翌日の放課後、私は廃ホテルへ向かう。
昨日一晩考えても揺るがなかった気持ちを伝えるために。
「やあ」
おじさんはすでに噴水に腰掛けていた。手には、ノートとハンカチを持っていた。
「こんにちは」
「あ、忘れないうちに。はい、これ」
私が彼の横に座ると、ハンカチを差し出された。可愛らしいレースがあしらわれている、見るからに高価そうなハンカチだった。
「これ、時田君から。よくわからないけど、ハンカチのお礼だって。 昨日ここで、ずっと君のことを待ってたんだよ」
「えっ……。昨日は朋君と話をしてたから、ここに来れなかったんです。悪いことしちゃったな……」
「そうそう。昨日あまりにも待ってるもんだから、『今日は用事があるって言ってたから、明日には来るよ』って教えたら、『おじさん渡しといてください』って言って逃げたよ。時田君、気が弱そうな子だね」
おじさんはけらけら笑って、ハンカチをずいっと差し出す。もったいなくて使えなさそうなくらいきれいなハンカチで、お節介を焼いてしまったことを後悔しながら受け取った。
「で? 朋君との話はうまくいった?」
いよいよ聞かれてしまった。手に持つハンカチに、力がこもる。
「……はい。好きだって。付き合ってほしいって、言われました」
「……そっか」
さっきまで笑顔だったおじさんの顔が引き締められて、それからすぐにふにゃっと緩められた。
「高校生っていいねー、青春だね! 彼氏できてよかったね」
「断りました」
「え?」
「朋君のこと、好きだけどそういうのじゃないってわかったから、断りました」
「えええええええ!?」
おじさんはなぜか自分のことのようにショックを受け、頭を抱えた。今日は左の髪の毛がぴょこんと跳ねていた。
「なんでさ!」
「だって私、おじさんが好きだもん」
「ふぁあ!?」
おじさんが間抜けな声をあげる。ふぁあって、言葉にすると可愛いのに、おじさんが言うとちっとも可愛くなくて、少し笑える。
「一晩考えけど、私はおじさんが好き。だけどおじさんには大切な人がいるから、付き合いたいとは思わないよ。ただ、好きって伝えたかっただけ。だって、明日会える保証はないから。言わないと後悔するから。……でしょ?」
ちらりとおじさんのほうを見ると、おじさんの顔はトマトみたいに真っ赤になっていた。
本気で照れているのか、目がきょろきょろ泳いだあと、はあと息を吐いて両手で自分の顔を覆った。相当うろたえているらしい。
「高校生まぶしいよー、直視できないよー」
「ちょっと、真面目に言ったんだから茶化さないでくれます?」
「ごめん、茶化してないよ。いやね、照れるよ。嬉しい、ありがとう。……好きだなんて、すっごく……ハッピーな単語だよね……」
顔を隠したままのおじさんは、どんな表情をしているかわからない。だけど、声は震えていた。とてもハッピーな様子には見えない。
「本当にね、すごくうれしいんだ……。ごめんね、本当にごめんね」
「いいんです。私がおじさんに出会うのが遅かったのが悪いんだし。……って、出会うのが早くても、おじさんが高校生のころ私まだ小学生か。どっちにしろだめじゃん」
「……ごめんね。心春ちゃんはなんにも悪くないんだよ」
おじさんはしばらく黙った。顔を覆ったままだから、もしかしたら泣いているのかもしれない。
私はおじさんの、穏やかに笑う顔、真剣な顔、悲しそうな微笑み、それだけしか知らない。もっと知りたかった。私が、もっといろんな表情をさせたかった。
おじさんが顔をあげて、空を見上げる。放置されている木々が高く伸びていて、群青色の空は遠くて狭い。
「僕の奥さんはね、もう死んじゃったんだ」
おじさんはその辺にあった薔薇の花から、花びらを一枚むしった。赤色のそれは、彼の奥さんに対する愛を表しているようだった。
私は何も言えなくて、唇をきつく結ぶ。鈍い痛みと共に、血の味が口に広がる。その赤は、薔薇の花の美しさには勝てない。
「もっと好きだって言えばよかったとか、もっと抱きしめればよかったとか、後悔は尽きないけれど……」
「……はい」
「一番は、僕のせいで死なせてしまったこと」
「……え?」
おじさんは、薔薇の花びらを噴水に溜まっている水に浮かべた。
枯葉や虫の死骸が浮かんだり沈殿したりしている濁った赤褐色の水に、赤はまぶしいくらいに映えていた。
「僕が自分の作風を維持できなくなったころね、僕の熱心なファンがたいそう心配してたんだ。病的なほどファンレターを送ってきたり、自宅を特定して差し入れを持ってきたり。ある日、僕と妻が一緒にいるところを見られてしまってね、『結婚したせいですか』と言って、しばらく音沙汰がなくなった」
「……」
「そこから地獄だよ。やっぱり、フィクションは現実には勝てない。ある日家に帰ると鍵が開いていて、そのファンの子が僕の妻を殺していた。『小説がつまらなくなったのはお前のせいだ』、『処刑してやる』。『よくも私の神さまを壊したな』。……僕が小説に書き殴っていた言葉より、酷いことを言っていたよ、ずっと。もう妻は息をしていないのに、ずっと……」
「……」
「僕のせいで妻が殺された。彼女と僕は、昼と夜のように性質が違っていたんだ。住む世界が違いすぎて、交わってはいけないものだったのかもしれない。後悔しかないよ……。どうして夢を見たりしたんだろう。どうしてあの子が欲しいと思ってしまったんだろう」
「……」
「僕はずっと、ひとりで仄暗い小説を書いているべきだったんだ……」
おじさんは、声にならない声を絞り出していた。話すのも辛いであろうことを、どうして私に聞かせてくれるのかわからなかった。
私はおじさんの奥さんのように、彼のこころに響く言葉をかけてやれないし、抱きしめてやることもできない。隣で話を聞くことしかできない。
もどかしくて、どうにかなりそうだった。
「……おじさんは、やさしいから」
「……?」
それでも、なにか言いたくて、でも飾ったことなんて言えなくて、自分の意思に任せて口を開く。
「もともと、やさしい話を書く人だったんだよ。だけど、家の環境とか、お母さんとか、いろんなことでそれができなくて、自分の中にある苦しみを小説に吐き出していただけなんだよ。毒を吐き出しきって、奥さんに愛をいっぱいもらったから、悲しい話が書けなくなったんだよ」
「……」
「そのファンの人がおかしいだけだよ。おじさんと自分を重ねていて、安心していただけ。おじさんが幸せになったのが、許せなかったんだよ。一緒に地獄に落ちてほしかっただけ。おじさんは悪くないよ」
「……あはは」
「なに? 変なこと言いました?」
「ううん。変なことなんて、言ってないよ。ありがとう」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔をしたおじさんが、ぐしゃぐしゃに笑った。その顔がおかしくて、不謹慎ながらわたしも自然と笑顔になる。
「……だからさ、おじさんはネタ切れって言ってたけど、もうふっきれて明るくて楽しくてハッピーな話を書けばいいと思うんですよ」
「すごいね」
「え?」
おじさんは、手に持っていたノートを開いた。
そこには、お手本のようにきれいな字で、大きく『こころのはる』と書かれていた。その下には、蟻のように小さな文字がびっしりと並んでいる。
「実はね、書き始めたんだ。心春ちゃんに出会って、君も読めるような楽しい話を書いてみたいって思ったんだ。ハッピーな話は書きなれていないから、短編だけど、いくつか。この他にも、『ぱおぱおくんの宝箱』とか、『夜の鷹に乗って』とか……」
「こころのはるって……」
照れくさそうに笑うおじさんを遮って、一番目についたタイトルを指さす。彼はうんとやさしい微笑みでうなずいた。
「もしも僕の本がでたら、読んでくれる?」
「……! うん! 楽しみにしてる! 絶対買います!」
「よかった。いつになるかわからないけれど、待っててね」
それから、おじさんはゆっくりと立ち上がった。もう辺りは薄暗くなっている。早く帰らないとおばけが出る時間になる。
「もう、行かなきゃ。早く小説の続きを書かないとね」
きっと、もうお別れなんだろう。なぜだか、そんな予感がした。
私がおじさんに告白したからかもしれないし、彼が自分らしい小説を書こうという気になったからかもしれない。
理由はわからないけれど、もう二度とおじさんに会えない気がした。
「心春ちゃんも、早く帰りなさいよ。そしてもうこんなとこに来たらだめだよ」
「……どうして?」
おじさんの横顔に、半分影がかかる。オレンジ色と黒色、縦にきれいに分かれている。
「ここだけ、時間が止まっているみたいだろう? 古くて、それでも植物は生きていて、建物は死んでいて、水は腐っていて、僕らは生きてる。……こんなところにずっといたら、せっかくの青春がもったいない」
「……」
青春、なんて、おじさんはおじさんらしいことを言う。私は青春ど真ん中にいるけれど、それは台風の目みたいなもので、実際に見えるわけじゃない。
だけどたしかに、ここにずっといると、みんなに置いてけぼりにされそうな気持ちにもなる。
授業も部活も進路も、私はまだまだ考えることがいっぱいある。おじさんが小説を書くと決めたように、私もこれから決断しなければいけないことがたくさん待っている。
きっと、ここにいると時が止まっているように感じていたから、居心地が良かったんだ。現実逃避ができたから、今のことから逃げることができたから。
――もう高2の秋だぜ、早いよなあ。
――時間をむだにしたくないし。
朋君の声が、頭に響いた。
「うん。そうですね。もうここには来ません」
「……うん。それがいい。……じゃあ、幸せになってね。……またね」
「……またね」
大人はずるいなあ。どうしてこういうとき、笑ってまたねって言うんだろう。
おじさんの野暮ったいうしろ姿を目に焼き尽きておきたいのに、涙のせいでぐにゃぐにゃに歪んでしまう。
むしろいい気味なのかもしれない。おじさんの体が短足のおでぶちゃんみたいになってる。やーいやーい。
「……ううう」
時田君がくれたハンカチを、顔に押し当てる。ずるずる鼻水が出てくるけれど、さすがにそれを拭う勇気はなくて、ポケットからティッシュを出してちーんとかむ。
しばらくこの場で泣いていたいけれど、もしかしたら時田君が来てしまうかもしれない。こんな私を見たら驚くだろうから、さっさと帰ろう。
歩きながらスマホを取り出して、お気に入りのおもしろGIFのサイトを巡る。あほな動画ばかりだ。あほな動画を観ていると、なにもかもがどうでもよくなってきて、愉快な気持ちになる。
「ふふふふふ」と笑いながらふらふら帰る。通行人に変な目で見られるが、泣き顔をみられるよりはましだった。今は変な動画を観ることでこころの均衡を保つしかなかった。
こころの中を悲しみが100%占めるのなら、それを薄めないといけない。
「おい」
ごちん、と肩に衝撃を食らう。見慣れた治安の悪い顔が、ずずいと私の顔を覗いた。
「お前こえーぞ。何ひとりで笑いながら帰ってんだよ」
「……朋君」
「とりあえずラーメン屋でも行こうぜ。激辛のとこな」
「はあ!?」
朋君はジャージを着ていた。そこら辺を走り込みしていたのだろう、ちょっと汗臭い。
遠慮なく私の腕をつかんで、近所で有名な激辛ラーメン店への道のりをずんずん歩いていく。
「なに、なんで!? 私お金ないし、それに……」
「うるせー。……お前辛いことがあるとすーぐ笑おうとするよな。どーせまたおもしろGIFとか見てんだろ」
「!」
「何年幼なじみやってると思ってんだ馬鹿。ほら、ラーメン行くぞ。金は俺に借金でもすればいい。絶対返せよ」
「はあ~~?」
「……汗かきまくってればもう涙も出ねえよ」
「……」
昨日振った朋君と、今日振られた私が、一緒に激辛ラーメン屋。それはなんだかとても間抜けで、
「青春だね、なんか」
「は?」
あの人の言葉をなぞりたくなった。
「心春―、早くいくぞ」
「ちょっと待ってて」
アラサーになっても、相変わらず朋君はせっかちだ。
ふうとため息をつきながら、使い勝手の良さそうな手帳を探す。デザインより機能性を重視しているから、本屋で売られているようなお堅い手帳が好きだ。
目当てのものを見つけてレジに持って行ったとき、店頭に並んでいる本の表紙が目にとまった。
「死んだ僕の愛する人へ……?」
そのタイトルは、頭で転がしてみても意味が分からなかったけれど、口に出すともっとわけがわからなかった。
死んだのは『僕』なのか、『僕の愛する人』なのか。句読点をつけてほしい。作者は誰だろうか。
本を手に取って表紙をじっと見てみると、作者名に見覚えがあった。見覚え、というよりは、聞き覚えだった。
「たなか、たきと……」
目次を見ると、タイトルがいくつも並んでいる。どうやら短編集らしい。
こころのはる、ぱおぱおくんの宝箱、夜の鷹に乗って……。
「あ!!!」
思わず本屋で叫んで、人々からの視線を集める。そそくさとお会計へ向かい、手帳と本を購入する。そして慌てて朋君の元へ駆け寄る。こころが上気しているのがわかる。
「いい手帳見つかった?」
「それよりこれ、見てよ!」
先ほど購入した本を掲げる。
「死んだ僕の愛する人へ……? 田中瀧人? なに? 本屋大賞でもとったやつ?」
「この人覚えてる? おじさんだよ、おじさん。10年前くらいに知り合った……私の初恋の人!」
「……あー、そいつか。忘れるわけねーよ。そんな名前だったんだな。まだ本出してたんだ。もう40歳くらいか?」
「本格的におじさんの年齢だよね。今思えば20代後半から30代前半って、まだまだ若いよ。おじさん、内心複雑だったろうね。おじさんおじさん言われて」
「言えてる」
朋君が笑った。もはや私たちにとって、笑い話に出来ることだった。そういうことを乗り越えて、私たちはもうすぐ結婚する。朋君からもらった左手の薬指のダイヤモンドは、なによりも輝いていた。
改めてタイトルをこころの中で読む。『死んだ僕の愛する人へ』。句読点を付けるならきっと、『死んだ、僕の愛する人へ』だろう。亡き奥さんに向けた短編集に違いない。
今はいったいどこでなにをしているのだろうか。家についてコーヒーを飲みながら、スマホで検索してみる。
田中瀧人、と打つと、たくさんのニュース記事がでてきた。
『田中瀧人の遺作、ついに発売!』
『27歳の若さで亡くなった鬼才、田中瀧人。最期の作品が発売中』
『田中瀧人の遺作、早くも賛否両論か!?』
「……え?」
記事にはどれも、田中瀧人は昨年心不全で亡くなったと書かれている。享年27歳で、自宅の書斎で倒れていたのを担当編集者が見つけたそうだ。そのとき執筆中だったのが、表題作でもある『死んだ僕の愛する人へ』なのだと。
収録されている話はどれも、田中瀧人らしからぬほのぼのとした作風で、ハッピーエンドで終わっているらしい。
ただ、表題作は原文のままを掲載しているそうで、意味不明な内容らしい。それはファンの間で考察が飛び交っているのだそうだ。
薬をやっていた、妄想と現実の区別がついていない、見た夢の内容をそのまま文章にしているなど、酷い言われようだった。
「……どういうこと? 去年亡くなったのに、享年27歳?」
私とおじさんが出会ったのは10年前だ。わたしが17歳のときだから、10歳程度離れてるのなら、そのときおじさんは27歳くらいだったはずだろう。今生きていたとしても、最低でも37歳だ。
それが、去年27歳? 私と同い年じゃないか。
「大丈夫? コーヒー苦かった? 追い砂糖する?」
「あ、う、ううん。コーヒー美味しい。大丈夫……」
朋君に返事をしながらも、意識はネットの中に溺れていて、手がひとりでにガタガタと震える。
コーヒーをこぼしそうになって、そっとテーブルに置いた。赤褐色の液体は、あの日の噴水の色を思い出させる。
「で? あのおっさんの本面白い?」
「……あ、まだ、読んでないんだ……」
「面白かったら内容教えてな」
「う、うん……」
おじさんの本を手に取る。この本を読めば、なにかわかるかもしれない。
あっという間に、表題作以外の短編を読み終わった。
さすが小説家といった具合に、文章は読みやすくて内容がすらすらと頭に入っていった。
ネットの記事に書いていた通り、どれもハッピーエンドだった。ネタ切れで悩んでいたのを思わせないような、いままで悲惨な話しか書いていないなんて信じられないほどに、ハッピーでわくわくが詰まった話だった。
とくに、『こころのはる』は、とてもよかった。人のこころを可視化できる女の子が主人公の話だった。主人公の描写がたまに私と重なるところがあって、おじさんとの日々が懐かしくなった。
残念だったのは、手がかりのようなものはなにもなかったこと。
「うーん」
残されたのは、死の間際に書いた『死んだ僕の愛する人へ』という話。
おじさんの真実を知りたいような知りたくないような複雑な気持ちで、躊躇しながらもゆっくりとページをめくった。
死んだ僕の愛する人へ。
まずこれは、僕の独り言だ。ただ僕が、何者でもない僕がつぶやく、独り言だ。これを見つけたのなら、君に届く前に破り捨ててほしい。
僕は暗い子供だった。太陽のような兄の影で、おばけのようにひっそり生きてきた。誰も僕を気にもとめなかった。僕も、それでよかった。
唯一好きだったのは国語の授業だった。自分のこころに眠る感情に名前があると知ったときは、興奮した。夜通し辞書を読みながら当てはめていって、自分を構成するそのひとつひとつの語彙を愛でた。
それをいつしか別の言葉で飾りつけて、ひとつの空想上の世界へ吐き出すようになっていた。
母親は下品な娼婦にして、存在感のない父親は間抜けな詐欺師にして、僕をいじめる同級生はカタルシスを演出するためわざとむごく殺す。そうやって、僕は僕のこころを落ち着けていた。
それはやがて、10冊ほどの本が出せる分量になっていた。僕は自分で書いた小説のようななにかを、塾に行くふりをしてホテルの廃墟で眺めているのが好きだった。
そんなある日、君に出会った。僕の落とした生徒手帳を拾ってくれた。それから、毎日のようにあの廃墟で出会った。会ったけれどそこに会話はない。彼女が帰る頃、僕が行く。まるで昼と夜のような関係だった。交わることはないけれど、お互いの存在を認識している、そんな関係だった。
そんな関係は、君がハンカチを貸してくれたことで終わった。僕が塾をさぼっていたことが母親に知られ、食器を投げつけられたときにできた傷を、君は目ざとく見つけた。誰も知らない僕の名前を、呼んでくれた。僕も知らなかった血を、ハンカチで拭ってくれた。
汚れたハンカチを君に返すわけにはいかず、百貨店で店員に言われるまま新しいハンカチを買った。はじめての体験で胃の内容物をひっくり返すほどに緊張した。店員という生き物は、思ったよりも怖くないものだと知った。
翌日それを渡すと、君はとても喜んでくれた。生きててよかった、初めてそう思った。
それから昼と夜の関係はおわり、僕は早くから君をホテルの廃墟で待った。昼の世界に僕が混じったのだ。大きな光の中で小さな闇というのはかき消されてしまうらしい。僕にも笑顔ができるのだと、筋肉痛になった表情筋を撫でながら驚愕した。おかしな話だ。君との時間はいつもあっという間だった。
僕が小動物を殺していると噂がたったときも、君だけは疑わなかった。だから僕は君に自分をさらけ出すことができた。
僕が初めて君に小説を見せたとき、君は素直に言った。「こんなのこわくて読めない」と。正直がっかりした。だけど続けて言った。「でも、こわくても引き込まれる。ねえ、これをコンテストに出してみない?」と。
僕はそのコンテストで1番の賞をとった。そして小説家になった。
話はとんとん拍子に進んで、作品はどんどん売れた。書き溜めていたものを編集者に言われるがまま校正して出版すれば、すべてヒットした。君も一緒になってよろこんでくれたけど、結局僕の本はいつも「やっぱりこわくて読めない」と途中でやめていた。
そのころには僕らは付き合っていた。君から告白してきたんだ。夢みたいだった。僕も君が好きだったけれど、勇気がなかった。告白する勇気じゃない。君を幸せにする勇気だった。君にはすでに仲の良い男友達がいたし、僕のそばにいたら君まで陰気になるんじゃないかと不安だった。
だけど君はまっすぐで、そんな君を見れば大丈夫な気がした。君と一緒なら。
それからは、本当に幸せだった。幸せすぎて、夢じゃないのかと腕をつねるばかりだった。痛みが喜びになるなんて初めて知った。
小説のほうはさっぱりだった。あの毒を持っていたころの僕を真似て話を書いてみても、ナイフの柄しかないみたいに、切れ味のない話ばかりだった。
ファンも減り、才能の枯渇だとか、ゴーストライターが死んだとか、散々な言われようだった。担当編集者からも見放されかけていた。
そんなときでも、君は僕の味方だった。「あなたはやさしいんだから、やさしい話を書いてみたら?」、「絵本はどうかな? いつかこの子に読み聞かせてあげたい」。膨らんだお腹をおさえた君が、本当に愛おしかった。
きっと君は、僕の本質を知ってくれていた。僕の書いた話はこころの掃き溜めだったと理解し、僕がこころから楽しんで書ける話を望んでいた。
僕についていた過激なファンも、僕の方向転換を見て離れていってくれるだろうと期待していた。電話番号を変えて、引っ越しをして、心機一転頑張ろうとふたりで決意した。
すべては僕の不注意のせいだった。その日はたまたま仕事の打ち合わせが長引いて、雪のせいで電車が遅れ、やっとの思いで家に帰ったら、君はもう、動かなくなっていた。僕のファンに、殺されていた。
死の現場をこれまで話に書いて来たものの、本物を目にすると自分はあまりに無力だった。泣き叫ぶことしかできなかった。
それから僕は、生と死の境目に存在していた。髪やひげは伸びっぱなしで、服はそのへんのものを着て、ただひたすらに、過去へ戻る方法を探していた。
数年かけて有力な情報を得た。莫大な金額を払えばタイムマシンを借りることができるらしい。僕は藁にもすがる思いで全財産を投げうった。
タイムマシンは一度限りで、使えば自分の体に負荷がかかり下手すれば死んでしまうかもしれないこと、過去を変えると自分が帰るところは元いた世界とは異なっていることなど、注意事項を聞いた。とにかく戻れるなら、なんでもよかった。
戻りたい日を設定するとき、君との幸せな時間を求めたけれどそれはやめた。一度しか使えないタイムマシンだから、自分の願いとは何か熟考した。
君が僕と添い遂げないためにも、僕らが高校生だった時代に行くことにした。
タイムマシンだから、あの時代に僕はふたり存在していた。27歳の僕と、17歳の僕だ。
ホテルの廃墟で君と出会ったとき、驚いた。記憶の中よりも鮮明に、あの頃の君が生きたまま目の前にいたのだから。
僕は不審者のふりでもして、君をここに来させないようにするつもりだったが、魔が差した。君に話しかけてしまったのだ。
僕がもたもたしていたせいで、君は17歳の僕に会ってしまった。
君は僕が干渉したこの世界でさえ僕の名前を認知して、僕にハンカチを貸してくれたんだね。
僕は17歳の僕にも出会った。人と接することが苦手な、殻に閉じこもっていた僕だ。この子はこれから君を愛し、明るくなっていくはずだったけれど、それはもう叶わぬことになる。
僕は僕に伝えた。未来から来たこと、君は小説家になれるから執筆活動を続けること、自分でお金が稼げるようになったら親なんてそう重要じゃないということ、今気になっている女の子にはすでにすてきな相手がいるから諦めたほうがいいということ。
僕は少し絶望して、それからまた燃えていた。それでいいと思った。僕はもう這いあがれないような暗い底で、ひとりで、毒にしかならない小説を書き続けていればいいんだから。君の命が助かるのなら、それでいい。
君は27歳の僕に好きだと言ってくれた。君が愛おしくて、君を無意味に傷つけたことが口惜しかったけれど、もう未来は変わったのだと確信した。
君にとって僕は通過点のおじさんとして生を終える。君の世界の僕はただの無愛想な通りすがりの高校生。それでいい。
僕は目標を達成したため、元いた世界に戻った。そこは以前とは違いすぎていた。
僕は教祖のように崇められていた。17歳だった僕は、伴侶もなくただ孤独のまま筆を握り、鬼才と呼ばれるまでのぼりつめていた。スランプに悩んでいた僕とは大違いだった。
そんな僕は、僕がこの世界に帰ってきたことで消滅してしまった。正真正銘おばけになってしまった。
君はなにをしているのだろう。あの幼馴染とはどうなったのだろうか。
僕には確かめる術はあるけれど、その勇気がなかった。隣にいるのが僕ではないことが悔しくて、幸せにできなかったことが無念で、君が僕のことを通過点としてしか見ていないことがさみしくて、それでも君が今もこの世界に生きていることがただひとつの幸福だった。
もう腕が動かない。体が重い。情けないね。
きっと、タイムマシンなんてものを使ったから、体に負荷がかかっているんだろうね。
この手紙は、誰に向けて書いているんだろう。君に見てほしいという浅ましい想いもあるけれど、重すぎるこの感情を知った君がどうなるのか考えると、破いて捨てたほうがよいのかもしれない。
だけど僕は、これを死の間際まで大切にしておきたいと願う。君と僕の唯一の接点だろうから。君と僕があの日たしかに一緒にいて、一緒に笑って、一緒に悲しい気持ちになった、その記録だから。
死んだ僕の、愛する人へ。
この意味が、この世界で変わっているのなら、こんなに幸せなことはない。
時田奏太より
苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて、言葉で表せられない気持ちが押し寄せてきて、どうして私は国語が得意じゃなかったんだろうと後悔する。
陸地に打ち上げられた魚みたいに、体中が痛くて熱くて呼吸ができなかった。
朋君に伝えられるはずもなくて、それでもひとりで抱えるには重すぎて、ただただ彼の形見となってしまったレースのハンカチに、涙を吸い込ませる毎日だった。
もしも田中瀧人さんが今も生きていたならば、私の結末をどう書いてくれたのだろうか。
きっと今の彼なら、私はこの手紙を知らずに幸福な生涯を送ったのだと、ハッピーエンドにしてくれるのかもしれない。
でも、彼はもうどこにもいない。これは現実で、私が結末を作らなければいけない。
仕事帰り、10年ぶりに廃ホテルの庭園に訪れた。
草木が伸びて以前より廃れてしまったけれど、相変わらず時が止まったかのように静かで美しかった。
「……時田君、別の世界では私たち、結婚してたんだね」
彼がいつも座っていた噴水の縁に、涙でごわごわになってしまった『死んだ僕の愛する人へ』の本を置く。
「……私は、せいいっぱい生きるよ。大切に、生きるよ。あなたが守ってくれた分」
本当はこんなきれいごと、言いたくなかった。だけどおじさんは、私とお別れのときに、「幸せになってね」と言った。
幸せになるには、時が止まったこの場所に、この想いを隠しておくしかなかった。
まだまだ、吹っ切れるには時間がかかりそうだったから。
「だから、またね」
いつかこのことに、本当に向き合えるようになったら。いつかこの感情の名前がわかったのなら。
そのとき、私はこの本を迎えにいく。
「あ、もしもし、朋君? ……あのね」
悲しいことがあっても、泣きそうになっても、もうおもしろGIFには頼らない。
「これから、激辛ラーメン食べにいこう」
電話口の朋君の笑い声がくすぐったくて、自然と笑顔がこぼれた。