佐藤は滅入っていた。先日配属された新人が早々に退職願いを出したのだ。元々が都内勤務希望。だが当社は八割が地方勤務である。その分実入りは悪くなく、福利厚生もそれなりに良いのだが。

「引き止めても仕方ないだろう」
「でも配属されたばかりですよ。社内事情は就活時に承知だったでしょうに」
 部下の愚痴を片耳で聞きつつ、人事部と研修センターに連絡を入れる。どちらにも佐藤の同期が居る。

(やれやれ、今時のワカイモンは)
 一番言いたくない台詞もよぎる。しかしこれは新人に対してだけではない。佐藤は社内でも温厚で有名だが、その彼が怒髪天を衝く経験をしたのは、先日の愛娘の彼氏による不届きな電話であった。


「ミヤコさんと婚約させてください」
「何をほざくこの青二才が!」
 無条件反射で発し、すぐさま自省した。今時のワカイモンだ。一から言ってもわかるまい。
 それでも言わねば収まらぬ。
「君はそんな身勝手な事を言える立場なのか。君を想って支えてくださる周囲の方、何よりお母さんの気持ちも考えられないのか」

 大澤の母とは何度も顔を合わせている。昼夜問わず看護師として働くシングルマザー。会う度に「ウチの息子はご迷惑掛けてないですか」と気遣う様から、彼の競技へのきっかけは周囲の采配だろうと推察出来る。彼が道を踏み外さぬよう、恵まれた体躯を活かせるように。

 その才能が開花しつつある昨今の活躍は喜ばしいことである。だからこそ今は大事な時期だ。彼を、何より愛娘を世間から守らねば。佐藤は背筋を伸ばした。


「向こうの親御さんと意見を揃えるしかないべさ」
 水を掛けたのはこの地に嫁いで三十年の長姉であった。末子のリクが伯母に助けを求めたらしい。

「二人とも悪い子じゃないし、親公認ならかえってやましい事も出来まいよ。リュウジ君は有望だ。ミヤコちゃんも将来を見越してうんと勉学に励めばいい」
「姉さん、簡単に言わないでくれよ。二人共まだコドモ過ぎるじゃないか」
「コドモだからこそ皆で見守るのさ」
 叱咤される。
「途中で気が変わっても今なら身内のママゴトだ。わざわざ騒がず、本当の大人になれるまで、皆で幸せに過ごせばいい」

 客観的に聞こえるソレは大層他人事のニオイがした。一親等の立場も鑑みてほしい。


「ミヤコはなんて言ってるの?」
 スカイプで話すのはパリ在住の長女・サクラである。時差を考慮した早朝。佐藤は長女の様子も案じつつ、次女の反応を思い出し言葉を濁す。父親の表情を見て長女は明るく笑う。

「お父さんは面白くないだろうけど、オッケーでいいじゃない。伯母さんもそう言ったんでしょ。あのコ達、無下に反対する方が依怙地になりそう」
「オマエまで何を馬鹿な事を言うんだ」
 常識的に考えろと小さく溢し、「つまんない返し」と呆れられた。

「彼氏はイイコらしいじゃない。真面目に付き合ってるなら他の男子へのいい牽制にもなるでしょうよ」
「なんの牽制だ。リクと同級のコドモだぞ」
「とにかく、みんなが一番幸せになる選択をすればいいと思うけど」
 長女も長姉と同じ事を言う。
「だって私達の明日がどうなるかなんて、まるで決まってないじゃない」


「私は反対だわ」
 唯一佐藤に賛同したのは本州山奥にある醤油蔵の実家を継いだ次姉であった。佐藤が胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。

「所詮はコドモの戯言だもの」
「そうなんだよ。大のオトナがおめおめと乗る訳にはいかんよ」
「だから何処まで本気なのか見せて頂きましょう。こちらがどれだけ真面目に不安がっているか解らせてやりましょう。あちらの親御さんと一緒に言質取んなさい。血判書でも交わすがいいわ。オトナの本気を見せて差し上げなければ」
 次姉が一番恐ろしかった。

「でも本当は姉さんも私も、貴方が寂しがるのを一番心配してるわ。ミヤコが本当にお嫁に行く時が、私達、今からとても心配だわ」
 佐藤家は父子家庭である。妻がなくなって既に四年が経つ。


 そのずっと前の夏。義母の葬儀後、夫婦で実家の片付けに通った時期があった。機械的にモノを棄てる義父に掛ける言葉も無く、言われるがままに屋根裏や倉庫の不用品を焼却場に運んだ。

 闘病中に受けた義母からの暴言には正直閉口したが、義母は妻にだけは良い顔のみを見せて去った。義父も同じ系統だ。佐藤に対する『愛娘を奪った八つ当たりしても構わない仮想敵』という態度はいっそ清々しく、佐藤はサンドバックに甘んじた。

 ただ、通りいっぺんの片付けが済んだ後に義父が「ひとりになって心底寂しい」と溢した件は、妻は知らないと思う。溺愛する愛娘には迷惑を掛けたくないらしい。最も、溢された佐藤にもどうする事も出来なかったが。

 その愛娘をも見送る立場となった義父の心中はいかばかりであったろう。
 嘆き弱る義父の施設手配には良心が苛まれた。だが妻を失ったオノレもどうだ。身内を含めた周囲の適切な支えが有ったのは不幸中の幸いだったと今は思う。

 その後は推して知るべしである。生活の為に稼がねばならぬ。残された子に注力せねばならぬ。仕方ないとオノレにいい続けた皺寄せは、いずれ何処かで伸ばさねばならぬ。

「ひとりになって心底寂しい」
 あの時義父が呟いた言葉が、そのまま現在の心情である。ひとりになって寂しい。どうしていいのかも分からない。冷たさが身体の芯に残る。忙しさは逆に救いになり、こどもの成長は励みになる。やっとここまで来た。ここまで来た。予定の縛りは安定に繋がる。


 それ故に過分な約束はご遠慮願いたい。義両親が最後まで妻に良い顔を見せたがった様に、佐藤も子には良い顔だけ見せたい。

 日本の法律は知ってるかと娘に聞く。知ってるよと答えられる。その後に「口約束の範疇の話だよ」と付け加えられ、「それでもお父さんが嫌なら断るよ」と促される。本当の気持ちはどうだろう。

 そもそもあんな台詞を吐く小僧は何様だ。
『おじさん。オレは家族が欲しいです。今もこれからも、好きなひと達と繋がっていきたいです。楽しい事とか苦しい事を、みんなで一緒に越えたいです。おじさんやリクと、ちゃんと家族になりたいです』

 彼もずっと寂しい事は、佐藤も痛い程知っている。


 未子のリクはどちらでもいいと言い放った。伯母さんに助けを求めたのも、お父さんが怖かったからだと、大人に全てを押し付けた。小柄な息子は更に言う。
「だってオレはリュウジが怖くないから。お父さんと姉ちゃんで決めればいい」

 佐藤は思い出す。そういえば彼は最初からそう言っていた。みんなはリュウジの事デカくて怖いらしいけど、オレは全然怖くないと。この街に来てすぐ。引っ越しの段ボールがまだ残っていたリビングで、カレーとサラダの簡素な夕食を囲んだ。今日の事などまるで予想もしていなかった夜。

 佐藤の困惑は深まった。後先考えず今一番良い道を選ぶのが良いのか。しかし今時のワカイモンだ。明日また気が変わるかもしれない。だけど誰もが判っている。誰でも誰かと繋がりたい。面倒ごとは多くとも、雑多な温かさは変え難い。

 誰も強く反対しないのはどういう事だ。
 おかしな話だ、嘆息する間に佐藤は睡魔に沈んだ。決定は明朝となった。