コンコン。
「どうぞ」
まるで俺が来ることが分かっていたように、月子先生は迎えてくれた。
「樹里亜のカルテにロックをかけました?」
「ええ」
「なぜですか?」
「本人の希望でね。今日一日時間が欲しいって言うから」
「そんなに悪いって、事ですか?」
恐る恐る言った言葉に、
「本人に訊きなさい」
月子先生は取り合ってくれない。
「お願いです、教えてください」
俺は頭を下げた。
「ダメよ」
「樹里亜と連絡がつかないんです」
さすがに月子先生の顔色が変わった。
「でも、教えない。今日一日だけって、樹里亜と約束したの。あの子だって子供じゃないんだから、バカなことはしないわよ。それに大樹、あなた過保護すぎよ。もう少し放って起きなさい」
過保護って、そんなこと言われなくても分かっている。
でも、放っておけないんだ、
危なっかしくて、つい手が出てしまう。
「とにかく、主治医としての守秘義務は守るわ」
そういった切り口を閉ざした。
「分かりました。もういいです」
俺にしては珍しく、声を荒げてしまった。
その後、
救命部長なら何とかなるんじゃないかと思い行ってみたが、出張で不在だった。
俺の電話を避けているのかもと思って、同僚の高橋先生に掛けてもらったが樹里亜は出なかった。
結局一日仕事にならなかった俺は、夕方樹里亜のマンションにやって来た。
きっとここにはいないとは思う。
でも、何かヒントはあるはずだ。
「すみません。705号の竹浦樹里亜の兄ですが、部屋の鍵を開けていただけませんか?」
「はああ?」
出てきた管理人に、怪しい人間を見る目で見られた。
まあ、当然だろう。
いきなり現れて兄と言われてもなあ。
俺は名刺と身分証明書を差し出し、
「怪しいものではないんです。妹と連絡が取れないんです」
と繰り返した。
「連絡が取れないって、昼過ぎに長期の出張だと言って出て行かれましたよ」
管理人はまだ俺を疑っている。
「出張?そんなはずはありません」
「そんなこと言われても・・・それなら、ご主人に聞かれてはどうですか?」
はああ?
ご主人って、
「妹は独身ですよ?」
「はぁ?」
俺と管理人の会話は全くかみ合わない。
「とにかく、僕は兄なんです。入れてください」
「たとえお兄さんでも、勝手にお通しする訳にはいきません」
完全に堂々めぐりを始めたとき、
「ああ、ご主人。お帰りじゃないですか」
管理人の一言で、俺は後ろを振り返った。
「あ、」
「ああ」
2人とも、そんな言葉しか出てこない。
目の前に、樹里亜の同僚高橋渚がいた。
何で?
待てよ、今ご主人って・・・
俺はツカツカと歩み寄ると、
胸ぐらをつかんだ。
「正直に答えろ。ここに、樹里亜と住んでいるのか?」
「そうです」
高橋渚はあっさり認めた。
バンッ。
人生で初めて、人をグーで殴った。
「立てよ!」
倒れ込んだ彼を引き寄せ、再度拳を落とす。
「ちょっと、やめてください」
慌てた管理人が止めに入った。
管理人に押さえられながら、倒れ込んでいる彼を見下ろす。
「警察を呼びましょうか?」
管理人が彼に聞くが、
「いえ、大丈夫です。竹浦先生、部屋で話しましょう」
そう言うと立ち上がり、エレベーターに向かって歩き出した。
通されたのは、樹里亜と高橋渚の暮らすマンション。
「どうぞ」
玄関を開ける態度にも腹が立つ。
「とにかく入ってください」
エントランスでの騒ぎを聞きつけた住人がチラチラとこちらを見ているのに気づき、部屋に入るようすすめられた。
「座ってください」
部屋に入ると、今度はソファーをすすめる。
この男は、何でこんなに落ち着いているんだ。
「いつからここに住んでるんだ?」
「3年前からです」
3年って、
「一体いつから付き合っているんだ」
幾分怒気を含んで、俺は睨んだ。
「研修医になった頃から同居をしています」
そう言うと、ゆっくりと床に膝をつき、両手をついた。
「今まで、黙っていてすみませんでした」
深々と頭を下げる高橋渚。
土下座って・・・
「止めろ。土下座なんてされたら、俺が悪者みたいだ」
本当はもっともっと言いたいことがあるはずなのに、彼を見ていると言えなくなってしまう。
それはきっと、彼の潔い態度のせいだと思う。
逃げようとも、誤魔化そうとませず、言い訳もしない。
俺の知っている高橋渚はそんな人間だ。
「で、樹里亜と何があったんだ?」
「何と言われても、僕にも心当たりがないんです」
「ないわけないだろう。じゃあ、樹里亜はどこに行ったんだ」
「・・・」
高橋渚は黙り込んだ。
樹里亜がひとり暮らしを始めて以来、「ちゃんとやっているから、放っておいて」というのを信じてここには来なかった。
こんなことなら、押しかけてでも来ればよかった。
まさか、男と同棲していたなんて・・・
「カルテは見られたんですか?」
「いや、ダメだった。お前こそ、本当に心当たりはないのか?」
「俺にはありません。竹浦先生こそ」
「大樹でいいよ。名字で呼ぶな」
「じゃあ、大樹先生。樹里亜の行き先に心当たりはないんですか?」
「お前が分からないのに、俺が知っていたらおかしいだろうが」
「まあ、確かに」
くそっ。
「明日になったらカルテのロックは外すらしいから。そうなれば分かるだろう。それに、月子先生が入院させずに帰したって事は、重症ではないんだと思う」
「なるほど」
納得して相づちを打つ、渚。
「随分冷静だな」
つい言ってしまった。
一緒に暮らしている彼女がいなくなれば、もっと動揺してもおかしくないだろう。
「彼女を、樹里亜を信じていますから。きっと、考えがあるんだと思います」
「平気なのか?」
「もちろん、腹は立ってます。帰ってきたら、黙って許す気はありませんが、今焦ってもどうしようもありませんから」
なるほど、彼らしい。
愛想はないが、真面目で几帳面な仕事ぶりはみんなから信頼されている。
正直、俺から見ても信用出来る奴だ。
だからこそ、信じられない。
「同棲なんて、一番似合わない奴だと思っていたがな」
ガッカリしたよ。と含みを持たせて、俺は渚を見た。
「すみません。俺自身もなぜこうなったのか分かりません。ただ、樹里亜のことを大切に思っていました。そのことは信じてください。もう、言い訳はしません。こうなった以上、病院にはいられなくなるだろうとは覚悟していますから」
随分と大袈裟なことを言う。
それが彼らしいと言えばそれまでだが・・・
東京に着いた私は真っ直ぐ美樹おばさんの家に向かった。
とりあえず入りなさいと家の中に入れてもらい、私は美樹おばさんと向き合って座った。
「で、何があったの?」
えっと、一体どこから話せばいいんだろう。
渚のことを話すわけにもいかないし、
妊娠のことは黙っていても分かってしまう。
うーん。
と、悩んでいると、
プルル プルル。
おばさん家の電話鳴った。
「もしもし・・・うん。・・・うん。分かった。来たら知らせるから」
電話を切ると、私を見る。
「大樹からよ。樹里亜が来たら知らせて欲しいって。あなた、何したの?」
何と言われても・・・
「ただの兄弟喧嘩ではなさそうね。何なの?」
おばさんの目が真っ直ぐ私を見ている。
「実は・・・妊娠、したんです」
「はああ?」
おばさんは口を開けたまま、私を凝視した。
「妊娠って・・・結婚は?」
「・・・しません」
「しませんって、結婚できないような人との間に子供が出来たって事?」
「まあ、そう言うことです」
「ふざけないで!命を何だと思っているの。それでも医者なの」
珍しく、怒られた。
おばさんの言うことは正論で、私は言い返せなかった。
美樹おばさんは40代の独身産婦人科医。
今は不妊治療を専門にクリニックを開いている。
普段、子供が欲しくてもできない人達の苦労を見ているおばさんだからこそ、「できてしまった」と逃げ込んできた私に怒ったんだと思う。
「で、どうするの?」
なんだか、美樹おばさん怖い。
「できれば生みたいんです。でも、自分の体のこともあるのでちゃんと考えたいんです。その為に、逃げてきました」
正直に言った。
私だって、子供ができたのは嬉しい。
それも、渚の遺伝子を受け継ぐ子。
きっとかわいいだろうし、考えただけでワクワクしてしまう。
不謹慎にも、私はニヤニヤと笑ってしまった。
「もう、なんて顔しているの」
おばさんのあきれ顔。
「まあ。ちゃんと考えなさい」
「黙っていてくれるんですか?」
「仕方ないじゃない。放り出して、道端で倒れられても後味が悪いし」
美樹おばさんらしい言い方。
大学時代、お酒で失敗して道端で保護された私を何度もおばさんが迎えに来てくれた。
だから、私は美樹おばさんに頭が上がらない。
「隠れるあてはあるの?ここはすぐに見つかるわよ」
「とりあえず近くのホテルをとって、明日からは大学時代の友人をあたってみようと思っています」
「バカね」
はあ?
突然言われて、見返してしまった。
「樹里亜、あなた樹三郞さんをなめてるわ」
「それはどういう?」
「樹三郎さんなら、すぐにあなたのカードと口座を止めて、この辺のホテルに電話しまくって、すぐにあなたの居所を突き止めるはずよ」
「そんなこと・・・」
できるはずない。
私だって成人した大人。
口座もカードも自分の名義なんだから、父さんの自由になんて、
「樹三郎さんならするわよ。それに、あなたが医者として働くなら、隠し通すなんて不可能ね」
確かにそうだけど。
「じゃあ、どうしたらいいんですか?」
つい、ふて腐れ気味に言ってしまった。
「あなた、本当に生む気なの?」
「できることなら生みたいんです。でも、自信はありません」
それが正直な気持ち。
「分かった。しばらく考える時間をあげるわ」
いきなり立ち上がった美樹おばさんが、私のスーツケースを手にする。
「おばさん?」
「今夜はここに泊まって。明日、知り合いの乳児院が近くにあるからそこに行きましょう」
「乳児院?」
「そう。考えがまとまるまで、そこにいたらいいわ。ちょうど人手が欲しいって言っていたし、実家には私が言わない限り見つからないから」
よかった。
美樹おばさんは味方になってくれるらしい。
いい加減な気持ちじゃないのは伝わったみたい。
「ありがとうございます」
何度もお礼を言った。
今の私には、美樹おばさん以外頼る人がいないから。
ブー ブー ブー
東京へ来た日の夕方からガンガン入ってくる着信。
大樹も、渚も、5分と開けずにかけてくる。
きっと今頃大騒ぎになってることだろう。
渚は大丈夫なんだろうか?
本当なら状況を知りたい。
でも、それもできない。
私は電話に出る勇気がないまま、夜を迎えた。
かかってくる電話には完全無視を貫きながら、私は別のところに電話をかけた。
プププ
『もしもし』
短いコールで、母さんが電話に出た。
「母さん」
『樹里亜、どうしたの?』
「母さん、ごめんなさい」
「どうしたの?何があったの?」
心配そうな声に変わる。
「赤ちゃんが出来た」
『・・・』
この沈黙が、怖い。
『すぐに帰ってきなさい』
「今は帰れない」
『帰れないって、どこにいるの?』
「ごめん、言えない」
『何考えてるのっ!』
うわ、怒鳴られた。
普段大きな声をあげることのないことのない母さんなのに・・・
『いいから、すぐ帰ってきなさい』
「・・・ごめんなさい」
クスン。
『樹里亜、泣いているの?』
「ちょっとだけ時間をください。ちゃんと帰るから、考える時間を・・・」
それ以上は言葉にならなかった。
母さんも私も、しばらく言葉が出なかった。
『今、遠くにいるの?』
「うん」
『ちゃんと帰ってくるのよね?』
「はい」
随分と考え込んでいた母さん。
『分かったわ。その代わり』と条件を出してきた。
2日に1度は連絡しなさい。
病院には行きなさい。
ちょんとご飯は食べなさい。
『分かった?』
「はい」
『じゃあ、父さんは止めておくけれど。長くは無理よ』
「はい」
分かっています。
ごめんなさい、母さん。
ついこの間20数年来のわだかまりがとれて、これから母娘になれると思っていたのに、また心配をかけてしまった。
本当は親孝行してうんと仲良くしたかったのに、こんな自分勝手な娘で本当にごめんなさい。
ああ、涙が止まらない。