川向こうのアトリエ喫茶には癒しの水彩画家がいます

「うっ……」

 イチゴの甘酸っぱさが、ふいに意識をクリアにさせた。

 わたしも森屋さんじゃないけど、自分なんかがって、相手を好きでいていいのかって思ったりする。
 なんの取り柄もなくて。そんな自分は相手にふさわしくないんじゃないかって思うときもある。

 そもそもこの気持ちは、迷惑なんじゃないか?

 ただの仕事仲間ならいい。ただの幼馴染なら、ただのご近所さんならいい。
 でも、恋愛感情を向けられたなら……? 嫌じゃない? 面倒じゃない? お荷物にならない?

 青司くんはこんなに立派な水彩画家になれたのに。
 素晴らしい人なのに。
 わたしといるせいで間違った道には行ってほしくない。


「……」


 わたしは店内に飾られた、青司くんの水彩画を見渡した。
 どの風景画も人物画も、透明感がすごくてまるで夢の中のような絵だ。
 でも、今はスランプだと言う。

 本当はここで少し暮らして英気を養ったら、すぐに絵を描くだけの仕事に戻る方が彼のためなんじゃないか。
 喫茶店の店長なんてやらないで、イギリスにまた戻ったほうがいいんじゃないか。

 そんな風に考えてしまったりする。

 ああダメだ。
 またネガティブになってる。
 わたしは十年間、ずっとこんなマイナス思考に捕らわれつづけていた。

 どんなことでも「いつかダメになっちゃうんじゃないか」という恐怖感が常につきまとっているからだ。これはトラウマの一種らしいけれど、いっこうに良くなる兆しがない。

 フルーツタルトの最後の一口をほおばる。


「……ごちそうさまでした」

「うん」


 ぼうっとしたまま、青司くんがわたしの空いたお皿を下げる。
 わたしはまた少し心配になった。


「大丈夫? 青司くん」

「あ……うん、大丈夫。ちょっとまだ動揺してるんだ」

「それは……無理もないよ。まさかあのおじさんと先生が、って感じだもんね」

「うん。ねえ真白」

「なに?」

「さっきはああ言ったけど……もし生きつづけてたら、母さんは森屋さんのこと受け入れてたと思う?」


 青司くんは洗い物の手を止めて、わたしを見た。
 わたしはうーんとうなる。


「どうだろう。好きだけど……ってとこかなあ。あの頃青司くんまだ高校生だったし……当時は、難しかったと思う。でも、今ならもう成人しているから、子ども関係なく堂々と付き合えてたかも」

「そういうものかな……」

「ん? どういうこと?」

「いや、母さんは……父さんの事も忘れてなかったと思うんだ。母さんが離婚を決意したのは、父さんのためだったって聞いたことあったから……」

「そうなの?」


 目の前の紅茶が入っていたカップが、またかちゃりと動いた。
 それはあの桃花先生お気に入りのワイルドベリー柄のティーカップだった。
「親が離婚したのは……俺が五歳のときだった」


 そう言って、青司くんは洗い物の手を止めて話しはじめた。


「離婚する前、父さんには大きな仕事の依頼があったそうなんだ。その仕事を邪魔したくなくて……母さんは『身を引いた』って、言ってた」

「身を引いた?」

「うん。もともと父さんも画家で……でも画廊に勤めながら絵を描いていたんだ。でも、画廊のオーナーに『そろそろ後継者として育てたい』って言われたみたいで……。でもそのためには海外を飛び回ったりして商談にも行かなきゃいけなくて……」

「だから……? だから、桃花先生は相手のために離婚したっていうの? んー、よくわからないな。たとえ仕事で出張が多くなったとしても、先生と青司くんだけが家で待ってれば良かったんじゃ……? わざわざそんな離婚しなくても……」

「それは、俺も思った。単身赴任っていう形はとれなかったのかって。でも母さんは、その時心がかなり病んでたんだ」

「え?」


 心が病んでいた。

 その言葉に、わたしは思わず身を震わせる。

 まさか。あのいつも笑顔だった先生が? いつもとっても優しかった桃花先生が?

 わたしみたいに……心を病んでいた、なんて。信じられない。


「母さんは、父さんのことをものすごく愛していた。人間としても、ひとりの画家としても。夫の可能性を信じていたんだ。でも……だからこそ、その才能を日常ですり潰させてはいけないと、思ったみたいだ。そこはわからなくもないけど……でも、その理想と現実との間でかなり苦しんでいた。本当は離れたくないのに、離れなきゃいけないって。そのことに心をすごく痛めてた」

「桃花先生は……とっても優しい人だったもんね」

「うん。それに真面目すぎるところもあったから、中途半端に『待ってる』ってことができなかったんだと思う。完全に父さんはいないんだって思わないと、心が安定しないってわかってたんだね。だから、母さんは親類を頼って……この町に身を寄せた」

「この加輪辺(かわべ)町に?」

「そう。正確には、親類が所持していたこの洋館のある町にね。この家は……ずっと長い間誰も住んでなかった。でも、母さんはこの家の手入れも兼ねるなら、住んでもいいって許可をもらえたんだ」


 そう言って、青司くんはぐるりと部屋を見渡す。

 たしかに壁や床は、どこも年月を感じさせる風合いをしていた。いつだか桃花先生が説明してくれた気がする。「この家は大正時代に建てられた建物なのよ」って。

 大事に大事に補修を重ねながら存続させてきた、歴史を感じる家。


「母さんはここで、俺とふたりで生きていこうとした。父さんをまだ愛してたけど、忘れようと必死だった。お絵かき教室を開いて、自立して、経済的にも父さんに頼らないようにして。もともと体が弱かったのに、いつも人一倍頑張ってて……。そんな人だったから森屋さんのことを本当に好きだったのかなって……少し疑問なんだ」

「……」


 わたしは言葉につまった。
 どう考えたらいいんだろう。

 どう答えたらいいんだろう。

 そうだ。

 もし、わたしだったら……?


 青司くんのことを好きだけど、忘れたくて。その間にもし、別の人からアプローチされたら?

 って考えてみる。

 そうすると……桃花先生と一緒だった。


 わたしは……。

 わたしは黄太郎と、一週間だけでも付き合ってしまった。


 ずっと寂しくて。生きる気力がわかなくて。

 でもそんな中、自分のことを第一に想ってくれる人が現れて。
 嬉しくて、そしてその相手のことも別にもともと嫌いじゃなくて、だから、情に流されて……受け入れようとした。


 だったら、もしかしたら桃花先生も、森屋園芸さんに対して思ってた気持ちは嘘じゃなかったんじゃないかな。

 青司くんが言ったように。

 きっと森屋さんの事、それなりに好きだったと思う。

 その後は……もし生きつづけられていたら、関わり方によってはいろんな未来があったんじゃないかと思う。

 わたしは、終わってしまったけど。


 でも、そのことをそのまま青司くんに伝えることはできなかった。

 だって、わたしは黄太郎とのことを話せない。
 一瞬でも他の人に絆されたことを話すのは、なんか……恥ずかしかった。
 最後まで一途でいれなかった弱さを、さらけ出す勇気はまだない。


 青司くんも、「お母さんは一途でいた」と心のどこかでは信じていたいんじゃないだろうか。

 だから、あんなことをわざわざわたしに訊いてきたのかもしれない。


 黄太郎とのことも、いずれは誰かから聞いてしまうだろう。

 そう思うと、青司くんにどう思われるかと思ったら……とても怖くなった。
 一途じゃないって幻滅されるかな?


「なあ、真白はどう思う? 母さんは、本当はどう思ってたと思う?」

「……」


 青司くんがわたしに訊いてくる。

 とても答えづらい内容を。わたしは、何も言えなくて黙った。


「ねえ、真白……」

「……わかんない」

「え?」

「わかんないよ! そういう青司くんはどうなの? もし自分だったら、どうしてたの!?」


 わたしも混乱していた。何度も同じ質問をしてこられても、どうしていいかわからない。わたしはたまらなくなってそう叫んだ。

 青司くんは少し面食らったような顔をしている。
「真白……」

「青司くんに、もしずっと好きな人がいて……でもその人を忘れなきゃいけなくて、その間に自分に告白してきた人がいたら、どうするの? すぐその人を好きになれる? ねえ、青司くんも自分に置き換えて考えてみてよ」

「それは……」


 そう、たとえば紫織さん。

 紫織さんは、あの大貫のおばあさんのお孫さんで、かつての「お絵かき教室」の生徒仲間だった人だ。
 あの教室では一番お姉さんで、そして誰よりも絵がうまかった。

 青司くんはその紫織さんのことをいつも目で追っていて……。
 わたしはそれを見て、ずっとかなわないなあって思っていた。
 だからろくに告白もできなかったのだ。

 でも……そんな彼女ももう別の人と結婚してしまっている。
 数年前、わたしはそれを風のうわさで知った。

 だから青司くんにとって、彼女はもう「手の届かない人」なのだ。

 青司くんが今でも彼女を特別に思っているかどうか、わからない。
 でも今もそうなら、その想いを遂げるには最悪不倫……とかそういう関係になるしかない。
 青司くんがそんなことをする人とは思えないけど。

 その紫織さんのことを忘れたいって思ったときに、あきらめようと思った時に、「わたし」から告白されたら?
 ねえ。
 青司くんは……どうするの? 受け入れてくれる?


「そう……だね。それは……その時になってみないとわからない、ね。でもそれは、きっとそれぞれ別の人だから、別の気持ちで好きになると思うよ。母さんが……そうだったように」

「えっ?」


 青司くんはキッチンから出ると、ゆっくりと奥の廊下へ歩いていった。

 そして途中で振り返って、わたしを招く。


「来て。真白。納戸にいろんな画材や母さんの作品がしまわれてるんだ。ちょっと一緒に見にきてほしい」

「う、うん……わかった」


 わたしはうなづくと席から立ち上がった。

 キッチンの奥には家事室のような場所があり、そこは半分廊下のようになっていた。

 キッチンやダイニングと同じ材質のフローリングが続いていて、右側の壁には本棚や窓があり、左側の壁にはバスルームの入り口がある。

 まっすぐ突き当りにはその納戸のドアがあった。


 青司くんはそのドアをそっと押し開けた。


「わっ……」


 埃っぽい臭いが鼻をつく。

 部屋は真正面と左奥の二方向の壁の上部に細い窓がついているだけで、とても薄暗い状態だった。

 と思ったら、青司くんがパッと電気をつける。
 そこにはたくさんのキャンバスやベニヤ板がほこりよけのために黒い布をかけられていた。

 棚にも絵画と思しき作品が額ごと積まれている。

 透明なプラスチックの引き出しの棚にはどうやら昔の生徒たちの絵がしまわれているようだった。


「引っ越す前、一応全部ここに集めておいたんだ。帰ってきたとき少しは劣化しちゃってるかなあと思ったけど、確認したらわりと大丈夫だった。ほら、こっちが母さんの作品」


 青司くんは納戸の一角に立てかけられていたいくつかの絵を見せてくれた。


「これが初期の母さんの絵」


 それはピンク色が基調の、羽ばたく鳥や女性をモチーフとした水彩画だった。

 愛や命を表現しているようにも見える。

 力強い中に、繊細で壊れやすそうな儚さがあった。淡く美しいタッチで、人を強く惹きつける絵だ。


「そしてこっちは……だいたい亡くなる数年前から描きはじめてた絵。ずいぶん違うだろ?」


 それは色とりどりの植物の絵だった。

 描かれている花々や木々は、どれも見たことのあるものだ。

 決してピンクだけが基調とはなっていない。自由でのびのびとした色彩とタッチ。見ていると、どれもとても楽しい気持ちになるものだった。


「これはかなり……心境の変化があったと見てる」

「うん、わたしもそう思う」


 全部の絵を見ていて、気づいたことがある。

 これは……この家の「庭」だ。

 全部、庭にある植物を描いている。

 植物がクローズアップされているのでわかりづらかったが、いつも見ていた自分たちならわかる。植物の下、背景、それらには特徴的な花壇のブロックだったり、隣の家の壁だったりが描かれている。


 先生は……庭にあるものをモチーフにしていた。

 と、いうことは――。


「森屋さんのことをどう思っていたかなんて、母さんに直接訊いたわけじゃないからわからない。でも、この作品群をさっき思い出して……。だから、森屋さんにはああ言ったんだ……。俺、間違って……なかったよな?」

「うん。たぶん」

「……そっか」


 青司くんも、いろいろと思うことがあっただろう。

 それなのに……本当に大人になったな、と思う。

 反面わたしは……ダメダメだ。


 弱いままで、まったく成長できてない。

 ずっといじいじとくすぶっていて……。

 今だって、青司くんがせっかく丁寧にいろいろ説明してくれているのに……勝手にドキドキしたりしていて……話をあまり聞けていないでいる。


 だって。

 こんなに狭い場所で、薄暗くて、体の距離が近くて。
 動揺しないわけがない。


「あ、こっちもせっかくだから見る? 真白たちの昔の絵があるよ」


 透明なプラケースの棚を指して、青司くんが案内しようとする。

 でも。そのいつになく近くで響く低い声とか、わずかに香る青司くんの体臭とか、男らしいしぐさとか、そういうもののひとつひとつが気になってしまって、体が妙に熱くなってきた。


 だめだ。

 もっと近づいてしまったら、わたし……。

 そう思ったら動けなくなった。


「どうした? 真白……」


 振り返った青司くんが立ち止まる。


「あ……」


 わたし……変、じゃないよね。今。

 変じゃなかったら、大丈夫だよね?


「……」


 あ、でもでも、青司くんがなぜか黙ってわたしを見つめつづけてる。

 変、だからこんなに見てくるのかな?

 どうしよう。どうしよう。


 まだ、気持ちを伝えられないのに。


 青司くんがゆっくりとわたしに近づいてくる。

 とっさに一歩、下がった。でもすぐ後ろに棚があってそれ以上動けない。

 そのまま青司くんは、わたしの後ろの棚に手をかけてきた。


「……真白?」


 すぐ近くで、上から覗きこまれている。

 胸が……痛い。

 体中熱くなってる。

 それでも、青司くんは離れてくれない。
 逃げられない。
 狭い納戸の中で、わたしたちはじっと……見つめ合った。
「真白。どうしたの? 顔、赤いよ」

「えっ? あっ……」


 嘘……。わたし、顔赤くなってる?

 もうさすがに目を合わせていられなくて、視線をそらす。


「さっきから変だよ、真白」

「……」


 変って。こんな壁ドンみたいなことしてる青司くんの方が変だよ……。

 もう、何も言えない。

 こんな密室で至近距離で、そんな言葉をかけられたりしたら……。


 心臓が激しく鼓動を打ち続けている。
 その音が、青司くんに聞こえてしまうんじゃないかってくらい。


「さっきの、質問だけど。真白だったらどうしてた? 好きな人を忘れるために……他の人を好きになれる? 真白は……真白は誰かと、そういう関係になったことある?」

「……!」


 なんで。どうして今そんなこと訊くの?

 って言いたかったけど声が出なかった。だって、青司くんのわたしを見つめる目がとても真剣で……吸い込まれてしまいそうだったから。


 黄太郎(こうたろう)とのこと。

 それは、まだ話せない。

 背中に冷や汗が流れていく。体もなぜか小刻みに震えてくる。


「もし、そうなら俺は……」


 そう言いながら、青司くんがさらに近づいてくる。

 え?
 これって……。

 キス、されようとしてる?


「青……」


 しゃべろうとすると青司くんの唇に触れてしまいそうだったので、思わず息を、止めた。










「……すいませーん」




 どこかから、急に女性の声がした。

 たぶんお店の方だ。

 わたしたちはハッとなって体を離した。
「……ごめん、誰か来たみたいだ。ちょっと見てくる」

「う、うん……」


 そう言って足早に青司くんは納戸を出て行く。


「た、助かった……」


 ホッとして、わたしはその場にしゃがみこむ。ここの床はホコリが積もっているのでさすがにへたりこんだりはしない。

 それにしても……。青司くんがわたしにキスしようとした? う、嘘でしょ……。

 わたしは思わず自分の唇に手を当てた。


「だって、青司くんは……紫織さんが好きだったんじゃ?」


 それとも、今はもう何とも思ってないんだろうか。

 うーん。わたしが勝手にそう思い込んでただけ? 絶対、当時特別な何かがあったと思うけど……ただの憧れ、とかだったのかな?


 わからない。


 でも、それより。

 なにより。

 わたしに青司くんがキスしようとした、そのことが問題だった。


「どうして……」


 どうしてさっき、わたしの過去なんかを訊いてきたんだろう。
 誰かとそういう関係になったことがあるか、なんて。

 付き合ったことは……あるよ。

 一週間だけだったけど。

 でも、青司くんはどうなの? イギリスで、誰かと付き合った? その人は特別な人だった?


 わたしにキスしようとしたりして。

 もしそういう人がいたなら、それは……「裏切り」だよ。


 ああ……わたし、何を考えてるんだろう。

 全部妄想だ。本人に、事実を確認したわけでもないのに。

 でも……青司くんが何を訊きたいいのか、何をしたいのかがよくわからなくて、こんな風に混乱してしまってる。


 しばらくしても、青司くんは戻ってこなかった。

 心配になったのでそっとお店の方へ戻ってみる。

 すると、そこには紫織さんがいた。


「え……?」


 噂をすればなんとやら、だ。

 でもなんてタイミング。

 というか……なんで? なんで紫織さんが今ここにいるの?

 わたしは物陰からそっと様子を伺った。
 青司くんはこちらに背を向けていて、紫織さんがその向こう側に立っている。


「そう、ですか……。たしかもうお子さんがいらっしゃるんですよね?」

「そうなの。菫(すみれ)って言ってね、もう四歳になるわ。今は疲れて隣の家で寝てる。こっちだとおばあちゃんが見ててくれるから、助かるわー。うちの両親はびっくりするくらい何もしてくれないのよ」


 二人はちょうど玄関前のスペースで話をしている。

 紫織さんはハーフアップの巻髪に薄いベージュのパンツスーツという出で立ちで、ザ・できる女という感じだった。


 うわさだと、たしかご両親と東京に引っ越して行った後、紫織さんもめったに帰郷しなくなっちゃったんじゃなかったっけ。
 青司くんも普通に話しているけど、引っ越した日のごあいさつ回りの時に大貫のおばあさんから聞いたのかなあ?

「ん?」

 そういえば、なんだかおかしい。

 旦那さんは?
 紫織さんと娘さんだけで帰ってきた……のかな?
 それに今日はどう考えても平日なんだけど、どうしてこんなタイミングで帰郷しているんだろう。

 わたしはさらに聞き耳を立てた。


「でもびっくりしたわ~。おばあちゃんから久しぶりに連絡が来たと思ったら、あの青司くんが地元に帰ってきてるっていうんだもの。でもそういうニュースでも聞かなかったら、こっちに避難してこようとは思わなかったわね」


 避難?
 何から避難してきたんだろう。

 ていうか、やっぱり近所の人からこうやって青司くんが返ってきたんだって情報が方々へ伝わるよね。
 やっぱり自分からみんなに連絡を入れておいてよかった……。


「紫織さん、きっと旦那さん心配してますよ。早く帰ってあげてください」


 え? 旦那さんが……心配?
 どういうこと?
 まさか……。


「いいのよ。私もあの人も、一回距離をとってきちんと頭を冷やさなきゃいけないの。だから……しばらくはこっちにいるわ。おばあちゃんさえ良ければね。仕事だって、週に一回会社に行けばいいだけのノマドだし。ねえ、青司くん。そういえばここで喫茶店開くんだって? 良かったら何かお手伝いましょうか? 私一応こういう仕事してるの」


 紫織さんは満面の笑みで、名刺らしきものを一枚、青司くんに渡してきた。


「……」


 そんな……。
 やっぱり何かあったんだ。

 言葉の端々から予想するに、夫婦げんかをして……それでこっちに逃げてきた、って事だろうか?

 大変だ……。
 
 わたしはいろんな意味で危機を感じた。


「……このデザイン会社に、お勤めなんですね」

「そう。WEBデザインから印刷物、それから企業のゆるキャラ製作と多方面にやってるわ。広告とか宣伝も引き受けてるけど」

「そうですか……。まだちょっとわからないですけど、でももし頼むことがあったらお願いします」

「そう? こんな人口の少ない町でも開店日くらいは周知させておいた方がいいわよ。最初が肝心なんだから、最初が」

「はあ」

「というわけで、明日うちの菫をここに連れて来るわね」

「へっ?」

「ここが昔、お母さんが通ってたお絵かき教室なのよって、教えてあげたいのよ。あの子最近、絵を描くのが上手くなってね。やっぱ血かしら。話の流れでここを見せてあげる、ってことになったのよ。でも、今日はタクシーでこっちに来るまでに寝ちゃって」

「ええと……」

「それじゃあ明日よろしくね。バイバイ!」
 そう言って、バタンと玄関扉が閉まる。

 なんだか嵐が去っていったようだった。

 紫織さんて、あんな人だったかなぁ……? 学生のころはもっとおっとりしていた気がするけど。結婚して子どもを産んだら、あんな風にパワフルになるんだろうか。


 青司くんも少し面食らってるようだった。

 ぼうっと突っ立ったまま、扉の外を見つめつづけている。

 でもすぐにハッとなって、わたしがいる方に振り返った。


「真白……」


 物陰に隠れていたわたしに気付いて、青司くんがつぶやく。

 わたしは気まずくなりながらも青司くんに声をかけた。


「あ。ご、ごめん……。ちょっと立ち聞きしちゃった。さっきの紫織さん、だよね? 何、明日来るの?」

「うん。そうみたい」

「旦那さんと……ケンカしてるの? それでこっちに……?」

「うん。そうみたい」

「そう……。ていうか、紫織さんが結婚してたこと、知ってたんだね。なに、大貫のおばあさんから聞いたの?」

「……」


 そこで唐突にわたしたちの会話は途切れる。
 疑問に思ってると、青司くんがすたすたと近づいてきた。


「えっ、えっ?」


 距離の詰め方が急だ。

 どうしたんだろうと驚いている間に、ぎゅっと抱きしめられる。


「んっ? んんっ……!?」


 突如、やわらかな感触が口に当たった。

 これは……もしかして、今度こそ本当にキスをされてる?

 ど、どうして。どうして。

 パニックで何も考えることができない。


 なんで?

 なんで青司くんが急にこんな……。


「ん……」


 思わず目をつぶる。

 そして、なんだか泣きそうになってきた。

 嬉しいのか、突然すぎることにショックを受けてるのか、よくわからない。


 薄暗い半廊下みたいな場所でわたしは青司くんと、初めてのキスをした。

 やがて、そっと唇が離れていく。


「……ごめん、真白」

「……」


 青司くんが顔を離しながらそう言う。

 でもまだ抱きしめられたままだった。

 わたしは動揺が隠せずに言った。


「あ、あの……なんで? なんで突然、こんな……」

「それは……」


 じっと、青司くんがあのいつも眠そうな目で見つめてくる。

 ドキドキして死にそうだったけど、わたしは思っていたことを言葉にした。



「青司くん。青司くんは……紫織さんが好きだったんじゃないの?」

「え……?」


 わたしはついにこらえきれなくなって、涙を流した。