川向こうのアトリエ喫茶には癒しの水彩画家がいます

「そ、それから……別に、答えは今すぐじゃなくてもいいから。俺に慣れたら、その……もう一度考えてみてほしい」


 青司くんはそれ以上何も言わず、顔を赤くさせたままでいた。

 こういう青司くんは新鮮だ、と思う。

 でもわたしも、あまり直視できなくてうつむく。


「えっと……うん。あの、わたし、明日バイトが休みだから。その……また朝から来るね……」

「うん。わかった」


 なんだかものすごくぎこちない会話だったけど、これでいい、と思った。

 わたしは青司くんの優しさに救われた。

 たしかに青司くんは急にあんなことしてきたけど、わたしの話を聞いて、わたしの気持ちに合わせてくれたのだ。


 俺に慣れたら、って……。

 なんだか変な言い回しだったけど。


 とりあえず、わたしは一旦帰ることにした。

 これ以上一緒にいたら、本当におかしくなりそうだ。どういう顔をして青司くんを見ていたらいいかわからない。

 でもそれは、たぶん明日来た時も同じことを思うのだろう。


「それじゃあ、また明日」

「うん……」


 わたしは玄関を開けて外に出る。

 後ろからすぐ青司くんがついてきて、その戸を手で押さえた。

 そのしぐさが男っぽくて、ついドキッとする。


「ん? なに、真白」

「あ、いや……なんでもない」


 首をかしげられるけど、わたしは素知らぬふりをして、店の前に停めていた自転車に乗った。

 あたりはもうすっかり日が暮れている。

 別れの挨拶はもう済ませていたので、目だけで青司くんに合図する。

 視線が合ったとき、強くまた引き寄せられたような気がした。


 それは、ちょうど青司くんも同じように思ったようで。

 すぐにお互い視線をそらす。
 どきどきがまた止まらなくなる。

 わたしは急いで家に帰ることにした。


 わたしは……その時気が付いていなかった。
 そんなわたしたちの様子を、見ていた人がいたことに。
 翌日。

 わたしは気まずい思いをしながら、川向こうの青司くんの家に行った。


 今日はバイトがお休みなので一日中お手伝いができる。けど……昨日のキスのこともあり、なんとなく顔を合わせづらかった。

 玄関には鍵はかかっておらず、手をかけると普通に開く。


「おはよう、ございます……」


 小声でそう言いながら中に入ると、青司くんはすでにキッチンで何か作っていた。

 かちゃかちゃと泡立て器で何かを混ぜている。


「あ。おはよう、真白」

「うん……。おはよう、青司くん。今日は一日手伝うね」

「ありがとう」

「……」


 そのままちょっと無言になる。

 青司くん、昨日のことどう思ってるんだろう。あんなキス……してきたりして。
 そう思っていると、青司くんは視線をわたしに合わせないまま言った。


「昨日は、ごめん」

「え……?」

「真白の気持ちも考えないで。俺が突っ走っちゃったことで……いま真白が気まずい思いをしているんなら、ごめん」

「や……別に、大丈夫……」

「そう?」

「うん。むしろわたしの方こそごめん。未熟なままで……」

「未熟?」


 ようやく青司くんが手を止めてわたしの方を見る。


「そう。わたしが、人として未熟だったから……。きっと人間的に成長できてたら、きちんと青司くんの気持ちも受け止められてた気がする。でも、そうじゃなくて。ごめん……」

「……」


 青司くんはじっと考え込むと、真面目な顔で言った。


「俺は再会した時、真白が変わってなくて良かったって思ったよ」

「えっ?」

「ごめん。こんなこと言うと真白は『ひどい』って思うかもしれないけどさ。でも昔とそんなに変わってなくて、だから俺は真白に対して昔と同じ気持ちでいられた。真白は? 俺のこと変わったって思った?」

「えっと……。うん」


 そう。わたしは変わってない。

 でも、青司くんは変わった。


 十年の間に立派な水彩画家になってた。

 海外に行って成功して、その上、急に日本に戻ってきて喫茶店を開こうなんて行動力のある人になっていた。

 それから……昔と違って、わたしに好意を伝えてくれるようになった。


 変わった。

 変わりすぎてしまった。


「そっか。じゃあやっぱり『違う人間』として……また一から知ってもらうしかないな」

「え? 違う、人間?」

「うん。真白が今の俺を『変わった』って思うなら、『昔のままじゃない』って思うなら……きっとそうしたほうがいいんだ」

「えっ……どういうこと?」


 思いがけないことを言う青司くんににわたしは戸惑う。

 言っている意味が、よくわからない。
「昨日の夜、考えたんだ。どうして昨日真白はああ言ったんだろうって。たぶん、真白は……昔の俺を見てる。今の俺の向こうに昔の俺を見てる……気がする。でもそれじゃあ、きっとこれからもギクシャクしたままだ。好きだとかそう言う以前に……一緒に働くならそれは、何とかしてほしいって思った」

「あ……」


 真剣な瞳で青司くんがこちらを見ている。

 わたしは恥ずかしくなった。

 未熟にもほどがある。過去の幻影にずっと囚われていたのを、青司くんに見抜かれた。


「俺が引っ越したままいなくなって、傷付けた身で悪いけど……真白、一度そういう風に見てもらえないか? 今の俺を、ちゃんと見てほしいから」

「青司くん……」


 違う人間。
 昔の青司くんと今の青司くんは違う人間。

 同じ人じゃない。

 まったく違う人として、接する。


 できるかわからないけど……でも、前に進むためにはやってみようと思った。


「うん、わかった。違う人だと……思うようにしてみるよ」

「ありがとう。じゃあ、改めて言うよ。真白」

「え? は、はい」

「これからまた改めてよろしくお願いします。同じ店で働く者として、俺のことをまた一から知っていってください」

「えっと……はい……」


 胸に片手を当てて、青司くんが仰々しくそんなことを言う。

 実際まだ戸惑っている。でも……。


 違う人間……。

 そう思うだけでなぜか心が軽くなった。

 昔の青司くんを想うのとは、また別の気持ちでドキドキしてくる。 


 こんなにわたしのことを考えてくれて。

 わたしとの関係を、なんとかしようとしてくれている。

 それは昔から変わらない優しい青司くんだった。でも、なんというかさらに大人の包容力、みたいなものも感じる。


 そう思ったら、またさらに胸が高鳴ってきてしまった。


「……」


 青司くんはまたボウルの中のものを混ぜはじめている。

 わたしも少し心に余裕が出来て、口元に笑みを浮かべられるまでになった。
 ふとサンルームの方に目をやると、庭に森屋園芸さんがいるのが見える。


「あ、もう来てたんだ、森屋園芸さん」

「……うん」


 わたしがつぶやくと、青司くんは小さな声で返事をした。

 森屋さんと青司くんのお母さん、桃花先生とのこと。
 それをずっと考えているんだろう。

 実はまだわたしもびっくりしている。


 きっと……森屋さんもずっと桃花先生のことを忘れられなかったんだろうな。
 わたしと同じように。ずっと思い続けてきたんだと思う。


 もし、桃花先生がひょっこり帰ってきたら、そしてまるっきり違う人間になっていたら、森屋さんはどうしたんだろう。

 わたしみたいに、相手に対してギクシャクした態度をとっていただろうか。

 昔の桃花先生を投影しつづけて、新しい桃花先生を受け入れられなかっただろうか。


 わからない。

 森屋さんはわたしよりもずっと大人だから、もしかしたらどんな桃花先生も受け入れられていたかもしれない。


「わたしも……何か手伝うよ」


 そう。せめてわたしは。
 できることをしていかないとと思った。

 できないことを、できなかったことを、悔やんでもしかたない。

 今を生きるなら、今できることをしていかないと。


「そう? じゃあ、これ砕いてくれる?」


 そう言って渡されたのは、密閉できる袋の中に入ったクッキーと綿棒だった。


「その綿棒で、袋ごと中のクッキーを粉々にして」

「わ、わかった」


 カウンターでやるわけにもいかず、わたしはキッチンの方に移動する。

 この洋館のあらゆるものはだいたい外国製だ。なのでここも広い。

 コンロは業務用でゴツイし、その下は本格的なオーブンが内蔵されている。大きなレンジフードに、調理台は二人が悠々と作業できるぐらいの大きさだった。


 わたしはさっそく、青司くんの隣でバンバンと袋の上に綿棒を振りおろしはじめる。

 みるみるうちに中のクッキーが粉々になっていく。

 でも青司くんはあわててわたしの手を止めた。


「ああ、真白。あらかた砕いたら今度はこうやって……ゴロゴロ棒を転がして。そうするともっと細かくなるから――」


 わたしの手を取って、その上から青司くんが手を重ねて実演してみせてくれる。

 でもそれにわたしはまたドキドキしてしまった。
「あっ、ご、ごめん。じゃあ、そうやって細かくなったらこれを入れて……」


 青司くんがハッとして離れていく。

 触れてしまった事をごまかすように何かを後ろの電子レンジに入れた。数十秒後にそれはチンと鳴る。

 取り出してみると、小皿の中に溶けたバターがあった。

 それをさらに砕いたクッキーの袋の中に入れる。


「よく揉んで。それはムースケーキの土台になるから」

「え? これ、ムースケーキになるの?」

「そう。午後になったら紫織さんたちが来るらしいから、彼女たちにそれをふるまおうと思ってるんだ。あ、もちろん真白にも試食してもらうけど……」

「ふーん」


 なんだ、これは紫織さんたちのためのものだったんだ。

 なんだか面白くなくなって、真顔で袋を揉む。


「真白? 何? 焼いてるの?」

「へっ?」


 すぐ近くから青司くんがわたしの顔を覗きこんでくる。

 わたしは首から上がカッと熱くなった。


「ち、違うよ! あー、これ美味しいムースケーキになるといいねー」


 やけになってそう言うと、くすくす笑われた。


「嬉しいな。焼いてくれるなんて。でも……昨日も言ったろ? 紫織さんのことは憧れだったって。俺は真白だけが……」

「あー、もういーから! はい、次は何をするの!?」


 これ以上恥ずかしい思いをしたくなくて、わたしは話題を強引に変えた。

 混ぜ終わったクッキーの袋を青司くんに返して訊く。


「じゃあ、これをこの丸いケーキの型に敷き詰めて。その上からこっちのムース生地を入れる」


 青司くんが混ぜていたのはムースの素だったようだ。

 わたしは大きめのスプーンで、今丁寧に砕いたクッキーを型の底に敷いていく。そしてそれが終わると、今度は青司くんがムース生地を入れた。

 いったい、何味のムースなのだろう。薄い紫色をしている。


「この上からあともう一層入れなきゃいけないから、またあとで調理するけど……これを冷蔵庫で一時間ほど冷まして固める。その間、メニュー表とか作ろうかな」


 青司くんはそう言って型を冷蔵庫にしまうと、手早く使った器具を洗ったり片づけたりした。

 わたしはそんな青司くんの後ろ姿をじっと見つめる。


 別の人間……。その言葉が頭の中でリフレインする。


 よく見ると、もうあの時の高校生だった青司くんじゃない。

 顔つきも体つきも、仕草も、もう大人の男の人だ……。


「どうした? 真白」


 手を洗い終わった青司くんがすぐ近くで首をかしげていた。

 わたしはハッとして首を振る。


「あ、な、なんでもない」

「そう? あ、ちょっと待ってて。今納戸から画材持ってくるから」


 そう言ってパタパタと奥へ走っていってしまう。


 あ……焦った。今妙なこと考えてたから。

 もし今考えてたことも見抜かれてしまったら、死ぬ、と思った。


 でも、さっき一瞬だけ、青司くんの顔も赤かったような気がした。

 はー、とか言っていまも頬に手を当てている気がするし。


「え?」


 もしかして……わたしが今じっと見てたから?

 そう思うとわたしも首から上が熱くなってきてしまった。


 青司くんはわたしのこと……やっぱり好きなのかな?
 可愛いって言ってくれてるだけだけど……。

 でももしそうなんじゃないかって思うと、ものすごく恥ずかしくなる。


 しばらくして青司くんは鉛筆と、水彩紙と、水彩絵の具を持って戻ってきた。


「お待たせ。メニュー表には、一応俺が描いた絵を載せたくて。一緒にどういうのがいいとか構図とか考えてよ、真白」

「うん」


 そうして、わたしは十年ぶりに青司くんが絵を描くところを見ることになったのだった。
 さらさらと何も見ないで、青司くんが絵を描いている。

 それはこの間森屋さんと食べたフルーツタルトだ。

 それにしてもものすごい手の速さである。あっという間に鉛筆での下書きが終わり、着色がなされていく。


 色とりどりの絵の具が乗ったパレットに、水を含ませた筆が滑り、色が溶けていく。

 そして、その薄まった色が白い水彩紙の上に広がっていく。

 赤や黄色や緑が絶妙な濃淡をまとい、光と影が描かれ、本物以上のリアルなフルーツタルトが紙の上に浮かび上がった。


 美味しそう。それにとても綺麗。


 絵自体にはそんな率直な印象しか浮かんでこない。

 それよりも、わたしは青司くんの一挙手一投足に見惚れていた。


 客席のテーブルの一つに、わたしと青司くんは対面で座っている。


「スランプなんて、嘘みたい。とっても上手」

「ありがとう。でもまあこれは、好きなものを好きなように描いてるだけだから。仕事ならそんなに面白くないよ。決められた絵を決められた通りに描かなきゃいけなかったりするし」

「ああ……なるほど」


 嫌なことを無理してやっていけば、それはだんだんつまらなくなっていくものだろう。

 青司くんがスランプになったのはそういう理由があったようだ。


「ねえ、真白。どうこれ?」

「ん?」


 青司くんが水彩紙のブロックを立てかけて、出来上がった絵をわたしに見せてくる。

 わたしはうーんとうなって首をかしげた。


「どうって……?」

「美味しそうに見えるかってこと」

「ああ、うん。大丈夫。それは、とっても美味しそうだよ。やっぱり青司くんの絵、いいね。写真とか文字だけのメニュー表もいいけど……青司くんが開くお店には、青司くんらしい絵が載っててほしいな。その方が何倍も素敵だと思う」

「ありがとう、真白」

「あとは、ドリンクも描くの?」


 わたしは昨日試飲した、色とりどりのジュースたちを思い出して言った。


「うん、そうだね……。コーヒーは二種類出そうと思ってるけど、その二つは見た目にはそんなに変わらないからホットとアイスの絵を一枚ずつかな。あ、紅茶も同じだね。でも他のドリンクはこう、色とか見栄えがいいから全部描きたい」

「じゃあ、どんどん描いて」

「うん。描くけど、描くけどさ。……真白は? 真白は描かないの?」


 笑いながら、青司くんはそんなことを言ってくる。
「わたし? わたしはいいよ。前も言ったけど、描けなくなってからずっと描いてないし……」

「じゃあ今はどう? ほら」

「ええ……」


 スケッチブックと鉛筆を差し出されて、わたしはしぶしぶ手に取る。


「自由に描いていいから。ね? 一緒に描こうよ」

「うーん……」


 メニューの絵は青司くんの担当だとして……わたしは自由に描く、か。

 うーん、何を描いたらいいだろう。

 お題を出された方がまだ良かったかもしれない。

 今描きたいものって、そんなにないから。


「あ」


 そうだ。せっかくだから青司くんを描こう。

 上手く描けなかったら申し訳ないけど……今描きたいのはこれくらいしかない。 


 わたしはなんとなくちらちらと盗み見しながら、青司くんの絵を描きはじめた。


 真剣に色を塗っている青司くん。

 さらさらの髪、長い睫、すっと通った鼻、眠たそうな目。

 きゅっと結ばれた大きめの口に、広い肩幅……。

 昔よりも全然、男らしくなってる。
 こうして絵に描くと、必然的にじっくり観察することになる。

 ぼんやりとした印象でとらえていたものが、はっきりと知覚できるようになるのだ。


 描けば描くほど、わたしは過去の青司くんにとらわれていたとわかった。

 目の前の男性はもう昔の青司くんじゃない。


 さっき言ってくれたのは本当だった。

 この人はまったく違う人なんだ。

 青司くんであって、青司くんじゃない。


 わたしは描きながら、それらをしっかりと脳に刻みつけていった。


「ふーっ。ひとまずこれぐらいかな? そろそろムースケーキの方の仕上げもしないと」


 グッと伸びをして、青司くんが筆を置く。

 顔を上げたので、わたしはとっさにスケッチブックを隠した。

 まずい。今ここでこれを見られるわけにはいかない。


「ん? 真白、何描いてたの?」

「え!? な、内緒!」

「ええ……見せてよ」

「や、やだ! ダメー!」


 ぐぐっとスケッチブックを引っ張られて、青司くんがわたしの描いていた絵を見てしまう。

 わたしは会わせる顔がなくてテーブルに突っ伏した。


「あーもう! だから見ないでって言ったのに……!」


 しくしくと泣きながら言うと、青司くんはやけに明るい声で言った。


「いや、これ、俺でしょ? 上手いよ。ずっと描いてなかったとは……思えない。ていうか嬉しい。俺を描いて、くれたんだ……」

「ほ……ほんとにそう思う?」


 賞賛されて嬉しくなったわたしは、ようやく顔を上げる。

 でも、そこには照れて顔を真っ赤にした青司くんがいた。
「……え!?」

「いや、マジで嬉しいよ……。久々に描く題材に、俺を選んでくれたなんて」

「あ、いや、そのっ……」


 わたしもなんだかつられて顔が熱くなる。

 お互いまた無言になると、外から話し声が聞こえてきた。

 もしかして紫織さんたちかな。


「あ、まずい。早く支度しないと」


 そう言って急いで立ち上がり、青司くんは納戸に画材をしまいにいった。

 残されたわたしはひとり思う。


 ど、どうしよう……。あれ返してって言いそびれちゃった……。


 あの絵をあとでまたじっくり見られたりしたら死ぬ。

 ていうかまだ完成してないし。

 わたしはどうにもできなくて、うなることしかできなかった。


「う、ううう~~……!」 


 そうこうしているうちに玄関扉が開かれ、紫織さんたちがやってくる。

 昨日よりはラフなパンツスタイルの紫織さんと、はじめて見る女の子だった。


 この子が「菫(すみれ)ちゃん」か。

 ピンクの花柄のワンピースを着て、髪をツインテールにしているその女の子は、不思議そうに部屋の中を見回していた。


「こ、こんにちは」


 わたしは、おずおずとそう挨拶する。

 壁掛け時計の針はもう十一時近くを指していた。


 紫織さんはわたしを見て目を丸くする。


「あらっ、あなた……真白ちゃん!?」

「あ、はい。お久しぶりです。紫織さん」

「久しぶり! 元気だった?」

「はい。紫織さんもお元気そうで……」


 にこにこしながら紫織さんはわたしの元へやってくる。


「あなたも、青司くんに会いにきたの?」

「あ、えっと……はい」

「そう。こっちは娘の菫(すみれ)よ。今わけあって帰省してるの。あ、青司くんは?」

「いま奥の納戸にいます。そろそろ戻ってくると思いますけど」

「そう」


 紫織さんは納戸の方を見やると、娘を振り返って目線を合わせた。


「菫。ここが、お母さんが若い頃通ってたお絵かき教室よ。もうすぐ喫茶店に変わるみたいだけれど、昔はずいぶん長いこと通ってたの。ねえ? 真白ちゃん」

「え、ええ……」


 急にこっちに話をふられて、わたしはどぎまぎしながらも相槌を打つ。

 娘の菫ちゃんはそれに何とも云わず、相変わらずきょろきょろと部屋の中を見回していた。
「女の子って早くからおしゃべりになるっていうけど、あの子はあの歳にもなってまだあんまりしゃべれなくてね……。でも、私に似て絵を描くのがものすごく好きなの。あとで、少しだけここで絵を描かせてあげたいわ……」


 そう言いながら、紫織さんも部屋の中をじっくりと見回す。

 主に目を止めているのは、壁に飾られたたくさんの水彩画のようだった。


「これ昨日も見たけど、ものすごく上手な絵よね。センスがいいわ。喫茶店をオープンさせるにあたって青司くんが仕入れたものかしら」

「あ、それらは全部、青司くんが描いた絵……です」

「え? そうなの!?」


 紫織さんは驚いたように再度見なおす。

 そして、ついに入り口付近の壁にある桃花先生の肖像画を見つけた。


「あ、これ。桃花先生……」


 わたしは肖像画の前で立ちつくしている紫織さんの側に行く。

 そして、お絵かき教室のみんなに伝えたことと同じことを説明した。


「―そう。そうだったの。それで青司くんは誰とも連絡がつかなくなってしまったのね……」

「はい。今はスランプで、それを解決するためにここに戻って来たらしいですけど、わたしは……青司くんはみんなとのつながりを、もう一度取り戻しにきたんじゃないかって思ってるんです」

「まあ、あの頃みんな怒ってたもんねえ。この薄情者~って。そのしこりは、できたらわたしたちも取っておきたいわ。そういう事情を知ったら余計にね」


 そう言って、紫織さんは寂しげに笑う。


「青司くんは、それでも心配してると思います。喫茶店を開いても……みんな来てくれないかもしれない、許してくれないかもしれない、って……。でも青司くんにとっては、ここは自分のルーツだから。スランプの今、もう一度ちゃんとしておこうって思ったのかもしれないです」

「ふーん。ずいぶんと青司くんのこと、『理解』してるのね」

「へ?」


 にやにやとしながら、紫織さんがわたしの顔を覗きこんでいる。


「ま、あなたは昔からそうだったけど」

「え……ど、どういう意味ですか!?」

「ええ~。わかんないの~? バレバレだったわよ、わりと昔から」

「え、は?」


 紫織さんはまだにやにやしている。

 ど、どういうことだろう。

 それってもしかして……わたしが青司くんに対して抱いている好意のことを言っているんだろうか。

 だとしたら相当恥ずかしい。


 そうこうしているうちに青司くんが納戸から戻ってきた。


「あ、紫織さん。それから……菫ちゃんも。いらっしゃい」

「ああ、青司くん。お邪魔してるわ。菫、この人がわたしの教わっていた先生の息子さん、青司くんよ」

「……」


 菫ちゃんはぺこりとお辞儀をすると、とたとたとサンルームの方へ行ってしまった。


「ごめんなさいね。すごくシャイなのよ」

「いいんです。それより……すいません。何時にいらっしゃるかわからなかったものですから。まだおもてなしの準備ができてなくて……」

「ああ、それこそいいのよ。まだお店としてはやってないんだし。お茶だけいただける? 今真白ちゃんからあらかた事情は聴いたけど、あなたからも話を聞きたいわ」

「え、あ……はい」


 青司くんがわたしを見る。

 別に変なことは言ってないはずだ。

 でも、紫織さんに言いたいことがあるならちゃんと自分の口で言ってもらいたい。そう思う。



 わたしたちはそうしてカウンターに向かった。