3年前。

東京の大学を卒業して地元に帰ってきた時、私はアルバイトで貯めたお金を頭金にして賃貸のマンションを借りていた。
さっさとしないと大樹や父さんに止められるのが分かっていたから、2月のうちに引っ越しも終わらせた。

そして、春4月を迎え勤務が始まって1週間ほどたった頃、ネットカフェの入り口で渚を見つけた。
顔に見覚えはあった。
同じ1年目の研修医で、あまり話さない静かな人だという印象。
財布を覗きながらネットカフェの前に立つその人に、私はつい声をかけてしまった。

「あの?竹浦総合病院の研修医ですよね?」
「ええ?」
驚いた彼の手から、500円玉が道路に落ちた。

ああああ。

咄嗟に後を追ったけれど、500円玉は側溝の中に消えた。

「ごめんなさい」
「いえ・・・」
「500円、弁償します」
「いいんです。どうせ・・・足りないし」
と、ネットカフェの看板を見る。

1泊3000円。
「ここに、泊まってるんですか?」
「まあ」
「ドクターですよね?」
「まだ給料もらってないから。それに、実家から勘当されたんです」
はあ・・・
なんだか、事情がありそう。

「よかったら、家に来ます?」
なぜか、口をついて出ていた。

驚きで口を開けたままの彼の手を取り、私は自宅マンションに連れ帰った。
マンションに帰り、リビングのソファーに座りながら、
「あの、名前を教えていただけますか?」
その時まで、私は彼の名前すら知らなかった。

「高橋渚です。千葉大学の医学部を今年卒業した24歳。この春から竹浦総合病院で研修医1年目です」
まるで職場の自己紹介みたい。
「私は、」
「知ってます」
自己紹介しようとして、渚に遮られた。
「竹浦総合病院のお嬢さん。有名ですよ」
何か、嫌な感じ。
泊めてあげようとしているのに、怒っている見たいで・・・気分悪い。

「何か怒ってます?」
思わず訊いてしまった。

「お嬢さんは、いつも」
「お嬢さんはやめてください。樹里亜です」
「ああ。樹里亜さんはいつもこんな風に簡単に人をあげるんですか?」
はああ?
「それは、あなたが困っているようだったから」
「困っている人はみんな泊めるんですか?」
淡々と話してはいるが・・・何か、むかつく。

「嫌なら出て行ってください。私はただ、500円の責任も感じたし、同じ職場の同期だし、それに・・・兄と喧嘩して落ち込んでいたし。出来れば1人になりたくなかっただけです。でも、確かに軽率な行動だったかも知れません。どうぞ、出て行ってください」
さあどうぞと、立ち上がり玄関を示した。

渚はしばらく黙っていた。

「言い方が悪くてすみません。僕の言葉は誤解されやすいようで、今後は気をつけます。ただ、若い女性がほぼ初対面の男を家に上げるのはよくありません。まあ、今の話の流れから行くと、僕は男性にはカウントされてないようですが」
確かに、この時の私は渚を男としては見ていなかった。

「もう今日は遅いので、泊まってください。これ以上ゴチャゴチャ言うと、私が出て行きますから」
悔しさ紛れに訳の分からないことを言ってしまった。
「意味が分からない・・・」
など言いながら、
結局、渚はリビングのソファーに泊まっていった。
翌朝。
「お陰で、久しぶりにゆっくり寝られました」
やけにかわいらしくお礼を言う。

「病院では秘密ですよ」
もし大樹に知れたら、間違いなく殺される。
「大丈夫です。話すような友人はいませんから」
はああ。
それは、お気の毒に。

「でも、そんなにお金ないんですか?」
「はぁ、それが・・・」
ポケットから出した財布を開いて見せた。

千円札が2枚。

「これだけ?」
コクンと頷く。
「これからどうするの?」

初めての給料日は5月の中旬。
それまでには1月以上ある。

「貯金は?」
「研修先が決まった瞬間に仕送りを止められてしまって、ここ半年の生活費に消えた」
うわー、かわいそう。

「まあ、どうしても困ったら医局で寝泊まりしてつなぐよ」
「お金、貸そうか?」
「バカ。いらない」
イヤー、いらなくはないでしょう。

「じゃあ、給料日までここにいれば?その代わり、研修で困ったときは助けて」
手を合わせて、お願いした。

ただせさえ院長の娘だって注目されているのに、私はそんなに器用ではない。三流大学を卒業し、なんとか医者になったって感じ。
渚が千葉大の医学部出身って事は、私よりかなり頭いい訳でぜひ味方に欲しい。

「いいのか?」
「うん。こう見えて、私の周りって敵が多いのよ。味方は1人でも欲しい」

なんだかとても不思議そうな顔をして、
「ありがとう」
渚は深々と頭を下げた。

この日から、私達の同棲生活が始まった。
朝。

「うーん」
ベットの中で背伸びをして、隣を見ると、
あれ?
渚がいない。

サイドテーブルの上の携帯に手を伸ばし、時刻を見る。
6時かぁ。
まだ早いじゃない。
しばらくウトウトして、私も体を起こした。

「痛っ」
腰に痛みが・・・
そういえば、昨日久しぶりに・・・
「ああぁ」
私、避妊の薬を・・・飲んでない。
でも、今までだって大丈夫だったし、

「樹里亜、ご飯出来たぞ」
キッチンから渚の声。
「はぁーい」
寝室から出ると、リビングまでお味噌汁のいい匂いが漂っている。

「おかずは納豆と目玉焼きしかないから」
「うん」
出汁からとった手作りのお味噌汁があればそれで充分です。

私一人なら、菓子パンかシリアルで終わってるところだけど、
なぜか渚はお味噌汁がないと納得しない。
きっと、毎朝出汁をとって味噌汁を作ってくれるお母さんに育てられたんだろうな。
私には、無理だわ。

「どうした?食べないの?」
「ううん。いただきます」

ご飯だって、高いお米を使っているわけではないのに、昨日のうちに研いでざるに上げてあったから、とってもふっくら美味しく炊けている。

「いつも通り、美味しい」
「うん」
満足そうな渚。

これだけこだわりのある人の奥さんになるのは、正直大変だと思うな。
プルル プルル
珍しく、朝から携帯が鳴った。

ん?
急変かな?
こんな時間にかかってくるのは、受け持ち患者の急変のことが多い。

「もしもし、竹浦です」
『樹里亜?大樹だけど』
「どうしたの?」
『お前、本当にお見合いする気なの?』
「何、どうして?」
朝6時半に電話する話かあ?

『本当に付き合ってる人はいないの?』
「・・・」
思わず黙り込んだ。

もしかして、大地は気が付いてる?

その時、
プププ プププ
渚の携帯が鳴った。

マズイ。
私は寝室に駆け込んだ。

遠くのほうで、渚が電話に出ている。
どうやら病院からみたい。

「忙しそうだから切るわ。今日は救急外来担当だろう?」
「うん」
「俺も、脳外の救急待機だから。会えるだろう。その時な」
「はあ・・・」
まだ、この話まだ続きますか。

今は穏やかに話している大樹だけど、いざ渚のことがバレたら、大変だと思う。
昔から、私に近づいてくる男子はことごとく大樹に牽制された。
高校時代、それでもしつこく寄ってきた先輩は街で不良に絡まれてボコボコにされたらしい。
そんな逸話がゴロゴロしている。

「俺、先に行くから」
渚が顔を覗かせた。

ええ?
今日は日曜日。
渚はお休みのはず。

「急変なの?」
「ああ。304の岡さんが急変したらしい。樹里亜、みそ汁が残ったら冷蔵庫に入れといて」
「うん。行ってらっしゃい。私ももうすぐ出るから」

手早く朝食の片付けをして、身支度を済ませると、私も渚の後を追った。
日曜日の救急外来。
待合は診察を待つ患者さんやその家族であふれている。

「すみません、後どの位待ちますか?」
小さな子供を連れた女性が、声をかけている。
ペコペコと頭を下げる受付職員。


「竹浦先生。お願いします」
処置室から声がかかった。
「はい」

「見ると、30代くらいのスーツ姿の男性」
ストレッチャーの上で、苦しそうに胸を押さえていた。
額には冷や汗。
苦渋の表情。
「心電図と胸のレントゲンを急いでください」
心臓かも・・・まずは検査。

「とにかく痛いんです。何とかしてください」
患者の訴えで、とりあえず痛み止めの注射をする。
しばらくして、患者は落ち着きを取り戻した。

「ありがとうございます。楽になりました」
起き上がり、ストレッチャーを下りようとする男性。
「待ってください。まだ横になっていてください」
心電図からも、レントゲンからも悪いものは見つかっていない。
でも、あれだけの苦しみ方はきっと何かある。

「まだ原因が分かっていません。また痛みが出ないとは限りませんから、今日は経過観察のために入院してください」
「ええっ。それは、困ります。今日は大事な商談なんです。行かないわけにはいきません」
男性は勝手に立ち上がった。

「ダメですよ。戻ってください」
「とても大切な商談なんです。会社や社員の生活に関わるんです」
男性も必死だ。

しかし、
「もし途中で何かあっても責任がとれません」
「かまいません。自分の意思で行くんです。先生や病院にはご迷惑はかけませんから」
「いや、しかし・・・」

しばらく押し問答が続いたけれど私は押し切られ、男性は帰って行った。
昼休み、病棟から応援に降りて来た渚と救急に呼ばれていた大樹と私の3人で昼食をとった。

メニューは出前のカレー。
渚はあまりカレーが好きではないけれど、救急みんなで出前を取ったため、仕方なくカレーを食べている。

ブブブ ブブブ
「はい、救命科竹浦です」
電話は検査室からだった。

内容は、先ほどの男性患者の血液検査の結果。
それも、かなり悪い。

「どうした?どこから?」
私の顔色が変わったのを感じて、大樹が声をかけた。
「検体検査からなんだけど」
マズイ、どうしよう・・・

「かわって」
横にいた渚がPHSを奪った。
「はい・・・はい。わかりました。ありがとうございました」
検査室からの電話を切って、私のほうを振り返ると、
「患者は?」
「・・・」
「しっかりしろ。早く処置しないと、危ないんだぞ。患者はどこなんだ」
「・・・」

「樹里亜?」
大樹も不思議そうに見ている。

「なんで、検査結果も出ていない患者を帰すんだ。何かあってからでは取り返しがつかないんだぞ」
渚が怒っている。
「まあ、落ち着け。今、連絡とってるから」
大樹は渚をなだめている。

「なんで帰したんだよ」
無表情で冷たい口調。
「レントゲンも心電図も異常がなくて、本人がどうしても帰るって主張したから」
「はあー」
渚があきれている。


幸い、患者と連絡つき検査結果を伝えることができた。
症状も落ち着いていて、仕事が終わとすぐ病院へ戻ってきた。

しかし、その日1日渚は不機嫌なままだった。
「樹里亜」
私のミスに付き合う形で夜勤帯まで残ることになった大樹が更衣室の入り口で待っていた。

「どうしたの?」
「・・・大丈夫?」
じっと、顔を覗かれる。
「大丈夫よ」
「無理するな」
がっしりと肩を抱かれ、私達は歩き出した。

「ちょ、ちょっと、見られてるから」
さっきから行き交う人たちの視線が痛い。

「いいじゃないか」
はあ?
「こんな時は兄貴に甘えてろ」
「大樹?」
「送ってやる。車は置いて帰れ」
この時になって、大樹が私を気遣ってくれていることに気づいた。


途中、私のリクエストで回転寿司をごちそうになり、マンションまで送ってもらった。

「ありがとう」
「うん。明日は?迎えに来ようか?」
「うんん。大丈夫。電車で行くから」
「そうか」
大樹はのそれ以上何も言わずに帰っていった。

本当に、本当にいい兄さんだ。
マンションに帰ると、渚が起きていた。

「ただいま」
「お帰り」
その先の会話が続かない。

原因は今日の患者のことと分かっている。
でも、何も言わない。
私たちは暮らし始めてからいくつかの約束をした。
その一つが、仕事を家に持ち込まないこと。
病院で何があっても、家では口にしない。
それが、同業者同士の同棲を長続きさせるコツだと信じている。

「食事は?」
「大樹とすませて来た」
「ふーん」
渚はなんだか不機嫌そう。

「お兄さん。ずいぶん遅くまで残っていたんだね」
「うん。私を心配してくれていたのよ」
「心配ねえ」

フフ。
思わず笑ってしまった。

「なんだよ」
「何でもない」

渚が大樹のことをお兄さんって呼ぶのはヤキモチを焼いているとき。
そして、そんな渚がとてもかわいい。

「渚、大好きだよ」
私は後ろからギューッと、抱きついた。