書店に入った瞬間、木の香りがして幸太郎は一瞬戸惑った。
入口の左手にレジがあり、その前に島陳されている棚には沢山の木製のオモチャが並んでいた。
珍しく感じた幸太郎は子供向けの木のオモチャに引き寄せられた。
それは積み木だったり小さな木馬だったりして、関連する本が同じ棚に並べられている。
なるほど。
本とオモチャを同時に購入できるようにしてあるのか。
そう思っていると、今度はどこからかコーヒーのいい香りが漂ってきた。
視線を本屋の通路の奥へと向けてみると、そこにはコーヒーショップへの入り口が見えて、コーヒーショップから出て来た若い女性がいた。
本を買って、そのままあそこで読書ができるらしい。
古書店にはない楽しさに幸太郎は思わず微笑んだ。
本屋って案外楽しいんだな。
そう思い、木馬に触れる。
表面がツルリとしていて、よく磨かれている。
しかしニスなどは使っていないようで、木どくとくの味わいがそのまま生かされていた。
劣化は早いのかもしれないが、触れた時の暖かさが違った。
「よく考えてあるな」
そう呟いた時、レジにいた店員に「よかったら、お孫さんにいかがですか?」と声をかけてきたので、慌ててその場を後にした。
買ってやりたい気はあるけれど、無職の幸太郎がこんな高級なオモチャを買って帰るわけにはいかない。
幸太郎は本来の目的を思い出し、求人情報誌だけを購入して店を出たのだった。
求人情報誌を買った幸太郎は、近くの公園にやってきていた。
ベンチに座り、求人情報誌を広げる。
公園で子供を遊ばせている若い主婦たちがこちらを気にしているように見えて居心地がわるかった。
でも、家に帰るよりはマシだと思えた。
妻は今日も働いてる。
誰もいない部屋で1人仕事を探していると、どうしてもよくない事ばかりを考えてしまうのだ。
求人情報誌の目ぼしい会社に赤いラインを引いていく。
パート、アルバイトのページにも沢山の線を引いた。
今までずっと会社員をしてきたからレジ打ちなんてできるかどうかわからないけれど、販売の接客まで線を引いた。
ひと通り雑誌を見終えるとようやく顔を上げて息を吐き出した。
集中していたからか、ひと仕事終えたような気持ちになる。
幸太郎は自分の手のひらを見つめた。
力仕事をしている人たちに比べれば薄っぺらいかもしれないが、今まで働いてきて随分とごつくなってきたと感じる。
指の節は太くなり、爪は固くなっていて爪切りの時に気を付けないとパキッと割れてしまうようになっていた。
その手にはさっき本屋で触れた木の温もりが残ったままだった。
昔、まだ妻と結婚をする前まで幸太郎は趣味で木工細工を行っていたのだ。
学生時代に好奇心で参加したフリーマーケット。
そこでは手作り商品も数多く出店されており、その中で木工細工を扱う店を見つけたのだ。
オモチャなどの大きなものではなく、キーホルダーや髪飾りと言った小さな物ばかりだったけれど、幸太郎は木の温もりに魅せられた。
幸太郎はお店の人と親しくなり、ちょっとした木工細工の作り方を教えてもらうようになったのだ。
道具や機械は高価で買う事ができなかったけれど、地元の作家を応援する施設があり、無料で機材の貸し出しや、制作場所の提供をしているところがあったのだ。
それまで幸太郎はそんな世界があるなんて知らなかった。
いざ飛び込んでみるとこれがまた面白かった。
木の種類によって何を作るか適している物が変わったり、使いたい木目を吟味している時間も楽しかった。
自分の手をぼんやりと見つめていると、地面に蟻の行列ができていることに気が付いた。
働き蟻たちは一瞬も休まず働いている。
「こんな小さな蟻だって働いてるのになぁ」
蟻たちがどこへ向かっているのが視線で追いかけて行くと、ベンチの後方に植えられている木に群がっているのがわかった。
蜜でも出ているのだろう。
また木か……。
幸太郎は瞬きを繰り返した。
自分が意識しているせいかもしれないけれど、今日はやけに木に縁がある日だ。
幸太郎は腰を上げ、蟻たちが群がっている木にそっと触れた。