あの日からやたらと雨に見舞われる。
私は幾重にも重なる黒い雨雲の集合体を見上げ、ため息を落とした。
勤め先から駅へ向かうまではまだ降っていなかったのに。
駅の構内にあるコンビニの傘はすっかり売り切れてしまい、白いビニール傘を差して悠々と歩き出すサラリーマンやOL、学生さんの背を恨めしげに見つめた。
やはり濡れて帰るしか無さそうだ。
最寄り駅から家までの距離は歩いて十五分弱、走って十分ぐらい。
家では小学五年生の息子が一人、お腹を空かせて待っているだろう。
息子の姿を思い浮かべ、私は雨宿りをやめた。
中に入れたスマホを濡らさぬよう、鞄を両手で抱き締め、雨の中を小走りに駆け出した。
前髪から滴り落ちる雫で視界は悪く、途中狭い路地で前から走って来る車にクラクションを鳴らされた。
ーーハァ。
肩でひとつ息をして、思わず立ち止まる。
危なかった、と思い、不意に夫の事を思い出した。
五年前。夫は会社からの帰宅途中で事故に遭い、帰らぬ人となってしまった。
あの日も朝から晩まで、雨が降り注いでいた。
夫はその日、今の私と違って黒い傘を差して歩いていた。
元来から真面目な性格で交通ルールも破った事が無い。深夜、車ひとつ通らない交差点でも馬鹿みたいに信号待ちをしてしまう人だ。
それなのに事故に遭遇した。その日差していた黒い傘は骨が折れて所々が破れ、ボロボロになっていた。
残された私と息子は、あの日からの日々をがむしゃらに生きてきた。
家で待つ息子を思い、また帰路を急ぐ。
降りしきる雨が涙のように、頬を伝って流れ落ちた。
ぐっしょりと水を含んだ衣類が肌に張り付き、徐々に重みを増していく。
映画にある【雨に唄えば】のように、笑顔でこの雫を受け止めたいのに、そう出来ない。
夫が居なくなったあの日から、私の心は濡れたままだ。
家族を守る大黒柱の夫は、紛れも無く私たちを雨から凌ぐ傘だった。
頭の先から靴の中まで濡れ鼠の状態で帰り着くと、息子の晴人《はると》が驚いて駆け寄った。
「お母さん、大丈夫? 傘買わなかったの?」
「傘ね。売り切れちゃってて」
言いながら、脱衣所に置いたフェイスタオルで水分を拭い、ぼとぼとになった服を脱ぎ捨てた。
重みが無くなり、体が軽くなった。
「でも大丈夫よ? お母さんは丈夫だから風邪ひかないし。それに晴れ女だもの」
若い頃から口癖の如く、私は晴れ女だと自負している。
傘を持って出ると、決まって晴れるし、結婚前はあらゆるイベントを晴れで過ごしてきた。
晴れ女だと豪語すると、晴人は呆れて笑みを漏らす。
その表情から、今まで遭遇した通り雨を思い出しているのだと読み取れた。
晴人が二年生の夏だ。
その日の天気予報は午後から雨と報され、朝から不安定な空模様が広がっていた。
晴人の急な我儘で、アイスクリームを買いに自転車を出し、後ろの椅子に彼を座らせ、スーパーに向かった。
急いで買って帰れば、ギリギリ雨は免れるだろうと高を括り、自分の雨具は持たず、晴人のレインコートだけを積んで家を出た。
行動からして矛盾していると、今となっては気付く。
まだ雨は降らないと決め付けていたが、万が一降ってきたら子供は風邪をひいてしまう。
片親になって二年目のあの頃、この子は私が守らなければいけない、だから病気をさせる訳にはいかない、と肩に力を入れていた。
結局、雨は予報より早くに降り出し、私だけがびしょ濡れになった。
「おかしいなぁ。お母さん晴れ女なのに」
帰宅してからそう笑い話にするけれど、晴人は済まなさそうに肩を落としていた。
「ごめんね〜、晴人。お腹空いたでしょう? すぐに用意するからね?」
簡単に着替えを済ませ、私はいそいそとキッチンへ向かった。
*
翌日の夕方。最寄り駅に着いた時点でまた雨が降っていた。
今朝の天気予報に従って、今日は傘を持って出勤したのだが、帰る頃になって自分の傘が無い事に気が付いた。
ーーもしかして、盗られた?
そう思うものの、会社を出た時にはまだ曇り空で、雨の気配は無かった。
駅まで走って電車に乗り、三駅先の最寄り駅に着いた頃、空はガラリと風景を変えていた。
アスファルトを殴るように、激しく叩きつける雨は、たとえ傘を持って居ても濡れてしまうだろう。
屋根を備えた駅の出入り口から、茫然と外の景色を眺め、平たいため息を漏らした。
わざわざ傘を持って出たのに、盗られたのかと思うと、ビニール傘を買う気にもなれない。
昨日に引き続き、濡れ鼠になるのを覚悟して、晴人の元へと帰ろうと足を出した時。
「お母さん!」
水色の長靴でパシャパシャと水溜まりを割り、晴人が駆けて来た。右腕に一本の桃色の傘を掛け、両手でしっかりと自分の傘を握り締めている。その姿を目の前に捉え、私は屋根の下に留まった。
「晴人……どうして?」
私よりまだ少し小さい晴人は、安心した笑顔ですぐそばまで辿り着く。
「お母さん、また傘持って無い気がしたから」
晴人は自分の予想が当たったからか、それともすれ違わずに無事に会えたからか、とても嬉しそうだった。