そこは確かに在った。
路線図を片手に、新幹線と在来線を乗り継いで約七時間。ケンは、呆気ないくらい簡単に、幻の町にほど近い駅に降り立ってしまった。
駅からしばらく歩き、やがて海岸沿いの道路に出た。ひと月ほど前にトラックに揺られながら通ったのは間違いなくこの道だ。地図によれば、ここを北に向かって十㎞も行けば例の演習場がある。だとすれば、その途中にあの町もあるはずだ。
日本海を左手に臨みながら、海に沿って歩き続けるケンは、やがて見覚えのある景色に出会った。
正確には見覚えのある景色ではない。自分の記憶にあったものとは明らかに違った印象である。しかし手元の地図も、そして自分の直感も、間違いなくあの町に到着した事実を告げている。
駅に着いた時点でかすかに感じた落胆は、実際に町に足を踏み入れてみて、確かなものとなった。
幻の町でも何でもない、どこにでもありそうな田舎町である。
ケンがトラックの荷台から見た幻想的な祭りはとっくに終わっていた。それと同時に魔法が解けてしまったかのようだ。
ありふれた日常の弛緩した空気が町を覆っていた。
早朝に東京を出発していたため、目的地に着いてもまだ陽は高かった。先ほど、駅前に古びたビジネスホテルがあるのを見かけていたから、今夜の宿泊先は心配ない。せっかく来たのだ、この小さな町をちょっと散策してみよう。
そう決めたケンは、当てもなく小さな路地を歩いてみた。
一週間も休暇を取ったのは、ここを探し当てるのが困難だろうと予想したからだが、こうもあっさり目的を遂げてしまっては、どうしてみたものか。明日には早々にここを出て、沖縄に帰る前に、東京観光でもしてみようか。
そんなことを考えながら、何とはなしに歩くケンの目の前に、一軒の喫茶店が現れた。
祭りが終わった後も、そこだけが魔法の解けないままの姿で日常の中にひっそりと、しかし堂々たる存在感で佇んでいる。そんな雰囲気を漂わせる個性的な店だった。
入り口のドアを挟んで、左右に二つずつある窓は、カラフルなステンドグラス製だった。それらは、同じ樹木のモチーフを異なるデザインと色使いで表現した作品のようだった。
ステンドグラスの美しさにすっかり魅了されたケンは、気がつくと入り口のステップをゆっくりと上がっていた。
ドアの上に吊り下げられた木製の看板は、潮風に吹かれ続けた結果、辛うじて木目は見えるが、ほとんど石のような風合いになっている。その吊り看板には一本の木の輪郭と、日本語による店の名前が焼き印で記されていた。
ケンには、その「ゲルニカの木」という日本語は読めなかった。日本語の下に小さくラテン文字でGernikako Arbolaと刻印されている。きっと店の名前だろうが一体何語なのだろうか。ケンは緊張しつつ店の扉を開けた。
客のいない店内には静かなクラシック音楽が流れ、コーヒーの香りが立ち込めていた。
左手奥に見えるカウンターの上には、コーヒーミルやドリッパーが並んでいる。
カウンター内の壁に取り付けられた木製の棚には、種類ごとに分けられたコーヒー豆を密封したガラス製のポットがずらりと並ぶ。恐らく自家焙煎のコーヒー豆だろう。
この店の主が、コーヒーに対して拘りを持っているのはすぐに分かった。
カウンターの向こうに立つ店主は女性だった。
歳は五十代前半位だろうか。それなりに人生の年輪を刻んだ顔ではあるが、今もある種の気品と美貌を備えており、若い頃はさぞかし美人だったであろうと容易に想像できる。
入り口に立ちつくす外国人。
珍客の突然の来訪に驚いた女主人だが、すぐに気をとり直した。
「いらっしゃい。お好きな席にどうぞ」
了解した印に、にっこり微笑みながら頷いたケンは、窓から射し込む午後の陽が、色とりどりの影をほんのりと落とす窓際の席に腰掛けた。
日本の飲食店に入ると、なぜか必ず出てくるコップの水。それをトレーに乗せて運んできた女主人に、ケンはブレンドコーヒーをオーダーした。メニューの日本語は読めないが、どこの喫茶店にだってブレンドはあるだろう。
「うちは豆を挽いて淹れてるから、時間がかかるけど・・・良いかしら?」
「大丈夫。OK。いーですよ」
「あら、日本語。お上手なんですね」
「はい、ありがとぉ」
女主人はホッとした様子で、カウンターに戻っていった。
コーヒーを待ちながら、ケンはあらためて店内を見回した。
それほど広い店ではないが、落ち着いた雰囲気が心地よい。来たばかりなのに、もう寛いだ気分の自分がいる。常連客はきっとカウンターで素敵な女主人とおしゃべりを楽しんだりもするのだろう。
窓だけではなく、店内にもいくつかステンドグラスの作品が飾られていた。ランプの笠や立体造形まで芸術品と言っていい代物だ。
壁には絵画の複製がかかっていた。カラフルな色ガラスの作品とは対照的に、その絵はモノトーンだった。
描かれているのは、家の中なのか外なのか、マネキンなのか人間なのか。さらに馬や牛らしき姿もあるが、そのいずれもが奇妙に歪んだ形状をしている。
芸術全般に全くと言っていいほど縁のないケンでも、この独特なタッチは知っていた。ピカソだ。
この絵に関して、それ以上のことは何も知らないケンにも、不気味でどこか恐ろしい印象ながら鑑賞者の心を捉える魅力があるのは分かった。それは魔力と言っても良いような、抗いがたいパワーでケンの視線を釘付けにした。
「ピカソはお好き?」
淹れたてのブレンドコーヒーをトレーにのせて運んできた女主人が、壁の絵に見惚れているケンに声をかけた。
何と答えていいか分からず、ケンはあやふやな笑みを浮かべた。
女主人は、コーヒーカップをテーブルに置きながら先を続けた。
「『ゲルニカ』は私の好きな絵なんです。本物は八メートルもある大きな絵でね。スペインの美術館に飾られてるの」
ケンは黙って聞いていた。
「今では、他の美術館に貸し出されることのない絵だから、本物を観たければスペインに行くしかないんです」
沖縄に駐留しているお陰で、ケンはおおよその日本語は、聞き取って理解することもできる。しかし喋りとなるとまだまだ難しく、敬語はほとんど使いこなせない。だから日本人との会話も、適当に相槌を打ってごまかすことが多いのだが、今回は何とかがんばって意思疎通を試みる気になった。女主人とこの店の魅力的な雰囲気が、そうさせたのかも知れない。
「大きい絵。これは恐い絵?」
「恐い絵・・・と言えば、そうとも言えるわね・・・」
パブロ・ピカソの代表作『ゲルニカ』は、スペイン内戦時のドイツによる無差別爆撃が描かれており、反戦絵画としても世界的に有名な作品である。
パリ万博の壁画制作を依頼されていたピカソが、ゲルニカ爆撃の報を受け、急遽テーマを変更すると、怒りを込めながら描いたこの歴史的大作は、1937年の発表当時から賛否両論を巻き起こした。
七十年代にニューヨークのアーティストが、当時激化するベトナム戦争への抗議としてスプレーで落書する事件が起きて以降、『ゲルニカ』が展示される場には警備員が常駐するようになった。
完成から数十年を経た現在では、反戦のシンボルとして芸術史上に揺るぎない地位を確立している。
「あ、ごめんなさい。コーヒー冷めないうちに召し上がれ」
ケンはこくりとうなずいて、一口すすった。想像以上に豊かなコーヒーの香りに、心地よい驚きを味わった。
「おぉ、おいしい・・・です」
「よかったわ。ありがとうございます」
うまいコーヒーがケンの気持ちをリラックスさせ、同時に『ゲルニカ』に対する好奇心がますます膨れ上がった。
「あの恐い絵は」
「あ、そうだったわね・・・」
女主人はトレーを胸の前に抱えたままケンの隣に腰を下ろすと、しばし考えを巡らせた。
『ゲルニカ』については、基礎教養以上の知識を持ってはいるけれど、外国人相手に上手に説明できるかしら。とりあえず彼が理解できるよう、できるだけ平易な日本語で簡潔に伝えてみよう。
「昔ね、スペインのゲルニカと言う町に爆弾が落とされてね。それを題材にした絵なんです」
女主人は、ケンの表情から話が通じていると判断すると先を続けた。
「でね、その爆撃でゲルニカの町は廃墟になったんだけど、オークの木が一本だけ無傷で残ってたんですって」
「爆弾でも折れなかった木?」
ケンがつぶやいた
「そう。その後、占領軍から木を守るために義勇兵・・・自発的に兵隊が集まって見張り番までしたそうよ」
ケンの脳裏に、瓦礫の山の中に立つ一本の木と、その周りを囲む兵士たちのイメージが広がった。
「ゲルニカの木はね、昔からバスク地方の自由の象徴として、現代に受け継がれているの」
話ながら、女主人は若き画学生だった三十年ほど昔に思いを馳せた。
海外旅行が、今よりはるかに特別だったその時代。子供の頃から『ゲルニカ』に惹かれ、いつか実物をその目で観たいと思い続けていた彼女は、貯金と親からの借金で資金を工面するとニューヨークに飛んだ。
『ゲルニカ』はパリ万博での展示終了後、フランコ将軍の独裁政権下にあったスペインには返還されず、ニューヨーク近代美術館に収蔵されていたのだ。
遂に対面した初恋の絵画が与えた衝撃は強大で、ニューヨークにいる彼女に、そのままスペイン、バスク地方の町ゲルニカを訪れさせるほどだった。
今現在、バスク議事堂の脇に植わっているゲルニカの木は四代目になるが、当時はまだ初代がそのまま残っていたため、彼女は戦火を生き抜いた実際の木をその目で見ることができた。
そして隣のバスク議事堂のホールを飾るステンドグラスの美しさにも大いに感動した。ゲルニカの木の下で誓いを立てる人々をモチーフにした巨大なステンドグラスは、女主人がその後の創作活動に身を投じるきっかけとなった。
「うちの店の名前はそこからもらったのよ。『ゲルニカの木』」
「ゲルニカノキ」
「そ、英語でゲルニカ・ツリー」
「Oh、Guernica Tree・・・サインボード、イングリッシュじゃないねえ」
「表の看板のこと?」
「そう」
「あれはバスク語でゲルニカの木って書いてあるの。あの看板も、このテーブルもカウンターも、みんなオーク材を使ってるんです。あと、その窓あるでしょ。ここにあるステンドグラスは私が造ったものなんだけど、その窓はゲルニカの木をモチーフにしてるんです。自由の象徴をね」
女主人は説明しながら、誰にも、何をも強制されたくなくて、自由に生きてきた私らしいわね・・・と、心の中でつぶやいた。
無言のまま佇む二人。気がつけば陽はすっかり傾いていた。
そこに、ドアの開く音と共に少女の声が聞えてきた。
「ただいまぁ」
ケンが声の主に目をやると、外国人の来客に驚きの表情を浮かべる制服姿の女子高生がいた。ケンは、入口に立ち尽くす美少女の顔に女主人の面影を認めた。間違いなくこの店の娘だろう。
これが舞子、そしてこの店の女主人、井口悦子とケンとの出会いだった。
「はい、おかえり」
悦子は、舞子を紹介した。
「うちの娘です。舞子、こちらの方は、えっと・・・」
「Ken Albright」
ネイティブスピーカーの口からなめらかに発せられる英語発音に「?」と顔を見合わせる母娘にもう一度、日本語発音でゆっくりと繰り返した。
「わたしの名前、ケン・オルブライト」
「ケン・・・さんね。今日はよくいらっしゃいました」
舞子は人見知りなのだろうか、軽く会釈するとそそくさと店の奥に消えた。
「で、ケンさん。天ヶ浜には何しに?観光にしたって観るとこなんてないでしょうに」
「アマガハマ?」
「あ、ここの地名。天ヶ浜っていうのよ」
「はい、フェスティバル見にきたのです」
あの日、軍用トラックに揺られながら、この町に感じた感情。それを日本語で説明するのは到底不可能だと判断したケンは、祭りがすでに終わっているのを承知の上で言った。
「フェスティバル?奉納祭のことかしら・・・もう終わってしまったけど」
「はい、少し前に見たのです。その時、この町好きになったね」
「へぇ、一度来てるのね。外人さんなのに珍しいですね」
「そぉ?」
「ええ、この辺で観光客の外人さんなんか見かけたことないわ」
「そぉ」
「あのお祭りは、もともと神事の一種でね。『天懇献呈の儀』は外国人にはきっと興味深いかも知れないわね」
「テンコンケンテイの・・・」
「てんこんけんていのぎ。ざっとこんなお話なの」
悦子は祭りの成り立ちを説明した。
大昔、天界の神がこの地を訪れた際、漁師が獲れた魚介類を献上したという。
その魚のあまりの美味さに喜んだ神が、もっと食べさせよと要求したが、あいにく天候に恵まれず不漁続きのため、今食べた魚が最後の一尾だと漁師は言った。
それを聞いて嘆き悲しんだ神は、魚食べたさのあまり、穏やかな天候と豊漁を約束して天に戻っていった。
以来、この地の民は秋に魚を献上する祭りを行って、豊漁を願うようになったそうである。
「もっとも、今はこの辺じゃほとんど漁なんてやってないから。伝統を守るっていう理由で『天懇献呈の儀』も続けてはいるけど・・・中身は、ありがちなお祭りかしらね」
近くの神社に獲れた魚介類をお供えし、儀式を執り行う。これにより、この地が繁栄して願い事が叶う。天ヶ浜奉納祭は、長い歴史の中で都合よく解釈を変えながら、今も続く年に一度の秋祭りである。
すっかり「ゲルニカの木」を気に入ったケンは、結局休暇のギリギリまでこの地に留まることになった。
連日、辺りを散策して過ごした結果、天ヶ浜の地理に随分と詳しくなっていた。ここは平地が少なく、線路を挟んで内陸側はすぐに小高い山になっていることを知った。海岸沿いの道を北上すると演習地があるのは分かっていたが、反対方向に南下すると造船所があることも知った。海に突き出した堤防では、釣り人を見かけたこともあった。
昼を散策に費やしたケンは、夕方になると必ず「ゲルニカの木」に顔を出してブレンドコーヒーを注文した。
言葉の壁があるため饒舌とはいかないが、それでも悦子と気ままな会話を楽しんだ。
そのうち、学校から帰った舞子もその場に加わるようになった。
彼女らと過ごす時間は、海兵隊員であるケンの生活の中には、ほとんどあり得ない類のものだった。異国の片田舎で、出会って間もない日本人と会話を楽しむ自分の姿など、これまで想像もつかなかった。この状況が少し非現実的に感じられる程だった。
やはりこの空間だけは、フェスティバルのマジックが続いているようだ。
「いつも沖縄います。USマリーンね」
「マリーンって?」
舞子が聞いた。
「日本語でカイヘイ・・・タイ?」
「海兵隊?へぇ、ケンさん兵隊さんなんだ」
ケンが沖縄に駐留する米軍海兵隊員であることを、母娘は知った。訓練に励み、いつか精鋭部隊に志願したいと、希望に満ちた表情でケンは語った。
「怖くないの?」
そう聞く舞子に対し、ケンはこともなげに言った
「マリーン・コーはナンバーワン。一番だから。怖いものないのですよぉ」
今なら間違っても口にしない言葉である。だが実戦経験もなく、戦争の恐ろしさを知る由もないこの時のケンは、自分の言葉を信じて疑わなかった。
「この人、こんな田舎で喫茶店なんかやってるけどね。実は芸術家なの。アーティスト」母親を指さしながら舞子は言った。
「はい、ここのステンドグラス造った。それを聞きました。スゴイね」
「ステンドグラス売るだけじゃなくて、教えてもいるの」
「ゲルニカの木」の定休日である毎週日曜日、悦子は近くの市まで電車で通い、駅前のカルチャースクールでステンドグラス教室を開催しているという。
「作品集も出してるし、結構売れるんだよ。依頼を受けて大きいの作る時なんかは、臨時休業で工房に籠りっぱなし」
ケンに悦子の作品集を手渡す舞子の表情は、そんな母を心から誇りに思っているようだった。
その世界では十分に認知されているステンドグラス作家、井口悦子。
失礼ながら「ゲルニカの木」は繁盛している様には見えず、彼女はどうやって収入を得て生活しているのかと、ケンも不思議に思っていたが、これで謎が解けた。
住居兼職場のこの家は、二、三階が居住スペースとなっている。一階の奥には喫茶店と壁を隔ててステンドグラス工房があり、グラインダーやハンドソー、ガラスカッターなど大小様々な専門道具が、色とりどりのガラス板などと一緒に並んでいた。レジ横のスペースに、数千円で売られている小さなステンドグラスも悦子の作品だ。
「そう言うあなただって芸術家志望でしょ」
悦子の表情からも、その道を選んだわが子を応援する母の優しさが滲み出ていた。
「毎日デッサン、デッサンで・・・青春って何?って感じですけどね」
デッサン用の木炭で黒くなった爪の隙間をいじりながら、むくれてみせる舞子だが、放課後の美術室でデッサンに明け暮れる日々は、周りの学生が参考書片手に数式と格闘しているのに比べれば、はるかにましだと思っていた。
昔から仲間内で群れるのが嫌いな一匹狼気質の舞子は、美術部には所属しておらず部員からも距離を置いていた。そんな舞子のことを、わざと聞こえるように「居候」と呼ぶ部員もいたが、彼女は気にしなかった。来年の春には東京五美術大学のいずれか・・・できれば母の母校でもある女子美術大学に入学して、こんな所でくすぶってるあんた達とはお別れよ、と心の中で繰り返すのだった。
ケンにとっても、悦子や舞子にとっても思いがけず楽しい日々となった数日間が過ぎた。
休暇も終わりが近づきケンが沖縄に帰る日には、舞子が駅まで見送りにきた。
「ここ好きだから、また戻ってくるを、約束しますねぇ」
見つめられながらそう言われて恥ずかしくなり、思わず目をそらした舞子は、照れ隠しにそっけなく答えた。
「うん。暇だったらで良いいから」
ケンを乗せて走り去る電車を見送りながら、舞子は早くも自分の言葉に後悔していた。可愛げないよなぁ、わたしって・・・。
落胆しながら帰路に着く舞子は、途中で思わず「あ・・・」と声を漏らした。来春には、きっと自分は東京で暮らす女子大生になっていて、天ヶ浜にはいないのだ。
「もう会えないじゃん」
やり場のないやるせなさが胸に込み上げてきた。それは舞子自身が動揺するほど強烈な感情だった。
東京から自分を追って来た二人組を返り討ちにし、そのまま深夜の天ヶ浜をほとんど無意識に彷徨い歩いたケン・オルブライト。
海岸沿いの道路に出る頃には、ケンは自分がなぜこの地を目指してきたのかを、はっきりと理解していた。
数年前、まだ海兵隊員として希望と自信に満ち溢れた日々を送る俺が、休暇を取って訪ねたこの町。この現実の町に、唯一残された幻のような喫茶店「ゲルニカの木」。そしてあの母娘。娘の名前は確か舞子だったか。
あの休暇の日々に歩いて回ったこの辺りの地理を、記憶はしていなくとも体が覚えていたのだろうか。日付も変わりすっかり夜も更けた頃、ケンは見覚えのある店の前に立っていた。窓のステンドグラスもあの頃から変わっていない。入り口にかかるこの木の看板は、確かオークを使っているとか。
ここが俺の目的地に間違いない。だが、なぜだ?
自分自身に問いかけながら、入り口のステップに腰を下ろしたケンを、強烈な疲労と睡魔が襲った。海風から身を守るため革ジャケットを耳の上まで引き上げると、丸めた体を柱に預けた。
今朝、東京を逃げ出したのが遥か昔に感じる。厄介な一日を反芻する間もなく、ケンは深い眠りに落ちた。
早朝。ベッドからもぞもぞと抜け出した舞子は、寒さに身震いしながらジャージを肩に引っ掛けて、新聞を取りに薄暗い店に降りた。毎日のルーティンなのでほとんど無意識に体が動く。
眠い目をこすりながら、入り口のドアを開けた舞子は、うずくまる人影を見て思わず短い悲鳴を上げると、慌ててドアを閉めた。
酔っ払い?心臓がバクバクするのを感じながら、どうすべきかを考えた。母を呼ぼうか、それとも警察が良いか・・・でもただの酔っ払いだったら警察に申し訳ないかな。いや、警官だって国民の税金から給料を貰ってるんだから遠慮は無用だよね。
色々と考えながら、とりあえず店にあったホウキを手に取った。これで突いてみよう。いざとなったら武器にもなるし。
勇気を振り絞ってそっとドアを開けた舞子は、ホウキの柄でうずくまる男をつつきながら声をかけた。
「すみません、ちょっと・・・あの、起きて下さい。風邪ひきますよ。こんな所で寝られると困るんですけど」
無反応の男をもう少し強くホウキで押してみる。すると男はゆっくりと顔を上げて、眠たそうにしながら舞子の方に振り返った。
男の顔を見た舞子は、再び悲鳴を上げそうになった。だが今度の悲鳴は恐怖からではなかった。驚きと、その後からゆっくり広がる喜びの感情からくるものだった。
「ケンさん・・・だよね」
「Oh、舞。久しぶりね。元気でしてましたか?」
この日からケンは、井口母娘の計らいで「ゲルニカの木」の三階にある空き部屋に居候することになった。
「ケンさん!」
舞子が後ろから大きな声で呼ぶのを聞いて、はっと我に返った。
「どこまで走るの?家、通り過ぎてるよ」
振り返ると、国道から「ゲルニカの木」のある小さな通りに続く坂道を通り越していた。
「Oops、ソーリー」
苦笑いしながら踵を返すケン。
元々、帰り道にあれこれと会話をする二人ではない。それにしても今日のケンは、いつもより自分の世界に没頭している感じがした。舞子は、そんな普段とちょっと違うケンを敏感に感じ取っていたが、わざわざその理由を訊ねるようなまねはしなかった。何となく聞いてはいけない気がしていた。
半月ほど前のあの朝の、ケンとの数年ぶりの再会を、舞子は思いがけず手にしたプレゼントみたいなものだと思っていた。
舞子が東京での六年間の生活に終止符を打ち、天ヶ浜に戻ってきたのが今年の春だった。母の喫茶店を手伝いながら今一度、今後の人生設計をじっくり描く、というのはあくまで建前であることは、舞子自身が一番よく知っていた。
彼女にとって、天ヶ浜に帰ってきてからの半年間は、何事もなくただ時間が流れ去った、それだけの日々だった。将来に対する明確なビジョンを持てずに、具体的な行動を起こす力も出ない。様々な決定事項を先送りにするモラトリアムな日々。決して居心地が悪いわけでもないし、食うや食わずの生活を送る者からしたら、良いご身分だと嫌みのひとつも言いたくなるかも知れない。
しかし舞子の心は常に、一生に一度しかない若い時代、今この瞬間を無駄に浪費しているという感覚に追われており、気分が休まる呑気な日々では決してなかった。
そんな、真綿で首を絞められるようなぬるい毎日に突然、張り合いと希望を与えてくれたのがケンとの再会だった。
以来、およそ二週間。彼女の生活は目まぐるしく変化し、ここ最近感じたことのない充実感を味わっていた。その理由は舞子自身にもよく分からなかった。いつまで続くのかも分からないケンのいるこの生活に、一体自分は何を期待しているのだろうか。
それでも舞子は、そんな毎日を楽しんでいた。そしてこの時間を継続させるためには、ケンにあまり立ち入った事情を聞くべきじゃない、そんな風に思い始めてもいた。
舞子自身が、女子高生だったあの頃から大きく変わったのと同様に、いや、多分それより遥かに大きくケンは変わったのだ。舞子は日を追うごとにそんな感覚を強めていた。
無邪気なほど自信にあふれる海兵隊員だった、あの日のケンはもういない。今、わたしの目の前にいるのは、実際に経過した空白の年月以上の日々を心に刻んだ男なのだ。
一見陽気にしていても、今のケンは心のどこかに不安を抱いており、緊張を解いて完全にリラックスすることはないように見えた。そしてケンの心の中には、例えどんなに親しくなっても踏み入ることの許されない領域があるような気がした。だから舞子も、母の悦子も詳しいことは一切聞かなかった。
ケンが仕事を探しに天ヶ浜にやってきたと言ったので、何も尋ねることなく、造船所の仕事を探してきてあげたのだった。
天ヶ浜での生活が、いつかケンの心を氷解させるのではないか。ケンも、そして自分も再びあの頃を取り戻せるのではないか。舞子はそんな希望を密かに抱いていた。
ケンと舞子が「ゲルニカの木」に帰ってくる頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
店からは温かみのある明かりが漏れていた。ステンドグラスの窓は輝く絵画のように美しかった。例えちっぽけでも、暗い道を行く人たちを勇気づけるような眩しさだ。
周囲の暗闇から浮かび上がる店を見て、舞子もケンもちょっと幸せな気分になった。こうして帰ってくる場所があるのは素晴らしいことだ。
その日の東京は、朝から小雨のぱらつく陰鬱な天気だった。
沖縄での唐島興行とのミーティングを終えて、必要な情報を手に入れた妹尾は、東京に戻ると早速花山一家の若頭、鳴海に連絡を入れて会う段取りを決めた。
場所はデパートの屋上にある小さな遊園地を指定した。高度経済成長期には全国のあちこちに誕生し、仮設ステージではタレントのイベントやちびっ子相手の着ぐるみショーが催されるほど活況を呈した屋上遊園地。だが、バブル期以降は、ニーズの変化と共にその役割を終えてすっかり減少し、今では珍しい存在となっている。
そんな時代から取り残され寂れてしまった場が、妹尾にとっては都合が良かった。人目を気にせずに仕事の話しができるため、過去にもここの遊園地は何度か使ったことがある。
だが、妹尾がこうした昭和の遺物たる屋上遊園地を好む理由はそれだけでは無かった。少年時代に、大好きだった祖母に連れられてよく遊びに来た思い出があったのだ。
十円玉を三枚入れると動き出す電動の乗り物に跨りながら、大空に浮かぶデパートのアドバルーンを眺めるのが好きだった。当時は何もかもが楽しくて、そんな素晴らしい時にもやがて終わりが訪れるなどとは夢にも思わなかった。妹尾にとって屋上遊園地は、無邪気な少年時代の象徴でもあり、戻らぬ日々への郷愁を掻き立てる特別な場だった。
そんな大切な場で物騒な仕事の話をするというのは、矛盾する行為ではある。だが妹尾は殺しを生業とするようになって以来、故意に過去の思い出を壊すよう心掛けていた。すでに自分の心は死んだのだ。今の自分は別の人間なのだ。そう自分自身に言い聞かせながら、人間的な感情を仕事に持ち込まぬよう気を付けているのだった。
鳴海との約束の時間までには、まだ三十分近くあった。妹尾は二~三十分前には、目的の現場に着くよう心掛けている。
デパートの屋上に通じる階段を上がって扉を開けると、湿った空気特有の匂いが妹尾を包み込んだ。今時、平日の屋上遊園地で、しかも雨天ともなれば客などほとんどいない。ミニチュアサイズのレール上を走る汽車や、ゴンドラが五つだけの小型観覧車が、稼働することなく雨に濡れていた。
傘を差してベンチに腰を下ろした妹尾は、霧雨で煙る町を眺めながら鳴海を待った。
妹尾の人生は、常に自己肯定感と共にあった。
その裏付けとして、妹尾はいかなる時も自分自身を向上させる為の努力を怠らなかった。
子供の頃は外を走り回るのが大好きで、すり傷の絶えない少年だった。
いつもクラスの中心にいるタイプの人気者で、運動神経に恵まれ、小・中学校を通じて陸上競技に打ち込んだ。
持久力は抜群だったが、まだまだ自分より速い奴は大勢いると実感した妹尾は、早々に陸上に見切りをつけた。
進学先に柔道の名門校を選ぶと、中学卒業と同時に実家を出て寮に入り、柔道部に入部した。周りを見れば、中学時代から柔道をやっている連中がゴロゴロいた。体格面でも中肉中背の妹尾は恵まれているわけではなかった。
だが、徹底的に肉体を痛めつけ精神的にも追い込まれ、吐き気を催すのさえざらという、そんな稽古の激しさが妹尾の性には合った。畳に叩きつけられた衝撃で息が詰まり、苦痛に全身を蹂躙されながらも、日々確実に強くなっていく自分を感じられる毎日だった。昨日より今日、今日より明日の自分の方が強い。その実感がますます妹尾を稽古に駆り立て、高校二年時にはチームの副将を任されていた。
周りもその躍進に目を見張ったが、それよりもみんなを驚かせたのは、それだけ部活動に専念する一方で、学業に於いても優秀な成績をキープしている点だった。特に英語では常にクラスのトップレベルにあった。