いつか、眠りにつく日2~限定エピローグ~



【もうひとつのエピローグ】



「輪」

母親が俺を呼ぶときはろくなことがない。
赤本の問題集から意識を戻した俺に、もう一度名前を呼ぶ声が届いた。
前までは返事もしなかったが、最近の俺はちょっと前とは違っている。

「なに」

ぶっきらぼうな返事をして部屋を出た。

階下に降りると珍しく父親もソファに座っていた。
まだ夕方なのにいるなんて珍しい。
冬休みもあと少しで終わる年明け。
やけに寒いと思っていたら、リビングの窓の向こうには珍しく雪が降っていた。

「忙しいんだけど」

「いいからちょっと時間ちょうだい」

やたら最近明るい母親は、俺の反抗期が終わったと思っているらしい。
まあ正直、高校三年生にもなってひねくれているのもどうかと思うし、ふたりにはずいぶん面倒をかけた自覚はある。
父親は読んでいた新聞を几帳面にたたむと、
「最近、体調はどうだ?」
と聞いてきた。

「あれからは……大丈夫だと思う」

「記憶が抜けることもないのね?」

お茶の入った湯呑を差し出しながら聞く母親にもうなずく。
去年の春から夏にかけては、ずっと体調がおかしかった。
やたら体が疲れていたし、どこも出かけていないのに足がパンパンになっていたことも。
記憶がすっぽりと抜け落ちることまであり、いくつかの病院にも行った。
そのたびに少しずつ俺は両親のやさしさに素直になった気がする。

「最後はたしか、屋上の扉の前で立ってたんだよ。あれが最後かな」

あれからもう半年が経った。

やたら熱いお茶を飲んでいると、目の前のふたりの様子が変なことに気づく。
なんだかお互いにチラチラと視線を合わせては、モゾモゾと腰の位置をずらしているのだ。

「どうかした?」

尋ねると、父親はお茶でむせて激しく咳き込んだ。

「あ、あとは頼む」

「ちょっとお父さん!」

逃げるように二階へ逃げていく父親をぽかんと見送った。
なんだろう……?
嫌な予感がするけれど好奇心のほうが強い。

「なんだよ今の。俺、最近は心を入れ替えて真面目にやってるつもりだけど?」

「それは知ってるわよ。『生まれ変わったみたいだ』って先生も驚いてらしたし、勉強をがんばっているのもお母さんわかってる」

身を乗り出して力説する母親に俺は苦笑した。

それくらい心配かけてたんだろうな……。
「まあ、兄ちゃんももういないしな」

「そうね。でも、その分しっかりしてきた気がするわ」

家族の間でタブーと化していた兄の話が、最近では自然にできている。
きっと誰もが悲しみを乗り越えたのだろう。

「じゃあなんだよ」

じっと見つめると母親は、何度も肩で呼吸をしてから一瞬キュッと目を閉じてから口を開いた。

「あの、ね……。弟ができるの」

「……弟?」

「実はお母さん……妊娠していてね。今が十五週なの。今日、性別がわかったの」

恥ずかしそうにうつむく母親に、なるほどと俺は湯呑を置いた。

「いまいくつだっけ? 四十?」

「四十二歳……。高齢出産になるからまだわからないけど――」

消え入りそうな声で言う母親に俺は思わず笑った。

「それってすげーじゃん」
「え……反対しないの?」

「しないよ。むしろうれしいわ。弟ほしかったし」

そう言う俺に母親は瞬時にボロボロと涙をこぼしたからビックリする。

「泣くことないだろ」

オロオロする俺に母親は子供みたいに泣いている。

「だって反対されると思ってたから。でも、お母さん産みたいの」

「してねーよ。むしろ大歓迎」

新たな生きがいがあればきっとこの家ももっと元気になる。
そんな気がした。

「そうよね。やっと言えたからよかった」

涙を拭う母親が、
「もう、お父さんは肝心なときはいつも逃げるんだから」
と二階を見上げてぼやいた。

「ま、いいんじゃねぇの」

「そうよね」

うれしそうに饅頭をほおばる母親を見て納得。
最近、やたら食べているのはそのせいだったのか。