自分は魂の指導者だと名乗る猫、導師につれられて、俺の修行が始まった。
目指すは魔法使いのなかの魔法使い、大魔王。
やっぱり目指すならトップを目指さなければ、何事もやる意味がない。
猫の導師のお世話は俺がやっている。
うちにお招きして、食事の用意からトイレ、ブラッシングもする。
修行させてもらうのだから、これくらいは当たり前だ。
導師は外猫だから、すっごく嫌がるけど、たまにはお風呂にも入ってもらう。
だけど、その分爪切りはしなくてすむ。
そこは助かった。
本日の修行テーマは『魔道への基礎講座~基本の材料とその扱い方~』
野外実習がメインだというから、気合いが入る。
「私は魂の指導者」
「はい」
「本日の修行を始める。私についてこい!」
書店のレジ台からぴょんと飛び降りた導師の後を、小走りで追いかけていく。
どんどん走っていくうちに、閑散としたアーケード街を抜け、路地裏の住宅街に迷い込んだ。
修行のために、今日は店を閉めてある。
どうせ客もいない。
導師は軽快な足取りで、道路の隅っこを走っている。
それを見失わないようについて走ってるけど、困るのは突然排水溝の溝に飛び込んだり、他の人の家の庭を横切ろうとすることだ。
「ねぇ導師、そっちには行けないよ」
導師は尻尾をピンと張ったまま、くるりとふりかえった。
「めんどくさい奴だな。目的地は向こうの河原だ。早く来い」
導師はコンクリートの壁を飛び降りて、よそんちの庭に入り込むと、その先の生け垣を抜けて走り去っていった。
まぁ確かに、そこを通った方が直線ルートで行けるから、目的地の河原までは近道なんだろうけど。
さすがに人間の俺が、そんなことをしたら怒られるから、きちんとしたルートを通って、走るのもやめて、普通に歩く。
猫には許されても、人間には許されない道。
そんなことは、山ほどある。
舗装されている道路なら、ここは勝手に歩いてもいいっていう約束。
だから俺は、歩くことを許された道を選んで歩く。
人気のないそんな道をくねくね歩いていると、目的地が分かってないと、すぐに迷いそうになる。
方向を見失うと、へんな所に出ちゃう。
そんな時には、どうやって目的地にたどり着けばいいんだろう。
ぐるぐると歩いているうちに、住宅街の左手に土手が見えた。
コンクリートで固められた護岸壁。
これはうちの近所に流れる、一番大きな川だ。
そこにあった階段を駆け上る。
目の前には、ゆっくりと流れる川と、その両岸に整備された、ただただ広い草原と青い空、吹き抜ける風が気持ちいい。
よかった、たどり着いた。
しかし、たどり着いたはいいけれど、こんなところで猫の導師一匹を見つけるなんて、どうすればいいんだ。
対岸では草野球チームの打った金属バットの音が、空高く響いている。
土手沿いの道には、自転車とマラソンランナー。
部分的に整備されていない草むらに、一本だけぽつりと大きな木が生えていて、とりあえずそこに向かって歩いてみる。
他に、目印らしきものはない。
膝下くらいにまで伸びた草を、踏みしめて歩く。
たぶんここぐらいしか、猫が身を潜めている場所はない。
「遅いじゃないか」
俺が踏み込んだそのすぐ左手の足元に、導師はうずくまっていた。
「わ! そこにいたの?」
「迎えに来てやったんだ」
「そっか、ありがと」
俺が見つけなくても、見つけてくれる人は、見つけてくれる。
俺がそこに来さえすれば、ちゃんと見つけてくれようとしている人には、見つけてもらえる。
なんだかちょっとうれしくなって、俺は導師の隣でしゃがんでみた。
つい、うふふと笑って導師を見下ろすと、導師の真顔が俺を見上げた。
「そこから動くなよ、じっとしてろ」
「うん」
そう言ってから、導師は頭を動かさず、視線だけで辺りをくまなく観察していて、俺は内心でものすごくうきうきしながら、導師の次の指示を待っている。
「よし、ちょっとだけ動け」
両手の平をぱっと地面につけると、そこから数匹の虫が一斉に飛び出した。
そのうちの一匹を、導師はお口でお見事キャッチ。
「うまい!」
むしゃむしゃと、捕まえた大きなバッタを食べる導師。
「お前もやってみろ」
「はい?」
「うまいぞ」
「……」
そんなことを言われても、俺に出来るわけがない。
いやいや、バッタを捕まえることは出来るだろうけど、それを食べろと言われても、ちょっとしんどいかも。
「うん、無理」
また飛び出した一匹の虫を、導師はぱっと前足ではたいて、たたき落とした。
それを口にくわえて、美味しそうにほおばる。
「自分で食うものくらい、自分で取れないでどうする。修行とは、まずそこからだ」
「虫なんて、食べないよ」
「食べられないのか?」
俺は、大きく首を横に振った。
「人間は、虫を食べないわけじゃないけど、あんまり食べない」
「なんだそれ」
「食べないわけじゃないけど、食べる人もいるし、食べない人もいる」
「どっちだ」
「どっちなんだろ」
「私は、お前のことを聞いているんだ」
導師は草むらの陰から、じっと俺を見上げる。
「お前が虫を食う奴なら、私についてこい。食わない奴なら、そこで黙って見ていろ」
がさごそと音を立てて、導師は草むらの中へと消えていく。
言われたことをしばらく考えてみたけど、少なくとも俺は今までに虫を食べたことはないし、これからは……どうなるのか分からないけど、とりあえず食べる予定は今のところないから、今は黙って見ておこう。
時々思い出したように飛び跳ねる、導師の焦茶色の背中を見ながら、俺はゆっくりと後ずさりして、土手の上に腰掛けた。
高みの見物。
だけど、これじゃ俺の修行にはなってないような気がする。
「あの逃げた猫を、捕まえに来たんですか?」
その声に振り返ると、小学校四、五年生くらいの、すごくお上品で高そうな服をきた、賢そうな少年が立っていた。
「よかったら、僕も手伝いますよ」
少年は、にこっと笑って腰を下ろす。
「僕、動物、大好きなんです」
そうして、あれこれ一人でずっとおしゃべりを続けながら、ぶちぶちとその手に触れる草をかったぱしから抜いていく。
「猫は、警戒心が強い生き物ですからね、こちらから近寄らずに、寄ってくるのを待つ方がいいんです。あの猫の好きなおもちゃとか、おやつは持ってますか?」
首を横に振る。
「イエネコの祖先は、元々ヨーロッパのリビアヤマネコと言われていましたが、最近の研究では、中東の沙漠に生息していたリビアヤマネコが祖先と分かったんです。それで、日本の場合はですね、現在一般家庭で飼育されているイエネコの頭数は……」
少年がずっと猫の歴史とか飼育方法とか、彼が本で読んだ内容の朗読を続けるから、俺はただぼんやりと、導師がいるであろう辺りの草むらを見つめ続けている。
導師が姿勢を低くしてしまうと、その姿は草に埋もれてしまって、全く見えない。
「科学雑誌のサイエンスに、ミトコンドリアDNAの解析結果が発表されたことで、世間に知れ渡ったんですよねー」
にこっと笑って、下から俺をのぞき込んできた。
「ご存じありませんか? サイエンスとネイチャー」
「お姉ちゃんがいるの?」
「違いますよ」
彼はクスクスと笑って、とても上品な仕草で、また俺を見上げた。
「姉ちゃんじゃなくて、ネイチャーです」
導師が尻尾をピンと立てて、振り返った。
それは、こっちに来いという合図だ。
俺は立ち上がった。
「あれ? どこに行くんですか? 話しはまだ終わっていませんよ?」
「導師が呼んでるから、またね」
土手を駆け下りる。
その足元からぴょんぴょん何かの虫が飛び跳ねるけど、踏んづけちゃってたら、ゴメンね。
「導師、なに?」
「トカゲは食うか?」
「食わない」
「トカゲも食わないのか」
「トカゲも、食べる人もいるし、食べない人もいる」
「……。相変わらずややこしいな、人間は」
さっきの少年が、俺の後を追って土手を駆け下りてきた。
「待ってくださぁ~い!」
そのとたん、彼は何かにつまづいて、思いっきり転んだ。
本当に、見事なこけっぷりだった。
そして、そのまま立ち上がらず、しばらく寝転がったままでじっとしている。
何をしているのかよく分からなかったので、そのままずっと見ていたら、ちゃんと自分で起き上がって近づいてきた。
「やだなぁもう、助けおこしに来てくださいよ、大人でしょ」
すりむいてわずかに血がにじむ膝を、俺に向けた。
「あーぁ、血が出ちゃった。手当て、してもらえます?」
決して痛がっているようにみえない笑顔でそう言うから、きっとこの子は大丈夫。
「いま忙しいから、無理」
「何してるんですか?」
「大魔王になる、修行中」
足元には、トカゲをくわえた導師がいる。
嘘じゃない。
「あはは、冗談うまいですね、僕を子供だと思ってバカにしてます?」
少年はやっぱりにこにこ笑顔で、とても愛想がいい。
「そんな冗談通じませんよ、じゃあ僕も、魔法使いになる修行しちゃおっかなぁ!」
「えぇっ! 本当に? じゃあ、一緒にやる?」
正直いうと、一人じゃちょっとさみしかったんだ。
仲間が出来ればラッキーじゃないか。
「わぁ~い、やったやったぁ!」
「やったぁ! やったね!」
手を取り合って喜びあう俺たちを、導師はもしゃもしゃトカゲを食べながら見上げてる。
「そいつはダメだ」
「えぇ! なんで?」
「魔法使いの修行が出来るのは、齢三十を越えてからだ」
あぁ、そうか、そうだった。
ゴメン、君にはまだ、その資格がなかった。
魔法使いは魅力的だけど、こんな不名誉な条件を、誰かに強制するわけにもいかない。
俺は泣きそうなくらい残念な気持ちで、少年の手を離した。
「ごめん、君はまだ、条件を満たしていないらしい」
「は? 何ですか、その条件って」
それを教えていいのかどうか、導師をちらりと見たら、首を横に振った。
「魂の指導者のいる前で、その存在を知り得た者が知識を得、純潔を守ったとしても、その者の前に指導者が現れることはない」
そっか、うっかり教えてしまったら、彼の将来の可能性をひとつ潰してしまうことになるのか。
それならば、俺としても絶対に教えるわけにはいかない。
「ごめん、それは、教えられないんだ」
「あぁ、いいですよ、別に」
意外だった。
さっき、あんなに喜んでいたのに、彼は残念じゃないんだろうか。
「適当な嘘が思いつかなかっただけですよね、いいですよそういうの、僕みたいな子供相手だからって、気を使わなくても」
幼いのにとても紳士的な彼は、やっぱり笑顔を崩さない。
「さ、もう冗談はお終いにして、怪我の手当てをしてください。あなたが僕に怪我をさせたこと、弁護士である僕の両親には、内緒にしておきますから」
「あぁ、うん」
俺がそう言ったら、彼はまたにこっと笑った。
その笑顔は、確かにとても素敵なんだけど、なんだかちょっと、変な気分がする。
「お名前は? なんておっしゃるんですか? 僕は、北沢貴之です。小学校五年生ですが、地元の小学校ではなくて、私立に通っているんで、今日は開校記念日でお休みなんです」
今日は普通に平日。
毎日が日曜日みたいな俺にとって、祝日とか休みの日の感覚は、ないに等しい。
「俺は荒間和也、そこの商店街で、本屋さんをやってます」
「どうも、よろしくね、和也さん」
彼が右手を差し出してきたってことは、握手しろってことかな?
よく分かんないけど、とりあえず同じように手を出したら、ぎゅっと握って振り回された。
「ついでに、お菓子でも買っていきません? 僕、お腹すいちゃったな」
よく分からないけど、彼はうちでお菓子を食べるつもりらしく、こっちへ来いと手招きする。
必然的に、俺と導師の修行はそこで中断した。
商店街のスーパーで、彼はありとあらゆる種類のお菓子を買い物かごへと放り込み、もちろんお金は俺が払って、うちについたら本屋の店の方から居間へ入った。
その時には、北沢くんの傷はもう出血も止まってかさぶたになっていたけど、消毒をして絆創膏をはった。
そうしてほしいって、彼に頼まれたから。
それが終わったら、彼はずっとお菓子をほおばりながらテレビを見ている。
ゲーム機やパソコンはうちにないと知って、あきらめたようだ。
俺は部屋の隅っこに正座して、導師と並んでその様子を観察している。
「……これから、どうするつもりなのかな」
「さぁな、私は人間の子供は嫌いだ」
「今日の修行、できなかったね」
「仕方ない、魔法の修行は、極秘裏に行うものだからな」
壁にかかった時計をちらりと見たら、もう六時を過ぎている。
子供は家に帰る時間だ。
「ねぇ、北沢くん、そろそろお家に帰らないと、家の人が心配するんじゃない?」
「スマホあるから、大丈夫っすよ」
テレビの前から動かない彼に、ため息をついた。
どっちにしろ、そろそろ夕飯の支度も始めないと、あの二人が帰ってくる。
仕方なく台所に立った俺の後ろに、いつの間にか北沢くんがやって来て、俺の手元をのぞき込んだ。
「わぁ、男の手料理ってやつですか? 今日のメニューはなに? 楽しみだなぁ」
この子は、夕飯も食べていくつもりなんだろうか。
にっこりと微笑む彼と目を合わせながら、彼のためにもう一品おかずを増やそうかと、考えているときだった。
ふいに、店の呼び鈴がなった。
表に出てみると、そこには北沢くんよりさらに小さな女の子が立っている。
「すいません。これください」
彼女は、一冊の料理本を差し出した。
『料理の基本~基礎から学べるかんたんおかず~』千二百円。
真っ黒い、つやつやの瞳に、肩先までの髪。
なんだかちょっと、懐かしい感じのする女の子だった。
「お料理、好きなの?」って聞いたら、「うん」ってうなずく姿が、なんだかとても可愛らしくて、俺は思わず「がんばってね」って言ったけど、それには答えずに帰っていった。
「この辺じゃ、見かけない顔だなぁ」
いつの間にかのぞきに来ていた北沢くんは、そんなことを言ってたけど、そんなことより、問題は君自身の方だ。
「もう帰らないと、ダメだよ」
「えー、せっかくお食事を用意してもらっているのに、申し訳ないから、夕飯もちゃんといただいて帰りますよ」
「夕飯は、お家で食べなさい」
俺は、北沢くんを見下ろした。
「ちゃんとおうちで家族と手を合わせて、いただきますをするのが、晩ご飯を食べる時の決まりだからね」
「えぇ? そんな風習、今どき絶滅してますよ」
やっぱり紳士的な笑顔でにこにこしながら、そんなことを言う。
「今や夫婦共働きは当たり前、家族がそれぞれ都合のいい時間に合わせて食事もしないと、それぞれの都合ってもんがありますからね、時間の有限性を考えると、それが一番効率的かつ、利便性が高いんですよ」
「じゃあ、スマホで一言連絡入れとかないと、ご両親も心配するから」
その一言は、彼の逆鱗に触れた、らしい。
北沢くんは突然大声をあげて、この世の終わりとばかりに、わめき散らした。
「おいふざけるなよ、おっさん! お前がいまやってることって、誘拐だよ? 誘拐! 俺が警察に行って泣き落としたら、絶対に俺の勝ちだからな! お前が犯罪者になるってことなんだよ、犯罪者に! 犯罪者になりたいの、お前。分かったら、余計なことすんなよ! こんなつまんねーとこ、こっちの方からさっさと出て行ってやるよ! いっとくけど、お前んちはもう覚えたからな! 逃げようったって、無駄なんだよ!」
彼はそうやって思いつくかぎりの悪態をつきながらも、大人しく店に戻って靴を履く。
「いいか! 明日もまた来てやっからな、覚悟しとけよ! お菓子もちゃんと補充してなかったら、この店に火をつけて、ここにある本、全部燃やしてやっからな!」
彼は去り際に、もう一言を付け加えてから、走り去っていった。
「ばーか!」
とにかく、ようやく帰ってくれたから、店じまいをしてから、夕飯の支度に取りかかる。
あんなの、尚子や千里に比べたら、かわいいもんだ。
ハンバーグを焼いていたら、裏の玄関の引き戸が開く音がして、千里が帰ってきた。
「ちょっと何よ、あの部屋の散らかり具合!」
「お帰り~」
「なんなの? お兄ちゃんは、いまだに小学生男子なの?」
俺はフライパンの火を止めて、千里を見る。
「お帰り」
「ただいま」
俺たちは家族じゃないけど、一緒にご飯を食べる。
いただきますもする。
焼き上がったハンバーグを、皿の上にのせた。
「あの部屋を先になんとかして! 家中がお菓子くさくて、耐えらんない!」
まぁ確かに、千里がそんなことを言いたい気持ちも分かる。
俺は畳に転がっていた、空のポテトチップスの袋を拾い上げた。
「早く御飯にしたいなら、千里も片付け手伝って」
「はぁ? 私は今からお風呂入るんだから。その間に片付けといてよね、ご飯はその後よ」
「御飯は、みんなで『いただきます』だろ!」
「あんたはこないだまで一人で食べてたくせに、なに言ってんの?」
「今は違うでしょ」
「なにが違うのよ」
「一緒に住んでる」
「それが何よ」
俺と千里とのにらみ合いが続く中、家の黒電話がなった。
俺は携帯電話を持っていない。カネがないからだ。
電話に出ると、尚子だった。
『あ、今日私のご飯、いらないから』
それだけ言って、すぐに切れた。俺は受話器を叩きつける。
千里はすでに、二階に消えていた。
「一緒にご飯食べられないんだったら、今すぐここを出て行け!」
着替えを抱えて降りてきた千里は、あっかんべーをしてから浴室に消えていく。
俺は、小さなちゃぶ台に並んだ三人分の食事を見下ろした。
誰も一緒に食わないなら、俺が先に一人で食ってやる!
「いただきます!」
手を合わせて、挨拶をしてから食べる。
一人でも、そうする。
誰も血の繋がらない人間同士なのに、何が家族だ。
そんな都合のいい言葉に、もう俺は騙されないぞ!
自分の分の食事を、押し流すように胃に突っ込んで、千里が風呂から出てくるまえに食べ終えた。
そのあと、尚子の分を冷蔵庫にしまってから、俺は二階へと上がって、寝た。
ざまーみろ、だ。
翌日は、朝早くから、北沢くんがランドセルを背負ったまま、本当にやってきた。
「おはようございます」
彼は相変わらずの爽やかな笑顔で、堂々と店に入ってくる。
「今日も学校休みだったの、忘れてたんですよね」
北沢くんは、ランドセルを背負ったままレジ台の横から居間に上がり込むと、テレビのチャンネルを変えた。
「ジュースかなんか、あります? あ、いいですよ、自分で取りますから」
背負っていた、ちょっと風変わりなランドセルを放り投げた彼は、台所に入っていった。
そして、寝起きの千里と鉢合わせる。
「ちょ、お兄ちゃん? 誰よ、この子!」
「北沢くん」
「は?」
「北沢くん」
「バカ、違うって!」
千里も混乱していたけど、千里以上に混乱していたのは、北沢くんの方だった。
「え、えぇっ? えぇー!」
どすっぴんの千里に視線を奪われたまま、手足だけは、バタバタと動いてる。
「さ、桜坂花百合隊の、ちりりん?」
その言葉に、パッと千里のアイドルスイッチが入った。
「あ、君、北沢くんっていうの?」
「はい!」
千里は、テレビでしか見たことのない顔で笑う。
「実はね、ここ、私の実家なの、実家って、分かるかな?」
「わ、分かります!」
北沢くんは、頬を真っ赤に染めて、夢見るように千里を見上げる。
「みんなには、このこと、内緒にしておいてくれるかな、千里からのお願い、ね?」
「はい!」
千里は北沢くんの頭越しに、スゴイ目で俺をにらんでくる。
にらまれたって、そんなこと知るか。
ここに住むと勝手に決めたのは千里自身で、勝手にやってきたのは北沢くんだ。
その北沢くんは、すっかり夢見る少年に変わってしまった。
千里はこれからレッスンがあるからとかなんとか、多分適当な嘘を言って出て行った。
北沢くんは、きちんと正座をしてちゃぶ台の前に座る。
「いや、驚きました。こんな運命の出会いって、本当にあるんですね」
どこからか入って来た導師が、ちゃぶ台の上に飛び上がる。
「私は魂の指導者」
「もしかして、この猫もちりりんの飼い猫ですか?」
北沢くんは、昨日は見向きもしなかった導師の頭をなでた。
俺は正座をして、導師と向き合う。
「ところで、本日の修行だが」
「はい」
「わぁ! やっぱり、そうなんだ!」
北沢くんは、いきなり導師を背後から抱きしめた。
びっくりした導師は、逃げようとしてあばれてる。
なんとか北沢くんの腕から逃れた導師は、どこかへ走り去ってしまった。
「あぁ! 行っちゃった」
今日もまたすることがなくなった俺と、北沢くんの目が合った。
「これから、どうします? ちりりんの、お部屋の掃除でもしておきましょうか」
「勝手に入ったら、殺されるよ」
「それはいけませんね」
「俺は、店番があるから」
「じゃ僕は、持ってきたゲームでもしながら、適当に過ごします」
店先から見える屋根付きの通りは、いつでも薄暗い。
北沢くんは、しばらくうちでごろごろしてたけど、昼前に一度戻ると言って出て行ってしまった。
本当は、魔法使いになる修行をしないといけないんだけど、導師もいないし、どうしたもんだか。
レジ台に座ってうとうとしながら、ぽつりぽつりとやってくる客の相手をして、気がつけば午後をまわっていた。
ふと顔をあげると、店内で立ち読みしている女の子がいる。
その子には見覚えがある。
昨日料理の本を買っていった、懐かしい感じのする女の子だ。
立ち読みしている本は、辞書。
「何を調べてるの?」
俺が話しかけると、少女は驚いた顔をして、慌てて辞書を閉じた。
「ごめんなさい。どうしても、読めない漢字があって」
「どれ?」
彼女が指を差したのは、昨日買っていった本の『合い挽き肉』の『挽』という字だった。
「辞書で調べて、分かった?」
「読めないから、調べられなかった」
まぁ、確かにそうだ。
国語辞典は、そもそも文字が読めないことには、意味も調べられない。
「これは、『あいびきにく』って、読むんだ」
「どういう意味?」
「豚と、牛の肉をまぜてある挽肉のことだね」
そういうと、少女は料理の本に目を落とした。
開いているのは、ハンバーグのページ。
「ハンバーグ、作りたいの?」
その女の子は首を振った。
広げていた本を片付けて、急いで店を出ようとする。
「昨日、俺がうちでハンバーグ作ったんだ」
店の入り口で、少女が振り返る。
「偶然だね、余ってるのがあって、よかったら食べる?」
「知らない人には、ついて行っちゃダメだから」
その言葉に、俺は多少なりとも傷ついたけど、彼女の言うことは間違ってない。
「そっか、そうだね」
少女がぺこりと頭を下げて、一歩を踏み出したとき、ランドセルを背負っていない北沢くんが店に入ってきた。
「おじゃましまーす」
彼は誰にも臆することなく店の奥に進み、誰に邪魔される事もなく、勝手に居間へと上がり込む。
「お菓子、買い足しておいてくれましたぁ?」
そんな北沢くんの態度に、少女はとても混乱した様子で、俺と北沢くんを交互に目の玉だけで追いかけながらも、何かを一生懸命に考えている。
俺には、その怒りにも似たおどおどとした様子が、ここにきたばかりの千里みたいに見えた。
「一緒に、お菓子食べる?」
「読めない漢字が、他にもあるの!」
しっかりと本を胸に抱えた女の子は、そう叫ぶ。
「だけど、うちに辞書がないから、読めないの!」
「どれ? 教えてあげる」
俺はレジ台に座って、彼女はその前に立って、俺と彼女の間には、開かれた本のページが置かれた。
彼女がその細い小さな指先で、次々に繰り出す質問に答えながら、俺は時々彼女に質問をはさむ。
彼女の名前は藤崎菜々子、最近この近所に引っ越してきたばかりの小学四年生で、ご飯を作れるようになりたいらしい。
藤崎という名字は、俺の初恋の人と同じ名字だ。
「どうして、ご飯を作れるようになりたいの?」
「生物は、食べないと死ぬから」
いつの間にか戻って来た導師が、俺の足元にするりと忍び込む。
「ねぇ、和也さん、お菓子の買い置きって……」
ふいに居間と店を仕切るのれんの奥から、北沢くんが顔を出した。
彼は菜々子ちゃんを見るなり、牙をむき出しにして吠え始める。
「なんだよ、なんでお前がこんなとこにいんだよ!」
眉間にしわをよせ、本当に犬のように吠える。
「お前がこんなとこ、来ていいわけないだろ、さっさと帰れよ!」
俺もよく吠えられるから、犬って、ちょっと苦手なんだよねぇ。
そこを通っただけで、他には何にもしてないのにさぁ。
「彼女はお客さんだから」
「はぁ?」
俺がそう言うと、そのつばの飛ばし先が変わった。
「なにが客だよ、こいつカネ持ってねぇだろ、だってすっげー貧乏なんだぜ、こいつんち! お前はどうせ万引き犯なんだろ? 万引き犯! コイツはね、ど・ろ・ぼ・う! どろぼうなんだよ!」
少女の胸に抱えていた本が、するりと抜け落ちた。
大切なはずの、自分のお金で買った本が、床に落ちる。
彼女は北沢くんに飛びかかって、顔を殴っていた。
二人はそのまま、菜々子ちゃんは北沢くんにつかみかかったまま、居間に転がり込んだ。
必死で抵抗する北沢くんでも、馬乗りになった菜々子ちゃんの勢いは止められない。
何かを訴えようとしている北沢くんに、一切言葉を発する隙を与えない連続パンチ。
これは間違いなく、彼女を止めた方がいいやつ。
「菜々子ちゃん!」
正直こんな喧嘩の、一方的な殴り合いの仲裁に入ったことなんて、生まれて一度も無いから、どうやっていいのか分からない。
だけど、振り下ろされる彼女の腕を偶然つかめたから、ようやく連続パンチが止まった。
北沢くんの泣き声が、表通りにまで響く。
菜々子ちゃんは、あくまで冷静だった。
「ごめんなさい、勝手にお家に入っちゃって」
「いいよ」
「すぐに帰ります」
菜々子ちゃんは、履いたままだった靴を脱いで、両手に持った。
そして、自分の大切な本を持っていないことに気がついた。
「あれ! 料理の本は?」
混乱して辺りを見回す彼女に、俺が拾っておいたそれを差し出したら、初めて泣きそうなくらいの顔で笑った。
「ありがとうございました」
「俺はね、荒間和也、ここの荒間書店の店長、本屋さん」
菜々子ちゃんは、俺を見上げる。
「もう知らない人じゃないでしょ。一緒にお菓子食べよう。ほら、北沢くんも、泣き止んで」
こういう時の、お菓子パワーって、すごいと思う。
チョコレートで誘拐できるって、嘘じゃないと本気で思う。
ちゃぶ台一杯に広げたお菓子とジュースで、北沢くんと菜々子ちゃんの機嫌はすぐに直った。
「ねぇ、知ってる? コイツ、学校ほとんど行ってない問題児で、すごい有名人なんだよ」
菜々子ちゃんは、北沢くんの話を始めた。
「で、すっごい嘘つきで、適当なことばっかり言ってるから、もう学校の先生も、近所の人も自分の親も、誰も相手にしてないんだって」
「え! 私立の小学校に行ってるんじゃなかったの?」
「そんなのウソ、ウソ! 私と同じで歩いて行ける小学校行ってるもん。でさぁ、親が弁護士っていうのを自慢しまくるから、友達も出来ないんだって、みんなむかつくんだって、ウザイんだって」
親が弁護士っていうのは、本当だったんだ。
今度は北沢くんが、菜々子ちゃんの話をする。
「お前こそ、すっげー貧乏人の転校生が来たって、うちの母さんが言ってたぞ。頭悪い系の、典型的ダメシングルマザーだって、言ってたぞ」
「私は頭悪くないもん!」
「親がバカだから、お前もバカなのは、しょうがねぇだろ!」
「私はバカじゃない!」
菜々子ちゃんの地雷原は、どうもこの辺りにあるらしい。
頭が悪いと言われた彼女は、再び北沢くんに殴りかかろうとする。
「勉強なら、俺が教えてあげるよ!」
北沢くんの胸ぐらを掴み、拳を振り上げた菜々子ちゃんの動きが、俺の一言で止まった。
「お、俺も勉強は出来る方じゃないけど、たぶん小学生くらいの勉強までだったら、なんとかなると思うから」
「ほんとに?」
うなずいた俺に、北沢くんが言う。
「大丈夫かよ、コイツの親、万引きで捕まって転校してきたんだぜ!」
菜々子ちゃんの体が、ビクリとこわばった。
大丈夫、北沢くんが怖いんじゃない。
怖いのは、菜々子ちゃん自身が誤解されてしまうこと。
「菜々子ちゃんが、俺でもいいんなら、俺はいいよ」
彼女は、彼女にふさわしい、子供っぽいはにかみを見せてくれた。
「じゃあ、そうする」
なんだかうれしくなって、ついにっこり笑った俺に、菜々子ちゃんも笑う。
「なんだよそれ! じゃあ俺も一緒に勉強する!」
「ははは、いいよ」
「なによそれ、私の邪魔しないでよ!」
「それはこっちの台詞だ! あ、でも」
北沢くんが、俺を見上げた。
「でも、ここのうちのことは、秘密にしておかないと」
「なんで?」
「だって、ちりりんが……」
あぁ、そうだった。忘れてた。
まずはあいつらをどうにかしないことには、やりたいことも、何も出来ない。
「ちりりんって、なに?」
「なんでもないよ。じゃあ、ここで勉強するのは、三人だけの秘密ね」
俺がそう言ったら、二人は快くうなずいた。
菜々子ちゃんは、さっそく料理の本を広げ、分からない漢字を聞いてくる。
俺は本物の調理道具を、台所から持参した。
その日からほぼ毎日のように、菜々子ちゃんと北沢くんは、うちにやってくるようになった。
午前中は学校に行って(たまにサボった北沢くんが来るけど)、午後からの数時間をうちで過ごす。
本当に勉強がしたいらしい菜々子ちゃんは、店のドリルや参考書、問題集を立ち読みして、その問題を記憶してから、居間で学校プリントの裏の白紙に書き写す。
何度も何度も店と居間を往復して、ホッチキスで留めたオリジナル参考書を作る。
俺と北沢くんは、そんな菜々子ちゃんを見ながら、お菓子を食べたり、テレビを見たりする。
「なんでそんなに勉強すんの?」
北沢くんが聞いたら、菜々子ちゃんは問題を解きながら答えた。
「自分で稼げる人間になりたいから」
菜々子ちゃんは、とっても大人だ。
お料理の本は、もう大体覚えたから、うちでは自分でご飯も作るらしい。
お菓子の粉まみれになった指をなめながら、男二人はぼんやりと勉強する菜々子ちゃんを見ている。
「あいつは、魔女になるな」
午前中の、二人ともいない時間が、俺と導師の修行タイムになった。
最近はもっぱら、居間か庭先が修行の場だ。
縁側の上で、後ろ脚で首の後ろを掻きながら、導師は続ける。
「女はみんな、魔法使いになる要素を持っている。それに気づいてる奴は、少ないけどな」
「菜々子ちゃんは、魔女になる?」
「本人がその能力に気づいて、なろうと思えばな」
「ふーん」
導師はきちんと座り直して、俺を見上げた。
「私は魂の指導者。さて本日の修行だが、お前の目指す魔法使いとは、なんだ?」
「えっと、一番強い魔法使い。黒魔道師、攻撃系の呪文使うやつ」
「大魔王?」
「そう、それ! 世界中を、自分の思い通りにしたい」
コホン、と、人間だったら咳払いみたいに、導師はぶるりと頭を振った。
「よろしい。選択に迷った時は、常に難しい方の道を選べ、魔道の基本だ。では、始めよう」
秋口の朝の、柔らかい日差しが縁側に降りそそぐ。
俺はボロい一軒家の庭先で、正座して導師に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「うむ。まずは精神を統一することがなによりも重要だ」
「はい」
「何事にも動じぬ心。齢三十まで禁欲を貫いた者にならば、難しいことではないはずだ」
それはうれしいのか、うれしくないのか、いいことだったのか分からないけど、とにかく大魔王になれるのなら、頑張るしかない。
「はい」
「目を閉じて、意識を腹の底に集中させるのだ。そして、これから私の言うことの……」
ガチャン! という大きな音に、ハッと導師と目を合わせる。
「何事?」
その瞬間、導師が店へと走った。
導師が熱心にのぞき込む店内、その背中の上から、のれんを押し分けて店の奥を見る。
白い影が、視界を横切った。
導師も店の外へ飛び出す。
真っ白い、大きな猫だ。
「追いかけるの?」
店を無人にするには気が引けるが、どうせ誰もこないし、盗まれて困るものも何もない。
修行の中断は気になるけど、導師がいないことには、どうしようもない。
俺はサンダルを引っかけると、後を追った。
店の外に出てみたはいいけれど、すでに彼らの姿はない。
昼間の方が薄暗いアーケード街の隅っこ。
俺は右と左と、どちらに行こうか迷っていた。
「あら、和也くん、どうしたの?」
古くからの顔なじみのおばさんが、声をかけてくる。
「いや、ちょっと修行中だったんですけどね」
「あらまぁ、なんの修行中?」
「魔法使いです」
おほほほほ、と、玉を転がしたように智代さんは笑った。
「さっき、猫が飛び出してきませんでした? 焦げ茶の」
「さぁ、見てないわね」
そうですか、分かりましたと頭を下げ、俺は導師の捜索を始めた。
平日の午前中なんて、外を歩いているのは老人と幼い子供を抱えたお母さんぐらい。
そんな中で、俺みたいなのがぷらぷら歩いてると、非常に目立つ。
みんな、どこで何をしてるんだろう。
「お~い、導師~。どこ行ったぁ~?」
あてもなく歩いていると、ふと聞き覚えのある声がして、公園の隅で北沢くんを見つけた。
ランドセルを背負っている。回りには、制服姿の中学生。
「あ、北沢くん! 導師見なかった?」
北沢くんの服と顔は汚れていて、左の頬がなんだかちょっと赤くなっている。
三人の中学生は、俺が近寄るとどこかへ行ってしまった。
「導師、見なかった?」
「見てねぇーよ」
北沢くんは、切れた唇の端を手の甲でぬぐうと立ち上がった。
「なにしてたの?」
「は? お前、バカか」
北沢くんの着ている服は、今は汚れているけど、いつだって高そうな服で、その七分丈のお洒落なズボンのポケットに、彼は両手をつっこんで歩く。
「どこいくの? 学校は今日も休み?」
「今から行くんだよ」
ランドセルを背負って歩く彼の後ろ姿は、やっぱりなんだか大人びて見えて、小学校っていう場所が、似合わないかんじがする。
「ねぇ、大丈夫?」
「大丈夫なわけねぇだろ。学校じゃ、誰もいない」
そう言って、北沢くんは振り返った。
「今度から、余計なことするなよ」
余計なことって、なんだろう。
そういえば、いつも尚子や千里にも言われてる。
あの二人は、大概俺のやることなすこと全てが気に入らない。
俺の全てが、あいつらにとって余計なこと、だ。
太陽が空のてっぺんに来て、少し西に傾いた。
お腹もすいてきたし、導師も見つからない。
たまたま目に入ったラーメン屋さんでお昼を済ませて、午後からの捜索を再開する。
北沢くんと初めて会った、土手に来てみた。
河原の草原に立つ一本の木。
行ってみようかと舗装された土手の道を歩いていると、赤いランドセルの菜々子ちゃんを見かけた。
彼女はしゃがみ込んで、土手の草むらに向かって、ちぎったパンを投げた。
「なにしてるの?」
その言葉は、彼女にとって不意打ちだったようで、ビクリとして振り返った。
「な、なんでもない」
草むらには、小さなパンの固まり。
白い影が、スッと草むらに消えると、どこかへ走り去った。
菜々子ちゃんは手にしていた給食のパンを、あわてて後ろに隠す。
「給食、食べきれなかったの?」
色とりどりの、カラフルなランドセルを背負った子供たちがが、すぐ横を通り抜ける。
「うわ、またこいつ給食のパン、持ち帰りしてるぜ!」
「ダメなんだよ、持って帰っちゃ」
「動物にエサやりも禁止だし!」
「違うよ、うちでご飯食べられないから、持って帰って食べてるんだってよ!」
「えぇ~! やだ汚い古い、お腹壊しそう」
赤いランドセルの女の子って、もう多数派じゃないんだな。
この世で一番正直でまっすぐで、嘘の無い人たちが走り去っていく。
菜々子ちゃんは、そんな彼らを黙って見送った。
「菜々子ちゃん?」
「うるさい!」
俺からも、逃げていく必要なんて、ないのにな。
走り去る彼女を追いかけてもよかったけど、多分彼女は今、そんなことを求めたりしていない。
それよりも、俺は早く導師を探し出して、魔法使いにならなければ。
「導師~! 早く修行しようよぉー!」
俺が今一番やらなくてはいけないこと、魔法使いになること。
自分を取り巻くこの世界を、少しでも変えること。
それが俺の、一番の望み。
草むらが、がそごそと動いたけど、導師じゃなかった。
結局、日が傾き始めるくらいまで探したけど、導師は見つからなくて、あきらめて家に帰った。
そこには、導師と菜々子ちゃんが待っていた。
「あれ! ずっと探してたのに、なんだよ」
「それはこっちのセリフよ!」
菜々子ちゃんは、やっぱり勉強していた。
学校から借りてきた辞書を、もう一人で引けるようになっている。
彼女が上がり込んで勉強していたら、お客さんが何人か来て、レジうちまでしてくれたらしい。
そしたら導師が帰ってきて、二人でお留守番してたんだって。
菜々子ちゃんは、めちゃくちゃ怒っている。
「どこほっつき歩いてたのよ、お店もほったらかして!」
「導師を探してたんだよ」
「あんた、まともに働こうとか、仕事する気あんの?」
「だって、導師がいなくなったんだもん」
怒る菜々子ちゃんと、余裕の導師。
「すまない、つい懐かしい顔を見かけたもんでな」
「あの白い猫、知り合いなの?」
そうだ、と、導師は答え、菜々子ちゃんは、違う、と言う。
「古い仲間だ」
「今日初めて会ったの」
彼女の言葉に、導師が反応する。
「なに? どこで会った?」
「導師と一緒に虫取りの訓練してた、河原だよ」
「そんなこと普段してんの? すごく大きくて真っ白な、綺麗な猫だったから、パン食べるかなーと思ってあげたけど、食べなかった」
それを聞いた導師は、猫猛ダッシュで外に飛び出していく。
「あ、ちょっと導師?」
ため息をついた俺に、菜々子ちゃんが言った。
「あの白猫と導師、お友達なのかな」
「古い知り合いなんだって」
「ふ~ん」
今日の修行だって、全然出来なかった。
てゆーか、まともに修行が出来た事なんて一回もない。
虫取りしたり、町の縄張りを探検したり、ひなたぼっこしてたり。
魔法使いの修行って、もっとなにか、違うもんじゃないのか?
「ねぇ」
菜々子ちゃんが言った。
「あんた、猫としゃべれるの?」
導師から、北沢くんにはしゃべっちゃダメっていう話しは聞いていたけれど、菜々子ちゃんに対してどうだったかは、聞いていない。
菜々子ちゃんの、もしかしたら未来がかかっているかもしれないことを、俺が判断するわけにはいかない。
「いや、どうだろ」
かといって、嘘もつきたくないから、適当にごまかしたつもり。
「ふ~ん、ま、どうでもいいけど」
思いっきり冷めた視線で彼女はそう言ってから、また勉強を始めた。
次の日になっても、導師は帰ってこなかった。
俺は、少し腹を立てている。
何度も確認して、魔法使いになる気はあるのかと言っておきながら、いざ始まったらこのザマだ。
本当にやる気がないのは、どっちだ。