夏休みが終わり新学期が始まっても、ナナからの反応も投稿もなかった。
さすがに気になって、何度か当たり障りのないメッセージを、直接ナナに送ったりもした。
『宿題終わった?』
とにかく、無事を確認したかった。それでも彼女からの返信はなく、モヤモヤした気持ちが積もるだけだった。
まだギラギラと照りつける太陽から目を背けたくなるくような朝。
「おーす」
駅のホームでだるそうに声を掛けて来たのは野球部の透だった。
「ああ、久しぶり」
サッカー部よりも練習が厳しい野球部は忙しく、夏休みに入ってから透と会うことは一度もなかった。夏の甲子園に向けた県大会に、早々と敗退してしまったのも、練習が厳しくなった要因だろうけど。
「あちーな」
もはや挨拶と化しているその言葉。時おりホームの屋根からシューと音を立てて噴出されている霧状のミストだって、暑さ対策になっているのか疑問だ。
「三年引退したんだろ?」
「ああ、サッカーも?」
「ああ」
混雑しているホームに電車が滑り込んでくる。早くクーラーの効いた車内に入りたい。
誰もが順番を守りながらも我先にという気持ちで乗り込んだ車内には熱気がこもり、涼しいとは言えなかったが外よりは全然マシだった。
「そういやさぁ、亡くなった米村さんっているだろ?」
口を開いたのは透の方だ。
「ああ、知り合いか?」
「いや、知り合いではない。でも、野球部の琥太郎ってやつがさ、その米村さんの幼馴染で、彼氏みたいなもんでさ」
「マジか……」
やっぱり、そんな相手がいたんだ。
「うん。さすがにショックなのか、それきり部活に来ないんだよ」
「そうか……」
無理もない。幼馴染で彼氏同然だなんて……俺には彼が今どんな気持ちでいるのか想像もできない。
「うん。何回か見かけたけど、けっこう可愛い子でさ。もちろん仲も良くて。よく美術部の部屋覗いてた」
「美術部?米村さん美術部なのか?」
確か、みんなテニス部だって言ってなかったか?
「ああ、そうだけど……?」
どんだけ情報が錯乱してんだよ。
まあ、俺の情報網がサッカー部とクラスの一部だけっていうのにも問題があるんだけど。
「どうかしたか?」
「いや……米村さんって下の名前なんて言った?」
「え?確か朱里だったかな」
「朱里……」
薄い記憶の中で聞いたことがある名前。
夏休み前、虹に声をかけた美術室。そこで虹と一緒にいた子、確かに朱里って呼んでいた。
「もしかして、虹って子と仲がいい?」
「虹……?黒髪のおかっぱでおとなしそうな子か?」
「ああ、それだ」
「うん、いつも米村さんと琥太郎と、そのおかっぱの子と三人でいたよ。仲良かったんだろうな」
「……」
まさか、あの子が米村さん……。
「その子がどうかしたか?」
「ああ、いや別に」
「同じくショック受けてんだろうな、可哀想に」
「だな……」
大丈夫なんだろうか、虹。
「琥太郎になんて言ってやったらいいのか分からなくてさ……学校も来てないみたいなんだ」
「そうか……」
彼が今、いったいどんな気持ちで過ごしているのかと思うと、胸の奥がギュンと痛んだ。
そして虹のことも。
彼女はちゃんと学校に来ているのだろうか。あの綺麗な空の絵を、仕上げられただろうか。
誰か、彼女を支えてくれる人はいるのだろうか……。
まだあまり話したこともない俺がしゃしゃり出ることではないのかもしれない。
でも俺は、どうしても虹のことが気になって放課後彼女の教室へと足を運んでいた。
帰りの学活が終わったばかりの教室にはまだたくさんの生徒たちが帰り支度をしたり友達と話したりしていた。
虹はちゃんと来ていた。
1人カバンを肩から下げ、下を向いたまま出口へと歩いてくる。廊下に立つ俺にはまだ気づいていないようだ。
出口を出て、階段の方向へと曲がる虹。何と声をかけてたらいいのかなんて、分からなかった。まだ、俺は虹のことを何も知らない。
「虹!」
それでも体は勝手に動き、細い虹の肩を掴んでいた。
驚いて振り向いた彼女は、夏休み前に見た時よりも一回り小さくなったようで、やはり次に出てくる言葉は見つからなかった。
「……小椋くん、久しぶり」
そう言って俺を見た彼女は、少し微笑んでいて、ホッとしたような複雑な気持ちになる。
「ああ、久しぶり」
俺は、今どんな表情をしてる?
「これから部活?」
「うん」
思ったより普通の会話、夏休み前と何も変わらない様子に見える。
「あの、さ……」
「ん?」
「……大丈夫、なのか?」
こんな話題、本当は避けたいのかもしれない。普段通り、何もなかったように接した方がよかったのかもしれない。
「……ああ……朱里のこと?」
せっかく上げていた目線をまた下げてしまう彼女を見て、俺は少しばかり後悔していた。
「うん……仲良かったって聞いて。前に絵を見せてくれた子だろ?」
「うん、そう」
「幼馴染の琥太郎ってやつ、学校来れてないって聞いた」
「私は、大丈夫。琥太郎の力になれなくて、申し訳ないけど」
今にも消えそうな虹の声。自然と周りの騒がしさはシャットアウトされる。
やっと上げた視線は、柔らかく光っていて。一瞬だけ強く結ばれた唇は隠しきれない強がり。
「無理、すんなよ。また今度ゆっくり話そう」
「……ありがとう」
また微笑んでみせた彼女は、弱くて強くて。それ以上、何も出来なかった。階段へと歩いて行く背中をただ見つめていた。
何やってんだ、俺。
たった数回話したことがあるだけの俺に、彼女が心を開いてくれるとでも思ったのか?
ふぅ……と大きな溜め息を漏らしグラウンドへと続く階段へと向かおうとした。
その時。
「ちょっといい?」
虹のクラスから出てきた背の高い女子に声をかけられた。
「えっ?」
「あんた、虹の知り合い?」
気の強い口調のわりには優しい目線に、俺は足を止めて彼女と向き合った。
「いや、まあ、ちょっと」
彼女はぐいっと俺の腕を掴み、あまり人がいない渡り廊下の手前に連れて来る。
「聞いたでしょ?米村さんのこと」
「ああ、うん。仲良かったんだろ、虹と」
「仲良かったも何も、あの子のちゃんとした友達なんて米村さんしかいないよ」
「……そうか」
大人しそうな子だもんな、目の前の彼女や翠とはまた違うタイプなんだろう。
「うん、でもさ、あの子強がってて。普段通りにしてるけど、話しかけないでオーラ全開で。私どうしてあげたらいいのか分からなくて……」
初めて俺から視線を離した彼女。
そんな彼女を見て、俺は少し安心した。虹を心配してくれている人がちゃんといたからだ。
「そうだな、俺も正直分からない。でも、虹が普通にしてるなら、普通に接してやったらいいんじゃないかな」
「……うん、だよね。せめて、絵を描けたらいいんだけど」
「……絵、描けてないのか?」
まさか……。あんなに上手い絵を描いていたのに?
空の絵は、まだ未完成なのだろうか。
「うん。虹はいつもどこでも絵描いてたのに、今は全く描いてないし、部活にも行ってないみたい」
「マジか……何が大丈夫だよ」
やっぱり、つよがりじゃないか。
「私なんかに頼ってくれないし、またあの子のこと気にかけてやってほしい」
「もちろんだよ。でも、虹には米村さん以外にもちゃんといい友達がいて安心したよ」
彼女の目をしっかり見て言うと、私なんて、と照れたように視線を逸らす。
ちゃんと学校に来れてること、心配してくれている友達がいること。安心材料も少し。
好きだった絵を描くことができない。きっとこれが彼女を立ち直らせる力になるはずだ。
「ありがとうな」
そう彼女に告げて部室へと急いだ。
俺なんかが出しゃばることじゃないのかもしれない。
ただ、優しくて控えめで、絵が上手い虹に早く戻ってほしい。
彼女の描いた絵が、見たい。
好きなことができる、そんな普通の幸せを、彼女に取り戻してやりたい。
部室へと入ると、いつもの汗臭い熱気がこもっていた。
ほとんどの連中はもう着替えを済ませてスパイクの紐を結んでいるところだった。
「一紫、おせーぞ」
「また可愛い彼女とラブラブしてたのかー?」
乾いた笑い声が俺を包む。
いつもの笑顔が、そこにある。
「そんなんじゃねーよ」
俺の笑顔もある。
そんな、些細なことがこんなにも幸せに感じる。そして、こんな時間が永遠に続く保証はどこにもないという不安も、同時に感じていた。
もがく 黄色
《kho》
いつのまに蝉の声は聞こえなくなったのだろう。
朝、カーテン越しにも分かる日差しの強さは長引く夏の暑さを感じさせる。
今日から新学期。
合わせたアラームよりも前に目がさめるのはいつものこと。
ベッドの棚に置いてるはずのメガネが見当たらないのもいつものこと。
お母さんが朝の支度でバタバタしている音が聞こえるのも、いつものこと。
琥太郎は、学校に来られるのだろうか……。
そんなことを考えるのは、やはりいつもとは違う朝だ。
ーー朱里が、いない。