幸せは憂鬱な時間に

「はい」
 驚きを引き摺る康平の声が、少しだけ上擦った。
『えっ、嘘!』
 間が抜けた返事に、康平は一気に脱力した。
「お前なぁ~っ」
 元気一杯の勇也の声に、康平はベッドへと突っ伏した。
『ああゴメン。まさか通じると思わなくて、ビックリした。もう心臓バクバク』
「それは俺のセリフだ!」
『いいタイミングで掛けたってことか』
「どうしてそうなんだよ」
 口達者な勇也と言い合いになったら、負けるのは康平だ。わかっていながら、ツッコミを入れてしまう。
 電話の向こうで勇也が笑った。
「で、今どこ?」
『M総合病院の公衆電話からかけてる』
「お前、ケータイ忘れたのかよ。ダッセーッ」
『その「ダッセーッ」、一生根に持つからな』
「持て持て。それで、なんでそんなとこにいんだよ」
『幽霊を激写したら有名になるかと思ってさ』
「目指すは心霊写真家ってか?」
『そう』
「いつジャンル変えしたんだよ。つくならもっとマシな嘘をつけ」
『色々あるんだよ』
 勇也の声が心なしか沈んだ。
 胸騒ぎがする。
 康平は唾を飲み込んだ。
「どっか悪いのかよ。盲腸とか、食中毒とか、ガンとか」
『だったら即入院してるよ。盲腸はとっくに終わってる』
「風邪か?」
『僕、バカじゃないから夏に風邪引かないし』
「じゃあ、なんだよ。誰かの見舞いか?」
『瀕死の重傷』
 ケロッとした勇也の声に、
(それがオチか。人を心配させやがって~っ)
 康平は心配したことが馬鹿馬鹿しくなった。隣に勇也がいたら、問答無用で脳天に拳骨を落としていただろう。
「もっとマシなオチはなかったのかよ」
『悪い。全然思いつかなかったわ』
 勇也がはしゃぐように笑った。
 けれど、いつもと何かが違う。
(なんだ?)
 康平は首を傾げた。
 勇也の様子がおかしい。
 うまく説明できないが、いつもと何かが違う。
 文句を垂れるべきか、許すべきか、康平は悩んだ。
 沈黙が生まれた。
『康平? どうした康平? もしかして本気で心配してくれた? やっぱりお前っていいヤツだよなぁ』
 幼い子向けの勇也の口調に、康平は深々と息を吐いた。
(ダメだ。どうやってもコイツには敵わねぇーわ)
「相変わらず能天気なお前に愛想を尽かしかけたんだよ」
『これでも色々悩めるお年頃なんだけど。そんなことはどうでもよくて。あのさ、今から遊びに行っていい?』
 一番願っていたことがあっさりと叶いかけて、康平は動揺した。
 勇也の気まぐれはいつものことだ。
 撮影帰りや撮影前に康平のマンションに寄ることも多い。断りもなく泊まりにくることもある。
「いいけど、食べるもんなんにもないぜ?」
『そうか。食料が尽きるほど引きこもってたのか』
 図星をさされ、康平は頬を熱くした。
『食いもん一つない男の部屋に行くのって、なんかなぁ~』
「だったら来るな」
『菓子持ってくよ。けど、菓子はすぐに腹が減るんだよなぁ。サイゴは美味いもん食いたかったんだけど』
「最後?」
『そうだ。だったら、康平は責任持って朱美ちゃんを誘うこと。あと、食料がまったくないって必ず泣きつけよ。そしたら、一気に冷蔵庫が潤うからさ。心配した朱美ちゃんがしばらく通ってくれるオマケ付きだ。誘いにくかったら、僕の命令だって伝えていいよ』
 話をはぐらかしたかと思えば、ハイテンションに一番面倒で実は望んでいた提案をする勇也に、康平は苦笑した。
「お前が電話しろよ」
『ヤダよ。康平がどんな風に頼んできたか、後で朱美ちゃんに訊いて、一緒になって康平をからかうんだから』
「時々思うけど、お前、相当のサドだろ?」
『だって、康平の反応が可愛くてたまんないんだもん』
「気色悪い声をだすな!」
『頑張りを褒めろ』
「絶対に褒めねぇ。で……その……頼むのは努力はする」
『大丈夫だよ。今日、朱美ちゃん暇なはずだからさ』
 勇也は康平と朱美のスケジュールを完璧に掴んでいる。
 勇也が言うのなら、急用でも入らないかぎりその通りだろう。
『じゃあ、今から行くね』
「おいっ、ちょっと待て!!」
 通話は一方的に切られた。
 康平は弱々しく息を吐くと、ケータイのディスプレイを見つめた。
 朱美の番号を表示させる。
 表示しなくても、朱美のケータイ番号は覚えている。メールアドレスもだ。
 勇也のも覚えている。
 実家の電話番号は時々忘れるくらいなのに、二人のは一度覚えてから忘れたことがない。
 ゆっくり一呼吸すると、康平は朱美のケータイへと通話ボタンを押した。
 コール五回で繋がった。
 康平は唾を飲み込んだ。
「朱美? 俺だけど」
 切りだした康平に、
『これって、勇くんの差し金でしょ?』
 朱美が楽しそうに訊いてきた。
 康平は首をすくめた。
 彼女には何もかもお見通しなのだ。
 勇也と康平の出会いは高校生活初日だった。
 女子は昔ながらのデザインに捻りのないセーラー服を、男子は学ランを着ていた。
 勇也は同じクラスの康平に興味を持った。
 康平を初めて見た瞬間、勇也の脳裏で何かが弾けたのだ。
 それが何かわからなくて、勇也はクラス全員に壁を作る康平に唯一気さくに声をかけつつ、観察するようになった。
 康平は生きるのが下手だった。
 愛想よくすれば、康平はクラスでもそれなりの地位につける容姿をしていた。体育の運動神経もよく、勉強もできるようだった。
 けれど、康平は不愛想であり続けた。
 そして、誰ともつるもうとしなかった。
 早退、遅刻、無断欠席は当たり前だった。
 康平の良い噂は一つも聞かないが、悪い噂は毎日のように聞くことができた。
 休み時間のたびに一人きりな康平は、狼に憧れる子犬のようだった。
 強引に康平と会話しながら、勇也は康平に惹かれ続ける理由に気づいた。康平は絶好の被写体だったのだ。
 勇也はカメラ小僧だ。
 だが、今まで人を被写体にすることはあまりなかった。
 唯一の例外が、同級生で違うクラスの幼馴染である朱美だ。だが、いざ撮影を始めると、幼馴染として朱美を見てしまうため、撮った写真は作品というより個人のアルバムに収めて楽しむ趣味範囲の仕上がりになる。
 康平はアンバランスな人間だ。拒絶と甘え、正反対のものを九対一で持ち合わせていた。自分の弱さを隠すのに必死で、すべてのものに牙を剥きだし、心を閉ざしているようだった。
(さて、どう手懐けるか)
 難しそうな問題を前に、勇也は朱美の力を借りることにした。
 勇也はなんでも朱美に話していた。
 勇也にとって、朱美は居心地のいい親友だ。だが、時々厄介なことに、朱美は美少女の皮を被ったお節介なオバサンになるのだ。
 昔の勇也は極端に物怖じする性格だった。
 けれど、朱美は勇也の性格などお構いなしに手を差し伸べてきた。
 勇也がその手を無視すると、朱美は勝手に握ってきた。
 朱美はそういう女性なのだ。
(朱美ちゃんが相手なら、さすがのアイツも根負けするかも)
 康平の話をするたび、朱美が興味を持っているのを感じていた。朱美は保護欲をそそる動物に弱いのだ。
 そうして、まだ友達でもない康平に朱美を紹介した。
 そして気づいた
(康平って、朱美ちゃんの好みにピッタリ嵌るんじゃ……)
 勇也の感は的中した。
 そうして、高校一年の夏休み中、企み通りに康平を勇也だけの被写体にすることに成功し、親友にまでなった。無理やり勇也が親友宣言をし、康平が根負けしたのが正しいのだが……。
 康平は出会った時と比べ、丸い性格になった。
 朱美は康平の面倒を見ながら、勇也と康平の関係も大切にしてくれた。
 康平と朱美の関係は、未だに恋人未満のお友達だ。
 けれど、心は繋がっている。……と、勇也は勝手に思っている。
 勇也には一つの野望があった。
 プロの写真家になることだ。
 コンテストにもたくさん挑戦し、小さくてもいいから個展を開き、観た人を幸せな気持ちにさせること。
 両親がいない勇也は祖父母に育てられた。
 父は写真家で、母はその助手だった。撮影先の海外で事故に遭い、亡くなったのだという。
 命は突然消えるものだ。
 命が尽きる日を知ることは不可能だ。
 そうした当たり前のことを無視して、育ての親である祖父母は死んだ二人を勇也の前で平然と罵った。
 職業を罵り、親よりも早く死んだことを罵り、平凡な相手と結婚しなかったことを罵った。そして、子供よりも仕事を愛したのだと罵った。
 小学二年生くらいまで、勇也は育ての祖父母の影響でカメラが嫌いだった。
 両親が自分よりも愛した職業が憎かった。
 自分よりも愛するものがあるならば、なぜ自分を生んだのかと呪った。
 一方で、自分よりも愛された職業が気になった。
 だから、勇也はカメラを手にした。
 育ての親ではない祖父母にねだり、買ってもらった。
 育ての祖父母は「血は争えない」と自分のことを棚に上げ、勇也を罵った。
 けれど、勇也は構わなかった。
 撮り溜めた写真は、いつしか勇也の宝物になった。好きなものを撮っているのだから当然だ。
 そうしたある日。勇也は父の作品を見て気づいた。今、自分は時間を超えて両親と同じ景色を見ているのだと。そして、感動を共有しているのだと。
 両親が自分を愛していたかどうかはわからない。けれど、これほど綺麗な景色なら撮りたくなる。しかもそれは、自分以外の誰かの心を揺さぶることが可能なのだ。
 そして、勇也はプロの写真家になることを夢見るようになった。
 元々、勇也には大切な者がいなかった。そこから今の勇也になるまで、長い時間を必要とした。
 だからわかる。
 康平と自分は似ているのだ。
 大きな違いは、生き方や価値観を変える出会いが、早いか遅いかだけだ。
 自分はカメラと出会い変わっていった。
 康平は朱美と出会い、変わっていった。そこに、少しは自分も加わっていると勝手に思っている。

 康平のマンションに到着すると、勇也は鉛のように思い腕を上げ、感覚のない指でインターフォンのボタンを押した。
 さほど待たされることがなく、ドアが開いた。
「早かったな」
 無数の缶が入ったゴミ袋を片手に、康平が目を見張った。
「なんだよ、お前。びしょ濡れじゃんか! ちょっと待ってろ」
 ゴミ袋を放置して、康平が部屋の奥へと駆けていく。
 すぐに戻ってきた康平は、脇に挟んでいたバスタオルを勇也に渡すと、何枚ものタオルを床に落とした。
「鞄は俺に任せて、お前は自分を拭いてろ」
 手を差しだす康平に勇也は噴きだした。
「なんだかんだって、朱美ちゃんの面倒見の良さが移っちゃってるね、康平」
「お前が自分よりもカメラを大切にするからだろ! ほら貸せって。そっちは俺が拭いてやるから」
 早く渡せとばかりに手を出し続ける康平に、勇也が笑いを堪えた。
「ないよ」
「え?」
 驚く康平に、勇也は再び噴きだした。
「だから、カメラは持ってきてない。荷物はこれだけ」
 勇也はコンビニの袋を康平の手に置くと、乱暴にカッパを脱いだ。
「このカッパ、一〇〇円ショップのだし、ゴミでいいや。雨に濡れすぎて手が震えちゃってさぁ」
「バカかお前!」
 落としたタオルを素早く手に取り、康平が怒鳴った。
 出会った頃は当たり前のように聞いていた康平の怒鳴り声だが、今では珍しい。
「笑う暇があるなら早く自分を拭け! 風邪引く前に服を脱げ!」
「凄い、康平が叱ってる」
 感動する勇也に、
「あのなあ」
 康平がイライラするように片手で髪を掻き乱した。
「心配されたくなきゃ、二度とずぶ濡れになんな」
「いやいや、ありがたいよ。すっごく嬉しい。康平に本気で心配されるなんて、すべての運を使い果たした感じだ」
 勇也はウキウキと靴を脱いだ。体が重くなければ、飛び跳ねただろう。
「靴下脱いで足拭いたら即行で脱衣室行け。脱いだ服は洗濯機に放り込んでシャワー浴びてこい。着替えは貸してやる」
「ありがと。でも、洗濯はいいや。これは捨てる服だからビニール袋に入れてく。着替えと一緒にいらないビニール袋も置いといて。うおっ、寒っ。もう限界だ」
 靴下を脱いだ勇也は、タオルの上で二度足踏みすると、脱衣場へ走った。

「今出せる味つきの飲みもんだ」
 シャワーを浴び終えた勇也の前に、マグカップが置かれた。
 コーヒーだ。康平が入れられるコーヒーはインスタントしかない。
 ウエスト以外のサイズが大きい康平のスウェットに身を包んだ勇也は、カップを両手で包むと、ソファに背中を預けた。
「まだ朱美ちゃん来てなかったんだ」
「そんなに早く来られてたまるか」
 康平が勇也の隣に腰を下ろした。
 部屋の片隅には、中身が詰まったゴミ袋がいくつか置かれていた。
「そうだね。最低でも、康平にはそこら中に散乱していただろうゴミを拾い集める時間が必要だもんね」
「お前にも手伝わせるつもりだったのに、お前が風呂入ってる間に終わったよ」
「昔だったら、絶対間に合わなかったよね。一人で済むほど汚さなくなったって凄い進歩じゃん」
 しみじみとする勇也を、康平が恨めし気に睨んだ。
「お前、俺をバカにしてるだろ」
「ダメな子の成長を喜んだだけだよ」
「俺の家なのにお前らがうるさいく言うからだろ。なんで俺が肩身の狭い思いをしなきゃいけねぇんだよ。おかしいだろ」
「全然」
 勇也は一言で片付けると、コーヒーに息を吹きかけた。