綺麗だな。
あちらこちらで僕が撒いた種が増えている。拡散され続けている。こんなに嬉しいものだったのだ。
街の中にも青い紫陽花が増えている。
街だけじゃなく国中を覆うように種を拡散しなければならない。
僕の望みは、この国の隅々まで青い紫陽花を咲かせることだ。
見届ける必要はない。
種は拡散し始めた。僕の手を離れたのだ。もう止まらない。止める手段が存在しないのだ。
伸び切ってしまった手足を切り落として小さいベッドで眠らない。受領した快適を手放せる者がどれほど居るのだろう。種の拡散を止める方法は存在しない。
だから、僕は結末を見届けないで、君が待つ場所に行く。
待っていてくれているよね。僕が行ったことを褒めてくれなくてもいい。前みたいに叱ってくれよ。僕は、君と一緒に居られればそれで満足なのだ。
おやすみ。
彼女を傷つけ僕を生み出した人たち。
おやすみ。
最後まで善意の塊だった人たち。
おやすみ。
興味本位で僕と彼女を晒した人たち。
おやすみ。
多くの関心を持たなかった人たち。
あなたたちには、きっと種が安らかな眠りと一緒に訪れてくれるでしょう。
おやすみ。いい夢を・・・。
悪夢の方がましだと思える楽しい夢を見てください。
---
「アオイ!!」
アオイは僕の目の前で凍りついた笑顔のままビルの屋上から飛び降りた。
「アオイ!アオイ!アオイ!アオイ!!」
なぜ!なぜ!
僕を押さえつける!アオイの所に行かせろ!
僕を押さえつけている奴らも、下でアオイを見ていた奴らも、全部、全部、全部、全部、全部、殺してやる!
アオイが僕の前から居なくなってから、アオイを見つけるまで1週間かかった。
奴らがアオイを殺した。マスゴミとかいうクズが知りたくもない情報を教えてくれる。
アオイは、いじめを苦に自殺したと報道した。知りもしないアオイの心情を話すコメンテータとかいう雌豚が居た。
いじめ?最後には、服を脱がされて写真を撮られるのが”いじめ”。準強姦であり脅迫だ。
アオイが持っていった料理が冷えていたからと殴った。殴ったのが同級生だったから”いじめ”なのか?暴行だ。
アオイ。僕は、君が死を選ぶまでの1週間。側に居られなかったのが悲しい。僕を一緒に連れて行ってくれなかった?
僕は、アオイと一緒に行きたかった。
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アオイが居なくなって何日が過ぎたのだろう?
アオイが居なくても腹は減るし眠くもなる。僕はなんで生きている?
アオイが最後に見せた凍りついた笑顔。アオイの笑顔ではない。アオイの笑顔で無いのなら、アオイではないのか?アオイはまだ生きている?
アオイが僕を連れて行かない理由はない。一緒にいると言ってくれた。
前に聞いた、アオイのお母さんが眠る場所に行ってみよう。アオイが居るかも知れない。僕を待っている。
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マスゴミのクズが騒いでいる。丁寧に僕に説明してくれた。アオイをイジメていた奴らは罪に問われなかった。主犯格の1人は所在さえわからないらしい。
どうでもいい。奴らが死ぬのは確定した未来だ。僕が決めた。イジメじゃない。準強姦と脅迫と暴行だ。誹謗中傷もしている。16歳のアオイの下着姿を撮影して拡散したのだが児童ポルノにも該当するはずだ。いじめではない。いじめという言葉で誤魔化すまねをするマスゴミにも手伝ってもらう。
アオイのお母さんが眠る墓所の近くに立派な紫陽花が咲いている。
赤色の紫陽花に混じって一部だけ青い花をつけている。アオイが好きだった青い紫陽花だ。
人の悪意は拡散する。悪意から死に繋げればいい。肉体的な死だけが、死ではない。社会的な抹殺も死と変わらない。心の死は周りの人たちの肉体と心の疲弊に繋がる。
僕は、拡散する種を仕込む。アオイが好きだった花の別名を使う。
種をばらまくウィルスは”手毬花”。仕込んでから開花するまでに3-4年は必要だ。まだまだ、種は有る。拾い集めて拡散させる準備をしなければならない。
種を拡散するのは、種を持たない傍観者だ。
傍観者も種を拡散することで、傍観者から加害者になる。加害者であり被害者だ。苦しめばいい。自分の大切な人が自分を大切に思ってくれる人が、自分の行為で種に染まるのだ。
僕のウィルスは、ただ種を拡散するだけだ。
秘密の暴露ではない。デマ情報の拡散だ。消えない傷となって拡散され続ければいい。ただ種を拡散するだけのウィルスだ。
種は仕込んだ。
読み方で、受け取り方で、感じ方が変わる。読んだ人たちの心に悪意が満ちていくだろう。誰にも止められない種の拡散。
種が芽吹くとき、青い紫陽花が咲き誇るだろう。
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それは本当に小さな出来事だった。あとから考えてもきっかけというには小さすぎる。よくあるニュースだった。
いじめを原因とする自殺。中学校でのいじめだった。女子が自殺した。珍しくもない事案でニュースにもならなかった。
実際に、俺が勤めていたTV局では、取材にもいかないで警察発表を取り上げただけで終わりになった。他に取り上げるべきニュースが大量にあった。
ニュースはこれで終わりになるはずだった。
しかしこのニュースはきっかけで終わらなかった。
いじめの加害者の名前がSNSで拡散されたのだ。拡散されたのは、キー局の報道局長の息子が関わっていると情報だ。住んでいる地域も違えば年代も違う。知る人が見ればすぐにデマだと気がつく情報だ。いつもなら、デマだと情報が出たら拡散も下火になって擁護される。
しかし、この事案は違った。
キー局が昼のニュースで取り上げたのだ。デマ情報であり、デマを拡散するのは犯罪行為だと拡散を止めるのに躍起になった。新聞や雑誌も、デマである根拠を述べて本人のインタビュー記事まで掲載した。火消しに躍起になった。
火消しが何よりの証拠だという情報がSNSで拡散された。新聞や雑誌の記事を書いた人たちの過去の犯罪だとする情報も拡散された。
この状況はおかしいと思い始めている。
皆がおかしいと思いながらも拡散は止まらない。皆が善意や正義感から拡散している。情報を調べもせずに拡散する。
完全にデマだと分かる情報もあるが、デマではない情報も含まれる。
マスコミをあざ笑うように、マスコミが報道できなかった情報が悪意を持った内容で拡散している。真実が含まれる拡散が存在する。マスコミも一部のものしか知らないような情報も入っている。
芸能人のスマホから情報が流出することもある。流出情報が拡散される。同じように作られた悪意を持った情報となり拡散される。
誰もが被害者で、誰もが加害者になってしまっている。
笑えない情報まで拡散された。国の予算案が事前に投稿され拡散されるに至って政府は徹底的な操作を検察に依頼した。
予算案がよく作られたデマだとわかってからは、デマを流した者が誰だったのかを特定する動きが加速した。
マスコミも調べたがデマの発信元にたどり着くことが出来なかった。ことになっている。実際にはたどり着いた。情報の発信者は霞が関にある一部の省庁の端末からだった。コンピュータウィルスが疑われたがウィルスには侵されていなかった。
そして、マスコミや警察が調べていることが公になると、デマを流したのは政府与党の関係者だというデマ情報が拡散した。
拡散の連鎖を止めることが出来ない。
ついに政府は特措法を制定するが、特措法を制定してまで拡散を止めたい理由は政府与党が隠したい不都合な情報があるのだと拡散された。マスコミや野党の反対にあって政府与党は廃案にした。
最初のいじめを行っていた奴らの首謀者が自殺した。
政府与党に恥をかかせたのは、自殺に追い込んだいじめを実行していた奴らだという悪意ある記事が投稿されまたたく間に拡散した。マスコミも、政府与党への忖度もあり”デマ記事”として拡散されている情報だと報道した。
自殺に追いやったとマスコミが批判に晒される悪意が拡散される。悪循環になっているのは誰が考えてもわかることだ。
この悪意の厄介な所は、やらなければやらないで”拡散されている情報が正しい”を思われてしまう。反論すれば、別の悪意ある拡散が始まる。拡散している人たちは、善意の人たちだ。新しく広がる情報の精査をしている間に次の悪意が拡散される。
マスコミと警察が認識しているだけで、”悪意の拡散”に寄る自殺者はついに1,000人を越えた。認識していた自殺者も居るのだろう。
誰もが被害者で誰もが加害者だ。
ついには、物品の過不足まで拡散され始めた。
最初は、地方銀や都市銀の各銀行の資本比率の情報が金融庁から出たのがきっかけだった。資本比率は銀行の体力を示す。確かに情報としては正しい。資本比率が低い銀行は合併するリスクがあると情報が拡散された。株価が下がると資本比率が低い銀行から倒産するリスクが高まるという情報だ。
銀行へ取り付け騒ぎに発展した、いくつかの地方銀と一つの都市銀が倒産した。バタバタバタと連鎖倒産が発生した。地方銀に頼っていた企業も大量に倒産した。政府は支援策を出すが、銀行ばかり優遇するのか?大企業ばかりが優遇するのか?悪意が拡散された。
誹謗中傷に近い情報も流れる。
皆が情報に翻弄される。地方の都市の一つが拡散された悪意で壊滅的なダメージを受けた。
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人口1億人を越えていた状態から、拡散された種が芽吹いたときには1億人を割り込んだ。
死因の第一位が自殺になり。情報に踊らされた人々の狂気は殺人を許容するようになるまで4年の歳月しか必要としなかった。
武器を持った警察隊や自衛隊がデマを拡散した者たちをテロと同じ行為だと断罪するというデマが拡散されて、人々は自分を守るために武装した。
そして、国中に咲き誇る情報花の紫陽花は青く美しく咲き誇って居る。
人口は今月末には5,000万人を切るだろう。まだまだ悪意は止まらない。
風で飛ばされた新聞には、8年前に起きたイジメの加害者たちの首が被害者の墓前に置かれていたと告げるニュースが書かれていた。
「どうする?」
「どうするも、提案書は出したのだろう?」
「提出した」
俺は、システム屋のプログラマをしている。
社長にはしっかりと説明して、俺の肩書はプログラマになっている。人が少ない零細企業なので、プログラマでも仕様書も書けば、客先に提案を持っていく、それだけではなくメンテナンスからハードウェアの修理まで何でもこなす。
今日は、以前から話が社長の所に話が来ていた、大規模システムのプレゼンを行う日だ。
「行くしか無いか」
「すまん。無駄な時間だな」
俺のボヤキに社長は謝罪の言葉を口にする。
「いいですよ。俺しかわかる人間が居なかったのですから」
「負担ばかり増えてしまっているよな?」
「大丈夫です。これも仕事です」
「そうか」
「それよりも、社長。この仕事が取れたらどうします?馬鹿みたいな規模ですよ?」
「ハハハ。それこそ無理だろう。大手が持っていくだろう?おこぼれで十分だ」
「そうですね。でも、確かにこのメンツに入れただけでも大金星ですよ。どこを貰いましょう?」
「谷。それで、何人月の見積もりだ?」
「社長・・・。見てないのですか?」
「俺が見てわかると思うか?」
「そうですね。680人月です」
「は?」
「だから、680人月です。単価は、120で出してあります」
「ちょっと待て!谷。数字がおかしくないか?」
「いえ、おかしくないですよ」
「予備見積もりの時には、300人月だったよな?」
「えぇそうです。先方からの要望を入れた結果です。よくプレゼンに呼ばれましたよ。絶対に呼ばれないつもりで作った見積もりなのですけどね。これに、ハードウェアとソフトウェアのライセンスとサーバとメンテナンスを別枠で書いてありますが、概算です。保守も要望プラスアルファで積み上げてあります。保守は先方常駐で1割。待機で1割。予備で1割です」
「谷。金額ベースだといくらだ?」
「え?知りたいですか?」
「是非教えてくれ」
「81,600万です。概算部分は29,511万としています。数字合わせですけど、合計111,111万です。保守はハードウェアとソフトウェアとサーバを除いて、初年度は24,480万です」
「はぁ?お前。馬鹿だろう?どう考えても無理な金額だろう?」
「えぇそう思いますよ。受けたくなかったから出した見積もりだったのですけどね??なんでプレゼンに呼ばれたのでしょう?」
巨大プロジェクト。
従業員10名程度の会社が受けられる規模ではない。そんなこと、自分たちでわかっている。
300人月の仕事だとしても、全員で取り掛かっても、30月かかる約3年だ。その間に他の仕事が出来ない。支払い条件に寄っては手弁当で3年間過ごさなければならない。社長には悪いが仕事が採れた瞬間に会社が潰れる未来しか見えてこない。だから、絶対に通りそうもない規模の見積もりを作成した。
金額を裏付ける資料はしっかりと作った。
プレゼンは真剣に行う。俺たちは、顧客に対するプレゼンではない。同じ土俵に上がった大手SIerに対するプレゼンなのだ。どこでもいいので、SIerが受注した後で値段交渉が行われるのだろう。そのときに、俺たちが出した高めの見積もりが意味を持つはずだ。
SIer は1円でも高く受注した。顧客は1円でも安く発注した。その鬩ぎ合いが行われる。俺たちの出した見積もりをSIerは盾にも鉾にもするはずだ。そして、一部でも俺たちに仕事を回してくれる。このときに単価が生きてくる。120と出している。俺たちの規模の会社の単価ではない。直請けでも100か110が妥当だ。2次受けなら80でも高いと言われる可能性がある。120で出しているので、SIerは俺たちに出す仕事は顧客に見える場所では、120か130だと定義するはずだ。そして、俺たちに適正価格である80で出してくる。少しだけ粘れば90くらいにはなるだろう。それでも、SIerは30が何もしないで懐に入る計算になる。出す仕事の規模に寄るが、3人/月で2年間仕事を行えば2,160万の利益が見込める。バッファーを作ることができるのだ。
俺たちの狙いは受注するSIerに技術力を示して、仕事を流してもらおうとする行為だ。
プレゼンを行う会社に到着した。
受付で社名を告げると、何度かやり取りをした主幹会社の責任者が現れた。
大規模なシステム開発ではよく行われる話なのだが、顧客が自社内にシステム部門を持っていても、システム屋やSIerと全面的なやり取りができるわけではない。そのために、懇意にしているシステム屋に声をかける。
声をかけられた会社は、顧客側に立って話を進めるのだ。アドバイザー的な役割を行う。メンテナンスや保守管理は、システム完成後に引き渡して主幹会社が業務と美味しいところを持っていくのが一般的だ。しかし、この主幹会社はすでに顧客とのコンサル契約を結んでいるために、保守やメンテナンスも全部含めたプレゼンを行う話になっている。
「谷さん。本日はよろしくお願いいたします。弊社も、御社に期待しているのですよ」
「すみません。緊張して早く来すぎましたか?」
「そうですね。時間まで30分ほどあります。準備をしていただいても構いませんが、谷さんの所はトリになっています」
「最後なのですか?」
「えぇそうですが?」
「事前連絡では、3番目となっていたので、少しびっくりしてしまいました」
「そうですね。今回は、顧客からの要望と他社さんの都合で順番が変わってしまいました」
「いえ、構いませんよ。今日は何社ですか?」
「5社です。お伝えした通り、プレゼンは60分程度でお願いします」
「承知しております」
「部屋は使えますので移動しましょう」
「わかりました。お願いします」
会議室は思った以上に広かった。
100名位は入られるだろう。前面にあるスクリーンと手元にあるタブレットが連動しているのだろう。
「そこを、お使いください」
示された席には、俺の名前と社長の名前が書かれた札が置かれている。周りも同じように名札が置かれている。
やられた!
これは、出来レースだ。
担当者が席を外した。広い会議室には、俺を社長だけになった。パソコンのセットアップをするフリをして周りを見る。カメラは存在しているが手元を撮影していない。これなら大丈夫だ。WIFIは使っても大丈夫だと言われたが、自前のテザリング回線を使う。
『社長。途中で帰ってください。それから、俺からのメッセだと知られないようにしてください』
『どうした?』
『出来レースです』
『そうなのか?』
『はい。名札を見てください。1つ以外は中小です。プレゼンと入札を行ったというアリバイを作りたいのかも知れません』
『それなら俺が居ても問題ないよな?』
『いえ、最後に大手は必ず全部の会社を巻き込もうとします。そのときに社長が居ると回答を求められます。俺たちの番になる前に会社から電話をさせて抜けてください』
『巻き込まれるのなら予定通りではないのか?』
『事情が違います。単価60や50で出している会社が居ると』
『そうか、工数でやり取りして、単価を安くして』
『規模の割に納期がキツめだった理由が分かりました。火付け案件です』
『どうする?』
『全力でプレゼンを行います。合流を求められたら”社長が居ないので即答できない”と返事します』
『わかった。できることはあるか?』
『社長にこの話を持ってきた人に連絡してください。できればすぐに俺に連絡するように言ってください』
『わかった。話を持ってきたのは、宮腰先生だぞ?お前も知っているよな?』
『はい。存じております。俺から連絡して問題ないですか?』
『ちょっと待て、まだ余裕はあるよな?』
『はい。大丈夫です』
『連絡する』
社長は軽く肩を叩いて会議室から出た。
思った通り担当は表で待機していた。社長は喫煙所の場所を聞いて移動した。先生に連絡をしてくれるのだろう。
5分後に俺のスマホがなった。宮腰先生からだ。すぐに折り返すと伝えて、主幹会社の外に出た。プレゼン開始まで20分ある。事情を確認するには十分な時間だ。
「先生。谷です。お忙しい時間にもうしわけありません」
『いいよ。それで?松田君が怒っていたけど何があったの?』
現状と俺の推測の上での考えを伝えた。先生は黙って俺の話を聞いてくれた。プレゼンなんかよりも緊張した。
話が終わったときに、先生から5分だけ待つように言われて、電話が切れた。
4分後、知らない番号から電話が入った。
先生関係者なのは間違い無いだろう。電話に出て驚いた。
すべての事情がわかった。
最悪の予測が当たってしまった。
本来なら、1年後に完成予定だったのだ。それを1年伸ばして、システム会社を飛ばして新しい技術を使って納期の短縮を行うと説明されていたようだ。
主幹会社と大手SIerからの提案のようだ。今日のプレゼンでは、金額面は”受けるのなら”という前提がついていると説明されていたようだ。技術力を持っている会社を集めてシステムのプレゼンを行うと言われていたようだ。
今更テーブルをひっくり返せない。
説明を聞いて、こちらが聞いている情報を伝えた。プレゼンの開始を2時間遅くしても問題ないかと聞かれたので、問題ないと答えた。
一旦電話が切られた。社長が走り寄ってきた。
「谷!」
「大事になりそうです」
「だな」
プレゼン開始の10分前になってテーブルがひっくり返った。
俺は、ハイヤーで到着した先生と一緒に顧客が待っている喫茶店に向かった。
大どんでん返しだ。俺が顧客側の立場になってシステム全部の面倒を見なければならなくなった。いわゆる、主幹となった。当初からプロジェクトに関わっていた、SIerと大手システム屋は切られた。主幹会社も全部のシステムから手を引くことになった。
そして2年後・・・。システムは無事に動き出した。
しかし、俺はベッドの上だ。首を切られた主幹会社の担当者に刺されて入院している。
覚えている。
キミが居なくなってから、10年が経ったよ。
僕が、キミが居ない10年を過ごしてきた。もうすぐ、キミの所に行ける。
10年前のセリフの返事をするよ。
あの時には返事が出来なかったからね。
”僕は、キミが今でも好きだ”
ねぇキミ達は、なんで僕から彼女を奪ったの?
ねぇこの10年。キミ達は幸せだった?
ねぇ僕はこの10年。充実していたよ。キミ達を探していたからね。
ねぇ何で黙っているの?キミたちが彼女を僕から奪ったのだよ?
キミたちを探すのは簡単だったよ。
僕は彼女と電話していたからね。
彼女は、10年前に僕に聞いたよ。
”ねぇ今でも私のことが好き?”
僕はね。彼女の問いに答えられなかった。キミたちが邪魔したからだよ。彼女の悲鳴が、僕の返事をかき消した。
ねぇなんとか言ってよ。黙っていたらわからないよ?
腕の一本くらい気にならないでしょ?だって、僕は10年間苦しんだよ。彼女を助けられなかった。お義母さんを助けられなかった。お義姉さんを助けられなかった。すぐに、キミたちを殺したかったよ。でも、出来なかった。僕では力が足りなかった。
10年もかかってしまったよ。体力を付けた。
ほら、キミの腕くらいなら簡単に折れるよ。いい音だね。そんな叫ばないでよ。彼女やお義母さんが止めてと言って止めた?止めてないよね。
なんで、キミたちがしなかったことを、僕がしてあげる必要があるの?
キミたちを助けても僕の10年は戻ってこないよ?彼女を返してくれるの?お義母さんを返してくれるの?お義姉さんを返してくれるの?
ほらここをよく見てよ。キミの汚い鼻血で、10年前に彼女に貰ったズボンが汚れちゃったよ。どうしてくれるの?
後9時間。
まだまだ楽しめそうだね。
キミたちに、僕が苦しんだ10年間を味わって貰うよ。
そのための準備もしてきたよ。10年は長かったけど、短いね。
キミたちが楽しめるように、遊びの方法を考えるのは楽しかったよ。
え?ただ、腹を思いっきり蹴っただけで泣きそうなの?
キミはお義母さんに何をしたの?彼女を逃がそうとしただけで、刺したのだよね?
キミはお義姉さんを犯したのだよね?
彼女が、自殺したのを誤魔化すために火を付けたのだよね?
大丈夫。最後は、彼女とお義母さんとお義姉さんと同じようにしてあげる。ゆっくり、煙が出ないように焼き殺してあげる。
ハハハ。
10年だよ。僕は、やっと彼女の所に行ける。
やっとだよ。
”ねぇ今でも私の事が好き?”
”好きだよ。僕は、何でもキミを好きになる”
今年で、10年が経った。
いつまでも引きずっていてはダメだと周りからは言われる。俺も、それは解っている。今年で、26だ。結婚した友達も出始めている。
俺は、まだキミを探してしまっている。
10年前。俺とキミは、約束した。幼い感情からだったかも知れない。でも、キミも喜んでくれた。バイトして貯めた指輪も受け取ってくれた。
二人で過ごした夜。そして、朝になり、キミは家に帰る途中で、俺の手が届かない場所に旅立った。
キミと過ごした最後の日が、俺の誕生日になるとは思っていなかった。
俺は、眠るように横になっているキミを10年前に見ている。火葬されるキミを見送った。お義父さんとお義母さんに混じって、最後にキミを持ったのも俺だ。
しかし、俺は、この10年。キミを忘れられない。
お義父さんとお義母さんからは、キミを忘れても恨まないと、三回忌が終わってから言われた。
涙を流しながら、俺に謝ってきた。
七回忌では、お義父さんに怒られた。
”娘に依存するな”
俺は、キミに依存しているのか?
キミが居ない現状が10年経っても、夢なのだと思えてしまう。
キミが起きない10年間で、俺は3649回も起き上がっている。起きて、キミが居ない現実を知って絶望する。キミがお腹が空かないのに、俺は空いてしまう。キミのしたかった仕事を俺はしている。
このまま寝て、朝に起きなくて、迎えに来てくれていると嬉しい。
俺は、10年間の思い出を10年かけてキミに語るよ。キミの見ていた10年を教えてよ。
”おやすみ”
そうか、明日は俺の誕生日か・・・。キミに祝ってもらった10年前に戻りたいよ。
---
”ぴっぴぴっぴっぴぴっぴっぴぴ”
え?メール?なんで?
キミからのメール?ほら、やっぱり、キミが居なくなったのが夢だった。これが現実だ。俺を起こすためのメールだろう?唯一変えなかったキミの連絡先だけが登録されている携帯電話。電池も使えなくなり、常に充電状態でなければ駄目だ。
俺は、キミからのメールを確認する。
---
私の愛する人へ
10年経ったね。貴方の隣に私は居ますか?
私は、10年後も貴方を愛します。愛しています。
10年後の私は、貴方が好きだと言った私ですか?文句はないですか?
私が、隣に居たら、このメールを見せてください。きっと恥ずかしがるでしょう。
子供は居ますか?27歳の私は、しっかり仕事をしていますか?
貴方との約束を守っていますか?
守れていなかったら、ゴメンなさい。10年前の私が代わりに謝ります。
私が貴方の隣に居なかったら、私を忘れてください。でも、私が貴方の隣に居たら抱きしめてください。
私は、雪が嫌い。私から、母さんを奪った雪が嫌い。同じくらいに、父さんが嫌い。
本当は解っている。母さんを殺したのは、私だ・・・。雪ではない。
私が、初めて無断外泊をした日。母さんは、死んだ。
私が住む地方では珍しく、その日は雪が振っていた。当たり一面を白く染め上げるくらいの雪だ。私は、地面に降り積もる雪に、自分の足あとが残るのが嬉しくてテンションが上がっていた。友達に誘われて、遊びに行った。スマホも携帯もそれほど普及していない時だ。家には連絡をしなかった。小さな・・・。小さな・・・。そして、大きな反抗だ。私は、夜に帰ればいいと思っていた。しかし、降り積もった雪で交通機関は麻痺して、朝まで帰ることが出来なかった。
帰りは、迎えに来た友達のお父さんに車で近くまで送ってもらった。
汚れた雪が道路に轍を作っていた。
父さんに怒られるだろう。母さんに心配をかけただろう。
家の門扉が見えてきた。門扉の前は、汚れた雪が踏み固められている。門は簡単に押すことが出来た。門から、家の玄関までの5メートルが遠かった。
下を向いて、歩いた。所々雪が残っている。踏み固められた雪だ。
「美月!」
「・・・」
玄関を開けると、父さんが座っていた。
私の顔を見て、いきなり手を振り上げた。びっくりして、よろめいてしまった。尻もちを付いた私を父さんは上から見下ろしている。
「付いてこい」
「え?」
「付いてこい」
父さんは、慣れない雪道に悪戦苦闘している。どこに向かうのかも教えられないまま、1時間が経過した。
普段なら、10分程度で到着する病院が目的地だ。
何も喋らない父さんの態度が気に入らなかった。
父さんは、緊急搬送の窓口の近くに乱暴に車を停めた。邪魔にならないように、花壇に突っ込む様な停め方だ。
「降りろ」
普段から、ぶっきらぼうの父さんが怖かった。
怒っているわけではない。でも、父さんの態度が、言葉が、雰囲気が、そして考えたくない予想が、怖かった。
父さんは、窓口に居る看護師に名前を告げる。そして、車の鍵を渡している。
「行くぞ」
私の方を見ないで、父さんはどんどん先に行ってしまう。
私と父の距離が開いていくのがわかる。急ぎたいけど、行きたくない。父さんは、地下に降りた。
「ここだ」
また、父さんは私を見ない。私は、父さんの背中と汚れた靴が付けた足あとだけを見ている。
(あぁぁぁぁぁぁ・・・・)
母さん・・・。
「母さんは、駅まで行こうとして、大通りでスリップした車に跳ねられた」
「・・・」
「綺麗だろう。雪が振っていなければ、骨折だけで済んだかもしれない」
「・・・。母さん・・・」
「雪が、雪が悪い。雪が・・・」
父さん。なんで、こっちを見てくれないの?
私が悪いの?朝帰りなんかしたから・・・。駅までって母さんは・・・。なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?
気がついたら、私は、ベッドで横になっていた。
---
母さんの死から、私たちは家族ではなくなった。ただの同居人になった。
母さんの三回忌。
私は、けじめとして父さんに1人の男性を紹介した。
父さんは、びっくりした顔をした。
その後で呟くような声で、彼に言葉を紡いだ。
「美月を頼む。本当に・・・。よかった」
彼は、父さんと私のために、ホテルのディナーを予約してくれた。その日は、ホテルに宿泊する予定になっていた。父さんには、照れくさかったのもあるが招待状を送った。
時間になっても父さんが現れなかった。そこまで父さんに嫌われているのかと落ち込んでしまった。
「美月。お父さん、雪で来られなかったのかしれない」
「それなら、連絡の一つでも入れてくれれば・・・。雪も、待ち合わせの時間には・・・」
「しょうがないよ。明日、ご実家に行こう。僕も、お父さんに文句を言うよ」
「ううん。私が嫌われているだけ・・・。貴方まで嫌われなくていい・・・」
「違うよ。美月。僕が、お父さんの真意を知りたいだけ・・・。だから、僕とお父さんで話をさせて欲しい。駄目かな?」
「・・・。わかった」
ホテルの窓から見える町並みは、雪化粧がされている。汚い心を隠してくれる。
「(雪は嫌い。私から、奪っていく・・・)」
「え?なに?」
「なんでも無い。シャンパンがもったいないから飲もう」
彼の腕に捕まりながら、綺麗に雪化粧された町並みを見ている。。
翌日、ホテルの前は綺麗に雪がどかされている。
子供が付けたのだろうか、雪の山には小さな足あとが付けられている。
彼が運転する車で、実家に向かった。
父さんに文句を言うためだ。
しかし・・・。家に、入ることが出来なかった。
彼の運転する車で、私は母さんと再会した病院に向かった。出迎えてくれたのは、若い警官だった。森下と名乗った警官は、事情を説明してくれた。
父さんは、5年前から脳に病気を抱えていた。
だから、3年前のあの日・・・。父さんではなく、母さんが駅まで行って事故にあった。
言ってくれなかった父さんに腹がたった。父さんの病気を教えてくれなかった母さんにも文句が言いたくなった。父さんは、病状が悪くなっていくのに病院には行っていなかった。いつお迎えが来てもいいと思っていたようだ。そして、私が結婚すると告げて、肩の荷が下りたのだろう・・・。母さんが眠る寺の住職が教えてくれた。
住職は、倒れた父さんを病院に搬送してくれた。父さんは、お寺から家に帰って着替えをして、ホテルに向かおうとしてくれた。でも、玄関を出て、数歩歩いた所で倒れた。倒れた所を訪ねてきた住職に発見された。
住職に父さんのことを教えられた。
父さんは、毎日、それこそ、雨の日も雪の日も母さんの墓参りをしていた。
墓は、父さんの一存で奥の人気がない場所に作られていた。母さんが眠る場所は、春になると桜が咲く綺麗な場所だ。墓が汚れるために、不人気だと住職が笑っていた。
昨日の昼過ぎから振り始めた雪は、今日の朝には止んでいる。父さんは、住職に挨拶をしてから母さんの墓に向った。雪の降り始めに父さんはお寺に来ていた。住職に嬉しそうに私の結婚が決まったと話していた。そして、これで、母さんの所に行けると喜んでいた。
重い足取りのまま、住職に教えられて、母さんの眠る場所に向った。
「美月!?」
「なに?」
彼が、地面を指差す。
そこには、片方を引きずったようになっている足あとが残されていた。雪の上に一つだけ残された足あと・・・。それが、母さんの墓まで続いていた。
母さんの墓石の雪は綺麗に落とされていた。
墓石の前には母さんが好きだった花と私が好きな花が並べて置かれていた。小さなひまわりの花。この季節の花ではない。
父さんが立っていたのだろう、一部だけ地面が露出している場所がある。父さんは、雪の中で何時間も母さんと話をしていたのかもしれない。
「美月。これを・・・」
彼が、線香を持ってきてくれた。
彼から、火が付いた線香を受け取って母さんに捧げる。燃え尽きた、父さんが置いた線香の上に・・・。
母さん。父さんは、迷わずに母さんの所に向った?
まだ3年だから、母さんの足あとは残っているよね?
「美月」
「あっうん。ありがとう」
彼が、住職と話をして葬儀を取りまとめてくれる。
父さんの仕事関係者が挨拶に来てくれた。
彼は、子供のときに両親を事故で亡くしている。彼は、父親と母親を知らない。彼にとっては初めての父親になるはずだった父さん。
葬儀が終わって、初七日が過ぎて、婚姻届を提出した。
彼は父さんに名前を書いて欲しかったと言っていた。彼の上司と住職が名前を書いてくれた。
そして、彼と私は家主が居なくなった私の生家に戻ってきて生活を始めた。
彼は、父さんの足跡を辿るように、父さんが使っていた仕事部屋を使って、父さんと同じ仕事を行うようになった。彼の上司が父さんの知り合いだったことも影響していた。
母さんの十三回忌が終わった。
私たちは子供には恵まれなかった。
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明日は、父さんの十三回忌だ。代替わりした住職にお願いしている。
彼との間には子供には恵まれなかった。彼は気にしていたが、私はそれでもいいと思っていた。
『美月。大丈夫なのか?』
今日は、仕事の関係で外に出ていた。あの日のように、雪が振ってきた。13年ぶりの雪だ。朝に振っていた雨が昼過ぎに雪に変わった。
「うん。タクシーで帰るから大丈夫。あっスマホの充電を忘れちゃったから・・・。連絡が出来なかった。ごめん。先に寝ていて・・・」
『解った。でも、無理するなよ。遅くなるようなら、近くのホテルに泊まって、明日の朝にでも帰ってこい』
「うん。ありがとう。仕事に戻るね」
雪が周りを白く染めていく、客先から見える道路は白くなり、通行人の足あとだけが残されていく。
13年ぶりに積もった雪は交通機関を麻痺させるだけの威力があった。スマホの電池はすでに無くなっている。彼に連絡をしようにも出来ない状況になってしまった。タクシーを待つ長い行列。
終電を過ぎた時間になって、やっとタクシーに乗ることが出来た。車で20分程度の距離が今日は遠かった。
タクシーに乗った。タクシーの運転手にお願いしてスマホを少しだけ充電させてもらった。彼にメールで、タクシーに乗ったことを告げた。寝ている可能性もあるので、電話はしなかった。スマホの電源を落として、目を瞑った。
「お客さん。お客さん」
タクシーが止まっている。
どうなら、これ以上は奥には入っていけないようだ。途中で車が立ち往生しているようだ。反対側は渋滞がひどくて、回り道をしたら、数時間かかってしまいそうだと教えられた。5分も歩けば着けるだろう。タクシーに料金を支払って降りた。
雪はすでに止んでいる。
道には、家路に向かう足あとだけが残っている。立ち往生している車も諦めたのか、運転手はすでにいない。レッカーを頼んだが、忙しくて、まだ来てくれないようだ。説明と連絡先が書かれたメモが残されていた。
車を避けて、歩くと白い道は何も汚されていない。足あとさえも付いていない。後ろを振り向くと、私の足あとだけが残されている。
門扉が見えてきた。
雪は3センチ程度積もっている。道は、雪で白く化粧されている。朝出したゴミがまだ残されている。
家には明かりが灯っていない。
彼は寝てしまったのだろう。そう思って、門をゆっくりと音がしないようにゆっくりと押し開けた。
あっ・・・。
彼かな?家から、門扉までに足あとが、沢山・・・・。
彼の足あと。
雪を踏み固めた、ただの足あと、玄関から門扉までは、歩幅が広い足あと。門扉から玄関までは・・・。
「美月!」
「え・・・・。あっ・・・」
「おかえり、心配した。寒くない。大丈夫だったか?」
「うん。大丈夫。近くまでタクシーで・・・。あぁ・・・。そうか・・・・。(父さん)」
雪と泥で汚れた靴を見て思い出した。
母さんの所に向かう父さんの靴も同じように汚れていた。病院に、足あとが残るくらいに・・・。そして、玄関から門扉まで続いた踏み固められた足あと・・・。
玄関で座って待っていてくれた。雪が溶けて水たまりのようになっている足あと。彼と同じようにタオルを用意して、心配して待っていてくれた父さん。母さんの所にすぐに向かいたかったと思うのに・・・。私の帰りを・・・。心配して待っていてくれた・・・。
私は、父さんの愛情に気がついていなかった。
雪の上に残された愛情を・・・。
「ねぇ明日・・・」
「ん?」
「なんでもない。父さんに謝らないと・・・。そして、母さんと父さんに”ありがとう”を伝える」
「そうだね。美月。寒いから、家に入ろう。お湯は冷めてしまったかもしれないけど、お風呂を入れよう」
「うん。ありがとう。それから、父さんが好きだった、お酒・・・。あるよね?少しだけでいいから付き合ってよ。貴方に聞いて欲しい話がある」
「わかった。いつまでも付き合うよ」
「あのね。父親の愛情に気がつかなかった愚かな娘の話・・・」
父さん。今頃になって・・・。ごめんね。
でも、ありがとう。大好き。
「あき!先に帰るね」
「うん。お疲れ様」
「うん。あきも無理しないでね」
「解っているよ。インターフェース部分のエラーが無くなったら帰るよ。週末は、頼むね」
「わかっているよ。あき。お疲れ様」
泉が、私が座っている場所以外の電気を消す。
タイムカードを押す音が響いて、扉が開く音がする。
エレベータが到着する音が響いた。
これで、このフロアに居るのは、私だけだ。
明日から、来週の月曜日まで、会社を休む申請を行っている。
ふぅ・・・。
煮詰まってしまったコーヒーを流し込む。舌と喉が刺激されて、眠かった感情が強制的に覚醒される。
そういえば、このインターフェースの編集を行うのは・・・。
時計を見る。
終電には余裕がある。明日は、昼に起きれば間に合う。それに、このインターフェースの修正をしておかなければ、チーム全体に遅延が生じてしまう。部長も、今日になって変更を言わないで欲しかった。
ラッパーで対応するしかない。プロパティの追加は却下された。そうなると、引数を調整できる方法で対応するしかない。
配列を受け付けるように変更して・・・。
これだけじゃだめだ。返り値の調整も必要になる。書き出した感じだと、4つのラッパーが必要になりそうだ。
週明けまでの4日間。作業が止まらなければいい。
APIの中身は、後回しにする許可は貰っている。テスト開始まで、まだまだ余裕がある。連結までに、中身を完成させればいい。
私のデスクだけが照らされた会社で、作業をしている。
窓に映し出される私は、あの頃と何も変わっていない。
変わったのが、作業をしている場所でも、作業の内容でも、私の容姿でもない。
正面に座って、私を見てくれる視線が無くなった。残業の時に、照らされるデスクが私だけになった。
配属が決まった時に、同期や先輩から、”ご愁傷様”と暖かい激励の言葉を貰った。
言葉に嘘偽りは無かった。
上司を一言で、表すと、”変人”だ。変人だった。
ただの変人ではなく、頭に”天才だけど”がついてしまう。詳しくは知らないが、変人が作ったモジュールが会社の業績を一気に押し上げた。関連の仕事が舞い込むようになって、赤字寸前のIT会社がセキュリティのしっかりとしたビルの2フロアを占有できるまでに成長した。
会社は完全フレックス制で、13時から14時のコアタイムに出社していればよかった。変人は、13時に出社して、深夜まで作業をして始発で帰るような生活をしていた。一応、私には気を使って、終電で帰るように言ってくれていた。
本当に変人だ。他にも、事例を上げたらキリがない。
変人が使っていた開発用のパソコン。
もう動かなくなってしまっている。専門家に見せても、動かなくなってしまった理由は解らない。すべてのパーツを単体で試せば、動作してしまう。しかし、すべての合わせると動かない。HDDは、マザーボードに付与されているキーで暗号化されている。変人が使っていたパソコンは、私物だ。
変人が使っていた席もパソコンも、年度末で片づけることが決定している。
終電の時間に間に合わなかった。
「全部、貴方のせいですよ。私が、一人で残業しているのも、慣れないインターフェースの修正を担当しているのも、全部、全部、貴方の責任です。本当に、勝手な人。こんなに、好きにさせておいて、勝手にいなくなるなんて、ねぇほら、はやく生き返りなさい。今なら、変人だからで許してもらえるわよ」
変人の使っていた、動かなくなったパソコンの電源を入れる。
ファンが回りだすが、それだけだ。電通は確認している。マザーボードにも問題はなかった。でも、動かない。
本当に、変人が使っていたパソコンだ。壊れ方も異常だ。
あっこれは、いつもの夢だ。
会社で仕事をしていると、変人が話しかける。
「美穂さん」
ほら、そこで変人は私の作成した所の修正箇所を告げて来る。
変人が居なくなってから繰り返される夢。
夢だと解っていても、変人を目で追ってしまう。
ほら、今回も同じ。
注意される箇所も同じ。
私の返事も同じ。
そして・・・。翌日になって、修正したモジュールを提出しようとするが、変人は会社に来ない。
解っている。
時計を見る。目覚めたい。ここで、目が覚めれば、同じ苦しみを感じることはない。
でも、無常にも15時37分。
会社の電話と、同時に私のスマホにも着信がある。知らない番号だが、覚えてしまった番号だ。
出たくない。
でも、夢では出てしまう。
そして、変人が通り魔に刺されたこと、病院に運ばれたことを知る。
会社の電話も同じだ。
私は、部長からすぐに病院に行くように言われる。覚えていない。走ったことだけは覚えている。夢だ。これは、夢だ。でも、夢じゃない。
私が病院に到着した時には、変人には会えない状況だ。
会社に電話を入れる。自分が、何を言ったのか覚えていない。思い出せない。夢でも、部長の言葉だけだ、耳に残る。
「一緒に・・・」
部長が何を言ったのか解らない。解らない。でも、”一緒に”だけは耳に残っている。
そして、深夜になる。
警察病院に移動する。
地下に誘導されて、白い布を掛けられた変人と対面する。
胸に縋りついて、思いっきり叩いた。怒って起きだすと思った。何度も、何度も、名前を呼び、胸を叩いた。警官が止めるまで、叩き続けた。手から血が滲んできても叩き続けた。起きてきてくれると信じていた。
でも・・・。
そこで、目を覚ます。
自分の涙で、枕が濡れている。
悲しいのに、哀しいのに、夢以外では涙が出ない。
変人が言っていた。
苦しい時ほど”笑え”。客先で、プレゼンに失敗した時に、頭を撫でられながら言われた言葉だ。ほぼ確実だと言われた、プレゼンで失敗した。仕事が競合に取られそうになっているのに、笑えない。
私のせいで・・・。変人は、それでも”笑え”と言った。ミスは、ミスだ。すまなそうな表情をしても、ミスは取り返せない。そんなくだらないことをするくらいなら、考えろ。”考えて、考えて、それでもダメなら、笑え!”そういって、変人は笑った。
その日は、客先から私は部屋に帰った。変人が、会社に寄る用事があるからと・・・。嘘だった。変人は、会社に戻ってすぐに、プレゼンの失敗を取り戻す方法を考えて実行していた。週明けに出社した私は変人と一緒に部長に呼ばれた。叱責されるものと思っていたが、褒められた。
失敗したプレゼンだったが、先方から仕事を頼みたいと連絡が来たそうだ。
変人が嬉しそうに告げる。
「よかったな。見ている人はいる。でも、慢心しないで、頑張ろうな」
”はい”と答えるのが限界だった。
解っている。私のミスは、絶望的だ。でも、仕事に繋がったのは、変人が何かをしたのだろう。プレゼンのミスを帳消しにするくらいの何かを・・・。
部長の前から、席に戻る途中で、涙が溢れ出そうになる。私は、笑えたかな?涙を堪えて、笑えたかな?
結局、変人のデスクで寝てしまった。
始発の1時間前に起きられたのは僥倖だ。作成した部分をコミットして、ポータルに結果と注意事項を書いておく、休むと言っても、咎められないのは解っている。荷物を受け取りに行くだけだ。でも、部長からは休めと言われた。
「笹原さん。貴方が生きていたら、私がこんなに苦労をしなかったのですよ?」
文句を言いたいのは、変人も同じだろう。理不尽に、無慈悲に殺された。通り魔は、翌日に捕まった。ただ、受験に失敗したという理由で勝手に絶望して、自殺が怖いという理由で、”死刑”になるために、人を殺した。誰でもよかった。殺せそうな人間を狙った。
彼が証言した内容だ。裁判も傍聴した。結局、彼からは謝罪の言葉は聞けなかった。彼に殺されたのは、変人だけだ。変人が、刺されながらも、彼を殴り飛ばした。そして、彼が持っていたナイフを刺されながらも離さなかった。そのために、彼は逃げ出した。変人が、他の人の命を救った。
変人が、あの日にあの場所を歩いていた理由は解らなかった。変人には似合わない。場所だ。変人は、始業時間の前に、銀座に行っていたのか?結局、この謎だけは解っていない。銀座に行かなければ、通り魔にも会わなかった。
約束していた時間に、到着した。
言われた通りに、受付で事情を説明した。
10分ほど待たされたが、あの日に私を案内してくれた警官が姿を表す。
「田村美穂さん」
「お久しぶりです」
「そうですね。遺品の受け渡しですが、すぐに受け取りになりますか?」
「はい。お願いします」
「わかりました、ついてきてください」
地下ではなく、3階に連れていかれる。
遺品は、証拠品として調べられた。その過程で、変人には家族がいない事がわかって、警察から会社に連絡があり、仕事の資料もあったことから、受け取りを頼まれたのだ。どうやら、変人の荷物の中に私宛の便箋があったことが、警察から連絡があった理由だ。
「便箋は、封がされていませんでした。失礼とは思いましたが、中身を確認させていただきました」
「はい。仕事の話だと思いますので・・・。サインは、これで大丈夫ですか?」
遺品の受け取りの説明を聞いて、書類にサインをする。
警察が補完していた証拠品を一つ一つ確認していく、変人が当日に何を持っていたのか解らない。解らないけど、いつもの荷物と同じだ。違うのは、便箋があることだけだ。
便箋の中身は、手紙とUSBメモリーが一つだ。
「あの・・・。USBメモリーですが、故障していると書かれていますが・・・」
「それは、複製の作成も不可能でした。中身の確認もできませんでした。なんらかの仕組みが組み込まれているとは思いますが、事件性はないと判断しました」
「そうなのですか・・・」
「落とされた時に壊れたのかもしれません」
「わかりました。ありがとうございます」
変人が最後に着ていた服も証拠品となっていた。ナイフで刺された場所や、犯人を殴った時に着いた血痕がある。この血痕のDNAが逮捕した犯人のDNAと一致して逮捕の決め手となった。
証拠品を受け取って、警官が荷物を入れた段ボールをもってくれる。
タクシーを呼んでくれることになった。このまま持っていくには、さすがに量が多い。
「田村さん。笹原さんは、会社ではどんな人だったのですか?」
タクシーを待つ間の雑談だった。
でも、警官は、変人の私が知らない変人の生活を教えてくれた。
タクシーが来て、荷物を載せてくれる。
扉がしまって、窓を開けて最後のお礼を伝えようとした。
「田村さん。余計なお世話かもしれませんが、笹原さんのお財布の中を確認してみてくださいね。慰めにはならないとは・・・。でも、笹原さんが銀座で何をしていたのかわかると思いますよ」
「え?」
タクシーが走り出して、警官に言葉の真意を聞けなかった。
部屋に帰って、変人の荷物を入れた段ボールを開ける。
変人と会話している雰囲気を思い出す。私の部屋に来た事はもちろんない。私の住所をしっていた可能性すらない。
でも、テーブルの向こう側に、変人がいつものように片足だけを椅子に載せて、座っている様子が見える。
そうやって、なんでも解っているような顔で、私を見ている。
そして、実際に私のミスを何度も助けてくれた。その都度、私を慰めてくれる。ミスした箇所ではなく、些細なことを褒めてくれる。ミスはしょうがない。ミスをした時の対応方法を教えてくれる。バグが消えない時には、方法を教えてくれる。そして、自分の仕事が終わっているのに、私がバグを修正するまで、何も言わずに見守ってくれていた。
変人の癖のある字だ。私も解読ができるようになるまで時間がかかった。本人は、自分で読めれば問題はないと言っていた。指示を出す文章では、しっかりとした字になるのに、メモはまるで暗号だ。それでも、字を読むだけで嬉しくなってしまう。
あれだけデジタルな人間の癖に、メモ用のノートを持ち歩いている。
アイディアが浮かんだら、すぐにメモを取るにはノートの方がいいと言っていた。だから、変人のスマホには必要最低限のアプリしか入っていない。カメラも使っていないと言っていた。
スマホの認証は、以前に聞いていたので知っていた。
ロックを解除する。電話帳の先頭は、会社だ。そして、私の名前が書かれていた。嬉しい。たった、それだけの事が嬉しい。そして、スマホには一枚の画像が保存されていた。私が、カメラを使わないのはもったいないと言って、無理矢理・・・。二人が映っている。変人が照れくさそうに笑っている。写真は、私が没収しておきます。いつか、この写真を見て・・・。本当の意味で笑える日が来るまで・・・。見守ってもらうために・・・。
そうだ。警官が言っていた、財布の中。
え?
これ・・・。引き換え?今日だ!
なんで?
これって、有名な・・・。変人が?
急いで、外出できる恰好になって、銀座に向かった。
一応、荷物の中にあった免許と、私の身分を証明する物と、警察から貰った証拠品の受取証を持っていく。
なんで?なんで?なんで?
変人が、ネックレスを買っている?受け取りは、今日になっている。そして、詳細が書かれている。そこには、プレゼント用になっている。誕生日プレゼントだと・・・。そして、その日付が明日。私の誕生日。イニシャルが彫られている。私のイニシャルと誕生日。
お店には、警察から連絡が入っていた。
受け取りも・・・。個室に通してくれた・・・。なんで・・・。なんで・・・。なんで・・・。涙が溢れそうになる。でも、ダメ。笑え。笑え。笑え。笑え。私は、笑えている?大丈夫。ネックレスを受け取る。
部屋に帰ってきて、便箋を開ける。
警官が言っていた通り、USBメモリーが入っている。
便箋の宛名は私だ。
え?うそ・・・。
”美穂。誕生日おめでとう。上司である俺が言うと問題がある。だが、言わないで後悔したくない。俺は、美穂が好きだ。付き合ってくれとは言わない。ただ、美穂の為にネックレスを買った。貰ってほしい。あと、俺が居ない時に、会社のパソコンにUSBを刺した状態で起動してみてくれ。笹原保”
居ても立っても居られない。
会社に電話をする。部長が残っていた。荷物を受け取ってきたことを伝えた。会社に関連する資料を持っていくと伝えた。もう帰る所だったようだ。タクシーを使えば30分で到着する。警備員に伝言を頼んだ。
タクシーを捕まえて、会社に急ぐ。
警備員は私を見ると、鍵を出してくれる。警備を切ってくれた。
お礼を伝えて、途中で買った飲み物を渡す。
会社は暗い。
誰も居ない。私と変人の机の上にある電灯を付ける。二人のデスクだけが、息を吹き返した。
徹夜をしている時に、電気を消して寝ている時があった。私が電気を付けると、眩しそうにして起きだす。今は、誰も寝ていない。座ってもいない。
パソコンに持ってきたUSBメモリーを刺す。場所も指定してあった。全面のソケットだ。
震える手でパソコンの電源を入れる。壊れて動かないと判断されたパソコンだ。BIOSの画面さえも出なかった。
ファンの音がする。いつもは、ここで止まってしまう。
USBメモリーが光る。何かを読み込んでいる?
BIOSが起動する。なんで?
パソコンが復活する。息を吹き返す。変人の変わったパソコンが、復活した。
なんで?私に、USBメモリーを渡す?なんの意味があるの?
BIOSが読み込まれた。
OSのローダーが起動する。OSの画面が表示・・・。されない。ローダーの最後に、私の名前が・・・。震える手で、自分の名前を選択する。
あぁ・・・・。
「美穂。面と向かって言える自信がない」
それから、パソコンの中に復活した変人は、私の名前を呼んで、告白をしてくれた。恥ずかしかった。嬉しかった。哀しかった。悔しかった。涙が流れてきた。
私のセリフは決まっている。パソコンの中に復活した変人に笑いかける。
「はい!保さん。私も、貴方の事が好きです」
保さん。私。笑えていますか?