午後5時30分。
いつもならまだ仕事をしている時間。
俺は走るように病院を後にした。
一刻も早く、家に帰りたい。
樹里亜に会って、今起きていることを確認したい。
はやる気持ちを抑えながら、俺はマンション駐車場からエントランスへ入った。
ん?
管理人室前に、言い争う男性が2人。
スーツの男性と、もう1人はマンションの管理人。
「だから、兄なんですよ」
「たとえお兄さんでも、勝手にはお通しできません」
管理人が必死に止めている。
しかし、スーツの男性は、
「具合が悪いんです。もし中で何かあったら、あなたが責任をとれるんですか?」
脅迫気味に管理人に詰め寄っている。
「しかし・・・」
「いいから、開けてください」
スーツの男性は強気だ。
これは管理人が負けるな。
男性の威圧感は半端ない。
「困ったなあ・・・」
と、管理人が呟いたその時。
俺と目が合った。
しまった。
こっちに振らないでくれよ。
そう思った瞬間、
「ああ、よかった。ご主人がお帰りじゃないですか」
と、言った。
ええええええ。
当然、スーツの男性が振り返る。
「あっ」
「ああっ」
2人の声が重なった。
樹里亜がドクヘリを降ろされて1週間。
今日が受診予定と聞いている。
元々丈夫な方ではない樹里亜、今までだって良いときも悪いときもあった。
きっと、今回も大丈夫だ。
昼前になって、俺は検査結果を確認しようと樹里亜のカルテを開こうとした。
「あれ?」
・・・開けない。
どうなってるんだ?
とりあえず、システムに確認するか。
最近の病院はどこも電子カルテ。
すぐに情報が共有出来るのが利点だが、システムダウンでもすればすべてが止まってしまう。
その為ある程度の規模の病院ではシステム担当者が24時間交代で常駐する。
「もしもし、脳外の竹浦です。カルテが開けないんだけど。えっと、・・・」
名前とIDを伝えた。
『その患者さんのカルテはロックがかかっているので、パスコードを入力しないと開けませんね』
「はあ?」
俺だって、自分のカルテはセキュリティーをかけて誰が開いたのか分かるようにしている。
でも、ロックはかけないぞ。
そんな事したら、必用なときに見られなくて不便で仕方ない。
「誰がロックかけたの?」
『血液内科の海野月子先生です』
月子先生?
なぜ・・・
しばらく呆然とした後、まずは樹里亜の携帯に電話した。
でも、出ない。
何度かけても留守電に繋がってしまう。
仕方なく、俺は月子先生の元へ向かった。
コンコン。
「どうぞ」
まるで俺が来ることが分かっていたように、月子先生は迎えてくれた。
「樹里亜のカルテにロックをかけました?」
「ええ」
「なぜですか?」
「本人の希望でね。今日一日時間が欲しいって言うから」
「そんなに悪いって、事ですか?」
恐る恐る言った言葉に、
「本人に訊きなさい」
月子先生は取り合ってくれない。
「お願いです、教えてください」
俺は頭を下げた。
「ダメよ」
「樹里亜と連絡がつかないんです」
さすがに月子先生の顔色が変わった。
「でも、教えない。今日一日だけって、樹里亜と約束したの。あの子だって子供じゃないんだから、バカなことはしないわよ。それに大樹、あなた過保護すぎよ。もう少し放って起きなさい」
過保護って、そんなこと言われなくても分かっている。
でも、放っておけないんだ、
危なっかしくて、つい手が出てしまう。
「とにかく、主治医としての守秘義務は守るわ」
そういった切り口を閉ざした。
「分かりました。もういいです」
俺にしては珍しく、声を荒げてしまった。
その後、
救命部長なら何とかなるんじゃないかと思い行ってみたが、出張で不在だった。
俺の電話を避けているのかもと思って、同僚の高橋先生に掛けてもらったが樹里亜は出なかった。
結局一日仕事にならなかった俺は、夕方樹里亜のマンションにやって来た。
きっとここにはいないとは思う。
でも、何かヒントはあるはずだ。
「すみません。705号の竹浦樹里亜の兄ですが、部屋の鍵を開けていただけませんか?」
「はああ?」
出てきた管理人に、怪しい人間を見る目で見られた。
まあ、当然だろう。
いきなり現れて兄と言われてもなあ。
俺は名刺と身分証明書を差し出し、
「怪しいものではないんです。妹と連絡が取れないんです」
と繰り返した。
「連絡が取れないって、昼過ぎに長期の出張だと言って出て行かれましたよ」
管理人はまだ俺を疑っている。
「出張?そんなはずはありません」
「そんなこと言われても・・・それなら、ご主人に聞かれてはどうですか?」
はああ?
ご主人って、
「妹は独身ですよ?」
「はぁ?」
俺と管理人の会話は全くかみ合わない。
「とにかく、僕は兄なんです。入れてください」
「たとえお兄さんでも、勝手にお通しする訳にはいきません」
完全に堂々めぐりを始めたとき、
「ああ、ご主人。お帰りじゃないですか」
管理人の一言で、俺は後ろを振り返った。
「あ、」
「ああ」
2人とも、そんな言葉しか出てこない。
目の前に、樹里亜の同僚高橋渚がいた。
何で?
待てよ、今ご主人って・・・
俺はツカツカと歩み寄ると、
胸ぐらをつかんだ。
「正直に答えろ。ここに、樹里亜と住んでいるのか?」
「そうです」
高橋渚はあっさり認めた。
バンッ。
人生で初めて、人をグーで殴った。
「立てよ!」
倒れ込んだ彼を引き寄せ、再度拳を落とす。
「ちょっと、やめてください」
慌てた管理人が止めに入った。
管理人に押さえられながら、倒れ込んでいる彼を見下ろす。
「警察を呼びましょうか?」
管理人が彼に聞くが、
「いえ、大丈夫です。竹浦先生、部屋で話しましょう」
そう言うと立ち上がり、エレベーターに向かって歩き出した。
通されたのは、樹里亜と高橋渚の暮らすマンション。
「どうぞ」
玄関を開ける態度にも腹が立つ。
「とにかく入ってください」
エントランスでの騒ぎを聞きつけた住人がチラチラとこちらを見ているのに気づき、部屋に入るようすすめられた。
「座ってください」
部屋に入ると、今度はソファーをすすめる。
この男は、何でこんなに落ち着いているんだ。
「いつからここに住んでるんだ?」
「3年前からです」
3年って、
「一体いつから付き合っているんだ」
幾分怒気を含んで、俺は睨んだ。
「研修医になった頃から同居をしています」
そう言うと、ゆっくりと床に膝をつき、両手をついた。
「今まで、黙っていてすみませんでした」
深々と頭を下げる高橋渚。
土下座って・・・
「止めろ。土下座なんてされたら、俺が悪者みたいだ」
本当はもっともっと言いたいことがあるはずなのに、彼を見ていると言えなくなってしまう。
それはきっと、彼の潔い態度のせいだと思う。
逃げようとも、誤魔化そうとませず、言い訳もしない。
俺の知っている高橋渚はそんな人間だ。
「で、樹里亜と何があったんだ?」
「何と言われても、僕にも心当たりがないんです」
「ないわけないだろう。じゃあ、樹里亜はどこに行ったんだ」
「・・・」
高橋渚は黙り込んだ。
樹里亜がひとり暮らしを始めて以来、「ちゃんとやっているから、放っておいて」というのを信じてここには来なかった。
こんなことなら、押しかけてでも来ればよかった。
まさか、男と同棲していたなんて・・・
「カルテは見られたんですか?」
「いや、ダメだった。お前こそ、本当に心当たりはないのか?」
「俺にはありません。竹浦先生こそ」
「大樹でいいよ。名字で呼ぶな」
「じゃあ、大樹先生。樹里亜の行き先に心当たりはないんですか?」
「お前が分からないのに、俺が知っていたらおかしいだろうが」
「まあ、確かに」
くそっ。
「明日になったらカルテのロックは外すらしいから。そうなれば分かるだろう。それに、月子先生が入院させずに帰したって事は、重症ではないんだと思う」
「なるほど」
納得して相づちを打つ、渚。
「随分冷静だな」
つい言ってしまった。
一緒に暮らしている彼女がいなくなれば、もっと動揺してもおかしくないだろう。
「彼女を、樹里亜を信じていますから。きっと、考えがあるんだと思います」
「平気なのか?」
「もちろん、腹は立ってます。帰ってきたら、黙って許す気はありませんが、今焦ってもどうしようもありませんから」
なるほど、彼らしい。
愛想はないが、真面目で几帳面な仕事ぶりはみんなから信頼されている。
正直、俺から見ても信用出来る奴だ。
だからこそ、信じられない。
「同棲なんて、一番似合わない奴だと思っていたがな」
ガッカリしたよ。と含みを持たせて、俺は渚を見た。
「すみません。俺自身もなぜこうなったのか分かりません。ただ、樹里亜のことを大切に思っていました。そのことは信じてください。もう、言い訳はしません。こうなった以上、病院にはいられなくなるだろうとは覚悟していますから」
随分と大袈裟なことを言う。
それが彼らしいと言えばそれまでだが・・・
東京に着いた私は真っ直ぐ美樹おばさんの家に向かった。
とりあえず入りなさいと家の中に入れてもらい、私は美樹おばさんと向き合って座った。
「で、何があったの?」
えっと、一体どこから話せばいいんだろう。
渚のことを話すわけにもいかないし、
妊娠のことは黙っていても分かってしまう。
うーん。
と、悩んでいると、
プルル プルル。
おばさん家の電話鳴った。
「もしもし・・・うん。・・・うん。分かった。来たら知らせるから」
電話を切ると、私を見る。
「大樹からよ。樹里亜が来たら知らせて欲しいって。あなた、何したの?」
何と言われても・・・
「ただの兄弟喧嘩ではなさそうね。何なの?」
おばさんの目が真っ直ぐ私を見ている。
「実は・・・妊娠、したんです」
「はああ?」
おばさんは口を開けたまま、私を凝視した。
「妊娠って・・・結婚は?」
「・・・しません」
「しませんって、結婚できないような人との間に子供が出来たって事?」
「まあ、そう言うことです」
「ふざけないで!命を何だと思っているの。それでも医者なの」
珍しく、怒られた。
おばさんの言うことは正論で、私は言い返せなかった。
美樹おばさんは40代の独身産婦人科医。
今は不妊治療を専門にクリニックを開いている。
普段、子供が欲しくてもできない人達の苦労を見ているおばさんだからこそ、「できてしまった」と逃げ込んできた私に怒ったんだと思う。