佑香と交差点で別れて自分の道へと進んだ。少し小道に入っただけで車の通りはほとんどなくなり、脇を見れば俺の背丈とそれほど変わらない樹木が等間隔に並んでいた。この樹木はこの辺りの特産品である次郎柿を実らせる果樹だ。辺りを見渡せば次郎柿か田んぼかポツポツと家が建っているくらいしか見当たらない。
 小学校は子供の足でも徒歩圏内。中学校は自転車で約七キロの道を自転車で通った。そして市街地の高校に佑香と共に進学。距離は中学校の時の倍以上になったが、代わりにバスを使って通学している。一日に数本しかないバスだが、中学校の頃に坂を上って下りてを繰り返して通ったことに比べれば全然快適だ。
 佑香と俺の家は五軒ほど離れている。そう聞けばかなり近く感じるかもしれないが、家と家の間はたいてい次郎柿の果樹園か田んぼだ。それに加えて、佑香と俺の家の丁度中間に位置する辺りには小川が流れている。小川の辺りは水を利用する関係で田んぼが広がっていて、五軒隣りとはいえ歩けばそれなりの距離があった。
 次郎柿の果樹の向こう側には小川と田んぼが広がり、更にその向こうには俺の歩く道とは違う方向へと伸びる別の道が見える。その道には佑香の歩く姿も見えた。丁度俺と同じようにしてこちらの道を見ていた佑香と目が合う。同時に佑香が歩を止めて元気よく右手を振った。それに答えるように俺も軽く手を振る。これもいつも通りの光景だ。
 歩けば歩くほどに佑香の姿が小さくなる。互いに前を向いて歩いているだけなのに進行方向が違えばやがて見えなくなる。最後に小指の爪ほどにに小さくなった佑香がもう一度手を振ると、佑香は住宅の陰に入って見えなくなった。そこから先は佑香の姿が俺の進路から見えることはない。だから俺も振り返ることなく自分の道を進んだ。
 市街地に比べれば、風を遮る物も少ない田舎は幾分か涼しい。風が体感温度を下げてくれるというのももちろんあるが、それ以上に小川や田んぼの水分を多く含んだ風というのは涼を運んでくれる。
 これからが夏真っ盛りだが、今年はどう過ごそうかと内心ワクワクしていた。佑香と付き合い始めて初めての夏だ。幼い頃に小川で沢蟹を追いかけていた頃とは違い、バスや電車を使えば海にも行ける。市街地には冷房の効いたショッピングモールも、県内でも有数の広大な緑地公園もある。それに夏はやはり夏祭りだ。これらを佑香と一緒に巡れば楽しい事は間違いない。
 そんな事を考えていると、気が付いたら自分の家の前に着いていた。スクールバックから鍵を取り出し、カチャリと軽い音を立ててからドアノブを捻る。ドアノブの金属の質感が、暑さの中ここまで歩いてきたことで汗をかき湿った手のひらに心地よい感触を伝える。そのままドアを開けると、ドアノブのヒンヤリとした感触など忘れてしまうような涼風が吹き抜けた。冷房ではなく、木造の家独特の涼しさだ。外が暑ければ暑いほど、屋内の涼しさが際立つ。靴を脱いで上がれば、ギィという小さな音とともに足の裏までも冷たく心地よい木の感触に包まれた。

「ただいま」

「おかえり。早かったね」

 居間に入ると、母さんが麦茶の入った透明なグラスを片手にテレビを見ていた。窓を全開にして、小川の水分を含んだ涼風を、首を固定した扇風機を使ってこれでもかと浴びている。

「今日はテストだったからね。て言うか、こんな暗いところでテレビ見てたら目が悪くなるよ」

 俺が居間の空いているところに腰を下ろすと、母さんは扇風機の首振りをオンにした。

「だって電気つけたら暑いんだもん」

 扇風機の独占が出来なくなった分、母さんはテーブルから団扇を取って扇ぎ始める。ノースリーブのシャツに首からはタオルをぶら下げ、早くも暑さにお手上げといった様子だ。

「まだ五月なんだけど……そんなんで、夏大丈夫?」

「五月って言っても来週には六月でしょ? もう立派な夏よ。夏。あー、麦茶が美味しい」

 母さんは左手で団扇を扇ぎながら右手に持った麦茶のグラスを口へと運ぶ。グラスを傾ける度にカラン、カランと高い音を響かせた。

「それより、テストどうだったの?」

「まぁまぁかな」

「そっか。流石は佑香ちゃんよね。ここのところ毎日うちに来てくれて、勉強教えてくれてたし。今度お礼持っていかないとね」

「いや、そんなのいらないって!」

「なんでよー」

 他愛ない親子の会話だが、母さんは常にニヤニヤしっぱなしだった。
 俺は母さんや父さんに佑香との関係は話していない。しかし、そこは流石と言うべきか、田舎だ。些細なことでも噂となり、俺と佑香のことは瞬く間に近所に広まった。もちろん母さんや父さんにもだ。それでも、俺の両親は俺の口から直接聞くまで突っ込んだ話はしてこない。母さんは我慢できないのか、こうして度々佑香の名前を出しては俺の反応を楽しんでいるようにも見えるが……
 夕食も済まし自室に戻ると、部屋の隅に置いてあった鞄を手繰り寄せる。中に入れていた携帯を取り出そうとして、見覚えのないノートが鞄に入っていることに気が付いた。
 俺は気になってノートを鞄から取り出し、一ページ捲る。すると、丸みのある文字がびっしりと書き込まれていた。一番右には月日の記載があり、内容を読み込まなくてもこれが日記であることはすぐに理解した。そして、誰の日記であるかも同時に理解する。その字は俺のよく知るものだったからだ。これは佑香の日記だ。
 月日の記載を見れば一年近く前の内容であることが分かる。パラパラとページを捲れば、何日か置きに佑香が日記を今日まで書き続けてきていることがよく分かった。
 何かの拍子に俺の鞄の中に紛れたのだろう。もしかしたら今頃佑香は日記がないことに気が付いて探しているかもしれない。俺は携帯を手に取り、佑香に電話をしようとして、辞めた。
 佑香が日記をつけている事を俺は今まで知らなかった。今電話して、俺の手元に自分の日記があることを知った佑香はどう思うだろうか。日記をつけたことがない俺でも、他人が見たら恥ずかしいと思うことだけは分かる。この日記は、何事もなく佑香の手元に戻るべきだ。そう考えた俺は、佑香にバレないようにこの日記を佑香の鞄に戻しておこうと考えをまとめた。