ステンドグラスの狼


「ただいまぁ」
「はい、お帰り」
悦子はカウンターで客の相手をしていたが、ちらと視線を向けると、舞子が一人で帰ってきたことに気づいて驚きの表情を浮かべた。
「あら、ケンさんは?」
もしかするとケンは一人で先に帰っているのかも知れない。そんな一縷の望みはこれで絶たれた。
「うん・・・」
口ごもる舞子の様子を察した悦子は、優しい表情で軽く頷くとそれ以上は何も言わなかった。すぐに客に向き直って、中断された話の続きを始めていた。
舞子は三階に上がると、ケンが寝泊まりしていた部屋の引き戸を開けた。当然のように部屋はもぬけの殻だった。布団はきれいに畳まれており、ケンの私物はどこにも無かった。いや、よく見まわすと机の上にベースボールキャップが置いてあった。きっと忘れていったのだろう。
造船所から自宅までの道中、そして今この瞬間も舞子の頭の中は、ケンのことでいっぱいだった。
それは、なぜケンが突然いなくなったのかという疑問や、いきなり突き付けられた別れに対する困惑ではなく、ケンのいた一ヵ月にも満たない日々のことだった。
そこには確かに希望があった。ここから抜け出したい、でも一歩踏み出す勇気がない。そんな舞子に手を差し伸べ、どこかへ連れ出してくれるような存在だと、ケンのことを自分の都合のいいように考えていたのかも知れない。
あるいは、どこか陰のある、入り込めない壁を感じさせる今のケンを、かつての希望に満ちたケンに戻してあげたい。わたしならきっとその手助けができる。そんな自惚れだったのかも知れない。
それとも、単純に彼に恋愛感情を抱いていたのかも・・・。
いずれにしても、その全てが、今となっては手の届かないところに行ってしまった。舞子の生活から消えてしまった。
舞子はニット帽を脱いで、かわりにケンのキャップを被ってみた。だがそんなことをしてみても、ぽっかりと胸に開いた空洞は埋まるはずもなかった。
舞子は工房に下りていった。
電気をつけると、いつもと変わらない見慣れた風景が、何事もなかったかのように目の前に広がる。室内は物音ひとつせず、冷え切った空気が舞子の喪失感を一層強いものにした。自分の力ではどうしてみようもない現実を前に、胸の底から叫び出したかった。
中央には、イーゼルにしっかりと固定されてシーツに覆われたステンドグラスが佇んでいる。舞子は乱暴にシーツをめくった。そこには凛とした表情で舞子を見据える青い目の狼がいた。
堂々たる雄姿を誇りながら、でもどこか寂しげに見える狼。
その姿を見てくれて、そしてきっと感嘆の声を上げてくれるはずだった主を失ったガラスの狼のことを思うと、舞子は切なくて、可哀想で仕方なかった。舞子の手から生まれた作品ではあるけれど、すでにその手を離れて一個の確固たる生命感を宿しているように感じられたから。
「ごめん」
震えるようにそっと呟くと、自然と涙が溢れ出してきた。
翌早朝。底冷えのする寒さの中、妹尾は海沿いの国道を歩いていた。
日の出直前のこの時間、辺りは微かに明るくなり始めていたが、北の地域らしい曇天のため、暗く重苦しい灰色の世界が広がっている。

昨日、造船所にケンを訪ねた後で、妹尾は町に出て防寒具一式を調達した。急激な冷え込みに加え、万一雨にでも降られたら堪らないので、ゴアテックス製の寝袋を探したが、デパート内のキャンプ用品店に本格的な品は見当たらなかったので、仕方なくナイロン製のものを購入して帰ってきた。
日暮れと共に、天ノ神社の裏手の木々の生い茂る奥に分け入り、人目につかないようにカモフラージュを施して野宿で一夜を明かした。
断熱シートに包まりながら自衛官時代のレンジャー訓練を思い出した。あの頃は、不眠の状態で何度歩哨に立ったことか。それに比べれば、寒さこそ厄介だが、疲れも空腹もなく睡眠をとれるのだから、これでも随分と贅沢だ。
実際ほとんど眠れなかった妹尾だが、四時過ぎには行動に移った。こんな場所をいちいち気にする者もいないだろうが、念には念を入れて自分の痕跡を消した。
同じ態勢で十時間近くも横になっていたため、膝や腰には相当な負担がかかっていたようだ。まだ夜明け前の暗闇の中、ただ神社の石段を下りて行くだけの何でもないことが、結構堪えた。もう昔のように若くはないのだと現実を突きつけられる思いだった。

気温は多分氷点下だろうが、完全な無風状態のため、妹尾はそれほど寒さを感じなかった。
国道には人間はおろか走る車の姿もなく、海からかすかに聞こえてくる波の音と、自分が立てる音以外は何もない。妹尾は、一夜にして地上から人類が消滅してしまったかのような、不思議な錯覚に襲われた。色彩を失ったダークなモノトーンの景色が、そんな感覚をより一層際立たせる。
今や警察に追われる身であり、極力人目を避けたい妹尾にとっては、この無人の世界は好都合だったが、それでも言い難い不安を感じた。だから、ようやく一台のトラックが背後から迫り、砂利を飛ばしながら妹尾を追い越して行った時には、なぜかほっとした。
果たして、ケン・オルブライトは約束通りに現れるだろうか。もし現れなかったとしたら・・・右手に持つ現金の入ったバッグにチラと視線を移して、一瞬金の使い道に思いを巡らせた。
むしろ逃亡費用として自分が使うべきではないか。昨夜、寝袋に包まれながら、何度も頭に浮かんでは打ち消した考えが、またしても脳裏を過った。
いや、いかん。ダメだ。名も知らぬ、二度と会うこともない件の少女。彼女の哀しい目がそれを許さない。
あれこれ考えても仕方ない。あと少しすれば自ずと答えは出る。
妹尾は腕時計に目をやった。五時二十五分。約束の六時まで三十分以上ある。あと十分もあれば待ち合わせ場所に着くだろう。先に着いて相手を待つのはいつものことだ。

国道は一旦海岸線を離れて、海から百メートルほど内陸を走っていた。
ここにも人影は無く、道路の両側に点在する家屋は、まるで廃墟のような佇まいだった。
やがてそうした建物さえなくなり、道路は再び海の方角に向って伸びていた。
しばらく歩き続けると、道は緩やかなカーブを描く上り坂になった。妹尾の位置からその先は見えないが、カーブを曲がれば自衛隊の演習場があるのは分かっていた。
妹尾は歩き続けた。
雪が降り始めた。
音もなく静かに、ゆっくりと舞い降りる雪は、地面に着くと同時に溶けて消えてゆく。
坂の頂上に差し掛かると、防風林として植樹されたクロマツ林の向こうに、灰色の日本海が再び姿を現した。
道はなだらかな下りとなり、その先には国内有数の広大な敷地面積を誇る軍事演習場が広がっているのが見えた。
妹尾は目を細めて、数百メートル先のフェンスの辺りを確認した。
そこで目にした異様な光景に、思わず息を止めた。
不思議なことに、道路の上に黒いマネキン人形が設置されている。それも一体や二体ではない。ざっと見積もっても五十体はありそうだ。それが、路上百メートル以上に渡り点々と置かれているのだ。これは一体・・・。
だが、直後にそれが人間であることが分かった。皆、一様に海の方を向いて微動だにしないため、一瞬マネキン人形かと錯覚したが、冷静に考えればそんなはずはないのだ。
それにしても、朝早くからこんな場所になぜ?
ゆっくりしたペースで歩を進め、この謎の一団に近づきながら、妹尾はいぶかしんだ。人の目を気にせず、ケンとさしで話せると考えて選んだ場所に、まさかこんなに大勢の人がいようとは、想像もしてなかった。
さて、予定通りケンが来たとしてどうすべきか。
あのマネキンのような連中が、ケンに警戒心を抱かせるかもしれない。そんな状況下で、これからケンに話そうとしている告白にも近い内容を、相手にしっかりと理解させ、納得させられるだろうか。

高さ二メートル、全長数㎞に渡って敷地を囲う鉄条網つきの長大なフェンス。ケンと待ち合わせの約束をしたちょうど中ほどには、運の悪いことに謎めいたマネキン風の連中が大勢突っ立っている。
年寄りから中年、若者の姿もけっこうある。男も女もいる。一人の者、カップル。三、四人で寄り添うグループ。年齢も性別も、服装もバラバラだが、共通点もあった。皆、海の方を向いて立っている。そしてその多くが双眼鏡やカメラを手にしている。望遠レンズ付きの本格的な一眼レフのファインダーを覗く者もけっこういた。こうなったら、この連中と一緒にケンを待つしかなさそうだ。
頭や肩の上に乗っては消える雪を気にもかけず、一心に水平線の彼方を見つめる人々。その中に、新たな闖入者である妹尾に気がつく者は誰もいなかった。数メートル間隔で無造作に置かれたマネキンのような人々の間を、ゆっくり歩いて進む妹尾。
次の瞬間、妹尾は背後に殺気を含む何かを感じ取り、動きを止めた。
すかさず振り返りたい衝動をどうにか堪えながら、あえてゆっくりとした動作で振り向き、物騒な気を放つ正体を確認した。
皆が揃って海の方向に釘付けとなっている中に一人だけ、まっすぐ妹尾に向って立つ者がいた。赤い仮面のヒーローだった。
祭りの出店で買ったヒーローのお面を被ったケン・オルブライトは、何の気配も感じさせず、不意に現れた。そして今、妹尾の目の前五メートルほどの位置に立っている。
話すべき色々なことがある。だが、それらは妹尾の頭の中を駆け巡るだけで、一向に言葉にならなかった。
「こいつを・・・」
妹尾は、辛うじて声を絞り出すように日本語で言いながら、バッグをケンに指し出そうとして右手を持ち上げかけた。
無駄のない滑らかな動きと、稲妻のようなスピードでケンの右手が持ち上がった。
その手には拳銃が握られていた。
上げかけた妹尾の右手がピタリと止まった。
ケンはためらうことなくトリガーを引いた。
銃声の全くしない拳銃から発射された弾丸が、なだらかな放物線を描きながら自分目がけて飛んでくる様子が、妹尾の目にスローモーションで映った。
その弾丸は、正確に妹尾の左胸に命中すると、ポトリと地面に落ちて転がった。
おもちゃの銀玉だった。
ケンはゆっくりとお面を取ると、固まったように動けないでいる妹尾に向って、真っ白な歯を見せながらにっこりと笑ってみせた。
その時、それまで無風状態の中を、地面に向って静かに沈むように降っていた雪の動きが乱れた。
目に見えない力に翻弄されるように、大気中で乱れ舞う雪。
人々の、溜息にも似た静かなどよめきが起こった。
体から緊張が抜けて行くのを感じながら、妹尾は海の方を向いた。
はるか水平線の彼方、重苦しい灰色の空を幾筋もの光が、ゆっくりと落下してゆくのが見えた。
その非現実的な光景にはどこか見覚えがあった。
あれは多分天使だ。きっと地球に焼け落ちてきた天使たちなのだ。
隕石群に衝突し、大気圏突入時に粉々に分解したロシアの軍事人工衛星ミカエル。その美しい最期に心を奪われ、妹尾は立ち尽くした。

どの位の間、そうしていたのだろうか。妹尾がふと視線を戻すと、ケン・オルブライトは影も形もなく消え去っていた。
妹尾は、一瞬、ケンの幻でも見たのではないか、実際には現れなかったのではないかと考えたが、地面に赤いお面が落ちているのが分かった。辺りを見回したが、ケンの姿はどこにもなかった。
つい先ほどまでの静けさが嘘のように、今では強風が吹き荒れていた。
世紀の天体ショーを見物しに集まっていた人々も、コートの襟を立てて背を丸めながら解散し始めていた。
どこか遠くからパトカーのサイレンの音が聞え、妹尾も現実に引き戻された。
日本の警察は世界有数の優秀さを誇ると言われているが、それにしても、もう見つかったのだろうか。それとも思い過ごしか。いずれにせよ長居は無用だ。今すぐこの場を立ち去らねばならない。
妹尾は、再び辺りをぐるりと見渡した。パトカーが走る道路沿いを逃げるのは論外だ。
ならば海か。いや鯨の死骸を見るのはまだ早い。
妹尾は、踵を返すと、フェンスを強引に乗り越えて自衛隊の敷地内に入ろうとした。
この平坦な演習所を全速力でつっきり、向こうに見えている山に潜伏しよう。そこから先のことは、後から考えればいい。
バッグが鉄条網に引っ掛かり、妹尾が敷地内に飛び降りたはずみで破れた。
中から飛び出した札束が辺りに散乱した。
大量の紙幣が、海から吹き付ける強風に巻き上げられて、雪とともに空中を舞った。
妹尾は、金をかき集めようかと一瞬考えたが、そぐにその考えを捨てて走り出した。
あのバッグには、現金だけじゃなく習志野の空挺隊員だった頃に勝ち取ったレンジャー徽章も入っていたはずだ。だが、もう要らない。今の自分には必要ない。妹尾達郎という男が殺人事件の容疑者として全国に指名手配されている今、自分にしつこく付きまとう過去を捨て、思い出や記憶といった呪縛から全力で逃れることこそが必要なのだ。
雪に濡れる草地を全力で駆け抜けながら、そんなことを考えていた。
妹尾の後ろ姿は、灰色の世界に溶け込み、やがて見えなくなった。
桜の季節はまだまだ先の三月上旬。その日の天ヶ浜は、ぽかぽかと心地よい天候に恵まれ、一足早く春の訪れを感じさせた。北の地に住む者にとって、長い冬も終わりが近いことを告げるこうした日は心が弾むものだ。

客のいない「ゲルニカの木」のカウンターで、井口悦子は静かなひと時を楽しんでいた。自分のために豆を挽き、丁寧に淹れたコーヒーの香りが、そんな時間を一ランク贅沢なものにしていた。
先程、舞子を天ヶ浜の駅まで見送りに行って、帰ってきたばかりだった。悦子はここ数日のドタバタからようやく解放されてほっとしていた。
こんなことを言ったら叱られるかもしれない。でも、今日はお客さんには来てほしくない。ゆっくりと寛いでのんびりしていたい。
どうか、このままご来店がありませんように。
心の中で、そんな風に呟いてみた。
慌ただしい数日間の始まりは、舞子への一本の電話だった。

数日前の夜。
「舞子ぉ、電話よぉ」
「え、わたし?」
天ヶ浜に帰ってきて一年近く、舞子宛に電話がかかってくることなど一度もなかった。
一体誰よ。
ちょっと警戒しながら、舞子は受話器を取った。
「もしもし?」
「姫、調子は?」
「・・・ことみ?」
電話の主は、舞子の大学時代の友人、田島ことみだった。
「久しぶり!元気してる?」
「うん・・・まぁね」
「なんだなんだ、しょぼくれてるなぁ、舞子」
「そうでもないけど・・・一体どうしたの?いきなり電話で驚いちゃった」
久々に聞く田島ことみの声に舞子はワクワクしたが、一方であまりに元気ではつらつとした親友の存在は、ちょっと今の舞子には疲れるものがあった。
「実はね、あたし会社辞めたんだ」
「え?あの舞台照明の会社?」
「そ。でね、今度、自分で会社はじめるの」
「へぇ・・・すごいね。さすがことみだね」
そう言いながら、親友が自分を置いてどんどん先に行ってしまう寂しさをぐっと噛みしめた。
「何の会社はじめるの?」
「空間デザイン。デパートのさ、ショーウィンドウのディスプレイとかデザインしたり」
「そっか、いいね。ことみ、社長なんだね。稼いだらなんか奢ってよね」
卑屈にならないように、親友の新たなる門出を心から祝ってあげたいと思いながらも、今の舞子にはそれは無理そうだった。
「社長っていうか、まぁ前の会社のデザイン室の先輩と一緒に始めるんだけどね・・・でさ、舞子にも手伝って欲しいの」
「え?」
突然のオファーに、舞子は興奮で胸が高鳴るのが分かったが、勘違いで落胆しないように先走りそうな自分を何とか抑えた。
「それって、どういうこと?」
「だからさ、あたしと先輩で始めるデザイン会社で、あんたにも働いて欲しいってプロポーズしてるの」
「ほんとに?」
「ほんとよ」
「ありがとう!分かった、何でもやりまーす!がんばるよ」
「ダメ」
「え?」
舞子は急に不安になった。ことみはわたしのことをからかっているのだろうか。そんな、人を傷つけるようなまねは絶対にしないはずだけど。
「即答しないで欲しいの。今回の独立はあたしにとっても先輩にとっても、本気で人生を賭けた勝負なんだ。会社辞める時に、上司や仲の良かった同期の連中からもさんざっぱら嫌み言われたしね。だから、そんな連中を見返すためにも、とことん本気で頑張ろうって思ってる」
「・・・うん」
「きつい言い方になったらごめんね、舞子。でもね、やるからには舞子にも人生を賭けるつもりできて欲しいんだ」
「・・・」
「舞子のためにもね。半端な気持ちで来てもらっても、辞めちゃったらさ、あんたのことだからきっと自分を責めるでしょ。そうなって欲しくないから、だからじっくりと考えて欲しいんだ」
ことみの言葉を聞いて、喉の奥が痛くなってきた。気がつくと涙が流れていた。親友にそこまで気を使わせてしまう自分の不甲斐なさと、そんな自分をそこまえ思ってくれる親友がいる嬉しさの混じり合う気持ちだった。
泣いているのを悟られまいと、舞子は一度受話器を口元から離すと、大きく深呼吸をして気分を落ち着けてから言った。
「うん、分かったよ、ことみ」
「一ヵ月後に、また電話するからね。それまでにしっかり考えてね。もしやり残したようなことがあったら、この一ヵ月でしっかり片付けてね。だって会社始まったら、忙しいぞぉ。あんた、こっちに来たら男作ろうなんて考えない方がいいわよ、そんな暇ないからね」
そう言ってから、ことみは笑い出した。舞子もつられて笑った。
「じゃぁ、姫。一か月後にまた電話するね」
「了解です」
「・・・舞子」
「ん?・・・なに」
「好きだよ・・・。あんたはあたしが守るから、一緒に頑張ろ」
「・・・ありがとうね。わたしもことみのこと好きだよ」

ことみからの電話を終えた舞子は、部屋に戻ってベッドに寝転がりながら考えてみた。
考えは揺るがなかった。やっぱりことみと一緒に頑張りたい。大学を出てからずっと燻っている自分に、親友が与えてくれたこのチャンスを活かしたい。きっと甘くは無いだろうけど、必死で頑張ってみたい。
自分の気持ちの確認が終わると、そこからは様々な考えが目まぐるしく駆け巡り頭がパンクしそうだった。興奮で鼓動が早くなっているのが分かったので、努めて冷静に、先ずは落ち着こうと自分に言い聞かせた。
次にことみから電話がくるまでの一ヵ月の内に、天ヶ浜での一年間で知らぬ間に馴染んでしまった今の生活リズムを変えて行く必要もあるだろう。
後は、やり残したことか。
色々と考えた結果、女子美で卒業制作『希望のゲルニカ』の制作に打ち込んでいる頃から、何となく感じていることに思い当たった。
マドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されているピカソの『ゲルニカ』を、実際にこの眼で見たい。
画集でしか知らない『ゲルニカ』をモチーフに、ステンドグラス作品を制作することは、二十二歳の舞子が全霊をかけて挑戦した創作だった。そして自他ともに認める作品へと昇華した。
でも心のどこかで、本物の『ゲルニカ』を見たこともないわたしが作った『希望のゲルニカ』、これは果たして本物って言える?と感じていた。ピカソの絶対的芸術作品『ゲルニカ』の持つ怒り、そして絶望。それを体感せずして何が希望か・・・。
自分の両手から生み落とされたわが子のためにも、いつかスペインに『ゲルニカ』を観に行きたいという漠然とした願望が舞子にはあった。その時、『希望のゲルニカ』は初めて本物になる。若さゆえの潔癖さからくる精神論かもしれないが、舞子にはとても大切なことだった。そしてこれを実現させるタイミングは、きっと新たなスタートを切ろうとする直前の今しかないのだ。
舞子はベッドから飛び起きると、階下に駆け下りて行った。
「かあさーん、相談があるんだけど」
「何よ」
「お金貸してくれる?必ず働いて返すから」
「いくら」
使用目的も聞かずに、いくら必要なのかを問う母に舞子は感謝した
「えーっと、スペイン旅行っていくらあれば足りるのかな」
舞子は、ことみからの電話の内容と、その前に『ゲルニカ』を観にスペインに行きたい旨を母に話した。自分の熱意が的確に母に伝わるように、舞子は意識してゆっくりと話したが、それでもついつい早口になってしまった。

それから数日。パスポート申請から取得までの一週間を、舞子は人生初の海外旅行の準備に奔走した。
新たな目的を獲得した娘の姿が、悦子は嬉しくて仕方なかった。
今から三十年も前に観た『ゲルニカ』は、私のその後の人生を大きく変えた。それを今度は、ちょうどあの時の私と同じ年頃になった娘が観る。
この事実を噛みしめながら、悦子は感慨にふけった。
今回のスペイン旅行は、きっとあの子の人生の大きな節目となるだろう。
大学時代の友人に誘われたという仕事も、きっと上手くいくだろう。
もし万一、辛くなった時は、いつでも投げ出して帰ってらっしゃい。
母はいつでも『ゲルニカの木』であなたを待っているから。
そして、力いっぱい抱きしめてあげるから。

オーク製のテーブルが見事なカウンター席にお客のように腰を下ろして、悦子は自分で淹れたコーヒー、去年の秋ころから試行錯誤を重ねて、最近ようやく完成した三種類目のブレンド「潮 USHIO」を楽しんだ。
風味を最大限に楽しむために、わざと音を立ててすする様に口に含むと、舌の上で転がしてみた。
「おいしい」
悦子の口から、思わず満足のつぶやきが漏れる。
香りと味が一か所に留まることなく変わり続けるコーヒー「潮 USHIO」は、その完成に他のブレンドよりも手間と時間がかかった。でも、ついにたどり着いたこの玉虫色の風味の前には、その甲斐もあったというものだ。
なにか、目に見えない大きな力によって人生が動き始める。そんな予感のする今の気分には、月や太陽の引力で、自分の意志とは無関係に変化し続ける潮の満ち引きをイメージしたこの新作のブレンドコーヒーはぴったりだ。
舞子は、七泊八日のスペイン一人旅に旅立っていった。
電車の扉が閉まる瞬間、ほんの一週間なのに、娘が遠くに行ってしまう寂しさを感じて泣けてきた。ホームに立ち尽くす自分に手を振る舞子は、どこか逞しく見えた。
もう一口、含んだコーヒーを転がして中から広がる風味の変化を楽しみながら、悦子は店の壁に目をやった。
『希望のゲルニカ』の反対側の壁には、舞子が作ったステンドグラスの狼の作品が掲げられている。
『まぼろしの狼』
作品の下のプレートにはそうあった。とても半月ほどで仕上げたとは思えない。わが子ながら本当に大したものだわ。
舞子が再び東京で暮らすようになったら、ここの営業形態はどうしよう。アルコールの提供は止めて、また昔みたいに夕方でお終いにしようかしら。でも、近所の呑んべぇ連中が許してくれないかな。
悦子は取り留めなく、思いを巡らした。
あの子に負けないよう、私も今年は何か新しいことを始めよう。
実は今、密かに太極拳に興味を持っている。自分がステンドグラス教室を主催するカルチャースクールには太極拳のクラスがあって、一度、こっそり外から覗いたことがあった。気持ち良さそうにゆったりと体を動かす年配の男女が何だか羨ましかった。世の中の動きからは完全に隔絶して、まるで自分の身体の中に世界を、宇宙を抱いているようなのだ。
五十を過ぎて、これまでスポーツの経験もろくにないけれど、それでも今から始めたらあの教室では一番の若手だ。何かを学ぶということは楽しい。自分にとって未知の世界ならなおさらだ。
舞子を送り出した時の寂しさもすっかり忘れて、悦子は早くもワクワクしていた。
そんなことを考えていると、店のドアが開いた。
贅沢なひと時もここまでか。
「いらっしゃいませ」
振り向くと、客ではなく郵便の配達だった。
「こんにちは。こちら、ドイツからエアメールです」
配達員は、少し厚みのあるクラフト封筒を差し出した。
「ドイツ?珍しい・・・はい、ご苦労さまぁ」
ドイツからエアメールなんて、一体どういうことかしら。
受け取った封筒の宛名には悦子と舞子、二人の名がブロック体の几帳面なアルファベットで書かれていた。差出人を確認するとSena Turturroとなっていた。
「セナ・・・誰?」
差出地はドイツのボン。
悦子は封筒を開けた。中から出てきたのは十数枚の写真だった。
そこには、奉納祭の夜の舞子が写っていた。天懇献呈の儀で十二遣徒を演じる真剣な表情の舞子。その美しさは、母である悦子さえ見惚れるほどだった。かがり火に照らされた舞子の目が潤んでいる写真もあった。一方、ケンと二人で並ぶ写真の舞子は、悦子も見たことのないような屈託のない笑顔をしていた。きっと二人とも撮られていることを知らないのだろう。なんて素敵な表情だろう。
写真の何枚かは、悦子を写したものだった。
「えぇ?やだ、ちょっとぉ・・・いつの間に?」
とは言え、上手に撮られたそれらの写真を見て悪い気はしなかった。
殺人容疑ってホント?やっぱりプロのカメラマンなんじゃない。
その時、今日最初の客が入ってきて、開いたドアから風が吹き込んだ。一足早く春の訪れを感じさせるその風は、確かに希望の匂いがした。

(完)

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