魔法使いになりたいか

「楽しいわけないでしょ! あんたのためにやってんのよ!」

二階と玄関から同時に足音がして、千里と尚子が飛び込んできた。

「お兄ちゃん? なにやってんの!」

「和也? あんた、大丈夫?」

突然の女性二人の登場に、俺の腕の中で香澄は叫んだ。

「助けてください! この人が急に!」

俺は、自分の体の下にある香澄を潰してしまわないように、ゆっくりと気をつけて上体を起こす。

「私、突然この人に押し倒されたんです!」

香澄の訴えに、二人は顔を見合わせた。

俺はただ、何も言わずに黙っている。

「うちのお兄ちゃんは、そんなことする人じゃないでしょ」

「和也は、無理矢理女性を押し倒すようなことは、出来ませんよ」

香澄が見上げた先にあったものは、彼女の望むものではなかった。

彼女の平手打ちが、俺の左頬を強打する。

「どいて! 邪魔!」

香澄は出て行った。

こんな形で、俺の初恋が終わりを迎えるとは、思いもよらなかった。

「だって、お兄ちゃんはビビリなんだもん」

「やり方も知らないんじゃない?」

二人の女は、いつも好き勝手なことを言う。

俺は、叩かれた頬に触れてみた。

指の先から、ヒリヒリと痛む。

だけど、そんな痛みよりも、傷ついた思い出の方が、よっぽど痛い。

尚子がため息をついた。

「あんた、あの人のことが好きだったの?」

のれんをくぐって出て行った香澄を、俺は追いかけないといけないはずだった。

「だったら、素直にそう言ってあげればよかったのに」

「導師を探してくる」

「変なの」

店から出て行こうとする俺の背中に、二人の声が突き刺さる。

「どうして、ちゃんと言ってあげなかったのよ」

「なんか今日は変だよ。いつものお兄ちゃんじゃない」

「だから、お前らは嫌いなんだよ」

俺は、導師を探しに行くんだ。

使い古したボロボロのサンダルを引っかけて、店の外に出る。

だって俺は、香澄の好きなお菓子なんて知らない。

本当はただ、外に出たかっただけ、外の空気を吸いに出たかっただけ。

風の吹き抜ける河原の土手の上、今日は、北沢くんにも菜々子ちゃんにも会いたくない。

そのまま家にいて、尚子と千里と言い合いを続ける気もないし、どこか遠くへ行ってしまいたかった。

もう、導師も、魔法使いも、本当はどうだっていいんだ。

俺は、自分の身にふりかかる、数多くの悪事をコントロールしたかった。

自分に起こる嫌な出来事を、自分でコントロールすることができるなら、それは正義の味方とかじゃなくて、悪魔か大魔王のはずだ。

戦って勝てる相手じゃないなら、それをうまく避けるしかない。

大魔王になって、俺は向こうから勝手に飛んでくる悪を、避けたかったんだ。

ついでに回りの人たちもなんて、余計なことは、考えている場合じゃなかった。

導師との修行が進まないのも、自分に焦りがあったのも、結局は全部、自分が助かりたかっただけだし。

今日はもう、なにもしない。

こんな時は、ただ歩くに限る。

どこまでもどこまでも、足の動くかぎり動かして、帰れなくなってもいい、行き着いた先で座っていればいい。

そしたらまた、いつの間にか太陽が昇って、大勢の人がどこかに向かって急ぐ風景を見ながら、自分はやっぱり一人なんだということを再認識する。

分かりきってることを、時々忘れてしまうから、辛くなるだけなんだ。

本当はこのまま消えてなくなってしまいたいけど、そんな度胸もないから、結局はまた何もない家に戻る。

玄関の方から居間に上がると、灯りがついたままの部屋で、尚子と千里が待っていた。
「ちょっと! どこほっつき歩いてたのよ!」

「だからお兄ちゃんも、いい加減、携帯電話持ちなって!」

「なんだよ」

家に帰りつくなり、うるさい女共に囲まれた。

「導師が、車にひかれて倒れてたの!」

何を言われているのか、耳の理解を超える言葉の羅列。

世界が凍りつく。

俺はすぐに、身を翻した。

「どこに行くのよ!」

「あたしとお姉ちゃんとで、もう病院に連れてって、入院させてるから!」

振りむいたら、むっつりとふくれた二つの女の顔。

「外傷はないけど、内臓がどうなってるのか分からないから、今夜は病院で様子みるって」

「明日、お見舞いにいってあげて」

二人からそう言われて、なにも返さず二階へ上がった。

子供の頃から何も変わらない、小さな部屋。

小学生の時から使っている、机と簡易ベッド。

窓から見える景色は、道路脇のすぐ向かいの家の壁に阻まれていて、夜でも明るい空は、視界の三分の一程度。

この家の壁に囲まれて、目が覚めたら世界が変わっていたらいいのにと、何度願ったことか。

幾度となく裏切られても、そう願わずにはいられない。

どうにもならないって、いい加減あきらめらたいいのに。

今日はもう、このまま寝る。

朝になって、臨時休業の張り紙を店の前に出してから、動物病院へと向かった。

「いや~驚きましたよ! カリスマ経営者の荒間尚子と、超人気アイドルの荒間千里が姉妹だったなんて!」

先生は、連絡先が記載されたカルテを指差しながら、「この住所と電話番号であってます?」とか聞いてくる。

なにかあったら、連絡するために必要らしい。

「でも、そう言われてみると、顔とかそっくりですよね、ホントよく似てますよね、やっぱりお姉妹なんだなぁ~」

病院の奥から連れてこられた導師は、ゲージのなかでぐったりと横たわっていた。

「朝イチで検査したので、麻酔がまだ効いてるんです。もう少ししたら元気になりますから、お家につれて帰ってもらって大丈夫ですよ」

命に関わるような怪我はないから、おうちでゆっくり様子をみたのでいいと言われた。

お金は尚子が払ってくれていたらしく、預かり金があるからいらないと言われた。

ぐったりとした導師を抱いて、俺は家に戻る。

空は秋晴れの気持ちのいい空で、土手の上を歩いているうちに、導師はもぞもぞと動き出した。

目は閉じているから、まだ疲れているのだろう。

「ねぇ導師。空がきれいだよ」

むぅ、という小さな鳴き声がして、導師は寝返りをうった。

麻酔はもう、切れたみたいだ。

家にたどり着いて、俺は居間での導師の定位置に、座布団を敷いて寝かせた。

「ニャー」

「どうしたの、導師?」

座布団の上で、ゆっくりとのびをして顔を上げる導師。

導師はこちらを見上げるばかりで、なにも言わない。

後ろあしで、あごの下を掻いた。

「導師、体はどう?」

導師は、目を細めて鼻をひくひくさせる。

「ねぇ、導師ってば」

耳の後ろに手を伸ばした俺に、導師が答えた。

「ニャア」

「ねぇ、なにそれ、ニャアだけじゃ分かんないよ」

導師を膝に抱き上げる。

導師はゆっくりと目を閉じて、また開けた。

「病院はどうだった? なんで車になんか、ひかれたんだよ」

導師は黙ったまま、気持ちよさそうに目を閉じる。

「ねぇ、今日はなに食べたい? 今日だけは、特別に導師の好きなもの作ってあげる」

導師は俺の膝から下りると、首の下を掻いた。

あくびをして、その場にうずくまる。

「ねぇ、導師、なにかしゃべってよ」

「ニャー」

俺は、伸ばした腕ごと、全身が固まった。

「え、なにそれ、ちょっと待ってよ」

もしかして、導師の声が聞こえなくなってる? 

どうしよう、なんで? なにがあった?
俺は、震える手で動物病院の薬の袋を見た。

薬袋には、病院の電話番号がのっている。

導師になにが起こったのか、ちゃんと聞かなくちゃ。

黒電話に手を伸ばしたとき、呼び鈴がなった。

「はい、もしもし」

「病院行った? どうだった?」

尚子だった。

「導師が、導師がしゃべってくれないんだ!」

「は? 導師がしゃべらなくなったって?」

「どうしよう、なんで? なんでしゃべってくれないの?」

自分でも、自分の声が震えているのが分かる。

受話器の向こうで、尚子がため息をついた。

「そ、じゃあ元に戻って、よかったんじゃないの」

「なにが?」

「普通の猫に戻って、あんたも、変な寝言を言わなくなる」

「は?」

「黙ってたけどさ、病院連れて行こうかと、千里と相談してた。あんたが、いつまでもおかしなこと言ってたから」

「魔法使いになりたいって? 導師と修行してるって?」

「……、そう」

もう少しで、わざと受話器を落としてしまいそうだった。

自分がいま、ここで立っていられるのも、不思議なくらいなのに。

腹の底から、嫌な笑いがこみあげてくるのを感じている。

遠くでなにかの、大きな音が聞こえる。

「ちょっと心配してた。でも、導師の声が聞こえなくなったんなら、私は安心したよ」

外から聞こえる音が、家の近くで止まった。

「あんたも色々あって、疲れてたんだと思う。父さんが亡くなってから、ずっと一人でバタバタしてたし。少し休んで、ゆっくりしなさい。導師が無事で、よかったね」

俺は受話器を置いた。

再び鳴りだしたサイレンの音。

それは、香澄が救急車で運ばれていく音だった。

知らせに来てくれたのは、北沢くんだった。

菜々子ちゃんは、学校に来ていないらしい。

ずっと病院で付き添いをしているから、学校には来られないんだって。

そのことをレジの前で聞いたとき、俺は黙ってうなずいただけだった。

「お見舞いとか、行かないんですか?」

「どうして?」

「だって、気になるじゃないですか、どうなってるのか。僕は見に行けないし」

「行っても、しょうがないから」

北沢くんは、やれやれといったかんじで肩をすくめると、すぐに帰っていってしまった。

彼はもう、居間に上がってお菓子を食べたりなんかしない。

導師は隣でずっと毛づくろいをしていて、それが終わったら、丸くなって目を閉じた。

今思えば、恋とか、つき合うとか、何も考えていなかった中学の頃、なんで俺は、あの時、あの場所で、香澄に告白したんだろう。

どうして二人きりで、あの時あの場所にいたのかすら、もう覚えていない。

とても暑かったから、もしかしたら、運動会の練習かなにかだったのかもしれない。

気が強くて、いつもクラスの中心にいた香澄が、一人で座っていた。

俺はなぜか、香澄を探していて、香澄は真っ青な顔で校舎の陰に座っていて、保健室に行こうって誘ったけど、嫌がった。

お腹が痛いって、彼女は泣いていた。

だったら、なおさら保健室に行けばいいじゃないかって言ったのに、うずくまったまま、かたくなにそこを動かなかった。

彼女は何かを恐れ、怖がっていた。

それが何かは分からなかったけど、その時になぜか俺は「君のことが好きだから」って、言った。

彼女はそれを聞いて、笑って、笑って、泣いたんだ。

その時に俺は、本当はどうすればよかったのか、それが分からなくて、ずっと考えてて、多分今でも、そのことを考え続けている。

自分が今でも一人でいる理由が、その全てだなんて思ってはないけど、そこで立ち止まったまま、動けていないのは多分事実。

だから、お腹の大きくなった、変わってしまった香澄が目の前に現れた時に、自分だけが取り残されたような気がして、ますますどうすればよかったのか答えが見えなくなって、ただ一人でずっと悩んでいた自分がバカみたいに思えて、情けなくて、悔しかったんだ。

レジ台から立ち上がる。

俺は、香澄に謝らなくてはいけない。

彼女はきっと、また笑うだろう。

ワケ分かんないって、いつの話しだって、彼女自身も、そんなことがあったことすら、覚えていないかもしれない。

でも、そうしなければ、そうすることが、俺が自分で前に進む、今度こそ、俺が本当に香澄から解放される、儀式になるんだ。

立ち上がった俺を、導師が見上げる。

導師はあれから、一言も声をかけてはくれないけど、多分、頑張れよって、言ってくれてる。

俺は、導師の頭をひとなでしてから、香澄の待つ病院へと向かった。
真っ白い、つるつるの床が続く長い廊下は、何度来ても楽しいもんじゃない。

三人の母と一人の父を看取った俺には、入院病棟なんて、見慣れすぎて気持ち悪いくらいだ。

俺にとっては、そんな記号でしかない。

学校、病院、家と本屋。香澄の部屋は、廊下の一番端っこの、大部屋だった。

カーテンを開けると、ベッドの脇に菜々子ちゃんが座っていた。

ちょっとびっくりしたみたいな顔で俺を見上げて、すぐに椅子を出してくれた。

香澄はぼんやりとした目で、出された椅子に座るまでの俺を、じっと観察していた。

「お見舞いに来た」

「来なくても、よかったのに」

菜々子ちゃんが言った。

「気になったんだ」

「誰が?」

「君が」

菜々子ちゃんとばかり話す俺を、彼女は変な顔で見てくる。

「なにそれ、ヘンなの。うちのお母さんと大人の話がしたかったの? そんな話、するような仲だったっけ?」

俺がにこっと笑ったら、彼女はため息をついて立ち上がった。

「まぁいいよ。洗濯しないといけなかったから。交代して」

まだ小さな菜々子ちゃんは、まだ小さいのに、洗濯をするために部屋を出て行った。

香澄は腕に点滴のチューブをさして、モニターの機械につながれていて、その数値は安定しているみたいだった。

「大きな事故にならずに、よかったね」

「あんたに、なにが分かるの?」

香澄はそう言うけど、俺はこんな風景を、考えてみたら親父の時も含めて、もうずっと見続けている。

「なんとなく、分かる」

香澄はため息をついた。

「何しに来たの?」

「お見舞いに来た」

「来なくてもよかったのに」

そう言った香澄の顔が、菜々子ちゃんのと全く同じで、思わす笑ってしまう。

「菜々子ちゃんと、同じこと言ってる」

香澄はムッとして背を向けたけれども、香澄はここだと怒ったり逃げたり出来ないから、俺にとっては都合がよかったのかもしれない。

「退院したら、一緒に住もう。俺は今でも、君のことが好きだし、出来れば一緒に暮らしたい」

香澄は頭だけ動かして、俺を見上げた。

「は?」

「一緒に、暮らそう」

俺は、笑われると思っていたけど、香澄は笑わなかった。

「いいよ、別に。同情されたいわけじゃないし」

「違う、そうじゃない。本気でそう思ってる。俺の心の準備が、あの時はまだ出来てなかっただけ」

これが俺の謝罪。

なのに、香澄は笑ってくれなかった。

「いらない。退院できたら、また考える」

「分かった」

またフラれた。

だけど、なんとなく俺はうれしくなってしまった。

「毎日、お見舞いに来てもいい?」

「いらない」

「何か、買ってくるものとか、欲しいものはある?」

「別にないよ」

「お腹の子は、男の子なの、女の子なの?」

香澄は今日初めて、ちゃんと俺を見上げた。

「名前、考えておかなくっちゃね」

自分が誰かの名付け親になるなんて、想像もしなかった。

どんな名前にしよう、子供がおおきくなって、なんでこの名前にしたのって聞かれたら、ちゃんとした理由を言える名前がいいな。

「あんたって、本当にバカだよね」

香澄は結局、最後まで笑ってくれなかったけど、代わりに俺が笑っておいたから大丈夫。

二階の部屋を片付けておこう、尚子と千里も追い出せるし、一石二鳥だ。俺にも家族が出来る。

家に帰ってテレビをつけたら、尚子と千里が姉妹だということが、芸能ワイドショーで大騒ぎになっていて、それを見てまた笑った。
その日から、俺は毎日香澄の病院を訪ねて、菜々子ちゃんの代わりに付き添いをする。

菜々子ちゃんは、学校に行けるようになった。

だけど、一番の問題は、お医者さんと話しが出来ないこと。

菜々子ちゃんは未成年だし、俺は他人。

看護師さんは優しいけど、俺と菜々子ちゃんには、何も言わないし、何も教えてくれない。

香澄の体の状態を知っているのは、診察室で話しを聞く、彼女の両親だけだった。

病棟には一度も顔を出したことがないから、俺も見たことがない。

香澄は、出産の予定日が近いこともあって、ほとんどをベッドの上で寝て過ごしている。

菜々子ちゃんは学校から帰ってきたら、宿題と、北沢くんからもらった塾のテキストを、ベッドサイドでやっている。

「お家では、なにしてるの?」

香澄は静かに寝息を立てていて、俺は真剣な顔で問題を解く菜々子ちゃんの、横顔に聞いた。

「大人しくしてる」

「大人しくって?」

「大人しくは、大人しいって意味よ」

菜々子ちゃんは、大人だった。

突然、香澄に繋がる表示モニターが警告音を発した。

あわててナースコールを押すと、ほぼ同時に看護師さんが飛び込んで来る。

「どいてください!」

香澄がベッドごと慌ただしく運ばれていくのを、俺と菜々子ちゃんは、ただ黙って静かに見送った。

「おばあちゃんから、なにか聞いてない? 具合、悪いのかな」

彼女は首を横に振り、ただ前を向いて立っていた。

それからの数日は、俺が面会に行っても、関係者以外は面会謝絶状態で、菜々子ちゃんはうちにも勉強しに来なかった。

一度だけ病院の廊下で、おばあちゃんらしき人と、知らない大人の人と歩く菜々子ちゃんを見かけたけど、俺はあえて声をかけなかった。

邪魔になると思ったから。

彼女はうつむいて、大人しくしていた。

今日の朝も、病院の面会時間前に、店の前を掃いておく。

最近はろくに店も開けていないから、特に掃除する必要もないんだけど、体に染みついた日課なんだから仕方がない。

吹く風が少し冷たくなってきて、導師は建物の陰でうずくまっている。

数枚の枯れ葉と、どこからか飛んできた何かの紙くずを、まとめて片付けておいた。

もうとっくに学校は始まっている時間なのに、ランドセルを背負ったままの菜々子ちゃんが、店の前に立っていた。

「赤ちゃんは、いならいんだって、子供はもう、いらないんだって」

「菜々子ちゃんは、いらない子じゃないよ」

道を掃く、ほうきの手を止める。

「お腹の赤ちゃんは、このままだとお母さんが死んじゃうから、どいてもらうんだって」

菜々子ちゃんはランドセルを背負ったまま、学校に行かずにここに立っている。

「いつ?」

「今日」

「行こう。そんなこと、俺が許さない」

菜々子ちゃんの手を握って、病院へ歩き出す。

あんなに大きくなったお腹の子をあきらめるなんて、おかしいじゃないか。

菜々子ちゃんは、まだ産まれない赤ん坊を、自分と同じように思っている。

だからここへ来て、黙って立っている。

表情を殺した顔で。

それなのに、そんなこと、俺は許さない。
病院に着いたら、香澄は個室に移されていた。

菜々子ちゃんと二人、病院に通い詰めた顔パスパワーで、親族以外は面会謝絶の病室に、無理矢理入り込む。

香澄のお腹は、もうすでにペタンコになっていた。

菜々子ちゃんは、なにも言わずに香澄のベッドサイドに座る。

「お腹の赤ちゃんは?」

「死んだ」

香澄は沢山の管につながれた体で、数本の針が刺さった両腕を、顔の上に置いている。

「死んだの?」

「どーせ助からないし、もういいかなって思って」

香澄がそんなふうにしているから、ここからは香澄の顔が見えない。

菜々子ちゃんは、自分の母親に、自分の兄弟のことを聞いている。

「どーせ邪魔だし、いらないし、出てきても、苦労するだけだから、私が」

病院の個室はとても静かで、親子の会話を邪魔するものはなにもない。

「これ以上、余計なのが増えても、大変でしょ。ついでだから」

「そっか、分かった」

菜々子ちゃんはそう言った。

それで、香澄との話しは終わり。

「そんなこと、聞いてないだろ!」

つい声が大きくなる。

そんなことは、絶対嘘に決まっている。

菜々子ちゃんを一度生んでいるのに、本当にいらないのなら、妊娠が分かったときに、なんとかしてるはずだ。

俺は、そんなことは、聞いてないんだ。

菜々子ちゃんも、本当に聞きたかった話しじゃないはずだ!

「じゃあなんで、名前考えようって、言ったの?」

香澄の腕が顔の上から下ろされたとき、サイドテーブルに指先が少しぶつかった。

そこから積み上げられた紙の山が、バサリと落ちる。

「俺は、一緒に住もうって言ったし、名前も考えようって言ったのに!」

「あんたの子供じゃないんだし、なんであんたに指示されないといけないのよ!」

拾い上げたその紙は、いろんな手術や検査の同意書で、香澄は、そこに何一つ了承のサインをしていなかった。

「ねぇ、これ、どういうこと?」

「あぁ、余計なことしたら、お金かかるでしょ、だから。しないの」

香澄は笑って言う。

「便利だよねー、本人の意志がないと、検査のひとつも出来ないんだってさ」

その笑った瞳から頬に伝うしずくは、本人の意志とは無関係に出てくる汗みたいなものだから、香澄にもきっと、どうしようも出来ないんだと思う。

「さっさと退院できたら楽なんだけど、病院以外で死ぬと、それはそれで厄介みたいで」

「結婚しよう。俺、今から婚姻届け、持ってくる」

「はぁ?」

「そしたら、お前もお腹の子も菜々子ちゃんも、俺のものになる」

「なるわけねーだろ、バカ!」

香澄なんかの声は無視して、廊下を走る。

急いでたら、看護師さんに走らないで下さい! って怒られたけど、後で謝っておくから平気。

このすぐ近くに区役所があるから、そこから勝手に婚姻届けを取ってくればいい。

それにサインして出してしまえば、誰だって家族になれるんだ。

役所に着いたら、引っ越しとかの住所変更と、戸籍抄本や印鑑証明の用紙と並んで、婚姻届けがおいてある。

やろうと思えば、こんなにも簡単にできるんだ。

俺は取り出した一枚の婚姻届けに自分の名前を書いて、一度うちに戻ってはんこを押した。

それから病院に返って、香澄に書類を渡す。
「あんた、バカじゃないの!」

「今日中に出しときたいから、早くサインして」

目の前で、香澄はその紙を破った。

「ちょっと! もう区役所しまっちゃうだろ! なんで破くんだよ!」

「あんたみたいなバカに、なんで私がこんがいてのきあ……」

舌がうまく回らないのか、後半は何を言っているのか分からない。

香澄と繋がった機械のアラームが鳴って、看護師が飛び込んでくる。

「ご家族以外は、面会謝絶ですよ!」

「明日から家族になります。そしたら、手術も出来ますか? 先生の、お話も聞けますか?」

飛び込んで来た医師らしい先生と看護師は、せわしなく手を動かしながらも、俺を見る。

「家族になったら、連絡してください」

「はい、分かりました」

意識を失った香澄を残して、俺と菜々子ちゃんは部屋を追い出された。

そう言えば、菜々子ちゃんには、まだ許可をもらっていない。

「ねぇ、俺がお父さんになっちゃダメ?」

「そんなこと聞かれたの、初めてなんだけど」

菜々子ちゃんは大人だから、いつでも落ち着いている。

「今日からこの人がお父さんってのは、何回かあったけど」

俺は、菜々子ちゃんの手をぎゅっと握った。

「俺が、お父さんになっちゃダメ?」

「すごく頼りないお父さんだよね……、ま、考えておく」

それから俺は、毎日区役所に通って、毎日十枚ずつ婚姻届けをもらってきて、毎日三枚ずつ香澄に渡そうとしたけど、香澄はずっと眠ったまんまで、どうすることも出来なかった。

俺は毎日、持ってきた届けを香澄の枕元に置いた。

夕方の家の居間で、菜々子ちゃんはまた勉強をするようになった。

俺はたまっていく片方だけ署名の入った婚姻届けの束を見ながら、ごろごろしている。

「なんで、あんな人と結婚したいの?」

「初恋の人だったんだ」

「好きなの?」

「うん」

「アレが?」

あの頃と変わらない、片思い満載の婚姻届けの山に囲まれて、俺はその人の娘を見る。

「そうだよ」

「私だったら、別の女にするな」

菜々子ちゃんはふっとため息をついて、片肘をついた。

「たとえば、尚子さんみたいな」

「最悪だ、お前に女を見る目はない」

「私、あんな女になりたくないから、勉強してるの」

彼女は自分の母親のことを、そう呼ぶ。

「だから、さっさと自立して独立するの。自分でちゃんと働いて、仕事するの」

「それは、とてもいいことだね」

でもここは、親の代から続いた本屋で、その経営赤字は、再婚相手の連れ子である尚子が補ってくれている。

税金対策でもあるらしいけど。

「あんたに言うセリフじゃなかった。同じクズだった」

その言葉に、少なからずダメージを受けた俺が寝転がると、導師が腹の上に乗ってくる。

尚子に助けられているのは、確か。

「重い、重たいよ、導師」

だけど、どいてと言って下ろしてしまわないのは、その重みに、本当は耐えられるから。

片思いの婚姻届けに囲まれて、導師の頭を撫でていた俺は、そのまま眠ってしまった。
毎日届けた無駄な婚姻届にも、効能はあった。

その話しを聞いた香澄のお母さんと、俺は会うことになった。

「あの子が死んだらどうするの?」

病院の喫茶コーナー。

とってもアットホームな雰囲気のこぢんまりとしたお店で、客席はわずかに三テーブル程度、使い込まれた傷だらけのグラスに飲み物が注がれ、解放的な空間演出に、すぐ脇を来院者たちが通り抜けていく。

「死んだら、死亡届を出して、火葬に出します」

「子供は?」

「俺の子供ということになりますよね」

「うちで今後とも一切面倒はみないよ」

「当然です」

「入院費用は払う。後は勝手にして」

「分かりました」

後は、香澄自身と菜々子ちゃんの許可だけ。

香澄の病室を覗いても、ずっと寝てるだけだし、相変わらず看護師さんも主治医も、俺には何も教えてくれない。

菜々子ちゃんは、最近はずっと家の居間に来ていて、ひたすら尚子と北沢くんからもらった本で勉強している。

「俺を、お父さんにしてくれる?」

「あたしが結婚するんじゃないから。誰がなっても私には関係ないし」

やっぱり、香澄に意識を取り戻してもらうしかない。

もしも、導師が今でも話しが出来るなら、きっと魔法をかけてくれたに違いない。

俺の結婚の望みは叶わなくても、せめて香澄を、一時だけでも、目覚めさせることは出来ただろう。

俺は中途半端にしか魔法を習ってないから、そんな極意なんてものはさっぱり分からなくて、結局いつもと同じに、何も出来ないでいる。

「導師、なんで俺をもっと早く、魔法使いにしてくれなかったの?」

俺が導師をぎゅっと抱きしめたら、導師は腕から飛び出して逃げていった。

「また言ってる。なんで魔法使いになりたいわけ?」

「この世の全てを支配したいから、大魔王になりたいの」

菜々子ちゃんは、ふんと笑った。

「あんたって、本当にバカだよね」

毎日毎日、婚姻届けを片手に病室に通っていると、いいこともあって、もちろん嫌悪感たっぷりの視線でにらまれるのが九割なんだけど、それでもこっそり味方してくれる人が、わずかながら出てくる。

その日も、菜々子ちゃんの付き添いってことで、俺は病室に入れてもらえた。

「あんた、まだ来てたの」

香澄は酸素マスクをつけていて、体は動かせなくても、口だけは動くし、声は小さくても、意識ははっきりしてる。

「結婚しようよ」

「なにが目当てなわけ? 遺産とかないし、もうすぐ死ぬのに、なんで?」

「俺は初恋の人と結婚できるし、未婚の生涯独身者じゃなくなる。菜々子ちゃんを、簡単に俺の養子にすることが出来て、君の死後の不安も取り除ける」

香澄の半分開いた、焦点の合わない目が、懸命に俺を探している。

「残された時間は少しかもしれないけど、俺は、君を幸せにする」

かけられた布団の上から、香澄のお腹に手の平を重ねる。

「本当は、産みたかったんでしょ、菜々子ちゃんを見てたら分かる」

香澄にはもう、自分の手を動かす力すら残ってないらしい。

「俺はあの頃には、何も出来なかったけど、今なら出来る。君の命は助けられなくても、不安と心配はなくせるし、菜々子ちゃんを、ちゃんと育てる」

俺の後ろで見ていた、菜々子ちゃんが立ち上がった。

「私、あんたに育ててもらうつもりはないけど、自分で育つから」

彼女は、自分の母親を見下ろした。

「だけど、この人なら、成人するまで面倒みてくれる気がする。お父さんって、呼んであげてもいい気がする」

「私みたいになるな、お前は勉強して自立しろって、菜々子ちゃんに教えたのは、香澄ちゃんなんでしょ」

香澄の手が、何かを探していて、菜々子ちゃんは、その手にペンを握らせた。

香澄はガタガタの文字で自分の名前を書いて、菜々子ちゃんがはんこを押した。

他にも証人とか、戸籍とかが必要とかで、あちこち駆け回ってる間に、香澄はまた意識を失って、婚姻届けを提出出来たときには、もう動かなくなっていた。

婚姻届けは無事に出せたのかとお医者さんに聞かれて、はいとうなずいたら、時計を見て死亡時刻を確定した。

菜々子ちゃんは正式に俺の子供になり、俺は菜々子ちゃんの正式な保護者になった。

彼女はうちに引っ越してきて、そしてまた、うちに位牌が増えた。

「なんかこの部屋、縁起が悪いよね」

「全部、腐れ縁だからね」

「ヘンなの」

菜々子ちゃんは泣いていて、俺はその泣き顔を、初めて見た。

なってみてようやく分かったけど、保護者というのは結構急がしい。

参観日とか、持ち物とか、親の会とか、他にも色々たくさんあって、かつてないほどの雑用に追われている。

菜々子ちゃんはちゃんと約束を守って、俺のことを『お父さん』と呼んでくれていて、それだけはとてもありがたいし、助かった。

そして、導師がいなくなった。

数日前から、用意した餌を食べていない、姿も見ていない。

菜々子ちゃんに聞いたら、三日前には、うちにいたのを見たという。

「どっかに行っちゃったのかな、俺をおいて」

結局俺は、魔法使いになんてなれなかった。

きっとそんな素質もなかったし、尚子たちの言う通り、夢を見ていただけなのかもしれない。

「あたしがいるから、いいじゃない」

「菜々子ちゃんがいたって、魔法は使えないよ」

「あたしと、お母さんを幸せにする魔法をつかったんでしょ」

彼女は呆れたように言う。

「それで、世界を救ったっていうことで、いいんじゃない? 魔法使いの大魔王なんでしょ?」

導師は、菜々子ちゃんは魔女になるかもって、言ってた。

「きっと、導師の役目は終わったんだよ、それで、次の人の所に行ったんだよ」

「そうなのかな」

「そうだよ。よかったね」

彼女がそう思うのなら、そういうことにしておこう。


俺は多分、魔法使いになった。


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