いつまでも地味な結衣と可愛い絵里香を演じ分けていることができなくなる事態になった。大変なことを頼まれてしまった。
「白石さん、お願いがあるんだけど、リビングダイニングに来てくれないか?」
「どうしたんですか?」
呼ばれて出て行くとこのトレーナースタイルをじっと見られた。これが部屋で一番着ていて楽でリラックスできる。
「親父とお袋がこの週末にここに押しかけてくることになった」
「それがどうかしたのですか?」
「故郷へ帰って見合い結婚をして、実家の後を継げとうるさいんだ」
「私とは関係のない話ですが」
「俺がここを出ていくと白石さんもここを出ていかなければならなくなるぞ。それでもいいのか?」
「いつかはそうなるでしょうから、覚悟はできています。でも今すぐと言う話でもないでしょう」
「そのとおり。今、俺はその気がない。好きな娘ができたんだ。だから時間が必要なんだ」
「その人とちゃんと付き合っているんですか?」
「何で俺が君に彼女との関係を説明しなければならないんだ」
「私にお願いってなんですか?」
「彼女の代わりに俺の恋人になって両親に会ってもらいたいんだ」
「本人に頼めばいいじゃないですか」
「頼めるくらいなら君に頼んだりしないだろう」
「ほかに何人も恋人の役を引き受けてくれる人がいるじゃないですか? あの恵理さんに頼んだらどうですか?」
「恵理に頼んで本気になったらどうする。後始末がもっと大変だ」
「私なら、後始末は簡単だとおっしゃるんですか?」
「もともと恋愛関係にはならないと賃貸雇用契約書に書いてある」
「確かに書いてあります」
「衣服や準備にかかる費用は俺がすべて負担する」
「私ならお金で済むと言う訳ですか?」
「契約の範囲内だと思うけど、時給は10倍出してもいいから、どうしても引き受けてくれないか?」
「引き受けた後はもっと難しいことになるかもしれませんが、良いのですか?」
「どういう意味だ? 俺の恋人になりたいのか?」
「いいえ、私よりもあなたの問題です」
「お引き受けする前に聞いておきたいのですが、あなたはその人のことをどう思っているのですか?」
「本当は俺にもよく分からないんだ。でも彼女にとても惹かれるんだ。初めての経験だから何と言って良いか分からない」
「気持ちが固まっている訳ではないんですか?」
「よく分からないんだ。だから時間が欲しい」
「時間稼ぎのためですか?」
「親に恋人と同棲しているところを見せると少なくともお見合いはあきらめるだろう。今はそんな気にはなれない。時間稼ぎと言えばそうかもしれない」
「私はどうすればいいんですか?」
「両親は俺の好みを知っている。俺の好みの服装、髪形などをそれらしくしてほしい。きっと信じる」
「両親はいつここへいらっしゃるんですか?」
「土曜日の3時に来ると言っている。そしてここに泊まりたいと言っている」
「ここに泊まるんですか?」
「そうだ」
「私との同居を言っていないのですか?」
「言う訳ないだろう」
「じゃあ、私はどうすればいいのですか?」
「両親は俺の部屋に泊める。ダブルベッドだから二人でも寝られるし、俺が来る前はそうしていたらしい」
「あなたはどうするんですか」
「ソファーでもいいが、それはまずい、恋人と一緒に住んでいるということにしたいから、君の部屋に泊めてくれ」
「困ります」
「頼むよ、誓って何もしないから」
「少し考えさせてください」
私は自分の部屋に戻ってきた。篠原さんはこの私に絵里香の代役をしてほしいと言っている。引き受けるのは簡単だけど、そのあとはどうなるだろう。
まず、この地味な私があの絵里香と分かって動転することは間違いない。それから両親になんと言って紹介するのだろう。恋人の白石結衣と言うのか、それとも石野絵里香と紹介するのだろうか?
恋人と同棲していると言ったら、ご両親はどういう反応をするだろう。すぐには認めないに違いない。だってお見合いの話を持ってくるのだから、そういう人と結婚させたいに決まっている。
その場で言い合いになるのは目に見えている。そして喧嘩別れ。篠原さんの計画どおり時間稼ぎはできる。それからの展開は予想できない。彼が私に対してどういう態度をとるか? 私もどうしてよいか分からない。
いずれにしても、遅かれ早かれいつかは私が絵里香だと篠原さんに言わなければならない。それが今度の土曜日なだけと考えよう。いくら考えてもなるようにしかならない。
そう思って、部屋からリビングダイニングへ出てきた。篠原さんはコーヒーを飲んで待っていた。
「お引き受けします。土曜日の午前中に一緒に出掛けてあなたの気に入った服を買って下さい。帰ってから準備します」
「ありがとう」
「これはあなたの責任ですることです。これだけは承知しておいてください」
彼は引き受けることで安心したようで、この言葉の意味は全く理解していなかった。
************************************
土曜日は、篠原さんの実家から電話が入って、来ることが確認できたら、ショッピングに出かける予定にしていた。9時に電話があって、こちらに着くのは3時頃だと言うので、すぐに出かけることになった。
二人で渋谷まで出かけて服を選んだ。彼は絵里香に似合いそうだと言ってシックなワンピースを選んだ。試着してみても、まあ、センスは悪くない。迷っている時間はない。すぐそれに決めた。彼が支払いを済ませた。
それから絵里香がしていたような髪形を私に説明して同じ髪形にしてくれと頼まれた。それはお安い御用、私は髪をカットして帰るといってその場で分かれた。彼は私に必要額を渡してくれて、一人でマンションに戻った。
カットはすぐに終わった。すこし髪が長くなっていたので丁度良かった。12時過ぎにはマンションに帰ってくることができた。
「お昼は何か召し上がりましたか?」
「いや、余り食欲がない」
「サンドイッチを買って来ました。一緒に食べませんか?」
「ああ、一切れもらうとするか? コーヒーを入れてあげよう」
「ありがとうございます」
篠原さんはサンドイッチを一切れ食べただけで、食欲がないみたい。私は気合を入れておかないといけないので、しっかり食べた。
「それで、これからのことだけど、両親が3時ごろに来るから、これから準備をして、俺が呼ぶまで自分の部屋にいてほしい。両親に事前の説明を終えてから、君を紹介するから、恋人の振りをしてくれていればいい。特段、話もしなくていい。すべて俺が話す。いいね」
「分かりました」
「ああ、それからもちろんメガネは外してね。それにお化粧もしっかりしてね、頼むよ。成否は白石さんにかかっているから」
「分かっています」
私は準備のために部屋に戻ってきた。これから絵里香に変身する。ご期待にお応えして立派に絵里香を演じますとも! でもあとは知らないから!
時間は直ぐに過ぎた。もう3時になった。玄関ドアの閉まる音がした。両親がこられたみたい。呼びに来るのを部屋で待っていればいい。
しばらくして、ドアがノックされる。出番だ!
「出てきて、両親と会ってくれないか? 紹介するから」
私はドアを開けて出て行った。まっすぐ前をみていたが、篠原さんの驚く顔が見えた。出た後、すぐに部屋を覗いているが他に誰もいるはずがない。
「まさか! 君は!」
絵里香の私はゆっくり歩いて両親の前に行って深くお辞儀をした。
私の後ろに立っている彼はまだ動転しているのか声もない。しばらく間があった。深呼吸をしたと思ったら話し出した。
「しし紹介します。こちらが石野絵里香さんです。ここ半年ここで一緒に生活しています」
「初めまして石野絵里香です」
「真一、そんな話は聞いていないぞ!」
「いずれは結婚を考えています」
「おまえには店を継いでもらいたいと考えている。嫁もそれ相応の人と考えている」
「そんなに簡単に結婚を考えていいの、真一」
「彼女の前でその話はないだろう。失礼だろう」
「あなたには社長の嫁としての覚悟はあるのか?」
「その話は彼女には関係ない」
「関係なくはないわよ。私も大変だったから」
「俺は認めん。帰るぞ!」
「あなた、せっかく来たんですから、泊っていきましょうよ。石野さんともお話してはどうですか?」
「いや、帰る。帰ってお互いに頭を冷やす。失礼する」
お父さまが席を立ったので、お母さまも付いて行った。
「親父、落ち着いて、頭を冷やして考えてくれ! 俺の好きな人と結婚させてくれ!」
「おまえこそ、どこの馬の骨かしらん女と軽々しく結婚するというな! 頭を冷やすのはおまえの方だ!」
やはり喧嘩別れになった。篠原さんが想像していたとおりになった。彼は玄関まで行って話しかけている。私はソファーに坐った。彼は両親を送り出すとすぐに戻ってきた。
「悪かったな、いやな役目を頼んで」
「想像していたとおりでしたから」
「済まない。君が絵里香だなんて今の今まで全く気が付かなかった」
「私もだます気はなかったんです。でもすぐに本当のことを言わずに申し訳ありませんでした」
「俺は本当に今迄どうかしていた。見る目がないと言うか何にも見ていないというか嘆かわしい限りだ」
「いえ、同居の契約書に恋愛関係にならないという条項がありましたから」
「すぐにでも契約書を改訂して削除しよう」
「それでいいんですか?」
「そうしたい。そして俺と付き合ってくれないか?」
「いまさら付き合ってくれはないと思います。もう半年も一緒に暮らしているのですよ」
「そうだな」
「俺のことをどう思ってくれているんだ? あの時、俺の部屋に泊まってくれたじゃないか? 俺が好きだからじゃなかったのか?」
「どうしてか今も分からないのです。あのときどうしてあんな気持ちになったのか?」
「俺は絵里香が好きだったし、今もその思いは変わらない」
「あなたのことがよく分からないのです。一緒に暮らして、あなたの裏も表も見てきました。あなたがこの私をどう思ってくれているのか分からないのです」
「だから、付き合ってくれと言っている。付き合ってくれれば分かるようにする」
「私と絵里香のどちらと付き合いたいのですか?」
「どちらでもない君自身とだ」
「考えさせてください」
「俺も混乱している。考えてみてくれ。いずれにしてもこのまま同居は続けたいと思っている。契約を変更しよう。ただし解除はしない」
「それも考えさせてください」
「分かった」
そう言うと私は部屋に戻って、部屋から出なかった。彼と顔を合わせたくなかったし、これからのことを考えたかった。
************************************
翌朝、私は契約どおりに元の地味な結衣に戻ることにした。朝食の用意をしていると、篠原さんが起きてきた。機嫌は悪くないみたい。
「おはよう。元に戻ったんだ。絵里香のままでいてくれないのか?」
「始めは地味にしてくれた方がよいとおっしゃっていました。契約どおりにしているだけです。見た目で気持ちが変わるのですか?」
「難しい質問だね。人は見た目が9割という。俺は絵里香に恋をしていたんだ」
「今の地味な私ではないのですね」
「そうかもしれない。じゃあ君は絵里香ではないのか?」
「今は白石結衣で、石野絵里香ではありません」
「使い分けている?」
「そんな器用なことはできません」
「絵里香が好きなら、今の私も好きなはずです」
「何と言って良いのか、どうしてか俺は絵里香が好きになったんだ」
「そうですか」
私はそういわれても絵里香になろうとは思わなかった。どうして地味な結衣を好きになってはくれないのか、彼の気持ちが分からなかった。
私の篠原さんへの気持ちも分からなくなった。すごく純粋なところが見えると思うと、女の子とはとっかえひっかえ付き合っている。
彼の気まぐれで、絵里香の私もOne of them のように思われてきて、疑心暗鬼になった。それで、気持ちの整理がつくまでは今までどおりにしていようと思った。
************************************
2日後、篠原さんに九州支社の機構改革のための1週間の出張が入った。篠原さんは「今、ここを離れたくないけど、仕事だからしかたがない。お互いに一人になって二人のこれからをよく考えてみる良い機会かもしれない」といって出かけて行った。
次の日の夜、母から電話が入った。母は53歳になったばかりだったが、定期検診で乳がんが見つかったとのことだった。ステージは2、来週には手術の予定だと言う。
母には苦労をかけっぱなしだった。私を大学までそれも都会の大学にまで出してくれた。それから私の自由にしてよいと東京での就職も認めてくれた。このまま、母が死んでしまうようなことがあれば悔いが残る。すぐに帰ろうと思った。
篠原さんとの関係もこれ以上は進みようもない。ご両親は結婚に反対だし、このまま暮らしていてもお互いに辛いだけだと思った。
一晩寝たら決心は揺るぎないものになっていた。篠原さんもいないし、引き留める人もいない。すぐに派遣会社に電話を入れて退職の希望を伝えた。引越し屋に電話して見積もりを頼んだ。
山内さんにも電話を入れた。彼女には家庭事情で会社を辞めることにしたと伝えた。彼女には篠原さんに私が絵里香だと明かしたと伝えた。そして両親に結婚を反対されたとも伝えた。だから、これを機会に彼と別れて故郷へ帰ることにしたと言った。
そして、篠原さんに私のことを聞かれたら何も聞いていないと言ってほしいと頼んだ。山内さんはすべてを察して承知してくれた。それに彼女は私の出身地は知らないはずだった。
篠原さんが東京へ帰ってくる3日前には仕事の引継ぎもすべて完了した。午前10時に荷物を搬出したが、ほとんど段ボール箱だったので、すぐに終わった。鍵はコンシェルジェに預けた。
素敵なマンションで良い夢を見させてもらった。ありがとう、さようなら! 私は過去との連絡を断った。
私は母の手術の2日前に実家に帰ってきた。すでに術前の検査を終えて、明日入院、明後日に手術の予定だった。間に合って良かった。母は、見た目はいたって元気だった。
私の顔を見て「ごめんね、心配をかけて」と言って泣いていた。私が「これからはずっとそばにいるから安心して」と言ったら、また泣いていた。親一人子一人で寂しかったのだろう、これからは少しでも親孝行しようと思った。
幸い、手術は成功して、術後の経過も良好で3週間後に退院できた。安心した。ただ、抗がん剤を服用していることもあり、当分は自宅療養することになった。
それで母の実家の伯父さんに頼まれて母が手伝っていた経理の仕事を私が手伝うことになった。大学の専門は経営や経理だったので、それが生かせて丁度良かった。派遣社員のころはここまで任せてもらえなかった。やはり親族だから信頼できるみたい。
伯父の店に通勤する時も東京で会社に勤めていた時と同じ地味なスタイルにしている。社長の親族なので目立たないためといらぬ気遣いをさせないためでもある。
故郷へ帰って来てから3か月位経って、生活にも仕事にも慣れたころに、伯父の社長に呼ばれた。
「『澤野』の女将さんが結衣に会いたいと言ってきている。都合はどうかと聞いているがどうする? 同業の付き合いもあるから、俺の顔を立てて会ってくれるといいんだが」
「なぜ私に会いたいのか分かりませんが、いいですよ。事務所の応接室を使わせてもらっていいですか?」
「自由に使っていいから」
「それじゃ、仕事が終わった夕方の6時過ぎならかまいませんが」
「そう伝える」
************************************
それで今日の6時に『吉野』の本店の応接室で会うことになった。応接室にお見えになったと言うので、応接室をノックして入った。
そこに座っていたのはあの時マンションで紹介された篠原さんのお母さまだった。驚いて「あっ」と声を出してしまった。
「驚いたところを見ると、やはりあの時のお嬢さんですね」
とっさのことで、それを否定することができなくて、頷いていた。
「どうして、ここに?」
「あなたに会いに、そしてお願いに来ました」
それからお母さまはここへ私に会いに来るまでの話をしてくれた。
あれからお父さまと帰ってきてから、すぐに東京の知人に興信所を紹介してもらい、私たち二人のことを調査してもらったそうだ。
そして紹介された石野絵里香さんと同居している地味な白石結衣さんがおそらく同一人物であろうことも分かったという。
二人の監視を依頼しておいたところ、息子の出張中に結衣さんが転居し、その転居先が同郷のこの地で、実家の住所も分かったそうだ。
それから、私の身辺調査をここの興信所に依頼して、私がなんと菓子店『吉野』の社長の姪であることが分かったという。それで叔父の社長に頼んで直接私に会いに来たとのことだった。
それから同居のいきさつを教えてほしいというので、会社での出会いから、同居中の生活やら、合コンに石野絵里香に変装して行ったら息子さんがいて人目ぼれされて、遂にはその変装した絵里香の身代わりを頼まれてご両親に会ったことなどをありままに話した。
それから母親が乳がんで手術することになったので、息子さんには黙って、東京から引っ越して来たことも話した。
「私達親が結婚に反対したので、息子には黙って、身を引いて引越をされたのですね」
「それもありますが、ずっと同居していた地味な私より、一目ぼれした可愛くて綺麗な絵里香が良いと言うので」
「ごめんなさいね。あの子は昔からちょっと寂しげな可愛い子が好きだったから。今もその石野絵里香さんと一緒に生活していると嘘を言っているのよ。許してくれるまでは帰らないと言って」
「お母さまは私がここにいることを教えるつもりですか?」
「あなたはどうしてほしいの? 知らせてほしいの?」
「どうしたらいいのか分かりません。東京での生活とは決別して帰ってきたつもりです。もう元通りにはいかないような気がしています」
「私には、真一があの時言っていた『俺の好きな人と結婚させてくれ』と言う言葉がずっと耳に残っているのです。あの言葉、以前、私の夫が、結婚を反対していた自分の両親の前で言った言葉なんです。始めは私たちも結婚を反対されていました。でも夫が『どうしても俺の好きな人と結婚させてくれ』と言って譲らなかったのです。だから私は真一の希望をかなえてやりたいと思っています」
「私はどうすればいいんですか?」
「私は真一がいずれここへ戻って来て、店を継ぐことになると思っています。夫も歳をとってきました。このごろは真一に店を継いでほしいといつも言っています。あの子はきっと戻ってきます。そういう優しいところがある子です。その時は、真一との結婚を考えてもらえませんか?」
「私にそれまで待っていてくれとおっしゃるのですか?」
「いいえ、真一がいつ帰って来るかも分かりませんから、そんな無理なことは申しません。良い方が見つかったらその方と結婚してください。その時はご縁がなかったということですから、そこまでお願いするつもりは毛頭ありません」
「分かりました。もし、そういう時が来たら息子さんとの結婚を考えてみます。もちろん息子さんのお気持ち次第ですが」
「そう言っていただけてほっとしました。ここへあなたに会いに来たかいがありました」
篠原さんのお母さまはそういうと嬉しそうに帰っていった。「時々お電話してもよろしいでしょうか?」というので携帯の番号を教えてあげた。
社長の伯父から「『澤野』の女将さんはどういう用事できたんだ」と聞かれたので「私の友人のことを聞きたくてお見えになった」と答えておいた。
篠原さんのお母さまは時々私に電話をかけてきてくれて、息子さんの様子を知らせてくれていた。
あれから1年位の間は「石野絵里香さんとの結婚を許してくれないと会わない」と言っていたそうだ。私を探していてくれたのだと思う。
ここ1年位はそれを言わなくなったとも知らせてくれた。きっと私を探しても見つからないからあきらめたのだろうと思った。
私は1年位前から社長の伯父にお見合いを勧められていた。お見合い写真も撮らされた。私には考えがあった。意地とも言っていいのかもしれない。地味な結衣の姿でお見合い写真を撮った。ここへ帰ってからずっと地味な結衣を通していたから、不自然とは思われなかった。
私はこの地味な結衣とお見合いをして気に入ってくれる人なら結婚しても良いと思っていた。でもお見合いを勧められてから、写真と履歴書だけで断られることが多かった。たまたまお見合いをしてもすぐに断られた。交際してほしいと言われたことは一度もなかった。
そんな時、篠原さんのお母さまから、息子が会社を辞めて帰ってくることになったと連絡が入った。理由を聞くと「夫が脳梗塞で倒れて、店を継いでくれることになったから」と言っていた。それと「石野絵里香さんが見つからなかったので、あきらめて帰る気になったのだろう」とも言っていた。
そうこうしているうちに、お見合いの話が来た。相手はあの篠原真一さんだった。世話人の吉本さんが話を持ってきてくれた。社長の伯父も良い話だからと私に勧めてくれた。私はお見合いすることを承諾した。
とうとうその時が来た。あれから2年が過ぎていた。これはきっと篠原さんのお母さまの計らいだと思った。同業組合が使っているという料亭がお見合いの会場だった。母の体調が今一つなので私一人で行くことになった。
私はいつものメガネをかけたあの地味な黒いスーツ姿にした。自宅まで吉本さんが迎えに来てくれた。私の姿を見ると何とかならないものかというような顔をしていた。時間どおりに会場に着くともう先方は着いて待っているとのことだった。
部屋に入ると、篠原さんが座っていた。あの時よりも落ちついた感じがした。懐かしそうに嬉しそうに私を見つめてくれた。今も私のことを思ってくれていると分かって嬉しかった。
「こちらが白石結衣さんです。お母さまの体調がよろしくないとのことで今日はお一人でお見えです」
「篠原真一です。はじめまして、よろしくお願いします」
「白石結衣です。こちらこそよろしくお願いします」
「お母さまが体調不良と言うことですが、大丈夫ですか?」
「2年ほど前から体調を崩しまして、私は母を助けるために東京から帰って参りました。もう一人でも生活できるまでには回復しました」
篠原さんはなるほどそうだったのかというような安心した表情を見せた。
「今、伯父さんの店のお手伝いをしていると聞きましたが?」
「父が亡くなってから母は伯父の店の手伝いをしていましたが、体調を崩しまして、それからは私が手伝っています」
「手伝いといいますと?」
「経理の手伝いです。大学でも経営、経理などを学びましたので」
「そうでしたか」
篠原さんが嬉しそうな顔をする。もっと話をしたいとの思いが伝わってくる。私も久しぶりにお話がしたい。
「吉本さん、二人だけでお話をさせてもらえませんか? 母さん、それでいいかい、聞いておくことはない?」
「あなたのお見合いだから、あなたがそうしたいのなら、それでいいわ。ゆっくり気のすむまでお話したらいいわ、白石さんもそれでよろしければ」
「私は構いません」
すぐに二人にしてくれた。
「君が急にいなくなった訳が今初めて分かった。どうして言ってくれなかったんだ」
「あなたに言ったところでどうにかなる話ではなかったからです」
「俺は君がいなくなってから随分探した。でも見つからなかった」
「すみません、過去と決別したかったのでそうしました。私は都会へ出てみたくて、母に無理を言って東京の大学へ行かせてもらいました。でも都会の絵の具に染まってしまって、東京で就職までしてしまいました。母の苦労を考えないで自分の我が儘を通しました。でもセクハラで恋人に振られて会社も辞めなければならなくなりました。せっかく篠原さんに好かれたと思ったら、ご両親に結婚を反対されました。罰が当たったのだと思いました。だから母が身体を壊したのが分かると、すぐに母の力になろうと思って、過去と決別して故郷へ帰る決心をしたのです」
「俺も過去の人となったのか?」
「それじゃあ、どうすれば良かったのですか?」
「そうだね、あのままでは親にも反対されてどうしようもなかったからね。君がいなくなって、踏ん切りがついたのだと思う。俺も君と同じように過去と決別して故郷へ帰ってきた。倒れた父親の力になろうと思って」
「こんな形で再会するとは思いもしませんでした」
「どうしてお見合いを受けてくれたの?」
「はじめは篠原真一と聞いて、同性同名かと思いました。写真を見て驚いたんです。まさか同郷だったとは、気が付きませんでした。しかも老舗のお菓子屋さん『澤野』の息子さんだなんて、これはきっと何かのご縁だと思いました」
「会社ではこのことは一切秘密にしていたからね。最近は個人情報が守られるから自分で言及しないと誰にも分からない」
「確かに老舗のお菓子屋さんの店名は知っていても、社長の苗字は知りませんからね」
「ひとつ、聞きたいことがある。どうして、あんなに可愛いのに、お見合い写真は地味な姿で撮っているの? しかもメガネをかけたりして」
「見かけで好きになられたくないんです。だからこれまでも会う前にほとんど断られました。会っても断られました。それでもいいんです」
「俺が言えたことではない。俺も同じだったから。あの半年、俺は君の何を見ていたんだろうと思った。何も見えていなかった。あんなに優しく親切にしてくれていたのに、気づこうとも好きになろうともしなかった。俺はそんな男だ。捨てられて当然だと思った」
「でもあなたは私と半年の間、誠実に暮らしてくれました」
「契約に従っただけだから。俺はそういう男だ」
「お見合いのお返事、あなたはどうされますか?」
「どうするって、今更言うまでもない。是非お付き合いしてほしい。頼む。どうか付き合ってくれ。もう親の反対もない」
「私もお付き合いしたいとお願いするつもりです。ただし、今の地味なままで良ければですが」
「俺はそのままでいいけど、どうしてこだわるの?」
「あの絵里香を好きになられるのが、見かけだけを好きになられるのが怖いんです」
「俺はもう見かけだけで好きになることはない。いやというほど思い知った。でもね、今、思い返すと、君がマル秘の原紙を届けてくれた時、きっと俺は君に何かを感じたんだ。それは自分でも分かる。だから同居を提案した。そのときはその何かが分からなかっただけだと思うようになった。その時の気持ちを信じたい」
「私も同じかもしれません。すぐに同居を承知しましたから」
「これも何かのご縁だろう。定めと言ってもいいかもしれない。素直に従った方がよさそうだ」
「私もそうしたいと思います」
それからしばらく二人はこの離れていた2年間のことを話した。篠原さんはずっと私のことを思っていてくれた。あれから合コンにも行く気がしなくなったと言っていた。私の使っていたサブルームは私がいつ帰って来ても良いように空けたままにして、それからは同居人を住まわせなかったそうだ。
私もあの億ションでカラオケを練習したことやHビデオを見たことなどを時々懐かしく思い出していたことを話した。それを篠原さんは嬉しそうに聞いてくれた。
頃合いを見て、二人は吉本さんと篠原さんのお母さまに声をかけた。そして私は吉本さんと一緒に先に帰った。
帰りの車の中で篠原さんに交際の希望を伝えてくれるようにお願いした。吉本さんは「伝えるけど断られても落胆しないように、また良い縁談を探してあげるから」と慰めるように言っていた。
その日の夜遅く、吉本さんから「先方も交際を希望している」と嬉しそうな声で連絡があった。「これで肩の荷が下りた」とも言っていた。本当にお世話になりました。
こうして、二人の新たな交際が始まった。
交際を始める最初のデートをどうしようかと篠原さんは迷ったみたい。街中で二人が歩いていると結構人目につく。だからドライブはどうかと相談された。私は行きたいと伝えた。
私は土曜日も仕事があるので、デートは日曜日の朝から出かけることになった。篠原さんが9時に家まで車で迎えに来てくれた。
ドアホンが鳴ったのですぐに作ったお弁当を抱えて玄関ドアを開けた。篠原さんがニコニコして待っていてくれた。私の後から母が出て挨拶をする。
「結衣の母親の白石澄子です。わざわざお迎えに来ていただいてありがとうございます。結衣がお世話になります。どうかよろしくお願いいたします」
「初めまして、篠原真一です。お嬢さんをしばらくお預かりします」
「娘にはもう少しオシャレをしないと篠原さんに失礼だと言ったのですが、そういうことに無頓着でお気を悪くなさらないで下さい」
今日の私の服装もおばさん風に見えると思う。ここのところ着飾らないようにしていたからデートするのにふさわしい適当な服もなかった。
「いえ、そういうところが白石さんらしくて良いと思っています。お気になさらないで下さい」
後ろから車が来たのですぐに車に乗り込んだ。家の前の道路は狭いので車がすれ違えない。すぐに出発した。
「今日は天気も良いので、海岸を回って来たいと思っているけど、いいかい?」
「そうですね。しばらく海を見ていなかったのでいいですね。お弁当を作って来ましたので、お昼は弁当をゆっくり食べられるところを探し下さい」
「白石さんのお弁当か、楽しみだ」
「あり合わせで作りましたので、お口に合えばいいですが」
「同居していた時に朝食や夕食を作ってくれたけど、美味しかったから大丈夫だ」
直ぐに海の見えるところまで来た。海を近くで見るのは久しぶり。ここへ帰ってくる時に新幹線から見たけど、以前の在来線とは違って海から離れたところを走っていたのでよく見えなかった。今日は波も穏やかだ。篠原さんは機嫌よく運転している。
「白石さんは運転免許を持っているの?」
「はい、ここへ帰ってきて2か月くらい経つと、どうしても必要と分かったので取りました」
「そうだね、ここでは自動車がないと何かと不便だからね。どんな車に乗っているの?」
「母が乗っている軽自動車です。市内だけですからそれで十分です。それに家の前は道が狭いですから」
「免許を持っていらっしゃったんですね」
「ああ、大学を卒業する4年生の夏休みにここへ帰ってきてとった。親父が就職したら取れないから取っておけと言うので」
「この車は篠原さんのですか?」
「親父の車だ。今日は借りてきた。俺もここへ帰ってきてからすぐに教習所へ3日ほど通って練習した。ペーパードライバーだったので免許は当然ゴールドだけどね」
「安全運転でお願いします」
「もちろん、大切な人を乗せているからね」
「行き先はまかせてくれる? 連れていきたいところがあるから」
「はい、おまかせします」
10時前に水族館に着いた。
「水族館はどうかと思って来たけどいいかい?」
「水族館なんて小学校以来です」
「ここのジンベエザメが有名なので見たいと思っていたんだ」
「私も見てみたい」
すごく大きなサメが泳いでいた。そして水槽はもっと大きかった。二人とも優雅に泳ぐ姿に見入ってしまって時間を忘れた。
「見ていると癒されますね」
「そうだね。ゆったり泳いでいる。見ていると確かに癒される。でも俺があのサメだったら」
「サメだったら?」
「きっと退屈して死んでしまうかもしれない」
「あなたらしいですね」
「まあ、ここにいれば餌は貰えるし、外敵もいない。でも恋をしようとしても相手がいない。可哀そうだ」
「もう一匹入れてあげればいいのにね」
「なかなか捕まえられないのだろう。俺もこうして君を捕まえるのに苦労したからね」
「恋の相手に出会うのはどこの世界でも大変なのでしょう」
「そうだね、だからこの再会を大切にしたい」
「私もそう思っています」
館内を見て回った。私から手を繋いだ。自然と篠原さんも繋いでくれた。気が付くともうお昼近くになっていた。
「どこかでお弁当を食べましょう」
「近くに海水浴場がある。季節外れだから人がいないだろう。行ってみないか」
「海岸に座って海を見ながら食べましょう」
すぐに目的の海水浴場に着いた。広い駐車場には車が数台とまっているだけで、人気がない。これなら落ち着いてゆっくり海岸で食べられる。私は用意して来た敷物を取り出して渡した。
波打ち際から少し離れた場所で食べることになった。海の方から吹く風が心地よい。私の作った幕の内弁当を取り出して並べた。
「美味しい、君の手作りの料理を久しぶりに食べた。ありがとう」
「すみません、それ全部私が作った訳ではありません。母が半分くらい作ってくれました」
「黙っていれば分からないのに正直だね。でもお母さんも料理が上手だね」
「母は料理が上手なので私が教わっただけです。今日はお弁当を作って行きなさいと言われてその気になりました。母の言うとおりですね。篠原さんが喜んでくれましたから。母の言うことを聞いてよかったです」
「それで、できたらその篠原さんはやめてくれないか? 昔のことを思いだすから。よかったら真一さんとか、名前で呼んでくれないか?」
「確かにそうですね。それでよろしければそう呼びます。私も結衣と呼んでいただけますか?」
「呼び捨てはどうも気が引けるから結衣さんと呼ぶことにしよう」
篠原さんには遠慮があるのだろうか?「結衣」とは呼んでくれなかった。確かに今座っているけど二人の間には距離がある。2年もの間、遠ざかっていたのだからしかたがない。いつになったらこの距離を埋められるのだろう。時間が解決してくれるのだろうか?
お弁当を食べ終わると、海外線をずっと走り続けて突端の岬に着いた。この岬は海から昇る朝日と海に沈む夕陽が同じ場所で見られることで有名なんだとか、篠原さんが説明してくれた。私のために下調べをしてきてくれたみたいで嬉しかった。
両側に海が広がって景色がいい。灯台があると言うので二人で歩いて行った。人がいなくて静かな所だった。
「見晴らしがすごくいい。気持ちがいいわ」
後ろから抱き締められた。ひょっとするとこうなるかなと思っていた。前にもこんなことがあった。でも緊張する。動けないし動かない。
随分長く抱き締められていた。身体を動かそうとすると向きを替えられてキスされた。最初にマンションでキスされた時もこうだった。あの日のことを思い出してしまう。今はメガネが邪魔をする。
キスの後、顔をじっと見られた。恥ずかしくて下を向いた。もう少し可愛くしてくれば良かったとこの時思った。また、キスをされて抱き締められた。私を放したくないと言うようにいつまでも抱き締めてくれていた。
子供の声がしたので、とっさに身体を離そうとした。抱き締めていた力が緩んだ。それから二人は何食わぬ顔で距離をとった。でも私はしっかり手を握って離さなかった。二人のそばを子供たちが駆け抜けていった。そのあとから両親が追い付いて来た。
二人は元来た道を戻ってきた。黙って手を繋いでいるだけだったけど、もう心が通い合っていると思った。ようやく車に乗り込んだ。誰かに見られているようで落ち着かなかった。私を引き寄せてまたキスをしてくれた。嬉しかった。
「そろそろ帰ろうか? 帰りは来た道とは違う道にするからね」
「それがいいです」
帰り道はほとんど話をしなかった。話をしなくても私は十分心が満たされていた。ずっと黙って穏やかな海を見ていた。私が黙っているのが不安なのか、信号待ちの間に手を伸ばしてきて私の手を握るので、握り返してあげる。彼の顔が緩む。
休憩に海辺のレストランに入ってコーヒーを飲んだ。ここでもほとんど話をしなかった。テーブルの上で手を握り合っていただけだった。話したいことがいっぱいあったのに、今はこうして二人でいるだけでよかった。
4時を少し過ぎたころに、私の家に着いた。母が出てきたので、真一さんが帰りのレストランで買ったお土産を渡して、お弁当のお礼を言っていた。
立ち話をしているとすぐに車が来たので急いで車を出して帰って行った。楽しいドライブだった。今度は紅葉を見に二人で山へ行ってみたいと言われた。
月曜日の昼頃、お弁当を食べて、休憩室の前を通ると中から、女性の事務員が二人、噂話をしていた。私と真一さんのお見合いの話だった。どんな話か気づかれないように聞いていると、驚くような内容の話だった。
すぐに真一さんの携帯に電話を入れた。すぐに出てくれた。
「真一さんですか、結衣です」
「どうしたの、今頃?」
「ちょっと噂話を小耳に挟んだものですから、ご存知かと思って」
「噂話って何ですか?」
「真一さんのお店のことです。うちの従業員の噂話を偶然立ち聞きしました。私と真一さんがお見合いしてお付き合いしていることが知られていました。そして、真一さんのお店の経営がうまくいっていないので、私の伯父の援助を受けるために私と付き合っていると言うのです。あのカッコいい御曹司が地味な結衣さんと付き合うのは何かあるというのです。私はそんなに不釣り合いでしょうか? それに腹が立ったこともありましたが、それより、お店が上手くいっていないと噂になっているのが心配です。そういう噂をご存知でしたか?」
「店がひところよりもうまく行っていないのは親父から聞いていたが、実際、どの程度なのかはまだ詳しく聞いていないんだ。これまでは仕事を覚えるのを優先していたから、経営は少し後でもよいかなと思っていた。親父も事務所に出て仕事をしているから」
「それなら早く確かめた方がよいと思います」
「分かった、そうする。ありがとう。それよりさっきの不釣り合いは絶対ないから気にしないでいてほしい。そのうちに見返してやろう」
「はい、そう言ってくださって嬉しいです」
直ぐに社長の父親に聞いてみると言っていた。胸騒ぎがする。午後はそれが気になって仕事が手に付かなかった。
家に帰って夕食を食べて一息ついていると。真一さんから電話があった。
「今日は電話をありがとう。あれからすぐに社長から経営の状況を聞いた。予想以上に経営がうまくいっていないようだ。それと分かったことがあるから知らせておきたい。結衣さんにはうちの店ことをすべて知っておいてもらいたいこともあるし、相談にものってもらいたいから」
「私に店の大事な話をしてもいいんですか?」
「結衣さんを信じているから聞いておいてもらいたい」
「分かりました」
真一さんはそれから店の経営の状況や新製品の売れ行きが予想したように伸びていないこと、それにここ数年にわたって経理担当者の使い込みがあったことなどを話してくれた。
お父さまが年を取って会社全体を十分見切れていなかったことが原因だと言っていた。お父さまの体調が不良なので、こういう時には悪いことが重なってしまうかもしれないと心配だった。
それで工場の採算が悪化しているので、すぐにでも工場の経理も調べたいと言っていた。私にできることがあったら何でも言ってくれるように伝えた。その時はお願いするからと言っていた。
土曜日の11時ごろに真一さんから携帯に連絡が入った。
「真一ですが、お願いを聞いてもらえますか?」
「何ですか? お役に立てることがありますか?」
「うちの店の工場の経理関係の帳簿を見てほしい。不審なところがないかチェックしてもらえないか?」
「競争相手の店の経理に大事な帳簿を見せてもいいんですか?」
「専務取締役の俺の判断だけど、社長にすべて任せると言われている。いつなら都合がいいですか?」
「今日は土曜日で午後は休みですから午後からならいいです」
「こちらも午後なら休みで事務所には誰もいなくなるから、2時ごろにうちの事務所へ来てもらえないか?」
「分かりました。2時に伺います」
2時に『澤野』の本店の事務所に着いた。もう社員は帰った後で、幸い誰にも見られなかった。
すぐに工場の経理の帳簿を見せてもらって、チェックを始めた。真一さんがざっと目を通したけれど、特段、不審な箇所は見当たらなかったと言っていた。
私も帳簿に目を通していった。一見何も矛盾はないが、気になることが見つかった。原料の仕入れ値が私の店よりもかなり高かった。最近は原料が値上がりしているけれども、これほどは高くはなっていない。
仕入れ先を調べてみると大村商事となっている。住所と電話番号が分かったので、電話してみると電話には出るが話の要領を得ない。会社のある住所へ二人ですぐに行ってみたが、普通の民家だった。
私は、真一さんに「これは大村商事が納入価格を高くして不当に利益を得ている可能性がある」と教えてあげた。実際に大村商事が原料を搬入しているか、真一さんは工場の秋山主任に電話して聞いてみた。原料は今までどおり横山商事が搬入しているとのことだった。
月曜日に私は店に休暇を申請して、二人で横山商事に行って工場に直接原料を搬入している訳を聞いたが、大村商事から直接搬入するように依頼されているとのことだった。
2年前から節税対策のために、取引に大村商事を介したいと太田工場長から直接依頼があったそうだ。因みに大村商事への納入価格を聞いたが、私の店と同じ価格だった。
そうなら帳簿を操作していると考えられる。工場長と工場の経理が係わっていることは間違いない。私が試算した差額は年間1千万円近くだった。これなら収支が悪化することは明らかだ。
すぐに真一さんは調査結果を社長に報告した。社長は「そうか」と言っただけで、溜息をついて「俺の目が届かなかった。すべて俺の責任だ。専務はどうしようと考えているのか」と聞いたそうだ。
社長は工場長がいなくなると製品が製造できなくなるのではと心配していたようだ。真一さんはそれが大丈夫なことを確認して、不正を正す決心をした。そして、私は手伝ってほしいと頼まれた。
私は喜んで協力することにして、店の仕事が終わってから、社員の帰った『澤野』の事務所へ行って、夜遅くまで資料を作るのを手伝った。帰りは真一さんが家まで車で送ってくれた。
真一さんはできるだけほかの社員に知られないように気を使っていた。これが知れると社員が動揺するし、店の信用にもかかわって来る。
まず、真一さんは金曜日の午後に工場経理担当の鈴木さんを本店に呼び出して社長室で経理の不正について問い正した。社長と専務の真一さん、専務の臨時秘書ということで私も立ち会った。
この時、お父さまは見合い相手の私、白石結衣に初めて会った。丁寧なお礼を言われたが、あの時会った石野絵里香とは全く気づく様子もなかった。
経理担当の鈴木さんは入店5年目ということだった。帳簿を見せて、大村商事を通じて高い価格で原料を購入して不当に差額を得ていたことを示すとあっさりとそれを認めた。
鈴木さんは、工場長に言うことを聞かないと辞めさせると脅されて2年前からやむなく従ったと言っていた。そして差額の10%を貰っていたとも話した。もらったお金は使わずに貯めてあり、すべて返すから許してほしいと懇願していた。
真一さんはすべての会話を録音していた。そして本人には明日土曜日は休んで家にいるように言っていた。工場長に連絡したら警察沙汰にするから絶対にするなと念を押していた。鈴木さんは一礼をすると黙って部屋を出て行った。
次に、真一さんは相談があるからと言って、仕事に差しつかえのないように土曜日の午後2時に本店の社長室へ来るように太田工場長に連絡した。
丁度2時に太田工場長が社長室へ現われた。社長と専務がそろって座っているので緊張するのが分かった。私も紹介してもらった。
「これからの会話はすべて録音させていただきます。こちらは私の臨時秘書をしてもらっている白石結衣さんです。経理が専門で工場の帳簿類をチェックしてもらいました。疑問点があったので、工場長に来ていただきました。白石さん疑問点の説明をお願いします」
私は順を追って淡々と疑問点を説明していく。原料の価格が高いことは自分が菓子店の経理をしているから分かったと話した。大村商店がダミー会社であることも調べて分かったとも話した。見る見るうちに工場長の顔が引きつってくるのが分かった。
「すでに経理担当の鈴木君が不正を認めています。正直にお認めになってはいかがですか? お認めにならないのでしたら、警察沙汰になりますが、こちらはそれも覚悟しています」
「私が悪かった。お金はすべて返しますから、どうか警察沙汰にはしないでください。子供も孫もいますから」
「お認めになるのですね」
「申し訳なかった。家の建て替えでつい金がほしくなってしてしまったことです」
「それではダミー会社にプールしてある残ったお金を返して下さい。それからすぐに会社から身を引いて下さい。そうしてくれれば、社長は工場長には長い間世話になったので、警察沙汰にはしないと言っています。いかがですか?」
太田工場長は顔を上げて社長の顔を見た。社長はゆっくり頷いた。それから工場長に今日付けで取締役の辞任届を書いてもらった。また、不正に得たお金の返金の念書を書いてもらった。工場長は深く一礼して社長室を出て行った。
「辛いな、苦楽を共にした仲間を辞めさせるのは」と社長がしんみりいった。優しい方だなと思った。
翌週の月曜日、真一さんは工場へ行って、朝一番に従業員全員に集まってもらって、工場長が一身上の都合で取締役工場長を辞任したことを知らせたという。
工場長は専務の自分が兼任すること、それから秋山主任を副工場長に昇任させることを発表した。それから経理の鈴木さんを営業に異動させることも知らせた。また、本店の事務部門を工場へ移す予定も発表したそうだ。
鈴木さんの扱いについて、真一さんはお父さまに似て、優しいところがあると思った。そしてきっと良い経営者になるとも思った。
真一さんはその日の午後一番で本店の事務所員全員を集めて、同じ内容を知らせた。社長が立ち合った。それから1週間後に取締役会と株主総会を開いた。
真一さんのお父さまが社長を退任して会長に、真一さんが専務取締役から社長になった。副社長はお母さまが留任、経理担当取締役に不正を見抜いてくれた経理部長の山下さんがなった。営業部長は留任、取締役工場長は社長の扱いとして空席としたと聞いた。本店事務部門の工場敷地内移転も決めたという。
これからが真一さんの新社長としての手腕の見せ所だ。
社長の真一さんは店を良くしようと店の機構改革にとりかかった。前の会社では企画部それも一目置かれたエリートだったから、そんなに難しいことではないと思う。
「基本は働きやすくて働き甲斐のある職場にすることだ。そのためには、意思疎通をよくすること、待遇を改善すること、無駄を省くことなども必要だ」と言っていた。
そして、店にはパートの社員も多いので、私に派遣社員の経験からアドバイスをしてくれるように頼まれた。私はパートさんでも能力のある人には重要な仕事を任せて時給をあげてあげることなどを提言した。また、経理の不正が起きないような仕組みも提案した。
真一さんは店の機構改革案にそれを取り入れてくれた。そして出来上がった機構改革案を一番先に私に見せてくれた。
以下はその方策で、真一さんらしさが見えて、よくできていると思った。
(1)今の本店にある事務部門を、本店の販売部門を残して、郊外の工場に移転して、工場の事務部門と統合する。これで本店と工場の意思疎通が改善されるうえ、人件費などの経費削減も図れる。
(2)工場に統合した事務部門は大きな1室にフラットに配置し、社員の意思疎通を図る。社長室は設けないで、事務所の中央に社長席を配置して、いつも社員が社長と話ができるようにする。これで社員との意思疎通と不正防止も図れる。
(3)製品の見直しをすると共に新製品を開発する。新製品開発に当たっては工場に任せきりにしないで、開発チームを作り、各部門の意見を取り入れて行う。チームリーダーは副工場長とした。
(4)待遇の改善を図る。経営にゆとりができたら待遇を改善することはもちろんであるが、年功序列も考慮しつつ、能力のある社員、パートには重要なポストを任せる。給料を抑えすぎると不正が起きやすい。
この機構改革案を見ているといつか前の会社でコピー室に忘れたマル秘書類を真一さんに届けたことを思い出した。それを話すと「あのとき書類を忘れなかったら、同居の話もなかったし、今もなかった」としみじみ言っていた。
それから、お父さまに東京のマンションを手放して負債の返済に充てるように進言したとも言っていた。
そうしたらお父さまは「俺は東京へ出て仕事をするのが夢だった。家業のためにそれをあきらめた。そういうあこがれがあったから、東京のマンションを購入することにした。これは母さんと相談して決めたことだ。母さんは俺のことを分かってくれていて購入を認めてくれた。購入は二人の貯金で賄った。だが、経営が苦しくなって、社長の給料を減らすことになったので、賄えなくなった。だからおまえに維持費の負担を頼んだ。いずれ、おまえが東京で所帯を持ったら譲ろうと思っていた。もう母さんと二人で十分に元は取ったと思っている。おまえの好きにするがいい」と言ってくれたそうだ。
真一さんは私に「東京のあのマンションで結衣さんと暮らして思い出が一杯だけど、その結果、俺は故郷へ帰って店を継ぐことになり、結衣さんとも再会できた。もうここで新しい生活を始めたので不用だから処分したい」と言った。
私もあのマンションには不思議なご縁を感じていたけれども「今は店の再建が最も大切だからそうした方が良い」と賛成した。
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お店の経営改革は順調に進んでいた。古参の役員であった石原経理部長と太田工場長がいなくなったことで、自由な雰囲気が生まれ、若手やパートさんがのびのびして頑張ってくれたと言っていた。
新製品を開発したと言って、試作品を3品食べさせてもらった。そして意見を聞かれた。どれも良くできた製品だった。真一さんは社長の責任で選ぶと言って、その中のひとつを選んだ。
心配しながら見ていたけど、新製品の販売は順調に伸びていると聞いてほっとした。そして真一さんは社長としての自信がようやくついたと言って喜んでいた。
あの工場の経理から異動させた鈴木さんが頑張って売り上げが伸びていると嬉しそうに言っていた。あの時、辞めさせないで良かったとも言っていた。
そしてお父さまが経理の石原さんや工場長の太田さんに温情をかけた意味が身をもって分かったと言っていた。それを聞いて真一さんは立派な社長になると確信できた。
真一さんは、店の経営にも見通しがついてきたので、経理を見てもらったお礼に夕食をご馳走したいと誘ってくれた。
久しぶりで二人でゆっくり食事ができるのでそれに甘えることにした。場所はお見合いをした料亭だった。あそこなら人目にもつきにくい。
ここの料亭へは伯父に一度連れて来てもらったことがあり、料理がとても美味しいと知っていた。部屋で真一さんが待っていてくれた。
私が座るとすぐに料理が運ばれてくる。お互いにビールを注いで乾杯をする。でも真一さんはどこか落ち着かなくてぎこちない。
出て来る料理を次々と平らげている。美味しいお料理なのによく味わっているのかしらと思うほど早く食べている。私はゆっくりと食べて味わっている。
「ここのお料理は本当に美味しいですね」
「そういってもらうと招待した甲斐がある。ゆっくり食べて」
「真一さんもゆっくり味わって食べてください」
「ああ」
「お店が順調になって良かったですね」
「ありがとう、結衣さんのお陰だ。本当にありがとう。助かった」
食べながらたわいのない話をする。でも真一さんは何かほかのことを考えているみたいで気もそぞろだ。
お腹が一杯になったころに、デザートが出てきた。今日は私も少しビールを飲んだ。真一さんと一緒だから安心している。気持ちがいい。最高の気分。
すると真一さんがもぞもぞして坐り直した。そして真剣な顔になって言ってくれた。
「結衣さん、俺と結婚してほしい。どうか俺のお嫁さんになってほしい。お願いします」
深々と頭を下げた。私はすぐに「お受けします。ありがとうございます。とっても嬉しいです」と応えた。
真一さんがこちらへ寄ってきてポケットからケースを取りだして、婚約指輪を私の薬指にはめてくれた。指輪はぴったりだった。そして抱き締められた。私がうっとりしているとキスしてくれた。いい感じ! 私たちは婚約した!
その時「お料理お済ですか?」と仲居さんが襖を開けた。真一さんは驚いて私から離れたが、口には私の口紅が付いていた。しっかり仲居さんに見られたと思う。私たちの様子に気が付いて「失礼しました」と慌てて襖を締めて行った。
良いところだったのに残念だった。私は真一さんの口についた口紅をハンカチでそっとぬぐってあげた。
「帰ろうか、送って行くから」
「はい」
店を出てタクシーに乗る時に、あの仲居さんが「申し訳ありませんでした」と謝っていた。真一さんは「口外しないでくれればいいから気にしないで」と言っていた。でもきっと噂になるだろう。あのカッコいい御曹司が地味な社長の姪といちゃいちゃしていたと!
私を送って別れ際に真一さんは「すぐに伯父さんにご挨拶に行くから」と言っていた。
次の日に真一さんは朝一番で『吉野』の本店に社長を訪ねてきた。そして私と婚約したことを伝えてくれた。伯父は「地味な姪が結婚しないので心配していた。真一さんと結婚することになってこんなにめでたいことはない」と喜んでくれたことをあとから聞いた。
真一さんがお見合いして地味な私と交際していることはもう社員の誰もが知っていた。社長の真一さんは、私と婚約したことを月1回全員で行っている朝の月例ミーティングで報告したという。
パートの年配女子社員から「ご婚約おめでとうございます。社長が見初められたお方だから、よっぽどよい方なんでしょうね」と言われたが「その言い方には全くいやみがなかったし、感じられなかった。結衣さんが褒められているように思えて嬉しかった」と教えてくれた。
私はそれを聞いて、真一さんのお店の社員の方は見る目があっていい方ばかりだと、とても嬉しかった。でもうちの店の社員はあんな噂話をしてと、思い出して悔しさでいっぱいになった。
「私のことはともかく真一さんのことを悪く言われたのが悔しい」と真一さんにいうと、「いつも冷静な結衣さんらしくないね、その恨みは二人の結婚式で果たしてやればいいじゃないか」と言ってなだめてくれた。
結婚式の会場と日程を決めたので、結婚式の司会を頼みに山本隆一さんのところへ二人で会いに行った。
真一さんは電話では二人で行くと言っただけで、あえて婚約者はあの白石結衣さんだとは言わなかったという。
『山城』本店の応接室で待っていると、あの山本隆一さんが現れた。もう老舗『山城』の立派な社長さんだ。
「どうしたんだ! 婚約相手というのは白石結衣さんか? 行方知れずになったと言って大騒ぎしていたのにいったいどうなっているんだ」
真一さんは山本さんに偶然にお見合いで私と再会してからこれまでのことを話した。
「俺も真一が菓子店の社長の地味な姪子さんとお見合いをしたと言う話は噂で聞いていたが、まさかその地味な姪子さんが白石さんだったとは思いもつかなかった」
「やはり、同業では真一さんが社長の地味な姪とお見合いをして付き合っていると言う噂が広がっていたんですね。それもお金目当てだとか言って」
私はその噂をムキになって確認した。山本さんはその噂を否定はしなかった。私はそれでますます感情的になってしまった。
「結婚式では前の絵里香よりもずっとずっと素敵な女性に変身して、その噂話を打ち砕いてやります。誰よりも大切な真一さんが侮辱されました。絶対に見返してやります!」
「まあ、まあ、そう興奮するなよ、そんな結衣さんを初めてみた。俺のためと言ってくれるのが嬉しい」
「おいおい、二人でのろけ合っていないで、俺に頼みってなんだ」
「結婚式の司会を頼みたいんだが、引き受けてくれないか?」
「喜んで引き受けるが条件がある。俺に友人代表の挨拶もさせろ! それが条件だ。おまえも俺の結婚式では友人代表で挨拶しただろう。だから俺にもさせろ!」
「分かった。司会と友人代表の挨拶をお願いしたい」
「承知した」
それから3人でこれまでのことを思い出しながら話をした。山本さんは真一さんの店のことを心配してくれていて、ときどき電話をくれて、経営の相談も聞いてくれていたそうだ。
持つべきものは親友だ。真一さんは良い友達を持っている。山本さんは私たち二人の婚約を心から喜んでくれた。
二人の新居は駅裏の新築のマンションを購入することにした。真一さんの前の会社の退職金を頭金にしてローンを組んだ。ここにいれば、駅の土産物売り場の売れ具合と他店の状況が毎日手に取るように分かるといっていた。さすがに社長らしい。私も賛成した。