時計の針はプロム開始の時間に刻々と迫っていった。
 参加するものは心躍らせてドキドキしているというのに、支度するギリギリまで自分の部屋のベッドの上で寝転がり、ベアトリスだけは時計を見つめてため息を一つこぼしていた。
「ベアトリス、そろそろ支度しないと間に合わないわよ。早く私の部屋にいらっしゃい」
 いつまでも準備をしようとしないベアトリスをせかすようにアメリアが呼びに来た。
 ベアトリスは立ち上がり、アメリアの部屋へ向かった。
 パトリックがその様子を見ながら廊下でニヤニヤしているとアメリアは忠告する。
「いい、準備が完全にできるまで、覗きはだめよ」
「はいはい。その時を楽しみにしてますよ」
 アメリアはベアトリスを自分の部屋に入れ、気合を入れるような眼差しを向けニコッとした。自分以上にテンションが高くなってるのを見ると、ベアトリスはアメリアが自分の代わりにプロムに行けばいいのにと思ってしまった。
 アメリアの手伝い方は、プロのスタイリストかと思う程、爪の手入れ、髪のスタイリング、そしてメイクと全てをこなす。
 ベアトリスはベッドに腰掛け、されるがままになっていたが、無表情で感情が抜け落ちていた。
 時々部屋の隅にある壷に目をやっては、自分の知ってはいけない真実に悩まされ心を締め付けられた。
「どうしたの? 全然楽しくないみたい。何かあったの? もしかして…… ヴィンセントのこと?」
 アメリアは手元を止めて、心配そうにベアトリスを見つめた。
「ううん、ヴィンセントのことはもうどうでもいいの。もう忘れた。今はパトリックのこと真剣に考えてるわ」
 ベアトリスは目を少し伏し目にして寂しげに語る。アメリアにはそれが無理をしていることくらいすぐに判った。
 だが、助言も確認も何もできない。重苦しい空気を吸いながらアメリアは苦しいながらもそれでいいと肯定するしかできなかった。
「そう、ベアトリスがそう決めたのなら、私も何も言えないわ」
「アメリアは一度学校に来たことがあったね。私の友達を知っておきたいとかいって、私が、ジェニファーとヴィンセントを紹介したんだよね。今だから言うけど、アメリアはあの時ヴィンセントにあまりいい印象を持ってないように見えたんだ」
「そうだったかな。親代わりとしては異性の友達はやっぱり警戒してしまうところがあったのかもしれない」
「アメリアはいつも私に対して何かを心配していた。だけどパトリックがやってきたとき、あんなに警戒していたのに、あっさりと彼のこと気に入っちゃったんだね。それだけパトリックが信用できるって思ったんでしょ」
「そうね、彼の両親とは面識があったし、パトリックも全く知らない子ではなかったわ。それに暫く一緒にいたから彼のことよく見えたっていうのもあるわ」
「そっか、だから結婚を認めたってことなのか」
 アメリアは言葉を失い、手元が完全に静止した。
「私、偶然書類を見ちゃったんだ。最初はショックと怒りで裏切られた気持ちになったけど、今はそれでもいいかって思ってるんだ。私みたいな何もできない人 間にはもったないくらいのいい話だよね。しかもパトリックは私のこと好きでいてくれてとても大切にしてくれる。こんないい条件ほんとないよね」
「ベアトリス……」
「私がここを出たらアメリアも楽になるよね。だから私、パトリックと……」
 ベアトリスが言いかけたことを我慢できず、畳み掛けるようにアメリアは言葉を発した。
「私は、親代わりとして書類を作ってしまった。あれは私にもしものことがあったとき、パトリックが適任だと思ったからなの。あなたの意見を無視してこんな ことが許されるなんて本当は思ってないわ。でも私はこれからのことを思うと、これももう一つの方法かもしれないってそう思ったらあの書類を……」
 アメリア自身、矛盾を充分承知した苦しい言い訳だった。
「もう、いいの。アメリアを責めるために言ったんじゃないの。私も気がついたの。ヴィンセントとはすれ違ってばかりで、私が思うほど彼はなんとも思ってな いんじゃないかって。そう思うのは辛かったけど、これ以上苦しむのも嫌だった。だから距離を置くことにしたの。そしてもう一つ、きっかけになったことがあ る。それは私が背負ってるものがあるって気がついたこと」
 アメリアの顔が真っ青になった。
「アメリアもパトリックも何かを隠してるんでしょ。私が知ったら困ること。私が問い詰めたらパトリックはいつか話してくれるって言ったけど、彼のあまりにも真剣な態度でそれを知るのは私には耐えられそうもないって直感で感じたの」
 アメリアはただ驚いていた。ベアトリスがここまで知って、自分に話してくるのが恐怖でならない。逃げ道がないと追い詰められていくようだった。次第に目も赤くなり、涙が溢れ出しそうになってきた。
「アメリアのそんな表情を見てたらやっぱり隠し事があるんだってまた確信しちゃった。よほど私が知っちゃいけないことなんだね。だったら私も知りたくない。このままでいたい」
「ベアトリス、本当にごめん。ごめんなさい」
 アメリアはとうとう泣きだしてしまった。そしてベアトリスを抱きしめた。
「以前なら知りたいって無理にでも聞き出そうとしたかもしれない。だけど私、これ以上何かを抱え込むともう耐えられないんだ。ずっとずっと体に鉛を抱えて いるような気分なの。だからもう私も聞かないし、私が放棄したんだからアメリアも隠してるからとか罪悪感なんてもたないでね。あっ、こんなことしてたら遅れちゃう。早く準備しなくっちゃ。アメリアも泣いてないで最後まで手伝って」
 アメリアはぎゅっと唇を噛んで落ち着こうとしていた。ベアトリスはそれすら目をそらし、もう何も考えないことにした。
 ベアトリスの思考回路は遮断されたように、都合が悪いことだけは排除された。そしてどんどん心から感情が消えていく。無理に笑うことすらできなくなっていくよ うだった。
 楽しいはずのプロムのドレスアップだが、アメリアはただ必死でベアトリスを着飾っていた。
 ベアトリスはどこを見ているのかわからない焦点をぼかした瞳で黙って従っていた。
 そこにはワクワクするような気分など見当たらない。ベアトリスもアメリアも言葉を交わせず沈黙が暫く続いた。
 準備が整ったとき、アメリアはベアトリスをウォークインクローゼットの中の鏡の前に連れて行く。
「ほら、とてもきれいよ」
「ほんと、私じゃないみたい。ありがとう。アメリア」
 光沢のある薄っすらとした優しげなピンク色のドレス。肩は露出され、胸のふくらみが強調される。下は沢山のレイヤーがあるふわっとしたフレアタイプのドレス。アクセントに大きなリボンが左前についていた。
「ベアトリス、今日は思う存分楽しんでらっしゃい」
「うん。判ってる」
 ベアトリスは安心させようと一生懸命に笑おうとするが、それは却ってアメリアを苦しめた。我慢できずに、ベアトリスを強く抱きしめてしまった。
「アメリア、大丈夫だから。もう忘れよう。私がそれでいいって言ってるんだから、アメリアは何も気にすることはないんだって」
 ベアトリスはもう一度鏡の中の自分を見つめる。ドレスアップした姿は別人だった。
 虚ろな目でみる自分の姿は、表面はきれいに飾り立てても、中身は空っぽで空疎に見えた。
 しかし自分が選んだことに、もうとやかくいうこともなかった。
 全ては流されるままに、そして自分という自我を閉じ込めた。
 居間では黒のタキシードに着替えたパトリックがそわそわしながら待っていた。
 部屋のドアが開く音がすると、ぱっと目を大きく見開きその瞬間を楽しみにドキドキしだした。そして後ろを向いて大人しく立ち自分の襟元を正して、にやけていた。
「パトリック、お待たせ」
 ベアトリスが声を掛けると、ゆっくりとパトリックは振り返る。その瞬間、声を失い、ベアトリスに目が釘付けになり動かなくなった。
「パトリック? どうしたの? もしかして気に入らなかった?」
「違うよ。その反対。あまりにも美しいから、僕、その、心臓止まった気分」
「ありがとう。パトリックもとても素敵」
 パトリックはピンクのバラの花をあしらったコサージュをベアトリスの左腕に飾り付ける。ベアトリスも赤いバラのブートニアをパトリックの襟元につけた。
 アメリアが二人の姿を写真に収めていた。
「二人とも本当に素敵よ」
「それでは、責任を持ってベアトリスを今夜預からせて頂きます」
 パトリックは真面目な顔つきで、アメリアに訴える。最後まで紳士的でいると誓っているようだった。
 二人は車に乗り込み会場へと向かった。

 プロムがある日は、着飾ったカップル達が団体でレストランや誰かの家に集まってパーティが始まる前に先に食事を済ませたり、本番の前のウォーミングアップで友達と軽く騒ぎあう。至る所で華やかなドレスやタキシードに身を包んだ高校生達を見かけることも多い。
 リチャードも外で仕事中、着飾った高校生達を見かけていた。
 自分の息子もプロムに参加してるんだと軽く同僚と話しているときだった。
 事件の連絡が入り、緊張感が走った。現場に出かければダウンタウンの近くの川に死体が上がっていた。損傷が激しかったが、リチャードはダークライトの残り香を一瞬で感じ取った。
 鋭い目つきで、目の前の遺体を隅々まで見渡す。遺体は鑑識に回さないと身元がわからないが、半信半疑になりながらも、急ぎ足で心当たりのある場所へとやってきた。
 そこはザックのアンティークショップだった。店は閉店と書かれたサインが窓際に飾られている。中は荒らされた様子もない。
 近辺の聞き込み捜査を開始すると、ザックの店はここ数週間閉まったままだと知らされた。
「ザックは年も取りダークライトでも全く力をなさないタイプだ。まさか何かコールと関連性でもあるというのか」
 リチャードは更にマーサの店へと足を運んだ。
 リチャードは自分の勘を頼りに確認を急いだ。

「ベアトリス、会場に着いたよ。なんだか僕も緊張するよ」
 パトリックがホテルの駐車場に車を停める。辺りは同じように駐車し、車から出てきた着飾ったカップルが駐車場の暗いコンクリートの建物の中で花を咲かせたように目立っていた。
 パトリックが先に車を降り、助手席に回るとベアトリスの車のドアを開け、手を差し伸べた。ベアトリスは彼の手を取り、覚悟を決めたように、力を入れて立ち上がった。
 二人が会場に向かって歩いていると、後ろから声を掛けられた。
「よぉ、ベアトリス! へぇ、なかなか、いかしてるじゃないか。いつものお前じゃないな。最後の…… いや最高の日にふさわしい艶姿だぜ」
 ポールの皮を被ったコールだった。隣でアンバーが露骨に気を悪くしていた。早く行こうと催促するが、コールはベアトリスの側から離れたくないと、一緒に行動をしようとした。
 これにはアンバーだけでなくパトリックも驚く。ベアトリスの手を握り、急ぎ足になった。それでもコールはぴったりとついてきた。
 そしてホテルの会場の入り口に来たときだった。ベアトリスが目を見開いて突然立ち止まった。
 目の前にはアイボリー色のタキシードを来たヴィンセントがクリムゾンのカクテルドレスを纏ったサラと一緒に会場に入ろうとしている。
 ベアトリスは見なかったことにしたかったのに、パトリックが積極的にベアトリスをそこへ連れて行く。ヴィンセントがいることで賭けを思い出させようとしていた。
「パトリック、ちょっと待って。もうちょっとしてから会場に入ろう。今はその……」
 ベアトリスの言葉など耳に入ってないように、パトリックはサラに声をかけた。
「やあ、サラだったよね。君も来てたんだ」
 その言葉でサラとヴィンセントは振り返る。サラはパトリックの姿に惚れ惚れするような表情でにこやかになり、ヴィンセントを放っておいて、パトリックの側に寄って話しかけた。
 ヴィンセントは少し離れてベアトリスの姿に暫し見とれていた。だがベアトリスはヴィンセントから目を逸らした。
 後ろでコールが待機していた。アンバーは何が起こってるのかわからずそれぞれの様子を唖然とみていた。
 ヴィンセントがベアトリスに近づくと、パトリックは顔をしかめた。
──なぜヴィンセントがベアトリスに近づけるんだ。
 パトリックは辺りを見回すと、アンバーの存在に気がついた。アンバーが嫌な顔をしているのを見て、ベアトリスのシールドに影響を与えていると思い込んで しまい、本当の原因がサラだとはこのときまだ気がつかなかった。
「ベアトリス、とても美しいよ。あの時の白いドレスもよかったけど今日のドレスもかわいいね」
 ヴィンセントが優しく微笑んで語った。
「あの時の白いドレス?」
 ベアトリスは、はっとした。彼のアイボリーのタキシードには見覚えがあった。そして自分がその時白いウエディングドレスを着ていたのを思い出す。
──どういうこと。あの時の夢のことヴィンセントが知ってるなんて考えられない。でもなぜ……
 ベアトリスが混乱しているとき、パトリックが意地悪い笑みを浮かべヴィンセントに向けた。
「サラ、紹介してくれないか、君のプロムデートを」
「ああ、この人はヴィンセントといって、ベアトリスのクラスメートよ。今回私がプロムに参加したくて無理に相手として私がお願いしたの。だって行きたい人と行けないから誰ともいかないとか言ってたのよ。勿体無いじゃない。だから、渋々って感じで無理に参加させちゃった」
 それを聞いてベアトリスは驚いてヴィンセントを見つめた。ヴィンセントはその通りだと頷いていた。
 パトリックは嫌な方向に流れる懸念を感じて、ベアトリスを自分の側に引っ張った。彼女は自分のものだとアピールしているつもりだった。
 ヴィンセントはパトリックといつものように暫く睨みあってる間に、サラはベアトリスに近づき女同士を強調してさっさと会場に足を向けた。
 大人しく先についてきたのはコールだった。慌てて、アンバーが駆け寄ると、ヴィンセントとパトリックもこんなことはしていられないと後を追いかけた。
 会場の入り口に一歩踏み入れると、そこは舞踏会のように華やかに飾られ、着飾った人々でごった返しになっていた。
 前にはステージも設けられ、催しの準備が整っているのか飾りや小道具が置かれ何かが用意されてそうだった。これからまさに大イベントが始まる雰囲気がどこを見ても伝わってくる。
 大きなホールの中では6人掛けの丸テーブルが幾つも並べられ、それぞれ席についていた。アンバーがジェニファーを見つけ側に行こうとしてもコールは無視をしてベアトリスと一緒のテーブルについた。
「ちょっとポール、なんでこの人たちと一緒に座るのよ」
「仕方ねぇだろ、ジェニファーの隣にはブラッドリーがいるんだから。アイツ俺のこと恐れてるし、離れてやった方がいいんだよ」
 アンバーはそうだったと諦めて、がっくり感が拭えなかった。諦めて大人しくコールの右隣に腰掛けようとさらに自分の右隣のパトリックに軽く会釈をして席に着いた。
 コールの目の前にはベアトリスがいる。隣のアンバーよりもベアトリスばかり見ていた。アンバーは益々不機嫌になり、ベアトリスを見ては露に不快感を見せ付けて睨んでいた。
 アンバーの負の感情のためにヴィンセントがベアトリスの側に来てもシールドが効かないと、側に座るアンバーにパトリックは苛立っていた。
 サラはベアトリスに負の感情を持ってることをパトリックに悟られないことでアンバーに感謝したい気持ちだった。この計画がうまく行きそうとニヤリと笑っては目の前のパトリックをチラリと見つめた。
 ヴィンセントは左隣に座るサラを飛び越えてベアトリスに熱い視線を送り続ける。この日何が起こるかもう後には引けないと最初から飛ばしてい た。
 またそれを見たパトリックはヴィンセントの態度に心かき乱された。そして疑念が沸々とわいてくる。
 ──あいつ、何か企んでいるに違いない。サラも無理に頼んだとはいえ、自分のプロムデートが他の相手に気を取られて、どうしてあんなに平気で僕を見て笑っ てられるんだ。さっきはヴィンセントがプロムに参加した姿をベアトリスに見せることに気を取られて深く考えなかったが、よく考えたら、ディムライトがダー クライト と一緒に行動すること自体変だ。まさかサラも一枚噛んでるのか。
 ヴィンセントの右隣にはコールが座っている。コールはパトリックとヴィンセントがベアトリスの取り合いに必死になってる様子に気がつき、最後に笑うのは 自分だと、二人を嘲け笑っていた。
 ベアトリスはこのテーブルのメンバーに落ち着かず、ただ下を向いていた。そしてヴィンセントが言った言葉に惑わされていた。
 ──自分しか知らない夢なのに、ヴィンセントは知ってるような口ぶりだった。でも、あの時ヴィンセントが口にした言葉……  まさかそんなことありえない
 閉じ込めていた思いがヴィンセントを目の前にしてまたくすぶり始める。
 そして、プロムの開始。
 会場が一気に盛り上がる中、このテーブルだけはベアトリスを見つめるそれぞれの目が怪しく光る。各々の計画のために──。