今日は、月に1度の定期受診の日。

「最近どう?変わったことはない?」
主治医の月子先生に訊かれた。

海野月子先生は15年以上診てもらっている血液内科の専門医。
体重の増減から生理の周期まで私のことなら何でも知っている。

「そう言えば、食事が美味しくないんですよ。薬のせいですかねえ?」
気をつけないとすぐ血小板の数値が落ちてしまう私は、色々な薬を飲んでいる。
その性で、副作用が出ることも少なくない。

「味覚ねえ」
パソコンで私のカルテを開きながら、今日の検査結果を確認する月子先生。

一瞬、手が止まった。
え?嘘。
何かあった?
私もつい覗き込んでしまった。

「ちょっと落ちてきてるわね。立ちくらみとか、内出血とかない?」
「立ちくらみは前からですし・・・内出血は気にならないけれど・・・」
何?そんなに悪いとか?

「ねえ、樹里亜」
月子先生が真面目な顔をして私を見た。
「はい」
「生理はきてる?」
え?

生理。
そういえば・・・遅れてるかも。

「検査、する?」
「・・・」
答えられなかった。

「まあ、いいわ。来週の予約をとるから、また来て。それまで、ドクヘリはダメよ」
「えー、何でですか?」
「人の命を預かっているのよ。責任を自覚しなさい。とりあえず、貧血が酷いからって理由で、1週間のドクヘリ禁止。部長に連絡しとくから」
「えー」
まるで駄々っ子のように甘えてみたけれど、月子先生には効かなかった。

「ウダウダ言ってると、大樹先生呼んで、今ここでハッキリさせるわよ」
と脅されて、黙るしかなかった。
きっと、月子先生は心配しすぎ。
元々生理の不順な私だもの、ちょっと遅れているだけよ。
と、自分自身に言い聞かせる。

診察が終わって救急病棟に戻ると、部長に声をかけられた。


「本当に大丈夫なのか?」
救命部長は私を心配してくれる。
「大丈夫です。月子先生は大事をとってドクターストップをかけただけです。来週の検査で復帰しますから」
力強く宣言した。
「無理するなよ。待ってるから」
部長は肩をポンと叩いて去って行った。

「樹里亜」
今度は大樹がやって来た。

わざわざ救急病棟にやって来るほど、脳外科は暇なんだろうか?
それに、うちの病院の個人情報管理はどうなっているのよ。

「ヘリを降ろされたって?」
「もー人聞きの悪い。1週間のドクターストップよ」
「大丈夫なのか?」
もうすでにカルテで検査結果は確認しているはずの大樹。
訊かなくたって、たいしたことないのは分かっているはずなのに・・・
「1週間おとなしく陸で勤務します」
「そうだな」
それ以上、大樹も何も言わなかった。
その日の夕方。

「ただいま」
玄関を空けると、珍しく渚が先に帰っていた。
「お帰り」
キッチンから顔を覗かせる。
「樹里亜、夕飯食べるだろう?」
「うん」

キッチンに行くと、テーブルにはハンバーグとポテトサラダが並んでいた。
うわー、美味しそう。


「いただきます」
手を合わせてから、ハンバーグに箸をつける。
うん。美味しい。
「味噌汁飲む?朝の残りだけれど」
「うん、いただく」

そう言えば、私達は喧嘩をしていたはず。

「体は、大丈夫なの?」
味噌汁を差し出しながら、渚が聞いた。

やはりもう知ってるのね。
まあ、同じ救命科の医師。
私が休んだ分のしわ寄せが来るわけだから、知っていても当然だけど・・・

「大丈夫。みんなちょっと大袈裟なのよ。たいしたことないのに」
「そんなこと言うんじゃない。みんな樹里亜が心配なんだ」
渚らしい反応。
「渚も心配してくれるの?」
「当たり前だ」

久しぶりに会話らしい会話が出来たことが嬉しくて、私は上機嫌でご飯を口に
オエッ。
急にむかついた。

「どうした?」
「ごめん。薬の副作用かなあ?ご飯が気持ち悪い」
「ご飯?」
「うん。おかずやお味噌汁はいいんだけど・・・」
「無理しなくていいから、食べられるものを食べたらいいよ」
「うん。ありがとう」

10日ほど続いた私達の険悪な空気も、体調不良をきっかけに元に戻った。
日がたつにつれ、私の体調不良は悪化していった。
立ちくらみもむかつきも続き、食事が喉を通らなくなった。

マズイなあ。
私の中で、危機感が増していく。

明日は月子先生の診察日。
きっと検査を進められるんだろう。
そうすれば、すべてが分かってしまう。
どうしよう・・・

「どうしたんですか?顔色悪いですよ」
師長が顔を覗き込む。
「あぁ、大丈夫です」
とは答えたものの、ばれるのは時間の問題。

はあぁー。
深い深い溜息をつき、私は受け持ち患者のカルテ整理を始めた。

もし、もしもの時、ちゃんと次の人に引き継げるようにしておかなくちゃと、なぜかそんなことを考えていた。

よし、受け持っている患者の指示は出し終えた。
作りかけの診断書も紹介状もすべて作った。
保健所への届出書類も用意した。
後は、
デスクの整理と、ロッカーの片付け。
部長宛の休職願を机の奥に忍ばせて、私は救急病棟を後にした。
「おはようございます」
私は今日、有休を取って月子先生の診察に来ていた。
「珍しいわね」
私服姿の私に、月子先生も不思議そうな顔。

「で、体調は?」
「うーん。変わりません」
「そう。血液検査の結果は・・・」
カチカチとマウスをクリックしながら、カルテを確認する。

「そうね。良くも悪くもないわね。先週と変わらず」
「そうですか」
「問題はもう一つの方よね」
いつもはしない尿検査の結果を、

カチカチ。
月子先生が確認する。

「はあー」
大きな息を吐くと、先生は黙り込んだ。

「月子先生?」
長い沈黙にたまりかねて、私が声をかける。

「妊娠反応があるわね。内診するから、隣の部屋に行って」
「ええ?今からですか?」
思わず言った言葉に、
「嫌なら、婦人科に行って診てもらう?」
冷たく言われた。

月子先生は今、怒っている。
小さい頃からずっと私を診てきてくれた月子先生。
受験勉強で無理したり、ダイエットで薬をサボったときも本気で叱ってくれた。
本当のお姉さんみたいに思ってきた。
その月子先生を、怒らせてしまった。
今まで入ったことのない内診室。
医者としては使ったことがあっても、患者としては初めて。

「ズボンも下着も脱いで、診察台に座って」
私が初めてなのを察して、月子先生が声をかけてくれる。
いつもなら看護師がサポートでつくはずの診察も、今は月子先生1人。
きっと、私を気遣ってくれているんだろう。

「どう?用意できた?」
「はい」
ちょっと泣きそうになりながら、私は診察台に座った。

椅子が回り、角度が変わって座位から仰向けの姿勢になる。
ウィーン。
小さな機械音を立てながら、今度は私の足が開かれた。

「力を抜いていてね」
「はい」
灯りの消された診察室で、何をされているかも見えないまま、私は恥ずかしさと戦った。

「はい。いいわよ」
診察は10分ほどで終わった。
「座って」
いつもの診察室に戻り、結果説明。

「妊娠8週ですね。おめでとうございます」
「はあ」
なんとも返事が出来ない。

「妊娠は順調です。胎児の心音も確認できたし、問題ありません」
「はい」
「しかし、」
月子先生の言葉が止まった。

「あなたの体の状態を考えると、かなり厳しいことを言わなくちゃいけないの」
「それはどういう・・・」
私は真っ直ぐに月子先生を見た。

「あなたの病気は出産に対してリスクがあるの。体調のいいときに妊娠して、万全の管理をして、計画的に帝王切開で出したとしても40週おなかに持たせるのは不可能。それだけのリスクが赤ちゃんにもかかるし、あなた自身も出血の恐怖と戦いながら、命がけのお産になると思う」
何となく、理解はしている。
「今、あなたの体は万全の状態じゃないでしょう?」
確かに。あまり体調はよくない。
「それに・・・予期せぬ妊娠なのよね?」
コクン。と、私は頷いた。

「主治医としては困ったなあって言うのが正直なところね」
そりゃあそうだろう。
あまりにもリスクがありすぎる。

「そして、これは主治医としてではなくて、小さい頃からあなたの成長を見守ってきた者として」
そう言うと、クッルと椅子をこちらに向けた月子先生。

じっと私を睨むと、
「こらっ、何してるの。嫁入り前の娘が」
「ごめん・・・なさい」
「相手を今すぐ連れてきなさい。説教してあげるから」
「いや・・・それは・・・」
困っている私を見て、月子先生がさらに困った顔をした。

「何で、紹介できないような相手とそんな関係になるの?樹里亜らしくないでしょう」
「ごめんなさい」
「黙ってることは出来ないのよ。カルテを見ればすぐに分かることだし」
本気で怒っている。

「お願いです、今日1日だけ時間をください」
「今日1日ねえ。いいわ、明日までは黙っているから自分で話しなさい」
「はい。ありがとうございました」
私は頭を下げて、診察室を後にした。
月子先生の診察を終えると、私は真っ直ぐに自宅マンションに帰った。

診察結果はおおよそ予想がついていた。
医者だからと言うことではなく、母親の本能というか、普段と違う何かが起きているのは感じていた。

さて、問題はこれからどうするか。
今日、渚は日勤の予定。
遅くても今日の夜には帰ってくる。
それに、大樹も部長も今日が私の受診日なのは知っている。
カルテを見ればすぐにばれてしまう。
もし大樹に知れたら、大騒ぎになることだろう。
もちろん、いつまでも隠し通すつもりはない。
隠しておけることでもない。
でも、今は時間が欲しい。

渚のことも、家族のことも、医師としての世間体も、
すべて置いておいて、母親としておなかの赤ちゃんに何ができるのか、それを突き詰めたい。
一生後悔しない選択をしなくてはならないから。

ソファーに座っては立ち。
ウロウロと部屋の中を歩き回り。
必要も無いのにお水を飲んだりして、
私は・・・・うろたえた。

責任の重さと、自分が招いてしまった結果の重大さに負けそうになった。
しかし、いつまでもここで悩んでいることはできない。
渚が帰る前にここを出なくては。
まずは自分の気持ちを固めないといけないと思うから。
私は、長期出張用のトランクを出して必用なものをまとめた。


重たいトランクを引きずりながらエレベーターを降りると、
「おや、お出かけですか?」
マンションの管理人さんに声をかけられた。
60代の管理人さん。
実はマンションのオーナーで、管理人をしながら悠々自適の生活を送っている。

「急に長期の出張になったんです。しばらく留守をします」
咄嗟に嘘をついてしまった。
「そうですか。ご主人お寂しいですね」
そう言われて、
へへへ。
笑って誤魔化した。

ご主人って、渚のこと。
でも、あえて否定はしない。
不思議なことに、こんな時に医者という肩書きが役に立つ。
少々羽目を外した行動をしても、医者と言うだけで信用されてしまう。

「気をつけて行ってらっしゃい」
「行ってきます」
笑顔で会釈をして、私はタクシーに乗り込んだ。
私は特急と新幹線を乗り継いで、東京へ向かった。
他に土地勘のあるところもなく、結局大学時代を過ごした街に逃げ込むことにした。
そして、東京に向かった理由のもうひとつが、
『もしもし樹里亜?久しぶりね』
車中からかけた電話に出てくれた、美樹(みき)おばさん。
父さんの従兄弟にあたる人で、私が大学に通っていた頃には何かとお世話になった。
私のことを嫌いな親戚が多い中で、数少ない味方。

『突然どうしたの?何かあったの?』
普段はかけない私からの電話に、不思議そうな声。

「今日、泊めてもらえますか?」
『いいけど・・・どうしたの?家出?』
「まあ。そんな感じです」

しばらく考え込んでいたおばさん。
『樹三郞さん達には黙っておけばいいのね?』
「はい。お願いします」
電話を持ちながら、頭を下げた。
見えるわけはないけれど、気持ちは伝わると信じたい。

『でも、見つかるのは時間の問題よ』
分かっている。
きっと2日もすれば探しに来るだろう。
それまでに、何とか考えないと・・・

「明日からは、大学時代の友人をあたってみますから」
『一体何があったの?』
「それは・・・」
電話では伝えきれない。

『まあいいわ。とにかく来なさい』
美樹おばさんは深くは詮索せずに、私を泊めると言ってくれた。
『ありがとう、おばさん』
何度も礼を言って私は電話を切った。