幸せは憂鬱な時間に


 唐揚げと千切りのキャベツに味噌汁の夕食を終えると、康平はソファに腰を下ろし、頻繁にチャンネルを変えながらテレビを眺めた。
「面白い番組ある?」
 キッチンの後片付けが終わったのだろう。エプロンを脱いだ朱美が、康平の横に腰を下ろした。
「なんにもない」
 康平はテレビのスイッチを切った。
「ねえ、康平くん。また写真増えたね」
「ああ」
 ベッド付近の壁には、勇也の写真が何枚もピンで留めてある。五〇枚は軽くあるだろう。
 最初に貼ったのは康平だった。カメラのタイマー機能を使って撮った三人一緒の写真を、なくさないようにと留めたのだ。
 一枚だけ貼ったはずが、いつしか二枚三枚と増えていった。二枚目からは朱美か勇也の仕業だ。
 康平も時々貼っている。
「そこにパンツ丸出しのアタシの写真があるのはなんで?」
 幼い朱美がスカートで滑り台を滑り切ったところで仰向けになっている写真だ。
「夏休み入ってすぐ、勇也に貰った。笑えるから、なくさないように貼っておいた」
「勇くんのバカッ! 好物二品も作るんじゃなかった」
 ムスッとする朱美が可愛くて、康平はニヤける口元を手で隠した。
「あのさあ、朱美。訊きたいことがあるんだけど」
「改まっちゃって何よ」
「勇也って前から自分を下に見てるだろ。なんでかなと思ってさ。だってアイツ、誰にも嫌われてないじゃん。好かれてるほうだろ? だから、昔から自虐的だったのかなと思ってさ」
「……そうか。そうだよね。アタシがいるときも、『こんな僕でも』とか言うもんね」
 朱美は姿勢を正すと、康平の目を真っ直ぐに見つめた。
「そうだなぁ。昔の勇くんは、出会った頃の康平くんにかなり似てたの」
「えっ?」
 思いも寄らない告白に、康平の頭が一瞬真っ白になった。想像がつかない。
「アイツって、両親いないけどジジィババァと上手くやってんだろ? 全然俺と違うじゃん」
「昔も今も、育ての二人とは全然上手くいってないの。ただ、勇くんには康平と違ってカメラがあった。夢中になれるものがあったから、勇くんは今の勇くんになったんだと思うの。幼い頃、アタシが勇くんと仲良くなったのはカメラがキッカケだったの。小学二年のときね。その時の勇くんは無口で不愛想で、全然社交的じゃなくて、一人でいることを好んでいた。ワタシはそんな勇くんを尊敬して、勝手に追いかけ疎まれてた」
 康平は「勇也が好きで追いかけてたのか?」と、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。だとしたら、三角関係確定だ。今の居心地のいい関係が崩れてしまう。康平は唯一の親友である勇也を恨んでしまいそうで怖くなった。朱美は恋愛感情があるかぎり、親友ではない。
「まるでストーカーだな」
 康平は自嘲気味に笑った。
「そうね。だってアタシ、今も昔も勇くんのファン第一号だもん」
「ファ、ファン?」
 間抜けな声を出した康平に、朱美がむくれた。
「何よ。康平くんだって勇くんの写真を凄いと思うでしょう?」
「あ、ああ」
「その腕に、仕上がった写真に惚れてるでしょう?」
「ああ」
「だったら、康平くんだって勇くんのファンじゃない」
「そういうことね」
(ストーカーとか言うからビビッた。好きは好きでも『愛してる』じゃなくて『ファン』かよ)
 康平は一先ず安心した。
「で、朱美はどうやって勇也と仲良くなったんだよ」
「う~ん、康平くんの時と変わらないような気がする」
「それは勇也も気の毒だったな」
「何か言った?」
 睨みつけてくる朱美に、
「なんでもない」
 康平が愛想笑いをした。
「別にいいけど」
「いいなら突っ込むなよ」
「康平くんが一言多いの! えーとなんだっけ、アタシが勇くんに興味を持ったのは、たまたま公園で写真撮影していた勇くんを見つけたからなの。子供がカメラだよ? しかも、一眼レフ。プロが使うようなゴツゴツで重そうで高そうなの。子供なのにそんなのを真剣に構えて撮影してたら凄い感じしかしないじゃない。普通、大人は子供にオモチャみたいなデジカメだって触らせないでしょ? 触ったら叱るでしょ?」
「はあ」
 曖昧な返事をする康平に、朱美が溜め息をついた。
「どうしてこのトキメキが伝わらないかなぁ。とにかく、アタシはそうだったの。最初、アタシはカメラを触りたかったの。アタシも職人みたいにカメラを構えたくて仕方がなかったの」
「それでストーカーか」
「第一のストーカーね」
「第一ってなんだよ。第一って」
 朱美は人の興味を掻き立てるのが上手い。その上手さに乗せられてしまうのは悔しいが、康平は続きが知りたくて話を待った。
 思いだそうとしているのか、朱美が視線を上へと移動する。
「粘りに粘って、一回だけシャッター押させてもらったの。けど、仕上がりは大したことなくて……。でもね、勇くんが映すと面白いくらい綺麗に写るの。実物よりも写真のほうが生き生きして見えたり、綺麗に見えちゃうの。無理やり撮影に同行して、次の日に改めてその写真を見ると、こんなに綺麗だったかなって思っちゃうわけ。そんな魔法使いみたいな勇くんが凄くて、当然アタシは勇くんにつきまうのをやめなかった。これが第二のストーカーっていうか、今も続いている関係ね」
「聞けば聞くほど、当時の勇也が可哀そうになってきたわ」
「康平くん、またまた一言余計。いっぱい話して喉か渇いてきちゃった。ジュース飲もうっと」
 立ち上がった朱美は数歩進んで振り返った。
「康平くんも飲むでしょ。何がいい?」
 今、朱美を独占しているのは康平だ。勇也のアドバイスが脳裏に蘇る。
(『とっとと告白しろ』か。したとして、上手くいって同棲したら、ずっとこんな感じなのかな)
 それは、朱美に意識されるだけでも嬉しい自分にとって、最高の幸せだ。
「なあ、朱美」
 完全に勇也の口車に乗るつもりはない。
 少しだ。ほんの少しだけ乗ってみよう。
 それで脈がありそうなら、さらにもう少し乗ればいい。
 そうして、もう少しを積み重ねていけばいい。
「何?」
 朱美が瞬きした。
 康平は逸る気持ちを抑えながら、急速に行内が渇くのを感じた。
「いい加減、俺をくん付けで呼ぶのやめてくんない? 俺はお前を呼び捨てにしてんのに、それって変だろ。そんだけだ。そんだけ」
 言いながら恥ずかしくなった康平は、顔を背けた。心臓が痛いほど伸縮を繰り返す。
 沈黙が生まれた。
(やっぱ、言わなきゃよかった)
 康平が後悔するや否や、
「絶対勇くんに何か吹き込まれたんでしょ。わかってるんだからね」
 朱美が声高になった
 思わず見れば、朱美は真っ赤になって上目遣いに康平を見つめていた。
(もしかして、脈あり?)
 想像しなかった朱美の反応に、康平の思考が停止しかけた。
「そんなのどうだっていいだろ。ほらっ、『康平』って呼べよ」
 康平は照れるのを堪えて急かした。
「康平?」
 朱美がはにかみながら小さく呟いた。
 途端、康平の中で朱美への愛おしさが弾ける大量のポップコーンのように膨れ上がった。
 顔がニヤけるのを見られたくなくて、康平は慌てて口を開いた。
「ジュース飲むんだろ。なんでもいいから俺にも持ってきて」
 朱美が帰ると、康平はケータイに手にベッドに座った。
 前のめりになってケータイを操作する。
 結局、朱美が『康平』と呼んでくれる以上の進展はなかった。
 それでも、康平には心臓に悪いくらい嬉しい進展だった。
 嬉しすぎて喜びを一人で抱えていられず、勇也のケータイ番号を選び、かかるのを待つ。
 一〇回の呼び出し音の後、留守番伝言サービスへと繋がった。
「もう家に帰ってるよな。カメラと一緒にケータイをコインロッカーに預けたまま帰るとは思えないし……。わかった。マナーモードにしたままなんだろ。ったく、この大切な時に」
 ベッドに横たわると、康平は「あっ」と間抜けな声を上げた。
「そういや、用事があるとか言ってたな」
 この感激は、メールやラインではなく声で伝えたい。
(仕方がない。シャワーを浴びて寝るか)
 康平は溜め息をつくと、未練がましくケータイを見つめた。

 去年の秋だった。
 学校帰り。
 康平と勇也は分かれ道に向かって歩いていた。
 朱美は委員会に出席でいなかった。
「康平には、朱美ちゃんがいれば十分だよね」
 勇也が言った。
 唐突だった。
「家族に失望してんなら、逆に全然血の繋がりのないものに賭ければいいじゃん。まったく繋がりのない人から愛情を与えられたら、それは多分……きっと家族から与えられる以上に感動するよ。だって、何も繋がってないのにくれるんだよ?」
「俺が誰に賭けるんだよ?」
「だから、朱美ちゃん」
 当然のように言い切る勇也に、当時の康平は容赦なく蹴りを入れた。
 足が当たる寸前のところで、勇也はダッシュして逃げた。
 康平はムキになって追った。朱美に心が傾いていることを勇也に知られている気がして、聞き流すことができなかったのだ。


 康平が朱美に出会ったのは、ゴールデンウィーク明けだった。
 その時の康平は、世の中のすべてに苛立ちながらも失望していた。誰の力も借りずに生きるため、一方的で一時的な強さばかりを求めていた。
 康平は傷だらけの体でトボトボと歩いていた。隣の区の半端者三人にケンカを売って、見事に負けたのだ。
 悔しさよりも虚しさが胸を締めていた。
(帰りたい)
 康平は本気で思った。実家でもなく、マンションでもなく、すべてを曝けだせて定住出来る居場所が欲しかった。
 体が鉛のように重い。
(このまま死ねたらいいのに)
 ふらつきながら、死んで楽になる妄想にかられた。
 毎日、康平は枯渇していた。
 心がカラカラだった。
 胸に何もないことが、ただただつらかった。
 希望があれば、生きる方向が定まるだろう。
 けれど、康平には何もなかった。
 だから、毎日をとても長く苦痛に感じていた。
 気を緩めると、涙腺まで緩む。
 康平はうつむいて歩き続けた。
 ただただ、今の状態から抜けだしたかった。
 けれど、方法がわからなかった。
(もういいや)
 康平が考えることを放棄した。
 そのときだった。
「あっ、康平! お前、今日学校サボッたな」
 誰かが馴れ馴れしく康平に声をかけた。
 聞き覚えのある声に、康平は苛立ちながら顔を上げた。
 視界に迫る勇也の顔に、康平は思わず体を引いた。
「そうだ。スゲェー面倒な宿題出たんだ。一緒に悩もうぜ」
 屈託のない笑顔の勇也に、康平は固まった。
 どこから見ても物騒な人間でしかない自分に、好き好んで近づいてきたはのは勇也が初めてだった。
 勇也は不思議な人間だった。誰とでも仲良くなれる一方、誰ともつるまなかった。
 勇也以外のクラスメイトは、はみ出し者の康平から距離をとっていた。
 彼らは、物怖じせずに康平へと話し掛ける勇也を『鈍感』や『大物』と評していた。
「勇くん、まさかその人が例の口説きたい被写体?」
 勇也の後ろに同学年らしい女が立っていた。知らない顔だが、同じ学校の制服を着ていた。
「そう。彼が見た目も運動神経は凄ぶるよくて、頭も真面目に勉強すればそれなりにいいのに、他のすべてが全部ダメな広瀬康平ね。ルックスいいのに全然モテないなんて、勿体なさすぎでしょ?」
 勇也は勝手に康平を女に紹介した。
「で、こっちは川口朱美ちゃん。ご近所で友達なんだ」
 続けて、勇也は朱美を康平に紹介した。
「ああ。どうも」
 早々に立ち去りたい康平は軽く会釈すると、「じゃあ」と歩き出した。
 擦れ違い様、康平の服と腕を二人が掴んだ。
 腕を掴んだのが勇也で、裾を掴んだのが朱美だ。
 引き戻された康平が、舌打ちをして二人を睨みつけた。
「他になんか用?」
「このまま帰しちゃいけないなぁと……」
 露骨な愛想笑いをする勇也に、
「あれ? 勇くん、そんな曖昧な理由で止めたの?」
 朱美がキョトンとした。