江口は江口なりに精一杯の努力をしている。
 現に一年で唯一ベンチ入りを果たし、次期エースとしてのポジションも確立しつつある。お馬鹿キャラも意外性としてモテ路線に加算され、傍目にはいよいよ絶好調、マネ達も不思議な諦めと悟りを開かざるを得ない状況なのであった。

 岩野田へのおマヌケ言動はひとえに初恋免疫不全だ。故に彼は現在、大層滅入っていた。
「マネの皆さん、みんな優しそうでいい人達っぽいね。ひとり綺麗な人がいたね」
 ひとり綺麗な人がいたね。弟から余計な感想など聞くのではなかった。

(岩野田さんが気に入ったのかな)
 昔から弟が可愛くて仕方なかった。確かにオノレのコンプレックスを刺激もするが、それ以上に有能さが眩しい自慢の弟である。いいお兄ちゃんでありたいと、無駄に力む癖もついている。



「江口どうしたの!」
 長引く雨ですっかり薄ら寒い市民体育館、北側廊下である。更衣室から出た岩野田が見かけたのは、上半身濡れ鼠の江口なのであった。

「蛇口が壊れてて頭からかぶった」
「取り敢えず早く拭いて」
「タオル鞄から出してなくて」
「取り敢えずコレ使って」
 タオルの貸し借りは通算何本目なのか。
「あ、この間のも返すの忘れてた。今日持ってきてるけど」
「それも今日貸すからとにかく拭いて。風邪ひくよ」
 世話の焼ける次期エースであった。


 その日の河合は朝からの雨で憂鬱だった。

 悪天候は体調に直結するし、市大会直前で部内ムードもピリピリである。しかも今日の練習会場は市民体育館、学校からの移動も面倒だ。特に今年度の上半期コート予約が全て氷川商と同時間ときたら。
(岩野田さんを見かけられるのは嬉しいけど)
 当然ながら交流環境は一切無い。むしろご遠慮したい状況ばかりなのは何の因果か。

 ワタクシは同情をもって河合を見守る。
 彼はそろそろ無駄に苦しむ時期だろう。弊社の「紙は神」規定。終了申請書が発行された時点で、恋の終わりが始まる。少しずつ効力が見えつつある時期であった。

(あの水色のって、岩野田さんのだよな)
 本日の初手は江口が首に掛けているタオル。河合の目に入った瞬間、珍しく彼の頭に血がのぼった。
(江口さん、また借りたのか)
 途端に呼吸が浅くなった。
(勘弁してくれよ)
 只でさえ天候不順時の体調管理は手間なのに。
(これから練習なのに)
 そうだよ、もうすぐ市大会なのに。

 江口のヒトの懐に入りこむ天然ぶりを、河合は羨望していた。あの人あしらいは狙って出来るモノではない。が、今日は何故かそのユルさが癇に障った。それは今まで蓋をしていた自身の奥底に潜む暗い感情である。

(江口さん、自分の世話くらい自分でしろよ)
 その自立の無さが競技に影響している事を、どうしてあの人は判らないんだろう。
(そうだよ。まずは自分の至らない部分を何とかしろよ)

 いよいよ始まってしまった。
 普段の河合からは想像つかない思考が引き出された。これが終了証の効力である。ワタクシはギリギリまで見守りに徹する。だが終了証は容赦が無いので、見ている方が辛いのであるが。

(オレ達を羨む奴等って、一体何なんだよ)
 ひとつ感情の蓋がひらくと、次の感情の蓋もあく。その現象に河合は戸惑った。それはとうに消化された筈の、封印された葛籠(つづら)である。

 氷川中の特待生は良くも悪くも注目の的で、称賛と同時にやっかみも受ける。最近では大澤の留学ゴシップが分かり易い例であろうか。
(グチャグチャ煩いんだよ)
 河合も日々それなりに面倒があり、受け流すのも板に付いた。だが消化出来ない棘もある。
(いちいち馬鹿馬鹿しいんだよ)
 そうさ、バカバカしいべさ。だけどオレは今ナニ思い出してんだ?

 流石に河合は優秀だ。感情の起伏に違和感を察知し、直ぐに天井を見上げ息を整える。
(思い出すのよそうぜ。くだらない)
 屋根に落ちる雫達だろうか。雨の音がよく聞こえる。


 市民体育館、二面コートの境。緑のネットの網目から見えてしまう光景は、しかしいつも以上に不快である。先程浮かんだ影の棘は、そぐわぬ気持ちも噴きこぼす。

(なんでグチャグチャするんだ?)
 意識を変えた筈なのに。暴走するシナプスは何だ。次に浮かぶは先日の放課後、角の公園の記憶であった。
(おい、なんだよ)
 あの夕刻の景色であった。

 目を閉じるのが遅れて見つめあった数ミリ先の彼女。ほのかな体温。睫毛が落とす影の長さ。触れた柔らかさ。記憶の無秩序な再生。同時に誰かに奪われる予感。

(今は関係ないだろ、なんで急に)
 胸が軋む。息が詰まる。努めて切り離す思考をする。だが体育館という限られた空間である。彼岸と此岸がその場にあれば、多少バグるのは致し方ない。

 緑のネットの幕向こう、仲間と準備中の岩野田に近づく江口。話しかけられ、細々と応じる岩野田が見える。

(なんて表情してんだ)
 外は大地を潤す雨。
(岩野田さん。なんでそんな奴に)
 水滴に覆われる市民体育館。
(なんでそんな風に笑うんだ)
 僅かな側面に僅かな観客席を持つだけの二面のコートである。
(なんで笑うんだよ)(そんな奴に)
 氷川中のコートと氷川商のコート。
(なんでそんな笑顔)(なんでそいつに見せんだよ)
 岩野田に何かを催促され、緑のファイルを提出する江口。
(なんで触んだよ)
 ただの手渡しである。触れるという程触れてはいないが。
(触んなよ)(触んな)
 無駄な感情が隙間に入る。河合は自分のブレにも気付く。
(あ、やばい)(おかしい)
 僅かな冷静さを取り戻す。
(今日の自分、すげえおかしい)

 体調の落ちる時はいつもそうだった。全てに後ろ向きに、消極的に、悲観的になる。
(……いつもの自分じゃない)
 無意識に穴に落ちる。下らない闇に籠る。
(体調?)(でも、発作じゃない)
 河合はベンチに下がる。無駄な鼓動。
(吸入するべきか。いや違う)
 顧問は声を掛ける。
「どうした、具合が悪いか?」
「いえ、まだ大丈夫です」
「そうか。無理するなよ」
 後輩に椅子を借り、背筋を伸ばして深呼吸をする。
(違う)(必要なのは吸入じゃない)
 目を閉じる。息を吐き切る。それからゆっくり息を吸う。順に腹の奥に入れる。意識を飛ばす。出来るだけ遠くに。
(落ち着けよ)(落ち着けよ、自分)


 ちゃんと出来たつもりだった。いつも通りのつもりだった。だがいざコートに入ってみると、まるで出来てはいなかった。
「もう今日は下がれ」
 大澤に指摘されるまで気づかなかった。
「マサキ、オマエおかしいぞ。怪我する前に引け」
 そんなに乱れているなんて、屈辱だった。

 下がって直ぐに、顧問に追い打ちをかけられたのも初めてだった。
「今日は体調だけじゃないな」
 顧問は生徒の状況もよく把握していた。氷川商のコートをチラ、と眺めると、
「オレも経験が無い訳じゃない。お前達が心揺れる時期なのも承知だ」
 顧問の顔色を察して、河合は歯をくいしばる。
「だが間違えるなよ。今のお前の不出来さと彼女は無関係だぞ。全部自分のせいだぞ」

 自身のせい。自分の弱さのせいだ。
「もうわかってるんだな」
 顧問は河合の表情を見極めると、静かに告げた。
「先に学校に戻りなさい」
 河合は言われるままに荷物を纏めコートに一礼し、独りで廊下に出た。



「貴方達は目指すものがあってここに来ているんでしょう?」
 廊下に出た瞬間、早苗叔母の顔が浮かんだ。
 目指すものがあってここに来ているんでしょう?
(叔母さんの言葉に真理があるってこと?)
 動悸は心の振動か。河合は北通路の階段に座り込み頭からタオルを被り、深く息を吸った。

 自分の目指すもの。バスケが楽しくて褒められて自分の居場所が出来て、もっとがむしゃらになって、気付いたら此処にいた。それだけなのだけれど。

 河合の退出に岩野田はすぐ気付き、彼の体調不良を案じた。江口は先に岩野田の様子を察し、氷川中のコートを確認して納得した。ベクトルが変化してゆくのを、ワタクシはただジッと眺めている。


 河合の思考は錯綜している。
(そうだよ、自分はどうして此処に居るんだろう)

 きっかけはシンプルだ。小学時代のミニバス全道大会で大澤リュウジを見たからだ。会場中を釘付けにした抜群に上手いデカいヤツ。チームの戦績はイマイチだけど、プレイヤーとして圧倒的。どうしても勝てる気がしなくて、眩しくて羨ましくて悔しかった。

 選抜合宿で一緒になれた時は嬉しかった。中身も真っ当でテンションが上がった。それからヤツの彼女がまさかの歳上で超綺麗だって判明した時も面白かった。先輩達がこぞって悔しがったのが笑えた。

 じゃあオレが歳上の岩野田さんに惹かれたのはアイツの影響かな。いや違う。岩野田さんを見た瞬間に、自分でちゃんと判断した。このひとだって思った。

 そうだ、岩野田さんも本当はリュウジが良かったんだ。リュウジの事、いつも友達と楽しそうに見ていた。でも仕方ない。リュウジはオレ達から見ても格好いい。氷川中に来てからはいつも『河合と大澤』のセットで見られて周りに比較されて、散々ジャッジもされるけど。同じ競技者でも歩く道は全然違うけど……違うんだけどな。

 調子の悪い時ってロクな事を考えやしない。折を見て彼女が廊下に来た事にも気付かない。近くに来ているのに、姿を見つけても、自分の機嫌を直すスイッチすら入らない。

(そうだよ、岩野田さんも)
 岩野田さんも本当は、リュウジがいいんだろ。




 岩野田は河合に話しかけるのを躊躇した。
 気になって休憩を貰ったはいいけれど、彼は目が合ってもニコリともしない。具合が悪い訳でもなさそうだ。持参のドリンクをそっと出す。
「ありがと」
「体調?」
「いや、大丈夫」
「そう」
 すぐ立ち去ればよかったのに、機会を逃してしまった。河合の気配は近寄り難く、迂闊な物言いもしたくない。

(今って市大会前だよね)
 関わるのもはばかれた。彼には独りの時間が必要なのかも。邪魔せずにさっさと戻ればよかったかも。廊下に反響する部員の掛け声、弾むボールの音、擦れるシューズの音。こういう時って何が正解なんだろう。


 だけどもう正解なんて無い。壊れる為に今があるのだから。
「なんか、情けなくてゴメンな」
 河合の突拍子も無い台詞が二人の間に隙間を作る。岩野田も引き返せなくなってしまった。
「こんな風に膨れっ面されてても困るだけだろ」
「うん?」
 そうだよめっちゃ困るよ、って明るく言って笑いたい。けれど今日は蝦夷梅雨でお空は暗いし、雨の粒子で空気も重い。そんな顔されたら嘘もつけない。

「何かあったのって、聞いていい?」
「岩野田さん。オレと付き合うの大変だろ」
「……なんでそんな話?」
 妙な返答。おかしな波が来た。岸に戻ろうとしたら、流されてもっと離された感じ。

「岩野田さんもホントはリュウジが良かったのに。オレなんかで申し訳なかったなって」
「なんの話をしてるの?」
 流れが速くて、岸辺がどんどん遠ざかる感じ。
(大澤君?)
 その話をどの角度から受け取ればいいんだろう。
(中学時代に友達と騒いでいた頃のコトかな)
 でも今はまるで関係の無い話だ。どこから解きほぐせばいいのだろう。沖に流されるような不安。
「河合君、どうかしたの」
「岩野田さんは」
 なんで大きな声出すの。
「岩野田さんはもう、オレと無理して付き合わなくていいよ」
 なんでそんな話になるの。


 河合も戸惑っていた。なんて事を口にしたんだろう。確かに今の自分の気分は最悪で滅入っている。滅入ってはいるけど、こんな状況など微塵も望んではいない。だのにどうしてこんな言葉を放つんだろう。どうして口が勝手に動くんだろう。

「聞いたよ。岩野田さん、氷川商で可愛いって評判なんだろ」
「え、え?」
 岩野田はもっと戸惑った。今度は何の話だろう。面白くない内容ばかり。だが放った河合本人も予測がつかなくなっている。

「江口さんも岩野田さんの事褒めてたし、いい話も沢山あるんじゃね」
「そんな話、何も無いよ」
「無理しなくていいよ、マジで」
「無理してないよ」
「オレみたいなガキじゃなくてさ、」

 何を話してるんだろう。だけど吐き出す度に何故か身体はどんどん楽になる。おかしい。どうして肩が軽くなるんだろう。

「もっとちゃんとした人と付き合うといいよ」

 何をやらかしているんだろう。河合は自分の言葉に胸が冷えた。浅い呼吸をすると、水分の多い空気でますます冷えた。つめたい廊下。固い階段。痛んだ床。
 
 岩野田は河合の目の前にぺたんと座り込む。
「ごめん、あの、意味が、ちょっとよくわからないんだけど、」
 彼女の小さな声を聞いて、ようやく河合も我に返った。
「河合君、なんの話をしてるの」

 本当に。今何を言ったんだろう。

 改めて彼女の顔を見た。自分より少し下にある目線。冷静に見えるけれど、歯を食いしばって堪える顔。この表情って、中学の美化委員の時に見た顔だ。あの時、理不尽に堪えて可哀想だと思って見ていた彼女だ。なんで自分がこんな顔させてんだ。なんで泣かそうとしてんだ。

(オレは今、何をした?)

 雨の音が強くなった。湿度が上がる。ガラスが曇る。


 ただ、岩野田だって以前とは違っている。ちゃんとしなやかさもしたたかさも、少しだけど身についてきた。ほんの少しだけど。

「私はそんな事、思った事ないよ」
 喉が熱くて締め付けられて痛いけど、小さい声だけど、ちゃんと言えた。
「考えた事も、なかった、けど」
 涙を堪えて胸が苦しくて、言葉がうまく出ないけれど。
「でも、河合君は、もう辞めたいのかな」
 言われて河合はオノレの大事に気付く。そんな事ない。
「終わった方が、いい?」

 そんな事は一切思ってはいない。河合の混乱がまた戻る。岩野田の言葉で、逆の錯乱が始まる。自分が自分じゃない衝動。雨の音。天井に掛かる音。今日の雨量。厚い雲。

「だけど、もしそうなら、ちゃんと自分で決めてね」
 そんな事、絶対したくない。
「私、河合君の邪魔したくないよ」
 全然、全然邪魔じゃない。
「でも、狡い言い方はダメだよ」
 オレは狡くない。
「そういうの、河合君らしくないよ」
「らしくないって何だよ!」

 絶対違う。絶対違う。しまった。八つ当たりした。何故だ。これは彼女に言う事じゃない。それにそんなんじゃない。そんな風に思ってない。だのに思っている事とまるで違う言葉が放たれるのは何故だ。勝手に口が動くのは何故だ。

「オレらしいって何だよ。オレの何を知ってるんだよ!」

 岩野田さんは悪くない。全然悪くない。全部オマエのせいだって、さっき顧問も言った。

 ああ、そうだよ、全部オレが悪いんだよ。だから彼女の側に居る資格なんて、オレには全然無かったんだよ。

「じゃあ、離れてくれ」

 違う。そんな事一切思ってない。彼女を怯えさせた。怖がらせた。なんて顔させるんだ。言葉ってなんて鋭いんだ。

「もうオレから離れてくれよ」

 違うのに。そうは思ってないのに。コレはなんの衝動だよ。

「オレは、」

 舌禍だ。これは舌禍だ。堪えろよ。なんで堪えられないんだ。
(それじゃ駄目だろ、だからオレは駄目なんだろう!)
 堪えろよ、堪えろよ、堪えろよ自分。

「オレは」

 息が浅いぞ。落ち着けよ自分。堪えろ。

「岩野田さんが、好き過ぎて駄目なんだ」

 堪え切れない自分。どうしようもない自分。熱量とブレーキの効かない、分別の無い自分。

 何を言ったんだ自分は。舌を噛み切れ。
「本当に舌を噛み切ったらどうすんだ」
 リンキーの音声で冷笑されたのはきっと空耳であろうが、
「さっきからマンガン社さんをお見かけしませんが」
「本日は代休だそうです」
「代休!」
 スガワラ代理社員の苛々は現実であった。

「問題ありません。本日のメインは河合へのチューニビョン散布ですし、ワタクシが延長しますので」
「あ、河合が帰ってしまいますっ」
「そちらも想定内ですから大丈夫です。スガワラさんはどうぞご安全に、散布後の二十分待機を」
「薬事法なんぞ適当でいいでしょう。そもそも終了時が来月末に伸びたのは何故ですかっ」
 納期変更のクレームは末端社員ではどうしようもないのであった。

「申し訳ありません、その件は当社規定の関わる話でしたので、直接お問い合わせいただけると助かります」
 不服そうだがワタクシ的には知ったことではない。
「尚、今回の散布は弊社持ち込みとなっております」
「えっ」
「ちなみに散布責任者はワタクシです」
「あっ」
 スガワラ社員は急に口をモゴモゴさせた。

 チューニビョンの効果は絶大だが高額薬品でもある。妖精間での取扱いでは注意が必要で、更に今月より法改定で散布責任者の現場報告が義務付けられてしまった。どなたも機会に依存しがちな昨今。手足引っ張る輩に口出しする権利は全く無い。

「御承知の通り河合の行動力は侮れませんので、ワタクシも経過観察を怠らぬ様に致します。ですが部活学業面はスガワラさん無くしては語れません。どうぞ宜しくお願い致します」

 深々と頭を下げ相手のメンツだけ立てた後「では二十分経ちましたので」と、散布後の清掃に入ったのであった。



 可哀相に岩野田はコテンパンである。当然だ。当たられる理由が判らない。

(私、何か気に障るコトした?)
 何もしてないよ。可哀想に。八つ当たりって、優しくしてくれる人に降り掛かるモノなのだよ。
(誰かにもう付き合うなって言われたかな)
 運動部の交際禁止令なんて時代錯誤ね。
(全国に向けて集中したいのかも)
 そちらこそ思い当たるフシがあり過ぎる。それにしても言い方。
 酷い雨。心が痛くて仕方ない。冷たい空気。身体の芯が凍ってゆく。


 青ざめ座り込む岩野田を見つけたのは大家だった。
「全然帰って来ないから。どうした、具合悪い?」
「……急に頭とお腹が痛くなって」
「今月来た?」
「まだ、もうすぐ」
「うん、わかった」
 今度は月の面倒が岩野田に降り掛かる。大家は茨木常備の痛み止めと吉野先輩のハーフケットを調達し、観客席にリラックスシートを誂えた。

 しかし枕の代用が、何の因果か河合のタオルである。厨二病のおバカさんは先程いきなり我に返り脱兎の帰宅、その際に置き忘れていったのだ。顔を埋める羽目になった岩野田は複雑そのものである。


 マネ達の動きを見た江口は、そそくさと休憩時間にホットの缶入りコーンスープを購入する。

「岩野田さん寒くて冷えたでしょ。この缶お腹にあてときなよ。ホカホカだよ」
「あ、ありがと。でもなんで?」
「うちの姉ちゃんもよく寝込むからさ。女の子は毎月大変だね」
 岩野田は固まった。生理痛を見透かす男子とおぼこムスメの未来に光は差すのか。

「あの男のコ、根っこはスーパーダーリンですけどね、言うタイミングがね」
 岩野田後ろの全母連スタッフ様も、十代センシティブについて気を揉まれるのであった。


 案の定、翌日は欠席の岩野田である。体調不良の愛娘に父は右往左往。入院中の母に携帯で指示を仰ぎ、心づくしの朝食も食卓に並べ、後ろ髪を引かれつつ出勤した。

 岩野田の回復はその日の午後である。モソモソと見繕いと小さい家事を済ませ、お腹の催促で父親メイドの卵と野菜のサンドイッチを食す。洗濯機を回る音を聞きながら味わう、マヨネーズ多めのジャンク味。
(お母さんが作ると辛子バターだよね)
 紅茶も追加でいただきながら小さな観察。きっと将来思い出す家庭の味だ。

 食器を片付けていたら洗濯機の仕上がり音が響いた。ベランダに出ると氷川中の校舎が見える。この時間はまだ授業中。今の河合の気持ちはどんなだろう。だけど岩野田からは連絡も出来ず、当然向こうからも何も無い。途端に寂しさがまた襲う。

 洗濯物の中には昨日の河合のタオルもある。岩野田はそれをむんずと掴む。
(ホントに、もう、)
 岩野田だって怒りたい。
(ふざけん、な!)
 パアンと弾いて日向に干す。

『岩野田さんが、好き過ぎてダメなんだ』
 見よ。この厨二満載の赤面台詞。将来に渡り双方の記憶に泰然と燻る、痛い想い出の完成である。

 ここで岩野田は大変な事実にも気付く。
(そういえば私、ちゃんと『好き』って言われたの、初めてなんだけど)
 そうなんだよね。それ故のチューニビョン散布なのだよ。色々不首尾な河合であった。

(でも『好き』って言われたのと同時に『ダメ』って言われてるんだけど!)
 思い出してまた泣きそうになる岩野田であった。

 河合の邪魔にだけはなりたくない。それが彼女の矜持である。今が諦念の時期なのか。岩野田は迷い大きく揺れる。


 だがワタクシは声を大にして言いたい。恋の狩人は貪欲かつ我儘身勝手であればこそ。それを相手に悟らせない技術を磨いてこそ、真の猛者と言えよう。

(岩野田、矜持と諦念は別物なのよ)
 ワタクシは既に岩野田を応援出来る立場ではない。今後は彼女自身の運気の強さが鍵となる。

「それにしても痛いな」
「何が」
 うっかり零したグチを聞き逃さない因縁リンキー様よ。
「チューニビョンの二割自己負担です。もう少し下げて欲しいです」
「仕方ないよ。チューニビョン高価いもん。乱発されたら会社潰れるもん」
「でも薄給だからマジで痛いです。営業手当吹っ飛びます」
「仕方ないよ。三課の査定低いもん。だからリストラ候補じゃん」

 ちょっと待て。ちょっと待って。

「リンキーさん、今なんて言いました」
 因縁妖精の表情が固まった。
「三課がリストラ候補って、今言いました?」
「……カワイさん、やっぱ気付いてなかったんだ」
 ワタクシの衝撃を、どなたもお分かりいただけるであろうか。

「春先にあたしが来た時点で、課長は察したらしいよ」
誰か。誰か。
「もう他の社員も薄々気付いてるし」
誰か、嘘って言って。
「でもカワイさんの様子を見てると、まだ判ってないのなって、ちょっと不安だったんだけど」

 空耳だよと、笑って言って。





「お願いだから嘘って言ってえ」
「そういう台詞を吐く奴、めっさ重いしめっさキモい!」
 アホ丸出しのワタクシを叱責する発信元のリンキー様よ。

「リストラされたくなかったら実績作りやがれくださーい」
「実績って何ですかー今の方向性でワタクシは間違ってないんですかあー」
「読みが実績の全てに繋がっている事実に気付きやがれくださーいグッバイ!」
 言い放たれて逃げやがったのであるよ。

(うー)
 ワタクシの喉の奥を涙が伝う。いきなり生活がのしかかる。
(チューニビョン、今回使うんじゃなかった?)
 元々安易に使う薬品でもない。リスクも恐れず走るしかない。ワタクシはちーんと鼻をかんだ。


 リスク回避に余念のないのはスガワラであろう。本社より新たに派遣された黒装束の牛頭部隊は迅速かつ合理的に河合の歪みを隠蔽、瞬く間に顧問達の不安を払拭した。エネミーながら天晴れな手腕であった。

 異変を見抜いたのは大澤のみである。
「岩野田さんと何かあったな」
 問うても口を割る河合ではない。大澤は独自のルートで情報を入手、さっさと浄化を促すのであった。

「独自のルートってミヤコさんじゃないか」
「女子の社交は光より速いんだ。とにかくマサキが悪いからとっとと謝れ」
 事実なのでぐうの音も出ない。
「土曜だって会うかもしれないのに」

 今年度の氷川商バスケ部は絶好調、インターハイ予選も順調に勝ち進み、週末はいよいよ決勝戦。河合達はお勉強の為に観戦予定ときたもんだ。
「ボヤボヤしてるとまたエロ先輩が」
「わかってるよ!」
 年相応にぶんむくれる河合である。踏ん張りどころであろう。


 氷川商のインターハイ出場はここ数年の悲願であった。会場の総合体育館は、父兄から各年代OBまで集う盛況さである。

 対戦相手が積年のライバル校なのも話題を呼んだ。稲熊高校は大澤の地元所在のスポーツで名を馳す私立校、監督もバスケ界のエライ人。各大学や企業関係者の姿も垣間見え、試合前からなかなかの熱量である。

 全てに公正さを促すべく、マンガン社員は全員ヘルメットと安全靴を着用し最前線に常勤、弊社の後方支援には、全母連スタッフ様らが待機する手筈となった。

 江口は今回も一年で唯一レギュラー入りを果たし、ベンチマネには吉野先輩がスタンバイ。岩野田達は他の部員と観客席に集合である。応援リーダーと打ち合わせをしながら、一年組は緊張した。関係者として迎える決勝前の独特の雰囲気。勿論全てが初経験。酩酊するのも無理はない。


 天井に近い観客席上段には氷川中バスケ部が陣取った。応援の邪魔にならず、かつ全貌を見渡す位置である。岩野田は気付かぬフリをし、黙って仲間達と座る。

「稲熊高って大澤君が小学校の時に練習に行ってた学校なんだって」
「へえ、流石大澤君だね。でもなんで茨木がそんな事知ってんの?」
「弟から聞いたの。大澤君と河合君の事はみんな興味津々なんだって。大澤君は留学の噂もあったし、高校の推薦入学も沢山あるって。ね、岩野田。岩野田?」
「え、あ、うん」
 茨木の声に相槌を打ちながら、岩野田は大澤達の現状に面食らう。

(推薦入学は見当がついてたけど……留学?)
 思い知らされてしまう。
(……そうなんだ)
 改めて客観的な現実が見えてしまう。
(そうだよね。私が河合君と仲良しになれたなんて、めっちゃ奇跡なんだよね)

 世代層の最も下らない常識の筆頭は校内カーストであるが、残念ながら岩野田もその文化に浸っている。もう少し雑に過ごした方が気持ちも楽なのだが。
(もし河合君が別れたいのなら、もう潮時なんだよね)
 だからそういうの、もう止しなさいってば。


 岩野田が感情を押し殺す理由はもうひとつある。
 母の退院が決まったのだ。打ちのめされた直後の待望の知らせに、岩野田は察した。

(お母さんが帰ってこれる。じゃあ河合君は諦めなくちゃ)
 ひとつ良い事がある代わりに、大事なモノをひとつ手放す。そんなシステムは決してこの世には無いのだが。

(だって、いつでもそうだもの)
 おばあちゃん達がお母さんが嫌うから、お父さんが怒って今の家に引っ越した。お母さんが可哀想じゃなくなったら、今度はお父さんの会社が潰れた。お父さんの仕事が見つかって落ち着いた途端、次はお母さんの病気が見つかって。
(でもお母さんが帰ってくる。だから私は河合君に酷いコト言われても仕方ない)

 今までの岩野田家の流れが、理不尽を受け入れさせてしまう。
(仕方ないよ。お母さんが戻ってこれるもの)
 本当は胸が苦しくてどうしようもないのに。
(だって私の家は、良いコトはひとつだけだもの)
 決して絶対、そんな仕組みは無いのだけれど。

「あのね、これが岩野田の今の課題なんです。その思い癖を無くしてほしいの。家庭の流れは気にせずに、幸せは自ら掴みに行かないと」
 岩野田担当の全母連スタッフさんも憂いていらっしゃる。前任のスガワラ社員さんと同じだ。誰もが岩野田の課題に悩む。

 だがもうクリアにさせたい。ワタクシは拳を握りしめた。可愛い恋の妖精さんとして、本分を全うしたいのだ。岩野田を幸せにしてみせる。未来の相手が誰であっても。

 マイ管狐はまだ戻らない。だが全てのお膳立てをしなければ。



 試合は大接戦であった。誰もが声を枯らして応援し、観客席最上段の氷川中生達も身を乗り出して行方を追った。

「稲熊、そんなにヤバいか?」
「悪くない、今年の氷川商がいい」
 ラスト一分。氷川商が投入したのは新人の江口である。

「氷川商、替えが無い訳じゃないよな」
「うん、敢えてのエロ先輩だ」
 河合達は益々身を乗り出す。氷川商の応援はクライマックスを迎える。

「シュウトーーーーー」
 声援で体育館内がビリビリ響く。これはシュートを決めろという意味ではない。江口のファーストネーム、そのままルーキーへの歓声だ。

 大澤は河合の耳元で呟く。
「ミヤコから聞いたんだけど」
「ん」
「リク達、先週末に南中と練習試合したんだと」
「うん?」
「太田が伸びてきてるんだと」
 南中は中学全道大会で必ず決勝リーグに上がる強豪校である。太田の存在は勿論、河合も知っている。

 両校の応援と悲鳴と歓声が再び体育館を揺らし、決着のホイッスルが鳴った。
 沸き起こる渦は再びみたび館内を揺らす。ラストは江口の見事なカットであった。氷川商側からまたコールが起きた。

「シュウトーーーーー」

 江口への称賛が再び河合の身体にビリビリ響く。大澤が低い声でまた呟く。

「今はたまたまオレらが持ち上げられてるだけだ。これから誰が伸びるかなんてわかんね。太田だって、エロ先輩だってそうだ。これからの事なんて、そんなもん、誰にも見えないべ」

 マンガン社、弊社、全母連タッグによる決勝シフトは非常に見事であった。氷川商はインターハイの切符を手にした。





 試合終了後の熱気は体育館の天井をも空に押し上げそうな勢いであった。コート中央では氷川商メンバーが地方紙の取材と写真撮影を受けている。河合と大澤は体育会系の偉いヒトに拉致られ、有難いお説教を受ける羽目になる。

 岩野田も興奮のるつぼの最中にいたが、それでもいち早くマネ仕事に戻った。中央玄関前のエントランスは帰途につく観客の波でごった返している。応援団の生徒や諸先輩達を見送り、部員の帰宅準備を待つ。

「岩野田さん、今日もタオルを貸してくれてありがとう!」
 本日のヒーロー江口は忘れ物番長にも忘れず君臨した模様。
「本番では絶対忘れちゃダメだよ」
「うん、気をつける」
「内地の宿舎でも吉野先輩に迷惑かけないようにね」
「うん、大丈夫だよ、おかあさん」
「おかあさん?」
 呼び名がオカンから進化してしまった。岩野田のコメカミに青筋が。
「うん。岩野田さん、もうおかあさんになってよ。オレおとうさんになるからさ。あ、そこに居ると邪魔だ」

 江口は岩野田の右腕を掴むと、行き交う人波に当たらぬ様、彼女を壁側に寄せた。
 変則的壁ドンでもある。不意の接近に焦る岩野田。

「ちょ、ちょっと江口、過保護!」
「いやいや危ないよおかあさん」
「危なくないって!」
 流れるヒトの波。右腕を握る大きな手。目と鼻の前に江口のティシャツの胸元。パーソナルスペースの侵害。

「岩野田さん、いつもオレの面倒見てくれてありがとう」
 江口の声がつむじの上から聞こえる。岩野田もうんと上に向かって言葉を返す。
「いいえ、マネとして当然だよ」
「知ってる。義務でもありがとう」
 こんな密着の最中に交わす会話の事務的固さよ。

「オレ、誰かにこんなに優しくされたコトないよ。言い寄られるのは多いけどいつもすぐ振られるからさ」
 思い当たる節があり過ぎて返事に困るよ。
「だから岩野田さんには感謝してる。面倒見が良くて率直で裏表も色気も無くて」
 さりげにディスられてまたアオスジが立つよ。

「だから、河合を別れたら真っ先に教えてね」
「え」
「オレ、マジでいいおとうさん目指す」

 ヒトの波が引きはじめる。江口も岩野田の腕を離す。
「もう負けたくないんだよね」
「何に?」
 岩野田の問いに江口は黙って笑った。


 その現場を遠巻きに河合が目撃してしまうのも、終了書の効力である。河合の腕が、握り拳が硬く強張るのを、大澤だけが横目で気付く。





 さて河合と別れたら真っ先に教えてと江口に言われた岩野田だが、「彼女と別れたら次は私ね」と常に口説かれ続けているのも河合のリアルである。

 本日も河合の端末に続々届くメッセージ。特筆すべきは別れの予感を嗅ぎつけた恋のハンター達であろう。
『マサキ、最近寂しそう』
『彼女と何かあったの?』
(ひいー)

 硬直する河合にスガワラ牛頭部隊が更に結界を強化、ワタクシ達すら近寄らせぬスクランブル体制を取った。
「雑魚は要らぬ!」
「おととい来やがれ!」
 河合を狙う色情霊を容赦無く牛刀でなぎ倒す牛頭部隊。

 中には弊社の片思い案件も少なからず有るのが正直遺憾であるが、我々は彼等の真骨頂を観た。これにより河合のバリアは完璧、全国制覇に向け学業・競技に専念する手筈となった。

 全母連のバックアップも盤石であった。

(マサキの周辺がいつにも増して煩いんだけど)
 表に立ちはだかるは全母連・北支部長預かりの早苗叔母である。
(お行儀の悪い子は目障りなんだけど!)
 自宅周辺を物欲しげに徘徊する十代女子を見かけるや否や、
「氷川中の生徒さんね。何年何組かしら。学年主任の〇〇先生に宜しくお伝えしてね。遅くなると危ないから気をつけて帰ってね。はいサヨーナラッ」
 地域の大人を装いシッシッと蹴散らすのであった。

 時おり「私、河合君と約束してるんです」と特攻をかます勝気女子もいたが、
「そう言ってきた女の子はアナタでもう〇人目よ。お名前伺っていいかしら。シーズン直前で大事な時なの。静かに見守ってあげてね」
 一刀両断し、番号札を渡す荒技を展開した。魔除けのお札だったかもしれぬ。

 そして早苗叔母は察した。
(今まで見たコ達の中で岩野田さんが一番良いわ)(マサキは見る目があったのね)(そういえば岩野田さんは良いお嬢さんだって、みんな言ってたわ)

 ワタクシは早苗叔母にお願いしたい。友人知人情報を、あらためてご査収くださいませ。



 七月の初めに母が退院の運びとなり、岩野田家にも安穏なる日々が戻った。
 自宅のドアを開けた瞬間のひとの気配、ご飯の支度の温度、あかりの灯る部屋。待ち焦がれた家庭の風景であった。

(お母さんのいる匂いだ)
「ただいま」
「お帰り」
 これは学校から帰ってきた分の挨拶。
「お母さんもおかえり」
「はいただいま。長いお留守番どうもありがとう」
 こちらは退院おめでとうの挨拶。

 自宅療養なので岩野田のお手伝い免除は当分先だ。だが父が帰宅時に母の好物の老舗ババロアを購入、その夜は華やかな晩餐になった。症状に一喜一憂する日々からのひと時の解放である。


「河合君とちゃんと話をした方がいいよ」
 それ故だろうか。佐藤ミヤコに促されても、岩野田は多くが望めない。心の奥底に出来た枷は硬く、元来の引っ込み思案も顔を出す。

(でもミヤコさん、うち、お母さんが帰ってきたの)
 だがそんな思考はとても言えない。佐藤達から見たら自分はきっと甘ったれだ。

「忙しくて……話すきっかけも無くて」
「気持ちがしんどくて動けない?」
 佐藤は冷静である。
「しんどいなら仕方ないよ。そういう時もあるよね。でも、このままなのは良くないよ」
 真摯な言葉は岩野田の胸に響いた。やっぱり自分は甘ったれだ。

「リュウ君も言ってたけど二人はまだ別れてないよ。これからも四人で仲良しでいたいよ。だからみかこちゃん、全道の決勝戦は一緒に観に行こうね。あのコ達は勝ちあがるよ。私、ひとりで観るのは寂しいよ」

 最後に「今度一緒にお買い物に行こうか」と美少女に明るく誘われ、岩野田の背筋は思い切り伸びたのだった。
(そういえば私、最近お手入れサボってた!)
 そうだよ。二人とも女子として凛々しく生きるのよ。
(ミヤコさんも忙しいのに気を使ってくれた。観戦も誘ってくれて)
 そうなんだよ。佐藤だって岩野田と仲良くなれて嬉しいのだから。
(でも、お母さんが帰ってきたの)
 だからそれが良くない。
 とはいえ、隠してきた傷が痛むのは自然の流れ。適切に対処しようではないか。


 その後のスケジュールは多忙を極めた。夏休み前の授業は前倒しになり、本番を控えた部活動は熱を帯びる。特に市民体育館で顔を合わせる氷川商・氷川中両校は、それぞれが刺激となり、各ボルテージも加速した。

 岩野田に余裕はまるで無い。当然河合もそれどころではない。お互いの存在は判っていても、リアクションなど出来はしない。

 ネット越しに岩野田は河合の気迫を感じる。河合にも岩野田の献身ぶりが視える。お互いがそれぞれに集中している時、少しのギクシャクが喧噪に紛れる。

 どんどん切れ味が増す河合。どんどん顔つきが大人びてくる岩野田。お互いがそれぞれの成長に気付く。彼の背が伸びている。彼女の髪が伸びている。過ぎた時間が目に見える。

 喧噪から逃れると、見ないフリをしていた痛みが疼きだす。何かを感じて振り向くと、さっきまで視線がこちらに来ていた気配がある。知らないフリをしていても、彼が彼女が、自分を見ているのが背中で判る。


 岩野田が一番辛くなるのは、帰宅して自宅玄関に立った時である。

 思い出すは春の連休。お母さんの病気で落ち込んでいて、初めて家まで送ってもらった夕刻のひととき。

 相反するのが長雨の先月。酷い言葉で傷ついて帰宅した日。玄関に入った途端あの春の日を思い出し、悲しくて訳が判らなくなった。身体の具合も悪くて、河合に対しても珍しくすごく腹が立った。

 今は苦しくて仕方がない。有頂天で気付けなかった過ごした時間の大切さ。泣く度に胸の奥に雪が積もって、シンシンと冷えて氷になって。自分ばかり良くしてもらった。だけど何も返せていなくて、何のお役にも立てなくて。

(でも謝る機会も、多分無いね。もし機会があったとしても、河合君はきっと嫌だね)
 背伸びして気を張る姿も、いつもとても眩しかった。



 成長著しい江口は、体育館での二人を見て瞬時に判断、実働に移していた。
(岩野田さん達、何かあったな)
 既にオノレに正直に生きると心得た江口である。ある意味で容赦も捨てている。

「おかあさん、タオル貸してー」
「え、岩野田、とうとうおかあさんになっちゃったの」
 岩野田の呼び名変更に大家達からも同情され、岩野田もキレ気味に返すのであった。
「おかあさんじゃありません」
「そんな事言わないでよおかあさーん」
「甘えるんじゃないっ」
 疑似親子状態であった。
「借りる前に貸したタオル全部返して」
「うんわかった。でも早く汗拭かないと風邪ひいちゃう」
「ええい、これでも使うがいい!」
 岩野田が投げるタオルは色気皆無の新聞社の粗品である。

「ウチの兄がどうもスミマセンー」
 今度は高い所から声が降る。見れば江口の弟が観覧席から手を振っている。尚、その横には綺麗な社会人風女性が。
「アナタが岩野田さんね。いつも弟がお世話になってます」
 大きめの紙袋を抱えて笑うのは、江口のお姉さんであった。


「シュウトがこんなに沢山のタオルを借りっぱなしで。ご迷惑掛けて御免なさいね」
 有名店の焼き菓子と共にわざわざ返却にお越しくださった美女。

 色めきだつのは江口の先輩同輩諸君である。
「おい芋、ちゃんと紹介しろ」
「姉上様にコートまで来てもらえよ」
 顧問・部員達の鼻の下が伸びきるのは壮観である。素敵なお姉さんを前に皆のテンションが上がる。

(初めてあった気がしないけど、何処かで会ったのかな?)
 コート際に下りてきた江口姉弟と楽しく会話をしながら、しかし岩野田は何も思い出せない。姉弟の登場に江口は無駄に緊張し、弟はニコニコしながら皆を見ていた。和気あいあいであった。


 翻弄されるのはワタクシである。
(岩野田と江口のお姉さん、以前親友だった過去がある!)

 脳内センサーが反応したのだ。浮かぶは江口と岩野田の夫婦時代。当時の江口姉は隣接する酒屋の愛娘なのであった。大所帯で苦労する若嫁の岩野田を、いつも心配し応援していたのだ。江口に苦言を呈すのは今世でもお馴染みの情景である。

 江口姉も岩野田を見た瞬間に(良い子だな。弟と仲良くなってくれないかな)と願っている。ケンジさんの傍観はここも見越してかもしれぬ。慧眼である。


 一方のネットの向こう側、氷川中コートの河合は沈黙を守って練習に勤しんでいる。周囲をスガワラが固め、イロコイの気配は絶賛排除中である。

(おいマサキ、ヤバいぞ。いいのかよ)
 氷川商のコートの様子を察した大澤はひとり焦るが、河合は一言「集中しろ」とだけ返している。だが内心は穏やかではないらしい。チューニビョンの効力は後一カ月弱。

(何だよ意地はって。でもオレは忠告したかんな。後は知らねえぞ)
 大澤も嘆息して終了している。やり取りの簡潔さから二人の信頼が判るが、こちらも深い縁があるからだ。過去で何度も親友や仲間、家族の繋がりをこなしている。

 しかしワタクシの勘の冴え具合はどうだ。勝手に映像が浮かんでは消える。リンキーに感化されたのであろうか。




 氷川商インターハイ壮行会は夏休み前の全校集会後であった。蒸し暑い体育館の壇上、大注目株は江口の存在が大きい男子バスケ部。

「えぐっちゃーん!」
「シュウトー!」
 全女子生徒からの黄色い声が館内にコダマする。ニコヤカに佇む江口に対し、しかしマネ達は冷静であった。
(見事なオスマシですネ)
(いつもそうやって落ち着いているといいネ)
(いいか、そのままボロは出すなよ、出すんじゃないよ)
 どれが誰の心の声かお分かりいただけたであろうか。

 悲願は初戦突破。大きなエールと校歌斉唱に見送られ、レギュラー組と吉野マネは今年度開催地である内地の某県に旅立ち、留守番組は部室のお掃除に取り掛かった。
 開かずのロッカー内にひそむ歴代思春期男子ご用達雑誌をブチ切れながら全て焼却処分にしたマネ達の武勇伝を、ワタクシは後世に伝えたい。


 疲れ果てた三人はアイス屋さんに寄り道である。
「お掃除風水、効くといいなあ」
「勝ち上がって欲しいよね」
 切実なる悲願であった。
「江口はお馬鹿じゃないといいなあ」
「吉野先輩を困らせないでほしいね」
 悩みは堂々巡りであった。

「そういえば岩野田の呼び名、おかあさんになっちゃったんだね。大丈夫?」
 大家に心配され、眉間に皺を寄せる岩野田。
「江口はきっと家庭的な暖かさに憧れてるんだね」
 自分はいいおとうさんを目指すって言ってたな、と、ふと思い出す岩野田。江口の真意は迷子になっている模様。

「前から思ってたけど、おかあさん風味なら茨木が適任だよね。義務感しか無い私と違って茨木はマジの優しさだもの。母性を感じるよ」
「そ、そんなことないよ、私はコドモっぽいだけだよ、そ、それに江口の好みは岩野田みたいな冷静な女の子だよ!」

 茨木の異様な慌てぶりは何だ。岩野田と大家に違和感が沸き起こる。
「あの、茨木、もしかして」
「ひょっとして」
 茨木の頰は真っ赤である。二人は全てを察し、「今まで気づかなくてゴメン」と謝った。

「そんなんじゃないから!」
「でも江口の何処がいいの。天然なとこ、じゃないか、顔かな」
 茨木の顔が益々赤くなった。
「そうか。顔なのか」
「だったら弟君で良いじゃん。中身が良さげだよ」
「本当にそんなんじゃないから!」
「今後の江口のお世話係は茨木にしようか。適任だよ」
「うん、今までホントにゴメン。江口を散々ディスってきたのもゴメン。好みはそれぞれだよね」
「本当に本当に違うからー!」

 茨木はパニクっていたが、多数決でその場は納められてしまった。数の暴力であろう。



 二日後のインターハイ初日、第三試合。氷川商は見事一回戦を突破し、岩野田達は狂喜乱舞した。氷川中もあっさりと市大会、地区大会を優勝し、全道大会のコマに進んでいる。
 スガワラの河合シフトに我等の介入の余地は無かった。チューニビョンの経過確認すら憚れ、ワタクシは積まれた案件を粛々こなす日々である。出張も入る。それにしても第六感が敏感になり過ぎて困る。

「おっ。仕事進んでるねえ」
「視え過ぎてめっちゃ疲れます。リンキーさん、ワタクシに何か一服盛ったんじゃないスか」
「さあねえ」
 非常に不安になり保険管理センターに駆け込んだが、診断結果は異常無しであった。


 大家と岩野田は茨木の意思を尊重し、これまでの江口への評価を一掃している。
 茨木の一目惚れが氷川商の合格発表時と聞き「入学前ならば仕方あるまい」「本能ならば抗えまい」と納得、今後の協力を願い出たのである。

「でも江口は岩野田を」(女子常識の建前問答)
「違うよ。私はオカンカテだよ」(江口の意向一方通行)
「岩野田には素敵彼氏がいるよ」(現時点での共通認識)
 微調整を経て、今後のプランも成立した。

 二回戦の対戦相手は強豪であった。
 留守番組も一縷の望みを抱いて待機していたが、午後過ぎに惜敗の一報。選手達の帰校が明後日と決まり、落胆の中、急ぎ慰労会の準備に入った。

 大家は会場予定の議会室と備品予約に職員室へ、岩野田と茨木は保護者代表に指示を仰ぎ、買い出しリストやOBへの連絡準備に走る。級友達とのパーティとはまた違う、パブリック会食の支度である。

 明後日が例の七月三十一日なのは何の因果か。

「弟から聞いたよ。中学もこの日が全道決勝でしょ。岩野田は氷川中の応援に行かないと」
 調理室で什器を数えながら、茨木にも促される。
「無理だよ。だって慰労会の日だよ」
「岩野田は誕生日だから、バースデイ休暇が取れる筈だよ。労働者の権利は守れって先輩達も言ってたじゃん」
 商業高校らしい素晴らしい伝達である。

「でも一年マネが休むなんて」
「午前の設営準備までいれば大丈夫。後は私達で手は足りるし、岩野田も観戦には間に合うよ」
「でも」
「岩野田が休暇を取らないと、他の一年も取れないんだよ」
 大正論であった。

「それに最近の岩野田は寂しそうに見えるよ。河合君とちゃんと会えてる?」
 癒し系の茨木に優しく聞かれたら、心情を溢したくなるのも致し方なかろう。

 だが全容を聞いた茨木は苦笑し、岩野田を労わった。
「八つ当たりされて大変だったね。でも『好き過ぎる』だなんてめっちゃ惚気だね」
 目が覚めるような慮りである。

「河合君は責任が重いから、色々抱えて大変だろうね。話を聞く度にうちの弟と同級なのに全然違うって感じるもの。でも岩野田にあたるのは困るね」
「うん、コドモだよね」
 少しホッとしたら軽口も出る。肩の力も抜けてくる。

「河合君も今頃きっと気まずいと思うよ。やっぱり岩野田は決勝に行かなくちゃ。早く仲直りしな」
 茨木は岩野田の背中を押す。

「話はそこの角から全て聞かせてもらった。岩野田は観戦すべきだよ!」
 いつの間にか戻った出歯亀・大家にも大いに承認され、岩野田の心は千千に乱れる。



 揺れる岩野田を更に揺さぶる着信音が鳴ったのはその日の夜、発信者は江口であった。

「負けちゃった。ゴメンな」
 明るく振舞おうとしているけれど、声のトーンがいつになく重い。
「江口、今どこ?」
「宿舎のランドリーコーナー。オレ、ちゃんと自分で洗濯してたんだよ」
「よしよし、お利口でした」
「良かった。おかあさんに誉められた」
 お互い少し笑った後、江口はまた「ゴメン」と言った。

「江口が謝ることなんて何もないよ。活躍してたって聞いたよ。お疲れ様でした」
「でも最後、止められなかった」
 試合後半のカット失敗を悔いている。今は何を言っても慰めにはならないのであろう。岩野田は端末を握りなおす。

「あのさ岩野田さん」
「ん」
「ダメ元でさ、マジに河合に頼んでよ。二年後に氷川商に来てくれって。出来たら大澤も」
 江口からそんな話を聞くなんて、思ってもみなかった。

「オレ、アイツらの凄さがよくわかった。今までも理解してるつもりだったけど、自分が全国で試合して初めて実力差がわかった。オレ等、何もかも全然足りなかったさ」
 江口は今どんな気持ちで言っているのだろう。

「でもアイツ等は有名校からの推薦めっちゃ来てるだろ。ウチなんか眼中にないのも分かってる」
 江口だって努力していた。岩野田はよく知っている。
「わかった」
 真摯な声に、出来ないとは言えない。
「河合君に必ず伝えるね。またガンバろうね。早く帰っておいで。みんな待ってるよ」


「見守りすんだかな。お疲れの所悪いけどちょっといいかい」
 帰社したワタクシに遠慮がちに声掛けしたのはケンジさんである。

「茨木の指示書、三課に来たかな」
「江口への片恋ですか。本日到着分には無かったです。三課案件はもう因縁しか無くて」
 ケンジさんは唸った。
「噂は本当なんだ。じゃあ本来の初恋案件は何処が担ってるの」
「リンキーさん曰く、なすがままの自己責任展開へのシフトが始まっているそうです。妖精不足だから放置も仕方ないんじゃないかって」
「そんな乱暴な。情操教育ないがしろじゃないか。上はどうしたいんだ」
「ワタクシも激しく同意します。めっちゃ不安です」
「だよね。じゃあ同意ついでに末日の打ち合わせしようか。嫌な流れだなあ」

 ブツブツ言いながらもお仕事モードに入る。明後日中に河合と岩野田を終わらせ、続けて江口兄弟と岩野田の関係に移行しなければならない。ここに茨木の片恋も入るので、結構な激務になりそうである。

「ケンジさん、ワタクシ、一日で終わる気がしません」
「奇遇だね。僕もだよ。真田さんにヘルプを頼もうかなあ」
 ワタクシの掴んだビジョンとケンジさんの意向を照らし合わせた上で調整に入る。ケンジさんがスガワラ、マンガン社に式神を飛ばし、ワタクシは全母連の北支部に助力申請に出向いた。

 氷川中の決勝進出は至極当然であった。対戦相手は伸び盛りの太田率いる南中、予想通りであった。



 真田さんに助手の快諾をいただき、河合のチューニビョン残量も微量と判った。
 ワタクシは身の引き締まる思いである。始める時は勢いで突っ走れるが、片付け時はひたすら気力と労力。後は野となれ山となれ。安心立命でコトにあたる。

 マイ管狐の便りは未だ無かった。本日がタイムリミットなので、ひたすら辛抱であった。


「みかこおはよう。お誕生日おめでとう」
 岩野田の十六歳は母の起こす声で始まった。父は愛娘リクエストのスニーカーとベリータルトの夕方着を約束し、登校した部室では、大家と茨木がジュエルクラッカーで祝福する。

 二人からのプレゼントはお高め人気ブランドのキラキラボトル、可愛い水色ネイルである。
「ちゃんと岩野田の欲しがってたカラーでしょ」
「夏休みに塗るといいよ」
「嬉しい、二人ともありがとう!」
 三人揃って楽しい気分で慰労会の会場設営をこなす。
(よし、今日はみんなの気持ちを無駄にしないぞ!)
 そうだよそうだ。十六歳のスタートダッシュ、とくと見せていただこう。


 市民公園内にある総合体育館では、河合達が決勝前の調整真っ最中である。ここまで全戦快勝。対する南中は街中あげての応援団。強すぎる氷川中はヒール役であった。

 だが氷川中にとって、妬みなぞ痛くも痒くもない。全国制覇を目指す意識は既に遥か彼方を向いている。
「太田は要注意だけどな」
「全試合いい動きしてたしな」
 睨む大澤の目は鋭く、円陣の中心でハンドサインの確認をする河合は首長の貫禄である。

 外は快晴であった。北国の本格的な夏が館内冷房を跳ね飛ばす。集う生徒達の生命力の強さに似ている。ワタクシ達も汗だくであった。
「真田さんは今どこだって?」
「佐藤に憑いてこちらに向かっているそうです」
「そうか。今日は分刻みだけど皆で踏ん張ろうね」
 言いながらもケンジさんは確認作業で走り回り、ワタクシも河合の最終調整を試みた。
 スガワラの結界故に動けなかった昨今。なけなしのチューニビョンに掛けるべく、隙を見て結界のほころびを作る。


 河合は心の枷を払いたい。本日が目標達成へのひと区切り、佳境も重々承知である。無人の更衣室で河合は端末に触れる。校外活動中も所持は禁止の筈が、本日は偶然にも鞄のポケットに入っていた。ワタクシの采配ではあるが、表向きにはあくまでも偶然である。

 指がスライドする。頭の中で何度も打っていた文字が並ぶ。
 『岩野田さん、今更だけど、あの時はごめん。ずっと謝りたかったけど、言えなくてごめん』
 誰も入ってこないのを確認しながら、続けて打つ。
『今日、これから決勝です。終わったら、どこかで会えるかな』
 もう遅いかもしれないと覚悟をしながらも、
『出来たら話がしたいです。それから、お誕生日おめでとう』
 送信した後ロック、鞄の奥に隠す。ポーカーフェイスで会場に戻る。


 岩野田の端末が受信したのは地下鉄の公園駅改札前なのだが、残念ながら気付かずじまいであった。外気の熱風が地下鉄構内の湿度と絡み、更に人いきれが音を消したのである。
(ヤバいな。チューニビョンはもう切れてるわ)
 ここでアポを成立させたかった。江口兄弟との案件は氷川商慰労会後に発動予定である。

 更に終了書の効能も容赦が無い。岩野田に立ちはだかるは、応援に向かう氷川中の女子生徒達である。
 河合達のファンであろうか、岩野田を見かけるや否や、すれ違いざまに意地悪を飛ばす。

「あ、アイツ河合の」
「ええ、あの制服って氷川商?」
「マジか。河合の彼女ならもっと賢いとこ行けよ」
 なんたるお行儀の悪さ。ワタクシは苛立ちを覚えた。

(あのディスりって私の事かな)
 案の定、岩野田も突然の噛ませ犬の登場に面食らう。
(そうか、周りから見るとそう見えるのか)
 一瞬へこんだが、時間が押していたので見ないフリで通り過ぎる。

「は。ムシだし」
「だってオバサンだし」
「しかも氷川商だし」
 おいちょっと待て。オバサンとは何だ。「しかも氷川商」とはどういう了見だ。進学校だけが優秀と誰が決めた。許すまじ。言っていい事と悪い事があるぞ。

 ワタクシは女学生達の側面観を速攻で受信、管理センターに式神を飛ばした。彼女達には今後三年『ハズレコスメを選んでしまう呪い』を授けようではないか。良くない所業で妖精さんを怒らせると後が怖いのである。皆さんもよく覚えておくように。

 けなげな岩野田は無視を決め込む。調子に乗ったモヴ女子が更に罵ろうとした矢先、そこに素晴らしい助け舟が入った。

「みかこちゃん、会えてよかった!」
 ガチの美少女・佐藤ミヤコの登場である。華やかオーラに周囲の不快指数が一気に低下したのは壮観であった。

「わっ綺麗すぎる」
「可愛すぎる」
「勝てなさすぎる」
 一般モヴ女子の目が眩む。更に続けて
「岩野田さんこんにちは、合同練習会以来ですね」
 佐藤弟のリクも現れた。春先よりまた背が伸び、いい塩梅にキュートイケメンに成長を続けている。

 王子様は燦然と輝く笑顔でレモンミストに似た清涼感をまき散らした。
「うっそ」
「やばくね」
「最高姉弟かよ」
 文句のつけようのない魅力を目の当たりにし、件の女子生徒は紅潮し硬直した。
 佇まいを整えお淑やかにならざるを得ない魔法。誰もが本能に忠実になるであろう。

「カワイさんお疲れ様。今日のモヴはタチが良くないわ。終了書のせいね、きっと」
 姉弟の背後には、真田さんがデカいバズーカを所持して不敵に笑っている。

「こんなこともあろうかと、今日は佐藤姉弟に後光バリアを足しておいたの」
「あ、ありがとうございます!」
「普段の佐藤姉弟には要らないんだけどね。岩野田にも必要なさそうだけど、今日は特別な日だったわね。ハッピーバースデー」

 真田さんはバズーカを構えると、岩野田に向かいラメ入り弾丸を発射した。
 ぴちぴちの十六歳はいつも以上にピカピカになった。



 試合直前の会場の熱気は益々高まる。本日もマンガン社が全母連とタッグを組み増員体制で待機、決勝に相応しいエネルギー調整に徹している。

 南中の太田は街中応援も納得の体躯である。マンガン社のバックアップも非常に手厚く、将来性は一目瞭然。コートに立つ姿は会場の注目を浴び、氷川中のヒール度は加速の一途であった。
「上等じゃん。やったろうじゃんよ」
「くれぐれも怪我とファウルには気をつけろ」
 大澤と河合の物騒な会話である。試合開始のホイッスルが響いた。


 岩野田は会場入りしてからもずっと、コートに目が落とせない。
「みかこちゃん目が泳いでるよ」
「だって怖いです」
 ずっと河合と接する機会もなかったせいで、引っ込み思案がぶり返したのだ。

「そっか。でも確かにそうだよね。私も毎回怖いもの」
「嘘。ミヤコさんが?」
「いつも緊張しちゃうよ。今日はみかこちゃんと一緒で本当に良かった」
 途端に佐藤弟が笑う。
「姉ちゃんめっちゃ怖がりなんだよ。毎回隅っこ観戦だからリュウジが何処に居るか判らないって嘆いてた。今日はもっと前で観ようぜ」
 観客席二階の中央に引っ張られ、三人で並んで座る。見通しのよい席であった。

「マサキはベンチスタートか。体調も良いって聞いたから温存だね」
 言われてようやく岩野田もコートを見た。手前のベンチには四番を背負った河合の背中が見える。観客の拍手と歓声が、気温や熱気に紛れて溶ける。

(私、河合君の公式試合を観るの初めてだ)
 去年も今年も、部活の練習風景を眺めていただけだったから。
(一年からレギュラーだったよね)
 ふいに茨木が「河合君は色々抱えているだろうね」と言っていたのを思い出した。
(そうだよね。普通に大変だよね)
 全道決勝、氷川中対南中。自分はもう高校生になって、しかも自分の所属する部はインターハイに行ったのに。どうしてこんなに落ち着かないんだろう。春先の日差しで光る雪を思い出す。

 そうだ春先。初めて一緒に出掛けた動物園。胸の鼓動が煩かった。受験前に借りた合格ジンクスのあるリストバンド。ネームと当時の背番号八の刺繍が入っていた。返そうとしたら、
「よかったら、持ってて」
 岩野田の左手に付けながら、
「オレ、次は四番貰うから」
 お互いの耳が真っ赤だったのは、決して寒かったからじゃない。

 そして有言実行。今年の河合のリストバンドは四番の刺繍入り。岩野田は思う。
 もしも。もしも今のリストバンドを、今度は他の女の子が貰っても。
 今日の、今の気持ちは、忘れない様に覚えておこう。身体中がばくばく煩くて、首筋の手首の、手足の指先の細い血管までもが、どんどん勝手に騒いで震える時間。今まで思考は頭でするものだと思っていた。けれど本当は胸の奥、心臓のもっと深い所で、無意識になにかと会話する。

(知らなかった。私はお喋りが好きだ)
 黙っているのに心がお喋りだ。ドキドキだとかザワザワだとかで、全身騒がしくて仕方ない。
(あ、タオル忘れた)
 預かっている河合のタオルを、部屋に置いたままだった。



 岩野田を見守るワタクシの背中を突いたのは、黒いがま口鞄を斜め掛けしたリンキーであった。

「どうしたんですかその恰好。昭和の集金みたいですよ」
「借金回収してんの。カワイさん、スガワラ古狸を見なかった?」
「借金ってなんスか。あっ、まさかリンキーさん副業」
「アタシは正社員じゃないからサイドビジネスオッケーでえす。だから古狸どこ」
 リンキーがプライベートでスガワラに強い理由はこれか。薄々察してはいたが。

「現場ではもう全然見ませんよ。てか最近のスガワラ社員、超横暴なんですよ」
「ふん横暴か。させるかよ」
 リンキーの顔がみるみる鬼になった。怖い。めっちゃ怖い。
「まずは期限厳守させようか。あっ、社員いたっ。アタシちょっと聞いてくる!」

 がま口鞄の中身をガシャガシャいわせながら、リンキーは颯のように去って行った。トイチどころかトサンでも済まない高利貸しではあるまいか。
(まさか……トゴ?)
 ワタクシは身震いする。瞬間、ワタクシの肩に何かが当たった。
 見れば待ちわびていたマイ管狐ではないか。やっと帰ってきた!

「何さオマエ、今着いたのかい?」
 管狐は尻尾を震わせキューキュー鳴いた。
「おかえり、よく戻ったね。待っていたんだよ」
 管狐は疲労困憊であった。ゼエゼエと息をし、毛並はボロボロである。ワタクシは管狐をハンカチに包み丁寧に背中を撫で、携帯用フードと飲み水を与える。

 だが息ついた管狐からの情報はワタクシを震撼させた。巨大なブーメランがワタクシを襲ったのである。




 玄関ホールでは妖精さんの人だかり(語弊)でフェアリーリング(語弊)が出来ていた。輪の中心に対峙するはリンキーとスガワラ古狸である。

「待ってください待ってください」
「もう待てぬ。耳を揃えて返してもらおう」
「待ってください、蹴球関連が通ったらきっと」
「そもそもその蹴球の元が貸付のキッカケだったな」
 リンキーの形相は鬼そのものだ。古狸に至っては尻尾がはみ出す始末である。

 季節外れの寒気がホールを襲う。
「ひいー白魔!」
 敏感な人間でなくとも感知してしまうであろう凄まじい霊気であった。真夏にも関わらずイタチ型の風雪が我らをも狙う。物見遊山の妖精達も身の危険を感じ、ジリジリと後退しつつあった。

 リンキーは尚も古狸に迫る。
「何なら身体で返してもらっても構わんよ」
「ひいい」
「我がしもべとして永遠に従うがよい。いや、だがスガワラ社員は既に我が手中だったな」
「えっ、」
「ふん古狸。既に詳細は御存じか」
「それは……まさか」

 群衆に居たスガワラ社員達の顔色も変わり、他社の妖精達は困惑した。
 途端に館内にいる全妖精の携帯端末が一斉に鳴り響き、当社員には式神がバラバラと舞い降りた。

「ちょっとなんだよ全員こんな所に集まって。仕事そっちのけじゃないか。今日の試合は展開が早いんだ。みんな持ち場に戻って!」

 競技進行に携わるケンジさんもホールに怒鳴り込んで来た。だがいち早く式神の封書を確認した真田さんが耳打ちし、ケンジさんですら茫然と立ち尽くしたのであった。




「事業……買収?」
「経営統合?」

 出来れば有利な立場で関わりたいビジネス用語である。プレス発表で現実を知る我等末端社員である。
 ケンジさんがいち早く我に返り「みんな早く持ち場に!」と怒鳴ったが、誰も動ける状態ではなかった。

「買収って何ですか!」
「噂は本当だったんだ!」

 上記の台詞はスガワラ社員ズである。
「そうなのよお。会長自ら会社をたたみたいって言うからあ。弊社が買い取ったのお」
 リンキーの声が響く。
「スガワラコーポレーションはフェアリー・スキル・ジャパンに事業買収される運びとなりましたあ」
 全員に激震が走った。

「フェアリー・スキル・ジャパンって表向きは派遣会社だけど、母体が色々黒いんだったよね」
「しっ。それ以上口に出すなっ。誰が聞いてるかわからないぞっ」
 スガワラ社員ズがボソボソと囁き合っている。フェアリー・スキル・ジャパンって一体ナニ。

「弊社も成果主義上等だからねっ。スガワラさんとの交渉も円満よっ」
 所でリンキーの立場って一体ナニ。
「アタシは只の雇われ社員でえす」
 だからその肩書きってナニ。おいコラ無視すんな。

「現在進行中のプロジェクトにも変更が出まあす。デカい案件はそのまま継続ですがコマイ仕事は現場の判断になりまあす」
 当然社員達から質問が相次いだ。
「デカい案件ってどこまでですかー」
「判断基準は何ですかー」
「この現場は継続でえす。個々の担当案件は各自が超法規的措置で乗り切ってくださあい」
 回答が雑であった。

「満願成就ホールディングスさん方にも直に詳細入りまあす」
「満願……成就……」
「ホールディングス?」
 唐突な経営統合に困惑する両社員ズ。瞬間またもやマンガン各社員の端末が鳴り響き、弊社社員には式神が届いた。

「どういう事ですか」
「何が起きてるんですか」
「母体が愛系列なら実質は合併じゃないですかっ」
 マンガン社員ズが端末を握りしめ事の成り行きを詰問していた。
「案件の殆どが因縁めいてますよ。本当に超法規的措置でいいんですか?」
 当社員も錯乱の極みであった。ワタクシも頭が真っ白である。

「思い出しちゃった。以前もこういうコトあったわ」 
 式神を飛ばし終えた真田さんが暗い顔をして呟いた。
「試される大地開拓の時分に合併が相次いだ話、前にしたでしょ。あの時も酷かったのよ」
 そうであった。スガワラとの確執と共に伺ったのを思い出した。
「最近のウチの指示書のアバウトさはこの展開を見越していたのね」
「あの、では例えば河合や岩野田あたりの案件なんて」
「超法規的措置でいいんでしょうね」

 だが我々の不安が鎮まる気配はない。今度は寄ってたかってヒソヒソ話である。
「愛とエネルギーの融合企業?」
「表向きは老舗を立てて経営統合で押し切るってさ」
「それでマンガン社の名前が先に来るんだ。社名も昔の漢字表示に戻したんだ」
「会長はマンガン社からだって。その代わり社長は成就からなんだって」
「規模的には業界トップスリーに入るよ。元々両社は古い妖精集合体から分かれて始まった会社だったんだし」
「仕方ないのかなあ。諸外国のエネルギー系列は強いからなあ」

「いい加減に持ち場に戻れっ。氷川中の全国制覇は重要案件だ。今後の査定に響くんだぞ!」

 再びケンジさんの声が響き、実のある言葉に誰もが我にかえった。どのような形であれ、システム変更に伴うは人員ならぬ妖精整理である。
 リストラの瀬戸際を察し、各々が散り散りと現場に急ぐ。会場の歓声が響いている。試合は今現在も動いている。


 妖精けの去ったホールに試合展開の流れが漏れ伝わる中、リンキーは古狸を締め上げ続け、とうとう尻尾を取り上げてしまっていた。

「その身は未来永劫アタシ預かりだ。貴様は取り急ぎ蹴球プロジェクトに戻るがいい。今後の予定はおって連絡しよう。くれぐれも変な気は起こさぬ様」

 尻尾を取られた古狸はしおしおと現場に戻った。刈られた尻尾はそのままリンキーのがま口鞄にキーホルダーの如くぶら下げられ、ますますリンキーの昭和ヤンキー風味が増した。

 その姿は全ての妖精さんを震撼させるであろう。ワタクシもガクブルである。
「ふ、古狸ってナニしたんスか」
「八百年位前かなあ。アイツ紀州特派員時代に大ポカやらかして忌地が焦げ付いたのよ。その時にアタシが納めてやったの。でも始末の悪いヤツは何やってもダメだね。取り立ても焦げ付いて、その最終返済が先月末。更に一か月待ってやったのに、あのクソタヌキが」

「紀州の忌地?」
 ワタクシの脳裏に浮かぶは江口弟であった。
「古狸、江口弟の前世に借りがあるんですか」
「おっ、視えたか」
「閻魔帳閲覧した際に視ました。江口弟、蹴鞠の名手だったんですよね」
「そう、古狸の蹴球いっちょ噛みは江口弟の今世応援の為らしいね。でもアイツ実働下手。ヨソサマの手柄横取りは天下一品なんだけどねえ」

 妖精さんのお仕事はヒトの人生に寄り添い見守り助けるコトである。確かに間際のやっつけ感は如何なものか。
「だけど借りは借り。今世は最後までキチンと面倒見てもらうわよ。江口弟にはドシドシ成功していただきます。この古狸の尻尾にかけてね」
 リンキーが言い切るのならそうなのであろう。だがしかし。

(待って。ならば江口兄弟と岩野田の案件はどうなるの?)
 ケンジさんの采配では本日の放課後に執行予定である。リンキーの名が掛かった時点で既にこちらが重要案件扱いなのでは。
(待って待って待って。間違いなく河合と岩野田の件は吹っ飛ばされるんじゃない?)
 やばいドキがムネムネしてきた。どうすればいい? 早い者勝ちで動けばいい?

 イエス、やったもん勝ちであろう。武者震いがする。ワタクシの矜持に掛けて、まずは帰還した管狐からの情報を生かさねば。
 経営統合しようがリストラされようが、今のワタクシは未だ、『可愛い初恋』の妖精さんなのである。

「リンキーさん、個々のコマイ案件は超法規的措置でオッケーと仰いましたね」
「おう、二言はせんよ」
 ワタクシはリンキーの首根っこをつかんだ。
「ひっ、何すんだ!」
「ではお腰につけた半貴石」
「あ?」
「ひとつワタクシにくださいな」
「ああ?」
「超法規的措置、取らせていただきます。リンキーさんって弊社には派遣でいらしてるんですよね。今はまだワタクシの部下ですものね。ひとつワタクシにくださいな」
「チョ、待てよ、貴様価値分かってんのか」

 リンキーは慌ててがま口鞄を胸に抱えた。が、ワタクシも一切の容赦はしなかった。
「今は貴様呼ばわりされる筋合いございません。さあいい子ねーおとなしくしてねー直ぐ済むからねー」
「ギャーヤメロー」
 ジタバタ暴れた。
「はい動いちゃダメよー後でアイス買ってあげるからねー。黄玉石(トパーズ)、持ってるんでしょ。発色が薄い水色のヤツ。それ出して」
「児童虐待ー誰か通報してー」
「時間が無いから早く出してっ。グズグズしないっ。あっ、やっぱり持ってた。管狐がいくら探しても見つからない筈だわ」

 ワタクシはリンキーにコインを渡した。
「じゃ、コレいただくわ。はいお代。正門の東角にコンビニがございましたよ。どうぞいってらっしゃいませ」

 探していた半貴石。リンキー所蔵と聞いた時には硬直したが、今は気にしてはいけない。大きな変化と書いて大変と読むのだ。この時期は雑な仕事ほどまかり通るのである。


 騒動の中、唯一持ち場を離れなかった奇特な妖精さんがいた事をお伝えせねばならない。南中の太田に憑くマンガン社の妖精さんである。彼が見守る太田率いる南中の粘りは特筆すべき物があった。

 大澤は彼によって早々にファウルを取られた。が、それを機に大澤が覚醒、温存の河合も投入され、氷川中の猛攻撃が始まった。結果は推して知るべしとなったが、序盤から氷川中を本気にさせた太田のプレイは、満場一致で今大会の最優秀選手賞となった。

 妖精側の混乱のさなかでも予定通りの展開となったのは、ひとえに氷川中部員の生命力と運の強さ、何より全母連のフォローが盤石だったからである。ワタクシ達は今後も全母連の皆様には頭が上がらないであろう。

「どうすんだ。またお詫び行脚だよ」
 ケンジさんのボヤきは現場を如実に語っている。他の妖精さん達も各自任務で走り回る。次の工程は氷川中全国制覇。ワタクシ達には息つく間など無いのであった。

 観客席では佐藤ミヤコと岩野田がくたくたになっている。
「なんでそんなに脱力してるの」
 佐藤リクに笑われても仕方ない。
「最初から勝つのなんてわかってるだろ。氷川中は別格だし、そもそもマサキとリュウジが、って、ねえ、今度は何故泣くの」
「だって」「だって」
 涙腺が緩むのも仕方ない。彼氏の素敵な活躍を間近で見て落ちぬオナゴなど皆無である。

 優勝を決めた氷川中にも、緊張が緩んだ笑顔があった。試合終了の挨拶後には活躍の太田に敬意を表し、肩を抱き談笑する姿も見える。
「ほら、地方版の取材と写真撮影だよ。見に行こうぜ」
 コート中央に氷川中メンバーが集結する。リクに促され、岩野田もそろそろと観客席の前に行く。

 大澤はいち早く佐藤姉弟に気付き、右手を上げて合図を送った。河合も岩野田を見た。揃って込み上げる気持ち。どうして胸が一杯になるんだろう。

(やっべえ。岩野田さん、やっぱめっちゃ可愛い)(めっちゃ可愛いべさ)
 河合の初恋盲目ぶりは真田さんのキラキラバズーカの効能だけではなかろう。
(今の試合、全部見てた?)
 河合の懐っこい目元に岩野田が痺れてしまうのも致し方ない。心の中で(うん)と呟く奥ゆかしさを、ワタクシは盛大に推してゆきたいのである。


 推さねばならぬワタクシは焦って半貴石の加工に入っている。半紙に呪文を描きその上に石を乗せ、せっせと文言を言い聞かす。
(間に合えよ、間に合えよ)
 加工前の石は徐々に水色の輝きを増す。透明度が最高潮に達した時を見計らい、細かい粒に粉砕する。

「ちょ、それっ、どうすんだっ」
 いつの間にか背後には両手にアイスを持ったリンキーが立ちすくんでいるではないか。
「見ての通りです。この石のいわくは御存知なんでしょう。これから河合に返すんですよ」
「そんな高価なモノをっ、勿体ないっ」
「お手に持つ両のアイスはどちらも高価な部類の新商品じゃないですか。この石の相場も今世ではそのお値段程度が妥当では?」

 ワタクシとて買取を想定しリサーチを済ましていたのだ。ほんの親指先の大きさの石、発色も特筆すべきモノはない。リンキーのチッと舌打ちする音が聞こえた。


 石にはロマンスがあった。古狸が江口兄弟の前世に関わった時代より、もう少し遡った都の話である。

 大きな国家事業に関わる都の若い役人が、材木確保に遁走していた。頼りにしていた山の伐採が進み、もう禿山に近いという。
 命を受け確認に出向くと、麓の村には新たな情報があった。採りつくされた山林の下から、美石の地層が見えたという。早速役人は現場に急ぐ。そこで薄い水色の、小さな小さな石を拾う。

「この石を分けてくれないか」
「お役人さま、もっと綺麗な石もございますよ。特に黄色が美しいですが」
「いや、私はこれがいいんだ」
 磨けばさぞ美しかろう。役人は銭を握らせる。言い寄りたい娘がいる。その娘は青い花を愛でるのが好きだと聞いた。花の季節は過ぎてしまったが、この石も喜んでくれるのではないだろうか。

 森を失った山は地盤が弱くなっていた。その日の午後、役人を含んだ集団が土砂崩れに巻き込まれたのは、先週までの長雨が原因だったという。昔々の話である。


「河合の喘息はこの前世の窒息が大本ですね。その世と……他の世でも何らかありましたね。因縁って積み重なって出来るんですね。いちいち勉強になります」
 リンキーの沈黙は肯定であろう。
「さあ準備完了です。これから河合に返します」
 ワタクシの手元には、半貴石を溶かし込んだ薄い水色のあやかし水が出来ている。
「あの時の娘が岩野田なんでしょ。今世、思うがままに歩むがいいわ。成就しますように」
 ワタクシはそれを霧散する。森の息吹に戻るが良い。



 エントランスには帰途に着く両校生徒や父兄、役員関係者でごった返し、ほの寂しい賑やかさがあった。

「な、オレ、ちゃんと堪える様になっただろ?」
「うん、今日は短気じゃなくて良かった」
 大澤はリクに突っ込まれて笑っていた。佐藤ミヤコは二人のやりとりを嬉しそうに眺めている。ケンジさんと真田さんの警備により、大澤と佐藤姉弟の繋がりが一層の親族みを増す。未来を確定させる美しいオーラであった。

 河合は岩野田にゆっくり近付く。岩野田も河合を凝視する。名前を呼び損ねる。緊張で声が掠れたから。
「メッセージ、見た?」
「え、あ、まだ」
 岩野田は慌てて鞄の中から端末を取り出した。二人の間の余所余所しさは、周囲の雑音でみるみる溶ける。

 さて、ロマンティックになるかな。チューニビョンの効能が切れた今、ワタクシはあやかし水の効能に期待する。二人に反射する水色の黄玉石の光。メッセージを読む岩野田の目が薄っすら滲む。


 しかし古今東西、いつでも正確に怒りを蒸し返せる生き物がオンナなのであった。岩野田も例外ではないのであった。発する言葉に含む棘を見よ。

「河合君」
「はい」
「でも私、まだ怒ってるよ」
 河合は硬直し、瞬時に(ヤバい)と察した。先程まで二人を覆う膜とは別の硬直感があっという間に。なんということでしょう。

(そ、そうだよな、岩野田さん、怒ってるよな)
 エース的気配はカケラもない、ただの中二ボウズに成り下がる河合。
「勝手に八つ当たりされて、勝手に放っておかれて」
「あ、あ、はい」
「河合君は私に許しを請う立場だよね」
「あ、は、はい」
 肯定以外の単語を発してはならぬ。小声で「なんなりどうぞ」と呟く河合の真正面に、岩野田はキリリと立つ。

「じゃあ河合君には、二年後に氷川商に入学してもらいます」
 怒った声で、まだ大きな棘の残った声で、氷川商マネは全力で勧誘した。将来は営業職に採用決定の迫力であった。




「氷川商に?」
「そう、氷川商に」
 何を言われるかと思ったら。だが岩野田マネの目は鋭い。

「河合君や大澤君の有名校推薦の噂は知ってる。でも出来たら氷川商も選択肢にいれてほしい」
「それって岩野田さんの希望かな」
「江口に頼まれてるの。二人を勧誘してほしいって」
 立場を忘れて不愉快になる河合。だが岩野田マネは気にしない。

「江口、今回のインターハイで河合君達の凄さや大変さが身に染みたって話してたの。強くなる為にもっと積み重ねないといけない、二年後には河合君達にも来てもらいたいって」
 大澤君には留学の噂もあったな、と、頭の片隅で思い出しながら。

「勿論、二人が氷川商には勿体ない選手だってのも、私達はわかってるけど」
 鼻の奥がツンと痛い。
「それでもね、もしも機会があったら、河合君と一緒にインターハイ目指せたら、いいなって思う」
 青臭い話。
「一緒の学校で頑張れたら」
 真っ直ぐ過ぎる言葉。
「河合君とまた一緒の学校になれたら、私は凄く嬉しいよ」
 私は凄く嬉しいよ。

 河合は岩野田の真摯な目に気圧された。鼓動を通じて体温が上がる。
「選手として?」
「うん。出来たら大澤君も」
「それだけ?」
「まずはそこから」
 まだ許した訳ではないそうだ。思った以上に岩野田は骨のあるお嬢さんである。上等なエスみにうっかりニヤけてしまうのは惚れた弱みか。否。河合がエム坊なのである。吹き出して、岩野田の口元に目が落ちる。

「地元校からこういう勧誘されるとは思わなかった」
 江口の名前を聞く度にイラッとするのもお約束。あのヒト、無邪気の特別天然記念物だもんな。

「進路なんて全然まだ考えられないけど、勿論氷川商も視野に入れてるよ。氷川商はいい学校だし、母の母校でもあるし」
 しかもエロ先輩、卒業まで岩野田さんの側にいるよな。
「生まれ育った地元で頑張りたいし」
 油断ならねえな。無意識に右手が岩野田に伸びる。
「今は即答出来ないけど、これから本気で考える。だからコレ」
 指先が岩野田の水色のボウタイの先に触れる。
「オレが貰うよ。前にエロ先輩から聞いて、ずっと欲しいと思ってた」
 先を引っ張って、蝶々の部分をスルリと解く。
「定義ではオレのモンだ」

 驚いた岩野田が胸元を抑えて、結び目がもっと緩くなった。すかさず河合が引っ張り直す。細いリボンが綺麗に解ける。見かけた大澤が「おいおいおーい、まだ外は明るいぞ」と盛大に囃し、佐藤姉弟にも「きゃー」「ひゃー」と茶化されて、岩野田は誰よりも真っ赤になった。河合も「うっせ。こっち見んな」と短く返したが、やはり耳が真っ赤であった。

 彼女の水色のボウタイを彼氏が貰うのは、氷川商のローカルルールなのである。周囲の冷やかしを余所に、河合は岩野田に耳打ちもする。
「今年のリストバンドもちゃんと、岩野田さんに渡すから」
 今も昔も、氷川中バスケ部のリストバンドは、彼女の証なのであった。


(まあっ、何かしら、何かしらっ?)
 こんな美味しい現場を村松早苗が見逃す筈はなかった。

 今朝は一番乗りで会場入り。ウォームアップから大活躍の試合、表彰式も地方紙取材もハンディカムで全録画、「実家のお義姉さんきっと喜ぶわあ」とウキウキして帰ろうとした矢先。
(何なの、あのマサキの雄みはっ)
 エントランスの端っこ。可愛い可愛い甥っ子が清楚な彼女に壁ドンしているではありませんか。

(ああいうのって一歩間違うとセクハラじゃない。岩野田さん引いてない?)
 地域の大人として心配する早苗叔母。最近の河合を取り巻く少女達にウンザリだったのも幸いし、彼女の中では岩野田株は爆上がり中なのである。

(甥っ子のこんな姿をお義姉さんが見たら何て思うかしら?)
 想像に硬くない。きっと母親は複雑な気分。秘すればこその恋の花。
(そうよね、ここはやはり叔母の私が全てこの目に焼き付けておくわ!)
 だが運悪く、目の前を南中の団体が通り過ぎて視界を遮る。
(なんの!)
 早苗叔母は抵抗する。
(安心してねマサキ。貴方の青春は叔母さんが全部覚えとくから!)

 忘れてあげるのも思いやりですよ。かくも外野とは煩いモノである。河合も岩野田も、早くおうちに帰るが宜しい。


 彼等の帰宅ルートを促していると、
「恐れ入ります、今お取込み中でしょうか」
 ワタクシに声を掛ける妖精さんが居た。どこかでお会いしたような。
「あ、アナタは」
「春先に一度ご挨拶させていただいておりました。岩野田の初恋成就、誠におめでとうございます!」
 岩野田の義務教育担当だったスガワラ社員さんであった。我が事のように涙ぐんでいらっしゃる。

「もう担当から外れておりますし、そっと見守って帰ろうかと思っていたのですが、彼女の笑顔を見ていたら嬉しくて堪らなくなって。岩野田、よかった、本当によかった……」
「わざわざありがとうございます、そうなんです、やっと岩野田にも、幸せが……」
 言い終わらぬ間にワタクシの目からも汗が。思わずふた妖精で肩を寄せ合いむせび泣いたのであった。

「スガワラさん、今日はこちらでお仕事だったのですか?」
「僕、あの後転職しておりまして、現在はマンガン北支店におります」
「え」
「黄金週間の頃にカフェでご一緒した当社員は覚えておいででしょうか。岩野田のお母さんの入院直後です」
 佐藤ミヤコとのカフェデートでご一緒した医療・金融保険担当の皆さんの事であろうか。
「彼等も転職組で、保険金融機関担当のヤツは僕のスガワラ時代の同期なんです。彼には岩野田家の医療費負担軽減をお願いしておきました」
 岩野田家の家計問題まで気に掛けていらしたのであった。

 同時にワタクシの横を、大きな白ヘビさんが龍の如く走り去った。気づけばワタクシの掌中にはキラキラ光る脱皮の皮が一片。
(動物園の白ヘビ……どうして此処に?)
 いや、そんな危険生物が外に出られる訳がない。あのお姿は……巳さまだ。あの動物園の白ヘビさんこそが、巳さまの化身だったのだ。

 手元の脱皮は金運のお守りだ。ワタクシの脳内に声が届く。
「岩野田家の財政がピンチだと聞いて」
(巳さま、ありがとうございます!)
 爬虫類館での成就を「初恋にはそぐわない」と評したオノレが恥ずかしい。神様の懐の深さに、ワタクシのムネが一層熱くなる。

「今、巳さまもお出ましになられましたね。もう大丈夫ですね」
 元スガワラさんも胸を撫で下ろしたご様子である。
「貴方もお視えになりましたか」
「はい」
 ワタクシは気を引き締める。この後も全力を尽くさねば。
「皆様からの具体的なご提案、何と御礼申し上げたらいいか。何から何まで、本当にありがとうございます」
「とんでもないです。青春の彩(いろどり)の重要性を、僕はスガワラ時代に骨身に沁みておりました。カワイさんこそスペシャリストです。今後の御武運、心よりお祈り致します」
 嘘でも嬉しい有難いお言葉である。
「僕、実は南中の太田の担当なんです。岩野田サイドから見ると微妙な立場ですよね」

 大田の活躍は彼の采配だったのであった。元々気合関連がお得意で、彼の通り名はそのまま『キアイ』という。適材適所の逸材であった。



「じゃあまた、夜に電話するよ」
「うん、またね」
 あやかし水のキラキラに覆われた河合と岩野田は、すっかり仲直りのラヴラヴである。
 しかし佐藤姉弟と地下鉄で別れた直後、岩野田の端末に大家からの電話が入った。

『バースデー休暇なのにゴメン、もし余裕があったらちょっと寄れるかい?』
(なんだろ?)
 嫌な予感を抱えつつ氷川商に戻った岩野田を待っていたのは、ケンジさんの采配も吹き飛ばした合併ショックであった。

 慰労会も終わり、静まり返った部室である。長椅子で呆ける茨木と隣に寄り添う大家の姿は疲労感どころではない。
(岩野田、来てくれたのかい。ごめんね)
 大家は席を外し、岩野田を廊下に連れ出した。
(ナニがあったの?)
(実はさあ)
 岩野田は江口シュウトが先輩マネの吉野サトミとカップルになって戻ってきた事実を聞いた。

(帰校した先輩達の様子がおかしいと思ったら、最終夜になんかあったみたいでさ。吉野先輩、昔から江口の事が好きだったんだって。江口もあっさり陥落したみたい)
 岩野田は絶句した。
(当然茨木はショックじゃん? でもさ、今日の慰労会に江口の弟も来たんだけど、弟は弟で、茨木に告って帰ったんだよね)
 岩野田は赤面した。

(初めて茨木を見たときに、なんて綺麗な人なんだろうって、一目惚れしたんだって。これから海外遠征に行くから、帰国したら返事くれって言われたんだって。私、つい江口弟にしときなよって茨木に言っちゃったんだけど、茨木はチャらい江口の事が放っとけなくて好きなんだって。もう私どうしたら……あれ、岩野田、どうしたの、岩野田、どうして溶けるの、ねえ大丈夫?)

 岩野田は溶けた。
(江口、いいおとうさん目指すって言ってたのに、行動が全然いいおとうさんじゃない)
 溶けて流れてしまった。
(茨木も弟の方が絶対いいコだよ……早く目を覚ましなよ)
 悪食は性分なのでどうしようもなかった。

「因縁の問題は薄れたけど超法規的措置が大暴走だよ。どこから手をつけたらいいのかな」
 ケンジさんも途方にくれておいでであった。北国の夏の日は長い。




「経営統合なんて嘘でしょ」
「結局は合併なんでしょ」
 どんなにプレス発表が取り繕うとも、状況は現場が一番把握していた。

 両社が希望退職者を募りだす最中、ワタクシも全力でリンキーから逃げ回っていた。フェアリー・スキル・ジャパンにやたらと勧誘されているからであった。
「やだあ。正式なヘッドハンティングなのに」
「それって弊社から肩叩きを頼まれてるとか」
「ぶっちゃけると今なら退職金マシマシ」
 ワタクシはリストラ候補なのか。
「更にウチに来れば年収は三倍」
 切ない算段をしろというのか。

「リンキーさんの口車に乗ったらダメだよ。よく考えて」
 引き止めてくださるのは営業部長に昇進したケンジさんである。
「幾ら年収が良さげでも向こうは年棒制だよ。ちなみにこっちではカワイさんは昇進だから。三課課長補佐の辞令が出るから」
 だが三課は既に因縁メインとなるのが決定している。手取りもさほど変わらず、責任だけがのし掛かる。いずれにせよワタクシの社会運は前途多難なのであった。

 結局一番好きなお仕事は可愛い恋なのだ。
「またアンタか」
 陰気な資料室前、青い猫型妖精に人気どら焼きを差し出し、
「所長には内緒だべ」
 再びワタクシは閻魔帳の規定冊数以上の閲覧に成功する。閻魔帳には当人の運命の選択に伴い記載を変える力がある。今回の騒動で、彼等の未来に何かが訪れたのではないだろうか。

 結果は外れであった。江口兄弟にも岩野田にも、当然河合の記載にも変化は無かった。
(ワタクシ達の措置なんて、時間軸には影響もないのね)
 意気消沈しつつも行間を読む。視える江口は相変わらず、岩野田の夫の顔も視えぬまま。河合に至っては大偉業ばかりがズラズラ並び、プライベートまでは行きつかない。それぞれの胸のさざ波は、時が想い出に変えるらしい。

 和綴じの冊子は平然と佇む。ワタクシは速やかに返却すると、その足で現場に戻る。
 河合の地元は氷川から西にバスで二時間の海沿いの街である。全国大会の悲願を達成し、彼等にとっての短い夏休みが到来したのであった。





「めっちゃ綺麗だね」
「お盆過ぎたからもう入れないけど」
「足先だけでも充分だよ最高だよ」
 誰もが海を見てはしゃいでいた。晴天に恵まれ日差しは乱反射し、空も海も真っ青であった。

 河合は大澤と佐藤姉弟、岩野田を誘って夕べから地元に帰省中である。河合家も愛息の友人達を大歓迎、遠距離故に河合家でお泊り会であった。

「早苗叔母の友人ジャッジも高評価で良かったです」
「当然だよ。全母連にどれだけお願いしておいたか」
「本日も誠にお疲れ様でございました」
 真田さんとワタクシはケンジさんに深々と頭を下げた。

 あやかし水の効能は早々に消え失せたが、河合の因縁浄化が進んだのは幸運であった。喘息発作も減りつつあり、今後も落ち着いてゆくだろう。

「二人を包む水色のキラキラが未だ褪せない現象も不思議です。河合の生命力強化でしょうか」
「何言ってるの。カワイさんの初恋成就力でしょ。後輩が腕をあげて私も誇りに思うわ」
 思いがけずお褒めの言葉をいただきワタクシは恐縮した。だが先輩達こそ流石であった。
「今回は佐藤弟を同行させたからね。大澤もイチャコラなんざ一切出来まいよ」
 全てにおいて盤石な中ボウ夏休みコーデである。ワタクシも一層精進したい。


 若人達は海岸で思い思いに過ごす。岩野田の足先には大家達から贈られたネイル。砂浜に敷くお洒落レジャーシートは佐藤達からの、白の肩掛けトートは河合からのプレゼントであった。岩野田、あらためてお誕生日おめでとう。

 穏やかな波であった。打ち寄せる端の泡はレースとなり、流れは小魚達の泳ぎを隠す。大澤と佐藤弟が膝まで浸かってふざけているのを、姉が呆れながら眺めている。

 岩野田は河合と並んでシートに座っていた。
「日差しがジリジリするね」
「日焼け止め塗り直す?」
 行き交うボトル。何てことの無いやり取りの間を縫って、一番言いたいコトも言ってみよう。

「河合君」
「ん」
 勇気を出して言ってみよう。
「前に、私を好き過ぎると言ってくれてありがとう」
 河合は何が始まったか理解していないけれど、構わずドンドン行ってみよう。 
「私も河合君をとても好きだから、そう言ってもらえた事が、今はとても嬉しいよ」
 相変わらず河合が固まっているけれど、気にせずうんとカマしてみよう。

「いつか河合君が違う気持ちになる日も来るだろうけど、私はこの素敵な毎日を沢山大事にしようと思うよ」
 ひと呼吸おいて、
「河合君も頑張ってるから私も、もっと頑張るね。何を頑張ればいいか、よくわからないんだけど」
 そこまで言って、岩野田は照れる。
「まずは、ミヤコさんみたいになりたいな。綺麗でシッカリしてて、でもとっても可愛くて」

「岩野田さんは可愛いよ!」
 河合は負けじと訂正した。何に負けまいとしているのか。
「すごくシッカリもしてるし、みかこは」
 うっかり名前を呼んでしまい、河合は我にかえる。岩野田もハッとして河合を見る。視線が合う。お互いが大いに照れる。

 ヨシヨシ。それでこそ初恋である。微に入り細に入る青臭さこそが醍醐味なのである。これからも歯の浮く事を沢山カマし合うが良い。夜中にウッカリ思い出して、顔から出火するが良い。

 ウンウンと頷きながら見守っていたら、ワタクシの肩を叩く不穏な影が。振り返る間もなくヒタヒタ迫る黒い因縁。
「何の用スかこんな所まで。派遣期間は過ぎたのでは」
 リンキーであった。
「キミがヘッドハンティングに応じないから迎えに来たんじゃないか」
「その件はキッパリ御断りした筈です」
「おう、そうだった」
 白々しいのであった。

「今日はアタシと入れ換えに三課に派遣される当社員を連れてきたの」
 見るとリンキーの後ろには件の古狸が。
 息を呑むワタクシ。どれだけ弊社に因縁をつけたいのか。

「というわけでカワイさん、この子のお守りお願いねえ」
「なんでワタクシが!」
「課長がまた青色吐息なんだもん。カワイさん補佐でしょ。課長を助けてやって」
「派遣先に異議ありです。ガチで弊社に喧嘩売ってるんですか!」
「とんでもなあい。彼は優秀よう。じゃあ夜露死苦」
 リンキーは一瞬で気配を消した。ヘッドハンティング拒否への嫌がらせであろうか。

 古狸はむくれていた。今回の彼の外見チョイスは小学男児であるが、搾取しつくされ欠食児童にも見える風貌は涙を誘う。あんなにエリートだったのに。だがワタクシだって遠慮したい。

「じゃあ……課に戻って来週の資料作成の手伝いお願いします。ボックスに山積みだろうから」
「は。ここまで出向かせておいて現場作業じゃないって何ですかあ?」
 瞬時に大きな声でチェンジと叫びそうになったワタクシを誰もが察してほしい。



 河合はそれ以上何も話せなかった。言葉など陳腐だった。呼ばれた岩野田も動けなくなった。名を呼ぶ力はよくしたものである。

 彼はそっと手を伸ばす。ほんの少し先にいる彼女の指先を、小さく触れて強く握る。彼女もそっと握り返す。指先どうしで全てを語る。

 並んで座っている。それだけで鼓動が早い。二人の気流が一層眩しい。息を吸う毎に、綺麗な何かが心に積もる。ずっと前から憧れていたよ。空も海も綺麗だね。



「だけどウチの課って因縁関連でしょ。この二人もどうせ終わるんでしょ」
 ワタクシは古狸を小突いた。
「痛っ、何するんスか!」
「今すっごく大事な所だってアンタはわかんないのか!」
「事実じゃないスか!」
 古狸は喚いた。
「河合の前世の因縁は浄化されました、岩野田との縁も成就しました、後は終わらせるだけ。今世の二人はここまでだろ?」
(リンキー……ちゃんと社員教育しろよ!)
 ワタクシは速攻でブチ切れ、瞬時にフェアリー・スキル・ジャパンへ式神を飛ばした。古狸が学ばなければならぬのは情緒ではあるまいか。是非とも弊社に派遣前に研修を終わらせていただきたい。

 真田さんもケンジさんも絶賛絶句中である。
「カワイさん、ここは私達が見ておくから、取り敢えずコイツを連れて帰社したら」
「いいえ、それには及びません」
 ワタクシは管狐を召喚し、地域の古地図を取り寄せる。
「そんなに現場が好きなら思う存分活躍するがよい。印をつけたこの街の忌地、全てを今日中に浄化せよ」
「えー」
「えー、じゃないっ」
 古狸はブツブツ文句を言った。
「じゃあ、帰社してえ、資料作成の手伝いしまあす」
 しぶしぶ実働に出向いたのであった。


 古狸の主張は真理である。閻魔帳の記載にも有った様に、今世の彼等はここまでだ。だが予定は未定なモノだ。選んだ道で運命は変わる。神様もたまには気が変わる。

 波打ち際では相も変わらず大澤と佐藤姉弟が盛り上がる。岩野田は河合に問いかける。
「あの三人、どんな家族になるんだろうね」
「きっとあのまんま楽しく過ごすんじゃね」

 波打ち際では佐藤ミヤコがオトコ共に問いかける。
「河合君とみかこちゃん、お似合いだね」
「ホントだ、イイ感じだな」
「きっとずっとまんまだな」

 そうだよ、皆で仲良くすればいいのだよ。ワタクシは先日発売になったチューニビョンアルファを散布する。より持続性に特化した、取扱いも易しくなった新薬である。

(ああ、今月もまた持ち出しだわ)
 ワタクシはひとり苦笑する。でもいいわ。今日は素敵な夏休み。沢山笑って沢山泣いて、また喧嘩だってすればいい。失敗だって悪じゃない。いつか別れる日が来ても、それもきっと無駄じゃない。

 新薬は原材料が変わった為、散布時の注意事項が増えたそうだ。妖精さんは微量でも吸入すると幻覚作用が起きる為、ゴーグルとマスクは必須という。

 うっかりマスクをサボったワタクシは早速幻覚に襲われる。だが楽しい映像であった。浮かぶはオトナの河合と岩野田である。飛行場のラウンジのソファ、指にはお揃いの細いリング。金に輝く何かのメダルを前に、穏やかに寄り添い微笑む二人。なんて幸せそうだろう。

 薬品の臭いにケンジさんがすぐ気付いた。
「あれ、新しい方撒いたんだ。散布申請してたっけ」
「今朝出しました。問題無かったです」
「経費は大丈夫なの」
「えーと、大丈夫じゃないけどいいです」
 なんだよそれ、とボヤかれて、ワタクシも笑って誤魔化した。
「じゃあ今回は私が持つわ」
 真田さんは優しくおっしゃった。
「私からの昇進祝いよ。また同じ部署で嬉しいわ。カワイさん、これからも宜しくね」

 大澤が大声で怒鳴った。
「おおい、ハラ減ってきたぞ!」
 河合が大声で怒鳴り返した。
「じゃあラーメン食いに行くぞ!」
 皆でわあわあと片付けながら、ぎゃあぎゃあと国道に向かう。

 気をつけて行きなさいよ。慌てると転びますよ。でも転んでもいいですよ。また起きればいいからね。起き上がってまた歩き出すまで、ちゃんと待っているからね。

 恋は誰もが落ちる謎の魔法である。ワタクシは恋の妖精である。過去も未来も小さな心の燃え滓も、あたたかく見守る所存であります。




おしまい






 佐藤は滅入っていた。先日配属された新人が早々に退職願いを出したのだ。元々が都内勤務希望。だが当社は八割が地方勤務である。その分実入りは悪くなく、福利厚生もそれなりに良いのだが。

「引き止めても仕方ないだろう」
「でも配属されたばかりですよ。社内事情は就活時に承知だったでしょうに」
 部下の愚痴を片耳で聞きつつ、人事部と研修センターに連絡を入れる。どちらにも佐藤の同期が居る。

(やれやれ、今時のワカイモンは)
 一番言いたくない台詞もよぎる。しかしこれは新人に対してだけではない。佐藤は社内でも温厚で有名だが、その彼が怒髪天を衝く経験をしたのは、先日の愛娘の彼氏による不届きな電話であった。


「ミヤコさんと婚約させてください」
「何をほざくこの青二才が!」
 無条件反射で発し、すぐさま自省した。今時のワカイモンだ。一から言ってもわかるまい。
 それでも言わねば収まらぬ。
「君はそんな身勝手な事を言える立場なのか。君を想って支えてくださる周囲の方、何よりお母さんの気持ちも考えられないのか」

 大澤の母とは何度も顔を合わせている。昼夜問わず看護師として働くシングルマザー。会う度に「ウチの息子はご迷惑掛けてないですか」と気遣う様から、彼の競技へのきっかけは周囲の采配だろうと推察出来る。彼が道を踏み外さぬよう、恵まれた体躯を活かせるように。

 その才能が開花しつつある昨今の活躍は喜ばしいことである。だからこそ今は大事な時期だ。彼を、何より愛娘を世間から守らねば。佐藤は背筋を伸ばした。


「向こうの親御さんと意見を揃えるしかないべさ」
 水を掛けたのはこの地に嫁いで三十年の長姉であった。末子のリクが伯母に助けを求めたらしい。

「二人とも悪い子じゃないし、親公認ならかえってやましい事も出来まいよ。リュウジ君は有望だ。ミヤコちゃんも将来を見越してうんと勉学に励めばいい」
「姉さん、簡単に言わないでくれよ。二人共まだコドモ過ぎるじゃないか」
「コドモだからこそ皆で見守るのさ」
 叱咤される。
「途中で気が変わっても今なら身内のママゴトだ。わざわざ騒がず、本当の大人になれるまで、皆で幸せに過ごせばいい」

 客観的に聞こえるソレは大層他人事のニオイがした。一親等の立場も鑑みてほしい。


「ミヤコはなんて言ってるの?」
 スカイプで話すのはパリ在住の長女・サクラである。時差を考慮した早朝。佐藤は長女の様子も案じつつ、次女の反応を思い出し言葉を濁す。父親の表情を見て長女は明るく笑う。

「お父さんは面白くないだろうけど、オッケーでいいじゃない。伯母さんもそう言ったんでしょ。あのコ達、無下に反対する方が依怙地になりそう」
「オマエまで何を馬鹿な事を言うんだ」
 常識的に考えろと小さく溢し、「つまんない返し」と呆れられた。

「彼氏はイイコらしいじゃない。真面目に付き合ってるなら他の男子へのいい牽制にもなるでしょうよ」
「なんの牽制だ。リクと同級のコドモだぞ」
「とにかく、みんなが一番幸せになる選択をすればいいと思うけど」
 長女も長姉と同じ事を言う。
「だって私達の明日がどうなるかなんて、まるで決まってないじゃない」


「私は反対だわ」
 唯一佐藤に賛同したのは本州山奥にある醤油蔵の実家を継いだ次姉であった。佐藤が胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。

「所詮はコドモの戯言だもの」
「そうなんだよ。大のオトナがおめおめと乗る訳にはいかんよ」
「だから何処まで本気なのか見せて頂きましょう。こちらがどれだけ真面目に不安がっているか解らせてやりましょう。あちらの親御さんと一緒に言質取んなさい。血判書でも交わすがいいわ。オトナの本気を見せて差し上げなければ」
 次姉が一番恐ろしかった。

「でも本当は姉さんも私も、貴方が寂しがるのを一番心配してるわ。ミヤコが本当にお嫁に行く時が、私達、今からとても心配だわ」
 佐藤家は父子家庭である。妻がなくなって既に四年が経つ。


 そのずっと前の夏。義母の葬儀後、夫婦で実家の片付けに通った時期があった。機械的にモノを棄てる義父に掛ける言葉も無く、言われるがままに屋根裏や倉庫の不用品を焼却場に運んだ。

 闘病中に受けた義母からの暴言には正直閉口したが、義母は妻にだけは良い顔のみを見せて去った。義父も同じ系統だ。佐藤に対する『愛娘を奪った八つ当たりしても構わない仮想敵』という態度はいっそ清々しく、佐藤はサンドバックに甘んじた。

 ただ、通りいっぺんの片付けが済んだ後に義父が「ひとりになって心底寂しい」と溢した件は、妻は知らないと思う。溺愛する愛娘には迷惑を掛けたくないらしい。最も、溢された佐藤にもどうする事も出来なかったが。

 その愛娘をも見送る立場となった義父の心中はいかばかりであったろう。
 嘆き弱る義父の施設手配には良心が苛まれた。だが妻を失ったオノレもどうだ。身内を含めた周囲の適切な支えが有ったのは不幸中の幸いだったと今は思う。

 その後は推して知るべしである。生活の為に稼がねばならぬ。残された子に注力せねばならぬ。仕方ないとオノレにいい続けた皺寄せは、いずれ何処かで伸ばさねばならぬ。

「ひとりになって心底寂しい」
 あの時義父が呟いた言葉が、そのまま現在の心情である。ひとりになって寂しい。どうしていいのかも分からない。冷たさが身体の芯に残る。忙しさは逆に救いになり、こどもの成長は励みになる。やっとここまで来た。ここまで来た。予定の縛りは安定に繋がる。


 それ故に過分な約束はご遠慮願いたい。義両親が最後まで妻に良い顔を見せたがった様に、佐藤も子には良い顔だけ見せたい。

 日本の法律は知ってるかと娘に聞く。知ってるよと答えられる。その後に「口約束の範疇の話だよ」と付け加えられ、「それでもお父さんが嫌なら断るよ」と促される。本当の気持ちはどうだろう。

 そもそもあんな台詞を吐く小僧は何様だ。
『おじさん。オレは家族が欲しいです。今もこれからも、好きなひと達と繋がっていきたいです。楽しい事とか苦しい事を、みんなで一緒に越えたいです。おじさんやリクと、ちゃんと家族になりたいです』

 彼もずっと寂しい事は、佐藤も痛い程知っている。


 未子のリクはどちらでもいいと言い放った。伯母さんに助けを求めたのも、お父さんが怖かったからだと、大人に全てを押し付けた。小柄な息子は更に言う。
「だってオレはリュウジが怖くないから。お父さんと姉ちゃんで決めればいい」

 佐藤は思い出す。そういえば彼は最初からそう言っていた。みんなはリュウジの事デカくて怖いらしいけど、オレは全然怖くないと。この街に来てすぐ。引っ越しの段ボールがまだ残っていたリビングで、カレーとサラダの簡素な夕食を囲んだ。今日の事などまるで予想もしていなかった夜。

 佐藤の困惑は深まった。後先考えず今一番良い道を選ぶのが良いのか。しかし今時のワカイモンだ。明日また気が変わるかもしれない。だけど誰もが判っている。誰でも誰かと繋がりたい。面倒ごとは多くとも、雑多な温かさは変え難い。

 誰も強く反対しないのはどういう事だ。
 おかしな話だ、嘆息する間に佐藤は睡魔に沈んだ。決定は明朝となった。



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