このリンキーの首根っこをひっ捕まえた社員は、後にも先にもワタクシだけであろう。

「ずっと言おうと思ってたんだけど」
「何ですか」
「岩野田は将来、二十五歳で江口と世帯を持つ運命なんだよね。在学中は江口の片思いだけど、卒業五年後のバスケ部同窓会で二人は再会、その二年後にゴールイン。更に結婚後の江口は高収入の子煩悩パパ、親戚付き合いもバッチリ、岩野田は超安泰!」
「何故それを最初に言わないんですかっ!」

 真田さんが三課に飛んできたのは、ワタクシの管狐が助けを求めたからだという。


「リンキーさんて昔、研修センター所長も務めてたわ。実務でアナタを鍛えてるのかしら」
 真田さんに給湯室に引っ張り込まれたワタクシである。息切れのマイ管狐に給水する為である。

「まさか。どう考えてもワタクシで遊んでるんですよ。江口と岩野田が前世で夫婦だなんて、最も大事な情報じゃないですか!」
 先に知っていればもっと上手く出来たのに。スガハラの陰謀にも冷静に、隙間も狙って行けたのに。

「まあまあ落ち着いて。お茶淹れるわ。羽二重餅もあるわよ」
 一課に配られたオヤツを頂戴するのであった。


「ワタクシ最初に河合達を見た際、とても良い印象を持ったんです。これからの積み重ねの穏やかな気配というか」
 真田さんの優しさに、ついダラダラと吐露してしまう。

「大澤達との繋がりやスガワラの妨害は、逆に岩野田の重要性を示唆していないかって。でも前世の江口には岩野田に借りがあって今世は尽くすサダメとなると、河合との成就はない訳ですよね。読み違えたのかしら」

「まだ判らなくて当然よ。運命は日々変わるもの。何より妖精の『閻魔帳』の一般閲覧が制限されたのも最近だし」

 『閻魔帳』とはいわずと知れたヒトの生前の行いを記した書物である。生者に関してもコツさえ掴めば未来の予測も容易な為、以前は適宜活用せよと言われていたのだが。

「閲覧制限の理由は覚えてる?」
「はい、ヒトの今世に重点を置く為です。全妖精は常に臨機応変に、と」
「そうね。何事にも囚われず柔軟であれ、と」
 真田さんの顔つきを見ているとオノレの入社時を思い出す。

「だから気にしなくていいのよ。今はたまたま前世情報を得ただけ。采配は別でしょ」
 羽二重餅の二個目を勧められる。トロふわ甘い。

「前世は誰でも幾つもあるし、何処がピックアップされるかでヒトの運命なんて簡単に変わるわ。リンキーさんは相手を動揺させるのが趣味で教官時もそれで新入社員の離職率が凄くて、あ、お茶熱いわよ」

 ワタクシの単純粗野が弄ばれただけなのか。煎れてくださった緑茶は美味である。
 ともかく対応せねばならぬ。

「お忙しいのに貴重な時間をありがとうございます。頭を冷やして見直します」
「いいえ何にも。それにしても因縁関連は厄介だわ。三課の業務も攻めに回るわね。私達も気を引き締めないと」



 因縁なのか季節の変わり目か、岩野田家の健康運にも影響があった。母親が再入院したのである。

 岩野田はコッソリ溜息をつく。今回はどれくらい掛かるだろう。
(みんな大丈夫だって言うんだよね。すぐ治る、すぐ戻る、って)
 実際は少し掛かるのが通例だ。それから家の中が暗くなって、ガランと寂しいのもお約束。

 大家と茨木も賢い友人達であった。
「そっか、お母さんが……無理に誘ってゴメンね」
「バスケ部話は毎日報告するからね。江口の様子を見てると守秘義務も無さげだし。ほら噂をすれば」
 江口がルリラリとスキップして来るのであった。

「お三人さあん、五月の男バス日程表だよー」
 しかし岩野田が家庭の事情で入部出来ないと聞くと、ガックリと肩を落とす、かと思いきや、
「うんわかった。じゃあ三年夏休み前までに入ってくれればいいから。待ってるよ!」
 ウルトラスーパーポジティブ思考である。
 大家と茨木は爆笑し同意し、岩野田の肩の荷もストンと降りた。

 確かにこの単純軽薄さは生真面目な岩野田を救う。ワタクシも一瞬リンキーの言葉に傾きそうになり、慌てて居ずまいを正す。オノレを信じなければならぬ。


「みかこちゃん、無理しないでね。私の母もよく入院してたから、愚痴りたくなったらいつでも言ってね」

 黄金週間の中日、まどろむ午後の小時間。老若男女で混み合う駅ビルカフェで岩野田と語らう美少女は、某塾の短期講習に通う佐藤ミヤコであった。
 スケジュールを工面したミニ女子会は、勿論ワタクシの采配である。良かったね。小さな声でお話しましょう。

「くれぐれも無理は禁物ね。私、頑張り過ぎて倒れた事があるんだよ。みかこちゃんと同じ高一の時だったけど、周りにも心配かけちゃって」

 母を早くになくしている佐藤家はどんなに大変だったろう。疲労で倒れたのが高一ならば、弟や大澤達は小六の時だ。今だって大変だろう。岩野田は自分に置き換える。スチームミルクを可憐に楽しむ姿から想像つかない事情である。

 でも憂鬱な話を聞くのもアレだ。モブ視点でレッツトーク。
「あの、ミヤコさん」
「なあに」
「そんなに大変な中で、どうやって大澤くんと仲良くなったんですか」

 佐藤も楽しく答えてくれたまえ。惚気奨励。
「えっと、リクの友達だったから、時々学校まで迎えに来てくれたり」
「わー」
「でも家ではいつもリクとカードバトルしてた……」
「あはは!」
 真っ直ぐな反応でお互いリラックス。全てを笑い飛ばそうか。

「お互いゆっくりいこうね。これ、私が刺繍したの。受験で趣味も暫く出来ないから。使ってくれると嬉しいよ」
 思いがけないプレゼントに岩野田の目が輝く。綺麗なハンカチタオルである。
「ありがとうございます、可愛い、嬉しい!」
 ハンカチの両隅には薄緑の蔦と葉っぱ、青のお花、それから、白いことりがふたつ。
「またみんなで出掛けたいな。これからも仲良くしてね」

 岩野田は主軸をかいま見た。
 佐藤は綺麗で可愛いだけじゃない。大澤も格好いいだけじゃない。誰も知らない部分、二人で積み重ねてきた何かがあって、続ける互いの努力もあって。大事な話が聞けたと思った。胸の奥に何かが灯る。

 本日の夜、佐藤は大澤と共に帰省予定だそうだ。乗車時間の長さが今日は嬉しいと話す佐藤に眼福、更にモブる岩野田である。

「みかこちゃんも明日は河合君に会うんでしょ。楽しんできてね。じゃあまたね」
 受講の為に席を立つ佐藤の白いスニーカーは眩しかった。
(みかこちゃん、清楚で素直で可愛いな。河合君が夢中なのもわかるな)
 佐藤も岩野田をしっかり女子チェック済み。ワタクシの采配通り、友情基盤は盤石なのだ。


 居合わせた妖精さん方からも、思いがけない反応を頂戴した。
 素敵女子のさざめきは、周囲に着席していた疲労困憊ビジネスパーソンの一服の清涼剤となった模様。

「カワイさん、本日の隣席を感謝します。僕の受け持ち社会人、連休返上でダレ気味だったんです。でも愛らしいお嬢さん達を垣間見られてモチベ上がりました」
「ウチのもです。見かけた瞬間、高校時代のマドンナを思い出して。甘酸っぱいですね」
 マンガン社北部支店の医療、保険金融機関担当の妖精さん達である。

「とんでもありません、こちらこそ大人の空間に失礼しました。皆様の御武運お祈り申し上げます」
 どの世界でも持ちつ持たれつ。他所は他所、ウチはウチ、されど仲良しであった。



(なんだなんだ。今日はめっちゃ暑いぞ!)

 所変わって翌日、図書館前。バスケゴールの設置された公園広場である。着ていた白パーカーを脱ぎすてて、既にティシャツ一枚の河合である。

 夕べは浮き足立った大澤がランラン帰省した。
 本日は部活のない休日。早苗叔母との息苦しい時間が辛くて図書館の自習室に逃げ込んだ午前中。コンビニのパンをもぐもぐしながら学校の課題もさっさと片付け、後は岩野田を待つばかり。

 だったのに。
「あっ河合さんだ!」
「遊んでー遊んでーシュートしてー」
 顔見知りのミニバス少年団のちびっこ諸君に囲まれて、即興試合をする羽目に。
(いや、楽しいからいいけどさ)
 請われるままに動いてみれば、いつの間にかデモンストレーション状態、からの、老若男女の皆様にも注目され取り囲まれ、気付けば人だかりの出来上がり。

「ええと、今日は、もう終わり」
「わー河合さん、もっとやってー」
「河合さん、河合さあん」
「オレ用事あるから、またな」

 外で目立つのは本意じゃない。図書館のロッカーの鞄も引き取らなくちゃ。脱いだパーカーを拾って抜ける。目を向けた先には、岩野田がいる。

(すぐ行くから、もうちょっと、待ってて)
 手で合図して、慌てて図書館のロッカーに向かう。



 岩野田は太陽を直視したかと思った。久方振りに競技をする彼を見たせいだ。

 青空の下に響くボールの音。コートにスニーカーの擦れる音。ずっと聞きたかった音。近くに行きたかったけれど、照れくさくて離れて眺めた。そうしたら彼は「そっちに行く」とジェスチャーをした。「そこで待ってて」と。

 だから待っていた。待つ時間、嬉しい時間、長いようで短い時間。
「ごめん、待たせた」
「ううん、なんにも」
 さっきまで岩野田はうっすら涙目だったけれど、今の河合は気付かない。


 しかし河合には違和感はあった。まだまだ僅かな付き合いだけれど、引っかかる何かが否めない。

 蝦夷桜の開花も良い塩梅、来園者も程々。広場の屋台のイチゴ飴、歩きながらの流れる会話、印象に残るは手洗い後に貸りた、真新しく綺麗なハンカチタオル。

「ミヤコさんが刺繍してプレゼントしてくれたの。可愛いよね」
「上手だね。売ってるのみたいだ」
「ね。ミヤコさん、あんなに綺麗で可愛くて、でもそれだけじゃないんだね。見習いたいな」
(ん、今日どうした?)
 やはり岩野田はどこと無く寂しげの様な。

 それから程なく家の用事がある岩野田と早めの解散。いつものコンビニまで送ろうとすると、今日は他所に出向くという。
「じゃあ、少しだけ送る」
「うん、ありがとう」

 どうにも変だ。それに用事って何だ。ほんの僅か許された見送り。「じゃあまたね」と別れた岩野田の後ろ姿を眺めながら、河合に一抹の不安がよぎる。
(ひょっとして今日、オレ呆れられた?)
 いきなり自己嫌悪の扉の前に立つ河合。
(調子に乗った自覚が……ある!)

 揺れる自意識の大波小波。今日の自分は落ち着きがなかった。ちびっこ達と絡んだノリのまま、例えばひとり勝手にダーッと走り出したり、急にかくれんぼをしたりした。

 最初は笑って見ていた岩野田も、みるみる呆れた表情を見せ、遂には怒ったのも当然というか。
「どうして勝手に先に行っちゃうの?」
 急いで戻って謝った恥ずかしみ。岩野田から「おすわり」と叱られたのは御褒美カテか。まさかの躾けにエム気質開花、脳内フォルダに名付け保存。街なかでニヤニヤしたら怪しいですよ。


 しかし河合の杞憂で終わるだろう。岩野田は今日も満足している。出来事をひとつずつ思い出して、クスクス笑えてきたりする。

 河合のちびっこ風情には、正直引かなくはなかった。だが佐藤による気付きのお陰で、全てが楽しいシーンとなった。
(河合君って、特待生の優秀な面だけじゃないね)
 やっぱり歳下なんだね。そう思うと楽になって、平凡な自分を許せる気になる。

 それから、久しぶりに見たバスケシーン。彼が本気で動いたら。どうしよう、どんなに素敵なんだろう。
 ほら、今日は楽しかった。全然悪いコトばかりじゃない。


 岩野田は山口総合病院の正面玄関に入る。もう総合受付は閉じていて、自販機のモーター音が、時々廊下に低く響く。

 エレベーターで六階に上がる。オレンジのプレートの並ぶ病室を通り過ぎて更に奥。進むと新築の二号館、緑のプレートには岩野田の母の名札がある。小さくノックした後、入り口の消毒液で手をなぞる。

「お父さん、どう?」
「おかえり。お母さん、落ち着いてるよ」

 病室のオレンジのプレートから緑のプレートになる意味を、岩野田は知っている。オトナが説明する「落ち着いている」状況がどの程度なのか、言葉通りに取れなくて、その度に判断に迷う。




「善処致します」
 緑のプレートの前、先日のカフェで御一緒したマンガン社の医療妖精さんに頭を下げられるワタクシである。

「まさかこちらのクランケがあのお嬢さんの御母堂とは。取り敢えずリスクは避けます。新薬は回しません」
「新薬?」
「投与予定でしたが、変更します。本来は大変有効な治療法の予定です。ただ、今の段階では」
 彼は言葉を濁した。

「しかし、岩野田家は未だ最悪の展開はありませんのでご安心ください。御母堂の今世は健康面で周囲に学びを促すお役目で」
 再び語尾を濁し、岩野田を見ながら、
「そう言えば僕、以前あの子を入院病棟で見かけた事がありました。お年頃ですね。すっかり綺麗になられて」
「岩野田、元々はお父さん似ですが、段々お母さんにも似てきましたね」
「ああ、本当だ。柳腰の美人さんだ。目元や耳の形はお父さんですね」
 付き添う父には白髪が目立つ。元々ロマンスグレーの家系ではあるが。
「兎に角、あんな表情ばかりさせたらいけませんね」

 その後もう一度「善処致します」と言い残し、彼は足早に去っていった。


 岩野田は落差に滅入る。闘病の経過生々しい白い病室と、晴天の公園での花見の対比。でも仕様が無い。今日はお昼間だけでも楽しかった。仕方無いと思う。

「六時過ぎたよ。みかこは先に帰りなさい」
「もうちょっと居るよ」
「暗くなるとおとうさん達も心配だから」
 父は財布から千円札を出した。
「昨日のシチューが残ってるし、パンは冷凍してあるから。豆乳は無くなっていたから欲しいなら買って。後は好きな果物でも選びなさい。家に着いたら連絡するんだよ」
 グズグズしている岩野田の手に握らせる。
「本当に大丈夫だから」

 でも、と岩野田は思っている。大丈夫と言い聞かされる程、本当の事情は大丈夫じゃない。
 だけど大人はいつでも大丈夫と言う。だから岩野田もコドモの役目を果たす。

「うん、もう少ししたら帰る」
 横たわる母の胸元が小さく上下に動く。か細い身体がベッドに溶けている。目を離した隙に、ぼたん雪みたいに消えてしまいそうで。
「そうか。じゃあ母さんの傍に来るかい」
 父は自分が座っていたパイプ椅子を岩野田に譲った。


 河合は帰り損ねていた。
 駅ビルの本屋で新刊コミックの表紙をボンヤリ眺め、参考書と辞書、絵本の棚の前を所在無げに通り、愛用のシャーペンの芯を購入した。ひと通り膨れ上がった自我に七転八倒した後の冷静タイムである。

 やっぱり、どうしても気になるのだ。今日の彼女の様子は妙だった。だからといって、自分に出来る事なぞ無いけれど。でもここに居ればまた、用事帰りの彼女に会えるかも。
(あ、これってストーカーじゃね?)
 自覚があるからまだ大丈夫ですよ。

 本屋を出る。途中で級友に会い、二言三言と言葉を交わし、ドーナツショップと雑貨屋を通り抜ける。南口の広場、噴水前に集う集団を避け、バスターミナルを抜けた時、向こうを通る岩野田を見つける。

(ほら来た)(やっぱオレってストーカー?)
 羞恥心に気付く冷静さに乾杯。鉢合わせポイントを瞬時に見極め移動する周到さに感嘆。
 さて次の課題は偶然を装い鉢合わせた際、涙目の岩野田に動揺しない平常心なのだが、そんな表情は間近で見た経験が当然無くて、途方にくれる羽目になる。


 困ったのは岩野田も同様である。思いっきり憂鬱のオーラを纏ってトボトボ歩いていたら、目の前にマイラバーが居るなんて。
「びっくりした。どうしたの?」
「買い物。岩野田さんこそ、用事すんだの?」
 お互いとってつけた様な会話。何を話したらいいのか判らない。

 だから河合が無意識に「何かあった?」と聞いたのは、逆によかったとワタクシは思う。岩野田も自然に「今お母さんが入院してるの」と打ち明けられたのは、とてもよかったと強く思う。

 当然河合は動揺するけれど。岩野田のお母さんが病弱なのは、何となく知ってはいたけれど。
「じゃあ今日、本当は忙しかったんじゃないの?」
「ううん、楽しくてよかったよ。誘ってもらえてよかった」
 駅に向かう、駅から家路につく人の波が増えてきた。流れから逃れて壁画の隅にもたれて話す。
「もう帰るなら送るよ」
「うん」
 そういうやり取りが板についてきたのは、いい案配だと、とても思う。


 何と言っても河合が良い意味で冴えている。いつものコンビニの前でも、
「ここでいいよ。今日もありがとう」
「買い物はよかった?」
「あ、豆乳」
「わかった」
 すぐ最寄のスーパーまで付き添うので、ワタクシも近隣の人払いを急いだ。

 レジを待つ時も、河合の脳内は目まぐるしく動く。街灯のあかりを確認すると、
「家の方角ってこっちだよね。もう暗いから急ごう」
 買い物袋を取って、岩野田より先に歩く。有無を言わさず送迎にはいる。

 岩野田の家は氷川学区の東の集合住宅群の角、築二十年の中古マンションである。
 河合は今日は少しくらい帰りが遅くなってもいいと思った。
 早苗叔母には「閉館まで図書館にいる」と、既に連絡済みである。