「弘樹!」
同級生で、幼馴染の由紀乃だ。
「なに?」
「卒業前に、みんなでボーリングに行くけどどうする?」
「みんな?」
「そう、大志や弥生も一緒だよ」
うーん。ボーリングは魅力的だけど、僕は高校受験が残っている。
「ごめん。行きたいけど、受験がまだ有るからね」
「え?弘樹は、私立に受かっているよね?」
「うん。滑り止めだからね。本命は、商業だよ」
「そうだったの?」
「うん」
大志や弥生と家に来て、兄さんたちと受験の話をしていた。
「でも、私立なら、私と一緒に行けるよ?」
由紀乃の言葉が、少しだけイラッとした。
「はぁ?僕は、商業に入って、情報処理の勉強をしたいの?由紀乃と一緒に行くよりも、僕のやりたい事がある!」
「ごめん」
え?なんで、そこで謝るの?
僕が悪いの?
「弘樹。ごめん。もう誘わないね」
「受験が終わるまでは無理」
「うん。商業だと、佳奈と一緒だよね?」
「へぇ。そうなの?」
「う・・・ん。ううん。なんでもない。ごめん。変な事を言ったよね。忘れて。それじゃ受験頑張ってね」
「うん。ありがとう」
何がなんだかわからない。
わからないけど、由紀乃が悲しそうな顔をしていたのがわかった。
その原因が僕にある事も解る。でも、何が理由なのかわからない。
僕は、由紀乃を悲しませるような事を言ったのか?
会話を思い返してもよくわからない。
部屋に返ってから、勉強をしていても手に付かない。
由紀乃の泣きそうな顔が頭から離れない。
今は受験に集中しないとダメだ。
受験が終わったら、謝ろう。
---
受験が終わった。
面接も問題はなかったと思う。伯父さんが商業出身だったので、想定される面接や学校の事を教えてもらった。
想定していた質問は来なかったけど、落ち着いてやれば問題ないと言われていた。
面接が終わって、部屋から出ていこうとした時に面接官に声をかけられた。
そんな事は想定していなかったので、パニックになりかけたのだが、常に見られていると思えと言われていたので、取り乱す事なく立ったまま質問に答えた。
自分でもよくできたと思う。
筆記試験も大丈夫。自己採点では、8割はあっている。
同じ商業を受験している、佳奈や努や康生とも答え合わせをした。
先生からは、自己採点で7割は必ずクリアしろと言われている。
全教科8割はクリアした。理科と数学と社会は、9割を越えている。
これで受験も終わった。
由紀乃に謝ろう。メッセじゃなくて、直接会って謝ろう。
---
家に帰って来て、すぐに由紀乃の家に行こうかと思ったが、夕方になっていたので、明日行こうと考えた。
大志と弥生からは、受験の様子がどうだったのかを聞かれたので、簡単に説明をして、合格できそうだと返事をした。
「弘樹!どうだった?」
「ん?問題はないと思うよ?」
「そうか、発表は何時だ?」
「再来週の月曜日」
「そうか、俺も夏帆も仕事だな」
「いいよ。1人で見に行ってくるよ」
「オヤジとオフクロに頼んでおく」
「え?うん。わかった」
父さんは本当にマイペースだ。
自分と母さんが高校を卒業していないから別に勉強しなくても怒られた事がない。兄さんたちも同じだ。
おじいちゃんとおばあちゃんは、すぐ近くに住んでいて、父さんが連絡したらすぐに家にやってきた。
「よし。それじゃ少し早いけど、受験お疲れ様会でもやるか?」
父さんは、なにかにつけて食事会をしたがる。
おばあちゃんが言っていたけど、父さんは食事会の時に、普段行けないような店を予約して、おばあちゃんやおじいちゃんにお金を払わせているようだ。
そのまま、父さんは普段では絶対に行かないような鉄板料理屋に予約を入れていた。
僕と父さんと母さんとおばあちゃんとおじいちゃんの5人だけで行く事になった。
合格発表までの9日間。
僕は、まだ合格していないのに、親戚の人たちや父さんや母さんの友達からお祝いの食事会に誘われまくった。
僕を肴に盛り上がりたいだけのようだったが、父さんも母さんもせっかくだから出ておきなさいとだけ言われた。
---
合格発表の当日。
10時に高校で発表が行われる。合格者は、そのまま手続きを行うようだ。
父さんと母さんが来られないので、おばあちゃんとおじいちゃんが一緒に行ってくれる。
最初僕は電車を乗り継いで学校まで行くつもりだったが、おじいちゃんが車を出してくれるというので、車で行く事になった。
学校に行く時の経路は、合格してから考えればいいと言われたからだ。
学校につくと、もう人が沢山居た。
真剣な表情で、掲示板を見ている。
おばあちゃんはさっさと車を降りて僕の受験票を持って掲示板に行ってしまった。
「ひろちゃん!」
おばあちゃんが見ているのは、僕の希望した科だ。商業は、科を第二希望と第三希望が出せる。僕は、情報処理科しか考えていなかったので、第二希望は書いていない。もし、希望が通らなかった場合でも、補欠合格が有るのだが、情報処理科は一番人気なので補欠合格は無いだろうと先生に言われている。
おばあちゃんが戻ってきた。
「ひろちゃん。おめでとう!合格していたわよ」
「本当?」
「ほら、一緒に見に行こう」
おばあちゃんはまた人垣を分けて入っていく僕はその後に続いた。
掲示板に自分の番号を見つけた時には、涙が出そうになった。
合格するために勉強してきた。できる事は全部やった。
だから、これで不合格ならしょうがないと思っていた。
でも、合格できた。
おばあちゃんからの”おめでとう”がすごく暖かくて嬉しい。
”弘樹くん。どうだった?私も合格していたよ。4月から一緒の学校だね。よろしく”
佳奈からメッセが届いた。
努や康生も無事合格したようだ。
「おばあちゃん。友達が来ているから、友達と一緒に帰りたいけどだめ?」
「いいけど、父さんと母さんには連絡しておきなさいね」
「うん!」
「あまり遅くならないようにしなさいね」
「解っている」
佳奈と努と康生とは、学校を出た所で待ち合わせをした。
努と康生は、市内で両親がお祝いをしてくれると言って、駅で別れた。
佳奈と二人で電車に乗って帰る事になった。
なんだか気まずい。
「弘樹くん」
電車を降りて周りに人が居ない所で、佳奈に呼び止められた。
「なに?」
「やっぱり、気がついていないよね?」
「だからなに?」
「私が、弘樹くんの事が好きだって事!」
「え?だって?え?」
「ほらね。いいよ。片思いだって解っていたし、弘樹くんには、由紀乃が居るからね」
「え?なんで、ここで、由紀乃が出てくるの?」
「は?」
「え?僕?え?え?」
なぜか急に、佳奈が僕の事が好きと言い出して、勝手に振られた雰囲気を出して、なぜか由紀乃の名前を出す。
たしかに、由紀乃とは一緒に居る事が多いけど、それは幼馴染で子供の時から一緒に居たからで?
違うの?
「はぁ・・・。由紀乃も可哀想に・・・」
どうやら、由紀乃と佳奈は二人で話し合いをしたようだ。
これで、由紀乃の悲しそうな顔や泣き出しそうな顔の理由がわかった・・・様な気がする。
僕の独りよがりでなければいいな。
「弘樹くん。私が言うのもおかしいけど、由紀乃の事を真剣に考えてあげてね」
「うん。わかった。あっそうだ。合格おめでとう」
「ありがとう。弘樹くんも合格おめでとう」
佳奈と最寄り駅で別れた。
---
沢山の人から”おめでとう”を言われた。
僕が高校に合格したからだ。
無事志望校の希望した科に合格する事ができた。
中学の卒業だけなのだが、僕には一つだけ心残りがある。
今から、その心残りをはっきりさせようと思っている。
「由紀乃!ひろちゃんが来たわよ!」
「居ないって言って!」
「おばさん。ありがとう。勝手に上がるね」
「うん。なんか、この前から由紀乃がおかしいのよ。ひろちゃんに会いたくないとか言ってね」
「ごめん。おばさん。僕が悪かった」
「いいのよ。あの子が意固地になっているだけでしょ。あっそうだ。ひろちゃん。合格おめでとう」
「ありがとう。おばさん」
由紀乃の部屋は解っている。
何度も遊びにきているからだ。2階の奥の部屋だ。階段を上がるだけなのに、僕の心臓がドキドキしている。
「由紀乃。商業合格した」
「・・・」
「それで、佳奈に告白された」
「!!」
「よくわからない。そう返事をしてから、自分の気持ちを考えた」
「!!」
ダメだ。
すごく緊張する。
「由紀乃。僕は、由紀乃が好きだ。もう僕の事なんて嫌いかも知れないけど、ここから始めないと、僕は高校に安心して行けない」
「・・・」
ドアが開いた。
「由紀乃」
「弘樹」
「「ごめん」」
二人同時に頭を下げて、お互いの頭が当たってしまった。
すごく痛かったがなんだか笑ってしまった。
「由紀乃?」
「私、弘樹が好き。ずぅーと好きだった」
「うん。ごめん」
「本当だよ。弘樹以外はみんな知っているのに!」
「え?本当?」
「うん。大志や弥生なんて賭けをしていたくらいだよ」
「賭け?」
「そう、私と佳奈のどちらと付き合うか?」
「それで?」
「二人とも、佳奈に賭けたわよ」
「由紀乃に賭けたのは?」
「私だけ」
「それじゃ、由紀乃の一人勝ちだね」
「・・・。ねぇ弘樹。私でいいの?」
「由紀乃じゃなきゃダメ」
「私、馬鹿だよ」
「大丈夫。僕が勉強教える」
「私、わがままだよ」
「知っている。でも、僕にだけわがままなのだよね」
「私、嫉妬深いよ」
「知っている。だから、僕は由紀乃を悲しませたくない」
「本当?」
「うん。本当だよ」
何故かわからないけど、笑いだしてしまった。
「あっそうだ。弘樹、商業、合格おめでとう!」
僕が一番聞きたかった、”おめでとう”がやっと聞けた!
大志と弥生からは思いっきり責められた。賭けに負けた事ではなく、気がつくのが遅すぎると言われた。由紀乃がどれだけ待ったのか、しっかり考えろと言われた。
でも、大志と弥生療法から、言われた”おめでとう”は合格への言葉じゃない事はすぐにわかった。
照れくさかったが、なぜだかすごく暖かくて、嬉しくなってしまった。
由紀乃も同じ様な気持ちになってくれていたら、嬉しいな
fin
もう、貴方の事は忘れたほうがいいの?
もう、連絡帳にも入れていない、貴方の連絡先。
消すまでに、1ヶ月掛かったのよ?
消してからも、指が、心が、体中が覚えてしまった、貴方の連絡先。
連絡帳から選択しないでも、貴方の電話番号をコールする事ができる。
ダメな事だとは理解している。
この取られないコール音だけが、私と、貴方を繋ぐ。細い。細い。細い。一本の糸。
けして繋がる事がない。一本の糸。
あれから、コール音を何回聞いた?出るはずが無いコール。1回、2回、3回、4回、解っている事だけど、コール音を聞くのは辛い。6回。
私は、決心した、もう揃っている。明日は、出かけられる。
解っている、それが正しい事だと・・・
ねぇ解っている?貴方が私にしてくれた事。
ねぇ知っている?貴方が私の全てだったってこと・・・。
ねぇ感じている?貴方が触った私。私が触ることができた貴方。
ねぇ考えている?貴方のスマホのパスワード、私の誕生日だったのを知った時の喜びを!
ねぇ教えてよ!私は、私は、貴方を愛していたの?
ねぇ教えてよ!貴方は、愛してくれていたの?
ねぇ教えてよ!もう触る事ができない貴方。私は、どうしたらいいの?
”さよなら”
この4つの言葉で作られた、一番いいたくない言葉。一番言われたくない言葉。
でも、一番言えなかった事に後悔が残る言葉。
貴方は、教えてくれたよね。
”さよなら”
は、別れの言葉じゃない。また合う約束の言葉。
貴方は、私に、”さよなら”を言わせてくれないのね。
”さよなら”
私が、愛した人。
”さよなら”
私を、愛した人。
/*** 2ヶ月前の土曜日 ***/
「敦。どこいくの?」
「ん?内緒」
朝日を受ける海岸通りを、敦の運転する車で進んでいた。
敦は、今日、景子に”結婚を申し込む”つもりで居るのだ。
普段以上に、気を使って運転する敦を、景子は不思議に感じていた。二人が付き合いだして、もう7年が過ぎている。景子も、”結婚”の二文字を意識している。意識しているが、自分から言えない事情もある。
景子は、子供のときに患った病気が原因で、両目とも光を失っているの。彼氏が居なかったわけではない。でも、デートをした後に必ず言われるセリフがある。
”僕では、景子の相手はできない。さよなら”だ、景子は世界で一番”さよなら”が嫌いな言葉になっている。別れの言葉だ。
でも、敦は違った、景子とデートを重ねる。景子を自宅まで送ってくれる。母親が言うには、”嫌な顔ひとつしないで”と付け足してくれる。泊まりに行った事もある。人が多い所では、景子が歩くことをサポートし、景子の邪魔にならないように、軽く手を引いてくれる。足元になにかある時には、さり気なく教えてくれる。
景観がいい場所にも連れ出してくれていた。見えないのだからと渋る景子を、”景色が見えなければ、全部僕が教える。風や音や熱を感じればいい”そう言って、景子をいろんな所に連れ出した。景子が、楽できるようにと、車も購入したのだ。
敦は、景子に、出会ってから、いろんなモノを与えてきた。
景子が、街中で佇んで泣いていたのに、声をかけたのが最初だった。ただの親切心なのか、下心なのか、敦本人もわからないのだろう。その時には、”声をかけないとダメ”と思った。景子が落ち着くまで、敦は話を聞いた。全部話し終わってから、敦は、景子を家まで送っていくと言った。実際には、最寄り駅まで送って、母親に引き渡したのだが、敦は別れ際”さよなら”と口にした。
景子は、やっぱりまた、”さよなら”なんだと・・・敦の手を握ってしまった。
敦は、優しく景子の手を握り返して、”お母さんに、僕の連絡先を伝えた。景子さんさえ良ければ、僕に連絡してきて”、それが嘘なのか、本当なのか、景子には判断できない。敦は、さっき”さよなら”と別れの言葉を口にした。もう、敦には会えない。
”景子さん。さよならは、別れの言葉じゃないですよ。また会う約束の言葉です”
景子にとって、それは敦との繋がりを感じる事ができる言葉だ。
母親に、連絡先を入れてもらって、連絡をした、今までしていたように、音声入力を使った方法だ。すぐに、敦から返事が来た。母親が確認して読み上げる・・・必要はなかった。敦は、わざわざ電車を降りて、音声を録音して返事をしてくれたのだ。
この日から、景子の世界は広がった。
「景子」
「なに?」
「寒くない?」
「え?いきなりなに?大丈夫だよ」
「ちょっと1ヶ所寄りたい所があるけどいい?」
「もちろん。敦の行きたい所が、私の行く所だよ」
「そう言ってくれるのは、嬉しいけど、行きたい所じゃなくて、行かなきゃ・・・ううん。なんでもない。もうすぐだから我慢して」
「??うん」
車は、海岸線を走ってから、少し脇に入って止まった。
「景子少し待ってて、5分くらいで呼びに来られると思う」
「わかった」
(どうしてだろう、敦。すごく緊張しているみたい)
(風が気持ちい場所ね。子供の声が・・・すごく楽しそう)
「景子。おまたせ。少し歩くけどいい?」
「問題ないわ」
二人は、車を止めた場所から、子供たちの声がする方に歩いていった。
「園長先生。景子です」
「あらあら可愛らしい娘ね」
「景子。話していなかった事だけど、驚かないで欲しい「敦くん」あっ景子。俺は、孤児なんだ。それも、両親に捨てられた。園長先生が俺を拾って育ててくれた。俺の母さんだ」
「え?・・・ごめんなさい。園長先生。私、敦さんとお付き合いさせていただいています。橋本景子といいます」
景子は、敦が正面を剥いている方向に、会釈しながら名前を名乗った。
「園長先生。景子は、目が不自由なんだ「敦くん!」」
園長先生は、景子の手を優しく握って
「景子さん。敦くんの事をお願いします」
「いえ。こちらこそ」
景子は、優しくも温かい手を握り返した。
この手が、敦を育てたのかと思うと、尊敬の思いと、嬉しい思いが湧き上がってくる。
「園長先生。話し込むのはまた今度でお願いします」
「あらそうね。景子ちゃん。またいらしてね。そのときには、敦くんの子供の時の話しとか沢山してあげるからね」
「はい!」
「園長先生!」
敦は、景子にプロポーズする。
景子は、嬉しいながらも保留してしまった。
「敦。いいの?私、こんなだよ?」
「景子。景子だから、俺は結婚したいと思う。園長先生にもらった」
「うん」
「景子。それに、俺、昔・・・かなり」
「うん。知っている。少年院に入っていたのでしょ?」
「え?だれから?」
「親切な人かな?何度か、家のポストに、”敦は少年院あがりのろくでなし”とか入っていた」
「・・・ごめん。本当に、ごめん。でも、なんで?」
「それこそ、敦は敦でしょ。何が有ったのか知らないけど、私に優しい敦が、全てだよ。お母さんに同じ。敦なら・・・」
「なら?なに?」
「・・・知らない。でも、本当に、私でいいの?」
「景子じゃなきゃダメなんだ。俺は、景子を、橋本景子を愛している。結婚してください。幸せにしますとは言えないけど、俺は景子と一緒になって幸せになる!」
「フフフ。敦らしいね。すごく嬉しい。私をもらってください」
二人は、キスをして、お互いの愛情を確認した。
景子は、母親に連絡をするために、スマホを取り出した。
いつものように、操作して、母親を呼び出すが、応答がない。虚しくコール音が鳴るだけだ。
暫く待ってみても、折返しが無い。
外は、寒くなってきているので、予約しているレストランに移動する事にした。何度も使っている場所なので、店員も覚えてくれている。個室に案内された。
景子のスマホがなりだしたが、登録している番号でない事は、音が違う事で判断できる。
電話には、敦が出るようだ。
「え?それは、本当ですか?」
電話は病院からだ。
景子の母親が、家の前で刺されたという事だ。今、病院で治療を受けている所だが、かなり危険な状況だという事だ。
「・・・うそ、お母さん・・・」
「景子。行こう!」
「え?」
「早く!」
敦は、料金を払って、店を飛び出した。
景子の手を引いて、車に乗せて、連絡があった病院に急いだ。
病院まで、100m先で右折したら、もう病院の敷地になる。
「大丈夫。大丈夫。大丈夫」
「景子。もうすぐだよ」
「うん。うん。敦。敦。どうしよう。どうしよう。お母さん。なんで、なんで、なんで!!」
車がウィンカーを出して止まる。
この数秒が、景子には、長く長く感じてしまう。
「景子ぉぉぉぉ!!!!!!!」
敦の声を最後にきいて、景子の記憶は途絶えた。
景子は、枕元で鳴ったスマホの音で目を覚ます。
普段と違う匂いと、布団の感触に、昨晩の記憶を探ってみるが、敦の声を聞いたのが最後だという事以外記憶にない。
(そうだ。お母さん!)
立ち上がろとしても、手足に力が入らない。腕になにか管のような物が刺さっている。
「先生。先生。患者さんが目を覚まされました」
「あぁすみません。先生。僕が話を聞いてもいいですか?」
景子は、知らないだろう男性と、先生と呼ばれた男性から話を聞く事になる。
昨晩、刺されて、運び込まれた、母親は治療の甲斐なく、死亡が確認された事、そこに駆けつけようとした、敦と景子の乗る車に、後続車が突っ込んだ事。そのときに、敦が景子をかばって、死んでしまった事。
そして、その車を運転していた男が、景子の母親を刺したのを自供した事。
時間をかけて、これらのことを説明していった。
何度、嘘だと思いたかったか、気が狂ったほうが楽だったろう。
残されたのは、敦と母親のスマホだけ。母親のスマホは、刺されたときに、壊れてしまっていた。
--- 景子 Side
あれから、一ヶ月。
いろいろ大変だった。事件を聞いて、園長先生が訪ねてきてくれた。敦の葬儀だけじゃなく、母さんの葬儀やら手続きをやってくれた。
話を聞くと、敦は少年院を出てから、孤児院に戻って来て、孤児院に住んで、手伝いをしながら、夜間学校に通って、昼間は卒園者の会社で働いていた。園長先生がいろいろ教えてくれた。私にも、孤児院で働いて欲しいと言ってくれた。母さんが居ない部屋に帰るのが辛かった事もあり、園長先生に甘える事にした。
独りになるのが、怖かった。
母さんを刺したのは、敦と対立していた不良グループの人間らしい。
警察が教えてくれないのだ。園長先生も問い合わせをしているが、”ダメ”という返事だけだ。私は、前に進むこともできないらしい。事情がわからないまま、時間だけが過ぎていった。
園長先生や、孤児院の人たちは、私に優しくしてくれる。
でも、その優しさは、敦から感じた、対等の優しさではない。可愛そうな人への優しさなのだ。母親と”婚約者”を同時に失った、可愛そうな”盲目の女”。それが私なのだろう。そんな事は望んでいない。望んでいないが、そう見えるのはしょうがない。
敦や母さんは、怒るかも知れない。
でも、二人の居ない世界にいてもしょうがない。敦さえいてくれれば、私は良かった。親不孝かも知れないけど、心からそう思う。
園長先生や孤児院の人たちに、”さよなら”は言わない。言ってもしょうがない。もう会えない。
私は決めた。
敦と母さんに、”さよなら”を、言いに行くと・・・。
そして、次に再開した時には、絶対に握った手を離さない。
何度でも、言うよ。”さよなら”
敦。”さよなら”
母さん。”さよなら”
また、会おうね!すぐに、行くから、待っていてね。約束だよ。
fin
あぁこれは、いつもの夢だ。誰にでも、1つくらいあるだろう。
同じような夢。疲れた時に見る夢。誰かを殺したいと思っている時に見る夢。
窓も、ドアも、部屋の調度品がなにもない部屋。上も下もわからない白い部屋に私が全裸で居る夢をよく見る。
私は、部屋の中を抜け出すために走りまくる。床だけでなく、壁や、天井を使って、走りまくる。走って、走って、走って、疲れ切って、倒れる。最後は、なぜか部屋から抜け出す。
その時に、必ず振り返ってしまう。白かった部屋が、真っ赤に染まったシーンで目をさます。
目を覚ますと、私の目の前には、いつもの天井が広がっている。白く塗った天井だ。
そうこれは夢。私が見ている夢なのだ。
今日も、現実が始まる。
私の事を殴るしかしない。父。
私の事を、父に殴らせる事で、自分が逃げる事しか考えない。母。
私の事を、汚れた物でも見るように蔑む。妹。
私の事など存在していないかのように振る舞う祖父母。
これが私の現実だ。
学校に行けば、私は存在しない人間として扱われる。
学校はましだ、存在しないだけだからだ。1人で過ごせるだけましな時間だ。
休み時間は、私の安らぎの時間だ。
図書館で本を読むことが出来る。家で本を読むことはできない。洗濯をして、掃除をして、食事を作らなければならないからだ、その上で、バイトを行って、父に酒を買わなければ、殴られる。
妹には、トイレが汚いと言われて、妹の排泄物を処分させられる。
図書館だけは、私を受け入れてくれる。
ここさえあれば私は満足出来る。学校の成績が良ければ、女子から呼び出されて殴られる。だから、テストはいつも間違えて提出する。そうすると、先生から呼び出される。さじ加減が難しい。
真ん中くらいの成績で居なければならないのだ。
妹は、身体を売っている。そのお金で、遊び歩いている。
妹は、私も同じことをして、金を渡せと行ってきたが、逃げた。それから、私の事を、許さないと殴るようになった。殴られるくらいの方がましだ。好きでもない男に股を開くくらいなら死んだほうがいい。
純潔を守りたいわけではない。私の意地だ。早く、高校を卒業したい。
この家を出たい。そればかり考えるようになっている。
一度、妹が男を連れてきて、私を犯そうとした。その時には、思いっきり男根に噛み付いた。
それから、妹は、私の事を汚れた物を見るような目で見る。自分の排泄する姿を見せて、拭かせて、舐めさせて喜ぶようになった。どこか、心が壊れたのだろう。
母は、数年前から、父の暴力におびえていた。父は、公務員だった。真面目に仕事をしていたが、なんとかという議員が役所にもとめてきた、文章提示に対して、別の議員からの圧力があって、提出文章を改ざんしてしまった。それが週刊誌に取り上げられて、酒に逃げるようになってしまった。その当時は、毎日のようにマスコミを名乗る狂人が、昼夜関係なくチャイムを鳴らしていた。
私の学校にも記者を名乗る人が来て居た。それで、学校側も私は居ない者として扱うようになった。
あれで、家族が壊れてしまった。
壊れてしまった事を、私がマスコミに言ってしまった事で、またマスコミを名乗る狂人が騒ぎ始める。議員の圧力やパワハラが有ったのではないかと・・・。私が、家族の絆を壊してしまった。だから、これは当然の事なのだ。
今日も無事、父のお酒を買うことができた。これで、殴られる回数が減る。
そして、今日も1人で外の物置で眠る。
ここが一番安心出来る。寒いし、暑いが、誰も近づいてこない。近づいてもすぐに分かる、私だけが知っている抜け道もある。下着は、妹が売ってしまった。今ある下着は、3枚だけ。バイト先で貰った物だ。バイト先の女性店長が私の事を気にかけてくている。それで時々服や下着をくれる。店の売れ残りだからと言っているが違う事は知っている。でも、嬉しい。バイトの時間は、私を人として見てくれる。
あと、二週間。二週間ですべてが終わってしまう。
今日も、いつもの夢を見た。
少しだけ違った。今日は全裸で”なにか”に追いかけられる。それから必死に逃げる。逃げるがドアが見つからない。逃げ場がないと思った時に、”なにか”が爆発して、赤い色が白い部屋を染めていく、ゆっくり開いたドアから私は外に踏み出す。
そこで目をさます。目を覚ましたら、いつもの天井が目に入ってくる。
夢だとわかる。
これから、毎日”なにか”が増えていく。私は、その”なにか”を知っているが、知らない。
目をさます時には、いつもの天井だけが優しく私を見つめている。
明日。私は、明日。ここから出ていける。私の事を知らない人たちの中に入っていくための準備が整ったのだ。
ねぇみんな知っている?
人って追い詰められると、どうでも良くなるのだよ?
ねぇみんな知っている?
私の事が見えないのなら、見ないのなら、必要ない物が有るよね?
ねぇみんな知っている?
人ってなかなか壊れないのだよ?
ねぇみんな知っている?
無視するってそれだけ意識しているって事だよ?
ねぇみんな知っている?
大切にしている物を壊された時、自分の中の別の自分に気がつくよ?
ねぇみんな?なんで、人にやった事が、自分がやられないと思っているの?そんなわけないよね?自分が他人にやったことなら、他人から自分がやられるって事も有るよね?その時には、憎悪や悪意が付与されたら、やった事が大きくなって返ってくるよ?
まずは、妹から始めよう。次は、祖父母。そして、父。最後は、大好きなお母さんにしよう。それが、終わったら、学校の卒業式に行かなきゃだよね。店長には、今日で街を出るからお店やめますと伝えた。毎日、お酒を安く売ってくれた酒屋さんにも、昨日の間にお礼の言葉を伝えた。残念だと言ってくれた。すごく嬉しかった。私の事を見て、私の事を必要だと言ってくれた。遠い人ほど親切なんだね。
準備はできた。白い部屋の夢は、今日も見た。そして、私がやりたかった事がはっきりと解った。
まずは、妹の部屋に行こう。
大丈夫。ぐっすり寝ている。食事に睡眠薬が入っているとは思わなかったのだろうね。そのまま致死量を入れようかと思ったけど、それじゃ面白くないよね。
さて、妹の部屋の鍵は持っている。掃除をするために必要だからだ。この娘。明日からどうするのだろう?私、卒業したら居なくなると伝えていたのに・・・。まぁいいか、そんなの、明日から考えればいいのだろうね。私以外の人が考えればいい。私でも考えられたのだから、大丈夫だろう。
妹はぐっすり寝ている。
まずは、服を脱がそう。起きないように丁寧にやらないとダメだね。
次は、声が出て祖父母や母や父が起きたら迷惑だから、口枷をしてあげよう。あぁ起きて暴れたら大変だから、手枷と足かせもしよう。犬用の首輪も買ってあるから、してあげよう。男に股開いて、下品な声を上げるようなメス犬にはちょうどいいだろう。
全裸の状態で手枷をして、ベッドに縛り付ける。首輪を買った時についでにかった鎖が役に立った。次に、足かせは、メス犬にちょうどいいように足を閉じられないように縛り付ければいい。そして口枷をしてから、あそこに、温めた棒を入れれば、起きてくれるだろう。前の穴よりも、後ろの穴の方がいいだろうね。楽しんでくれるだろう。少し、血が出ちゃったけどいいよね。
なにか騒がしいな?犬の言葉はよくわからない?
今更何を言っているの?散々やってきただろう?あぁ熱い?そうだね。冷やしてあげるよ。ちょうど、私もおしっこしたくなったから、顔にかけてあげる。いつも貴女がやっていたことでしょ?
あっ注意してね。お腹の上にほら見えるでしょ?そうそう、貧弱な頭でよく考えて、貴女の両方の乳首をつまんでいる洗濯バサミ。そうそう、紐が天井まで伸びているよね?うん。気がついた?それほどバカじゃないみたいだね。アハ!楽しいでしょ。動かなければ大丈夫だからね。乳首に付けた洗濯バサミが取れなければ、天井から吊るしている包丁がお腹に刺さる事も無いからね。大丈夫何度か実験しているから、動かなければ、朝までは平気だよ。それまでに誰かが気がついてくれるといいね。声出ないでしょ?口枷だけじゃ心配だったから、舌を麻痺させる薬も入れているよ。大丈夫、麻酔じゃないから、お腹に包丁が刺さればしっかりと痛いと思うよ。
全裸で、股を開いて、後ろの穴に棒を刺した状態の写真も沢山撮影してあげたからね。貴女のスマホのアドレス全部に送付しておいてあげたからね。嬉しいでしょ!!おしっこもう少し出そうだから、最後に出していってあげるね。
あっそうだ!綺麗に舐めるのは無理だろうから、貴方の履いていた汚いパンツでも、こんな事には役立つね。私のおしっこを拭いておくね。あっそのパンツも売っていいよ。おしっこ付いていると高く売れるのでしょ?
あぁ制服ももう必要ないよね?貴女の汚い物で汚れちゃったから拭いておくね。私、優しいよね。スマホ、動画にしておいたから!
そうそう、貴方の汚い雄に入れてもらっていた場所がしっかり見える位置で、動画配信してあげるね。たくさんに人に見られて幸せでしょ?
それじぁバイバイ!
祖父母は、1階で寝ているはずだ。
あぁ疲れているのかな?ぐっすりだね。居ない物として扱っているような目なら必要ないでしょう?
両目とも潰してあげるね。これで、嫌な物は見なくて済むでしょ?
騒がないでよ。誰か起きてきたら大変でしょ?汚らしくくちゃくちゃ食べる口なんていらないでしょうから、接着剤で止めておいて正解だったね。取れちゃうと困るから、縫い合わせておくね。痛くないよ。大丈夫。
え?何?しっかり喋ってよ。なにいっているかわからないよ?
大丈夫。死ぬことはないと思うからね。
眼球をくり抜く事ができなかったのは残念だけど、お互いの目玉から出た血となにかわからない汁を食べたのだから、幸せでしょ?これからも一緒に元気に過ごしてくださいね。
それじゃバイバイ!
父とお母さんは、私が居ないとダメな人たちだから、さよならする前に、私が居なくなっても大丈夫な状態にしないとね。
さて父は。やっぱり、お酒に匂いを撒き散らして、危ないな。
割れたコップの片付けしないとダメだね。そんなにお酒ばっかり飲んでダメになってしまうでしょう?うん。しっかり眠っているね。首を縛って、手枷と足かせで、部屋の柱に固定する。うん。これで逃げられない。あとは、ネットで買った薬を注射して・・・量は間違えないようにしないとダメだよね。これで死んじゃったら大変だからね。
うんうん。大丈夫みたいだね。起きちゃったけど、何言っているかわからないよ。ごめん。私、人の言葉しかわからない。獣に成り下がった人の言葉は理解できないんだ。そんなに暴れないでよ。これから大事な作業が有るのだよ。
まずは、指からでいいかな。小指を切り落とそう。喚かないで、耳が痛いでしょ。だって、毎日殴っていたのは、この手でしょ。だから、手さえなければ大丈夫でしょ?
面倒だね。そうだ!釘とハンマー!あった。あった。良かった。物置って便利だね。手が動いてうまくできないから、床に釘で固定すればいいよね。うん。できた。ほら、そんな騒がない。暴れないでよ。足そんなにうごかしたら・・ほらずれちゃった。足も動けないように釘で固定しておこう。あっそんなに長い釘がなかった。でも、大丈夫だよ。安心して、そんなこともあろうかと、木を削って、杭を作ったからね。これで、太ももを刺しておけば大丈夫だよね。ほら、これで、動かなくなった。あれ?おかしいな。身体全部が動かなくなっちゃった。あぁ心臓は動いているみたいだから大丈夫だね。
反対の手の小指から斧で落としていく。うんうん。うまくできた。次は、足の指の爪を剥いでいく!
うんうん。うまくできた。最後に、お酒が好きだったからね。手と足にしっかりとアルコール度数が高いお酒をかけておいてあげるからね。
おやすみ!
それじゃバイバイ!
最後は、お母さん。
お母さんは、心がもう壊れちゃっているから、心臓を取り出してなおしてあげる!
大丈夫。私なら何でも出来るって言ったのはお母さんだからね。心臓取り出すの大変だけど、頑張るね。暴れると面倒だから、まずは、首を落としちゃうね。そうしたら、静かになるでしょ?
ほら、お母さん。静かになった。心臓を取り出すね。これが壊れちゃったのだね。なおしてから戻してあげるから大丈夫だよ。
だから、治ったら一緒に行こうね!お母さん!
今は、治せないから、まずは、学校で卒業式に出てからになるけど、ごめんね。
学校で、私の大切な図書館で暴れて、本を破った人たちを怒らないとならないからね。
先生もだね。その人達が、私がやったと言ったからって、それを信じて、私を怒らなくてもいいのに、私、本を大事にしていたよ。先生も知っていたよね?その人達が、偉い人の娘や息子だからって、私の責任にしないで欲しいな。
私から本を取り上げないでほしかったな。
私が唯一癒やされた、白い図書館。出口がわからなくなるほどの本があった、私だけの白い部屋。
お母さん。ごめん。少し、卒業式に遅れそうだよ。
急ぐから許してね。なんか、今日街が騒がしいね。やっと学校に着いたよ。先生たち何を慌てていたのだろうね?
卒業式は体育館だったよね。お母さん。急ごう!
うんうん。やっぱりみんな揃っているね。
私を無視していた人たちも、私から図書館を白い部屋を奪った人たちも、父がおかしくなるきっかけを作った人も、妹を抱いていたいやらしい教師も、みんな、みんな揃っているね。
それじゃ!みんな、バイバイ!!
あぁこれは夢だよね。いつもの夢だ。
白い部屋の中で、私は皆を殺しまくる。そして、いつもの白い部屋のからでて目が覚める。
目が覚めると、今日はいつもと違う現実が待っている!
お母さんと一緒に、ご飯を作ろう。今日からは出来るはずだ。
妹ももう大丈夫だろう。妹が好きなプリンも作ろう。そうだ!おじいちゃん歯が弱くなっているから、魚の方がいいかな。でも、今日は、私が大好きな。お母さんのグラタンが食べたい!今日は、わがまま言っていいよね?おばあちゃん。みかんばっかりそんなにむかなくていいよ。わかった、ジュースにするよ。一緒に飲もう!お父さん。おかえり!!今日ね。お母さんのグラタン一緒に作ったの!それとね。妹とプリン作った!ご飯の後で、一緒に食べよう!
これが、私の現実だ!!!!!
夢なんかじゃない。夢とは違う。そう、夢の中でだけの出来事だった。私は、私は、私は、私は・・・・私は・・・だれ?
fin
彼女は、今日も来ている。彼女が持つには、少し古いカメラを持っている。
そのカメラで、決まった時間に、決まった方向を一枚だけ撮影して帰る。彼女の日課になっているようだ。
彼女が撮影しているのは、普通の・・・日本中探せば、どこにでも有るようなガードレールだ。T字路になっている場所で、左右が見えるように、カーブミラーが設置されている場所だ。信号は無いが、細い路地には、一旦停止の標識がある。彼女は、細い路地の桜の下から、カーブミラーが設置されている路地のガードレールを撮影している。
僕が知っている限り、彼女はあのガードレールを撮影し始めて、3ヶ月近くが経っているはずだ。
僕は、今日彼女に声をかけてみる。
僕「ねぇ毎日撮影しているけど何を撮っているの?」
彼女「写らないの・・・だから、毎日撮影しているの」
僕「写らない?」
彼女「うん。ここにね。パパとママとユウが写るはずなんだよ」
僕「え?」
彼女「だって、未練があれば、この世に残るのだよね?」
僕「え?」
彼女「パパとママとユウが、私を残して居なくなるのに、未練が無いはずがないよね?」
僕「あ!」
彼女「なに?パパとママが見えるの?見えるのでしょ?私の事、私の・・・ほら、だって、毎日、同じ時間に、ユウを迎えに行ってここを通るよ。だから、私・・・パパが大事にしていた、カメラで、私をたくさん撮って、ユウをたくさん撮って・・・だから、今度は、私が、パパとママとユウをたくさん撮ってあげることにしたの・・・なんで、なんで、なんで、ねぇパパとママとユウが見えるのでしょ?教えて、どこに居るの?ねぇ?教えてよ!!」
掴まれた彼女の手を振りほどく事ができなかった。
真っ直ぐに僕を見る目に、涙が流れてきていない目に、何を言っていいのかわからない。
彼女が撮影し続けたのは、ガードレールでもカーブミラーでも無かった。
飲酒運転の車にはねられて、死んだ大切な人の写真を撮影していたのだ。
4ヶ月前に、19歳の男が、飲酒運転の挙げ句に、父親と母親と一緒に居た子供を巻き込んで、ガードレールに激突した。
運転していた男は、車を乗り捨てて逃走した。車の中には、男が飲んだと思われるサワーの空き缶が多数転がっていた。その後、少し先で倒れて動けなくなっている所を警察に捕まった。
彼女は、僕が答えを持っていない事を悟ると、何も言わないで、カメラをガードレールに向けて構えてから、ニッコリと笑ってからシャッターを切った。
そして、彼女は明日も撮影に来るだろう。
家族が最後に居た場所を、家族を失った場所を、1人になってしまった場所を撮影するために・・・。
涙を流さないで、僕を問い詰める彼女に、僕は告げる言葉が用意できない。彼女は、これからも1人で撮影を続けるのだろう。僕は、彼女に何ができるのだろうか?
今度、僕は彼女に告げてみる
僕「ねぇ僕がシャッター切ろうか?君と一緒なら、お父さんとお母さんと弟さんが写るかもしれないよ?」
彼女が何ていうのかわからない。
でも、僕は彼女が望む”者”が写るまで何度でも声をかける。
兄がしでかした事の罪滅ぼしにはならないのはわかっている。わかっているが、僕にできる事は何もない。
---
僕「ねぇ」
彼女「なに?」
僕「昨日も写らなかったの?」
彼女「・・・うん」
僕「君が一緒じゃ無いから写らないんじゃないの?」
彼女「え?」
僕「だって、君のお父さんとお母さんと弟さんは、君と一緒に居るのだよね?」
彼女「・・・うん。でも、私・・・嫌われていたかも・・・」
僕「そんな事ないと思うよ?」
彼女「どうして?私に見えない・・・写らない・・・私・・・」
僕「ねぇ僕がシャッターを切ろうか?君と一緒なら、お父さんとお母さんと弟さんが写るかもしれないよ?」
彼女「本当!」
僕「うん。でも、君のカメラは大事な大事なお父さんの物だよね?」
彼女「・・・うん」
僕「だから、明日また来て・・・僕もカメラを買ってくる。それで、君とご家族を撮ろう」
彼女「いいの?」
僕「もちろんだよ。君とご家族が笑っている写真が撮れるまで、何度でも何日でも僕が付き合うよ」
彼女「・・・」
僕「だから、君のその大事な大事なカメラ・・・少しだけ休ませてあげようよ」
彼女「・・・うん。そうする。でも、でも・・・最後に一枚だけ、お願い・・・パパとママとユウと一緒に撮影して欲しい・・・けど・・・ダメ?」
僕「僕でよければ、撮影するよ」
彼女「お願い」
僕は、彼女が望むままにシャッターを切った。
彼女は僕に・・・違う、ファンダーの奥に写るはずの父親を母親を弟を思って、笑いかける。
僕は、彼女の泣きそうな笑い顔を忘れる事ができなかった。
その日、貯めていたバイト代を全額おろして、彼女と約束したカメラを買いに行った。店員に聞いて、素人でも扱えるカメラを20万かけて購入した。
金銭的な事で償いができるわけではない。僕は、これから毎日彼女を撮影し続ける。
---
「ねぇ」
「なに?」
「ありがとう」
「どうしたの?」
「あの時声をかけてくれて」
「・・・うん。でもそれは・・・」
「わかっている。5年・・・6年目だっけ?」
「そうだったね」
「うん」
「でも、君・・・知っていたよね?」
「うん。最初は・・・解らなかった・・・でも、親切な人に教えてもらった」
「そうだったの・・・ゴメン。黙っていて」
「いいよ。全部許してあげる」
「ありがとう」
「そのかわり」
「うん。わかっている」
「よろしくね。旦那様」
「こちらこそ。奥様」
fin
私は、今会社の屋上に登っている。
あの人が最後に見た空は、私が今見ている空とは違うのだろう。こんなに、滲んで居なかっただろう。
私は、あの人が最後に見た空を見たかった。
光化学スモッグで汚れた空だが、あの人にはどんな風に映っていたのだろう。
空を見上げていた、口元は笑って居た。ただ、もう二度と、話をする事も笑顔を見ることもできない。
溢れ出る涙を拭って、部署に戻る。
もう一度空を見上げる。見上げた空は、何も変わっていなかった。
ここは、川崎駅から、南武線に乗って何駅か行った場所にある会社だ。小さいながらも自社ビルを持つIT企業が、私が務める会社なのだ。今、私は自宅謹慎になっている。私だけではない、私の部署全員が同じ境遇になっている。
自宅謹慎といっても、別に自宅に居なくてはならないわけではなく、連絡が付く場所にいれば良いと言われている。
私と同じ様に、自宅謹慎になっている人たちが、ちらほら会社に来ていた。私の部署は、会社の中では中規模な部署だ。人数は、20名ほどだが全員が実働部隊という珍しい部署だ。たいてい部署の中に専任の営業が居たり、ネットワーク屋が居たり、何かしらの専門家が居るのだが、私の部署は”プログラマ”だけの集まりになっていた。
こんな部隊を率いていたのが、倉橋さんだ。
私が、倉橋さんの部署に配属されたのは、社会人になってから2年ほど経ってからだ。
最初は戸惑う事が多かったが、鎮火作業に繰り出される事が多い部署だと話を聞いていた通り、作業はほぼ”火”が点いている現場だけだった。
そんな場所で、2年過ごせば、大抵の事はできるようになってくる。倉橋さんの部署に、専門家が居ない理由がよく分かる。専門家を置く必要が無いのだ。全員が、ある程度の事ができてしまうのだ。そうなるように、配置されていくのだ。現場に出てしまえば、”知りません”や”できません”は言えない場合が多い。そのために、専門家には敵わないのは当然だけど、ジェネラリストな対応が求められる。
私も、経験と同時に扱える言語の数が増えていった。DBも触れるようになり、サーバ周りの設定やサービスの設定も行えるようになっていた。
倉橋さんには、笑いながら
「業務履歴書にたくさん書き込めるぞ!」
と言われた。事実、私たちの業務履歴書はすごい事になっていた。
ただ、専門家ではないので、職種は”プログラマ”のままにしているのだ。
倉橋さんは、よく笑う人だ。理由を聞いたら、”笑わないで居ると心が潰れてしまうから”と、笑いながら教えてくれた。
39歳の誕生日を職場で迎えたと笑った笑顔を忘れない。
あれは、ある巨大システムの鎮火作業に携わった時だった。
そこは、今までの火付け現場とは違っていた。
今まで、私たちも巨大システムの火消しに携わった事があったが、それは根本が違っていた。
とある、大手SIerが、来春からオープンする病院のシステムを受注して、開発を行っていた。最初の火は小さな小さな物だったようだ。ハードウェアと連結する部分を担当していた、会社が飛んだのだ。
この業界、仕事をしながら会社が飛ぶという現実はよく発生している。
大きなシステムになればなるほど、間に入る会社が多ければ多いほど、支払いサイトが発生する。後で知った話だが、飛んだ会社は、翌末締めの翌々々末払いになっていた。支払いまで、120日かかる計算になる。しかし、そこで働かせている従業員には、末締め翌25日払いにしないと生活ができなくなってしまう。その間の約100日程度を会社が持ち出すのだ。
それだけなら銀行融資とかで繋ぐ方法も考えられる。しかし、火が付いてしまうと、受注会社は支払いを渋る傾向にある。1週間遅らせるだけで、小規模の会社は飛んでしまう。
こうして、1つの会社が仕事をしながら、飛んでしまって、火が具現化する。
要因はいろいろ有るだろう。中間会社の支払いが少し遅れただけで、下は大きな反動を喰らう事になる。
ここで、受注している会社が出てきてジャッジをすればほとんどの場合は鎮火する。しかし、中間会社が出てきて、こねくり回すと、間違いなく火が大きくなる。
この時にも、飛んでしまった事を隠した中間会社は、内部の人間で作業を継続する事を考えて実行する。
これで、火が少しだけ大きくなる。
大きくなった火を消すために、他のうまく行っている部署から人を集めて来て火消しを行う。
これを繰り返す。火がシステム全体に行き渡るのに、それほどの時間はかからない。
特に、病院の様なシステムでは、人を投入すれば火が消えるような場所ではない。”お上”から出される難解な点数表を読み解く力や、意味不明な業界用語や業界の常識を知らなければならない。
それがわかっていない”優秀なシステムエンジニア”たちが大量に投入され始める。
中間会社が集めてくる人材は優秀な人たちだが、一点だけ”業務知識”が足りなかったのだ。それも、バラバラの対応方法で、目先の鎮火作業を行っている。
その場所の火は小さくなって鎮火する。しかし、すぐ横に新たな火種が産まれる。
受注会社が対応に乗り出すが・・・時すでに遅く、火はシステム全体を覆うようになってしまっていた。
倉橋さんの部署にこの話が来た時の状況だ。倉橋さんに、まとめ役の1人になってほしいという事だ。私たちの部署は、このシステム案件に関わる事になる。部署の全員であたるのを、倉橋さんは渋ったようだが、会社の意向もあり、全員で現場に向かう事になった。
現場を見た私たちの感想は、皆同じだった・・・。
それほど長くこの現場は持たないだろう・・・と思った、いろいろな現場で鎮火作業をしてきたから解るが、悪い方に転がっている現場は、雰囲気が同じなのだ。
作業をしている会社同士が固まって、お互いに監視し合っている。
そして、話し声が聞こえないのだ。笑い声はもちろん誰も声を出さないで、モクモクと”自分が言われている”事だけをやっているのだ。指示を出す者も、自分たちの事しか考えていない。
そして、顧客との打ち合わせでは、淡々とスケジュール消化状況だけが報告されていく。
倉橋さんが、客との打ち合わせに呼ばれました。
この時に、悟りました。私たちが貧乏くじを引いたのだと・・・。
嫌な予感が的中しました。中間会社がスケープゴートにされて、リスケが発表されました。そして、私たちが鎮火部隊となり、作業を行う事になったのです。もちろん、受注会社は、顧客には火が付いているとは説明しません。
作業が遅れている言い訳を探していたのです。倉橋さんが来た事で、体制を作り変える事。施設の設備を使って、実際に動かしながらテストをする事を告げて、作業が遅れている事を隠したのです。
当初の計画では、施設の設備を使ってのテストは、運用を行う部署が担当するのですが、その時間を開発に使うのです。無茶苦茶な理論ですが、すんなりと承諾されてしまいます。不思議な事ですが、受注会社の手腕なのでしょう。
しかし、伸びたと言っても、数ヶ月です。
ここまで消費してしまった日数に比べれば微々たるものです。
ここで、1番の問題が発覚したのです。
私たち以上に、受注会社の担当者が内情を把握していなかったのです。把握しないで、客と話ができるのは不思議ですが、困った事にこれができてしまうのです。”詳しい事はお手元の資料を御覧ください”の魔法の言葉を乱発したのです。
資料には、小難しい言葉でごちゃごちゃと書かれています。遅れている事を、言葉を変えて説明しているのです。火付け現場でよくある事ですが、客に提出する資料を作って、作業が遅れていく、その遅れた時間を取り戻すために、現場が無茶をする。そして、現場から人が減って、営業が新しい”経験がない”者を投入して、現場が混乱して更に遅れる。
この現場でも、同じ事が発生していました。
しかし受注会社は顧客に遅れていると言えないために、この作業は継続させる必要があります。現場がまた更に圧迫されます。
そして、現場が、実際の施設を使いながら作業を行う事についての”論理的”な説明がされます。
そう・・・”できている物”を施設で動かして、確認しながら、実際に使う人に説明する。
これが新たな火種になります。
これまで、仕様を決めていたのは、”現場を知らない”事務方の人や経営者の人たちです。実際に現場の人の意見も入っているとは思いますが、現場の”直接”の意見ではありません。
現場からの意見。
実際に使う人の意見。
これが、どんな結果をもたらすのか、やる前からわかっていますが、やらないわけには行きません。それが、数ヶ月を手に入れた時の約束なのです。
これらの作業を、受注会社は私たちの作業としてくれたのです。ありがたくて涙が出てきます。
倉橋さんは、笑いながら、
「なんとかしよう。受注会社や中間会社や会社のためではなく、実際にシステムを必要として、実際にシステムを使う人のために、頑張ろう」
そう言って、私たちを鼓舞します。
私たちの現場は、顧客の施設の中に作ってもらった部屋です。将来的には、システム屋が常駐する部屋になります。そのための作業も平行して行っています。
私たちは、最前線に居ます。
顧客と膝を突き合わせて作業をしていますし、一人ひとりの顔がよく見えます。相手も同じです。毎日、挨拶して毎日会話をして、毎日対応している人たちには、優しくもなれます。
私たちは、現場に受け入れられたのです。しかし、それが受注会社には面白くないのです。本来なら、自分たちがやらなければならない事を、私たちにやらせておきながら、私たちがうまく回りだすと、営業を通して文句を言ってきます。
曰く
・作業時間が短いが本当に作業をしているのか?
女性陣は、9:00-23:00ですが何か?男性陣に関しては、9:00-5:00(始発)ですが何か?
・笑い声が聞こえると、苦情が入っているが?
顧客が来て笑っていますけど・・・誰からの苦情ですか?
・勝手にシャワーや仮眠室を使わないように
顧客に聞いたら使って問題ないと言われましたがなにか?
・車やバイクでの通勤は認めていない
最初にいい出したのは、受注会社の部長です。それも、私たちに確認と許可を取りに行かせていますけど?
現場と私たちの距離が近くなればなるほど、受注会社がひた隠しにしてきた事が捲れます。
開発が遅れている事がバレてしまったのです。
慌てたのは、受注会社です。私たちの責任にはできない状況です。私たちも必死で調整を行いますが、無理に近い状況で作業をしていて、これ以上に何ができる状況ではありません。
現場は、状況を薄々感じていたので、驚きはしませんが、上層部は違います。
受注会社を呼び出して、大激怒です。
受注会社は、ここで素直に謝罪しておけば良かったのでしょう。システムの稼働が遅れれば、困るのは顧客です。現状でも、だましだましなら使えるです。手作業が増えて困るのは現場です。でも、現場でもシステムがないと困るのは認識しています。ですので、手作業の部分を受注会社が肩代わりする事で、時間をもらう事はできたのです。事実、倉橋さんは、その様な提案を現場/上層部に投げて居ますし、感触は悪い物ではありませんでした。
しかし、受注会社は禁じ手に近い手法を使ったのです。
パッケージの導入です。
大抵の業種で、パッケージ商品があります。
マイナーな業種でも探せば誰かが作って売っていたりします。それを購入して可動させるという物です。
正直、私たちも最初はこれを検討して、いろいろなパッケージを出している会社に打診しました。しかし、結果はパッケージを導入しても、連結作業に時間が掛かってしまって、ハードウェアの選定からやり直す必要が出てくる可能性もあるので、意味がないという結論に達しています。受注会社にもその旨は伝えてあります。
しかし、受注会社はその手札を切ったのです。
そして、新たな火が燃える事になるのです。
パッケージですから、1つ1つは問題なく使えます。使えてしまうのです。顧客が巨大な病院です。部署も多ければ関連するパッケージも多くなります。それらを連結させなければなりません。それが新たな火種です。
部署単位で動いているので、それでは業務として流して見ましょうとなる。この段階で問題が多々見つかります。
もう時間との勝負になってきます。
受注会社の関係者が泊まり込みで作業を始めます。
倉橋さんは、私たちを交代で休ませたり、帰られそうにない時には、近くのホテルで休ませたりしてくれます。
大本の火には私たちは手出しできません。
受注会社が責任持って作業しますと言っています。そのために、私たちは主に顧客対応やパッケージ会社とのやり取りに終始し、テストを行ったりしています。
火付け現場では、食事に行く時間を削って作業をしているようです。
こんな状態が長続きするわけがありません。戦線離脱者が徐々に出てきています。悪循環が止まりません。
そんなタイミングで火災の中心部に、自分は安全な所にいながら、ガソリンの入ったタンクを置いていった者が居たのです。優秀な営業が顧客に対して、リップサービスのつもりだったのでしょう・・・だと思わないとやっていられませんが、これだけ巨大なシステムですからパッケージ化して販売を検討してみてはどうかと・・・。
まだ完全に動いていない状況で、こんな事をいい出した理由がわかりません。顧客が、他にも病院や施設を持っている事から、ここで発生した赤字を回収したいのかもしれません。
しかし、今のチグハグはシステムではそんな事は、夢のまた夢です。それに、パッケージを導入してしまっている事から、会社間の調整も必要になります。繋げたのは確かに受注会社ですが、それだけです。それに、仕様を決めなければならない部分がまだ多数残っています。専門性があるアプリケーションを作るのはそれほど難しくなりません。顧客との間で信頼性が確保されているのならです。しかし、汎用性がある物を作るには、業界の事を知らなければならない上に仕様的にも矛盾が出てきてしまう事が多々あります。
その優秀な営業が口走った言葉をきっかけに、受注会社は迷走し始めたのです。
赤字を回収する。確かに、必要な事でしょう。
結果・・・・二ヶ月間に続いた現場作業の”中断”が告げられた。
それだけではなく、全員に”帰宅命令”が下されたのです。顧客が、現場作業員の現状を憂いたのです。
作業員全員に、1~2日の休みが与えられたのです。私たちは、2日の休養が与えられました。
確かに、身体は疲れています。
久しぶりの休暇です。夕方の街を歩くのも久しぶりです。
そんな中で、倉橋さんが
「久しぶりに歩いたら疲れた。ちょっと休みたい」
近くに公園があるので、そこで休む事にしたのです。
すぐに帰って寝たい人も居るので、公園に行く組とすぐに帰る組に分かれます。私は、公園で少しだけやすんで帰る事にしました。実際問題として、夕方になっているので、帰宅時間と重なってしまって、満員電車で帰るのが少しじゃなく億劫に思えていたのです。
公園に残る人は最初はそれほど多くなかったのですが、帰宅ラッシュの事を思い出したのか、最終的には、18名が公園で時間を潰す事にしたのです。
倉橋さんが、
「悪いんだけど、そこのコンビニで、人数分の何か飲み物と軽く食べられる物を買ってきてくれ」
そういって、私を含めた若手数名に自分の財布を渡して、公園のブランコに座ったのです。
倉橋さんは確かに・・・財布を受け取った私に対して、
「流石にちょっと疲れたな」
そういったのです。
若手たちで、手分けして人数分の飲み物とスナック菓子やコンビニのお惣菜を買って帰って来て、残っている従業員に分けます。倉橋さんの右腕と称される真辺さんが、座るためのレジャーシートを数枚買ってきてくれました。
私たちは、そこに買ってきた物を広げて、各々座って時間を潰します。
「倉橋さん。いつものコーヒーでいいですか?ホットとアイスありますけど?」
「おっ悪いな。アイスをくれ・・・あっ余分にあるなら、ホットも置いておいてくれ」
「わかりました。あっお財布」
「あぁ足りたか?」
「大丈夫でした」
「そうか・・・それならいい」
ブランコに座りながら、アイスコーヒーを飲みんで居る。
倉橋さんを私は見つめるしかできない。この人がどんな大変な事をしているのか、私は片鱗しかわからない。でも、この人が私たちが大変だけど、しんどいけど、充実した日々になるように踏ん張ってくれているのは知っている。
私は、女として、倉橋さんの事が好きだ。年齢は離れている。告白なんてするつもりはない。今感じている気持ちも、よくわからない。憧れなのかもしれない。ただただ、この人の側に居たいと思う気持ちは、私の中で確固たる物だ。
「倉橋さん」
「ん?あぁこれから・・・そうだな。俺たちは・・・ほら、見てみろよ」
疲れているのだろう。
でも、笑顔がいつもの倉橋さんだ。
見てみろと言われたのは、夕焼けに染まった空だ。
「綺麗ですね」
「そうだな。空は、いつも同じだよ。俺たちが見ているのも・・・そうだよな。まだできる事はあるよな」
誰に言っているのでしょう?
私では無いのは解ります。倉橋さんは、ブランコに揺られながら、空を見上げて居ます。
「・・・くら」
「少し疲れたな。1時間くらい寝る。まだ大丈夫だよな?」
「え?あっはい。わかりました」
私もレジャーシートに座る若手の所に戻ります。
私が、倉橋さんの事を好きな事は誰にも言っていません。
1時間が過ぎちょっと肌寒くなって来たので、倉橋さんを起こして帰ろうかという話になりました。
真辺さんが、倉橋さんを起こしに行くようです。私たちは、レジャーシートを片づけて、周辺のゴミをまとめて、コンビニのゴミ箱に捨てに行ったのです。
その時に、真辺さんの怒鳴り声が聞こえます。
「おい!救急車!いや、病院まで誰か走って、医者呼んで来い。医者・・・たのむ、誰か医者を・・・救急車・・・」
真辺さんの声が、夕暮れも終わり、夜に入りかけている空に響いたのです。
倉橋さんが、見上げた綺麗だと認めてくれた空に虚しく声が吸い込まれて行くのです。
fin
私は、この図書館が好きだ。
でも、街の事情とやらでこの図書館は今月末で閉じることが決っている。
今日は、その月末だ。ほとんどの本が持ち出されている。近隣の図書館や学校に送られているのだと言っていた。残された本は、痛みが激しかったり、引き取り手が居なかった本達だ。
閉じることが知らされた時に、私は会社を休んで図書館を訪れることに決めていた。会社の同僚にはバカにされたが、自分が好きな場所がなくなるのだ、そのくらいはいいだろうと思っている。
図書館に残された本は、欲しい人が持ち帰っていい事となっていた。
ただもう痛みが激しかったりする本ばかりで価値があるとは思えない。それでも多くの人が図書館に訪れている。本を漁って内容も見ないで、汚れているか・・・だけを見て持って帰っている人たちが沢山居た。古本として売るつもりなのだろうか?
別にそれはそれでいいと思うだけど・・・これだけの人がいつも図書館に来てくれていたら・・・この半分でも図書館で本を読んでくれていたら、街も財政難を理由にしてこの図書館を閉じようとはしなかったかもしれない。
私は、空いていたテーブルに座って、そんな人たちを眺めていた。
喧騒と言うのだろうか、普段は静かな図書館が今日は話し声だけではなく・・・言い争いの様な声まで聞こえてくる。
顔なじみになった職員さんが話しかけてくれる
「今日で最後ですね」
「お疲れ様です。この後は?」
「私ですか?」
「えぇ」
「別の図書館で働く事も考えたのですが、そんな気持ちにもなれないので、どこかで”本”に関わる仕事を探す事にしますよ」
「そうなのですね」
「えぇこんな状態ですが、貴女に一冊の出会いがある事を祈っています」
「ありがとうございます」
一冊の出会い・・・かぁこの図書館では、本当にいろんな本を読んだ。始めてきたのは、小学校にあがる前だったと思う。お父さんに連れられて、”沢山本があるところに連れて行ってやる”と言われて喜んだ記憶がある。それから、何度か連れてきてくれた記憶があるけど・・・小学校に上がる頃には、もう1人で来ていた。あれ?1人だったのかな?誰かと一緒に来た事もあると思うけど・・・思い出せない。
辺りを見回すと、普段の図書館が戻りつつ有る。本がなくなった棚が寂しく見える以外は変わりがない風景が戻ってきた。
本の転売目的で来ていた人たちはほとんど姿を消していた。一冊十円にもならないだろう本を得るために、朝から並んで・・・ご苦労な事だな。
残っているのは普段から図書館を使っていた人たちだ。話をした事は無いが、よく見かける人たちだ。街中で見かけたら会釈くらいはする関係になっている。
皆、本が好きなのだろう。残された本を一冊一冊取り上げてページをめくっている。そして、そっと棚に戻している。
私と同じ考えなのだろう。誰か、他の人が持って帰るかもしれない。最後に残っていたら持って帰ろうと思っているのだろう。私は、いつものように本を持ってきてページをめくっている。何度か読んだことがある本だ。この本の面白いところは、犯人当てを、欄外で読者がやっている事だ。いたずら書きで犯人の名前を書き込む人が多い中少し違ったいたずら書きだ。”俺はここが伏線だと思う”という書き込みに、”残念ここは伏線ではない。伏線に見せたダミーで本当の伏線は少し前にある”とか書き込まれている。実際は、両方共伏線でもなんでもないのだが、そういう書き込みがされているのだ。いたずら書きはダメだが、ちょっとした遊び心が見られる書き込みは好きだ。
違う本には読めない漢字なのだろうか、マーカーで印を着けて欄外に読みを書いている小説もある。
夏休みの課題図書になっていた小説の最後に感想文が挟まれていた事もあった。
私は、この図書館でかなりの時間を過ごしてきたのだろう。沢山の本と出会った。そして、沢山の本を読んだ。沢山の人の考えにふれる事ができた・・・そして、沢山の事を知った。
今日この図書館は時間を止めてしまう。
私は残された本の中から一冊だけ持って帰ろうと思っている。どの本にするのかはまだ決めていない。
本を読みながら、最後に借りていく一冊を決めようと思っている。貸出禁止の本でも今日は大丈夫と聞いている。
何冊も本をめくっている。
私の近くに、常連さん達が本を持ってきて読み漁っている。そして、本の山が築かれている。持って帰るのかな?貸出は、3冊までだが今日は大丈夫なのかな?
ボロボロの本を、懐かしむように読んでいる人も居る。
古い古い雑誌を見つけて、笑顔でページをめくっている人も居る。
その人にしかわからない最高の一冊なのかもしれない。
どのくらい時間が経ったのだろう。
図書館に夕日が差し込んでくる。もう閉館の時間だろう。最後の一冊を選びきれていない。
図書館を最後に一周回ってみる事にした。普段足を向けない場所にも本は有る。
普段は、子供に読み聞かせをおこなっている場所がある。絵本や童話などが置かれていた。
棚に一冊のボロボロの絵本が残されていた。
私は懐かしさに絵本に手を伸ばす。子供の時に好きだった絵本だ。誰かと奪い合って読んだ記憶がある。あれが誰だったのか思い出さない。
絵本の発行年を見ると、かすれて見えないが、私が産まれた年のようだ。この本は、私と同い年なのだ。
図書館の貸出用のバーコードも剥がれてなくなってしまっている。
”間もなく閉館のお時間です。27年間本当にありがとうございました。職員一同感謝致しております”
27年間。
私も、図書館も、そしてこの絵本も同じ時間を過ごしてきた。
私と同い年だったのか・・・。私は、同い年の絵本を最後の一冊として借りていく事にした。皆、考える事は同じようで、図書館カードを取り出して、借りていく手続きを職員にやってもらっている。
バーコードが付いていない本は貸出禁止だが、今日は違う。書籍名で処理を行ってくれている。
今日で使えなくなってしまう図書館カードだが、お財布の中に入れてお守りのように持っていようと思う。
「サトザキ様ありがとうございます。返却は1週間後です。よろしくお願いいたします」
いつものセリフがありがたい。
絵本を受け取る。いつものように、一緒に渡した袋に入れてくれる。
「ありがとう。お疲れ様」
「はい。返却先はなくなってしまいますので、どうぞ末永くお手元において下さい」
「解りました。あっほかの子たちは?」
「大丈夫です。一冊も残さず職員たちが連れて帰ります」
「良かったです」
「はい。気にかけて頂きありがとうございます」
他の常連さん達も本の行く末は気になっていたようで、安堵の声が聞こえてくる。
職員さんは、本の傷一つ一つを慈しむように触ってから、常連さんに渡している。
---
私が住んでいる家は、団地の中にある。母と二人暮らしだ。
「ただいま」
今日は、母のパートはお休みのはずだ。もしかしたら、人手不足だからって呼び出されたのかもしれない。
ダイニングと呼ぶには少し狭いが、母と二人なら十分の広さのテーブルに、借りてきた本を置いて自分の部屋に入る。
「ご飯どうしよう・・・なにか作って・・・その前に、連絡してみよう」
母にメッセージを送っておく。
1時間程度で連絡が来なければ、なにか適当に食べることにしよう。作る気分にならなかったら、外に食べに行ってもいいだろう。
着ている物を脱いでベッドに横になる。
今日の出来事を思い出しながら、枕元においてある読みかけの小説に手をのばす。
あぁ・・・そういえば・・・あの子も本が好きだったな・・・。
---
「ただいま」
あの娘。
図書館に行くとは言っていたけど・・・。ご飯食べに行っていないの?
玄関に残されている、娘の靴を見て不審に思う。
たしか、私がパートに呼び出されて、すぐに娘からメッセージが来た。メッセージには、遅くなるから勝手になにか食べてと返している。
てっきり外に食べに行ったと思ったのだけど・・・なにか作ったのかな?
キッチンは使われた形跡が無い。
ダイニングには、図書館から借りた本をいれる袋が置かれている。
そう言えば、あの図書館ができたのは、あの娘が産まれた年だったな。
27年間・・・そのうち、21年間あの娘と二人暮らし。小学校に上がる年だったからな。
図書館から何を貰ってきたのだろう。
確か、今日で最後だから残った本は好きに持って帰っていいと告知されていたはずだ。あの娘の本好きは、あの人に似たのかな?違うかな?でも、3部屋ある一部屋があの娘の本で埋め尽くされているのは間違いない事実だ。
あの娘が今朝出かける時に、
「今日は、一冊だけ借りてくるよ」
「借りてくる?貰ってくるの間違いじゃないの?」
「ううん。借りてくる。返すことができるかわからないけど、やっぱり図書館からだから、本は借りてくるが正しいよ」
「そうね。行ってらっしゃい」
「うん。行ってくる!」
本好きのあの娘が選んだ最後の一冊か・・・。本をあまり読まない私にはわからない感覚なのだろうな。
何気なくどんな本なのか気になって確認した。
「え?」
その本は、一冊の絵本だった。
私に・・・ううん。私たち家族にとって、忘れられない絵本だ。あの人が娘にと買ってきた絵本だ。
この汚れて破れている表紙に見覚えがある。蝶になりたい芋虫姉弟の話だ。綺麗な蝶になりたい芋虫の姉弟が、蝶になるために、いろんな虫に方法を聞いて歩く。最後・・・どうなるのだっけ?
あの娘は、この本を覚えていて、この本を選んだの?
でも、覚えているとは思えない。あの人の事も、あの子の事も忘れてしまっている。
あの娘が5歳くらいで、あの子が3歳だったはず。
あの人に連れられて、図書館に行って・・・そして、あの人とあの子は帰ってこなかった。
今、どうしているのかわからない。生きているかもわからない。失踪届を出した時に一度連絡があった。
ただ一言だけの連絡だった。
それから、あの娘と二人暮らしだ。
芋虫姉弟の最後が気になって、ページを開いた。
気丈に振る舞う姉芋虫。泣き虫の弟芋虫を連れて歩く。
虫たちは、親切に教えてくれる虫もいれば、イジワルに嘘を教える虫も居る。
蛾に出会って、お父さん蝶とお母さん蝶に聞けば解るよと教えられる。
絵本はここでページが破られてしまっていた。
最後のページは、蝶になった姉弟が再会する場面で終わっている。
絵本の最後のページにメモが残されていた。
誰かのいたずらだろうか?汚れた本にふさわしくない綺麗なメモだ、最後に手にとった、あの娘に向けたメッセージなのだろうか?
これは見ないほうがいいだろう。
あの娘が本を読む時に、一緒に見せてもらおう。
「あれ?お母さん。おかえり、ごめん、寝ちゃった」
「いいよ。ご飯にしようか?」
「うーん。そうだ。お母さん。今日、私が出すから食べに行かない!?」
娘はそう言って私の手を引っ張って、駐車場に停めてある車に乗り込んで、近くの定食屋に連れて行った。
そして、今日一日のことを話してくれた。
沢山、本を読んだこと、本を読む人を見ていた事。
そして、図書館が無くなって寂しいという事。
最後に借りたのが”芋虫姉弟の大冒険”という絵本であること。なぜか、最後に一冊だけ絵本が残されていて、寂しそうだったからという事や、自分と同い年だったとか・・・いろいろ話を聞かせてくれた。
あの絵本は、娘にとって”最高の一冊”なのだろう。
家に帰って一緒に読もうと言ってくれた。覚えているとは思えない。娘が、泣きながら握っていたページを私は保管している。娘に、ページを見せながら、話してもいいかもしれない。
あの人の事や、あの子の事を・・・。
---
姉さんに謝らないと・・・。
姉さんが大事にしていた本・・・絵本を、僕が持ち出してしまったことを・・・。
もう20年以上前のことだが、昨日のように覚えている。
あの日は、姉さんと僕は父に連れられて図書館に行った。姉さんは、本が好きだった。僕は、姉さんが持っている本を横取りするのが好きだった。今なら解る。僕は姉さんにもっとかまってほしかった。だから、姉さんが読んでいる本を奪って居たのだと思う。
あの日も、父が、姉さんに向かって”本が一杯あるところに連れて行ってやる”と言っていたそして、姉さんはすごく喜んでいた。僕は、それがすごく不満だった。そんな場所では、姉さんと遊べない。姉さんの気を引きたくて、姉さんが大事にして毎晩読んでいた本を黙って持ち出した。
父は約束通りに図書館に連れて行った。
自分は、僕と姉さんを絵本がある部屋に預けると、どこかに行ってしまった。今なら解る・・・。浮気相手のところに行ったのだろう。姉さんは、沢山の本に囲まれて幸せそうにしていた。絵本の読み聞かせのような事をしていて、それを熱心に聞いていた。
僕は、姉さんが大事にしていた絵本を取り出して破いた。なんでそんな事をしたのかは覚えていないが、そうすれば姉さんが僕の方を見てくれると思った。
しかし、それは違っていた。
姉さんは、僕が破いたページを手にとって、泣き崩れたのだ。
それから・・・僕は、姉さんの絵本を持って、図書館を飛び出した。よく覚えていないが、それから父と一緒に生活する事になった。
その父が3年前にガンで死んだ。僕の大学卒業と就職を見届けてからだ。
僕は、父と二人暮らしになっていた。子供の頃には、新しいお母さんだと紹介された人も居たが、僕が小学校にあがる頃からは二人暮らしだった。
二十歳になった時に、父が教えてくれた。自分がガンだという事と一緒に・・・だ。
母さんだと思っていた人は、再婚だと・・・籍は入れていないから正確には再婚ではないらしい・・・姉さんは母さんの連れ子だ。あの日図書館に連れて行ったのは、姉さんを置き去りにして僕だけを連れ出すつもりだったのだと言っていた。その後、新しい人ともうまく行かなくて、僕と二人暮らしになった事を謝っていた。
それから二年。父は治療を拒否して、死んでいった。葬儀は、父が勤めていた会社の社長が手配してくれた。退職金が出せない代わりだと言ってくれた。
明日。
懐かしい街に行く事にしている。会社には、有給届を出した。上司は理由を聞かないで受理してくれた。
明日、僕と姉さんが別れた・・・最後に泣かせてしまった場所がなくなると聞いた。
あれから違う街に住んでいて、足を運ぶことが無かった場所だ。もし、姉さんが覚えていてくれたのなら、最後に図書館に来てくれるかもしれない。懐かしいこの本を手にとってくれるかもしれない。
そして、本を読んで・・・僕が残したメモを見てくれるかもしれない。
メモには、父と僕の名前と今住んでいる住所が書いてある。
ただそれだけのメモだ。本から落ちないように最後のページにしっかりと挟む。
---
僕は、疲れた身体を引きずりながら・・・玄関の鍵を開ける。就職して、父との部屋から引っ越した新しい部屋だ。ワンルームだが、寝るだけの部屋だと割り切っている。テレビも何もおいていない布団しかない部屋だ。
インターホンが光っている。
来客の予定なんてないし、セールスマンか、新聞の勧誘か、N○Kか、宗教の勧誘だろう・・・。
どうやら、違った・・・郵便のようだ。
なにか荷物が有ったようだ。マンションの1階にある宅配ボックスに預けたと伝言されていた。玄関に戻って、ポストを確認すると不在票と一緒に4桁の番号が書かれていた。宅配ボックスをあけるための番号なのだろう。
1階に戻って、宅配ボックスを開ける。
僕のマンションの郵便受けの口が小さくで入らないので、宅配ボックスに入れたようだ。
宛名は確かに僕になっている。裏側を見ても、差出人が書かれていない。
A4よりちょっと大きいサイズのようだ。手触りから、プチプチで巻かれているようだ。宛先は几帳面な字で女性のようだ。
受け取った荷物を持って、部屋に戻る。
荷物は・・・一冊の古い古い破れて汚れている”芋虫姉弟の大冒険”という絵本だ。
急いで取り出した。
便箋が入っていた。
姉さんだ!
しかし、何も書かれていない。
二枚目に、宛名書きと同じ几帳面な字で書かれていた事は、少なかった。
”話は、母から聞きました。忘れていてごめんなさい。でも、本を破った事は許しません。なおしてから返しに来なさい”
そう書かれていた。
そして、姉さんの名前と住所が書かれていた。
絵本には、破かれたページが挟まっていた。そこだけ時間が止まったかのように綺麗な色をしていた。
---
僕は、本の修繕をしてくれる所を探した。
今日本が直ってきた。
姉さんのところに持っていこう。今日いきなり行って会えるかわからない。
それなら、また訪ねればいい。
会えたのなら・・・まず、姉さんが大事にしていた”芋虫姉弟の大冒険”を破ってしまった事を詫びよう。
そして、寂しかったと素直に言おう。
fin
私の会社は・・・私が就職した会社は、IT企業だ。とある大企業の子会社になる。
社長は関連会社と言っているがどう見ても子会社だ。資本関係がないので、子会社で無いのはわかっているが、役員などはとある大企業の元部長だとかが就任している。ちなみに、肩書だけなのか、会社でその姿を見た事がない。
別にそれを不満に思う事はない。仕事内容も別段大きな問題はない。ただ、システム会議に出ると、自分たちの立場を再認識させられるだけだ。私たちは、邪魔な存在だと現場では認識させられている。
なので、親会社の業績がダイレクトに自分たちに影響される。
私たちは、業績が良かった翌年採用組だ。その数、150名にものぼる。私たちの前年が50名の採用という事なので、その数からも異常な事はわかってもらえるのだろう。女子が60名。男子が90名の大所帯だ。
最初の一週間は、合宿という名前の研修会が6泊7日で行われた。大企業の保養所を借りて行われている。健康診断から始まって、仕事のやり方や考え方を詰め込み式で教えられる。
仲間同士の連携を強めるというなんだかよくわからないカリキュラムも組まれていた。
一年上の先輩や二年上の先輩たちも参加して、いろいろ教えてくれる。昼間の業務に関しての講義よりも、夕食後に行われるオリエンテーションで教えられた、会社内の人間関係の方が、これからの社会人生活で必要な知識だと思えた。
セクハラをナチュラルに働いてくる部長や、44歳童貞で目線が合えば自分に惚れていると勘違いする課長。言葉使いは乱暴だけど面倒見がいいリーダ。近づいてはダメな部署とフロア・・・そこの部長やリーダに見初められて引っ張られるとタイムカードがなくなる代わりに月の残業時間が150時間越えがデフォルトになる部署。
バカな副社長の話。見たこともない取締役の存在。
優しいけど狂気を感じる人達・・・。そんな会社内の事をいろいろ教えてくれた。
その後は、部署と仕事内容を教えてくれた。
表で説明された事とは違う内容が語られるのだった。
先輩たちが、笑いながら話している内容も衝撃的だった。
先輩たちの同期は50名と教えられていた。実際には、70名近く居たのだと教えてくれた。
それでは、居なくなった20名はどこに行ったのか・・・辞めていった人たちはまだましな方だと言っている。
正直、意味がわからない。
”飛ぶ”という言葉を教えられた。仕事を飛ばしたとか、あいつは飛んだとか、来週までにできなければ飛ぶとか、使い方はいろいろあるが、一番多いのが、”あいつ飛んだぞ”だと言っていた。伝わりにくい感じだったが、意味的には”あいつ失踪したぞ”が一番近いのではないだろうか?
失踪できるのならまだ幸せな方だとも教えられた。
”心が飛んだ”人も沢山見てきた、”心が逝ってしまった”人も沢山見てきた。居なくなった20名のうち半数は、会社を自主的に辞めていった者たちだが、残りの半数は”飛んでしまった”人たちのようだ。
そんな中、先輩たちが忘れられない人が1人居るのだと言っていた。
毎日、決められた時間に、決められた場所に出社して、”青い鳥”をひたすら待っているのだ。
”心が壊れて”しまった人なのだ。
その人は、寒い地方出身の人で、大学卒業後に親会社に入社した。
親会社の人事異動の噂を聞いて、自分の首が切られると思いこんでしまった。優秀な人だったようだ。大企業に入られるくらいなのだが優秀だったのだろう。学校の成績も良かったと言っている。
人事異動の噂を聞いて、リストラの恐怖に怯え・・・そして、心を壊してしまった。
親会社には”置いておけなくなって”関連会社に出向の形で、私が入った会社に押し付けられた人。給与面を始め、会社にもメリットがある。
毎朝出勤してきて、窓際の部長席に座って、窓の外を見て”青い鳥”が自分の所に来てくれるのをひたすら待っている。
肩書は、部長。
部下は、飛んでしまったがすぐに首にできない者たち。部長以外出社してこない部署。社内コード”BB”と呼ばれている。
BB部長は時間には正確だ。
9時10分前に出社してくる。遅れるのは、電車が遅れたりしたときだけ・・・。何がそうさせているのかわからない。わからないが、毎日窓の外を飛んでいく鳥を眺めている。そして、青い鳥をが来てくれると信じて・・・待っている。
私たちの研修が終わって各部署に配属されていく、150名居た同期が、130名に減っている。
あれだけ辛かった就職活動を乗り越えたのに、たった3ヶ月の研修期間の途中で心が折れてしまっているのだ。
3ヶ月の研修期間は、ひたすら出される課題をこなしていくだけの日々だ。
最初の一ヶ月はプログラムの基礎を叩き込まれる。プログラムに関しての初心者も居るために、二つ別れての講習だ。私は、初心者コースを選択した、学校でプログラムを習っていたが、合宿中に聞いた話しで、学校でのプログラムと実践のプログラムは別物と教わった。自信が無いわけではなかったが、私は初心者コースを選択した。この選択が間違っていなかった事を実感した。
学校で習っていた/できている気になっていたプログラムでは役に立たない。
根本的に違うのだ。ブラックボックスを作っても、動かさなければならない。学生のときには、動いた時点で作業の8割か9割が終了していた。仕事とする場合には、動いて当たり前、そこからが勝負だと教えられた。動かなければ無価値。動いて当たり前。だから、まず動かす事が目的になってくる。
その上で、付加価値を付けていく。メンテナンス性を高めたり、ソースコードの流用性を考えたり、ドキュメントを入れる事も当然なことだが、単純に読みやすいソースコードではなく、難読性を持ったソースコードにしなければならない。自分だけのソースコードにしろと言われた、独自性が大事だと言われた。
動かすだけなら自信が有ったが、その後のことなど考えても居なかった。
初心者コースでこれなのだから、実践コースはさぞすごいだろうと同期に話を聞いた。
私の予想とは違っていた。実践コースでは、先輩が客になり、同期たちはチームを組んで仕事を受ける事から始めているようだ。プログラムの”プ”の字も出てきていないと言っていた。
2ヶ月が過ぎた時に、私たちは実践コースに合流した。
私たち初心者コースがプログラムを作成する事になる。ここで、逆転現象が発生する。実践コースに居た同期は、少なからずプログラムに自信があったメンバーなのは間違いはない。だが、彼らの作るプログラムが使い物にならないのだ。二ヶ月間ひたすら作り続けてきた私たち初心者コースのプログラムの方が仕事として依頼されている事をカバーできているのだ。
万全ではないのはわかっているが、それでも実践コースの者たちよりも”まし”なのだ。先輩方もそれは認めてくれている。認めないのは、実践コースに居たプログラムに自信があった人たちだ。
そして、彼らの中から有名大学を出て、プログラムに自信があると言っていた自慢していた同期が壊れた。
出社時間になっても出社してこない。
私たちは慌てるが、先輩方は、”またか”程度の反応しか示していない。そして翌日先輩から”自殺未遂をした”事を教えられた。発見が早くて命に別状は無いらしいが、まともに会話ができない状況だという事だ。しばらくBB部署に席を移して、タイミングを見て本人に確認するということだ。首宣言にほかならない。
その事実を聞いて、翌日から来なくなった人たちが出た。
辞表を提出してきた者はまだましだと言っている。メールで”辞めます”と言ってきたり、母親や父親が怒鳴り込んできた場合もあった。
翌週、私たちは研修を終えて、部署に配属された。
先輩たちもこの状況になるのがわかっていたのか、対応が早い。
心が壊れてしまった人たちは、BB部署に移動となった。彼らの中にも出社してくる者も居る。
仕事をしていないわけではない。モンキーテストと呼んでいたが、同じことをひたすらやったりするテストを担当していたりする。人手は欲しいのだ。部署によっては、重宝している場合も多い。私が所属した部署でも、BB部署に仕事を依頼する事がある。
BB部長は相変わらず、青い鳥を待っている。私たちが頼んだのは、今担当している仕事が、毎週の様に会議があり、会議の資料を大量に印刷して紐で閉じる作業を行うのだ。BB部署に手伝ってもらっている。全面的に任せるなと言われていて、私が彼らとの橋渡しをしている。
BB部長は、本当に正確だ。
時計を見ないでも、決まった時間に出社して、決まった時間にトイレに行き、決まった時間に昼ごはんを食べて、決まった時間に帰っていく。
私は、そんな部長を出社してくるのを待つ事から始まる。
挨拶にも返事を返してくれる。ただひたすら”青い鳥を待っている”以外は普通なのだ・・・。BB部長に何が有ったのかは聞いている。BB部署に配属された同期がどうなっかも聞いている。
私は、”青い鳥を待つ”ことはできないだろう。きっと探しに行く方を選ぶだろう。
”待つ人”を見ながら、待つことができない仕事を行う。
そんな、”待つ人”が居るBB部署が、閉じられる事が決まった。
親会社が、BB部長に出していた仕事を打ち切る事を決めたのだ。
それにあわせて、私の会社でも、BB部署を解体する事が決まった。部署に居た人たちは、自宅待機が言い渡されて、3ヶ月後に自主退社に追い込まれる事になる。
待つ状態になっている人たちは、親兄弟に連絡をして事情を説明する。
BB部署はこの時点で13名。全員が、親御さんに引き取られるように、会社を辞めていった。
BB部署が解体されていから、初めての春。新人たちも入ってくる。
私は研修を担当する事になった。その時の新入社員は約30名。私たちのときとは規模が違っていた。
それでもやることは変わらない。
私たちの”部下を持つ事への試験”でもあるのだ。
合宿を終えて、研修が始まった。
”待つ”ことの難しさを知った。
自分たちなら1日あればできる事が3日経ってもできてこない。二日間遊んでいるわけではない。真剣にやっているのだ。
たった1~2年の違いでここまで差が出る事なのか?
それが信じられなくて、他の部署の先輩方に話を聞きに行った。答えは同じだ。そんな物だと・・・。
自分たちではできていたと思っていたが、同じ様な感じに見えていたのだろう。
研修も私たちの仕事は、待つ事だ。もちろん、自分が実際に担当している仕事もある。それをやりつつの研修なのだ。
先輩たちはもっと上手くやっていたのでは無いだろうか?
新人だった私たちに笑いかけてくれていたのではないか?
日々の仕事をこなしつつ研修を行う。
追い込まれていく、既に教官だった同期が3名辞めた。
新人も、6人が辞めていった。それでも私たちは仕事をして研修を行う。
来週で研修が終わる。
週明けには、新人たちの配属先が決定する。私たちも、配属会議には出席している。
新人の中に不穏な噂が流れている。BB部署の話だ。
部署は解体されているし、はじめからその部署に配属される事はない。そう言っても、噂のほうが声が大きいようだ。今年誰かが、最初からBB部署に配属されるという話だ・・・配属会議でもそんな話にはなっていない。
教官が、配属部署を決めているとさえ噂が流れている。
週明けになれば、そんな噂が嘘だった事が証明される。
私たちはそう考えていた。
月曜日の朝。
私は、営業の篠原さんからの電話で起こされた。
時計を確認するが、朝の6時。間違いない。何度も確認した。10時までに出社すればいいので、私は朝は7時30分に目覚ましをかけている。
「はい」
「寝ていたか?」
「はい。いえ、大丈夫です」
「寝起きの女性にこんな事を頼むのは悪いのだけど、10分で支度して会社に来てくれ」
「え?あっわかりました」
「理由は、メールしておく、9時前には必ず来てくれ」
「わかりました」
篠原部長の無茶振りは有名だ。
一番の被害者である真辺部長が嘆いていた。無茶振りはするが、無駄な事はしないと言われている。何らかの問題が発生したのだろう。篠原部長からの連絡だと考えると、新人絡みなのだろう。仕事なら、部長から連絡が入るはずだ。
言われた通りにしようと思ったが、準備に15分かかってしまった。
丁度、お父さんが起きていたので、駅までの10分を車で送ってもらう事で短縮する事にした。8時40分には会社につけるだろう。
篠原部長からメールが入った。
内容は簡潔に書かれていた。
”新人の田中が、教官をしていた佐藤を刺して、その場で自殺した”
という内容だ。
田中と言われてピンと来なかった。佐藤はわかる。同期だ。正直苦手なタイプだ。BB部署の事を負け犬などと平然と言っていた。鼻持ちならない言い方をするやつだ。でも、刺されるような事はない・・・と思う。
会社前には、数名の知らない人と社長と副社長と数名の部長だ居た。
新人は1人も居ない。教官役をしていた同期が数名居るだけだ。
知らない人たちは、警察だった。
私たちの話を聞くために待っていたのだ。会社の一室を使って、警察が教官一人ひとりに話を聞いている。私はここで暫く待って欲しいと言われた。刺された同期は命に別状はないらしいが、自殺した新人は手遅れだったようだ。
遺書も無ければ、今日も普通に出社するといって家を出たのだという事だ。
彼は、何を見て、何を考えて、自殺などという行為を選んだのか?
警察の問いかけに、私は知っている事を答えるだけで精一杯だった。
そして、警察が使っていた部屋が、BB部署の、BB部長の机だ。
今での、BB部長は”青い鳥を待っている”のだろうか?それとも、待つことを辞めて探しに行ったのだろうか?
同期を刺した新人は、待つのではなく、探しに出かけたのかも知れない。
この事件をきっかけに、150名居た同期で残ったのは、17名。新人は3名だけになっていた。
親が怒鳴り込んできたパターンもあった、泣きながら辞表を提出した同期も居た。次は自分が刺されるのではないかと、恐怖におびえている同期もいた。
私は、それでもこの仕事を続けていこうと思った。
まだ自分なりの答えが見つかっていない。答えが見つかるまでは、この場所で青い鳥を待つのもいいかも知れない。
---
「おい。ナベ。お前の所で預かってほしい奴が居るけど大丈夫か?」
「旦那。わかっていますか?俺の所は、火消し部隊ですよ?」
「少し問題が有るからな」
「問題?」
「この前の話は聞いたか?」
「えぇ聞きましたよ。あれは、教官が悪いですね」
「そういうお前だから頼みたい」
「って言うからには、教官の1人ですか?」
「あぁ正確には、1人だけ残った教官だな」
「そりゃぁ確かに、他の部署じゃ扱えないですね。爆弾を中に抱え込むような物ですからね」
「あぁそうだ」
「わかりました。最終的には、会って話を聞いてからですがいいですよね?」
「あぁもちろんだ。今、彼女はBBで待たせている」
「BBで?待たせている?どのくらい?」
「あぁ彼女が自ら望んだことだ。BBで、待ちたいとな。青い鳥でも来てくれるのを待っているのかも知れないな」
「笑えない冗談はやめてくださいよ。でも、わかりました。それで心が残っているようなら、俺が鍛えますよ」
「頼む」
「そうだ・・・名前は?」
「石川だ。今年3年目だ」
---
私は待っている。
青い鳥を?
違う。違う。違う。
私は、青い鳥なんて待っていない。
私が待っているのは、火消し部隊の真辺真一部長だ。
変わり者だと噂されている。
私が次に配属される部署の部長を待っている。篠原部長が言うには、前の部署には戻れないと言われた。理由はわかるだろうとも言われた、正直わからなかったが、わかりますと答えた。篠原部長から提案されたのが、真辺部長の部署に移動する事だ。
それでも必ず移動できるわけではないと言われた。厳しいことを言うようだけど、あの部署は特殊な部署で即戦力しかいらない部署だとも教えられた。真辺部長自らがスカウトしたり、他の会社から引き抜いた人たちで構成されている特殊な部署だという事だ。
篠原部長から”火消し部隊”の説明と、真辺部長の説明を受けた。
考える時間をあげると言われた。会社内のどこで待っていてもいい。2時間後に真辺部長と面談する事になる。
私の心は決まっている。
火消し部隊だろうと何であろうと逃げないと決めた。その決意表明の意味も込めて、篠原部長には
”元BB部署で待っています”
と告げた。
私にとっての青い鳥が真辺部長かわからないが、今、私は真辺部長が来るのを待っている。
fin
今日も目が覚めた、白い天井を見つめる。
目が覚めなければいいと本気で思った。私が死んでも誰も困らないし、悲しみもしないだろう。
両親は殺された・・・。弟も殺された・・・。祖父母も殺された・・・。なんで、私も一緒に連れて行ってくれなかったの?
マスコミを名乗る狂人が今日も家の外に居る。
あの人達は、私が死んだほうが良かったと思っているに違いない。窓からカーテンを少し開けて外を見る。やはり、狂人が沢山居る。そんなに、私が生き残った事が不満なのだろうか?
学校からもやんわりとだけど、登校してこないように言われた。
もともと、学校なんて面子で行っていたような物だ。こんな状況で行こうなんて思わない。
スマホも解約した。
もともと、メッセのやり取りをする友達も、心配して電話をかけてくる友達も居なかった。
私の両親と弟と祖父母を殺した奴が捕まった。
ただ、そこに居てむしゃくしゃしたから殺した。たったそれだけの理由だ。
狂人の中の1人が面白そうに教えてくれた。
私に何を言えというのだろう。悲しいですか?って聞かれて、悲しくないと答えるとでも思っているのか?
私の両親と祖父母が多額の保険金に入っていた事がわかった。
全員で2億円にもなるようだ。これも、狂人が嬉しそうに笑いながら教えてくれた。
嬉しいですか?
そう聞かれて本当に狂人だと思った。2億円。確かに大金だ。大金だが、私は2億円を得るよりも、両親と一緒に約束していた京都旅行に行きたかった、冬に白くなる庭を眺めながらこたつに入って祖父母とみかんを食べたかった。弟と喧嘩しながら楽しくゲームを楽しみたい。
そんな些細な幸せを、たった2億円で売り渡すとでも思っているのか?聞いてみたい”貴方に2億円全部上げるから、両親と弟と祖父母を殺させてくれ”と、狂人なら喜んで許可してくれるかも知れない。
立ち止まって睨もうかと思った。
狂人には何を言っても通用しない。彼らは、私の反応を楽しんでいるだけなのだ。
狂人は”私が2億円をもらう事がわかった”と記事した、そして”せめてもの慰め”なんてもっともらしい言葉を付けてくれた。
それから、親戚を名乗るハイエナからひっきりなしに連絡が来た。
私は電話を解約した。
父親がやっていた会社から弁護士を名乗る人物がやってきた。
会社を専務達が買い取りたいということだ。私に、17歳の女子高校生に会社経営なんかできるわけがない。そんなことくらい私にも理解できる。理解できるが納得できる事ではない。祖父母が立ち上げて、父が大きくした会社を何もしていなかった人たちが後を継ぐなんて考えられない。
最初にそう伝えた。次に、条件なる物を持って弁護士が訪ねてきた。
会社の時価総額の倍で買い取りたいと言ってきた。
専務たちがマスコミを名乗る狂人に私が理不尽に値段を釣り上げていると情報を流した。
そして、法律的な事を偉そうに2時間に渡って話していった。
私は、会社名を変更することを条件に相場で会社の売り渡しを承諾した。
祖父母と両親と弟が眠るお墓の掃除をして、49日法要を行ったときに、専務達は1人も現れなかった。祖父母の時代から会社に尽くしてくれた人たちだけが集まって、祖父母との苦労はなしを面白おかしく話してくれた。
残っていた、祖父母の時代から会社に尽くしてくれた人たちが集まって”新しい会社を作りたい”と相談してきた。私は話を聞いて承諾した、専務たちから貰ったお金を全部渡した。
それをおもしろおかしく狂人たちは”報道”という言葉の暴力で私を殴り続けた。
私が苦しんでいるときに、手を差し伸べてくれたのは、学校の先生でも、友達面した知り合いでも、声さえ聞いたことがない親戚でも、家の前に張り付いている狂人でもなく、祖父母と苦楽をともした他人だった。
他人は、私に優しいだけではなかった。厳しくもあった。
他人だという事が解っていて、それでも親切にしてくれる。そこには、祖父母から受けた恩を返すためだという言葉が付けられる。
祖父母の所から巣立って会社を立ち上げた人が私の相談に乗ってくれた。
助言に従って、私は街を離れる事にした。
この国はおかしい。加害者を保護する制度は充実しているのに、被害者が保護されない。私は、引っ越しを行ってもすぐに狂人や狂人予備軍に追いかけられる。
私は、私を知らない場所で静かに暮らしたい。
私の願いが聞き届けられる事はなかった。
それだけ、ショッキングな事件だったのだ。
犯人が捕まってからも、連日報道されているようだ。私の声は誰にも届かない。
私が、加害者なら保護されたの?
私は、祖父母も両親も弟も殺されたのだよね?私が殺したの?
狂人どもはインターホン越しに状況を面白そうに話してくる。
私が求めていないことまでいろいろだ。
犯人の名前を聞いて、何を答えらた満足するの?
犯人の人相を見て、知っていますか?だって馬鹿じゃないの?
犯人の母親や父親に言いたい事?有ると思っているの?
犯人の生い立ちを聞いて私にどうしろと言うの?
刑事を名乗る人が何度か訪ねてきた。狂人が家の前に居ると知ると、警察署に来てくれないかと言われた。家に電話もスマホも無い事を告げると、無いと不便ですと言われた。不便かどうかを警察が決めるの?
警察も狂人が居る所に来たくないのだろう。数回来ただけで来なくなった。そのかわりに、手紙が投函されるようになった。それも煩わしくなって、ポストを塞いだ。
宗教家を名乗る人たちも沢山来た。
祖父母と両親と弟を霊界から呼び戻すと言われた。馬鹿じゃないの?そんな事で、1億も払うと思っているの?頭の中にウジ虫でも詰まっているのかと本気で思った。死んだ者は生き返らない。歴史が証明している。
犯人が捕まれば落ち着くかと思ったが、そうはならなかった。
犯人は少年犯罪で服役した前科を持っていた。再犯だったのだ。それで、また狂人が騒ぎ出す。
私は、被害者だよね?
被害者面するなと怒鳴られる。どうしたらいいの?私も両親や祖父母や弟と一緒に殺されれば満足だったの?それとも、自殺したら、この狂人たちは満足してくれるの?
やっと静かになった・・・。
私の周りに平穏が訪れる。
はずだった・・・。
今度は、2億の金がほしいのか、いろんな人たちが現れる。
小娘1人説得できないような稚拙な詐欺話や、困っている人に寄付してくださいとかいうふざけた話。
私は、自分が一番不幸だとは思わない。
思わないが、目の前に座って、寄付の重要性を説いている、両手に高そうな指輪をはめて、安っぽい香水の匂いをばらまいて、2cmはあろうかと思う化粧をして、ブランド物の服とバッグを持った人よりは不幸だと思っている。寄付するにしても、こんな女性が理事をしている団体よりは、犬猫の里親を募集しているような団体に、殺処分をなくすために活動している団体に寄付する。弟が好きだった猫を一匹でも救うほうが喜ばれるだろう。
私が首を立てに振らないとわかると悪態を吐きながら帰っていく。
そんな黒く汚い人たちを見ていた。
1年が過ぎて、学校から退学通知が届いた。
自分たちから来なくていいといいておきながら、本当に通わなくなったら、退学にする学校に未練なんてなかった。祖父母の仲間に相談して紹介して貰った弁護士に学校に質問状を出してもらった。
学校からは期限中に返事をもらえなかった。
弁護士に礼金を払おうと金額を聞いたら、すでに貰っているから大丈夫と言われた。
2年が過ぎて、裁判が始まった。
そこで、また狂人が騒ぎ出す。同じことの繰り返しになるのがイヤで、弁護士に相談した。
今度は、私がお金を払って雇う事にした・・・が、お金はすでに貰っていると言われてしまった。狂人への対応を全て行ってくれる事で、私の周りは平穏になっていた。
裁判は、意味がわからない状況で推移していく。
最低でも極刑、最高でも極刑だと考えていた。薬をやっていて、心神耗弱?意味がわからない。たった9年。9年の服役で奴は罪を赦される?
少年犯罪の加害者で、内緒にして勤めていて、職場にバレて薬に手を出して、むしゃくしゃして殺した?
殺したときには、”むしゃくしゃ”していたのでしょ?それなら、責任能力があると判断できないの?
21歳の奴は9年後に30歳。十分やり直せるだろうだって・・・笑っちゃう。
法廷でそれを聞いたあとで狂人が感想を求めてきた。
笑ってしまいそうになった。何を言ったら満足するの?私に何を言えというの?狂人は何年経っても狂人のままで安心した。何も答えない私に文句を言い出す狂人も居る。なんとか言えとか言われても貴方が同じ立場になったときに、是非その答えを聞きたい。
9年・・・9年・・・私から些細な幸せを奪った男が、9年で許される。贖罪を済ませて白い身体になって出てくる。
そうだ、狂人を利用しよう。
私は決めた。私が被害者だから、誰も何もしてくれない。なら、私が被害者以上に異常な状態になればいい。私が悲しみに泣いて苦しめばいいのだ。
まずは手始めに、加害者の両親に会おう。生きているのなら祖父母にも会いたい。
狂人にそう告げると、喜んで動いてくれる。
彼の両親は、泣きながら私の前で土下座した。
別に土下座なんてしてくれなくていい。土下座されて、泣かれても、私が被害者である事実は変わらない。私が被害者だから、狂人がわけのわからない質問をしてくるのだし、9年後にまた苦しまなければならない。私は加害者になりたいのだ。そう、両親と祖父母と弟を殺して、私を殺さなかった彼を殺して、私が加害者になる。
彼の両親から、お金を渡された。
一度受け取ってから、土下座する彼の両親の目の前に座ってお金を両親に返した。
そして、耳元で囁く”謝罪は受け取りました。お金も受け取りました。祖父母と両親と弟の値段がはっきりしました。ありがとうございます。そして、このお金で、あなた方の息子さんを買い取ります。9年後に私が彼を殺します。お許し頂けますよね?”
呆然とする両親を残して、私は帰路についた。
これで、あとは9年後に彼が出てきたら殺せば私が加害者になれる。彼の両親の真意はわからない。わからないが、謝罪がお金になるのなら、私が持っているお金全部渡すから、彼を殺させてくれと願うだけだ。
彼の両親の承諾も取れた。彼を殺す準備を始めないとならない。
それからも何度か、彼の両親が私に会いたいと言ってきたが、もう話す事はないし、謝罪の必要もない。狂人だけではなく、弁護士を通して話をしても結果は同じだ。
警察が訪ねてきた。
彼の両親が相談したようだ。馬鹿だな。警察にそんな正直に話すわけ無いでしょ?
私は、悲しみで気が狂っただけだと狂人も言っている。警察が来たら普通に話すだけだ。
私は、まだ被害者でしかない。加害者になれていない。加害者になれば国が守ってくれる。
私は可哀想な被害者だ。狂人が話している声が聞こえる。私の事を気が狂ったといい始めている。
彼の両親に承諾を取ってから、1年。狂人も姿を見せなくなった。
定期的にたずねてくる1人の狂人以外は誰も来なくなった。
9年が経った。
やっと明日私は加害者になれる。
生命保険で手に入れた2億円は一円も手を付けないで、弟が好きだった猫の殺処分をなくす団体に寄付をした。昨日、入り直した高校の定時制も無事卒業できた。バイトとして雇ってくれたお弁当屋さんも辞めてきた。迷惑がかかるかも知れないと最初に言ったのに雇ってくれた。最後にもう一度だけ唐揚げ弁当を買ってこよう。贅沢に”のりから”にしようかな?そうだ、味噌汁じゃなくて、奥さんが作っている豚汁にしよう。
彼が出てくるまで外で待たないとならないからね。身体が冷えたら、いざってときに動けないと困るからね。
彼の出所は、優しくも愚かな狂人が教えてくれた。私が加害者になる事を諦めたと思ったようだ。
そして、当時の事を思い出しながら、気持ちが落ち着いたと話したら、いろいろ教えてくれるようになった。私も彼女にはいろいろ話をした。家族の事や彼の事をどう思うのか・・・。そして、2億円の使いみちも彼女にだけは教えた。この部屋も彼女が手配してくれた。
白い壁が印象的な部屋だ。
天井がすごく気に入っている。高校生の時に住んでいた部屋と同じ、真っ白な天井だ。部屋の中の物も処分した。残っているのは、祖父母が好きだった白色のテーブルと母が使っていた白いドレッサーとタンスだけだ。
テーブルの上には、部屋の鍵と彼女に宛てた手紙と、彼のご両親に向けた手紙と、眠っている家族への手紙を残した。テレビも何もない部屋。でも、私はここで過ごした加害者になる事だけを考えて過ごしていた。
あぁ待ち遠しい。
”のりから”美味しいな。明日から食べられなくなると思うと少し悲しいけどしょうがないよね。豚汁も最高だな。寒いときにはぴったりだよね。いつくらいに出てくるのだろう?
教えられた通りだといいな。彼女の話だと、彼は両親にも連絡していないらしい。今日がいい天気で良かったな。昨日買ったナイフもしっかり持ってきた、胸を刺すよりも首を狙ったほうがいいって本で読んだ。
そう言えば、あの図書館来年には無くなってしまうって言っていたな。時間が有るときに何度も通った図書館がなくなるのは寂しいな。
朝から雪とか言っていたけど、そんな事もなくてよかった。
寒いのは苦手だけど、吐く息が白くなるのはなんだか嬉しい。私が加害者になっても、吐く息は白いままなのかな?
しっかり、彼にわかるように、あの時と同じ服を着てきたけど気がついてくれるかな?
白い服。そうか、彼は白い色が見えないのかな?
両親も祖父母も弟も色が付いた服だったからな。私だけ白い服を着ていたから、私が見えなくて、私を殺してくれなかったのかな?私を被害者のままにしておくなんて酷い人だよね。私も一緒に殺してくれたら、私が加害者になる事もなかったのにね。
あぁ彼が出てきた。
白いシャツを着て、黒っぽいズボンを履いている。
あぁ伸びをしている・・・これで、真っ白な身体になれたのだね。良かったね。これから、被害者になれるのだよ。私と立場が逆になって嬉しいよね。
しっかり、彼を殺さないとね。彼が、被害者になって狂人に囲まれるのは可哀想だよね。
大丈夫、しっかり練習してきたから!
しっかり殺してあげるよ。
白いシャツを真っ赤に染め上げてあげる。彼がやったように、私の両親と祖父母と弟を殺した時と同じ様に、しっかりと殺してあげる。
そうしないと、彼が私と同じ苦しみを味わってしまうからね。
私の白いシャツを彼の血で染めて、それから、私自身の血で白い服を真っ赤に綺麗にしないとね。
fin
背中に感じていたぬくもりがなくなってから、5年が経過していると教えられた。
冬になると実感として感じてしまう。
ついこの間までは、背中に当たる彼の背中から確かなぬくもりを感じる事ができていた。
そして、途中から加わったもう一つのぬくもりが・・・。
本当に、それだけで良かった。
私には、彼から感じるぬくもりと、彼と私が望んだぬくもりの二つがあれば十分だった。そして、新たに加わるはずだったぬくもり。ぬくもりの数だけ幸せを感じる事ができた。
たったそれだけのことだったのに、私が寒くて凍えそうなのに、なんで誰もぬくもりをくれないの?
ううん違う。私は、そう、私は、彼からのぬくもりと、私が彼から貰った宝物。ぬくもりが欲しいだけなの?
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして。ねぇ誰か教えて。5年経ったなんて嘘だよね。明日にはぬくもりを返してくれるのよね?
私の私の私の私の私のぬくもりを返してよ!
早く、ぬくもりを返して、私が凍えてしまう前に、奪っていったぬくもりを、赤く赤く赤く赤く染まったぬくもりを返してよ!
冷たくなってしまった。赤く赤く赤いぬくもりを返して!!!!
そうか・・・奪った人にかえしてもらえばいいよね。
赤く赤く流れるぬくもりを返してくれれば、彼と宝物から奪ったぬくもりを返してもらおう。そうしたら、明日から寒くないよね。凍えなくていいよね。そうだ。返してくれないのから、奪い返せばいいよね。
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景子の心が壊れてしまって2年が過ぎた。
儂も妻も老い先短い。棺桶に片足を突っ込んでいる状態だ。
景子に何かしてやりたい。してやりたいのだが、何もできない。
「アナタ」
「わかっている」
今日も刑事が景子を訪ねてきた。
毎日、景子の様子を見に来るという理由を付けているが、健二くんと愛菜を殺した犯人の事を思い出さないか聞き出したいのだろう。2年。2年経っても警察は手がかりさえも掴めていない。
寝ていた、健二くんと愛菜を殺した憎むべき犯人。
景子は、風邪をひいて別室で休んでいた。普段なら、景子と健二くんと愛菜は並んで寝ていた。そうしたら、3人とも殺されていたのかも知れない。
儂にはわからない。わからないが、景子からぬくもりを奪った奴を許す事ができない。儂と妻からもぬくもりを奪っていったのだ。
景子の心をそして3人を殺した。
儂と妻のぬくもりを、唯一と言っていい楽しみにしていた孫娘と産まれてくる予定だった孫を抱きしめて、ぬくもりを噛みしめるという些細な楽しみを夢を奪った奴をどうして許せるものか!!
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今日も怒られた。
生き残った私が悪いの?
風邪をひいた私が悪いの?
ねぇ教えてよ。
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「森下さん。なんで被害者家族に何度も会うのですか?彼女・・・奥さん、心が壊れてしまって、犯人の事も、事件当夜の事も覚えていないのですよね」
なんで、森下さんが、3年間毎月同じ日にあの家に行くのかわからない。自費で見舞いの品を買っていっているのも知っている。
当初、300人体制の操作も初動捜査のミスが重なって、犯人逮捕にいたらなかった。
それから、俺たちの部署に回ってきた。森下さんは、なぜかこういう事件を担当させられる事が多い。いじめの末にいじめられていた女の子が家族といじめていた生徒や先生を殺してしまった事件や、車と大量の血痕だけを残して人が消えてしまった事件や、ヤク中が街中で無差別殺人をした時の被害者が殺人を行った事件を担当している。
被害者と加害者がわからないような事件を多く担当している。
「わからないか?」
「はい」
「素直だな」
「それだけが取り柄です」
「取り柄じゃないからな。それは・・・。まぁいい。あの奥さん犯人を知っているぞ」
「え?本当ですか?」
「俺はそう考えている」
なんだ感か・・・びっくりした
「感じゃないぞ」
「え?」
「お前の顔に、”なんだ感か”って書いてあった」
「え?嘘ですよね?」
「どうだろうな。帰って資料と遺留品をもう一度調べるぞ」
「はい!」
この事件は、空き巣被害が頻発していた地域で発生した殺人事件だ。空き巣捜査のために、制服警官も家を訪ね歩いていた。そんな中で発生した殺人事件だったのだ。当初、空き巣犯が住民に見つかって殺人におよんだと考えられた。
空き巣犯が捕まった。正確には、空き巣犯グループだった。地域の自警団を組織していた者たちが空き巣を繰り返していたのだ、マスコミはその情報に飛びついた。自警団を組織して、地域の防犯意識を高めていた者たちだ、住民も話しかけられば答えるし、旅行計画なんかもよく話していた。皆、まさかという雰囲気だった。
しかし、空き巣グループは殺人事件だけは絶対にやっていないと言いはった。事実、空き巣グループの全員にアリバイが有ったのだ。全員で某国に売春旅行に出かけていたのだ。パスポートという証拠もあり、殺人事件だけが降り出しに戻ってしまった。
しかし、この時点ですでに1年が過ぎてしまっていて、初動捜査のミスは隠しきれない状況だ。空き巣犯を捕まえさえすれば事件は解決と思っていたために、地取り捜査や証拠探しがおろそかになってしまっていた。警察内部の縄張り争いも発生していた。
問題はそれだけではなかった。発見当時の状況がマスコミにリークされてしまったのだ。
旦那さんと娘さんは合計で79ヵ所の刺し傷が有った。辺り一面血の海になっていただろう。旦那さんは背中から刺されている。状況的に娘さんをかばって後ろから刺されたのだろうと考えられていた。しかし致命傷になったのは、頭を殴られた事による頭蓋骨骨折だった。犯人は死んでから刺した事になる。怨恨の可能も出ていたのだ。
発見の状況もこの事件を難しくしてしまっている。
奥さんが第一発見者であるのは間違いないのだろうが、通報者は近所をジョギングしていた人だ。朝いつものジョギングコースを走っていて、窓ガラスが割れている事に気がついて、ふと覗き込むと、部屋を赤黒く染めている物と、奥さんが子供の亡骸を抱きしめて居る状態で外を眺めていたのだ。
警察が来るまで・・・いや、警察が来ても奥さんがその場を離れようとはしなかった。”寒い寒い”と繰り返すばかりだ。異様だったのはそれだけではなく、奥さんは体中に血を浴びていたのだ。後でわかったのだが、旦那さんの血を浴びていたようだ。
空き巣犯と奥さんの犯行説が出たが、殴った物も刺した凶器も見つかっていない事。奥さんが処方された薬を飲んで寝ていたことがパソコンで確認できた事から、空き巣犯説が有力となった。
旦那さんと娘さんは、夫婦の寝室で寝て、奥さんは客間で寝ていた。風邪をひいて別々に寝ていた。
心が壊れた奥さんにこれだけの事は証言できない。警察がこの事を知ったのは、奥さんのお父さんが娘さんやお孫さんとビデオ通話をしていた記憶が残されていたからだ。そして、そのビデオ通話は、奥さんが途中で起きてきたら、わかるようになっていて、殺害時刻は寝ていた事が確認されたのだ。それでも可能性があるという事で捜査対象になってしまった。
それを、マスコミにリークした奴が居て、奥さんが旦那さんと娘さんを殺して、自分が死にきれなかった無理心中であるかのように報道された。
心が壊れてしまった奥さんは1人では生活できないために、まだ存命の両親に引き取られた。
刺し傷から凶器はわかっている。殴った物も、スパナ状の物だろうと思われている。この事から、空き巣犯が普段犯罪に使っている物を使って殺したと思われていた。
刺し傷の多さは疑問視されたが、犯人が死んでいるのか解らなくて刺し続けたのだろうという結論になった。
そして、事件から2年が過ぎて、犯人逮捕どころか有力な手がかりがないまま捜査本部は解散となった。
俺たちのところに事件が回されてきて、俺と森下さんが担当する事になったのは2年前。捜査本部が解散されてすぐだった。
被害者家族は、田舎町に住んでいる。
月命日に、旦那さんと娘さんが眠る墓に手を合わせてから、奥さんの様子を電話で訊ねてから訪問する。
刑事として、奥さんに話を聞くための訪問だが、『旦那さんの同僚が月命日にたずねてくる事にしてほしい』と、奥さんのご両親にお願いしていた。
遺留品はたった一つ。誰のものなのかわからないどこにでも売っているボタンだけだ。
森下さんは、そのボタンをよく眺めている。
「森下さん。聞いていいですか?」
「なんだ?」
「答えが返ってこないのになんで毎回同じ事を聞くのですか?違う事を聞いたら、何か思い出すかも知れないのに?」
「お前はそう教わったのか?」
「はい。少しずつ質問を変えていけば、嘘ならどこかで破綻すると教わりました」
「そうか、そうだな。でも、今回はそれはできないな」
「なぜですか?」
「それくらい自分で考えろよ」
考えろと言われても・・・な。
「本当に、お前は素直でかわいいよ」
「褒めていただいてありがとうございます」
「別に褒めてないからな。彼女は、何か喋ったか?」
「いえ」
「彼女は犯人か?」
「多分違うと思います」
「なぜ?」
「なぜ?捜査本部でそう結論が出ていますよね?」
「違う、なぜお前がそう思うのかと聞いている」
「え?なんとなく・・・では、ダメですよね」
「ダメじゃない。捜査本部云々と言われるよりも、その方が納得できる。まぁいい。次に、彼女の両親は犯人か?」
「違います。アリバイがあります。距離的にも動機的にも違うと思います」
「そうだな。俺が、毎回同じ質問をしているのは、彼女の反応を待っているからというのもあるが、彼女の両親が何か思い出さないかと思っているからだ」
「両親?犯人じゃないですよね?」
「そうだ。さっきの話に戻るけど、俺は彼女が犯人を知っていると思っている」
「えぇそう聞きました。何度も聞いています」
「彼女たちと両親は良好な関係だったのだろう?」
「はい。近所の話でもそうなっています」
「ほらな。後は、自分で考えろ」
また、森下さんはボタンを眺めながら黙ってしまった。
こうなったら、暫くは自分の世界に入り込んでしまう。
---
自警団の奴らの裁判が始まる。
空き巣犯。それは許されない犯罪だ。
でも、儂の目的は違う。
最初の一年目は毎日の様に刑事が訊ねてきて娘を犯人の様に扱った。憤慨もしたが、知り合いの弁護士に相談する事で状況が代わった。空き巣犯グループが捕まって、さらに状況は変わった。刑事が来なくなった代わりに、マスコミを名乗る狂人どもが娘を追いかけるようになった。
報道する自由があるとか喚いていた。これは、地元から出ている代議士先生に相談したらピタリと止んだ。そのかわり、今度はTVで毎日の様にコメンテータを名乗る狂人が自分勝手な感想を付けながらしたり顔で御高説を垂れ流している。ネットとかいう暇人の集まりにも酷い事が書かれていると教えてくれる狂人も居たが、そちらは気にしない様にした。
警察が捜査本部を解散するとそれらも興味が無くなっかのように流れなくなった。
自警団の奴らは、人数も7名と多い上に都度面子が変わったりして全容が掴めていなかったようだ。3年経ってやっと裁判が始まった。
捜査本部が解散してから現れた森下という刑事は変わっていた、健二くんの同僚という事にしてほしいといい。訊ねてくるのは、決まって月命日だけ・・・事件があった日付だけだ。そして、必ず遠方にある健二くんと愛菜の墓参りをしてから、一報入れてから訊ねてくる。若い刑事も連れているが、今までの刑事とは違っていた。
娘を被害者として見ていない。うまく言えないが、彼は娘を可哀想な人として見ていないのだ。普通に話しかける。娘は反応しない。意味不明な言葉を発するだけだ。でも、彼はそんな娘と会話を楽しんでいるように話をして、同じ質問をして帰っていく。
『旅行に行く前日か前々日に知っている人に会いませんでしたか?』
森下刑事は同じ事を最後に聞いていくのが不思議だった、妻が森下刑事に聞いたら”何かを思い出すかも知れない”と教えてくれたと言っていた。
今までの刑事は、”事件の日”というが、彼は”旅行に行く”と言い換えている。
そして、犯人ではなくて、”知っている人”と言っている。
彼は帰り際に独り言の様につぶやいた
”犯人は奥さんが知っている人”
確かに、そうつぶやいた。
それから、彼の言葉を注意深く聞いていると、気にしているのは、前日と前々日の話だ。
彼は、儂や妻にヒントを与え続けている。
儂と妻から、娘から、ぬくもりを奪った犯人のヒントをくれているのではないか?
そう考えるようになっていた。まずは、情報がほしかった。なんでもいいから情報がほしかった。
当時の新聞雑誌は、図書館で手に入れた。ニュース番組は、知り合いの弁護士に言ったら入手してくれた。全部ではないがかなりの情報量だが、儂と妻は情報を精査し始めた。
ニュースになった物や当時の新聞雑誌で書かれている被害状況から自警団の奴らの犯罪状況を調べた。
全部で、57件が被害状況だ。
裁判で、明らかになった物を潰していく。
思った通りだ。
被害状況のなから、5件だけは自警団の犯罪ではない物が出てきている。模倣犯なのか?
しかし、雑誌や新聞にかかれている被害状況から、手口が似ているのだ、旅行や家族揃っての食事に出かけているときに狙われている。5件全部が偶然とは考えられない。
この事を、森下刑事は言いたかったのかも知れない。
そして、娘たちが旅行に行くと決めたのは数ヶ月前、儂たちも誘われていた。健二くんのご実家に行く事になっていた。前々日になって、第二子の懐妊が判明した。そして、前日に熱っぽい事から、悪化したら大変だという事で、産婦人科に行って、薬を貰いに行って、熱が治まるまで旅行は延期する事になった。
孫娘は残念だったようだが、お姉ちゃんになるのだからと言ったら喜んでいた。
娘や孫娘は、毎日の様にその日に有ったことをTV電話で話してくれる。
健二くんが設定してくれて、通話は全部娘の家にあるパソコンに録画されていた。警察に押収されていたが弁護士が取り戻してくれた。
孫娘が1週間前に学校から帰ってくるときに、自警団の連中に有って、旅行に行く事を話したと言っていた。
そうしたら、自警団の連中も”海外旅行に行くと自慢された”とプンプン怒っていた。
娘も自警団から予定を聞かれたらしい。なんと答えたのかはわからない。
儂は、心が壊れた娘に聞いた。
「誰かに旅行の事を話したか?」
---
「森下さん!!!」
「どうした。慌てて、世の中慌てるような事なんて多くないぞ?」
「そう言っても、今は慌てていいと思いますよ」
「それじゃ、慌ててついで、”答え”を当ててやろうか?」
「え?」
「景子さんが、ご両親と一緒にあの街のPBの警官を殺したのだろう?(遅かったか・・・)」
「え?あっ?へ?なんで?」
「どっちだ?」
「どっち?」
「あのPBは2人居るだろう?年配の方か?若い方か?」
「あっ若いほうです」
「そうか・・・遅かったな。それで、奥さんもご両親も自殺したのか?」
「・・・状況的に・・・そうだと思います」
「嘘言うなよ?調べればすぐに解るからな」
「・・・」
「ご両親のどちらかが、奥さんを殺したのだろう?あっ違うな。奥さんが欲しがっていた物を取り返したのなら、ご両親が若い奴を殺して、奥さんが満足するのを見届けてから旦那さんが2人を殺した後で自殺ってところか?」
「・・・まるで見てきたかのように言うのですね」
「奥さんが話してくれていたからな。”ぬくもりが欲しい。赤い赤いぬくもりを彼に戻してほしい。宝物に戻してほしい”ってな」
「・・・」
「おい。神楽坂。タバコ持っているか?」
「え?ここは禁煙ですよ」
「つまらないことを気にするなよ」
ふらっと立ち上がっていつも持っている墓参りセットを持って部屋から出ていく。
「どこに?」
「あ?決まっているだろう?今日は何日だ?」
「え?」
今日は、事件があった当日。命日だ。
「お供します!」
fin