病院の帰り、彩子さんと別れて電車に乗り、最寄り駅で降りても真っ直ぐに家に帰れなかった。
帰れば、リツが待っている。いつものように、「お帰り、住居者サン」と言って、笑顔で出迎えてくれるだろう。それが今、とても苦しい。
病室で眠っていた律《ただし》君は、間違いなくリツだった。初めて出かけたときの大人っぽい顔つきやごつごつした大きな手がよく似ている。
もし、最初からリツが私の事を知っていたとしたら――?
もし、リツが律君本人で、昔の事を全部知っていて近づいていたとしたら――?
どうして今更、なんでこのタイミングで……と、考え出したらきりがない。彼に問い詰めたらリツは私の前から消えてしまうのだろうか。リツが消えてしまったら、眠っている律君はこの世からいなくなってしまうのだろうか。
ふらふらと歩きながら考えていると、いつの間にか駅の近くにある小さな公園にたどり着いた。錆びかけたブランコや滑り台、もう誰も遊んでいない砂場には小さなスコップとバケツが散乱していた。
歩いていても仕方がない。気持ちが落ち着くまでここで休もう。私は寂れたブランコに腰かけ、ふと空を見上げた。
夕暮れのオレンジ色から、濃い紺色の空へ移っていく。雲の流れが速く、次第に灰色の雲が増えてきた。これから雨でも降るのだろうか。
「……前にも、似たようなことがあったような」
あれはそう、あの時も小学生の頃だ。学校に行く前、お母さんと口喧嘩をして家を出て行ったことがあった。その日は謝らないといけない、でもまた怒られるんだろうな、怖いなって思いながら一人で考え込んで家に帰らず一人であの公園にいた。
雲行きが怪しくて、そろそろ帰らなきゃと思っていても、ブランコに座った体は動かなかった。
帰りたくない、怒られたくない。そう思っていると、雨が降り出した。ぽつぽつと、聴こえてきた雨音は次第に大きくなり、大降りになってきた。私は慌てて、滑り台の下に隠れて雨宿りをする。と言っても筒抜けであるため、髪も服もカバンもびしょ濡れだった。辺り一帯が白い霧がかかり、風も吹いてきた。次第に体が寒さで震えてくる。このまま帰れなかったらどうしよう。最悪な想像が浮かんで、心細くなる。こんなことになるなら、お母さんに素直に謝ればよかったなんて思って、じわりと目元に涙が浮かんだ。――そんな時だった。
靄の向こうから、バシャバシャと水たまりをはじく音が聞こえる。誰か来てくれたのかな。
――いや待って、本当に人?
山が近いから、もしかしたら山から下りてきた動物かもしれない。この間、大きなさつま芋みたいなイノシシが猛スピードで突進して学校のフェンスに激突したって先生が言っていた。
ありえないことがすぐそこに、そんな考えがパッと浮かぶのはきっと怖いから。しかし、水たまりをはじく音が次第に大きくなるにつれ視界ははっきりしてきた。そしてはっきりと見えた青い傘を持った律君に、私は目を丸くして驚いた。
『ゆなちゃん! よかった、ここにいた……』
『ただし君……? どうして……』
『綾子おばさんから電話があったんだ。ゆなちゃんが家に帰ってきていない、そっちにいるかって。その時はもう雨が降っていたから、ウチで雨宿りしていると思ったらしくて。おばさんとうちの家族総出で探していたんだ。……急に降り出して、霧まで出てきたら流石に動けないよね……』
律君はそう言って、私を傘の中に入れると、濡れた髪を優しく撫でてくれた。
『遅くなってごめん。一人で心細かったね。よく頑張った。もう大丈夫だよ』
そう言って微笑んだ彼を見て、私の涙腺はもう崩壊してしまった。彼に飛びつき、わんわんと泣いた。大きな音を立てて降る雨が、子供みたいなわめき声をかき消してくれる。お母さんがびしょ濡れになって駆け付けるまで、律君は優しく背中をさすってくれた。
―――そんなこともあったな。
今はもう、雨は怖くないし、折りたたみ傘を常備している。泣いたところで律君もお母さんもすぐ駆け寄ってきてくれるわけではない。
一人でも怖くない。社会に出れば常に一人だ。
この公園で一人空を眺めていても、誰かが隣に来るわけではないのだ。
「…………懐かしい」
目を閉じれば、小学生の律君の笑顔がはっきりと思い浮かぶ。考えてみれば、私にとって彼は白馬に乗った王子様のような遠い存在ではなく、本当に兄のような存在で――。
多分、好きだった。
「――――ゆな」
名前を呼ばれ、振り返る。そこには乱れた息をしながらこっちに近づいて来るリツがいた。
「よかったぁ……」
「……捜しに来たの?」
「まぁ……せっかく作った夕飯、食べて欲しかったし。連絡手段ないから、そこら辺走り回ったんだぜ?」
部屋にいるときの、いつもの黒ジャージ姿。黒い羽根、尻尾。いつものリツだった。
「これから一気に天気が悪くなるらしい。人間の天気を予言する力はすごいよな」
「……そう、だね」
駄目だ。今、リツの顔が見られない。脳裏に浮かぶ病室の律君が、本当にリツなのか。確信もないのに不安になる。
視線を地面に落としていると、いつの間にかリツは私の前に立っていた。そして両手で私の頬を挟み、顔を上げさせた。曇り空が広がって冷たい風が吹き始めると、時間が止まった気がした。
「何かあった?」
「…………別に」
「そんな顔して……家出してきた不良かよ。また変な奴に捕まるぞ?」
「……じゃあ」
――また、リツが助けてくれればいいじゃん。
小さく呟いた言葉。挟まれた頬が熱い。私が言ったことが聞こえたのか、リツの耳が若干赤く染まる。そして頬から手を離すと、少し照れながら私に言う。
「お、俺が毎回助けられるわけないだろ。この間は人間の姿だったからすぐ助けられたけど、今の姿じゃ普通の人間は視ることができないんだから。バカか、お前は!」
「ま、またバカって! 私そんなに単細胞じゃ……」
「でもお前がピンチの時は!」
急に声を荒げたかと思えば、リツはしっかりと私の目を見て、満面の笑みを浮かべた。
「俺がちゃんと駆けつけて、助けてやるから。それまで待ってろ」
空に浮かぶ白い月。黒い羽根を広げた彼のシルエットにとても映えて見える。私が彼の言葉に笑って頷くと、彼も楽しそうに笑ってくれた。
ああ、神様。もし彼が病室で眠っている人間でも、本当に悪魔でも。
――私は、この人が好きです。
帰れば、リツが待っている。いつものように、「お帰り、住居者サン」と言って、笑顔で出迎えてくれるだろう。それが今、とても苦しい。
病室で眠っていた律《ただし》君は、間違いなくリツだった。初めて出かけたときの大人っぽい顔つきやごつごつした大きな手がよく似ている。
もし、最初からリツが私の事を知っていたとしたら――?
もし、リツが律君本人で、昔の事を全部知っていて近づいていたとしたら――?
どうして今更、なんでこのタイミングで……と、考え出したらきりがない。彼に問い詰めたらリツは私の前から消えてしまうのだろうか。リツが消えてしまったら、眠っている律君はこの世からいなくなってしまうのだろうか。
ふらふらと歩きながら考えていると、いつの間にか駅の近くにある小さな公園にたどり着いた。錆びかけたブランコや滑り台、もう誰も遊んでいない砂場には小さなスコップとバケツが散乱していた。
歩いていても仕方がない。気持ちが落ち着くまでここで休もう。私は寂れたブランコに腰かけ、ふと空を見上げた。
夕暮れのオレンジ色から、濃い紺色の空へ移っていく。雲の流れが速く、次第に灰色の雲が増えてきた。これから雨でも降るのだろうか。
「……前にも、似たようなことがあったような」
あれはそう、あの時も小学生の頃だ。学校に行く前、お母さんと口喧嘩をして家を出て行ったことがあった。その日は謝らないといけない、でもまた怒られるんだろうな、怖いなって思いながら一人で考え込んで家に帰らず一人であの公園にいた。
雲行きが怪しくて、そろそろ帰らなきゃと思っていても、ブランコに座った体は動かなかった。
帰りたくない、怒られたくない。そう思っていると、雨が降り出した。ぽつぽつと、聴こえてきた雨音は次第に大きくなり、大降りになってきた。私は慌てて、滑り台の下に隠れて雨宿りをする。と言っても筒抜けであるため、髪も服もカバンもびしょ濡れだった。辺り一帯が白い霧がかかり、風も吹いてきた。次第に体が寒さで震えてくる。このまま帰れなかったらどうしよう。最悪な想像が浮かんで、心細くなる。こんなことになるなら、お母さんに素直に謝ればよかったなんて思って、じわりと目元に涙が浮かんだ。――そんな時だった。
靄の向こうから、バシャバシャと水たまりをはじく音が聞こえる。誰か来てくれたのかな。
――いや待って、本当に人?
山が近いから、もしかしたら山から下りてきた動物かもしれない。この間、大きなさつま芋みたいなイノシシが猛スピードで突進して学校のフェンスに激突したって先生が言っていた。
ありえないことがすぐそこに、そんな考えがパッと浮かぶのはきっと怖いから。しかし、水たまりをはじく音が次第に大きくなるにつれ視界ははっきりしてきた。そしてはっきりと見えた青い傘を持った律君に、私は目を丸くして驚いた。
『ゆなちゃん! よかった、ここにいた……』
『ただし君……? どうして……』
『綾子おばさんから電話があったんだ。ゆなちゃんが家に帰ってきていない、そっちにいるかって。その時はもう雨が降っていたから、ウチで雨宿りしていると思ったらしくて。おばさんとうちの家族総出で探していたんだ。……急に降り出して、霧まで出てきたら流石に動けないよね……』
律君はそう言って、私を傘の中に入れると、濡れた髪を優しく撫でてくれた。
『遅くなってごめん。一人で心細かったね。よく頑張った。もう大丈夫だよ』
そう言って微笑んだ彼を見て、私の涙腺はもう崩壊してしまった。彼に飛びつき、わんわんと泣いた。大きな音を立てて降る雨が、子供みたいなわめき声をかき消してくれる。お母さんがびしょ濡れになって駆け付けるまで、律君は優しく背中をさすってくれた。
―――そんなこともあったな。
今はもう、雨は怖くないし、折りたたみ傘を常備している。泣いたところで律君もお母さんもすぐ駆け寄ってきてくれるわけではない。
一人でも怖くない。社会に出れば常に一人だ。
この公園で一人空を眺めていても、誰かが隣に来るわけではないのだ。
「…………懐かしい」
目を閉じれば、小学生の律君の笑顔がはっきりと思い浮かぶ。考えてみれば、私にとって彼は白馬に乗った王子様のような遠い存在ではなく、本当に兄のような存在で――。
多分、好きだった。
「――――ゆな」
名前を呼ばれ、振り返る。そこには乱れた息をしながらこっちに近づいて来るリツがいた。
「よかったぁ……」
「……捜しに来たの?」
「まぁ……せっかく作った夕飯、食べて欲しかったし。連絡手段ないから、そこら辺走り回ったんだぜ?」
部屋にいるときの、いつもの黒ジャージ姿。黒い羽根、尻尾。いつものリツだった。
「これから一気に天気が悪くなるらしい。人間の天気を予言する力はすごいよな」
「……そう、だね」
駄目だ。今、リツの顔が見られない。脳裏に浮かぶ病室の律君が、本当にリツなのか。確信もないのに不安になる。
視線を地面に落としていると、いつの間にかリツは私の前に立っていた。そして両手で私の頬を挟み、顔を上げさせた。曇り空が広がって冷たい風が吹き始めると、時間が止まった気がした。
「何かあった?」
「…………別に」
「そんな顔して……家出してきた不良かよ。また変な奴に捕まるぞ?」
「……じゃあ」
――また、リツが助けてくれればいいじゃん。
小さく呟いた言葉。挟まれた頬が熱い。私が言ったことが聞こえたのか、リツの耳が若干赤く染まる。そして頬から手を離すと、少し照れながら私に言う。
「お、俺が毎回助けられるわけないだろ。この間は人間の姿だったからすぐ助けられたけど、今の姿じゃ普通の人間は視ることができないんだから。バカか、お前は!」
「ま、またバカって! 私そんなに単細胞じゃ……」
「でもお前がピンチの時は!」
急に声を荒げたかと思えば、リツはしっかりと私の目を見て、満面の笑みを浮かべた。
「俺がちゃんと駆けつけて、助けてやるから。それまで待ってろ」
空に浮かぶ白い月。黒い羽根を広げた彼のシルエットにとても映えて見える。私が彼の言葉に笑って頷くと、彼も楽しそうに笑ってくれた。
ああ、神様。もし彼が病室で眠っている人間でも、本当に悪魔でも。
――私は、この人が好きです。