「本当は樹里亜が20歳になったら話すつもりだったの。でも、あなたは帰って来なくて。しかたないから、大学を卒業して社会に出る時にって思ったら勝手に1人暮らし始めて」
「ごめんなさい」
その後、母さんはいい機会だからと話しだした。
私の生みの母ジュリアさんは中国出身の女性だった。
幼い頃にアメリカに渡り、苦労して医師になった。
その間に両親も亡くなり、父さんが出会った時には天涯孤独だったらしい。
アメリカの病院で救命医として働くジュリアさんは当時40歳。
父より10歳も年上で、上司にあたる人だった。
「ねえジェイ。あなたは子供がいるんでしょう?」
同じアジア人のよしみで、ジュリアさんは父に心を許していった。
樹三郎の名前から、ジェイと呼ばれていた父も、ジュリアさんを医師として上司として尊敬していた。
「私もね、ジュリアさんに会うまではお父さんとの仲を疑っていたの」
フフフ。
と懐かしそうに母が笑った。
「自分の子供って、そんなにかわいいの?」
不意にそんなことを訊かれた父は、
「自分の命を投げ出しても良いと思えるほどにかわいいですよ」
と答えた。
それから2ヶ月後。
「ジェイ。私も子供を持つことにしたわ」
「ええ?」
突然言われ、意味が理解できないでいる父に、
「私も年齢的に時間がないし、精子バンクの人工授精を受けたの」
「人工授精ですか?」
「そう。いつもジェイが話してくれる子供の話を聞いて、私も子供を持ちたくなったのよ」
確かに、40歳と言えば出産はギリギリの年齢。
しかし、医師として経済的には恵まれているとはいえ、シングルマザーは楽な選択ではない。
それでも、子供とか血とかにこだわってしまうのはアジアの血なのだろうか?そんなことを父は思ったらしい。
結局、ジュリアさんはシングルマザーになる道を選んだ。
その後は、ジュリアさんの体調もよく順調に妊娠5ヶ月を迎えた。
すべてが順調だった。
ジュリアさんの乳がんが見つかるまでは。
たまたま検診で見つかった乳がん。
ステージⅢの進行癌だった。
すぐに放射線治療をしても、手術できるか分からない進行度。
ジュリアさんは治療をせずに子供を産むことを決めた。
子供の将来を考えれば無責任な選択かも知れないけれど、おなかの子供も1つの命と考えたジュリアさんに迷いはなかった。
「ジェイ、もう何も言わないで。私は決めたの。ただ、出来ることならば子供が幸せな家庭に引き取られるのを見届けてもらえないかしら」
そう言って、父さんに手を合わせた。
あまりに重い責任に、父も困惑した。
迷った末に母に連絡をし、母はアメリカに飛んできた。
その時、ジュリアさんは妊娠9ヶ月。
癌のため寝たきりのような生活だった。
「あなたが生まれるまで、私はずっとジュリアさんと過ごしたのよ。ジュリアさんは賢くて強い人だった。生まれてくるあなたへの影響を考えて、一切の治療や鎮痛剤を断わっていた」
「そんな・・・」
末期癌の痛みを我慢するなんて、出来るわけがない。
「あなたのお母さんはそんな人だったの」
「それで、ジュリアさんは苦しんで亡くなったんですか?」
「いいえ。結局あなたは予定より半月早く生まれてしまって。ジュリアさんはたった1ヶ月だけだったけれど、あなたと過ごすことができたの」
そう。よかった。
「そして、出産を一緒に過ごす中で、私達もあなたに情が移ってしまって手放すことが出来なくなった。だから、引き取ったのよ」
母さんの話を聞きながら、涙が止まらなかった。
でも、それならもっと早く言ってくれれば、こんなに苦しむ事はなかったのに。
「ジュリアさんは亡くなる前に私に言い残したの。『甘やかすことなく、強い子に育てて欲しい。世間の風なんかに負けない人間に。自分の足で歩いて行ける人間に』とね。だから、あなたが養女だって事も隠さなかったし、親戚達の噂もわざと放っておいたのよ」
キューンと、胸が痛くなった。
「ねえ樹里亜、私達の態度があなたを苦しめていたんならごめんなさい。でもね、ジュリアさんがあなたのお母さんであることを忘れたくなかったの」
大人として自立しすべての事情を聞いた今なら、なんとなく理解できる。
「ごめんなさい」
私は母さんにすがって泣いた。
「バカね、何で謝るの。あなたは立派に育ってくれたわ。周りの声なんて放っておきなさい。少しは梨華を見習いなさい」
「梨華を?」
「そう。あの子ぐらい素直に生きられたら、あなたも楽でしょう?」
「母さん。それ褒めてないわよ」
フフフ。
私と母さんは顔を見合わせ、笑った。
「樹里先生」
病院の屋上で後ろから声をかけられた。
整った顔立ちからは想像できない、ちょっと低めのテノール。
私は、この声が好きだ。
この声で名前を呼ばれると、なぜか動きが止まってしまう。
「樹里亜?」
周りに誰もいないことを確認して、再び声がかけられた。
ん?
私は泣きはらした顔で、振り向いた。
「ど、どうした?」
慌てたように、渚が駆け寄る。
「渚ー」
我慢できずに抱きついた。
ふっと、渚の匂いがした。
使い慣れた石けんと柔軟剤の混ざった、私の好きな匂い。
うぅん、いい匂い。
きっと、私からも同じ匂いがするはず。
同じ家に暮らしているんだから当たり前だけど、そのことがなぜか嬉しい。
「渚、好きだよ」
ここが病院なのも忘れて、ギューッと抱きしめてしまった。
「どうした?大丈夫か?」
心配そうに、私の顔を覗き込む渚。
ああ、なんて長い睫毛なんだろう。
そんな場違いなことを思ってしまった。
「ねえ渚、キスして」
気がついたら口にしていた。
「はあ?」
やっぱり、呆れてる。
いいもん。
どんなに呆れられても、今は渚を感じたい。
「何があったんだ?」
「ねえ、キスして」
「お前なあ」
ちょっと私のことを睨んだ渚。
ゆっくりと近づくと、私の唇を塞いだ。
両手で頭をホールドし、奪うような口づけ。
いつしか口腔内が渚で満たされていく。
うぅん、うんん。
全身がしびれてしまうようなキス。
私も渚の肩に手を回していた。
私は渚以外の男性を知らない。
初めての人が渚だったから。
だから比べようもないけれど、私はいつも彼のキスにとろけてしまう。
きっと、相性が良いのね。
「リア・・・樹里亜?」
んん?
渚に呼ばれ、私は自分が気を失いかけていたことに気付いた。
「ごめん。息するのを忘れてた」
はああ。
大きな溜息と共に、渚は近くのベンチへと私を座らせる。
「で、何があったんだ?」
私は、母さんから聞かされた話を渚にした。
話しながら、また泣いてしまった。
ちゃんと望まれて生まれてきたことが嬉しくて、
母さんが私を愛していてくれることが嬉しくて、
今まで、反抗ばかりしてきた自分が恥ずかしくて、
みんなに嘘をついていることが申し訳なくて、
涙が溢れた。
「1度、実家に帰る?」
「ええ?」
言われた言葉の意味が理解できず、聞き返した。
「樹里亜が1人暮らしをする理由がなくなっただろう?」
「渚・・・」
確かに、きっかけは父さんと母さんへの反抗だった。
「いらない子の私なんか、いない方が良いんだ」なんて、思っていた。
でも、それだけじゃない。
少なくとも今は、渚といることが幸せだと思っているのに・・・
「俺はいいよ。樹里亜の好きにすればいい」
渚は当たり前のように言った。
私は返事が出来なかった。
渚は一体何を考えて言っているんだろうか?
私は渚にとっていらない人間なの?
じっと渚を見つめながら、無性に腹が立った。
「もういい」
そう言うと、私は屋上を後にした。
きっと渚は、私が思うほどに私のことを思ってはいない。
一緒にいる理由がなくなれば、別れればいいとでも思っているんだわ。
完全にへそを曲げてしまった私は、この日から渚を避けるようになってしまった。
「樹里先生」
後輩研修医の千帆先生に呼ばれて顔を上げた。
あっち。と病棟センター前を指さす。
そこには、梨華がいた。
「何、どうしたの?」
その場から声をかけた私に、
クイッ クイッ
と手招きする。
ったく。
病棟センターを出たところで、私は梨華に腕を掴まれた。
「何なのよっ」
引きずられるように物陰に連れて行かれ、つい声を荒げてしまった。
「お姉ちゃん。お願い」
両手を合わせた梨華が、私を拝む。
はあー。
またですか?
「今度は何?」
呆れた顔で、妹を見た。
「ちょっと洋服を買い過ぎちゃって。3万でいいから貸して」
言いながら、お願いポーズは続いている。
2ヶ月に1度はお金を借りに来る梨華。
よくないとは思いながら、つい貸してしまう私。
とはいえ返ってきたことはない。
「はい。3万」
財布からお金を出し、渡した。
先日、母さんの病室であんなにひどい事を言われたばかりなのに、またお金を渡してしまう私は本当にバカだと思う。
断わってしまえばいいんだと思うけれど、それができない。
生物学的な意味での家族がいない私は、仮にも家族と呼べる存在が愛おしい。
多少わがままでも、私にとっては大切な妹だから。
つい負けてしまう。
「ありがとうお姉ちゃん。大好き」
ギュッと、私にハグしてから梨華は走って行った。
あーあ。またやってしまった。
「何でも言うことをきくのが優しさではないと思うけれどね」
と、たまたま近くを通りかかった渚。
そんなことは分かっている。
私にとっても、梨華にとってもいいことではない。
でも、
「関係ないでしょう。放っておいて」
憎まれ口を叩き、私は仕事に戻った。
屋上で喧嘩別れした日から、私は渚を避けている。
もちろん、帰宅すれば一緒に食事もするし、勤務中は会話だってする。
でも、必要以上に話さなくなってしまった。
まるで倦怠期の夫婦みたい。
寂しいななんて思いながらも、自分から折れる気にはならない。
意固地な私。
3年も一緒に暮らしていれば、喧嘩だってした。
倦怠期だってあった。
でも、今回のはちょっと違う気がする。
チンッ。
レンジが夕食のできあがりを知らせた。
今夜のメニューは冷凍パスタ。
渚がいるときには食べられないインスタント食品で、夕食を済ませる。
「いただきます」
手を合わせてからフォークをつけた。
最近の冷食は凄く美味しい。
渚は滅多に食べなけれど、私は嫌いじゃない。
でも・・・今日のは美味しくないなぁ。
キノコと海老のクリームパスタ。
いつも食べている好きな味なのに・・・何でだろう?
渚がいないから?
なわけないか。
1人納得しながら、あまりおいしく感じないパスタを食べた。
今日は、月に1度の定期受診の日。
「最近どう?変わったことはない?」
主治医の月子先生に訊かれた。
海野月子先生は15年以上診てもらっている血液内科の専門医。
体重の増減から生理の周期まで私のことなら何でも知っている。
「そう言えば、食事が美味しくないんですよ。薬のせいですかねえ?」
気をつけないとすぐ血小板の数値が落ちてしまう私は、色々な薬を飲んでいる。
その性で、副作用が出ることも少なくない。
「味覚ねえ」
パソコンで私のカルテを開きながら、今日の検査結果を確認する月子先生。
一瞬、手が止まった。
え?嘘。
何かあった?
私もつい覗き込んでしまった。
「ちょっと落ちてきてるわね。立ちくらみとか、内出血とかない?」
「立ちくらみは前からですし・・・内出血は気にならないけれど・・・」
何?そんなに悪いとか?
「ねえ、樹里亜」
月子先生が真面目な顔をして私を見た。
「はい」
「生理はきてる?」
え?
生理。
そういえば・・・遅れてるかも。
「検査、する?」
「・・・」
答えられなかった。
「まあ、いいわ。来週の予約をとるから、また来て。それまで、ドクヘリはダメよ」
「えー、何でですか?」
「人の命を預かっているのよ。責任を自覚しなさい。とりあえず、貧血が酷いからって理由で、1週間のドクヘリ禁止。部長に連絡しとくから」
「えー」
まるで駄々っ子のように甘えてみたけれど、月子先生には効かなかった。
「ウダウダ言ってると、大樹先生呼んで、今ここでハッキリさせるわよ」
と脅されて、黙るしかなかった。