――あ、まただ。

午前八時四十七分。
いつもの着流し姿の少年が、風に髪を遊ばせ空を見上げている。
大学の入り口、バス停の前でのことだ。
朝の人混みにうずもれる少年は明らかにその場では浮いているのに、通り過ぎる学生たちは見向きもしない。
誰にも見えていないのか、そんなはずはないのについ疑ってしまう。
朝一限の授業に向かう途中、俺は毎日同じ時間と場所に彼の姿を認めていた。
陽の光を吸いこむ深い紫紺の着流し姿で、バランスの取りづらそうな高下駄を履いている。
初夏のからりとした風を受け、彼はいつもバス停に背を向け立っている。
人通りの多い大学の前で、斜め上の虚空を凝視する寂しげな姿――見つめる先には大学のバスロータリーしかないのに、いったい何を見ているのだろう。
『午前八時四十七分の君』。
心の中でかってにそう命名した少年をちらりと眺め、俺はいつも一瞬で通りすぎる。
バスを降り、時間的にぎりぎりな一限の教室まで突っ走る――けれど、今日はバスロータリーの前で足を止めることになった。同じ科の友達からメッセージが届いたのだ。

『一限休講。柏原(かしわばら)先生、緊急入院だって』

「えっ」

柏原先生は俺のゼミの担当教授、さらには今から受ける予定だった一限の先生だ。
入院、という知らせにも驚いたが、かなり高齢なので仕方ないのかもしれない。以前から体調が悪いやら、引退したいとぼやいていた。心配ではあるが――それより、向かうはずだった一限が休講になってしまったことで俺は出鼻をくじかれた。突然数時間の暇を申し渡されても困る。驚きと困惑、向かう先をためらったことで無意識に歩みを進めた、ちょうど目の前に件の少年が立っていた。

「あ――」

『午前八時四十七分の君』。
手を伸ばせば彼の肩をつかめる距離に俺は立っていた。こんなにも近づいたのは初めてのことだ。
遠目の後ろ姿からかってに「少年」と思いこんでいたが、歳は俺と変わらないのかもしれない。若くとも十代後半、たぶん高校生か大学生くらいだろう。
心地よい風に吹かれる横顔は端正だが、おそろしく生気がなかった。心配になるほど白い。
柳のように細腰で、儚げという言葉がぴったりの風貌をしている。
しみひとつない肌、長いふさとした睫が不穏な影を落とす。
かすかに憂いを含ませた眉、物思いに煙る涼しげな瞳は斜め上を――やはり遠くの虚空を凝視している。
初夏の風が吹くたびに青みがかった短い黒髪が揺れる。
見つめていたのは一瞬だったろうが、俺はハッとした。不躾にも魅入ってしまった。声をかけようとしたとき、彼はなんともいえないため息を漏らした。
嘆息には諦めが多く含まれている。
哀しげに揺らぐつり目がふと俺を認め、目があった。あってしまった。――瞬間、ひやりとした。
しまった、何か見てはいけないものを見てしまったのではないか。
とくに霊感があるわけでもないし、二十年近く生きてきて心霊体験などしたこともないが、体感として危険を察知したのだ。
(だって、こんなにも――)
じっと見つめてくる寂しげな黒い眼(まなこ)のせいかもしれない。
睨まれたわけでもないのに、全身にひんやりとした微粒子がまとわりついた気がする。彼に見つめられるだけで、心なしか吸う空気まで薄くなった。
なにか言わなければ。

「あ、の。こんにちは?」

声の震えに気づいたか知らないが、少年はそこで「おや?」と無音で目を丸くする。
カラコロ高下駄を鳴らし数歩の距離を埋めてくると、動けない俺を一段低い位置から見上げ、すんすん匂いを嗅いできた。俺より頭ひとつ分身長が低い。

「え、なに。なんすか……?」

見ず知らずの怪しい少年から顔を近づけられ、体臭を嗅がれたらどう反応すべきだろう。
俺は昔飼っていた白うさぎのことを思い出していた。
ひげの生えた桃色の鼻ですんすんふんふん、俺に近寄ってきては匂いを嗅いでいたあの、愛らしい生き物。
けれど今、目の前にいるのは小動物ではなく着流し姿の少年だ。
それも異様な雰囲気の、ひんやりとした空気をまとう不可思議な。
間近に見下ろせば襟元から白い首、鎖骨のあたりまでが目に飛び込んでくる。
白い喉仏がこくりと動き、ハスキーがかった声で彼はひと言、

「さくらのはなが」

――”桜の花が”?
疑問に答えるよう、少年が白い指で示した先に、見慣れたバスロータリーがある。
バスが数台止まっていて、待機中なのだろうバスの運転手さんと目があい、怪訝な顔をされてしまう。
バスロータリーの真横、大学構内にはたしかにソメイヨシノの木がずらりと植えられていた。
春になれば満開の桜花も拝めようが、五月半ばの今は豊かな新緑の葉にびっしりと覆われ、一見してそれが何の木かもわからない。

「桜がなに?」

このとき、俺はなにも聞かず立ち去るべきだったのだろう。
毎日見かける少年のことが気になっても――好奇心は猫をも殺すとも言うではないか。
少年は眉をあげ、すこし離れると片手を静かに差し出してきた。
何かくれとでもいう風に、病的なまでに白い手のひらが目の前で俺を待っている。
(白い。本物か?)
プラスチックか大理石みたいに作り物めいたその腕に、触れてみたいと好奇心が頭をもたげた。
触ってみたら冷たいのだろうか。
意外と体温があるかもしれない、否、ひょっとしたら本当に白い大理石から切り出した彫刻のように硬いのかも。
反射的に手を伸ばしていた。
無防備に差し出された真白い手のひらに、なんとなく右手を重ねおく。
握手するのでもない、空気の塊を与えるような、我ながら意味不明な行為だ。いったい何をしているのだろう。
つめたく白い手のひらに触れた――瞬間、力強くぎゅっと手を握られた。

「っ、――!?」

強風が突然頬を打ち、飛んできた葉っぱや白い花弁に視界が奪われる。
風が止み、おそるおそる目を開けるとあたりは暗くなっていた。
快晴だった空は黒雲に覆われ、今にも雨が降りそうだ。
空気の流れに沿い、白い花びらがたくさん漂っている。
はらはらと大量に舞うそれがうす紅の桜だと気づいたとき、目の前に巨大な桜樹が現れた。
苔むした盛り土に力強く根を張り、節くれだった大きく立派な樹。
四方へ伸びる枝にたわわに桜の花を実らせている、今が盛りの零れ桜だった。
綺麗だ。いっそ神聖なほどに神々しい、曇天の下の桜吹雪。
暗い背景のなかで、季節外れの桜の花が白く輝きみえる。
けれどおかしい、理性が頭の中で混乱しわめいていた。
目の前の桜の巨樹、そこはバスロータリーだったのだ。
整備されたコンクリートの平地に緑の市バスが何台もあったはずが、すっかり消え去り、今は平らな庭が広がっている。代わりのように忽然と現れたのは、桜の木。

「なんで――え?」

ぎゅっと手を握る少年が、悲しげに桜を見て何か訴えた。
無音の唇がパクパク開き、必死に俺に言葉を伝えようとしている――のに、聞こえない。音が――……。
またひとつ強風が吹き、頬に痛いほどの花びらが叩きつけられた。
目の前が真っ白な花吹雪に染まっていき、俺は目をとじる――……。

 ****

――灰色の水の中だ。
目を開けた刹那、そう思った。
大学前の道、バスロータリーの前に俺は立っている。
桜の花は消えていた。少年の姿も、もうない。
いつも通りの風景だった、ただ一点を除けば。
(色が、ない)
濃い黒、薄い灰色、グラデーションの白黒世界が広がっていた。目をこすっても風景に色は戻らない。

『大丈夫ですか!?』
『救急車、AEDは!』
『写真撮らないで! 関係ない人は行って!』

聴こえてくる音はぼんやりと遠く、俺は小学校の水泳の時間を思い出していた。
水中にいると、地上の音はとても遠くなる。現状はそれに近い。
音のほうを振り返ると、バス停の前に人だかりができていた。
何事かと取り囲む人や慌てているバスの運転手さん、学生たちの真ん中で倒れているのは――、

「俺、……」

白黒の滲む視界をかき分け、慌てて近づいてみる。
意識を失い眠るように目を閉じた己の身体が、仰向けにシャツのボタンをゆるめられて、呼吸しやすい姿勢で寝かされている。
大学のほうからAEDが運ばれてきて、バスの運転手さんと大学の事務員らしき男性が真剣な顔でそれを使おうとしていた。
これは何だ。
夢かもしれない。
考えてみれば、今朝は現実離れしすぎていた。
『午前八時四十七分の君』に近づいたのもそうだし、あるはずのない桜の幻も見た。
きっと俺はバスの中で居眠りをした、そうに違いない。
だって、そうでなければこんな――こんなことって。
これじゃあまるで俺が、

「えー、午前九時〇二分。御身・五〇四八号は脳梗塞により死亡、と。ん、ん、んー」

人だかりの脇に猫目の青年が立ち、黒いボードにさらさらと何か記していた。
灰色の視界のなかで、彼ひとりだけがカラフルだ。そこだけ明るい光が灯ったように目立つ。
短く刈った金髪、銀縁の丸メガネ、茶色くて人懐こい大きな両目が、すばやく手にした黒いボード上のメモを追う。
五月には多少暑苦しく見える黒革のフードつきコートを揺らし、彼は「ん?」と俺を見る。表情は明るく人懐こい猫のよう。二十歳くらいだろう、まだあどけなさの残る表情で、彼はにっこり笑った。

「ああ、気にしないで。嫌な世の中だよね。人が道で倒れてたらみんなカメラ向けるの、やられたほうは嫌だよねぇ。お前らいっぺん死んでみろって感じ? あはは、大丈夫だいじょぶ、彼らもすぐに君と似た目に――いやもっと酷い目にあうからさ。ああ、混乱してるね~落ち着いて。顔が怖いなぁ、あはは」

俺は声を発そうとしたが、虚しく口を開くだけに終わった。
なにから話せばいいのか、あまりの事態に言語中枢が追いつかない。
猫目の彼は、鼻歌でも口ずさみそうな上機嫌でさらりと告げた。

「僕の名前はアップル・ビー。死んだ人間をお迎えするのがお役目さ。まぁ、俗に言うところの ” Death ”だね」