専門学校に入学して一年が経った。
 私――笹平結菜は放課後のアルバイトを終えると、真っ直ぐアパートへ向かう。電車に乗っていると、スマホにとある人からメッセージが送られてきた。

『今日はオムライス。帰ってくる時に牛乳買ってきて』

 久しぶりにふわふわでトロトロのオムレツが食べられると思うと、電車の中でお腹が鳴りそう。最寄り駅を降りて、近くのコンビニで牛乳を手に取る。近くに置いてあったプリンアラモードが買ってと訴えてくるが、軽く無視をした。一年前の私だったら、きっと迷わず手に取っただろう。牛乳だけ買ってアパートへ向かう。階段を上がっていくと、ケチャップの良い香りが漂ってきた。鞄から鍵を取り出してドアを開ける。

「ただいま!」
「お帰り、ゆな」

 ドアを開けると、チキンライスを作りながら声をかけてくれる律君の姿があった。

 ――半年前、律君は数ヵ月振りに目を覚ました。事故に遭ったことは微かに覚えていたけど、ずっと眠っていたことに驚いていた。小学生以来連絡を取っていなかった私がなぜここにいるのか、それさえも不思議で最初は質問攻めだった。
 私は専門学校に進学したこと、彩子さんのお店でアルバイトをしていることを伝えると、律君は嬉しそうに笑ってくれた。
「俺も大学では一人暮らししていたんだよ。自炊もしてたし、退院したら一緒になんか作ろうぜ」
「何作るの?」
「んー……ホットケーキとか?」
 少しはにかみながら言う律君と、半年前に私の前に現れた悪魔の笑顔と重なった。
「な、なんでホットケーキ?」
「……なんとなく?」
 律君は意味深な笑みを浮かべて言うけど、本当になんとなく口にしたようだった。

 やはり、私が出会った悪魔とは関係がなかったのかもしれない。最後に悪魔が残したあの言葉が今でも引っ掛かっているけれど、私の記憶としてそのままに残しておくべきだと思う。彼はもういないのだから、答え合わせなんてできやしないのだ。

 律君は目覚めてからすぐリハビリを始め、三ヶ月程で退院した。休学していた大学も少しずつ通い始め、暫くは実家で彩子さん達と暮らしていたけど、今年から一人暮らししていたアパートに戻った。「迷惑かけたものあるけど、二人の邪魔をしたくない」んだって。名字も「西川」の姓を名乗るようになり、新しいお父さんとの仲は良好で、休みの日はドライブに出掛けたりするらしく、彩子さんの方が妬いているみたい。

「でもまさか、律君の住んでいたアパートに引っ越していたとは思わなかったなぁ」

 入院中にした、「退院したら料理を一緒に作る」という約束は継続的に行っていて、今では自分の家に行き来する程だ。お互いの合鍵を持っているのも考えると、まるで恋人のようなやり取りだが、付き合ってはいない。どちらかに恋人ができたら終わるだろうけど、私にはそういった人はどこかに消えてしまった。律君はきっと、大学や会社で素敵な人と出会うんだろうな。

「なんかでっかい独り言が聞こえたけど、なんかあった?」
「う、ううん! なんでもない!」

 テーブルの上を拭いていると、律君が出来立てのオムライスを持ってやって来た。半熟の卵のとろとろ感とケチャップ甘酸っぱい香りが、早く食べてと訴えてくる。

「お待たせ。今スプーンとか持ってくる。飲み物は麦茶でいいか?」
「あ、私やる! 律君は座って!」
「わかった。麦茶、冷蔵庫から出してコンロ横にあるから」
「はーい」

 私はそう言って、台拭きを持ってキッチンに向かう。
 コップを二つ用意して、麦茶を注いでいると、コンロの近くにボロボロのノートが置いてあることに気づいた。
 麦茶を置いて、ノートを手に取る。パラパラと捲ると、乱雑な字で様々なレシピが書かれていた。律君のレシピノートだ。私はノートと、麦茶とスプーンを持って律君のもとへ戻った。

「律君、忘れていたよ」
「あ、悪い。ありがとう」
「ううん。沢山書いてあるね」
「……まあ、な。早く食べようぜ」

 少し恥ずかしそうに目を逸らして、スプーンを手に取る。私も席について、両手を合わせてからオムライスにスプーンを入れた。チキンライスの甘酸っぱい香りととろとろの卵は、以前食べたあのオムライスに似ていた。

「……ねえ、どうしてレシピノートをつけているの?」

 一人暮らしで自炊するのは不思議なことじゃない。それでも作ったもののレシピをいちいち書き込んで記録していく人は、料理人や主婦を除いて珍しいんじゃないかと思った。
 私の問いに、律君は手を止めて、横に置いたレシピノートに触れた。

「眠っている間にさ、夢を見たんだ。俺が作ったのを嬉しそうに食べてくれる人が目の前にいるっていう、すごく平凡な夢。正直自炊って面倒だからやりたくなかったんだけど、妙に嬉しくてさ。目が覚めてから暇な時に思ったことを紙に書き込んでいったんだ。そしたら、自然にホットケーキだのオムライスだの出てきた。……それから、書くことが日課になってきたんだ」

 「作ったものを嬉しそうに食べてくれる人」――それを聞いて、胸の奥がずん、と重くなった。
 彼が事故に遭う前にそんな人が現れていたのかもしれない。それとも、これから起きる予知夢だったのかもしれない。曖昧な人間像に、きっと私は当てはまらない。

「……ところでさ、まだ腹減ってる?」
「へ?」
「今日はわざと、チキンライスの量を減らしているのもあるんだけど、足りなさすぎた?」

 いつの間にか食べ終わっていた私の皿を見てニヤリと笑う。確かに今日は量が少ないなーとは思っていたけど、こんなに早く食べ終わるとは思ってもいなかった。

「だ、大丈夫だよ!? って、それじゃ私がいつも大食いみたいな……」
「そっか、じゃあカロリー高いけど食べられる?」

 律君は立ち上がり、冷蔵庫から白い箱を取り出して私の空になった皿と交換した。

「……これはなに?」
「開けてみろよ」

 ニヤニヤと笑う彼を横目に、恐る恐る箱を開ける。
 そこにはちょこん、と手のひらサイズのチョコレートがたっぷりかかったケーキが入っていた。

「美味しそう! 買ってきたの?」
「バカ、作ったんだよ。記憶にはあったけどレシピは知らなかったから、手こずったけど……」

 「記憶にはあった」、という言葉を聞いて私はふと、彼のことを思い出した。
 初めて出掛けて、お目当てのケーキを二人で一緒に食べたあの記憶。

「チョコレートにバターに卵たっぷりで結構キツイ、悪魔のような魅惑のケーキ。だから夕飯を減らしておいたんだ。このケーキの名前は――」
「――デビルズフードケーキ」

 ケーキの名前を口にした途端、涙が溢れた。
 たった数時間の思い出でも、私の大切な思い出が目の前にある。半年前の出来事は夢じゃなかった。

「……信じてもらえないかもしれないけど、事故に遭って意識が朦朧としていたとき、真っ先にお前の顔が浮かんだ」

 私の涙をぬぐいながら、彼は話を続けた。

「そしたら悪魔がさ、嗤いながら俺に言ったんだ。『半年で会いたいやつを虜にしてきたら会わせてやる』って。俺はすぐ頷いて、ゆなの前に現れた。お前と一緒に料理を作って、出掛けて。そのときの思い出のケーキが、目を覚ましてから暫くして思い出したんだ」

 律君が何をいっているのかわからない。それでも確実に言えるのは、――『彼』は消えてなんていなかった。

「――リツ?」

 私が訪ねると、彼は変わらない笑みを浮かべて言う。

「ただいま」

 家に帰ると必ず聞こえた「おかえり」の声。彼が消えて半年、忘れなくちゃと急いでいた私はきっと、心のどこかでずっと彼を待っていたんだと思う。
 でも彼は消えてなんていなかった。ずっと傍にいてくれた。

 ――おかえりなさい。

 今度は私が迎える番。
 そしてここからきっと、半年前よりももっと楽しいことが起きる気がする。甘くてほろ苦くて濃厚な、悪魔が作ったケーキに惑わされながら、これからも貴方と一緒に笑えますように。


「デビルズケーキの誘惑」完結