「心春―、早くいくぞ」
「ちょっと待ってて」
アラサーになっても、相変わらず朋君はせっかちだ。
ふうとため息をつきながら、使い勝手の良さそうな手帳を探す。デザインより機能性を重視しているから、本屋で売られているようなお堅い手帳が好きだ。
目当てのものを見つけてレジに持って行ったとき、店頭に並んでいる本の表紙が目にとまった。
「死んだ僕の愛する人へ……?」
そのタイトルは、頭で転がしてみても意味が分からなかったけれど、口に出すともっとわけがわからなかった。
死んだのは『僕』なのか、『僕の愛する人』なのか。句読点をつけてほしい。作者は誰だろうか。
本を手に取って表紙をじっと見てみると、作者名に見覚えがあった。見覚え、というよりは、聞き覚えだった。
「たなか、たきと……」
目次を見ると、タイトルがいくつも並んでいる。どうやら短編集らしい。
こころのはる、ぱおぱおくんの宝箱、夜の鷹に乗って……。
「あ!!!」
思わず本屋で叫んで、人々からの視線を集める。そそくさとお会計へ向かい、手帳と本を購入する。そして慌てて朋君の元へ駆け寄る。こころが上気しているのがわかる。
「いい手帳見つかった?」
「それよりこれ、見てよ!」
先ほど購入した本を掲げる。
「死んだ僕の愛する人へ……? 田中瀧人? なに? 本屋大賞でもとったやつ?」
「この人覚えてる? おじさんだよ、おじさん。10年前くらいに知り合った……私の初恋の人!」
「……あー、そいつか。忘れるわけねーよ。そんな名前だったんだな。まだ本出してたんだ。もう40歳くらいか?」
「本格的におじさんの年齢だよね。今思えば20代後半から30代前半って、まだまだ若いよ。おじさん、内心複雑だったろうね。おじさんおじさん言われて」
「言えてる」
朋君が笑った。もはや私たちにとって、笑い話に出来ることだった。そういうことを乗り越えて、私たちはもうすぐ結婚する。朋君からもらった左手の薬指のダイヤモンドは、なによりも輝いていた。
改めてタイトルをこころの中で読む。『死んだ僕の愛する人へ』。句読点を付けるならきっと、『死んだ、僕の愛する人へ』だろう。亡き奥さんに向けた短編集に違いない。
今はいったいどこでなにをしているのだろうか。家についてコーヒーを飲みながら、スマホで検索してみる。
田中瀧人、と打つと、たくさんのニュース記事がでてきた。
『田中瀧人の遺作、ついに発売!』
『27歳の若さで亡くなった鬼才、田中瀧人。最期の作品が発売中』
『田中瀧人の遺作、早くも賛否両論か!?』
「……え?」
記事にはどれも、田中瀧人は昨年心不全で亡くなったと書かれている。享年27歳で、自宅の書斎で倒れていたのを担当編集者が見つけたそうだ。そのとき執筆中だったのが、表題作でもある『死んだ僕の愛する人へ』なのだと。
収録されている話はどれも、田中瀧人らしからぬほのぼのとした作風で、ハッピーエンドで終わっているらしい。
ただ、表題作は原文のままを掲載しているそうで、意味不明な内容らしい。それはファンの間で考察が飛び交っているのだそうだ。
薬をやっていた、妄想と現実の区別がついていない、見た夢の内容をそのまま文章にしているなど、酷い言われようだった。
「……どういうこと? 去年亡くなったのに、享年27歳?」
私とおじさんが出会ったのは10年前だ。わたしが17歳のときだから、10歳程度離れてるのなら、そのときおじさんは27歳くらいだったはずだろう。今生きていたとしても、最低でも37歳だ。
それが、去年27歳? 私と同い年じゃないか。
「大丈夫? コーヒー苦かった? 追い砂糖する?」
「あ、う、ううん。コーヒー美味しい。大丈夫……」
朋君に返事をしながらも、意識はネットの中に溺れていて、手がひとりでにガタガタと震える。
コーヒーをこぼしそうになって、そっとテーブルに置いた。赤褐色の液体は、あの日の噴水の色を思い出させる。
「で? あのおっさんの本面白い?」
「……あ、まだ、読んでないんだ……」
「面白かったら内容教えてな」
「う、うん……」
おじさんの本を手に取る。この本を読めば、なにかわかるかもしれない。