魔法使いになりたいか

「どこ行くの!」

「二階だよ、今日は久しぶりの休みだから、一日ゆっくりする」

「な、なにか、食べたいものとか、行きたいところとか、ないのか? 買い物にいくとか、出かける予定は?」

コイツがどんな理由であれ、家を出たら最後、全部の部窓に鍵をかけて、閉め出してやる作戦だ。

「なにそれ、ついてきてくれるの?」

ついて行く気はないが、一応うなずいておく。

「お兄ちゃん、私はもう、十一の子供じゃないよ。アイドルとして、仕事もしてる」

「いや、そうじゃなくて」

「そうだ! 昔みたいに、パンケーキ作ってよ。私、お兄ちゃんの手作りパンケーキ、大好き!」

「パンケーキ? なんだそれ」

「ホットケーキのことよ」

千里はにこにこ笑って手を振ると、それだけを言い残して二階へ上がっていく。

俺が言いたいのは、そんなことじゃない、出て行けだ。

とにかく千里の機嫌をとって、外に追いだそう。

ホットケーキの材料がないから、お前が買いに行ってこいって言う作戦も考えたけど、超人気アイドルの千里だと、外を出歩くだけでも大変な騒ぎになるし、そもそも材料も、全てうちにそろっていた。

千里は、父親のいない母子家庭で育った。

母親はずっと仕事ずくめで、ほとんど家にいなくて、うちにきた九歳のころには、すっごく細くてガリガリに痩せていて、めちゃくちゃ好き嫌いが多くて、俺の作ったホットケーキぐらいしかまともに食べられなかった。

だから俺は、千里のために、今までどれだけのホットケーキを焼いたか分からない。

市販のホットケーキミックスは、常に用意しておくのがくせになっていたし、それは千里がここを出て行ってからも、一度だって忘れたことはない。

俺はボールに粉を入れると、そこへ卵と牛乳を入れた。

その分量だって、体に染みついている。

甘いにおいが部屋中に広がったとき、台所のテーブルに導師が飛びのってきた。

「追い出すんじゃなかったのか」

「もちろん追い出すよ。そのための準備をしてるんだから、余計な口をはさまないでくれる?」

ホットケーキは、焼き加減が重要なんだ。

フライパンから目をはなしちゃいけない、絶妙のタイミングで焼き上げる、それが俺のこだわり。

生地の状態を見極める審美眼、その瞬間、火からあげられたフライパンは美しい投球フォームを描き、計算通り設置された皿の上に、みごとなシュートを決める。

「やった! 完璧だ!」

皿の上に積み重なった、焼きたてのホットケーキ。

ある程度冷まして、生地を落ち着かせることも忘れてはならない。

よし、時間だ。これを食ったら、出て行けって言おう。

千里を呼び出そうと階段を見上げたら、すでに千里は二階から降りてきていた。

「どうした?」

「やっぱ出かける」

「えぇっ!」

「てゆーか、呼び出し」

千里は、俺が芸術的に積み上げたホットケーキの山の、一番上の一枚を手に取ると、一口分だけちぎって口に放り込んだ。

「でも、基本オフの日だから、すぐに帰ってくるけどね」

千里は食べかけのホットケーキを、山のてっぺんに戻す。

「もういらないから。作んなくていいよ」

そう言って、手についたくずを払い落とした。

「食事制限あったの、忘れてた」

千里はかぶっていた帽子を目深にかぶり直すと、裏の玄関から出て行く。

怒りに震えている俺を、導師は見上げた。

「俺は! あいつが久しぶりに食べたいって、そう言ったから、わざわざ作ってやったんだぞ! 何が、『お兄ちゃんのホットケーキ、大好き』だ! 本当の兄弟でもないくせに!」

だがホットケーキに罪はないから、戸棚からラップを取り出し、一枚一枚ていねいにくるんでいく。

「思い出した! 俺はいつもこうやって、いいように使われてきたんだった!」

ラップには、後で困らないように、今日の日付を書いておく。

レンジでチンしてもいいし、トースターで焼いてもおいしく食べられる。

「絶対に追い出す! もうあいつらに、俺は振り回されたくない!」

作ったホットケーキをまとめて冷凍庫に片付けたところで、俺はふと大切な事を思い出した。

「そうだ、勝手に侵入されないように、窓を閉めてくる!」

走り出したその時、めったに鳴らない店の呼び鈴が鳴った。

導師と目を合わせる。

珍しいな、客なのか? 

俺は呼び鈴の鳴ったレジへと向かった。
「いやぁ、ホント参りましたよ」

その男は、昨日千里が持ってきたCDアルバムの全部を、レジ台の上にのせて言った。

「やっぱりね」

アルバムの一枚一枚を裏返して、製造番号をチェックしている。

「これ、全部返品対象ですよ」

「えぇっ!」

「メーカーのミスで、音源が収録されてないCDが流通するなんてねぇ、僕は委託されてあちこち回収にまわってるんですが」

その人は、にっこりと人のよさげな笑みを浮かべた。

「ここにも書店があったことをふと思い出して、立ち寄ってみたんです、早めに気付いてよかったですね、ほら、ここの店って、以外と桜坂花百合隊の入荷量多いし、グッズも充実してるから」

ついさっきまで、うちで寝転がっていた千里の顔が、ドアップで写っているアルバム。

呼び出しとかいって出て行ったのは、このことだったのかな。

「特別コンサートの抽選券つきCDですからね、今日は発売日だし、これから一騒動ありますよ」

「そっか、だから呼び出しかぁ」

「あと、これも」

やっぱり千里自身が昨日持ってきて、千里の指示で俺が張っておいたポスターを、この人は勝手にはがして手に持っている。

「ポスター貼ってると、在庫があると勘違いしたお客さんから商品を出せって、クレーム入れかねないですからね、ついでにこれも回収しておきますね」

「わぁ、ありがとうございます!」

なんて気の利く、なんていい人だ! 

千里はあんな奴だけど、千里のまわりには、こんなにもあたたかい、いい人たちであふれている。

沢山のファンと、そんな人たちに支えられて、千里は活動できているのだと思うと、俺にはもう感謝の気持ちしかない。

「じゃ、これ全部回収しときますね」

「あ、そうだ! 予約販売分の在庫も、裏の倉庫に入ってるんですけど」

「あぁ、じゃあそれも一緒に、回収しておきましょうかねぇ」

「ご苦労さまです」

俺は、段ボールを抱えて去りゆく男の背中に、ていねいに頭を下げた。

あんなとんでもなくわがままな千里につき合わされ、振り回されているのは俺だけじゃないんだと思うと、本当に涙が出てくる。

その直後、店に若い男の子二人が駆け込んできた。

「すいませ~ん! 予約していた桜坂花百合隊のアルバム、ください!」

「あぁ、それね」

経緯を説明する。

「は? そんなの、あるわけないだろ」

「あんたバカか、それって、今流行の詐欺じゃね?」

彼らは手にしたスマホで、何かを検索し始めた。

「ほら! そんな情報、一個も出てないぞ!」

「詐欺じゃねぇの、詐欺!」

「抽選券狙いで、そんなのが横行してるって、お前知らないのかよ」

「ちょ、ちょっと待って! 確認してみるから」

まくし立てる、俺より五つは年下の男に頭を下げてから、俺は店の奥に駆け込んだ。慌てて電話をかける。

「あ、千里? あのね……」

「はぁ! アルバムの返品? そんなミスあるわけないでしょ! お客が怒ってる? とりあえずお姉ちゃんに電話!」

すぐさま尚子にかけ直す。電話は、すぐに出た。

「さすが我が社の唯一にして無二の赤字部門、やってくれるわね」

受話器の向こうで、ため息が聞こえる。

「予約は何枚入ってたのよ、あっそ。小さい書店でよかったわね、とりあえず、発送の車が事故で遅れてるって、説明しておきなさい」

プチッと電話が切れた。

本当にキレているのは、通話じゃなくて、尚子と千里。

俺はそれからも次々と訪れる客に、ひたすら頭を下げて謝った。

「すいません、本当にすいません!」

書店の売り上げ、一日平均五千円前後、来店者数四、五人という店に、今や客が十人はいて、しかも全員怒ってる。

これは我が家の危機的状況だ。

尚子の会社と提携している物流会社が、善意で車の手配をしてくれて、千里のご本人さまパワーで、未発送の在庫をかき集めてきてくれた。

その間にも、俺はひたすら頭を下げ続ける。

尚子と千里が走り回ってくれたおかげで、夕方遅くには、予約枚数の全部が数を揃えて店の奥に積まれ、その大半がお客さんの手に渡った。

また騙された。

俺はその対応に追われて、とにかく一日中ドキドキしっぱなしだった。

やってくる客は、全員千里のアルバム目当て。

俺は運送会社の車が出発したという尚子からの電話を受けてから、ずっと時計とにらめっこでその時を待っていた。

この世には、悪人しかいないのか? 

特注で荷物を運んできてくれた人は、にこにこして、「大丈夫ですよ~」とか言ってくれて、いい人だった。

アルバムを取りに来た人たちも、「じゃあ、また後できます」なんて言って、(言い分けを考えたのは、尚子だけど)ちゃんと後から取りに来てくれた。

もしかしたら、あの盗んでいった人も、ただ単にアルバムや、抽選券が目当てだったんじゃないのかもしれない。

なんらかの事情があって、俺にはそれが想像出来ないけど、きっと何かの理由であのアルバムが大量に必要だったんだ。

きっと時期が来てお金が出来たら、きちんと説明してくれるに違いない。

俺は一呼吸して、誰もいなくなった店内を見渡した。

俺はなんのためにこの店を続けているんだ? そうだ、俺はこのためにこの店を続けているんだ。

みんなの、優しさを感じられる場所のためだ。
このあいだの万引き常習犯の少年も、警察と一緒に来て、ちゃんと謝ってくれた。

もうその少年が謝りに来るのは四回目だけど、俺は彼の成長を信じている。

彼のお母さんがやってきて、お前の方も店の管理をしっかりしろ、だからうちの子が万引きをくり返すんだとかいって、もの凄い剣幕だったけど、わざわざうちにそんなアドバイスをしに来てくれるほどだ。

あんな子供思いのお母さんがいるんだから、あの子はきっと大丈夫。

それにここは、俺がずっと育ってきた家。

「イエ~ィ!」

そんなことを考えていた俺の後ろで、帰ってきた尚子と千里が騒いでいた。

「今回の詐欺事件のおかげで、数量限定販売だったのが、増産決定!」

「流通業者にいちゃもん付けて、販売ルートの一部を、うちの会社で請け負う事に成功よ」

とにかく、転んでも絶対にタダでは起き上がらないのがこいつらだ。

「俺はまた騙されたし、予約してくれたお客さんには迷惑かけたんだぞ!」

「そりゃ自分が悪いんだから仕方ない」

尚子が鼻で笑う。

「そう言われたら、普通信じるだろ!」

「音源入ってないCDって」

「ちゃんとした人だったんだよ!」

千里の冷ややかな視線。

「頭悪すぎ」

「お前のこと、心配したんだぞ!」

そう、だからこそ俺は信じたんだ。

「音源が入ってないCD? これは大問題だ、さっき呼び出しかかったって言ってたし、コレのことだったのかと思って、お前がどうなってしまうかと、心配した」

千里と尚子は、黙ったまま俺をじっと見ている。

反省したとか、感動したとかいう感じの雰囲気じゃない。

あきらかに、挑発的、好戦的、軽蔑した態度だ。

「お腹減った。ご飯」

「人の話し聞いてんのか! ちょっとは俺の気持ちも考えろ!」

「あんたの気持ち? 脳みそまわってたの?」

「お兄ちゃんの人を見る目のなさって、公害レベルだからね」

「環境破壊レベルだよ」

「まったくの成長がない」

「終わってるね」

罵詈雑言だけは尽きることの無い二人の間で、俺の堪忍袋の緒が切れた。

「それが、俺に対するお前らの態度か!」

「どんだけうちらに、迷惑かけたと思ってんのよ!」

尚子と千里の声が重なった。

一目散に、台所に逃げ込む。

「あぁもう! よけいなこと言ってたら、お腹減った!」

「お兄ちゃん、ご飯早くね」

俺はお前らの料理人じゃねぇぞ!

大体、人の弱みにつけこんで、一切のねぎらいも、心配や気遣いの言葉もなく、あげくの果てには自分たちの利益追求に走るなんて、お前らの方がよっぽどタチが悪い、極悪人だ!

ちょっとは俺の気持ちを考えたことがあるのか、まぁ無いだろうな、少しでもそんな思いやりの精神があれば、あんな態度で俺に接するわけがない! 

もうこれで騙されるのは、何度目だろう、俺だって、毎回嫌な思いをしてるし、本当は悔しくて仕方ないのを、じっとずっと我慢してるのに!

「私は魂の指導者」

台所でおたまを握りしめていた俺の後ろから、導師の声が聞こえた。

導師はテーブルの上に、ちょこんと座っている。

その顔は鋭い眼光をたたえ、威厳に満ちていた。

「魔法が、使えるようになるんだったよな」

そうだ、俺にはまだ、逆転のチャンスがあった。

「いかにも」

「誰よりも強くなれる?」

導師は答えず、ただ俺を見上げている。

「何でも出来るようになるのかって、聞いてんだよ!」

「修行次第で」

「本当だな!」

「もちろん」

俺は、老猫の目を見つめる。

老猫も、まっすぐに俺を見つめた。

「本当だ」

「じゃ、俺、魔王になる」

そうだ、結論は出た。俺にはもう、それしかない。

この世が、あいつらみたいな悪人だらけなら、悪の帝王、大魔王になるしかない。

「大魔王か?」

「大魔王だ」

俺の決意は固い。

もう誰にも負けたくない、騙されたくない、何者にも負けない、強い力が欲しい。

「よかろう、だが、修行は厳しいぞ」

「望むところだ」

導師と目があった。

この不思議な猫となら、俺はきっと強くなれる、強くなってみせる。

「お兄ちゃん、お腹すいたぁ!」

「ブツブツ言ってないで、早くして!」

居間から飛んでくる罵声。

その声に驚いた導師は、テーブルから飛び降りて走り去った。

俺もあわてておたまを握り直す。

でもまぁ、今日はもうスーパーで刺身が安かったから買ってきてるし、お吸い物もつくっておいたし、残りもの食材を放り込んだ炊き込みご飯も、もうすぐ出来る。

作り置きおかずもいくつか増やしておいたから、そんなに時間はかからない。

ちゃぶ台にお皿を並べて、三人が定位置についた。手を合わせる。

「いただきます」

箸と会話が飛び交う、にぎやかな食卓だ。

ひたすらしゃべりまくっているのは、俺じゃないけど。

どこかに逃げて、また戻ってきた導師が、俺の真横でうずくまった。

「俺が大魔王になったら、死んだ人たちもよみがえるかなぁ」

これからの修行が、ちょっと楽しみだ。

導師だけはそんな俺の声を聞いていたみたいで、短い尻尾を揺らして答えてくれた。
自分は魂の指導者だと名乗る猫、導師につれられて、俺の修行が始まった。

目指すは魔法使いのなかの魔法使い、大魔王。

やっぱり目指すならトップを目指さなければ、何事もやる意味がない。

猫の導師のお世話は俺がやっている。

うちにお招きして、食事の用意からトイレ、ブラッシングもする。

修行させてもらうのだから、これくらいは当たり前だ。

導師は外猫だから、すっごく嫌がるけど、たまにはお風呂にも入ってもらう。

だけど、その分爪切りはしなくてすむ。

そこは助かった。

本日の修行テーマは『魔道への基礎講座~基本の材料とその扱い方~』

野外実習がメインだというから、気合いが入る。

「私は魂の指導者」

「はい」

「本日の修行を始める。私についてこい!」

書店のレジ台からぴょんと飛び降りた導師の後を、小走りで追いかけていく。

どんどん走っていくうちに、閑散としたアーケード街を抜け、路地裏の住宅街に迷い込んだ。

修行のために、今日は店を閉めてある。

どうせ客もいない。

導師は軽快な足取りで、道路の隅っこを走っている。

それを見失わないようについて走ってるけど、困るのは突然排水溝の溝に飛び込んだり、他の人の家の庭を横切ろうとすることだ。

「ねぇ導師、そっちには行けないよ」

導師は尻尾をピンと張ったまま、くるりとふりかえった。

「めんどくさい奴だな。目的地は向こうの河原だ。早く来い」

導師はコンクリートの壁を飛び降りて、よそんちの庭に入り込むと、その先の生け垣を抜けて走り去っていった。

まぁ確かに、そこを通った方が直線ルートで行けるから、目的地の河原までは近道なんだろうけど。

さすがに人間の俺が、そんなことをしたら怒られるから、きちんとしたルートを通って、走るのもやめて、普通に歩く。

猫には許されても、人間には許されない道。

そんなことは、山ほどある。

舗装されている道路なら、ここは勝手に歩いてもいいっていう約束。

だから俺は、歩くことを許された道を選んで歩く。

人気のないそんな道をくねくね歩いていると、目的地が分かってないと、すぐに迷いそうになる。

方向を見失うと、へんな所に出ちゃう。

そんな時には、どうやって目的地にたどり着けばいいんだろう。

ぐるぐると歩いているうちに、住宅街の左手に土手が見えた。

コンクリートで固められた護岸壁。

これはうちの近所に流れる、一番大きな川だ。

そこにあった階段を駆け上る。

目の前には、ゆっくりと流れる川と、その両岸に整備された、ただただ広い草原と青い空、吹き抜ける風が気持ちいい。

よかった、たどり着いた。

しかし、たどり着いたはいいけれど、こんなところで猫の導師一匹を見つけるなんて、どうすればいいんだ。

対岸では草野球チームの打った金属バットの音が、空高く響いている。

土手沿いの道には、自転車とマラソンランナー。

部分的に整備されていない草むらに、一本だけぽつりと大きな木が生えていて、とりあえずそこに向かって歩いてみる。

他に、目印らしきものはない。

膝下くらいにまで伸びた草を、踏みしめて歩く。

たぶんここぐらいしか、猫が身を潜めている場所はない。

「遅いじゃないか」

俺が踏み込んだそのすぐ左手の足元に、導師はうずくまっていた。

「わ! そこにいたの?」

「迎えに来てやったんだ」

「そっか、ありがと」

俺が見つけなくても、見つけてくれる人は、見つけてくれる。

俺がそこに来さえすれば、ちゃんと見つけてくれようとしている人には、見つけてもらえる。

なんだかちょっとうれしくなって、俺は導師の隣でしゃがんでみた。
つい、うふふと笑って導師を見下ろすと、導師の真顔が俺を見上げた。

「そこから動くなよ、じっとしてろ」

「うん」

そう言ってから、導師は頭を動かさず、視線だけで辺りをくまなく観察していて、俺は内心でものすごくうきうきしながら、導師の次の指示を待っている。

「よし、ちょっとだけ動け」

両手の平をぱっと地面につけると、そこから数匹の虫が一斉に飛び出した。

そのうちの一匹を、導師はお口でお見事キャッチ。

「うまい!」

むしゃむしゃと、捕まえた大きなバッタを食べる導師。

「お前もやってみろ」

「はい?」

「うまいぞ」

「……」

そんなことを言われても、俺に出来るわけがない。

いやいや、バッタを捕まえることは出来るだろうけど、それを食べろと言われても、ちょっとしんどいかも。

「うん、無理」

また飛び出した一匹の虫を、導師はぱっと前足ではたいて、たたき落とした。

それを口にくわえて、美味しそうにほおばる。

「自分で食うものくらい、自分で取れないでどうする。修行とは、まずそこからだ」

「虫なんて、食べないよ」

「食べられないのか?」

俺は、大きく首を横に振った。

「人間は、虫を食べないわけじゃないけど、あんまり食べない」

「なんだそれ」

「食べないわけじゃないけど、食べる人もいるし、食べない人もいる」

「どっちだ」

「どっちなんだろ」

「私は、お前のことを聞いているんだ」

導師は草むらの陰から、じっと俺を見上げる。

「お前が虫を食う奴なら、私についてこい。食わない奴なら、そこで黙って見ていろ」

がさごそと音を立てて、導師は草むらの中へと消えていく。

言われたことをしばらく考えてみたけど、少なくとも俺は今までに虫を食べたことはないし、これからは……どうなるのか分からないけど、とりあえず食べる予定は今のところないから、今は黙って見ておこう。

時々思い出したように飛び跳ねる、導師の焦茶色の背中を見ながら、俺はゆっくりと後ずさりして、土手の上に腰掛けた。

高みの見物。

だけど、これじゃ俺の修行にはなってないような気がする。

「あの逃げた猫を、捕まえに来たんですか?」

その声に振り返ると、小学校四、五年生くらいの、すごくお上品で高そうな服をきた、賢そうな少年が立っていた。

「よかったら、僕も手伝いますよ」

少年は、にこっと笑って腰を下ろす。

「僕、動物、大好きなんです」

そうして、あれこれ一人でずっとおしゃべりを続けながら、ぶちぶちとその手に触れる草をかったぱしから抜いていく。

「猫は、警戒心が強い生き物ですからね、こちらから近寄らずに、寄ってくるのを待つ方がいいんです。あの猫の好きなおもちゃとか、おやつは持ってますか?」

首を横に振る。
「イエネコの祖先は、元々ヨーロッパのリビアヤマネコと言われていましたが、最近の研究では、中東の沙漠に生息していたリビアヤマネコが祖先と分かったんです。それで、日本の場合はですね、現在一般家庭で飼育されているイエネコの頭数は……」

少年がずっと猫の歴史とか飼育方法とか、彼が本で読んだ内容の朗読を続けるから、俺はただぼんやりと、導師がいるであろう辺りの草むらを見つめ続けている。

導師が姿勢を低くしてしまうと、その姿は草に埋もれてしまって、全く見えない。

「科学雑誌のサイエンスに、ミトコンドリアDNAの解析結果が発表されたことで、世間に知れ渡ったんですよねー」

にこっと笑って、下から俺をのぞき込んできた。

「ご存じありませんか? サイエンスとネイチャー」

「お姉ちゃんがいるの?」

「違いますよ」

彼はクスクスと笑って、とても上品な仕草で、また俺を見上げた。

「姉ちゃんじゃなくて、ネイチャーです」

導師が尻尾をピンと立てて、振り返った。

それは、こっちに来いという合図だ。

俺は立ち上がった。

「あれ? どこに行くんですか? 話しはまだ終わっていませんよ?」

「導師が呼んでるから、またね」

土手を駆け下りる。

その足元からぴょんぴょん何かの虫が飛び跳ねるけど、踏んづけちゃってたら、ゴメンね。

「導師、なに?」

「トカゲは食うか?」

「食わない」

「トカゲも食わないのか」

「トカゲも、食べる人もいるし、食べない人もいる」

「……。相変わらずややこしいな、人間は」

さっきの少年が、俺の後を追って土手を駆け下りてきた。

「待ってくださぁ~い!」

そのとたん、彼は何かにつまづいて、思いっきり転んだ。

本当に、見事なこけっぷりだった。

そして、そのまま立ち上がらず、しばらく寝転がったままでじっとしている。

何をしているのかよく分からなかったので、そのままずっと見ていたら、ちゃんと自分で起き上がって近づいてきた。

「やだなぁもう、助けおこしに来てくださいよ、大人でしょ」

すりむいてわずかに血がにじむ膝を、俺に向けた。

「あーぁ、血が出ちゃった。手当て、してもらえます?」

決して痛がっているようにみえない笑顔でそう言うから、きっとこの子は大丈夫。

「いま忙しいから、無理」

「何してるんですか?」

「大魔王になる、修行中」

足元には、トカゲをくわえた導師がいる。

嘘じゃない。

「あはは、冗談うまいですね、僕を子供だと思ってバカにしてます?」

少年はやっぱりにこにこ笑顔で、とても愛想がいい。

「そんな冗談通じませんよ、じゃあ僕も、魔法使いになる修行しちゃおっかなぁ!」

「えぇっ! 本当に? じゃあ、一緒にやる?」

正直いうと、一人じゃちょっとさみしかったんだ。

仲間が出来ればラッキーじゃないか。

「わぁ~い、やったやったぁ!」

「やったぁ! やったね!」

手を取り合って喜びあう俺たちを、導師はもしゃもしゃトカゲを食べながら見上げてる。

「そいつはダメだ」

「えぇ! なんで?」

「魔法使いの修行が出来るのは、齢三十を越えてからだ」

あぁ、そうか、そうだった。

ゴメン、君にはまだ、その資格がなかった。

魔法使いは魅力的だけど、こんな不名誉な条件を、誰かに強制するわけにもいかない。

俺は泣きそうなくらい残念な気持ちで、少年の手を離した。

「ごめん、君はまだ、条件を満たしていないらしい」

「は? 何ですか、その条件って」

それを教えていいのかどうか、導師をちらりと見たら、首を横に振った。

「魂の指導者のいる前で、その存在を知り得た者が知識を得、純潔を守ったとしても、その者の前に指導者が現れることはない」

そっか、うっかり教えてしまったら、彼の将来の可能性をひとつ潰してしまうことになるのか。

それならば、俺としても絶対に教えるわけにはいかない。

「ごめん、それは、教えられないんだ」

「あぁ、いいですよ、別に」

意外だった。

さっき、あんなに喜んでいたのに、彼は残念じゃないんだろうか。

「適当な嘘が思いつかなかっただけですよね、いいですよそういうの、僕みたいな子供相手だからって、気を使わなくても」

幼いのにとても紳士的な彼は、やっぱり笑顔を崩さない。

「さ、もう冗談はお終いにして、怪我の手当てをしてください。あなたが僕に怪我をさせたこと、弁護士である僕の両親には、内緒にしておきますから」

「あぁ、うん」

俺がそう言ったら、彼はまたにこっと笑った。

その笑顔は、確かにとても素敵なんだけど、なんだかちょっと、変な気分がする。
「お名前は? なんておっしゃるんですか? 僕は、北沢貴之です。小学校五年生ですが、地元の小学校ではなくて、私立に通っているんで、今日は開校記念日でお休みなんです」

今日は普通に平日。

毎日が日曜日みたいな俺にとって、祝日とか休みの日の感覚は、ないに等しい。

「俺は荒間和也、そこの商店街で、本屋さんをやってます」

「どうも、よろしくね、和也さん」

彼が右手を差し出してきたってことは、握手しろってことかな? 

よく分かんないけど、とりあえず同じように手を出したら、ぎゅっと握って振り回された。

「ついでに、お菓子でも買っていきません? 僕、お腹すいちゃったな」

よく分からないけど、彼はうちでお菓子を食べるつもりらしく、こっちへ来いと手招きする。

必然的に、俺と導師の修行はそこで中断した。

商店街のスーパーで、彼はありとあらゆる種類のお菓子を買い物かごへと放り込み、もちろんお金は俺が払って、うちについたら本屋の店の方から居間へ入った。

その時には、北沢くんの傷はもう出血も止まってかさぶたになっていたけど、消毒をして絆創膏をはった。

そうしてほしいって、彼に頼まれたから。

それが終わったら、彼はずっとお菓子をほおばりながらテレビを見ている。

ゲーム機やパソコンはうちにないと知って、あきらめたようだ。

俺は部屋の隅っこに正座して、導師と並んでその様子を観察している。

「……これから、どうするつもりなのかな」

「さぁな、私は人間の子供は嫌いだ」

「今日の修行、できなかったね」

「仕方ない、魔法の修行は、極秘裏に行うものだからな」

壁にかかった時計をちらりと見たら、もう六時を過ぎている。

子供は家に帰る時間だ。

「ねぇ、北沢くん、そろそろお家に帰らないと、家の人が心配するんじゃない?」

「スマホあるから、大丈夫っすよ」

テレビの前から動かない彼に、ため息をついた。

どっちにしろ、そろそろ夕飯の支度も始めないと、あの二人が帰ってくる。

仕方なく台所に立った俺の後ろに、いつの間にか北沢くんがやって来て、俺の手元をのぞき込んだ。

「わぁ、男の手料理ってやつですか? 今日のメニューはなに? 楽しみだなぁ」

この子は、夕飯も食べていくつもりなんだろうか。

にっこりと微笑む彼と目を合わせながら、彼のためにもう一品おかずを増やそうかと、考えているときだった。

ふいに、店の呼び鈴がなった。

表に出てみると、そこには北沢くんよりさらに小さな女の子が立っている。

「すいません。これください」

彼女は、一冊の料理本を差し出した。

『料理の基本~基礎から学べるかんたんおかず~』千二百円。

真っ黒い、つやつやの瞳に、肩先までの髪。

なんだかちょっと、懐かしい感じのする女の子だった。

「お料理、好きなの?」って聞いたら、「うん」ってうなずく姿が、なんだかとても可愛らしくて、俺は思わず「がんばってね」って言ったけど、それには答えずに帰っていった。

「この辺じゃ、見かけない顔だなぁ」

いつの間にかのぞきに来ていた北沢くんは、そんなことを言ってたけど、そんなことより、問題は君自身の方だ。

「もう帰らないと、ダメだよ」

「えー、せっかくお食事を用意してもらっているのに、申し訳ないから、夕飯もちゃんといただいて帰りますよ」

「夕飯は、お家で食べなさい」

俺は、北沢くんを見下ろした。

「ちゃんとおうちで家族と手を合わせて、いただきますをするのが、晩ご飯を食べる時の決まりだからね」

「えぇ? そんな風習、今どき絶滅してますよ」

やっぱり紳士的な笑顔でにこにこしながら、そんなことを言う。

「今や夫婦共働きは当たり前、家族がそれぞれ都合のいい時間に合わせて食事もしないと、それぞれの都合ってもんがありますからね、時間の有限性を考えると、それが一番効率的かつ、利便性が高いんですよ」

「じゃあ、スマホで一言連絡入れとかないと、ご両親も心配するから」

その一言は、彼の逆鱗に触れた、らしい。

北沢くんは突然大声をあげて、この世の終わりとばかりに、わめき散らした。

「おいふざけるなよ、おっさん! お前がいまやってることって、誘拐だよ? 誘拐! 俺が警察に行って泣き落としたら、絶対に俺の勝ちだからな! お前が犯罪者になるってことなんだよ、犯罪者に! 犯罪者になりたいの、お前。分かったら、余計なことすんなよ! こんなつまんねーとこ、こっちの方からさっさと出て行ってやるよ! いっとくけど、お前んちはもう覚えたからな! 逃げようったって、無駄なんだよ!」

彼はそうやって思いつくかぎりの悪態をつきながらも、大人しく店に戻って靴を履く。

「いいか! 明日もまた来てやっからな、覚悟しとけよ! お菓子もちゃんと補充してなかったら、この店に火をつけて、ここにある本、全部燃やしてやっからな!」

彼は去り際に、もう一言を付け加えてから、走り去っていった。

「ばーか!」

とにかく、ようやく帰ってくれたから、店じまいをしてから、夕飯の支度に取りかかる。

あんなの、尚子や千里に比べたら、かわいいもんだ。
ハンバーグを焼いていたら、裏の玄関の引き戸が開く音がして、千里が帰ってきた。

「ちょっと何よ、あの部屋の散らかり具合!」

「お帰り~」

「なんなの? お兄ちゃんは、いまだに小学生男子なの?」

俺はフライパンの火を止めて、千里を見る。

「お帰り」

「ただいま」

俺たちは家族じゃないけど、一緒にご飯を食べる。

いただきますもする。

焼き上がったハンバーグを、皿の上にのせた。

「あの部屋を先になんとかして! 家中がお菓子くさくて、耐えらんない!」

まぁ確かに、千里がそんなことを言いたい気持ちも分かる。

俺は畳に転がっていた、空のポテトチップスの袋を拾い上げた。

「早く御飯にしたいなら、千里も片付け手伝って」

「はぁ? 私は今からお風呂入るんだから。その間に片付けといてよね、ご飯はその後よ」

「御飯は、みんなで『いただきます』だろ!」

「あんたはこないだまで一人で食べてたくせに、なに言ってんの?」

「今は違うでしょ」

「なにが違うのよ」

「一緒に住んでる」

「それが何よ」

俺と千里とのにらみ合いが続く中、家の黒電話がなった。

俺は携帯電話を持っていない。カネがないからだ。

電話に出ると、尚子だった。

『あ、今日私のご飯、いらないから』

それだけ言って、すぐに切れた。俺は受話器を叩きつける。

千里はすでに、二階に消えていた。

「一緒にご飯食べられないんだったら、今すぐここを出て行け!」

着替えを抱えて降りてきた千里は、あっかんべーをしてから浴室に消えていく。

俺は、小さなちゃぶ台に並んだ三人分の食事を見下ろした。

誰も一緒に食わないなら、俺が先に一人で食ってやる!

「いただきます!」

手を合わせて、挨拶をしてから食べる。

一人でも、そうする。

誰も血の繋がらない人間同士なのに、何が家族だ。

そんな都合のいい言葉に、もう俺は騙されないぞ!

自分の分の食事を、押し流すように胃に突っ込んで、千里が風呂から出てくるまえに食べ終えた。

そのあと、尚子の分を冷蔵庫にしまってから、俺は二階へと上がって、寝た。

ざまーみろ、だ。

翌日は、朝早くから、北沢くんがランドセルを背負ったまま、本当にやってきた。

「おはようございます」

彼は相変わらずの爽やかな笑顔で、堂々と店に入ってくる。

「今日も学校休みだったの、忘れてたんですよね」

北沢くんは、ランドセルを背負ったままレジ台の横から居間に上がり込むと、テレビのチャンネルを変えた。

「ジュースかなんか、あります? あ、いいですよ、自分で取りますから」

背負っていた、ちょっと風変わりなランドセルを放り投げた彼は、台所に入っていった。

そして、寝起きの千里と鉢合わせる。

「ちょ、お兄ちゃん? 誰よ、この子!」

「北沢くん」

「は?」

「北沢くん」

「バカ、違うって!」

千里も混乱していたけど、千里以上に混乱していたのは、北沢くんの方だった。

「え、えぇっ? えぇー!」

どすっぴんの千里に視線を奪われたまま、手足だけは、バタバタと動いてる。

「さ、桜坂花百合隊の、ちりりん?」

その言葉に、パッと千里のアイドルスイッチが入った。

「あ、君、北沢くんっていうの?」

「はい!」

千里は、テレビでしか見たことのない顔で笑う。

「実はね、ここ、私の実家なの、実家って、分かるかな?」

「わ、分かります!」

北沢くんは、頬を真っ赤に染めて、夢見るように千里を見上げる。

「みんなには、このこと、内緒にしておいてくれるかな、千里からのお願い、ね?」

「はい!」

千里は北沢くんの頭越しに、スゴイ目で俺をにらんでくる。

にらまれたって、そんなこと知るか。

ここに住むと勝手に決めたのは千里自身で、勝手にやってきたのは北沢くんだ。

その北沢くんは、すっかり夢見る少年に変わってしまった。

千里はこれからレッスンがあるからとかなんとか、多分適当な嘘を言って出て行った。

北沢くんは、きちんと正座をしてちゃぶ台の前に座る。

「いや、驚きました。こんな運命の出会いって、本当にあるんですね」

どこからか入って来た導師が、ちゃぶ台の上に飛び上がる。

「私は魂の指導者」

「もしかして、この猫もちりりんの飼い猫ですか?」

北沢くんは、昨日は見向きもしなかった導師の頭をなでた。

俺は正座をして、導師と向き合う。

「ところで、本日の修行だが」

「はい」

「わぁ! やっぱり、そうなんだ!」

北沢くんは、いきなり導師を背後から抱きしめた。

びっくりした導師は、逃げようとしてあばれてる。

なんとか北沢くんの腕から逃れた導師は、どこかへ走り去ってしまった。

「あぁ! 行っちゃった」

今日もまたすることがなくなった俺と、北沢くんの目が合った。

「これから、どうします? ちりりんの、お部屋の掃除でもしておきましょうか」

「勝手に入ったら、殺されるよ」

「それはいけませんね」

「俺は、店番があるから」

「じゃ僕は、持ってきたゲームでもしながら、適当に過ごします」

店先から見える屋根付きの通りは、いつでも薄暗い。

北沢くんは、しばらくうちでごろごろしてたけど、昼前に一度戻ると言って出て行ってしまった。

本当は、魔法使いになる修行をしないといけないんだけど、導師もいないし、どうしたもんだか。
レジ台に座ってうとうとしながら、ぽつりぽつりとやってくる客の相手をして、気がつけば午後をまわっていた。

ふと顔をあげると、店内で立ち読みしている女の子がいる。

その子には見覚えがある。

昨日料理の本を買っていった、懐かしい感じのする女の子だ。

立ち読みしている本は、辞書。

「何を調べてるの?」

俺が話しかけると、少女は驚いた顔をして、慌てて辞書を閉じた。

「ごめんなさい。どうしても、読めない漢字があって」

「どれ?」

彼女が指を差したのは、昨日買っていった本の『合い挽き肉』の『挽』という字だった。

「辞書で調べて、分かった?」

「読めないから、調べられなかった」

まぁ、確かにそうだ。

国語辞典は、そもそも文字が読めないことには、意味も調べられない。

「これは、『あいびきにく』って、読むんだ」

「どういう意味?」

「豚と、牛の肉をまぜてある挽肉のことだね」

そういうと、少女は料理の本に目を落とした。

開いているのは、ハンバーグのページ。

「ハンバーグ、作りたいの?」

その女の子は首を振った。

広げていた本を片付けて、急いで店を出ようとする。

「昨日、俺がうちでハンバーグ作ったんだ」

店の入り口で、少女が振り返る。

「偶然だね、余ってるのがあって、よかったら食べる?」

「知らない人には、ついて行っちゃダメだから」

その言葉に、俺は多少なりとも傷ついたけど、彼女の言うことは間違ってない。

「そっか、そうだね」

少女がぺこりと頭を下げて、一歩を踏み出したとき、ランドセルを背負っていない北沢くんが店に入ってきた。

「おじゃましまーす」

彼は誰にも臆することなく店の奥に進み、誰に邪魔される事もなく、勝手に居間へと上がり込む。

「お菓子、買い足しておいてくれましたぁ?」

そんな北沢くんの態度に、少女はとても混乱した様子で、俺と北沢くんを交互に目の玉だけで追いかけながらも、何かを一生懸命に考えている。

俺には、その怒りにも似たおどおどとした様子が、ここにきたばかりの千里みたいに見えた。

「一緒に、お菓子食べる?」

「読めない漢字が、他にもあるの!」

しっかりと本を胸に抱えた女の子は、そう叫ぶ。

「だけど、うちに辞書がないから、読めないの!」

「どれ? 教えてあげる」

俺はレジ台に座って、彼女はその前に立って、俺と彼女の間には、開かれた本のページが置かれた。

彼女がその細い小さな指先で、次々に繰り出す質問に答えながら、俺は時々彼女に質問をはさむ。

彼女の名前は藤崎菜々子、最近この近所に引っ越してきたばかりの小学四年生で、ご飯を作れるようになりたいらしい。

藤崎という名字は、俺の初恋の人と同じ名字だ。

「どうして、ご飯を作れるようになりたいの?」

「生物は、食べないと死ぬから」

いつの間にか戻って来た導師が、俺の足元にするりと忍び込む。

「ねぇ、和也さん、お菓子の買い置きって……」

ふいに居間と店を仕切るのれんの奥から、北沢くんが顔を出した。

彼は菜々子ちゃんを見るなり、牙をむき出しにして吠え始める。

「なんだよ、なんでお前がこんなとこにいんだよ!」

眉間にしわをよせ、本当に犬のように吠える。

「お前がこんなとこ、来ていいわけないだろ、さっさと帰れよ!」

俺もよく吠えられるから、犬って、ちょっと苦手なんだよねぇ。

そこを通っただけで、他には何にもしてないのにさぁ。

「彼女はお客さんだから」

「はぁ?」

俺がそう言うと、そのつばの飛ばし先が変わった。

「なにが客だよ、こいつカネ持ってねぇだろ、だってすっげー貧乏なんだぜ、こいつんち! お前はどうせ万引き犯なんだろ? 万引き犯! コイツはね、ど・ろ・ぼ・う! どろぼうなんだよ!」

少女の胸に抱えていた本が、するりと抜け落ちた。

大切なはずの、自分のお金で買った本が、床に落ちる。

彼女は北沢くんに飛びかかって、顔を殴っていた。

二人はそのまま、菜々子ちゃんは北沢くんにつかみかかったまま、居間に転がり込んだ。

必死で抵抗する北沢くんでも、馬乗りになった菜々子ちゃんの勢いは止められない。

何かを訴えようとしている北沢くんに、一切言葉を発する隙を与えない連続パンチ。

これは間違いなく、彼女を止めた方がいいやつ。

「菜々子ちゃん!」

正直こんな喧嘩の、一方的な殴り合いの仲裁に入ったことなんて、生まれて一度も無いから、どうやっていいのか分からない。

だけど、振り下ろされる彼女の腕を偶然つかめたから、ようやく連続パンチが止まった。

北沢くんの泣き声が、表通りにまで響く。

菜々子ちゃんは、あくまで冷静だった。

「ごめんなさい、勝手にお家に入っちゃって」

「いいよ」

「すぐに帰ります」

菜々子ちゃんは、履いたままだった靴を脱いで、両手に持った。

そして、自分の大切な本を持っていないことに気がついた。

「あれ! 料理の本は?」

混乱して辺りを見回す彼女に、俺が拾っておいたそれを差し出したら、初めて泣きそうなくらいの顔で笑った。

「ありがとうございました」

「俺はね、荒間和也、ここの荒間書店の店長、本屋さん」

菜々子ちゃんは、俺を見上げる。

「もう知らない人じゃないでしょ。一緒にお菓子食べよう。ほら、北沢くんも、泣き止んで」

こういう時の、お菓子パワーって、すごいと思う。

チョコレートで誘拐できるって、嘘じゃないと本気で思う。

ちゃぶ台一杯に広げたお菓子とジュースで、北沢くんと菜々子ちゃんの機嫌はすぐに直った。

「ねぇ、知ってる? コイツ、学校ほとんど行ってない問題児で、すごい有名人なんだよ」

菜々子ちゃんは、北沢くんの話を始めた。

「で、すっごい嘘つきで、適当なことばっかり言ってるから、もう学校の先生も、近所の人も自分の親も、誰も相手にしてないんだって」

「え! 私立の小学校に行ってるんじゃなかったの?」

「そんなのウソ、ウソ! 私と同じで歩いて行ける小学校行ってるもん。でさぁ、親が弁護士っていうのを自慢しまくるから、友達も出来ないんだって、みんなむかつくんだって、ウザイんだって」

親が弁護士っていうのは、本当だったんだ。

今度は北沢くんが、菜々子ちゃんの話をする。

「お前こそ、すっげー貧乏人の転校生が来たって、うちの母さんが言ってたぞ。頭悪い系の、典型的ダメシングルマザーだって、言ってたぞ」

「私は頭悪くないもん!」

「親がバカだから、お前もバカなのは、しょうがねぇだろ!」

「私はバカじゃない!」

菜々子ちゃんの地雷原は、どうもこの辺りにあるらしい。

頭が悪いと言われた彼女は、再び北沢くんに殴りかかろうとする。

「勉強なら、俺が教えてあげるよ!」

北沢くんの胸ぐらを掴み、拳を振り上げた菜々子ちゃんの動きが、俺の一言で止まった。

「お、俺も勉強は出来る方じゃないけど、たぶん小学生くらいの勉強までだったら、なんとかなると思うから」

「ほんとに?」

うなずいた俺に、北沢くんが言う。

「大丈夫かよ、コイツの親、万引きで捕まって転校してきたんだぜ!」

菜々子ちゃんの体が、ビクリとこわばった。

大丈夫、北沢くんが怖いんじゃない。

怖いのは、菜々子ちゃん自身が誤解されてしまうこと。