で編集者として働き、音楽評論の道を選び独立した。ジャズの本やレコードのライナーノーツを書き、ミュージシャンのインタビューをするのが仕事だ。
圭美の結婚を知った時は心を乱した。卒業以来一度も会っていなかったのに――。
高校三年生の夏は遠い日の思い出のはずだった。その後いく度かの恋愛もした。にもかかわらず、別れの手紙を読んだ時と同じように僕は苦しんだ。裸の圭美と木下とが毎夜ベッドをきしませて絡み合う姿を想像してしまうのだ。想像の中の二人に血を吐きそうになるほど嫉妬し、しばらくは仕事でも集中力を欠いた。そんな自分をどう扱っていいのかわからなかった。
僕は一人の女性に二度失恋をしたのだ。
三十代で僕は一度結婚をした。圭美の面影を感じる女性だった。しかし、結婚生活は二年も続かなかった。妻は圭美に似ていたけれど、圭美ではなかったからだ。
一度だけ、圭美の姿を見たことがある。
一九九九年の五月、僕はジャズミュージシャンのインタビューでニューヨークを訪れていた。
そのとき、幻を見ている気がした。夏を待たずして熱波に襲われたマンハッタン。気温が四十度を超えた昼下がり。陽炎が揺れる五番街を僕は歩いていた。そのすぐ目の前を圭美が横切った。
彼女は白いワンピース姿で、薄いブルーの日傘をさしていた。もう片方の手で、五歳くらいだろうか、彼女にそっくりの女の子の手を引いていた。
往来を確認する圭美とほんの一瞬目が合った気がした。しかし、錯覚だろう。
プールサイドで光と水しぶきを浴びて笑う高校生の圭美がよみがえった。圭美の瞳は十七歳のままだったのだ。コンクリートの歩道やビルを焼く太陽の光がワンピースの白に反射して目がくらんだ。
彼女が女の子になにかを話しかけ、冷房を求めるように小走りでラグジュアリーブランドが入った百貨店、ヘンリベンデルへ入っていく。
この日のために生きてきたことに、僕は気づいた。街で圭美と再会した時に恥ずかしくない僕であるために仕事と向き合い、自分に負荷をかけてきたのだ。
あれほどまでに思った女性の幸せそうな姿を見た喜び。その幸せが僕ではない男によってもたらされたことへの悔しさ。その二つがが同時にわきあがってきた。
母娘を追おうとした僕は、しかし、足をとめた。自分の服装を確かめた。ラフなTシャツ姿。靴もよく磨かれていなかった。
こんな姿で再会するべきではない――。
自分に言い訳をして、踵を返した。
今も僕は時々、『ラスト・ワルツ』を観る。そして、「イット・メイクス・ノー・ディフェレンス」のシーンで、少し泣く。
君をどんなに愛しているか
僕にできることといったら
打ち明けることなく黙っているだけ
これほどまでに寂しさを感じたことはない
リック・ダンコはシャウトし、ロビー・ロバートソンはギターの弦をはじき、指を震わせる。
ベースを弾きながら歌ったリック・ダンコも、ドラムスのリヴォン・ヘルムも、キーボードのリチャード・マニュエルも、もういない。ザ・バンドが全員そろって演奏する機会は失われた。
この世には永遠はない。
すべてには終わりが来る。
「失って初めて知るのかもしれないね。大切なものって」
『ラスト・ワルツ』を観た帰りの圭美の言葉がよみがえった。
八月の日比谷公園でも、九月の中杉通りでも、僕たちはいつも蝉しぐれに包まれていた。