草むらが、がそごそと動いたけど、導師じゃなかった。
結局、日が傾き始めるくらいまで探したけど、導師は見つからなくて、あきらめて家に帰った。
そこには、導師と菜々子ちゃんが待っていた。
「あれ! ずっと探してたのに、なんだよ」
「それはこっちのセリフよ!」
菜々子ちゃんは、やっぱり勉強していた。
学校から借りてきた辞書を、もう一人で引けるようになっている。
彼女が上がり込んで勉強していたら、お客さんが何人か来て、レジうちまでしてくれたらしい。
そしたら導師が帰ってきて、二人でお留守番してたんだって。
菜々子ちゃんは、めちゃくちゃ怒っている。
「どこほっつき歩いてたのよ、お店もほったらかして!」
「導師を探してたんだよ」
「あんた、まともに働こうとか、仕事する気あんの?」
「だって、導師がいなくなったんだもん」
怒る菜々子ちゃんと、余裕の導師。
「すまない、つい懐かしい顔を見かけたもんでな」
「あの白い猫、知り合いなの?」
そうだ、と、導師は答え、菜々子ちゃんは、違う、と言う。
「古い仲間だ」
「今日初めて会ったの」
彼女の言葉に、導師が反応する。
「なに? どこで会った?」
「導師と一緒に虫取りの訓練してた、河原だよ」
「そんなこと普段してんの? すごく大きくて真っ白な、綺麗な猫だったから、パン食べるかなーと思ってあげたけど、食べなかった」
それを聞いた導師は、猫猛ダッシュで外に飛び出していく。
「あ、ちょっと導師?」
ため息をついた俺に、菜々子ちゃんが言った。
「あの白猫と導師、お友達なのかな」
「古い知り合いなんだって」
「ふ~ん」
今日の修行だって、全然出来なかった。
てゆーか、まともに修行が出来た事なんて一回もない。
虫取りしたり、町の縄張りを探検したり、ひなたぼっこしてたり。
魔法使いの修行って、もっとなにか、違うもんじゃないのか?
「ねぇ」
菜々子ちゃんが言った。
「あんた、猫としゃべれるの?」
導師から、北沢くんにはしゃべっちゃダメっていう話しは聞いていたけれど、菜々子ちゃんに対してどうだったかは、聞いていない。
菜々子ちゃんの、もしかしたら未来がかかっているかもしれないことを、俺が判断するわけにはいかない。
「いや、どうだろ」
かといって、嘘もつきたくないから、適当にごまかしたつもり。
「ふ~ん、ま、どうでもいいけど」
思いっきり冷めた視線で彼女はそう言ってから、また勉強を始めた。
次の日になっても、導師は帰ってこなかった。
俺は、少し腹を立てている。
何度も確認して、魔法使いになる気はあるのかと言っておきながら、いざ始まったらこのザマだ。
本当にやる気がないのは、どっちだ。
今日は土曜日。
朝の開店の準備、といっても、シャッターを上げるくらいのもんだけど、三枚あるシャッターを全て上げきらないうちに、もう菜々子ちゃんがそこに立っていた。
「今日も、来ていい?」
「どうぞ」
居間にあがる前に、菜々子ちゃんは私立中学の入試問題を立ち読みして頭に入れる。
受験する気はないけど、もう普通の参考書じゃ物足りないんだって。
俺はとりあえずレジ台に座ってはみたものの、することはないし、したいことは出来ない。
「ちょっと、導師探してくる」
のれんをかき分けて菜々子ちゃんにそう言うと、彼女はぐっと俺をにらみ返した。
「猫なんて、自分で帰ってくるよ。それよりも、もっとやること、あるんじゃないの?」
「俺には、俺のしたいことがあるんだよ」
「したいことって、なによ」
なんかもう、言うことまでも千里や尚子に似てきた。
なんで女って、みんなこうなんだろう。
「ないしょ」
「は?」
「内緒なの」
菜々子ちゃんの舌打ちの音が聞こえる。
店を出て行こうとした俺の横を、北沢くんが通り過ぎた。
「ちーす」
彼は、ちょっと変わった、見たことの無い鞄を肩に引っかけている。
「塾に行く前に、ちょっと寄ってみただけです」
北沢くんは靴を放り投げて居間に上がると、戸棚から勝手にお菓子を取り出してほおばる。
「あ、出かけるんですか?」
もぐもぐ。
「塾まで、店番してますよ」
「ありがとう」
「ちょっと! それが大人のやること? おかしくない?」
「勉強なら、僕が教えてやるよ。それでも、いいだろ?」
「はぁ?」
「あ、和也さん、いってらっしゃ~い!」
菜々子ちゃんの怒鳴り声が外まで聞こえる。
こういう時って、男同士は簡単で分かりやすくていい。
菜々子ちゃんが勉強したいのと同じくらい、俺は、魔法使いになりたいんだ。
導師が探す、白猫がいた河原に行ってみる。
当然のように白猫も導師もいない。
俺が見ていたのは、草むらから伸びた白い前足。
「導師ー!」
風が吹いた。
「魔法使いの修行、するんじゃなかったのー!」
瞬間、強く吹いた一陣の風に、くるりと振り返る。
「お前は、魔道師の資格を有するものか?」
声の主を探す。どこにも姿が見えない。
「はいはいはいはい、そーですよぉ!」
その資格を有するものは、とっても不名誉なんだということは、この際気にしない。
「どこにいるの?」
声の聞こえる方に、足を踏み出す。
「こっちだ」
かすかに響く声に導かれて、たどり着いたのは町外れの小さな神社。
白い大きな石造りの鳥居のてっぺんに、純白の大きな猫が、吹く風にその長い体毛を揺らして座っていた。
神々しい、という言葉が、こんなにもぴったりとした猫を、俺は初めて見た。
そのあまりの美しさに圧倒されて、口を開けたままずっと見上げていたら、その白猫は、ひらりと舞い降りた。
「そなたが、禁欲を貫いたものか」
「まぁ、そうなんですけどね」
「恥ずかしがることはない」
俺が居心地の悪そうにしているのを見て、白猫が言った。
「かつて、幼き頃より修行を積むために預けられた子供たちは、皆そうであった」
白猫は、地面に腰を下ろして座っても、俺の膝丈くらいの大きさはある。
「まぁ、預けられた全ての子供がそうであったわけではないが、今ほど珍しいわけでもない」
「はい、ありがとうございます」
きっと、最初に俺の前に現れた魂の指導者が、こんなきれいな猫だったら、もっとあっさりきっぱり簡単に信用してただろうな。
その優雅な動きや体つきを見ているだけで、魂の全てを奪われてしまいそう。
「私は魂の指導者!」
聞き慣れた、しわがれ声に振り返る。
「久しぶりだな」
焦げ茶の老猫の登場に、白猫の表情がゆるんだ。
「お久しぶりです」
「本当に導師の知り合いなの?」
導師は俺を見上げて、『黙ってろ』という顔をした。
多分だけど。
「今は、導師と呼ばれているのですか」
「私が見つけた弟子だ」
白猫は、ふさふさとした長い尾をゆらして、俺に言った。
「あなたは、童貞を卒業したくはないのですか?」
「えっ?」
「これは、性行為のことだけを言っているのではありません。童貞とは、童のように貞淑、つまり身も心も純粋であるという意味。魔法使いになるのもいい、けれど、わざわざ厳しい道を選ばなくても、得られる幸せはあるということを、あなたに伝えに来たのです」
「なにそれ! そんなの、聞いてないし!」
導師は、後ろ足で首の後ろをぽりぽりと掻いた。
「魔法使いになんてならなくても、幸せに暮らしている人はたくさんいます。あなたは、その一人になれる資格を、充分にお持ちだ」
「それは、普通の幸せってことですか?」
白猫は、ふふふっと笑った。
「あなたの思う普通の幸せとやらが、どのような幸せだか私には分かりませんが、普通に恋をして結婚して家庭を持ち、穏やかに過ごす毎日のことです」
俺の今の状況では、それ自体がどこかの遠い、魔法の国の出来事みたいに思える。
「でも、独身でだって……」
「えぇ、もちろん独身でも幸せな毎日を過ごす方もいます。これは、例えのお話です」
白猫は、長く美しい毛を風に泳がせている。
「修行、お好きですか? 厳しい修行に関係のない、幸せな未来もあるのですよ」
「修行しなくても、いいの?」
「えぇ」
「そ、それなら、そっちの方がいいかも……」
俺は、足元にいる導師を見下ろした。
導師は大きなあくびをしている。
「導師は、引き留めたりしないの?」
「選択権は、常に選択すべき者自身に与えられていて、その決定に対して、誰も干渉することは出来ない」
「自分で決めろって、こと?」
「そ」
「冷たいなぁ、導師は。こういう時にこそ、魂の指導者の出番なんじゃないの?」
「関係ないね」
導師は丸くなってうずくまる。
「よほど、自信がおありのようだ」
「何に対して?」
「あなたに対して」
白猫は、とってもとっても優雅に微笑む。
「私の役目は、魔法を行使しようとする者の、負担を和らげること」
白猫は、俺を見上げる。
「魔法を修得する修行をつみ、それを行使することは、大変な危険と負荷を伴います。それでも修行を続けますか? 魔法が使えなくとも、あなたは充分幸せになれる」
導師は動かない。
俺を魔法使いにならないかと誘ってくれた導師は、どんなつもりで俺の前に現れたんだろう。
その気持ちが、知りたいと思った。
「ありがとう。でも、俺はやっぱり、魔法使いになりたいんだ」
「そうですか」
俺は、足元の導師を抱き上げる。
「どうしても、使いたい魔法があるからね」
導師は、腕の中であくびをした。
白猫は、そよ風に吹かれながら笑う。
「それは頼もしい」
「用が済んだら、帰れ」
気がつけば、白猫は再び鳥居の上に跳び上がっていた。
「あなたが、あらゆる試練を乗り越え、幸せな魔法使いになれることを祈っています」
真っ白な美しい猫は、そのままぴょんと跳ね上がると、どこかへ走り去っていった。
すっかり冷たくなった、秋の風が吹く。
「綺麗な猫ちゃんだったなぁ~」
「ふん、毎度のことだ。いつもそうやって、あいつらは邪魔をしにくる」
家に向かって歩き出した俺は、導師を抱えたまま笑った。
「ねぇ、どうして導師は、俺を選んでくれたの?」
「偶然、通りかかっただけだ」
「はは、でも、最強の弟子になれそうだったんでしょ」
「……、まぁな」
「じゃあさぁ、もうちょっと真面目に修行してよ、俺、本気で大魔王目指してんだからね」
「やかましいわ」
導師の体温が、腕に伝わってあたたかい。
「なんでもない日々を丁寧に生きて行く。それが何よりも、一番の修行なのだ」
そんなことを平気で言っちゃう導師の横顔は、なんかちょっとかっこよく見える。
「お前になら、それが出来る」
夕方になって、少しは人通りの出てきた商店街の入り口、本屋の店の方からのれんをくぐる。
「ただいま~」
居間に上がると、真っ赤な顔で泣きはらした後の菜々子ちゃんと、尚子がいた。
「ちょっと、あんた! 店番をこんな小さい子に任せて、どこほっつき歩いてたのよ!」
突然の先制パンチに、ビクリとなる。
「導師を探しに行ってたんだよ!」
尚子は腕の中の導師をにらみ、導師は飛び出して逃げていった。
「うちに勝手に居着いた外猫でしょう? そんなの、探しにいく必要ある?」
「お前が俺に怒る理由もないだろ!」
「あたしが家に帰ってみたら、知らない女の子が一人で大泣きしてんのよ、大人しそうな顔して、あんた普段なにやってんの?」
「ちょっと待て、それ、どういう意味だ!」
「あんたのやってることが、本気で信じらんないって言ってんの! 子供に店番任せるなんて、ありえない!」
「ごめんなさい!」
ぐちゃぐちゃな顔のままの菜々子ちゃんが、何度も何度も叫ぶ。
「私が悪いの! 全部、私が悪かったの! 勝手におうちに入ってきてゴメンなさい。何にも盗ってないし、壊していません。もう絶対にここには来ないので、許してください!」
ちゃぶ台の上には、涙で破れた薄くて茶色い粗末な紙、そこには、小さい字でびっしりと漢字と数式が並んでいる。
短い鉛筆に、小さな消しゴムのかけらが三つ。
「私が勝手に本屋さんしたから!」
「違うのよ、私は、あなたのことを怒ってるんじゃないの」
尚子は、菜々子ちゃんの顔をのぞき込む。
菜々子ちゃんの顔は、乾いた涙の後が刻印のように刻み込まれていて、急に近づいてきた尚子の顔にビクリとして、両腕で覆い隠した。
「この人に、勉強を教えてもらう約束だったの?」
「ごめんなさい」
「いつから、ここに来てたの?」
「ごめんなさい」
「どこで、知り合ったの?」
「ごめんなさい!」
菜々子ちゃんは、なにを聞いてもそれしか答えない。
尚子はお手上げで、場所を俺に譲った。
「北沢くんは? 塾に行った?」
「ごめんなさい」
「俺がいない間、本屋にお客さん来た?」
「ごめんなさい」
「お昼ご飯は、どうしたの?」
「ごめ……ん、なさい」
菜々子ちゃんは、うつむいて動かなくなってしまった。
尚子は畳の上に足を投げ出して、足の先をぷらぷら揺らしながら座っている。
こっちは見ていて見ていないふり。
「尚子は、ご飯食べる?」
「いいけど」
「菜々子ちゃんは、何が食べたい?」
彼女をおいて、入った台所の入り口から振り返ると、菜々子ちゃんは台の上を片付け始めていた。
「もう、帰ります。帰ってこいって、怒られたし」
いつもなら、丁寧にたたんでバックにしまうわら半紙を、ぐちゃぐちゃと乱暴に突っ込んでいく。
それは、彼女にとって、とても大切なものだったはずだ。
「俺のいない間に、なにがあったの?」
彼女の目は、もう泣くことすらあきらめてしまったようだ。
「私がお店のレジをしてたら、たまたま外にお母さんが通って、なにやってんのって怒られて、居間に戻って片付けしてたら、玄関からこの女の人が入ってきて……」
菜々子ちゃんの顔から、表情が消えた。
「ありがとうございました。ご迷惑をおかけしました。もう来ません」
俺は、彼女の目の高さにまで、膝を落とす。
「またおいで、尚子が怒ってるのは、菜々子ちゃんにじゃなくて、俺にだから」
二つに分けて結んでいる髪の毛が、吹き飛びそうなくらい激しく首を左右に振る。
「いいの、今までどうも、ありがとう」
片付けを終えた彼女は、のれんをくぐり店に下りた。
「じゃあ、さようなら」
見送りに出た俺と尚子に、ちょこんと頭を下げる。
最後に、声をかけようとした俺の言葉を、懐かしい声がさえぎった。
「やだ、まだいたんだ」
そこには、俺の初恋の人が、妊婦姿になって立っていた。
彼女は、俺が唯一心を寄せた女性は、名を藤崎香澄といった。
「わー、なつかしい! この本屋、まだ潰れてなかったんだね」
彼女はクスクスと笑って、店の中をのぞき込む。
「菜々子の言ってたこと、本当だったねー」
彼女は、俺の顔をちらりと見ただけで、すぐに視線を尚子に移す。
「はー、お姉さんが出来たって言ってたけど、本当にあの有名人の荒間尚子だったんだ。まぁ、あの頃は、たいしたもんじゃなかったけど」
大きなお腹をして、香澄は足元に転がる紙切れを、どうでもテキトーに蹴飛ばした。
「おもしろーい」
「お母さん!」
菜々子ちゃんは、香澄の腕にしがみつく。
「ここの本屋さん、知ってるの?」
「えぇ?」
香澄は、思い出したように笑って、俺を見上げる。
「まぁ、ね」
そう言って、香澄はまた笑った。
「ほら、帰るよ」
大きなお腹で左手に買い物袋を持ち、右手には菜々子ちゃんをぶら下げて、香澄は去っていく。
「なにあの女、かんじ悪くない?」
「別に、かんじ悪くないよ」
肩までのまっすぐな黒髪に、細い目。
それは、彼女の気の強い性格そのものだった。
中学三年生、初めて同じクラスになって、一目で恋に落ちた。
胸の奥が痛む。
「お腹すいた。ご飯食べよう」
彼女の姿を見ただけで、簡単に十五年前に戻ってしまう。
そんな自分を知られたくなくて、すぐにのれんをくぐるふりをして、尚子に背を向ける。
「知り合いなの?」
「同級生」
「あの女、かんじ悪い。あんな女にひっかからないでよ」
「ないって」
それだけを答えることすら、精一杯だった。
俺の背中で、尚子は好き勝手なことを言う。
「ま、妊婦さんみたいだし、あんたなんか、相手にする必要もないと思うけど」
膨らんだお腹。
俺には、そのことがとても悲しくもあり、同時にうれしくもあった。
彼女は今、幸せにしているんだろうか。
「同じ、同級生と結婚したんだ」
「へー。それも知り合い?」
「うん、まあね」
台所に向かった俺に、尚子は呆れたように言う。
「ちょっと、失恋したみたいになってんじゃないわよ」
「失恋じゃないし」
「好きだったんだー、まだ忘れられないとか?」
「何年前の話だよ」
「だから、新しい恋愛が出来ないとか言わないでよね。ま、あんたの場合、それ以前の問題だけどねぇ」
悪いけど、そんな話は、今はできない。
包丁を握る手に、思わず力が入る。
「ちょっと、そんなことよりお店のことだけど、いくら客がいないからってさ……」
「お前こそ、テキトーに男変えて、ちゃらちゃらチャラチャラ遊んでんじゃねーよ! お前に恋愛の話しされても、俺は何とも思わないからな!」
「なに言ってんのよ」
「また雑誌で話題になってただろ、いいかげんにしろよ」
尚子は笑い出した。
俺はとっさに、話題を変えることに、成功した。
「あら、心配してくれてるの?」
「そんなこと、あるわけねーだろ」
「あれ、彼氏じゃないから」
尚子は笑って背中を向ける。
助かった。
居間のテレビをつけて、スマホをいじり始めた。
「私の恋愛指南、結構評判いいのよ」
有名人との熱愛報道も絶えない、絶賛独身謳歌中の尚子、こんな奴に教えを請うなんて、世も末だと心底思う。
口に出しては言えないけど。
次の日、本当に菜々子ちゃんは来なかった。
導師と二人、庭先で、俺には理解出来ない不思議な問答のやりとりをして、本日の修行は終了。
ぼんやりと店のレジ台に座っていて、時計を見て気がついた。
あぁ、本当にもう、菜々子ちゃんは来ないんだってことに。
いつも服装だけはやたら立派な北沢くんが、ランドセルを背負ったまま、店に飛び込んで来た。
「こんにちはー。今日もお客さんいませんねー」
彼はまっすぐに、居間へ上がり込む。
「あれ? あいつは?」
のれんの奥から顔だけを出して、北沢くんはきょろきょろと店の中を見渡した。
「もう、ここには来ないって」
彼はするするとランドセルを下ろして、俺の隣にストンと座った。
「は? なんで? あいつが勉強教えてくれっていうから、嫌々つき合ってただけなんですよ。なのになんだよ。僕だって、こう見えて結構忙しいのに、あいつにばっかつき合ってらんないのに、ひどくないですか? せっかく来てやったのに、いないって」
俺は北沢くんを見る。
北沢くんは、自分から勝手にしゃべるタイプ。
「そりゃね、同じ学校には行ってますけど、学年違うからめったに会わないんですよ、校内で。だけどここに来たら、あいつ、絶対いるじゃないですか、ここに来たら、普通に会えるし、しゃべれるし、ここに来たら、一緒にお菓子食べて、話ししながら、なんかこう……、ね、ここに来たら、普通、いるもんでしょ」
北沢くんは、自分で勝手にしゃべるタイプ。
「だってさ、ここ以外の、どこで顔見て話すチャンスあります? 学校とかだと、絶対誰か見てるし、そんなの、話しかけられないじゃないですか。あいつだって、基本知らんぷりしてるし。ここだと、普通に普通で話せるから、だからここに来てるっていうか、勉強教えてやってる立場ですけどね」
北沢くんが、ため息をついてうつむいた。
おしゃべりの一時的ストップ。
「昨日は、ずっと泣いてたんだって」
その言葉に彼は、本当に驚いたような、傷ついたような顔をする。
「知りませんよ、僕は悪くないですからね」
黙ったまま前を向いていると、彼はまた勢いよく昨日の出来事をしゃべり始めた。
「だって、僕は大手の進学塾に行ってるし、そこで一番頭のいいクラスにいるんですよ。あいつの解いてる問題は、だって小四でしょ? 僕に出来ないワケがないじゃないですか。それに、背伸びして公立中高一貫校の入試問題なんて、早すぎて出来ないの、当たり前だと思いません? そんなことで怒り出して、泣かれても、僕だって知りませんよ」
俺は無言で、北沢くんの方に顔を向ける。
「だって、そうでしょ? あいつんちが母子家庭で貧乏なのも、僕のせいじゃないし、うちの両親が金持ちで弁護士なのも、僕のせいじゃない」
「今、なんて言った?」
「だから、僕は悪くないし、あいつが勝手に泣き出しただけなんです!」
母子家庭ってことは、菜々子ちゃんの父親は?
あのお腹の子は、誰の子供なんだろう。
「あれ、ちょっと、どこへ行くんですか?」
「ちょっと、さんぽ」
店の外に出た俺の目の前に、菜々子ちゃんが立っていた。
「違うの! 用事があって、ここを通っただけなの!」
「うん、俺も、散歩に行こうと思ってただけで、菜々子ちゃんに会いたいなんて、思ってもなかったよ」
彼女は、くるりと背を向けた。
駆けだしていく小さな背中を、俺は追いかけることができない。
「お~い! 菜々子! 約束してた塾のテキスト、持ってきてやったぞ!」
北沢くんのその言葉に、菜々子ちゃんは振り返った。
「バーカ!」
捨て台詞というには、あまりにも哀しいひびき。
「おい! なんだよ、せっかく持ってきてやったのに! ねぇ、バカとか酷くないです?」
そんなことを言ってる北沢くんは、俺の横に立っている。
「追いかけていかないの?」
「追いかけていって、なにするんですか?」
北沢くんは、動かない。
俺も、動けない。
「でも、追いかけていった方が、いいような気がする」
「まぁ、本来はそうなんでしょうね」
彼とまた目が合った。
所詮、俺たちはこの程度で、これが限界なんだ。
追いかけていって、何をしよう。
俺はただ見上げている北沢くんと、全く同じ顔をして北沢くんを見下ろしている。
追いかけていって、なんて言おう、追いかけていって、何が出来るんだろう。
「僕、テキスト、持ってき損ですよね」
「うん」
「なんか、気を使って、損しましたよね」
「うん」
男二人は居間に戻って、何となくいつもの流れでお菓子の袋をあけたけど、誰も手をつける人がいない。
「なんか、静かですね」
「うん」
「静かになって、よかったんですかね」
「さぁ」
長い沈黙。
男二人だと、本当に間が持たない。
「なんか、しゃべってくださいよ」
そんなことを言われてからの、数秒経過。
「菜々子ちゃんってさ」
北沢くんは減らないお菓子を見つめていて、俺も減らないお菓子を見つめている。
北沢くんが、それを一つ手に取った。
「どんなお菓子が好きだっけ」
「あいつ、出てるものなら、何でもだいたい食べますよね」
「今度さ、それを聞いといてよ。なにが好きなのか」
俺が彼女を追いかけられなかったのは、多分それを知らなかったせい。
「分かりました」
そう言って彼は、手にしていた細長いスナック菓子の一本を、元に戻した。
「なんか、つまんないから、僕、もう帰りますね」
気がつけば、いつの間にか北沢くんがいなくなっていて、そのことにふと気づけば、部屋も薄暗くなっていて、千里が帰ってきていたことにすら、俺は気づいていなかった。
きっと北沢くんなら、こんどから菜々子ちゃんを追いかけられるだろう。
彼女の好きなお菓子を、知ってさえいれば。
千里がお腹減ったっていうから、ご飯をつくって食べた。
それから片付けをして、なんとなくクセでテレビをつける。
明日はなにをしよう、なにをすればいいんだろう。
テレビ画面の中は、とってもにぎやかで楽しそうだけど、俺には完全に無関係な世界が広がっている。
とりあえず、菜々子ちゃんちに行ってみようかな、どこにあるのか、知らないけど。
千里はのんきに鼻歌を歌いながら、風呂上がりの髪の毛を拭いていた。
「ねぇ、千里」
「なに?」
お父さんいなくて、どうだったとか、お母さんいなくなって、さみしかったとか、だけど、今さら聞くのもバカらしい。
「なんでもない」
「キンモッ!」
千里が二階にあがっていくのを、俺はなんか安心して見上げた。
またなんとなく次の日の朝が来て、なんとなく店のシャッターを上げている時だった。
ふと横に目をやると、そこには香澄が立っていた。
「まだこの本屋さん、続けてたんだ」
「うん」
俺は、なんとなくそう答える。
お腹は大きくなっていても、それ以外は俺の記憶のそのままで、こうやって香澄の方から話しかけられるのも、不思議な気がする。
「菜々子から聞いたんだけどさぁ~」
香澄は、にこにことにやにやの、中間で笑っている。
「結婚って、してないんだ」
黙ってうなずく。
「私と同い年だから、三十だよね、独身かぁー。彼女とか、つき合ってる人とか、いないの?」
俺は、黙って首を横に振る。
彼女はそれを見て、楽しそうに笑った。
「はは、そうなんだ。じゃあ、本当に本屋は、一人でやってるんだね」
そうかそうかといいながら、香澄は店の外観を見て回る。
「まぁ、悪くはないわよね」
香澄とは、中三の時に同じクラスになった。
その時には、同じクラスに彼氏がいた。
その彼はとってもいい奴で、俺はほとんどしゃべったことはなかったけど、俺にもいじわるなんて、してくるような奴じゃなかった。
クラスの人気者で、キラキラしてるタイプだった。
俺は香澄のことが好きだったけど、そいつにはかなわないって、最初から分かってたから、なにも言わなかった。
「私のこと、まだ好き?」
そんな彼女に、なぜか一度だけ告白した。
どうしてそんなことをしたのか、その時の自分の行動が、今になって考えてみても、よく分からないけど、とにかく何かのタイミングで、ふたりきりになったとき、何を思ったのか、俺は彼女に好きだと言った。
「まぁでも、あれから何年も経ってるもんね、私も今、こんなだし」
香澄は、大きなお腹を抱えて笑う。
あの時もそうだった。
彼女は、俺のシンプルな告白を聞いた校庭の隅で、何の冗談かと笑っていた。
そうなることは、簡単に想像出来たのに、よく分かっていたのに、俺はそのまま立ち上がって、黙ってその場を後にした。
彼女は、そのまま彼氏の所に走っていって、何事もなかったように、それからの日々を過ごした。
「人間、どうなるか分かんないよね~」
菜々子ちゃんは今、学校に行っている。
平日の午前中、さびれ果てた商店街に、人影はまばらすぎた。
「またさ、菜々子、ここに来てもいい?」
香澄さえいいのであれば、俺に異論はない。
「勉強してたんだってね、本気で? 女の子が勉強したって、なんにもなんないのにね」
香澄は笑っている。ただ、声を出して笑っているだけ。
「ねぇ、菜々子の勉強、またみてくれる?」
「いいよ」
「そ、よかった」
彼女はそれだけを言って、朝日のなかで手を振った。
「じゃあ、菜々子が帰ってきたら、そう言っとくから」
菜々子ちゃんは、ここで勉強することを、どう思っているのだろう。
お母さんのこと、好きなのかな。
聞きたいことが、沢山あった。
言いたいことが、山ほどあった。
それを何一つ出来ないでいるのは、自分に勇気がないから、とは、思っていない。
午後になって、菜々子ちゃんは本当にやってきた。
「お母さんに、行ってこいって、言われたの」
「うん」
「入ってもいい?」
「うん」
菜々子ちゃんは、ちゃんと勉強道具を持ってきていた。
「こないだうちにいた俺の姉ちゃんがね、菜々子ちゃんに、プレゼントだって」
尚子が買った、参考書と問題集。本棚の低い所にいれておいた。
その隣には、北沢くんが持ってきた、塾の問題集。
彼女は、黙って塾のテキストを手にとった。
「やっぱり、本屋さんで売ってる問題と、塾の問題って、違うね」
その、汚い字で書き殴られた、所々に涙で濡れたような跡と、破れたページがあるテキストは、北沢くんの戦いの痕跡。
「私ね、お母さんから、あの女の人の話、聞いた」
菜々子ちゃんは、北沢くんのテキストの、最初のページを開いて置いた。
「うちのお母さんは……、わ、悪口みたいなこと言ってたけど、私は違うと思う」
菜々子ちゃんは、うつむいていた顔を、まっすぐに俺に向けた。
「今の私には、勉強以外出来ることがないから、勉強するね」
彼女の小さな手が、本のページをめくる。
導師は、縁側からじっと菜々子ちゃんの様子を見ている。
俺は邪魔をしないように、そっとその場を離れて、店のレジに座った。
多分どこかのブランドの子供服で、だけど相変わらず体には擦り傷が絶えなくて、きっと彼の両親は、北沢くんのつくる傷は、腕白でやんちゃな元気の証拠だと思っていて、それが悪意のある誰かによって、わざとつけられた傷であることは、本人にも言うつもりが無い。
そんな北沢くんがやってきて、遠くからこっそり店の中をのぞいている。
「お菓子あるのに、入ってこないの?」
「あいつ、来てます?」
彼はいつものように、居間に飛び込んだりせずに、ゆっくり歩いて店の中に入ってきた。
「勉強してるよ。君の持ってきたテキストで」
北沢くんの目は、居間へ上がる段差のところに並べられた、小さな靴しか見ていない。
「あ、本当だ! じゃあ上がらせてもらいますね」
居間の方からは、すぐに言い争う二人のにぎやかな声が聞こえてきて、しばらくするとその声は大人しくなったから、ちゃんと二人で勉強を始めたんだと思う。
導師がやってきて、俺の膝に座った。
「やれやれだな」
俺は、導師の頭を掻いてやる。
「ねぇ導師、菜々子ちゃんってさぁあー……」
「うちの菜々子がどうしたって?」
顔を上げると、買い物袋をぶら下げた香澄が立っていた。