事故は重傷者と軽傷者合わせて9名。
5台が絡む大きな事故。
全員の診察と処置を終え、重傷者を病棟に上げ終えたときにはすでに夕方になっていた。
「樹里先生。ここはいいから、病棟に行きなさい」
部長が言ってくれた。
「母は?」
仕事中は忙しくて気にかけられなかった。
もちろん、何かあれば教えてもらえると思ったし。
「大丈夫。念のために、経過観察入院になった。詳しいことは病棟で聞きなさい」
部長の表情も穏やか。
どうやら重症ではなさそう。
「ここはいいから、行きなさい」
先輩ドクターも言ってくれて、私は勤務を早めに切り上げ病棟に向かった。
ガラガラ。
「母さん」
ノックもせずに病室のドアを開けた。
駆け寄って、とにかく顔を見たい。
「樹里亜、心配しなくても大丈夫だから」
母さんはベットで体を起こしていた。
はあー。
本当だ。元気そう。
「よかった」
心底ホッとした。
もし母さんに何かあれば、私は一生後悔したと思う。
そのくらい心配だった。
「樹里亜、来たのか?」
大樹が病室に入ってきた。
「遅くなってごめん」
「仕事だ。気にするな」
「うん、ありがとう。それで、容体はどうなの?」
「少し貧血が進んでいるけれど、心配はないだろう。まあ、検査も兼ねて2,3日休んで帰ると良いよ。今夜は救急病棟に泊まって、明日から血液内科で検査をしよう」
「わかった」
今日の血液検査の結果を見せてもらったけれど、緊急入院するほど悪くはない。
きっと疲れが出て、目眩がしたのね。
色々心労も多いはずだから・・・
「こんばんは」
渚が病室に入ってきた。
「今夜の救急病棟担当の高橋です。お変わりありませんか?」
静かに声をかけながら、診察をしていく。
「ええ。大丈夫です」
「少しでも変わったことがあれば、我慢せずに言ってください」
「はい。ありがとうございます」
母さんもにこやかに答えている。
「今日は誰か泊まられますか?」
回診についてきた看護師が私と大地を見る。
「私が泊まります」
「そうですか。樹里先生のお布団がいるようなら、おっしゃってください。ご用意しますので」
「ありがとうございます」
その時、
ガラガラ。
病室のドアが開き、梨華と父さんが入ってきた。
「お姉ちゃん!ひどいじゃないっ」
いきなり、梨華が声を上げた。
えええ?
驚いて振り返ると、
「何で具合の悪い母さんを残して、仕事に戻るのよ」
言いながら、私を睨み付けている。
「梨華、それはね・・」
「他人を治療するより母さんについているべきでしょう?何で置いて行ったのよ」
大きな声で、怒り散らす。
「梨華、落ち着け」
大樹が止めてくれるけれど、梨華は私に詰め寄ってきた。
「ねえ、何でそんなに冷静なの?自分の親が倒れたんでしょう?それを置いて仕事に戻るとか、ありえない」
梨華の言うことは娘として最もなのかも知れない。
母親が目の前で具合が悪くなったら、娘はうろたえて当然。
冷静に仕事に戻る私が、冷酷なのかも・・・
「梨華。いい加減にしなさい。それが、医者という仕事なんだ。樹里亜を責めるな。たとえ、私でも、大樹でも同じ事をしたはずだ」
父さんが言い聞かせてくれて、梨華は黙った。
でも、とても不満そう。
「はいはい。どうせ、悪いのはいつも私なのよね」
そう言うと、梨華は私にに近づき、
「そんなだから、『血の繋がらない子』って言われるのよ」
小さな小さな声で囁いた。
多分、私にしか聞こえない声で。
きっと、今の梨華は母さんのことで動揺している。
いつもはこんなこと言わない。
分かっているけれど・・・傷ついた。
「梨華、俺が本気で怒る前に止めろよ」
なんとなく状況を察した大樹が牽制してくれる。
「はいはい。じゃあ、私はまた明日来るから」
梨華が母さんに手を振る。
「うん。ありがとう」
母さんも笑顔で見送った。
私と入れ替わりに、梨華は帰って行った。
梨華も、大樹も、父さんも帰った病室。
母さんは眠っている。
ここは救急病棟の特別室。
病室も12畳ほどの広さがあり、ベットの他に応接セットが置かれていて、奥には引き戸で仕切られた和室。さらには、ミニキッチンやお風呂も備え付けられている。
私は部屋の灯りを消すと、応接セットのソファーに横になった。
高い差額ベッド料をとるだけあって、眺めも最高。
今は、窓からは星空が見える。
うわー、綺麗。
子供の時に見た満天の星を思い出した。
あの頃に戻れたら、どんなに幸せだろう。
「ねえ、樹里亜」
「えっ?」
寝ていると思っていた母さんに突然声を掛けられ、私は驚いた。
「寝られないの?」
布団や枕が変わると寝られない人は多いから。
「ちょっと来て」
母さんはベッドに身体を起こし座っていて、ここに来てとベッドを叩いた。
「どうしたの?」
私は母さんの近くに行き、ベットに腰をおろした。
「あなたと、少し話がしたいの」
話?
「話ならいつでも出来るから、今は休んだほうがいいわよ」
「何言ってるの。いつも忙しくて、家にも帰って来なくて、いつ話せるのよ」
はああ、確かに。
そう言われてしまうと返す言葉がない。
「わかった。何?」
私はおとなしく母さんの話を聞く事にした。
「我が家は、樹里亜にとって居心地が悪いのよね?」
確認するように言われ、
「そんな事は・・・」
答えにくくて、言葉を濁した。
「なぜなの?」
「それは・・・」
一言で説明するのは難しい。
「私は、樹里亜も梨華も大樹も同じように育ててきたつもりよ」
それは、わかっている。
父さんも母さんも平等に扱ってくれた。
「親戚達がうるさいのは確かだけど、なぜあなたはいつも逃げるの?」
「母さん・・・」
私だって好きで逃げているんじゃない。
私は父さんと愛人との間に生まれた子。
母さんにとって憎むべき相手の子。
愛されてはいけな子だから・・・
「樹里亜は、自分の名前の由来を知っている?」
「由来?」
「そう。大樹はお父さんの名前『樹三郎』から一文字を、梨華は私の名前『華子』から一文字をもらったの」
「知っている」
私は父さんの樹の字をもらって樹里亜になった。
それは、父さんだけの子だからでしょう。
「樹里亜の名前は、お父さんと私が決めたの。亡くなった樹里亜のお母さんの名前『ジュリア』をそのままもらって、お父さんの樹の字をあてたのよ」
ジュリア。それが、母の名前?
知らなかった。
それよりも、母さんから生みの母の話しを聞かされることが意外だった。
「母さんは会ったことがあるの?」
「ええ。樹里亜が生まれる一カ月ほど前から一緒に暮らしたわ。出産にも立ち会って、ジュリアさんの最後も看取った」
そんな話、初めて聞いた。
「本当は樹里亜が20歳になったら話すつもりだったの。でも、あなたは帰って来なくて。しかたないから、大学を卒業して社会に出る時にって思ったら勝手に1人暮らし始めて」
「ごめんなさい」
その後、母さんはいい機会だからと話しだした。
私の生みの母ジュリアさんは中国出身の女性だった。
幼い頃にアメリカに渡り、苦労して医師になった。
その間に両親も亡くなり、父さんが出会った時には天涯孤独だったらしい。
アメリカの病院で救命医として働くジュリアさんは当時40歳。
父より10歳も年上で、上司にあたる人だった。
「ねえジェイ。あなたは子供がいるんでしょう?」
同じアジア人のよしみで、ジュリアさんは父に心を許していった。
樹三郎の名前から、ジェイと呼ばれていた父も、ジュリアさんを医師として上司として尊敬していた。
「私もね、ジュリアさんに会うまではお父さんとの仲を疑っていたの」
フフフ。
と懐かしそうに母が笑った。
「自分の子供って、そんなにかわいいの?」
不意にそんなことを訊かれた父は、
「自分の命を投げ出しても良いと思えるほどにかわいいですよ」
と答えた。
それから2ヶ月後。
「ジェイ。私も子供を持つことにしたわ」
「ええ?」
突然言われ、意味が理解できないでいる父に、
「私も年齢的に時間がないし、精子バンクの人工授精を受けたの」
「人工授精ですか?」
「そう。いつもジェイが話してくれる子供の話を聞いて、私も子供を持ちたくなったのよ」
確かに、40歳と言えば出産はギリギリの年齢。
しかし、医師として経済的には恵まれているとはいえ、シングルマザーは楽な選択ではない。
それでも、子供とか血とかにこだわってしまうのはアジアの血なのだろうか?そんなことを父は思ったらしい。
結局、ジュリアさんはシングルマザーになる道を選んだ。
その後は、ジュリアさんの体調もよく順調に妊娠5ヶ月を迎えた。
すべてが順調だった。
ジュリアさんの乳がんが見つかるまでは。
たまたま検診で見つかった乳がん。
ステージⅢの進行癌だった。
すぐに放射線治療をしても、手術できるか分からない進行度。
ジュリアさんは治療をせずに子供を産むことを決めた。
子供の将来を考えれば無責任な選択かも知れないけれど、おなかの子供も1つの命と考えたジュリアさんに迷いはなかった。
「ジェイ、もう何も言わないで。私は決めたの。ただ、出来ることならば子供が幸せな家庭に引き取られるのを見届けてもらえないかしら」
そう言って、父さんに手を合わせた。
あまりに重い責任に、父も困惑した。
迷った末に母に連絡をし、母はアメリカに飛んできた。
その時、ジュリアさんは妊娠9ヶ月。
癌のため寝たきりのような生活だった。
「あなたが生まれるまで、私はずっとジュリアさんと過ごしたのよ。ジュリアさんは賢くて強い人だった。生まれてくるあなたへの影響を考えて、一切の治療や鎮痛剤を断わっていた」
「そんな・・・」
末期癌の痛みを我慢するなんて、出来るわけがない。
「あなたのお母さんはそんな人だったの」
「それで、ジュリアさんは苦しんで亡くなったんですか?」
「いいえ。結局あなたは予定より半月早く生まれてしまって。ジュリアさんはたった1ヶ月だけだったけれど、あなたと過ごすことができたの」
そう。よかった。
「そして、出産を一緒に過ごす中で、私達もあなたに情が移ってしまって手放すことが出来なくなった。だから、引き取ったのよ」
母さんの話を聞きながら、涙が止まらなかった。
でも、それならもっと早く言ってくれれば、こんなに苦しむ事はなかったのに。
「ジュリアさんは亡くなる前に私に言い残したの。『甘やかすことなく、強い子に育てて欲しい。世間の風なんかに負けない人間に。自分の足で歩いて行ける人間に』とね。だから、あなたが養女だって事も隠さなかったし、親戚達の噂もわざと放っておいたのよ」
キューンと、胸が痛くなった。
「ねえ樹里亜、私達の態度があなたを苦しめていたんならごめんなさい。でもね、ジュリアさんがあなたのお母さんであることを忘れたくなかったの」
大人として自立しすべての事情を聞いた今なら、なんとなく理解できる。
「ごめんなさい」
私は母さんにすがって泣いた。
「バカね、何で謝るの。あなたは立派に育ってくれたわ。周りの声なんて放っておきなさい。少しは梨華を見習いなさい」
「梨華を?」
「そう。あの子ぐらい素直に生きられたら、あなたも楽でしょう?」
「母さん。それ褒めてないわよ」
フフフ。
私と母さんは顔を見合わせ、笑った。
「樹里先生」
病院の屋上で後ろから声をかけられた。
整った顔立ちからは想像できない、ちょっと低めのテノール。
私は、この声が好きだ。
この声で名前を呼ばれると、なぜか動きが止まってしまう。
「樹里亜?」
周りに誰もいないことを確認して、再び声がかけられた。
ん?
私は泣きはらした顔で、振り向いた。
「ど、どうした?」
慌てたように、渚が駆け寄る。
「渚ー」
我慢できずに抱きついた。
ふっと、渚の匂いがした。
使い慣れた石けんと柔軟剤の混ざった、私の好きな匂い。
うぅん、いい匂い。
きっと、私からも同じ匂いがするはず。
同じ家に暮らしているんだから当たり前だけど、そのことがなぜか嬉しい。
「渚、好きだよ」
ここが病院なのも忘れて、ギューッと抱きしめてしまった。