リツとの契約が切れる最後の日。
 その日、私は電車を飛び降りて病院へ向かった。幼い頃にお世話になった律君のお母さん――彩子さんから一本の電話がきっかけだった。

 ――律の容態が悪化したの。医者が、覚悟した方がいいって
 
 電話越しの彩子さんの声は、とても震えていた。私は彼女に大丈夫です、すぐ行きますとだけ言って、家を出た。
 病院に向かう途中、私はふと家を出るときに違和感があったことを思い出した。いつもなら聞こえる「行ってらっしゃい」がなかったのだ。そういえば夕飯を一緒に作ってから、リツの姿を見ることが減った気がする。とてつもなく嫌な予感がした。「律君の容態が悪化した」それはつまり――「リツが消える」のではないかと。

「……そんなの、嫌だ!」

 そう呟きながら病院に向かう。一度だけ行った病室への行き方はなぜか鮮明に覚えていた。病室につくと、ベッドで呼吸器をつけて眠っている律君を見つめている彩子さんと男の人がいた。私が入ってきたことに気付くと、彩子さんは私を見て少しだけ安堵した表情を浮かべた。
「結菜ちゃん……」
「……律君は?」
「私、仕事中に病院から、連絡をもらって……っ」
「彩子、大丈夫だよ。律君はきっと大丈夫だ」

 泣き崩れそうになる彩子さんの肩にそっと手を添える男の人の声は震えていた。そういえば律君が転校した理由は、夫婦の離婚だった。二人とも左手の薬指に指輪をはめているから、きっと再婚したのだろう。

「結菜ちゃん、だったかな。話は彼女から聞いています。西川です」
「は、初めまして。律君の、容態は……?」
「……最近、調子が良かったから目が覚めるのも近いだろうと、医者からは言われていたんだ。でも今日になって急に……」

 そう言って西川さんは言葉をつまらせた。初めて来たときに「あと目を覚ますだけ」と聞いていたから、順調に回復していたんだろう。
 もし、ここにくる前に考えていた仮説が本当なら、それが真実なら、嘘であってほしいと願う。
 私は彩子さんに荷物を預け、病院の屋上に向かった。あまり人が立ち入らない屋上に本当は来ていけないことはわかっていた。

「リツ、いるなら返事して!」

 屋上に出て荒げた声で彼を呼ぶと、フェンスの上に黒い翼を広げたリツが座っていた。駆け寄ると、リツは気怠そうに私を横目で見た。

「……どうした、住居者サン」
「どうしよう……律君が……」
「ああ、アイツか。ずっと寝てる奴がどうした?」
「そう、この病院に入院していて、ついさっき容態が悪化して……え?」

 混乱しながらも彼の言った言葉に違和感を覚える。
 私はリツに律君の話をしたことは勿論、彼の目の前で話したことはない。どうして彼が眠っていることを知っているんだろう。私は思いきって、彼に聞いた。

「なんで、律君のこと……」
「……さあ? 自分のことだからじゃねえ?」

 ――は?

 私の問いに、彼は小さく微笑んで答えた。

「死の間際にお前なら何がしたい? 『悪魔は囁いて唆すだけ』の存在だ。だから俺は悪魔になってまでお前の目の前に現れた」
「どういう、意味……?」
「わからなくていい。わかったところで、きっとお前との半年の出来事は覚えていない。……今までありがとうな、『結菜』」

 ――待って!
 呼びかけて手を伸ばした途端、彼はフッと消えてしまった。
 嫌な予感がしてポケットに入れていたスマートフォンを開き、カメラのフォルダを見る。
 初めてリツと出かけた時にこっそり撮ったケーキ越しの彼の写真は、彼だけが消えていた。画面下方に残されたデビルズフードケーキだけが輝いていて、あとは殺風景で味気ない空間が違和感を漂わせながら残っていた。
 リツはここにはいないんだと、頬を叩きつけられた気分だった。
 こんな終わり方、嫌だった。