自分のために生きるなんて、今の私には不可能だ。
それでも、彼の言葉は私に勇気をくれた。
なんのために生きているのか――ここ最近ずっと抱えていたその疑問を、彼はいとも簡単に解決してしまったのだ。
彼の言葉がすとんと胸の中に落ちて、重たくなっていた私の心はあっという間に軽くなった。心に渦巻いていた濃い霧は、あっさりと消えていった。
もう、大丈夫だ。
そんなタイミングを見計らったかのように、ポケットに入れていたスマホが震えてタイムリミットを知らせる。もう、行かないと。
「ありがとう」
彼にそう言ってから、私は眼下に広がる眩い光を目に焼き付けた。そしてゆっくりと彼のもとに近づいていく。そのまま彼の隣を通り過ぎようとした時、パッと私の腕は掴まれた。
突然のことに驚いて、私は思わず立ち止まって振り返る。私の腕を掴んでいたのは彼だった。私を真っ直ぐに見詰めていて、初めて彼の顔を間近で見た。
彼は、とても綺麗な顔をしていた。帽子を被っているし、辺りは暗いから顔がハッキリと見えたわけではないけど。それでも整った顔をしているのがわかって目を奪われたけど、私は慌てて彼から顔を逸らす。
私の顔を見られるのは、あまり良くない。
「あの、」
「名前は?」
顔を逸らした私とは違い、彼は真っ直ぐに私のことを見ていた。
まさか名前を聞かれるとは思わなくて、必死に頭を働かせる。
今日、私たちはたまたまここで出会った。そして、またどこかで会う可能性は極めて低い。私たちはお互いのことを知らないし、知る必要もないのだから。
彼には助けられたけど、また会おうとは思っていない。いや、きっと会えない。
私の腕を掴む彼の手にはあまり力が入っていなかったから、彼の手から自分の腕を簡単に抜くことができた。
私は彼の目を見て、キュッと口角を上げる。
「次に会えたら、教えてあげる」
そう言い終えて、私はその場を後にした。
俯きながら私は繁華街を足早に歩く。そして、入口に停められていた黒い車に乗り込んだ。すると、車はすぐに出発する。
私は小さく息を吐き、被っていたパーカーのフードを脱いだ。
「ナツ、大丈夫?」
車を運転している女性が、ミラー越しに私と視線を合わせる。その表情からは本当に私を心配してくれていることが伝わってきて、それだけで心が温かくなった。
私は彼女を安心させるために微笑む。
「うん、もう大丈夫。迷惑かけてごめんね」
「迷惑だなんて思ってないわよ。ナツのためならなんでもやってあげようって、本気でそう思ってるんだから。ナツは充分頑張ってくれてるんだから、もっと我儘を言ってもいいのよ?」
「ありがとう。でも、本当にもう大丈夫だから」
「そうみたいね。さっきと顔つきが全然違うわ。安心した」
「ふふっ。心が一気に軽くなったの。不思議だね」
流れる景色を見ながら、私はさっきの出来事を思い出す。
一瞬の、誰も知らない私と彼の出会い。お互いのことなんて何も知らないけど、それでも私が救われた大切な出来事だった。彼の言葉を思い出すだけで、不思議と心が温かくなる。
そんな私を見て、彼女はニヤリと笑った。
「ナツ、可愛い顔してる。もしかして恋でもしちゃった?」
「……変なこと言わないでよ。それが許されないってことは、そっちが一番よくわかってるでしょ」
「別に許してないわけじゃないわよ。ナツの好きなようにしたらいいと思ってる。まあ、制限はどうしてもあるけどね」
「大丈夫だよ。恋なんてしないし、今はそんな余裕ないから」
「……そう」
それは、月も見えない夜の出来事。
私が、二十歳の時だった。
ドン!
私の顔のすぐ横に手を押し付けた彼は、グッとこちらに顔を近づけた。息がかかってしまうほどの距離に、私は思わず息を止める。彼の目を見ていられずに思わず顔を逸らした。
「なんで逸らすんだよ」
でも、彼はそれを許してくれなかった。甘い声でそう言った彼は、もう片方の手で私の顎を優しく掴むと、強制的に視線を合わせる。
彼の目は、切なそうに揺れていた。
どうしてそんな顔をするの?泣きたいのは私のほうなのに…
「なあ、ちゃんと話してくれ。お前がいないと、どうしたらいいのかわからないんだよ」
「なんで……」
「お前のことが、大切だからに決まってるだろ」
思ってもみなかった言葉に、私は目を見開いて彼を見詰める。
聞き間違いと耳を疑ってしまったけど、私の気持ちなんてお見通しだったのか彼は目を細めて、顎に置いていた手を私の頬に寄せて優しく撫でた。
「何を聞いたのかは知らねぇ。お前を傷つけたことは、悪かったと思ってる。それでも、お前を手放すなんて選択肢は俺にはないんだよ」
「で、も……」
「俺の言葉だけを信じろ。俺のことだけ見てたらいい」
強引でどうしようもなく聞こえるけど、私の凍った心を溶かすには充分なものだった。
必死で消そうとしていた気持ちが、涙となって私の目から溢れ出す。
「泣くなよ」
彼は私の涙を拭いながら、優しく笑った。
「好き、なの」
「え?」
「どうしようもなく、あなたのことが好き。もう忘れなきゃいけないって思ったのに、どうしても消せなかった。ずっと、傍にいたくて、」
「もういい」
彼は私の言葉を遮って、私の身体を抱き寄せた。私と彼の距離はゼロになり、彼の体温が私を安心させてくれる。
思わず彼にしがみついた。彼は、そんな私を受け止めてくれる。
「消すな。離れるな。俺のことが好きなら、ずっと傍にいろよ」
「……いいの?」
「俺がそう言ってるんだ、他の奴らに邪魔なんかさせねぇ。何があっても、もう離さねぇよ」
「……っ」
「好きだ」
今までにないくらい優しい微笑みを向けてくれた彼は、ゆっくりと私に顔を近づける。彼を受け止めるように私は目を瞑って、私と彼の顔の距離もゼロになった――
「はい、カット!」
その言葉を聞いて私たちは離れる。視線の先で、「よかったよー!」と笑顔で手を振っている人がいた。
その人に私たちが近づくと、上機嫌で言った。
「いやぁ、二人とも良かったよ!つい引き込まれちゃったし、本当の恋人同士なんじゃないかと疑ったくらいだ」
「……ありがとうございます」
「二人のおかげで撮影は順調だよ。今日はここまで、ゆっくり休んでくれ」
「はい。お疲れ様でした」
二人で頭を下げればその人は満足そうに笑って、周りにいる人たちにも「はい、今日は終わるよー」と話しに行ってしまった。
その様子を見てから隣にいる彼に視線を向けると、彼もちょうどこちらを見ていたらしい。視線が交わって、思わず二人で笑った。
「大聖さん、お疲れ様でした。今日は大丈夫でしたか?」
「お疲れ、かりん。大丈夫、っていうよりすごかった。かりんの泣き顔を見て、本気で胸が苦しくなったくらいだからな」
「ふふっ、私も本当に大聖さんが私のことを好きなんじゃないかって誤解しそうでした」
「それなら今日は俺の勝ちかもな」
二人でまた笑う。
すると、お互いを呼ぶ声が聞こえてきたから、私は彼に頭を下げた。
「では、お先に失礼します。明日もよろしくお願いします!」
「お疲れ。また明日な、こちらこそよろしく」
さっきまで見せていた俺様な様子なんて見る影もなく、優しく笑った大聖さんは私の頭を数回撫でてから、呼ばれたほうへと向かって行った。その姿を見送りながら、呼んでくれた人の元へと向かう。
「お待たせ、菜々ちゃん」
「大丈夫よ。仲が良さそうで何より」
「そんなんじゃないから」
「わかってるわ。さあ、着替えに行くわよ。今日はまだ仕事が残ってるんだから」
「はーい」
菜々ちゃんの言葉に頷いて、私は片付けをしているスタッフさんたちに挨拶をしながらその場を後にした。
私の控え室となっている部屋に入り、着ていた制服のブレザーを脱ぐと、それをすかさず菜々ちゃんが受け取ってくれた。お礼を言いながら、私はポニーテールにしていた髪を解く。
菜々ちゃんはそんな私を見ながら、これからのスケジュールを口にした。
「これから雑誌の取材ね。特集のタイトルは”人気実力派女優・桜木かりんの素顔”ですって」
「素顔……。私、別に偽っていないけどなぁ」
「そういうことを言ってるわけじゃないでしょ。かりんは人気だけど謎が多いから、みんな少しでもあなたに関する新しいことを記事にしたいのよ」
「まあ、ありがたいことか」
「そうよ。かりんの努力だけでは成り立たない仕事だから、こういう取材も大切にしないとね。さ、早く着替えてきなさい」
「了解」
菜々ちゃんに言われて、私は部屋にある簡易更衣室に入った。カーテンを閉めて、すぐに着ていた制服を脱ぐ。
制服って何歳になっても着たら若々しくいられる気がして嬉しいけど、さすがにもうキツイかもしれない。
制服から私服に着替えて、私は更衣室を出る。
菜々ちゃんは真剣な表情で手帳に何かを書き込んでいた。
「菜々ちゃん、お待たせ」
「ああ、早かったわね」
「着替えるだけだから」
「それもそうね。じゃあ、行くわよ。撮影が早く終わったことを連絡したら、向こうも早めてくれるみたいだから。できるだけかりんも早く帰りたいでしょ?」
「うん、ありがたいな」
そんなことを話しながら、私たちは部屋を出た。建物を出て、すぐに車に乗り込む。菜々ちゃんは車を発進させた。
「どれくらいかかる?」
「道の状態にもよるけど二十分はかかるわ。寝てていいわよ」
「わかった。おやすみ」
菜々ちゃんの言葉に甘えて私は目を瞑る。最近バタバタしていてゆっくり休めていなかった私は、あっという間に眠りについた。
なんとなくわかった人もいると思うが、私の職業は女優だ。自分とは違う人生を生きる仕事。
だから、制服を着る学生でなければ、大聖さんと恋仲であるなんてあり得ないことだ。
私たちが撮影しているのは、現在放送中のドラマ。もう七回まで放送を終えていて、撮影も佳境に入った。
ドラマの内容は、私が演じる主人公の女子高生が、大聖さん演じる御曹司で少し俺様なクラスメイトに惹かれるというもの。だけど、御曹司の彼とは身分が違い、それが私たちに様々な障壁をもたらすけど、なんとか乗り越えていくという王道のラブストーリーだ。
私は今年二十三歳、大聖さんは二十五歳で、そんな私たちが高校生役をするのはどうかと思ったけど、ドラマの視聴率は高くて評判もかなり良いのだとか。
制服姿がキツイ、という意見があまり目立たなくて、そのことに私と大聖さんは安堵している。