魔法使いになりたいか

「そういえば、お父さんの戒名代ってどうしたの?」

俺は正直、お前らにあのクソ親父のことを、『父さん』とか気軽に呼んでほしくないし、自分のことも兄弟だなんて、思われたくない。

「知らない。親父が自分で勝手に考えてた名前を、彫ってもらった」

うちみたいな貧乏本屋に、そんな金は出せない。

だから親父は、自分の戒名を自分で考えてた。

本当に馬鹿で非常識な男だ。

「なんかそれって、和也のお父さんらしいよね」

今度は千里が笑って、自分の母親の名前が刻まれた位牌を指差した。

「でも、うちの母さんも、全く知らない誰かに名前をつけられるより、お父さんに名前を付けてもらった方が、うれしかったと思うよ」

千里は九歳の時にこの家に来た。そして十一歳で、事故で母を亡くした。

その時の入院費用がかかりすぎて、まともな葬式もしていないし、最低ランクの戒名代も出せなかった。

「位牌とかいらないって、言ってたのに」

「『3つも位牌が並んでたらおかしいから、私はいいや』って、言ったんだ」

その頃から生意気だった千里は、母の死後、すぐにここから飛び出して芸能界に入った。

「だから、作った」

その結果、こんな異様な風景が出来上がった。

同じ男の名前の隣に、それぞれ違う女の名前が連なった三体の位牌。

「ま、確かに変だよね」

尚子と千里は笑ったけど、俺は笑えない。

いつの間にかすっかり居着いている猫が、その頭を俺の足にすりつけた。

俺がどんな気持ちで過ごしてきたのか、お前らには絶対に分かってほしくない。

線香の臭いが充満する部屋で、チンチンと呼び鈴のように鐘をならして、申し訳程度に手を合わせた後、千里は両腕を伸ばして大きく伸びをした。

「あー、お腹へったぁ! そういえば、あっちにご飯おいてあったよね」

「私も食べるー」

千里に続いて尚子まで立ち上がり、俺の最高の誕生日メニューを物色している。

「おい! ちょっと待て!」

「やだ、もうお昼じゃなーい」

「お姉ちゃん、ケーキもあるよ!」

「お参りしたら、帰るんじゃなかったのか!」

「そんなこと、一言も言ってないし」

「そうだよねぇ」

二人は勝手に台所に入り、冷蔵庫を開け、俺が作り置きしておいたおかずのタッパーを次々と皿にあけていく。

「おい、やめろ! 勝手に触るな!」

そこはお前らが勝手に触っていいところではない。

タッパーの順番は賞味期限、痛みやすさ、作った日時、熟成期間、栄養バランス、その他もろもろ全てを考慮したうえで、綿密に計算され配置されているのだ!

「あ、そうそう、あたし、今日からここに住むから」

「はい?」

尚子がとんでもないことを口にする。

「あー、そうなの? 実はわたしも~」

「なんで!」

「税金対策」

「そんなの、俺が認めるわけないだろ!」

二人はおかずののった皿を、がしがしちゃぶ台にのせていく。

尚子は、台の上を一通り見回して言った。

「私のお茶碗は?」

「急にそんなこと言われて、許可できるかよ!」

「ねぇご飯。早くお茶碗出して」

この女共に限らず、人間というものはその性質上、お腹がすいていたら、まともに人の話しも聞けないし、思考力も落ちる。

俺はずっと置きっ放しになっていた、尚子の茶碗を棚から取り出した。

「今日から同居するとか、聞いてないけど!」

話しを円滑に進めるために、俺はその茶碗にご飯をよそう。

けっして尚子の命令に対し、従順に反応しているわけではない。

それ以外に他意は全くもって一ミリもない。

「こないだ税務職員が来たでしょ」

「あぁ、なんか書類持ってきて」

「箸」

尚子のお箸は、深い緑のキラキラの柄のやつ。

「税金対策でここの本屋の赤字経理を利用してるんだけど、監査がうるさくってさ。住民票、ここに移して住むから」

「はぁ?」

「大丈夫よ、ほとぼりが冷めたら、ちゃんと自分ちに帰るから」

尚子は平然とみそ汁をすする。

「住民票移すだけだから」

「それって、結構なことじゃない?」

「なにが?」

まるで本当の家族みたいじゃないか……なんて、口が裂けても言えない。

「あんた、私をなめてんの」

反論の出来ない俺に向かって、平気でそんなことをいう奴だ。

本音と建て前なんて、別に決まっている。

つまり、税金対策以外のなにものでもない。

「もー待てなぁ~い、いただきまぁーす!」

ほんのわずかの間気を抜いていた隙に、千里は俺の使っていた箸で、食べかけのごはんに手をつけた。

「ちょ、それ俺の!」

「だってお兄ちゃん、私もうお腹すいて、我慢出来ないんだもん!」

とにかくコイツの場合は、なにをしでかすか全く予測がつかない。

だから、コイツの暴挙を防ぐためには、俺は常に先回りして行動する必要があるのだ。

「で、あんたは? 今が盛りの人気アイドルが、なんで実家に戻るの? 今度は何をやらかしたわけ?」

俺が千里専用の黄色の茶碗を取り出し、朱色に花柄の箸を取り出している間にも、俺の大切なかますの干物が減っていく。

「いやぁ~、ファンの追っかけがすごくってさ」

にやりと笑った千里に、同じくにやりと尚子が応戦する。

「今度は誰との熱愛報道?」

「これ、いっとくけどドラマの番宣で、ヤラセだからね」

千里はそこにあったみそ汁をすする。

「お・れ・の・ご・飯! それ!」

「お姉ちゃんも、ここに住むの?」

千里の目の前に、ご飯を山盛りよそった茶碗と箸と、みそ汁も置いた。

「しばらくの間ね」

「わたしも!」

ついでに、尚子のみそ汁も文句を言われる前に追加しておく。

「ホント、実家って便利だよねぇ」

二人はケラケラ笑ってるけど、俺にとっては、死活問題だ。

「俺のご飯!」

とりあえず二人の食事の準備が整った。

ここで、ようやく俺が怒っていいタイミング。

両拳をドンと台に叩きつけて、やっとおしゃべりが止まった。

「自分で出してきなさいよ」

「自分の食べる分くらい、お兄ちゃんなら他にあるでしょう」

テーブルに並んだ料理を順番に眺めた。

こいつらが勝手に出してきた俺の作り置きおかず。

「あぁ、あった」

残った野菜を千切りにして浅漬けにしたものを、ハムで巻いておいたやつが出ていない。

あれは早めに食べないといけないから、冷蔵庫のまた別の場所にしまっておいたんだ。

それを台所に取りにいったついでに、残っていた煮物も持ってくる。

俺が席についたら、尚子と千里が手を合わせた。

ご飯を食べる時は、全員が席に着いてから、手を合わせて『いただきます』を言う。

俺が唯一、こいつら相手に成功したしつけだ。

「いただきまーす!」

三人の声が重なる。

勝手に入り込んできた猫は、いつの間にか座布団の上で丸くなって寝ていた。
一人で静かに過ごすはずだった俺の誕生日が、親父の命日と重なったせいで、こんなにもにぎやかになる。

食事が終わった後も、結局なんだかんだで、空き部屋になっていた二階の部屋の掃除とか、片付けやらを手伝わされた。

体を動かしていたのは俺なのに、指示していたのだけのあいつらは、頭使って疲れたとかで、夕飯の買い出しにも行かされた。

が、まぁそれはいい。

あいつらが買い出しに行って、料理するとか言いだすと、まともな食事が出来るのかとハラハラして、そっちの方が落ち着かない。

夜になっても、シャンプーがどうとか、シャワーの出が悪いとか、なんだかんだでバタバタして、ずっと振り回され続けた。

俺はすっかりくたびれて、自分の部屋に戻った時には、いつのまにか寝落ちしてしまっていた。

朝になって、二人を追い出すことが不可能と悟った俺は、うるさいのが起き出す前に、朝食の準備を完璧に済ませておいた。

箸置きもみそ汁の温度も完璧だ。

そうしておけば、いちいち顔を合わせなくてすむし、文句も言われずにすむ。

俺はそうやって奴らを出し抜いてやったことで、非常に爽快な気分で店の前を掃除していた。

「私は魂の指導者!」

目の前をさっと黒い影が横切ったと思ったら、昨日の老猫だった。

「あ、おはよう」

「お前はそれでいいのか」

「なにが?」

「このまま、何もない無能かつ平凡な男として、一生を終わらせるか」

足元にうずくまった老猫の鋭い目が、キッとにらみつける。

「それとも、修行をつんで魔法使いになるか」

この猫は、どこまで本気でそんなことを言ってるんだろう。

確かに魔法使いは魅力的だけど、修行となると面倒くさい。

「えぇ~、でも俺、面倒くさいこととか、しんどいことって、基本嫌いなんだよねぇー」

「このままだと、あいつらのいいように使われて人生が終わるぞ」

「あいつらの、いいように使われる?」

あいつらって、どいつらのことなんだろう。

昨日来た祈祷師? それとも、時々店にやってくる万引きの常習犯? 

それとも、やたら高慢な商店街のお偉いさんたちのこと?

この先俺を、いいように扱うであろう可能性のある人間の数を想像してみると、急に背筋がぶるっと震えた。

違う、そんなどうでもいい奴らのことじゃない、うちに転がりこんできた、あの女共のことだ!

「そんなこと、いいわけないだろ!」

「よし! 作戦会議だ!」

「作戦会議だ!」

店の中に飛び込んでいった老猫を、慌てて追いかける。

店に入った猫は、当たり前のようにレジ台の上に飛び上がり、俺がいつも座っている座布団の上に腰を下ろす。

「あのさ、猫が苦手な人もいるんだから、そこはやめてくれない?」

「私は魂の指導者!」

「あぁもう、分かったよ」

それを認めないと、話しが進まないらしい。

俺は時々やってくる常連のお婆ちゃんのために用意してあった座布団を、レジ横の座布団の隣に並べた。

「じゃあ、ここにして」

老猫は、案外すんなりと場所を移動してくれる。

「まずは、どんな魔法使いになりたいかだ。その方向性によって、修行の内容も変わってくる」

「えー、修行って、本当に必要なの?」

「当たり前だ!」

「うぅ~ん、どうしよっかなぁ~」

俺は、自分が魔法使いになった姿を想像してみる。

箒で空を飛べても、店番をしないといけないから、出かけることは出来ないし、お部屋を綺麗にする魔法だって、普段からこまめに掃除しているから、特段必要ではない。

「やっぱ、いいや」

「なにか叶えたい望みはないのか?」

「俺の、望み?」
のれんで仕切られた背後の居間から、にぎやかな笑い声が聞こえてきた。

どうやらあの二人は、テレビのワイドショーに写っている自分たちの姿を見ながら、盛り上がっているらしい。

「まずは、あの女をどうやって追い出すかだ」

「あの女って、どっちだ」

「大きい方!」

千里だけなら、まだなんとかなる。

しかし、尚子と一緒になると、とにかく上から目線で攻められるから、かなわない。

千里がうちに来た時はまだ小学生だったから、一緒に住んでた時期もあるし、扱いには慣れてる。

けど、尚子の方は親父が再婚した時にはもう大学生で、ほとんどずっと大学の図書館で勉強してたから、うちには寄りつかなかった。

「血はつながらなくても、姉として認めたんじゃなかったのか」

「やめた!」

もしかしたら、その頃十五歳だった俺に、遠慮してたのかもしれないと思ったこともあったけど、そもそもが、そんな殊勝な考えを持ちそうなタイプじゃない。

「やっぱ嫌いだ」

あいつは、自分の母親が病気で倒れたとき、奨学金で海外留学をしていた。

病気になってしまったことを、親父にも娘にも隠し通そうとしていたあの人を、俺は影で支えた。

「なんでろくに話したこともない、見ず知らずの連れ子と同居しなくちゃならないんだ。おかげで俺は、二人目の母さんにふりまわされたんだ」

俺が馬鹿だった。

もっと早く、そのことを誰かに相談しておけばよかったんだ。

「あいつを追い出す魔法を使って。そしたら、あんたを魂の指導者として認める」

もう二度と、あんな思いはしたくない。

「それで、導師って、呼ぶ。導師を信じて、魔法使いの修行をする」

俺は本気だ。その願いが叶うなら、鬼にでも悪魔にでもなってやる。

「いいだろう、お前の望みは叶えられた」

「え?」

「追い出したぞ」

「えぇっ!」

「確認してみろ」

その言葉に、俺はのれんの奥へと走った。

飛び込んだ居間には、確かに千里だけしかいない。

「あいつは!」

「あいつって、お姉ちゃんのこと?」

ごくりとつばを飲み込んでから、うなずく。

「なんか急なトラブルがあったとかで、さっき連絡が入って、飛び出していっちゃった」

「そうなの?」

「なんか、二、三日は帰ってこれないかもって」

頭の中で、色んなことがぐるぐるとまわってるけど、その正体が俺にはよく分からない。

千里はそんな俺を見ながら、眉をしかめた。

「なによ」

「いや、なんでもない」

俺はゆっくりと後ろに下がって、再び店のレジ台に戻る。

目の前には、一匹の老猫。信じられない。

「修行、始めるか?」

「あれ、本当に導師の魔法?」

偶然と必然。可能性と蓋然性。

あるかないかと、確率の問題。

正直、学校の成績なんて、いい方じゃなかった。難しい話しは分からない。

けど、今目の前にいるこの不思議なしゃべる猫は、どうしてここにいるんだろう。

それは、嘘じゃなくて、本当のこと。

「信じるか信じないかは、お前次第だ」

導師は黙ってうずくまり、丸くなって目を閉じた。

俺を試すつもりなら、俺もこいつを試してやる。

「じゃあ、もう一人も追い出してよ! あのちっさい方!」」

導師の耳が、ぴくりと動いた。

「では、お前がやってみろ。お前があの妹を追い出せばいいじゃないか。それが望みなら、そうすればいい」

うずくまったままの導師の、両目がうっすらと開いた。

「私が魔法を使って、追い出すことは簡単だ。自分で追い出せないのなら、魔法を習ってから、自力で追い出せばいい。これが最後通告だ。おまえに魔法を習う気がないのなら、私はここを去る」

導師は丸くなったまま、じっと動かず目を閉じている。

そうだ、猫の導師に出来るなら、俺にも出来ないはずはない。

もしもあれが偶然であるならば、俺にも同じ偶然があるはず。

それに気がついた俺は、めったに客の来ない本屋の店番を抜け出して、奥の居間に戻った。

目に入ったのは、誰もいない部屋。

台所の方から音がして見上げると、千里が廊下へと出て行くところだった。
「どこ行くの!」

「二階だよ、今日は久しぶりの休みだから、一日ゆっくりする」

「な、なにか、食べたいものとか、行きたいところとか、ないのか? 買い物にいくとか、出かける予定は?」

コイツがどんな理由であれ、家を出たら最後、全部の部窓に鍵をかけて、閉め出してやる作戦だ。

「なにそれ、ついてきてくれるの?」

ついて行く気はないが、一応うなずいておく。

「お兄ちゃん、私はもう、十一の子供じゃないよ。アイドルとして、仕事もしてる」

「いや、そうじゃなくて」

「そうだ! 昔みたいに、パンケーキ作ってよ。私、お兄ちゃんの手作りパンケーキ、大好き!」

「パンケーキ? なんだそれ」

「ホットケーキのことよ」

千里はにこにこ笑って手を振ると、それだけを言い残して二階へ上がっていく。

俺が言いたいのは、そんなことじゃない、出て行けだ。

とにかく千里の機嫌をとって、外に追いだそう。

ホットケーキの材料がないから、お前が買いに行ってこいって言う作戦も考えたけど、超人気アイドルの千里だと、外を出歩くだけでも大変な騒ぎになるし、そもそも材料も、全てうちにそろっていた。

千里は、父親のいない母子家庭で育った。

母親はずっと仕事ずくめで、ほとんど家にいなくて、うちにきた九歳のころには、すっごく細くてガリガリに痩せていて、めちゃくちゃ好き嫌いが多くて、俺の作ったホットケーキぐらいしかまともに食べられなかった。

だから俺は、千里のために、今までどれだけのホットケーキを焼いたか分からない。

市販のホットケーキミックスは、常に用意しておくのがくせになっていたし、それは千里がここを出て行ってからも、一度だって忘れたことはない。

俺はボールに粉を入れると、そこへ卵と牛乳を入れた。

その分量だって、体に染みついている。

甘いにおいが部屋中に広がったとき、台所のテーブルに導師が飛びのってきた。

「追い出すんじゃなかったのか」

「もちろん追い出すよ。そのための準備をしてるんだから、余計な口をはさまないでくれる?」

ホットケーキは、焼き加減が重要なんだ。

フライパンから目をはなしちゃいけない、絶妙のタイミングで焼き上げる、それが俺のこだわり。

生地の状態を見極める審美眼、その瞬間、火からあげられたフライパンは美しい投球フォームを描き、計算通り設置された皿の上に、みごとなシュートを決める。

「やった! 完璧だ!」

皿の上に積み重なった、焼きたてのホットケーキ。

ある程度冷まして、生地を落ち着かせることも忘れてはならない。

よし、時間だ。これを食ったら、出て行けって言おう。

千里を呼び出そうと階段を見上げたら、すでに千里は二階から降りてきていた。

「どうした?」

「やっぱ出かける」

「えぇっ!」

「てゆーか、呼び出し」

千里は、俺が芸術的に積み上げたホットケーキの山の、一番上の一枚を手に取ると、一口分だけちぎって口に放り込んだ。

「でも、基本オフの日だから、すぐに帰ってくるけどね」

千里は食べかけのホットケーキを、山のてっぺんに戻す。

「もういらないから。作んなくていいよ」

そう言って、手についたくずを払い落とした。

「食事制限あったの、忘れてた」

千里はかぶっていた帽子を目深にかぶり直すと、裏の玄関から出て行く。

怒りに震えている俺を、導師は見上げた。

「俺は! あいつが久しぶりに食べたいって、そう言ったから、わざわざ作ってやったんだぞ! 何が、『お兄ちゃんのホットケーキ、大好き』だ! 本当の兄弟でもないくせに!」

だがホットケーキに罪はないから、戸棚からラップを取り出し、一枚一枚ていねいにくるんでいく。

「思い出した! 俺はいつもこうやって、いいように使われてきたんだった!」

ラップには、後で困らないように、今日の日付を書いておく。

レンジでチンしてもいいし、トースターで焼いてもおいしく食べられる。

「絶対に追い出す! もうあいつらに、俺は振り回されたくない!」

作ったホットケーキをまとめて冷凍庫に片付けたところで、俺はふと大切な事を思い出した。

「そうだ、勝手に侵入されないように、窓を閉めてくる!」

走り出したその時、めったに鳴らない店の呼び鈴が鳴った。

導師と目を合わせる。

珍しいな、客なのか? 

俺は呼び鈴の鳴ったレジへと向かった。
「いやぁ、ホント参りましたよ」

その男は、昨日千里が持ってきたCDアルバムの全部を、レジ台の上にのせて言った。

「やっぱりね」

アルバムの一枚一枚を裏返して、製造番号をチェックしている。

「これ、全部返品対象ですよ」

「えぇっ!」

「メーカーのミスで、音源が収録されてないCDが流通するなんてねぇ、僕は委託されてあちこち回収にまわってるんですが」

その人は、にっこりと人のよさげな笑みを浮かべた。

「ここにも書店があったことをふと思い出して、立ち寄ってみたんです、早めに気付いてよかったですね、ほら、ここの店って、以外と桜坂花百合隊の入荷量多いし、グッズも充実してるから」

ついさっきまで、うちで寝転がっていた千里の顔が、ドアップで写っているアルバム。

呼び出しとかいって出て行ったのは、このことだったのかな。

「特別コンサートの抽選券つきCDですからね、今日は発売日だし、これから一騒動ありますよ」

「そっか、だから呼び出しかぁ」

「あと、これも」

やっぱり千里自身が昨日持ってきて、千里の指示で俺が張っておいたポスターを、この人は勝手にはがして手に持っている。

「ポスター貼ってると、在庫があると勘違いしたお客さんから商品を出せって、クレーム入れかねないですからね、ついでにこれも回収しておきますね」

「わぁ、ありがとうございます!」

なんて気の利く、なんていい人だ! 

千里はあんな奴だけど、千里のまわりには、こんなにもあたたかい、いい人たちであふれている。

沢山のファンと、そんな人たちに支えられて、千里は活動できているのだと思うと、俺にはもう感謝の気持ちしかない。

「じゃ、これ全部回収しときますね」

「あ、そうだ! 予約販売分の在庫も、裏の倉庫に入ってるんですけど」

「あぁ、じゃあそれも一緒に、回収しておきましょうかねぇ」

「ご苦労さまです」

俺は、段ボールを抱えて去りゆく男の背中に、ていねいに頭を下げた。

あんなとんでもなくわがままな千里につき合わされ、振り回されているのは俺だけじゃないんだと思うと、本当に涙が出てくる。

その直後、店に若い男の子二人が駆け込んできた。

「すいませ~ん! 予約していた桜坂花百合隊のアルバム、ください!」

「あぁ、それね」

経緯を説明する。

「は? そんなの、あるわけないだろ」

「あんたバカか、それって、今流行の詐欺じゃね?」

彼らは手にしたスマホで、何かを検索し始めた。

「ほら! そんな情報、一個も出てないぞ!」

「詐欺じゃねぇの、詐欺!」

「抽選券狙いで、そんなのが横行してるって、お前知らないのかよ」

「ちょ、ちょっと待って! 確認してみるから」

まくし立てる、俺より五つは年下の男に頭を下げてから、俺は店の奥に駆け込んだ。慌てて電話をかける。

「あ、千里? あのね……」

「はぁ! アルバムの返品? そんなミスあるわけないでしょ! お客が怒ってる? とりあえずお姉ちゃんに電話!」

すぐさま尚子にかけ直す。電話は、すぐに出た。

「さすが我が社の唯一にして無二の赤字部門、やってくれるわね」

受話器の向こうで、ため息が聞こえる。

「予約は何枚入ってたのよ、あっそ。小さい書店でよかったわね、とりあえず、発送の車が事故で遅れてるって、説明しておきなさい」

プチッと電話が切れた。

本当にキレているのは、通話じゃなくて、尚子と千里。

俺はそれからも次々と訪れる客に、ひたすら頭を下げて謝った。

「すいません、本当にすいません!」

書店の売り上げ、一日平均五千円前後、来店者数四、五人という店に、今や客が十人はいて、しかも全員怒ってる。

これは我が家の危機的状況だ。

尚子の会社と提携している物流会社が、善意で車の手配をしてくれて、千里のご本人さまパワーで、未発送の在庫をかき集めてきてくれた。

その間にも、俺はひたすら頭を下げ続ける。

尚子と千里が走り回ってくれたおかげで、夕方遅くには、予約枚数の全部が数を揃えて店の奥に積まれ、その大半がお客さんの手に渡った。

また騙された。

俺はその対応に追われて、とにかく一日中ドキドキしっぱなしだった。

やってくる客は、全員千里のアルバム目当て。

俺は運送会社の車が出発したという尚子からの電話を受けてから、ずっと時計とにらめっこでその時を待っていた。

この世には、悪人しかいないのか? 

特注で荷物を運んできてくれた人は、にこにこして、「大丈夫ですよ~」とか言ってくれて、いい人だった。

アルバムを取りに来た人たちも、「じゃあ、また後できます」なんて言って、(言い分けを考えたのは、尚子だけど)ちゃんと後から取りに来てくれた。

もしかしたら、あの盗んでいった人も、ただ単にアルバムや、抽選券が目当てだったんじゃないのかもしれない。

なんらかの事情があって、俺にはそれが想像出来ないけど、きっと何かの理由であのアルバムが大量に必要だったんだ。

きっと時期が来てお金が出来たら、きちんと説明してくれるに違いない。

俺は一呼吸して、誰もいなくなった店内を見渡した。

俺はなんのためにこの店を続けているんだ? そうだ、俺はこのためにこの店を続けているんだ。

みんなの、優しさを感じられる場所のためだ。
このあいだの万引き常習犯の少年も、警察と一緒に来て、ちゃんと謝ってくれた。

もうその少年が謝りに来るのは四回目だけど、俺は彼の成長を信じている。

彼のお母さんがやってきて、お前の方も店の管理をしっかりしろ、だからうちの子が万引きをくり返すんだとかいって、もの凄い剣幕だったけど、わざわざうちにそんなアドバイスをしに来てくれるほどだ。

あんな子供思いのお母さんがいるんだから、あの子はきっと大丈夫。

それにここは、俺がずっと育ってきた家。

「イエ~ィ!」

そんなことを考えていた俺の後ろで、帰ってきた尚子と千里が騒いでいた。

「今回の詐欺事件のおかげで、数量限定販売だったのが、増産決定!」

「流通業者にいちゃもん付けて、販売ルートの一部を、うちの会社で請け負う事に成功よ」

とにかく、転んでも絶対にタダでは起き上がらないのがこいつらだ。

「俺はまた騙されたし、予約してくれたお客さんには迷惑かけたんだぞ!」

「そりゃ自分が悪いんだから仕方ない」

尚子が鼻で笑う。

「そう言われたら、普通信じるだろ!」

「音源入ってないCDって」

「ちゃんとした人だったんだよ!」

千里の冷ややかな視線。

「頭悪すぎ」

「お前のこと、心配したんだぞ!」

そう、だからこそ俺は信じたんだ。

「音源が入ってないCD? これは大問題だ、さっき呼び出しかかったって言ってたし、コレのことだったのかと思って、お前がどうなってしまうかと、心配した」

千里と尚子は、黙ったまま俺をじっと見ている。

反省したとか、感動したとかいう感じの雰囲気じゃない。

あきらかに、挑発的、好戦的、軽蔑した態度だ。

「お腹減った。ご飯」

「人の話し聞いてんのか! ちょっとは俺の気持ちも考えろ!」

「あんたの気持ち? 脳みそまわってたの?」

「お兄ちゃんの人を見る目のなさって、公害レベルだからね」

「環境破壊レベルだよ」

「まったくの成長がない」

「終わってるね」

罵詈雑言だけは尽きることの無い二人の間で、俺の堪忍袋の緒が切れた。

「それが、俺に対するお前らの態度か!」

「どんだけうちらに、迷惑かけたと思ってんのよ!」

尚子と千里の声が重なった。

一目散に、台所に逃げ込む。

「あぁもう! よけいなこと言ってたら、お腹減った!」

「お兄ちゃん、ご飯早くね」

俺はお前らの料理人じゃねぇぞ!

大体、人の弱みにつけこんで、一切のねぎらいも、心配や気遣いの言葉もなく、あげくの果てには自分たちの利益追求に走るなんて、お前らの方がよっぽどタチが悪い、極悪人だ!

ちょっとは俺の気持ちを考えたことがあるのか、まぁ無いだろうな、少しでもそんな思いやりの精神があれば、あんな態度で俺に接するわけがない! 

もうこれで騙されるのは、何度目だろう、俺だって、毎回嫌な思いをしてるし、本当は悔しくて仕方ないのを、じっとずっと我慢してるのに!

「私は魂の指導者」

台所でおたまを握りしめていた俺の後ろから、導師の声が聞こえた。

導師はテーブルの上に、ちょこんと座っている。

その顔は鋭い眼光をたたえ、威厳に満ちていた。

「魔法が、使えるようになるんだったよな」

そうだ、俺にはまだ、逆転のチャンスがあった。

「いかにも」

「誰よりも強くなれる?」

導師は答えず、ただ俺を見上げている。

「何でも出来るようになるのかって、聞いてんだよ!」

「修行次第で」

「本当だな!」

「もちろん」

俺は、老猫の目を見つめる。

老猫も、まっすぐに俺を見つめた。

「本当だ」

「じゃ、俺、魔王になる」

そうだ、結論は出た。俺にはもう、それしかない。

この世が、あいつらみたいな悪人だらけなら、悪の帝王、大魔王になるしかない。

「大魔王か?」

「大魔王だ」

俺の決意は固い。

もう誰にも負けたくない、騙されたくない、何者にも負けない、強い力が欲しい。

「よかろう、だが、修行は厳しいぞ」

「望むところだ」

導師と目があった。

この不思議な猫となら、俺はきっと強くなれる、強くなってみせる。

「お兄ちゃん、お腹すいたぁ!」

「ブツブツ言ってないで、早くして!」

居間から飛んでくる罵声。

その声に驚いた導師は、テーブルから飛び降りて走り去った。

俺もあわてておたまを握り直す。

でもまぁ、今日はもうスーパーで刺身が安かったから買ってきてるし、お吸い物もつくっておいたし、残りもの食材を放り込んだ炊き込みご飯も、もうすぐ出来る。

作り置きおかずもいくつか増やしておいたから、そんなに時間はかからない。

ちゃぶ台にお皿を並べて、三人が定位置についた。手を合わせる。

「いただきます」

箸と会話が飛び交う、にぎやかな食卓だ。

ひたすらしゃべりまくっているのは、俺じゃないけど。

どこかに逃げて、また戻ってきた導師が、俺の真横でうずくまった。

「俺が大魔王になったら、死んだ人たちもよみがえるかなぁ」

これからの修行が、ちょっと楽しみだ。

導師だけはそんな俺の声を聞いていたみたいで、短い尻尾を揺らして答えてくれた。
自分は魂の指導者だと名乗る猫、導師につれられて、俺の修行が始まった。

目指すは魔法使いのなかの魔法使い、大魔王。

やっぱり目指すならトップを目指さなければ、何事もやる意味がない。

猫の導師のお世話は俺がやっている。

うちにお招きして、食事の用意からトイレ、ブラッシングもする。

修行させてもらうのだから、これくらいは当たり前だ。

導師は外猫だから、すっごく嫌がるけど、たまにはお風呂にも入ってもらう。

だけど、その分爪切りはしなくてすむ。

そこは助かった。

本日の修行テーマは『魔道への基礎講座~基本の材料とその扱い方~』

野外実習がメインだというから、気合いが入る。

「私は魂の指導者」

「はい」

「本日の修行を始める。私についてこい!」

書店のレジ台からぴょんと飛び降りた導師の後を、小走りで追いかけていく。

どんどん走っていくうちに、閑散としたアーケード街を抜け、路地裏の住宅街に迷い込んだ。

修行のために、今日は店を閉めてある。

どうせ客もいない。

導師は軽快な足取りで、道路の隅っこを走っている。

それを見失わないようについて走ってるけど、困るのは突然排水溝の溝に飛び込んだり、他の人の家の庭を横切ろうとすることだ。

「ねぇ導師、そっちには行けないよ」

導師は尻尾をピンと張ったまま、くるりとふりかえった。

「めんどくさい奴だな。目的地は向こうの河原だ。早く来い」

導師はコンクリートの壁を飛び降りて、よそんちの庭に入り込むと、その先の生け垣を抜けて走り去っていった。

まぁ確かに、そこを通った方が直線ルートで行けるから、目的地の河原までは近道なんだろうけど。

さすがに人間の俺が、そんなことをしたら怒られるから、きちんとしたルートを通って、走るのもやめて、普通に歩く。

猫には許されても、人間には許されない道。

そんなことは、山ほどある。

舗装されている道路なら、ここは勝手に歩いてもいいっていう約束。

だから俺は、歩くことを許された道を選んで歩く。

人気のないそんな道をくねくね歩いていると、目的地が分かってないと、すぐに迷いそうになる。

方向を見失うと、へんな所に出ちゃう。

そんな時には、どうやって目的地にたどり着けばいいんだろう。

ぐるぐると歩いているうちに、住宅街の左手に土手が見えた。

コンクリートで固められた護岸壁。

これはうちの近所に流れる、一番大きな川だ。

そこにあった階段を駆け上る。

目の前には、ゆっくりと流れる川と、その両岸に整備された、ただただ広い草原と青い空、吹き抜ける風が気持ちいい。

よかった、たどり着いた。

しかし、たどり着いたはいいけれど、こんなところで猫の導師一匹を見つけるなんて、どうすればいいんだ。

対岸では草野球チームの打った金属バットの音が、空高く響いている。

土手沿いの道には、自転車とマラソンランナー。

部分的に整備されていない草むらに、一本だけぽつりと大きな木が生えていて、とりあえずそこに向かって歩いてみる。

他に、目印らしきものはない。

膝下くらいにまで伸びた草を、踏みしめて歩く。

たぶんここぐらいしか、猫が身を潜めている場所はない。

「遅いじゃないか」

俺が踏み込んだそのすぐ左手の足元に、導師はうずくまっていた。

「わ! そこにいたの?」

「迎えに来てやったんだ」

「そっか、ありがと」

俺が見つけなくても、見つけてくれる人は、見つけてくれる。

俺がそこに来さえすれば、ちゃんと見つけてくれようとしている人には、見つけてもらえる。

なんだかちょっとうれしくなって、俺は導師の隣でしゃがんでみた。
つい、うふふと笑って導師を見下ろすと、導師の真顔が俺を見上げた。

「そこから動くなよ、じっとしてろ」

「うん」

そう言ってから、導師は頭を動かさず、視線だけで辺りをくまなく観察していて、俺は内心でものすごくうきうきしながら、導師の次の指示を待っている。

「よし、ちょっとだけ動け」

両手の平をぱっと地面につけると、そこから数匹の虫が一斉に飛び出した。

そのうちの一匹を、導師はお口でお見事キャッチ。

「うまい!」

むしゃむしゃと、捕まえた大きなバッタを食べる導師。

「お前もやってみろ」

「はい?」

「うまいぞ」

「……」

そんなことを言われても、俺に出来るわけがない。

いやいや、バッタを捕まえることは出来るだろうけど、それを食べろと言われても、ちょっとしんどいかも。

「うん、無理」

また飛び出した一匹の虫を、導師はぱっと前足ではたいて、たたき落とした。

それを口にくわえて、美味しそうにほおばる。

「自分で食うものくらい、自分で取れないでどうする。修行とは、まずそこからだ」

「虫なんて、食べないよ」

「食べられないのか?」

俺は、大きく首を横に振った。

「人間は、虫を食べないわけじゃないけど、あんまり食べない」

「なんだそれ」

「食べないわけじゃないけど、食べる人もいるし、食べない人もいる」

「どっちだ」

「どっちなんだろ」

「私は、お前のことを聞いているんだ」

導師は草むらの陰から、じっと俺を見上げる。

「お前が虫を食う奴なら、私についてこい。食わない奴なら、そこで黙って見ていろ」

がさごそと音を立てて、導師は草むらの中へと消えていく。

言われたことをしばらく考えてみたけど、少なくとも俺は今までに虫を食べたことはないし、これからは……どうなるのか分からないけど、とりあえず食べる予定は今のところないから、今は黙って見ておこう。

時々思い出したように飛び跳ねる、導師の焦茶色の背中を見ながら、俺はゆっくりと後ずさりして、土手の上に腰掛けた。

高みの見物。

だけど、これじゃ俺の修行にはなってないような気がする。

「あの逃げた猫を、捕まえに来たんですか?」

その声に振り返ると、小学校四、五年生くらいの、すごくお上品で高そうな服をきた、賢そうな少年が立っていた。

「よかったら、僕も手伝いますよ」

少年は、にこっと笑って腰を下ろす。

「僕、動物、大好きなんです」

そうして、あれこれ一人でずっとおしゃべりを続けながら、ぶちぶちとその手に触れる草をかったぱしから抜いていく。

「猫は、警戒心が強い生き物ですからね、こちらから近寄らずに、寄ってくるのを待つ方がいいんです。あの猫の好きなおもちゃとか、おやつは持ってますか?」

首を横に振る。
「イエネコの祖先は、元々ヨーロッパのリビアヤマネコと言われていましたが、最近の研究では、中東の沙漠に生息していたリビアヤマネコが祖先と分かったんです。それで、日本の場合はですね、現在一般家庭で飼育されているイエネコの頭数は……」

少年がずっと猫の歴史とか飼育方法とか、彼が本で読んだ内容の朗読を続けるから、俺はただぼんやりと、導師がいるであろう辺りの草むらを見つめ続けている。

導師が姿勢を低くしてしまうと、その姿は草に埋もれてしまって、全く見えない。

「科学雑誌のサイエンスに、ミトコンドリアDNAの解析結果が発表されたことで、世間に知れ渡ったんですよねー」

にこっと笑って、下から俺をのぞき込んできた。

「ご存じありませんか? サイエンスとネイチャー」

「お姉ちゃんがいるの?」

「違いますよ」

彼はクスクスと笑って、とても上品な仕草で、また俺を見上げた。

「姉ちゃんじゃなくて、ネイチャーです」

導師が尻尾をピンと立てて、振り返った。

それは、こっちに来いという合図だ。

俺は立ち上がった。

「あれ? どこに行くんですか? 話しはまだ終わっていませんよ?」

「導師が呼んでるから、またね」

土手を駆け下りる。

その足元からぴょんぴょん何かの虫が飛び跳ねるけど、踏んづけちゃってたら、ゴメンね。

「導師、なに?」

「トカゲは食うか?」

「食わない」

「トカゲも食わないのか」

「トカゲも、食べる人もいるし、食べない人もいる」

「……。相変わらずややこしいな、人間は」

さっきの少年が、俺の後を追って土手を駆け下りてきた。

「待ってくださぁ~い!」

そのとたん、彼は何かにつまづいて、思いっきり転んだ。

本当に、見事なこけっぷりだった。

そして、そのまま立ち上がらず、しばらく寝転がったままでじっとしている。

何をしているのかよく分からなかったので、そのままずっと見ていたら、ちゃんと自分で起き上がって近づいてきた。

「やだなぁもう、助けおこしに来てくださいよ、大人でしょ」

すりむいてわずかに血がにじむ膝を、俺に向けた。

「あーぁ、血が出ちゃった。手当て、してもらえます?」

決して痛がっているようにみえない笑顔でそう言うから、きっとこの子は大丈夫。

「いま忙しいから、無理」

「何してるんですか?」

「大魔王になる、修行中」

足元には、トカゲをくわえた導師がいる。

嘘じゃない。

「あはは、冗談うまいですね、僕を子供だと思ってバカにしてます?」

少年はやっぱりにこにこ笑顔で、とても愛想がいい。

「そんな冗談通じませんよ、じゃあ僕も、魔法使いになる修行しちゃおっかなぁ!」

「えぇっ! 本当に? じゃあ、一緒にやる?」

正直いうと、一人じゃちょっとさみしかったんだ。

仲間が出来ればラッキーじゃないか。

「わぁ~い、やったやったぁ!」

「やったぁ! やったね!」

手を取り合って喜びあう俺たちを、導師はもしゃもしゃトカゲを食べながら見上げてる。

「そいつはダメだ」

「えぇ! なんで?」

「魔法使いの修行が出来るのは、齢三十を越えてからだ」

あぁ、そうか、そうだった。

ゴメン、君にはまだ、その資格がなかった。

魔法使いは魅力的だけど、こんな不名誉な条件を、誰かに強制するわけにもいかない。

俺は泣きそうなくらい残念な気持ちで、少年の手を離した。

「ごめん、君はまだ、条件を満たしていないらしい」

「は? 何ですか、その条件って」

それを教えていいのかどうか、導師をちらりと見たら、首を横に振った。

「魂の指導者のいる前で、その存在を知り得た者が知識を得、純潔を守ったとしても、その者の前に指導者が現れることはない」

そっか、うっかり教えてしまったら、彼の将来の可能性をひとつ潰してしまうことになるのか。

それならば、俺としても絶対に教えるわけにはいかない。

「ごめん、それは、教えられないんだ」

「あぁ、いいですよ、別に」

意外だった。

さっき、あんなに喜んでいたのに、彼は残念じゃないんだろうか。

「適当な嘘が思いつかなかっただけですよね、いいですよそういうの、僕みたいな子供相手だからって、気を使わなくても」

幼いのにとても紳士的な彼は、やっぱり笑顔を崩さない。

「さ、もう冗談はお終いにして、怪我の手当てをしてください。あなたが僕に怪我をさせたこと、弁護士である僕の両親には、内緒にしておきますから」

「あぁ、うん」

俺がそう言ったら、彼はまたにこっと笑った。

その笑顔は、確かにとても素敵なんだけど、なんだかちょっと、変な気分がする。