体育祭が過ぎ、1年10組はクラス全体が親しくなったようだった。ただ佐野遥は相変わらず女子のグループには属していなかった。出来上がってしまったグループというのはなかなか入れたものではなかった。唯一の救いは神谷と清水は席替えで席が離れてもハルの机に集まったことだった。
 進学クラスでは6限まで終わると、7限という名の演習が行われた。演習プリントが配られることもあるし、衛星放送の授業を受けながらテキストに沿って勉強することもある。
 それが終わってから閉門の時間までは各々好きなように時間を使った。
 佐野遥は図書館で勉強をするのが好きだった。7限が終わるとその日もまた図書館へ向かい、翌日分の予習を始めた。机に向かっているとコンコンと手元が小さな音を立てて叩かれた。
「清水。」
 聞こえるか否かというレベルの声量で佐野遥が清水の名を呼んだ。
「集中してるとこ悪い。ちょっと数学聞いていい?」
 佐野遥は周りを見渡し、図書館の入り口を指差し、清水に目配せをした。
「ここなんだけど、ここから次の式に展開する方法が分からなくて。」
「んー、それは、この公式かな。」
 図書館前の廊下で手すりにもたれかかかりながら、佐野遥は清水の手に開かれた黄色の参考書を覗き込んだ。そして自分の手元にある公式集をパラパラとめくって指差した。
「これ使うの?」
「そう、こっちのxとyとzにそれぞれ前にある7/8を掛けて、でこの項を纏めると、こっちは消えて、こうなると。」
 佐野遥が持っていたシャーペンで清水のノートに薄っすらとメモ書きを加えた。
 なるほど、と清水は閃いたように笑った。
「助かったわ。ありがと。」
 そう言うと清水は制服のスラックスのポケットから何かを取り出して佐野遥の手に握らせた。
「お礼にこれあげる。」
 柔和な笑顔を見せた清水はひらひらと手を振って教室に戻っていった。佐野遥の手には少し温くなったパイン飴が握られていた。
 中間考査の結果も、渡辺麻里が颯爽と一位を獲得したことは彼女の表情を見ていれば分かることだった
 茶髪のロングヘアは恐らく地毛で染めているものではなさそうだったし、あまりにも白い肌はファンデーションを塗っているようにも見えたが、そのきめ細かい毛穴は化粧をして出来上がるものではないと佐野遥は知っていた。アイラインがしっかりしているように見えるのは、長くくるんと上がった睫毛が瞼に影を落とすからだった。
 そんな風にまじまじと麻里を見つめたのは今回が初めてだった。
「で、どうなわけ?」
 苛立ちが目に見えるように、殺気立った麻里は佐野遥を問い詰めていた。
 世間知らずというよりは人の色恋沙汰など興味がないだけで、自分にそれが不幸の種として降りかかってくることも想定外だった。
「なんとか言えよ。」
 麻里の口調が強くなる。
「どうって言われても私は清水のことなんとも思ってないし。」
 言い返す言葉が震えないようにスカートをぎゅっと握った。
「あたしは智巳と付き合ってんの。人の彼氏誑かすようなことしてんじゃねーよ。」
 佐野遥の言い分など聞こえていないような返答だった。麻里はふんっと声を上げながら踵を返して去っていった。
 思い当たる節はなかった。確かに業間になると神谷と清水と3人で勉強をしていることはあったが、それ以上でもそれ以下でもなく、彼らに佐野遥が特別な感情を抱くような出来事は何もなかったし、その逆が起こるとも思えなかった。
 いつものように図書館で机に向かっていたはずの佐野遥の所に、ずかずかと歩いてきて大きな声で渡辺麻里が呼びつけたのがたった5分程前。たった5分の間に麻里は佐野遥の清水に対する色目について忠告し、こちらの言い分など全く聞き入れずに去っていったのだ。
 佐野遥は小首を傾げて席に戻った。麻里が大きな声で捲し立てて言ったので、他の生徒の視線が痛かったが気にしないことにした。
 意味が分からない、というのが正直な感想だったし、正直どうでもよかった。渡辺麻里と仲良くしたいという気持ちは元々なかったが、それにさらに拍車がかかっただけだ。誤解されるくらいならもう清水と話すのをやめれば良いのだろうし、清水とセットのように動く神谷も同様であろう。
 佐野遥は彼らを遠ざけることにした。
 清水智巳は何も知らないようだった。清水と神谷は相変わらず話しかけて来ようとしていたが、佐野遥は逃げるように二人を避けた。
 その頃からだった。クラスの女子は以前にも増してよそよそしくなったし、佐野遥が教室に入るとシンと分かりやすく静まり返ることもあった。
 外では蝉がけたたましく鳴いていて、窓から差し込む直射日光が黒板に反射して眩しく見えた。
「夏休み中は休みじゃないからな。がんがん過去の模試やってくぞ。」
 担任の飯田義一は教卓に体重をかけて前のめりで話を始めた。その薄くなり始めている額に汗が滲んでいる。
「基本的に夏期講習は全員参加。強制とは言わないが。乗り遅れたくなければ参加を勧める。部活動のあるものは部活終了後午後から開始。部活が丸一日に及ぶ者は自主学習でも構わないが、他の生徒に遅れたくなければ必死に課題をやれ。」
 飯田義一はA4の藁半紙に印刷された参加申込書を配りながら捲し立てるように続けた。
「一年の夏から勝負だぞ。ここで遊んだやつはもう負けだ。」
 夏休みは7月20日から8月31日までで、そのうち土日と盆以外の月から金までで行うという。佐野遥はゆっくりと長い息を吐いた。
 夏休みになればこのクラスに来なくて済むと思ったのに、と佐野遥は思いながら配られたばかりの藁半紙をスクールバックに押し込んだ。

「ハルお帰り。もう晩御飯できるから着替えてすぐ降りてらっしゃい。」
 ハルが帰宅すると既に母佳子は帰宅していて、玄関の扉を開けた瞬間から揚げ物の匂いが漂っていた。
 唐揚げを頬張ると、肉汁が溢れてハルの口元に垂れた。
「ねえハル、夏休みにおばあちゃんの所に行かない?」
 それは唐突な母からの提案だった。それは単発の帰省や遊びに行くようなニュアンス出ないことは佳子の表情と声色で伝わった。
「おばあちゃん来週退院なんだけど、まだ万全じゃないみたいで、手伝ってあげてほしいのよね。」
 ハルは母を見つめながら次の唐揚げを頬張った 。祖母は5月の大型連休中に骨折をして手術をした。そのあとはハルが中間考査の間に同じ病院の回復期病棟でリハビリテーションに励んでいると母から聞いていた。
「何を手伝うっていうの?」
 率直な疑問だった。高校生になったばかりのハルに祖母の何を手伝うことができるというのか、ハルには分からなかった。
「側にいてくれたらいいのよ。多分、怪我をして家に一人でいることに不安があると思うから。無理に手伝う必要はないわ。ハルが夏休みに入る前は陽子が毎日顔を出すって言ってるわ。」
 ハルは箸を置いて麦茶を飲んだ。氷がカランとコップの中で音を立て、冷たい麦茶が喉の奥をすーっと流れていった。
「ちょっと考えてみる。ご馳走さま。」
 自室に戻ってベッドに寝転んだハルは天井を見上げていた。手元には帰り際に配られた藁半紙があった。
 本当はこの夏期講習に行ったほうがいいことは分かっていた。しかし今ハルが求められているのは祖母の側にいること。いいタイミングかもしれない。いい口実かもしれない。課題だけ貰って自分でやればいい話だ。母はきっと夏期講習のことを知れば夏期講習に行けというだろう、とハルは思った。幼少期から公文式に通い、中学受験も本当はして欲しかったのだと後々父から聞かされたのは高校受験の少し前だった。
 ハルはベッドから起き上がってシャーペンを握った。カチカチと芯を出すと藁半紙の欠席の文字に丸をつけ、自分の名前と親の名前を記入した。
 次の朝、ハルがリビングに降りると母はもう出かける所で鞄を手にしていた。
「朝ごはん食べたら食洗機入れてスタート押しといてね。じゃあ行ってーー。」
「お母さん私、夏休みにおばあちゃんの所に行くよ。」
 急いで出かけようとする母の声を遮って告げた。母はそうありがと、と笑顔を見せて出かけていった。
 学校へ向かうのは相変わらず億劫だった。馴れ合いのために高校に進学したわけではないし、勉強さえできれば良いとなんとかモチベーションを保ってきたのだけれど、誰一人として校内で言葉を交わすことがない日常は苦痛そのものだった。
「母さん、今日からハルが一緒にいるからね。」
 佳子はハルの荷物を詰め込んだ旅行鞄を赤いコンパクトカーから下ろした。
「ハルちゃん学校はいいの?」
 夏期講習など知るはずのない祖母 栄子 からまさか学校というキーワードが出るとは思いもせずハルは目を見開いた。
 夏期講習の出欠用紙は一切母に見せずに欠席で提出した。担任の飯田は一度は怪訝な顔をしたが、骨折した祖母の話をするとすぐに折れた。
「何言ってんの、母さん。ハルは今週から夏休みだよ。」
「なんだそうかい。それならここでゆっくりするといいよ。」
 栄子は目尻を下げてにこやかに笑った。栄子はハルの知っている栄子よりも小さく感じた。
「さあこっちおいで。お見舞いに来てくれたお友達からゼリー頂いたの。冷やしておいたからハルちゃん一緒に食べよう。」
 冷蔵庫からカラフルな果物のゼリーをいくつか出して、食器棚から銀色の小さなスプーンを持って、食卓に並べた。
 手術後畳に座れなくなった栄子は一日の殆どの時間をこの台所で過ごしていた。手の届く所に欲しいものを全て置いている状況でお世辞にも整頓されているとは言えなかった。
「母さん綺麗好きだったのに、やっぱり手が回らないのね。」
 佳子が小さく呟いた。
「痛みは、どうなの?」
 朝使われたであろう食器を洗いながら佳子が栄子に問うた。
「朝晩で痛み止め飲んでるから痛みはないのよ。でも思うように身体が動かないからもどかしくてね。」
 栄子は自分の左の股関節から太腿にかけてをその皺くちゃのシミだらけの手でゆっくりさすった。
「そうだハルちゃん。陽子に頼んで夏野菜の苗を植えてもらったから、後で水やりに一緒に行ってくれる?私は重たいジョウロを持っては上手く歩けないから一緒に行ってくれると嬉しいんだけど。」
 栄子が少し寂しそうにハルを見上げた。ハルは栄子を見つめていいよ、と頷いた。冷たいマスカットのゼリーが喉を流れていった。
 十五時を回ってもまだ照りつける太陽が暑苦しくて、エアコンのない栄子の家は扇風機の前が特等席だった。
「ハルちゃんそろそろ行こうか。」
 栄子は手ぬぐいを頭に巻き付けて、古くくたびれた恐らく農作業用の割烹着に使い古された長靴という出立で寝転んでいたハルを覗き込んだ。
「ん、分かった。」
 ゆっくりと身体を起こすを暑さになんだか眩暈がした。
 短い上り坂の先に栄子の目的地はあった。 元々は米を作っていた田を十年程前に畑に変えたという。米用の田は他に二反あると栄子は言ったが、その反という単位がよく分からず聞き流した。
 畑には色々な形や色の苗が植えられていて、もう花の咲いているものもあった。
「この紫の花はナスよ。ちょっと植えるのが遅かったから沢山は採れないかもしれないけれど。」
 小さな紫色の花弁は野菜の花とは思えぬ可愛らしさがあった。
 一通り水やりを終えると栄子に手招きされた。
「これ、きゅうりよ。収穫してみな。」
 よく見ると葉が生い茂る緑の中に隠れるようにきゅうりが2、3本顔を出していた。
「え。さっき水あげた時気づかなかった。」
 ハルが目を丸くすると、栄子がにこやかに笑った。
「きゅうりはかくれんぼの達人よ。新鮮なきゅうりはトゲトゲだから気をつけてね。」
 と栄子が言うのが早いか、ハルがきゅうりに手をかけるのが早いか、ハルの指先にきゅうりの棘が刺さった。
「早く言ってよ。」
 ハルが少し頬を膨らますと、残りのきゅうりを栄子がささっと収穫してごめんね、と呟いた。その表情はハルが幼い時にこうして一緒に畑に野菜を収穫に来た時に見たものと同じに見えた。
「さあハルちゃん、今度はこっちよ。」
 時折左の太腿を摩りながら、栄子がゆっくりと畑を進む。栄子が向かった先には大きな濃い緑の株があった。
「これ、このまま引っこ抜いてみて。」
 ハルはそれが何だか分からないまま、葉に手をかけた。
「もっと、根元の方持って。」
 言われるがまま、根元から引き抜く。
「じゃがいもだ。」
「うーん今年も豊作だね。」
 ハルの足元にゴロゴロとじゃがいもが転がった。
「これは明日の朝、ふかし芋にして食べようね。」
 栄子は自分の割烹着にじゃがいもを拾って入れ、にこやかにさあ帰ろう、と言った。
 夕焼けが向こうの山に沈みかけていた。
 

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