青司くんはこちらに背を向けていて、紫織さんがその向こう側に立っている。
「そう、ですか……。たしかもうお子さんがいらっしゃるんですよね?」
「そうなの。菫(すみれ)って言ってね、もう四歳になるわ。今は疲れて隣の家で寝てる。こっちだとおばあちゃんが見ててくれるから、助かるわー。うちの両親はびっくりするくらい何もしてくれないのよ」
二人はちょうど玄関前のスペースで話をしている。
紫織さんはハーフアップの巻髪に薄いベージュのパンツスーツという出で立ちで、ザ・できる女という感じだった。
うわさだと、たしかご両親と東京に引っ越して行った後、紫織さんもめったに帰郷しなくなっちゃったんじゃなかったっけ。
青司くんも普通に話しているけど、引っ越した日のごあいさつ回りの時に大貫のおばあさんから聞いたのかなあ?
「ん?」
そういえば、なんだかおかしい。
旦那さんは?
紫織さんと娘さんだけで帰ってきた……のかな?
それに今日はどう考えても平日なんだけど、どうしてこんなタイミングで帰郷しているんだろう。
わたしはさらに聞き耳を立てた。
「でもびっくりしたわ~。おばあちゃんから久しぶりに連絡が来たと思ったら、あの青司くんが地元に帰ってきてるっていうんだもの。でもそういうニュースでも聞かなかったら、こっちに避難してこようとは思わなかったわね」
避難?
何から避難してきたんだろう。
ていうか、やっぱり近所の人からこうやって青司くんが返ってきたんだって情報が方々へ伝わるよね。
やっぱり自分からみんなに連絡を入れておいてよかった……。
「紫織さん、きっと旦那さん心配してますよ。早く帰ってあげてください」
え? 旦那さんが……心配?
どういうこと?
まさか……。
「いいのよ。私もあの人も、一回距離をとってきちんと頭を冷やさなきゃいけないの。だから……しばらくはこっちにいるわ。おばあちゃんさえ良ければね。仕事だって、週に一回会社に行けばいいだけのノマドだし。ねえ、青司くん。そういえばここで喫茶店開くんだって? 良かったら何かお手伝いましょうか? 私一応こういう仕事してるの」
紫織さんは満面の笑みで、名刺らしきものを一枚、青司くんに渡してきた。
「……」
そんな……。
やっぱり何かあったんだ。
言葉の端々から予想するに、夫婦げんかをして……それでこっちに逃げてきた、って事だろうか?
大変だ……。
わたしはいろんな意味で危機を感じた。
「……このデザイン会社に、お勤めなんですね」
「そう。WEBデザインから印刷物、それから企業のゆるキャラ製作と多方面にやってるわ。広告とか宣伝も引き受けてるけど」
「そうですか……。まだちょっとわからないですけど、でももし頼むことがあったらお願いします」
「そう? こんな人口の少ない町でも開店日くらいは周知させておいた方がいいわよ。最初が肝心なんだから、最初が」
「はあ」
「というわけで、明日うちの菫をここに連れて来るわね」
「へっ?」
「ここが昔、お母さんが通ってたお絵かき教室なのよって、教えてあげたいのよ。あの子最近、絵を描くのが上手くなってね。やっぱ血かしら。話の流れでここを見せてあげる、ってことになったのよ。でも、今日はタクシーでこっちに来るまでに寝ちゃって」
「ええと……」
「それじゃあ明日よろしくね。バイバイ!」
そう言って、バタンと玄関扉が閉まる。
なんだか嵐が去っていったようだった。
紫織さんて、あんな人だったかなぁ……? 学生のころはもっとおっとりしていた気がするけど。結婚して子どもを産んだら、あんな風にパワフルになるんだろうか。
青司くんも少し面食らってるようだった。
ぼうっと突っ立ったまま、扉の外を見つめつづけている。
でもすぐにハッとなって、わたしがいる方に振り返った。
「真白……」
物陰に隠れていたわたしに気付いて、青司くんがつぶやく。
わたしは気まずくなりながらも青司くんに声をかけた。
「あ。ご、ごめん……。ちょっと立ち聞きしちゃった。さっきの紫織さん、だよね? 何、明日来るの?」
「うん。そうみたい」
「旦那さんと……ケンカしてるの? それでこっちに……?」
「うん。そうみたい」
「そう……。ていうか、紫織さんが結婚してたこと、知ってたんだね。なに、大貫のおばあさんから聞いたの?」
「……」
そこで唐突にわたしたちの会話は途切れる。
疑問に思ってると、青司くんがすたすたと近づいてきた。
「えっ、えっ?」
距離の詰め方が急だ。
どうしたんだろうと驚いている間に、ぎゅっと抱きしめられる。
「んっ? んんっ……!?」
突如、やわらかな感触が口に当たった。
これは……もしかして、今度こそ本当にキスをされてる?
ど、どうして。どうして。
パニックで何も考えることができない。
なんで?
なんで青司くんが急にこんな……。
「ん……」
思わず目をつぶる。
そして、なんだか泣きそうになってきた。
嬉しいのか、突然すぎることにショックを受けてるのか、よくわからない。
薄暗い半廊下みたいな場所でわたしは青司くんと、初めてのキスをした。
やがて、そっと唇が離れていく。
「……ごめん、真白」
「……」
青司くんが顔を離しながらそう言う。
でもまだ抱きしめられたままだった。
わたしは動揺が隠せずに言った。
「あ、あの……なんで? なんで突然、こんな……」
「それは……」
じっと、青司くんがあのいつも眠そうな目で見つめてくる。
ドキドキして死にそうだったけど、わたしは思っていたことを言葉にした。
「青司くん。青司くんは……紫織さんが好きだったんじゃないの?」
「え……?」
わたしはついにこらえきれなくなって、涙を流した。
「だって、そうでしょ? 昔から……青司くんは紫織さんを見てきたじゃない。それは、わたしがずっと側で青司くんを見てたから知ってる。なのに、なんで? なんで今わたしにこんな……」
「それは、違う」
「え?」
青司くんはわたしの両肩を掴んで、まっすぐな瞳で言った。
「紫織さんは、たしかに俺の憧れの存在だった。俺より二つしか違わないのに、すごく才能があって。絵描きとしてもすごく尊敬していた。でも……それだけだ。俺はずっと、ずっと昔から真白のことが……。可愛いって……」
「え……」
可愛い?
可愛いって言った? いま。
「嘘」
「嘘じゃないよ。ごめん、真白の気持ちも考えずに。でも、再会してからどんどんどんどん真白が可愛く見えてきちゃって……さっきとか。今も。俺、耐えられなくて……」
そう言って、また抱きしめられる。
わたしも抵抗すればいいのに、なんだかできなくてそのままだった。
でも、心は混乱しきっていて、態度とは裏腹にネガティブな言葉が出てくる。
「嘘だ。嘘……。そんな、青司くんがわたしを、なんて……」
わたしは信じられなくてぶんぶんと首を振った。
この人は、本当に青司くんなんだろうか。
わたしを可愛いって言うのはいつも冗談だと思ってた。でも、本当にそう思ってたってこと? でも……でもそんなのは、どうしても信じられない。
キスまでされたのに。
抱きしめられたのに。
それは、とっても嬉しいことだったはずなのに。
なぜだか違うと、心が拒否をはじめている。
「嘘じゃない。俺……今まで黙ってたのは、お店の手伝いを断られたくなかったからだ。でも、本当に俺は真白の事……」
「そ、そんな!」
困った。
困ってしまった。
こういうとき、どう返事したらいいんだろう。
いろいろな考えが頭をよぎる。
わたしは大好きな人からのこの告白を無条件で受け入れるべき、なのか?
そもそもこれは、青司くんにとってプラスになることなのか?
いや、むしろ駄目なことじゃないか。
そうだ。「わたしなんか」が青司くんをひとり占めしちゃダメだ。彼は才能のある人で、もっといろいろなことができる人だから――。
桃花先生の気持ちが、少しわかった気がする。
そう、好きな人を支えられるだけの自信が自分になかったのだ。
仕事仲間としてならいい。幼馴染としてなら、友達なら、ご近所さんなら。何の心配もなく全力でお手伝いができる。
でも……恋人としてではまるっきり自信がない。
それどころか、むしろ自分までダメになりそうな予感さえある。
「嬉しい。でも……。怖い」
「怖い……?」
「うん。怖いよ」
見上げると、青司くんはその言葉に眉根を寄せていた。
わたしはきちんと説明した。
「また、無くしてしまったらって思ったら……。今度こそなんにも、最初から何もなかったみたいになってしまったら……怖いよ。そうなったらわたし、生きていられるか自信がない!」
「そんな、そんなことはもう……しないよ」
「わたしずっと、青司くんのことが……好きだった。初めて会ったときから……」
ああ、言いたくないのに、こんなふうに言いたくなんてなかったのに。
「会えなくなってからも何年も、ずっと……。その間わたしの中では、時が止まってたの。昔のまま……。それが、ここ二・三日くらいで急に動き出して。この『今』は……嬉しいけど、あり得ない奇跡なの」
「真白」
わたしは、もうわたしの中の不安を洗いざらい青司くんに打ち明けることにした。
「これは、奇跡。明日にはまた急に無くなってしまうかもしれない奇跡……。だから、いまだにこの状況に慣れてなくて……。そんな中、さらにそんなこと言われても、わたし……困る」
「うん、わかった。ごめん、急にこんなこと言って……」
「あ。いや、本当はすごく……すごく、嬉しかったんだよ?」
青司くんの申し訳なさそうな顔を見て、わたしはあわててフォローする。
だってこれは本心なのだ。
好きな人に好意を向けてもらえるのは「嬉しい」。
ただ、心が追いつかないだけ。
青司くんはちょっと驚いたようにわたしを見た。
「それは、本当? 本当にそう?」
「うん……本当。『嬉しい』よ。好きな人にそう言われて……。その、キスとかも。びっくりしたけど……『嬉しい』」
「そっか。真白がそう思ってくれたなら、いいんだけど――」
途中までそう言うと、突然、青司くんの顔がみるみるうちに赤くなっていった。
なんだかわたしの顔をじっと見たまま固まっている。
「いや……ちょっと、待って。真白、やばい。やっぱ可愛いすぎる……」
そう言うとスタスタと歩いて、キッチンの裏に行ってしまった。
冷蔵庫から何かを取り出して、しきりに何かをしはじめる。
「せ、青司くん……? どうしたの?」
追いかけて呼びかけると、青司くんは余ったフルーツタルトをケーキ用の白い箱に入れていた。そしてわたしを見るなり、またすぐにそっぽを向いて、箱だけこちらに渡してくる。
「……は、はい。真白」
「え?」
「だから、はい。またご家族で食べて」
「あ、うん……ありがとう」
わたしはおずおずとそれを受け取った。
「そ、それから……別に、答えは今すぐじゃなくてもいいから。俺に慣れたら、その……もう一度考えてみてほしい」
青司くんはそれ以上何も言わず、顔を赤くさせたままでいた。
こういう青司くんは新鮮だ、と思う。
でもわたしも、あまり直視できなくてうつむく。
「えっと……うん。あの、わたし、明日バイトが休みだから。その……また朝から来るね……」
「うん。わかった」
なんだかものすごくぎこちない会話だったけど、これでいい、と思った。
わたしは青司くんの優しさに救われた。
たしかに青司くんは急にあんなことしてきたけど、わたしの話を聞いて、わたしの気持ちに合わせてくれたのだ。
俺に慣れたら、って……。
なんだか変な言い回しだったけど。
とりあえず、わたしは一旦帰ることにした。
これ以上一緒にいたら、本当におかしくなりそうだ。どういう顔をして青司くんを見ていたらいいかわからない。
でもそれは、たぶん明日来た時も同じことを思うのだろう。
「それじゃあ、また明日」
「うん……」
わたしは玄関を開けて外に出る。
後ろからすぐ青司くんがついてきて、その戸を手で押さえた。
そのしぐさが男っぽくて、ついドキッとする。
「ん? なに、真白」
「あ、いや……なんでもない」
首をかしげられるけど、わたしは素知らぬふりをして、店の前に停めていた自転車に乗った。
あたりはもうすっかり日が暮れている。
別れの挨拶はもう済ませていたので、目だけで青司くんに合図する。
視線が合ったとき、強くまた引き寄せられたような気がした。
それは、ちょうど青司くんも同じように思ったようで。
すぐにお互い視線をそらす。
どきどきがまた止まらなくなる。
わたしは急いで家に帰ることにした。
わたしは……その時気が付いていなかった。
そんなわたしたちの様子を、見ていた人がいたことに。
翌日。
わたしは気まずい思いをしながら、川向こうの青司くんの家に行った。
今日はバイトがお休みなので一日中お手伝いができる。けど……昨日のキスのこともあり、なんとなく顔を合わせづらかった。
玄関には鍵はかかっておらず、手をかけると普通に開く。
「おはよう、ございます……」
小声でそう言いながら中に入ると、青司くんはすでにキッチンで何か作っていた。
かちゃかちゃと泡立て器で何かを混ぜている。
「あ。おはよう、真白」
「うん……。おはよう、青司くん。今日は一日手伝うね」
「ありがとう」
「……」
そのままちょっと無言になる。
青司くん、昨日のことどう思ってるんだろう。あんなキス……してきたりして。
そう思っていると、青司くんは視線をわたしに合わせないまま言った。
「昨日は、ごめん」
「え……?」
「真白の気持ちも考えないで。俺が突っ走っちゃったことで……いま真白が気まずい思いをしているんなら、ごめん」
「や……別に、大丈夫……」
「そう?」
「うん。むしろわたしの方こそごめん。未熟なままで……」
「未熟?」
ようやく青司くんが手を止めてわたしの方を見る。
「そう。わたしが、人として未熟だったから……。きっと人間的に成長できてたら、きちんと青司くんの気持ちも受け止められてた気がする。でも、そうじゃなくて。ごめん……」
「……」
青司くんはじっと考え込むと、真面目な顔で言った。
「俺は再会した時、真白が変わってなくて良かったって思ったよ」
「えっ?」
「ごめん。こんなこと言うと真白は『ひどい』って思うかもしれないけどさ。でも昔とそんなに変わってなくて、だから俺は真白に対して昔と同じ気持ちでいられた。真白は? 俺のこと変わったって思った?」
「えっと……。うん」
そう。わたしは変わってない。
でも、青司くんは変わった。
十年の間に立派な水彩画家になってた。
海外に行って成功して、その上、急に日本に戻ってきて喫茶店を開こうなんて行動力のある人になっていた。
それから……昔と違って、わたしに好意を伝えてくれるようになった。
変わった。
変わりすぎてしまった。
「そっか。じゃあやっぱり『違う人間』として……また一から知ってもらうしかないな」
「え? 違う、人間?」
「うん。真白が今の俺を『変わった』って思うなら、『昔のままじゃない』って思うなら……きっとそうしたほうがいいんだ」
「えっ……どういうこと?」
思いがけないことを言う青司くんににわたしは戸惑う。
言っている意味が、よくわからない。
「昨日の夜、考えたんだ。どうして昨日真白はああ言ったんだろうって。たぶん、真白は……昔の俺を見てる。今の俺の向こうに昔の俺を見てる……気がする。でもそれじゃあ、きっとこれからもギクシャクしたままだ。好きだとかそう言う以前に……一緒に働くならそれは、何とかしてほしいって思った」
「あ……」
真剣な瞳で青司くんがこちらを見ている。
わたしは恥ずかしくなった。
未熟にもほどがある。過去の幻影にずっと囚われていたのを、青司くんに見抜かれた。
「俺が引っ越したままいなくなって、傷付けた身で悪いけど……真白、一度そういう風に見てもらえないか? 今の俺を、ちゃんと見てほしいから」
「青司くん……」
違う人間。
昔の青司くんと今の青司くんは違う人間。
同じ人じゃない。
まったく違う人として、接する。
できるかわからないけど……でも、前に進むためにはやってみようと思った。
「うん、わかった。違う人だと……思うようにしてみるよ」
「ありがとう。じゃあ、改めて言うよ。真白」
「え? は、はい」
「これからまた改めてよろしくお願いします。同じ店で働く者として、俺のことをまた一から知っていってください」
「えっと……はい……」
胸に片手を当てて、青司くんが仰々しくそんなことを言う。
実際まだ戸惑っている。でも……。
違う人間……。
そう思うだけでなぜか心が軽くなった。
昔の青司くんを想うのとは、また別の気持ちでドキドキしてくる。
こんなにわたしのことを考えてくれて。
わたしとの関係を、なんとかしようとしてくれている。
それは昔から変わらない優しい青司くんだった。でも、なんというかさらに大人の包容力、みたいなものも感じる。
そう思ったら、またさらに胸が高鳴ってきてしまった。
「……」
青司くんはまたボウルの中のものを混ぜはじめている。
わたしも少し心に余裕が出来て、口元に笑みを浮かべられるまでになった。
ふとサンルームの方に目をやると、庭に森屋園芸さんがいるのが見える。
「あ、もう来てたんだ、森屋園芸さん」
「……うん」
わたしがつぶやくと、青司くんは小さな声で返事をした。
森屋さんと青司くんのお母さん、桃花先生とのこと。
それをずっと考えているんだろう。
実はまだわたしもびっくりしている。
きっと……森屋さんもずっと桃花先生のことを忘れられなかったんだろうな。
わたしと同じように。ずっと思い続けてきたんだと思う。
もし、桃花先生がひょっこり帰ってきたら、そしてまるっきり違う人間になっていたら、森屋さんはどうしたんだろう。
わたしみたいに、相手に対してギクシャクした態度をとっていただろうか。
昔の桃花先生を投影しつづけて、新しい桃花先生を受け入れられなかっただろうか。
わからない。
森屋さんはわたしよりもずっと大人だから、もしかしたらどんな桃花先生も受け入れられていたかもしれない。
「わたしも……何か手伝うよ」
そう。せめてわたしは。
できることをしていかないとと思った。
できないことを、できなかったことを、悔やんでもしかたない。
今を生きるなら、今できることをしていかないと。
「そう? じゃあ、これ砕いてくれる?」
そう言って渡されたのは、密閉できる袋の中に入ったクッキーと綿棒だった。
「その綿棒で、袋ごと中のクッキーを粉々にして」
「わ、わかった」
カウンターでやるわけにもいかず、わたしはキッチンの方に移動する。
この洋館のあらゆるものはだいたい外国製だ。なのでここも広い。
コンロは業務用でゴツイし、その下は本格的なオーブンが内蔵されている。大きなレンジフードに、調理台は二人が悠々と作業できるぐらいの大きさだった。
わたしはさっそく、青司くんの隣でバンバンと袋の上に綿棒を振りおろしはじめる。
みるみるうちに中のクッキーが粉々になっていく。
でも青司くんはあわててわたしの手を止めた。
「ああ、真白。あらかた砕いたら今度はこうやって……ゴロゴロ棒を転がして。そうするともっと細かくなるから――」
わたしの手を取って、その上から青司くんが手を重ねて実演してみせてくれる。
でもそれにわたしはまたドキドキしてしまった。
「あっ、ご、ごめん。じゃあ、そうやって細かくなったらこれを入れて……」
青司くんがハッとして離れていく。
触れてしまった事をごまかすように何かを後ろの電子レンジに入れた。数十秒後にそれはチンと鳴る。
取り出してみると、小皿の中に溶けたバターがあった。
それをさらに砕いたクッキーの袋の中に入れる。
「よく揉んで。それはムースケーキの土台になるから」
「え? これ、ムースケーキになるの?」
「そう。午後になったら紫織さんたちが来るらしいから、彼女たちにそれをふるまおうと思ってるんだ。あ、もちろん真白にも試食してもらうけど……」
「ふーん」
なんだ、これは紫織さんたちのためのものだったんだ。
なんだか面白くなくなって、真顔で袋を揉む。
「真白? 何? 焼いてるの?」
「へっ?」
すぐ近くから青司くんがわたしの顔を覗きこんでくる。
わたしは首から上がカッと熱くなった。
「ち、違うよ! あー、これ美味しいムースケーキになるといいねー」
やけになってそう言うと、くすくす笑われた。
「嬉しいな。焼いてくれるなんて。でも……昨日も言ったろ? 紫織さんのことは憧れだったって。俺は真白だけが……」
「あー、もういーから! はい、次は何をするの!?」
これ以上恥ずかしい思いをしたくなくて、わたしは話題を強引に変えた。
混ぜ終わったクッキーの袋を青司くんに返して訊く。
「じゃあ、これをこの丸いケーキの型に敷き詰めて。その上からこっちのムース生地を入れる」
青司くんが混ぜていたのはムースの素だったようだ。
わたしは大きめのスプーンで、今丁寧に砕いたクッキーを型の底に敷いていく。そしてそれが終わると、今度は青司くんがムース生地を入れた。
いったい、何味のムースなのだろう。薄い紫色をしている。
「この上からあともう一層入れなきゃいけないから、またあとで調理するけど……これを冷蔵庫で一時間ほど冷まして固める。その間、メニュー表とか作ろうかな」
青司くんはそう言って型を冷蔵庫にしまうと、手早く使った器具を洗ったり片づけたりした。
わたしはそんな青司くんの後ろ姿をじっと見つめる。
別の人間……。その言葉が頭の中でリフレインする。
よく見ると、もうあの時の高校生だった青司くんじゃない。
顔つきも体つきも、仕草も、もう大人の男の人だ……。
「どうした? 真白」
手を洗い終わった青司くんがすぐ近くで首をかしげていた。
わたしはハッとして首を振る。
「あ、な、なんでもない」
「そう? あ、ちょっと待ってて。今納戸から画材持ってくるから」
そう言ってパタパタと奥へ走っていってしまう。
あ……焦った。今妙なこと考えてたから。
もし今考えてたことも見抜かれてしまったら、死ぬ、と思った。
でも、さっき一瞬だけ、青司くんの顔も赤かったような気がした。
はー、とか言っていまも頬に手を当てている気がするし。
「え?」
もしかして……わたしが今じっと見てたから?
そう思うとわたしも首から上が熱くなってきてしまった。
青司くんはわたしのこと……やっぱり好きなのかな?
可愛いって言ってくれてるだけだけど……。
でももしそうなんじゃないかって思うと、ものすごく恥ずかしくなる。
しばらくして青司くんは鉛筆と、水彩紙と、水彩絵の具を持って戻ってきた。
「お待たせ。メニュー表には、一応俺が描いた絵を載せたくて。一緒にどういうのがいいとか構図とか考えてよ、真白」
「うん」
そうして、わたしは十年ぶりに青司くんが絵を描くところを見ることになったのだった。