「母さん、今日からハルが一緒にいるからね。」
 佳子はハルの荷物を詰め込んだ旅行鞄を赤いコンパクトカーから下ろした。
「ハルちゃん学校はいいの?」
 夏期講習など知るはずのない祖母 栄子 からまさか学校というキーワードが出るとは思いもせずハルは目を見開いた。
 夏期講習の出欠用紙は一切母に見せずに欠席で提出した。担任の飯田は一度は怪訝な顔をしたが、骨折した祖母の話をするとすぐに折れた。
「何言ってんの、母さん。ハルは今週から夏休みだよ。」
「なんだそうかい。それならここでゆっくりするといいよ。」
 栄子は目尻を下げてにこやかに笑った。栄子はハルの知っている栄子よりも小さく感じた。
「さあこっちおいで。お見舞いに来てくれたお友達からゼリー頂いたの。冷やしておいたからハルちゃん一緒に食べよう。」
 冷蔵庫からカラフルな果物のゼリーをいくつか出して、食器棚から銀色の小さなスプーンを持って、食卓に並べた。
 手術後畳に座れなくなった栄子は一日の殆どの時間をこの台所で過ごしていた。手の届く所に欲しいものを全て置いている状況でお世辞にも整頓されているとは言えなかった。
「母さん綺麗好きだったのに、やっぱり手が回らないのね。」
 佳子が小さく呟いた。
「痛みは、どうなの?」
 朝使われたであろう食器を洗いながら佳子が栄子に問うた。
「朝晩で痛み止め飲んでるから痛みはないのよ。でも思うように身体が動かないからもどかしくてね。」
 栄子は自分の左の股関節から太腿にかけてをその皺くちゃのシミだらけの手でゆっくりさすった。
「そうだハルちゃん。陽子に頼んで夏野菜の苗を植えてもらったから、後で水やりに一緒に行ってくれる?私は重たいジョウロを持っては上手く歩けないから一緒に行ってくれると嬉しいんだけど。」
 栄子が少し寂しそうにハルを見上げた。ハルは栄子を見つめていいよ、と頷いた。冷たいマスカットのゼリーが喉を流れていった。
 十五時を回ってもまだ照りつける太陽が暑苦しくて、エアコンのない栄子の家は扇風機の前が特等席だった。
「ハルちゃんそろそろ行こうか。」
 栄子は手ぬぐいを頭に巻き付けて、古くくたびれた恐らく農作業用の割烹着に使い古された長靴という出立で寝転んでいたハルを覗き込んだ。
「ん、分かった。」
 ゆっくりと身体を起こすを暑さになんだか眩暈がした。
 短い上り坂の先に栄子の目的地はあった。 元々は米を作っていた田を十年程前に畑に変えたという。米用の田は他に二反あると栄子は言ったが、その反という単位がよく分からず聞き流した。
 畑には色々な形や色の苗が植えられていて、もう花の咲いているものもあった。
「この紫の花はナスよ。ちょっと植えるのが遅かったから沢山は採れないかもしれないけれど。」
 小さな紫色の花弁は野菜の花とは思えぬ可愛らしさがあった。
 一通り水やりを終えると栄子に手招きされた。
「これ、きゅうりよ。収穫してみな。」
 よく見ると葉が生い茂る緑の中に隠れるようにきゅうりが2、3本顔を出していた。
「え。さっき水あげた時気づかなかった。」
 ハルが目を丸くすると、栄子がにこやかに笑った。
「きゅうりはかくれんぼの達人よ。新鮮なきゅうりはトゲトゲだから気をつけてね。」
 と栄子が言うのが早いか、ハルがきゅうりに手をかけるのが早いか、ハルの指先にきゅうりの棘が刺さった。
「早く言ってよ。」
 ハルが少し頬を膨らますと、残りのきゅうりを栄子がささっと収穫してごめんね、と呟いた。その表情はハルが幼い時にこうして一緒に畑に野菜を収穫に来た時に見たものと同じに見えた。
「さあハルちゃん、今度はこっちよ。」
 時折左の太腿を摩りながら、栄子がゆっくりと畑を進む。栄子が向かった先には大きな濃い緑の株があった。
「これ、このまま引っこ抜いてみて。」
 ハルはそれが何だか分からないまま、葉に手をかけた。
「もっと、根元の方持って。」
 言われるがまま、根元から引き抜く。
「じゃがいもだ。」
「うーん今年も豊作だね。」
 ハルの足元にゴロゴロとじゃがいもが転がった。
「これは明日の朝、ふかし芋にして食べようね。」
 栄子は自分の割烹着にじゃがいもを拾って入れ、にこやかにさあ帰ろう、と言った。
 夕焼けが向こうの山に沈みかけていた。