ベアトリスが向かった場所。そこはかつてヴィンセントと過ごした物置部屋だった。
ここの他に行く場所がなかった。想い出の中に救いを求める。
そっとドアを開け、一度全体を見回してから部屋に足を踏み入れる。
中は全く何も変わっていない。あのとき焦げ付いた血の痕も床にそのまま残っていた。
ベアトリスはヴィンセントに抱かれて寝ていたことを思い出し、同じ場所に壁にもたれて腰掛けた。
あの時の感情を思い出し、暫し現実逃避を試みるが、それが却って辛い気持ちを呼び起こさせた。
ベアトリスの胸は切なさでキリキリとする。そしてその苦しみが体中にいきわたると、最後に視界がぼやけ、頬に水滴が滴り落ちた。
──どうしてこうなっちゃったんだろう。思いを貫くなんてできなかった。自分を変えることもできなかった。何も変えることができずに結局は逃げてる。私は 何をやってもダメなんだ。こんな私が真実を全て知りたいなんて言えた義理じゃない。
ベアトリスはすっかり自信を失くし、また殻に閉じこもってしまった。
立ち向かおうと自分の気持ちに正直になろうとしても、無駄だと判断してしまった。絶望感は簡単に入り込み、心は閉ざされ、再び固い殻に覆われていく。
──こんな私でもパトリックはどうしてあんなに思ってくれるのだろう。この先もっといい人が現れる可能性もあるのに、こんなに早くから結婚したいなんて、 パトリックにはなんのメリットもないのに。こんなダメな私だからほっとけないんだろうか。決められた人生なんて嫌だといったけど、一人で何も出来ない私が 言えるような台詞じゃなかった。人から決めてもらわなければ自ら何も出来ないくせに…… パトリックに謝らなくっちゃ。真実もどうだってよくなってき ちゃった。知ったところできっと今以上に私は押しつぶされそう。もう疲れた、疲れちゃった、このまま消えてなくなってもいいくらい……
朝早く起きすぎたためにベアトリスは睡魔という魔のつく魔物に弱気にさせられ、襲われるままに寝てしまった。
クラスが始まる数分前、コールはベアトリスの机を見ていた。近くにいたアンバーに声をかける。
「お前、ベアトリス見なかったか?」
「また事故にでもあって休んでるんじゃないの」
アンバーは気分を害して、いやみったらしくつっけんどんに答えた。
「おかしい。朝、廊下で会ったのに、なんでクラスに来ないんだ。どこで何をしてるんだ」
コールは首を傾げていた。
ヴィンセントはその会話を耳にして、何かに巻き込まれていないか心配になり、探しに教室を出て行った。
何も巻き込まれてないとしたら、ベアトリスが行きそうなところに心当たりがあった。そしてそこはヴィンセントにとっても特別な場所である。
ヴィンセントがベアトリスを見つけるのに時間はかからなかった。だが容易に近づけない。胸を押さえながら、そっとドアを開け覗く。ベアトリスが壁にもたれて寝ているのを見つけると、苦しさの中でも、安堵の表情になった。
ヴィンセントはどうしても側に近づきたくて、ベアトリスが寝ていることをいいことに姿を変えて忍び寄る。
目は赤く染まり体は黒く光っている。口をあければ尖がったキバをむき、野獣の姿にも見え、または絵でよく表現されるような悪魔の姿にも見える。しかし恐ろしい風貌でもヴィンセントの美しい顔はそこにも反映されていた。
ヴィンセントは恐ろしい姿をさらけ出してまでベアトリスの隣に座った。
多少のリスクはあるが、もしベアトリスが気がついても機敏な動きでそこから姿を消すことは容易いことだった。
野獣の姿では人間の姿をしているときの全ての能力を遥かに超越する。
野獣は恐ろしい姿でも絹のように滑らかな繊細な心でベアトリスを気遣う。
赤くきつい目をしていても、瞳はベルベットのような光沢を帯び優しさに溢れている。
こういうときでもないと二人っきりになれないと、ベアトリスがこのまま少しでも長く寝てくれることをヴィンセントは願っていた。側にいるだけでもささや かな幸福のときだった。
ベアトリスは隣に野獣がいるとも知らず、無防備に眠りこける。寝ているときだけは全てを忘れ安らかだった。
朝日が窓から斜光し、その光は二人を繋ぎとめてやりたいかのようにスポットライトを当てる。
ベアトリスの首がうなだれ、ヴィンセントの肩に寄りかかる。ヴィンセントはそれが嬉しいかのように自分の頭もベアトリスに傾けた。
ベアトリスの側で聞く彼女のかすかな寝息に癒され、ヴィンセントは目を閉じる。
体が触れ合ったことで、意識を共有するには絶好のチャンスだった。ヴィンセントはベアトリスの意識にまた入り込んでいく。
意識の中までは野獣の姿にならなくても、ヴィンセントのそのままの姿でいられた。
ベアトリスは夢を見ていた。白いウエディングドレスに身を包み、真紅のバラのブーケを持って赤い絨毯をの上を歩いている。その先には誰かの後姿が見えた。そこへ近づいたとき、その顔を見てベアトリスは驚いた。
「ヴィンセント」
ヴィンセントはにっこりと微笑み、ベアトリスを優しく見つめている。アイボリー色のタキシード姿が眩しい。
「君と結婚できるなんて夢の中でも嬉しいよ」
「えっ、夢? 夢なの?」
「ベアトリス、夢の中では信じてもらえないかもしれないけど聞いて欲しい。僕は君を愛してるんだ…… ずっとこの言葉を伝えたかった」
ヴィンセントは真剣な面持ちで瞳を輝かせていた。そしてベアトリスの手を取り優しく微笑む。
ベアトリスは驚いて声もでなかった。沈黙のまま暫くお互いを見つめていた。
ヴィンセントが話したいことも話せずに夢の中の時間はいたずらに過ぎていく。そうしてるうちに徐々に辺りが明るくベアトリスに光が当たりだした。
「残念だけどそろそろ君は目覚めそうだ。願わくは、もう少しこうしていたかった」
ヴィンセントは夢の中でも一つの希望に賭けた。心のどこかに自分のことを考えて貰えるように。そして笑顔で消えていく。
「ヴィンセント、待って、私も私も、あなたのことが……」
ベアトリスは最後を言い切れずに目が覚めて徒爾に終わった。床に転がっている自分に気がつくと、本当に夢だったと現実に引き戻され虚脱感に襲われた。
──とてもリアルだった。忘れようと思っていたときに皮肉すぎる。
ベアトリスは、所詮、夢は夢として、現実ではないことをあっさりと受け止めると、体を起こしまた暫くそこで座り込んでいた。その姿は魂がぬけてしまった抜け殻のようでもあり、自分の意思をもたずにただ体が存在している状態だった。
──夢を見たからといって何も変わるわけはない。
ヴィンセントが想いを伝えても夢の中では全く届かず、益々空虚なものとなった。皮肉にもベアトリスはその想いを閉じ込める選択をする。想いだけじゃなく自分自身をも否定した。
ベアトリスの瞳から輝きが失われていた。何も関わりたくないと自ら全てを放棄した虚しさが現れる。自分に臆病になり、自分を否定することで全てのことを妄想で終わらせようとする。それが一番楽な対処方法だった。
ベアトリスはこの時点でもう壊れていた。これ以上の問題を持ち込まれたら再起不能な状態まで追い込まれるくらい、心の中は苦しさで飽和状態になっていた。
──ポールが言っていた目を瞑っているだけで全ての悩みから解放されるってどういうことなんだろう。それは私を本当に解放してくれるものなんだろうか。
本当の意味も知らずに、ベアトリスは楽な道ばかりを模索する。そしてゆっくり立ち上がり、部屋を出る前にもう一度物置小屋を見渡すと、それが最後とでも いうように「さようなら」と呟いた。
静かにドアを閉め、クラスへと向かった。
全ての授業が終わった後、ベアトリスはそれすら気がつかないほど、ただ座わり続けていた。
「おい、ベアトリス、大丈夫か? 今日一日おかしかったぞ。お前、鬱が入ってるんじゃないのか。あんまり思いつめて自殺なんてするなよ。それは困るぜ」
コールが話しかける。
「えっ、自殺?」
「もうすぐプロムだろ。せめてそれくらいは楽しめよ。俺がそう言ってるんだから、従っておけ」
コールは人生最後を楽しくしておけという意味で言っていた。そんなことも判らずベアトリスは心配してくれてると勘違いした。
「ありがと……」
コールはまた上機嫌で去っていった。
ヴィンセントは一部始終を見ていた。あの物置部屋から戻ってきた後、ベアトリスの様子がおかしいことにヴィンセントも気になっていた。
声を掛けてやりたいが、近づけずヤキモキする。
そんな時、一部の女子生徒たちが騒ぎ出した。
「あの人誰だろう。見かけないね」
「でもちょっとかっこいいじゃない」
彼女達の会話が突然ヴィンセントの耳に入ってくる。ヴィンセントが振り返ると教室の入り口にパトリックが立っていた。
──なんであいつがここにいるんだ。
ヴィンセントが睨みつけた。
パトリックはヴィンセントに構うこともなく、教室に入ってベアトリスの机の前までやってきた。
他の生徒達もその様子を見ていた。何人かの女生徒たちはベアトリスの知り合いだと知って仰天していた。
ベアトリスもパトリックの存在に気がついて目を丸くする。
「パトリックどうしてここに」
「ベアトリス、僕やっぱり放っておけない。嫌われるのを覚悟で迎えに来た」
「私も、朝、生意気なこと言ってごめんね。パトリックはいつだって私のこと第一に考えてくれてるのに、それなのに私、勝手にバカなこと考えて八つ当たっちゃった。私間違っていた。本当にごめん。迎えに来てくれて嬉しい」
ベアトリスはパトリックを受け入れた。
ヴィンセントのことを考えないようにするにはそれが一番の策であり、自分のことを求めてくれるのならそれに甘えるのが楽だと気がついた。
自分を見失い、全てにおいて流され始めた。
パトリックはベアトリスの心境の変化にキョトンと突っ立ったまま目をぱちくりした。ベアトリスは穏やかに立ち上がり、バックパックを肩に掛ける。
「パトリック、帰ろうか」
そう言うと、ベアトリスは自分を引っ張って欲しいとパトリックの手を握った。パトリックは信じられないと驚いた眼差しをベアトリスに向けると、ベアトリ スは頷いて微笑み返した。
パトリックもそれに答えるように、ベアトリスの手を握り返す。しっかりと手を繋ぎベアトリスを引っ張って導いた。
「僕を頼ってくれて嬉しいよ」
パトリックに引っ張られてベアトリスはこれでいいんだと自分に言い聞かせていた。
周りから見れば二人は恋人同士に見えた。ヴィンセントですらそう感じてしまい、耐えられなくなりプイッと横向いてさっさと教室を出て行った。
ヴィンセントは悲しみと悔しさが入り乱れ、発狂しそうだった。
感情は辛うじてコントロールされているが、本当のところはまた何かに八つ当たりしたいと葛藤していた。
「くそっ!」
絶望感で意識が遠のきそうだった。意識を失わないためにも、誰も居ない校舎の裏で、拳で壁を何度も殴る。拳から赤い血がポタポタと地面に落ちていた。
ベアトリスはパトリックと手を繋ぎながら帰り道をぼうっと歩く。
前をしっかり見てなくとも、パトリックに引っ張られることでぶつかることもなく安全に歩くことができた。
パトリックについていけば何も心配することはない。それがとても楽に思えた。だが表情は魂のない人形のようで感情に欠けていた。
「今朝、話したことだけど」
パトリックは敢えてそのことに触れるが、それ以上聞きたくないとベアトリスは遮った。
「もうどうでもいい。私どうかしてたんだ。私には自分で勝手に思い込んで妄想する癖があるみたい」
パトリックはベアトリスの変わりように、却って心配になった。心が閉ざされ生気がなく弱々しく感じる。
「なんかベアトリスらしくないな。だけど僕も少し反省してるんだ。君に不安を持ちかけてしまったんじゃないかって」
「ううん、そんなことない。お陰で自分がどうすべきか答えを見い出せた気がする。私にはパトリックが必要なんだって思えたから」
「えっ? 僕が必要……」
「うん。甘えちゃだめかな」
「そんなこといいに決まってるじゃないか」
パトリックは舞い上がり嬉しさで顔がにやける。ベアトリスが本当に抱えている気持ちに気づくことなく、目の前の幸福で頭が一杯になっていた。そしてヴィ ンセントに勝ったと優越感に浸る。
パトリックが喜んでいる側で、ベアトリスは手を引かれて必死に後をついていく。もう周りすら見ていない。
街路樹がきれいな花を咲かしていても、人懐っこい犬とすれ違っても、鳥のかわいい囀りが聞こえようとも、感心をなくしていた。
パトリックの手を強く握り、依存という逃げ道をベアトリスは選んだ。
その一方で、ベアトリスがパトリックの手を握った光景にショック受け、ヴィンセントは家に帰っても何もする気がおきず、ベッドの上でやるせない気持ちを抱いてうつぶせに寝ていた。
日が暮れても電気もつけなかったので、リチャードが帰宅したとき異変が起こったと勘違いされる始末だった。
リチャードは警戒しながら家の中へ入り、辺りを調べ、ヴィンセントの部屋を確認したときだった、ベッドの上で手に血がついたヴィンセントが寝転がっているのを見ると顔を青ざめた。
「ヴィンセント、大丈夫か」
「ん? なんだ親父か。ただ寝てただけだよ。何慌ててんだよ」
「その手の傷はどうした?」
「心配ねーよ。ちょっとぶつけただけだから」
「またコールが襲撃してきたかと思った。あれから奴の動きが止まってるだけに、いつ襲ってきても不思議はない。そっちは何か変わった動きはないか。奴ならお前もターゲットにしているはずだ。ベアトリスの存在は気づかれてないだろうな」
「ああ、目立った動きはない。ベアトリスの存在がばれれば奴はすぐに襲ってくるはずだ」
「奴の行動を決め付けるのはよくない。私もそれで危ない目にあった。奴は何を企んでいるかわからない。目を光らせておいてくれ。もうすぐプロムもある。大勢集まるところで影でも仕込まれたものが紛れ込んだら大変だ」
「ああ、そうだな」
ヴィンセントは投げやりに答えた。
「どうした。なんかあったのか」
「なんでもねーよ」
「お前、浮き沈み激しいな。どうせ原因はわかってるけどな」
リチャードは仕方がないと同情する表情を見せ部屋を出た。
ヴィンセントはまたそれが気に食わないと、枕を投げつけた。虚しくドアに当たっただけだった。
その頃ベアトリスはパトリックと食事の用意をしていた。パトリックが全てを教えてくれる。その通りに動き、パトリックのすることをじっと見ていた。
「ベアトリス、それ砂糖だよ。塩はこっち」
「あっ、ごめん。私はパトリックが居ないと何もできそうもないね」
「ああ、それでいいんだ。僕は頼られるのが好きだから、僕についてくればいいんだ」
パトリックはえへんと咳払いをわざとして、胸をはって背筋を伸ばす。
ベアトリスはそれに合わせようと笑顔を作るが弱々しかった。
「それにしてもアメリア遅いな。仕事が急に入ったのかな」
パトリックは腕時計を見ながら呟いた。
「パトリックがいるから、安心して仕事ができるんだよ。今までだったら、私のことが心配で定時間に終わらせようと無理してたのかもしれない。私って本当に重荷だったんだろうな。一人で何もできないんだもん」
「どうしたんだ。自信喪失みたいなこといって。ベアトリスは昔、何事にも向かって一人でなんでも解決してたんだよ。怖いもの知らずなところがあった。こっ ちが見ててハラハラしたぐらいだった。好奇心溢れすぎて余計なことに首突っ込んで、ベアトリスの両親も後ろからあたふたと追いかけてたっけ」
「やめて! もう過去のことはいいの。あまり覚えてないし、知りたくもない。パトリックだって過去よりも今が大切だっていったじゃない」
過去の自分の記憶がないだけでも惨めになるときに、昔の自分と現在の情けない自分を比べられるのはベアトリスには耐えられなかった。
その上に恐怖心を植えつけられるほどの真実が何かもわからないまま、それを知ることを放棄してまで自分を守ろうと必死になってしまう。
「ご、ごめん。でしゃばりすぎた」
「ううん、パトリックは何も悪くない。私こそ叫んでごめん」
ベアトリスは全てを受け入れて欲しくて、パトリックに抱きついた。抱きつくことでまた依存しようとしていた。何もかも忘れるために。
パトリックもしっかりと受け止めた。
急激なベアトリスの変化だった。
自分が仄めかした真実にベアトリスが怯えているんだと直感的に感じていた。
「ベアトリス、安心して。僕がずっと側にいるから。僕が全てのことから君を守って見せる。何も心配することはない」
「うん……」
ベアトリスは返事をするも、目はうつろだった。
「それにしても、アメリアは遅いね」
パトリックは話を振って、この時の雰囲気を変えようとしていた。
アメリアはその頃、予期せぬ渋滞に巻き込まれ、迂回をして遠回りをせざるを得なかった。
信号に何度もひっかかり、すぐに帰れずアメリアはイライラしていた。
そんな時、サイドウォークを高校生らしい男の子が、ロングストレートの黒髪の女性に腕を組まれながら後方に向かって歩いているのが目に入る。
女性が年上に見えたので、アンバランスなカップルだと暫く眺めていた。
信号が変わり、アクセルを踏む瞬間、ふとバックミラーを見ると、赤毛のコールのような姿が目に飛び込んだ。はっとして後ろを振り返るが、そこにはコールの姿はなく、さっき見たカップルが歩いているだけだった。
もたもたしてると思われ、後ろからクラクションを鳴らされて、アメリアは慌てて車を走らせた。見間違えたのかと半信半疑ながらコールが身近にいることを再認識させられて寿命が縮まった思いだった。
暫く車を走らせもう少しで帰宅というときだった。不意に見たバックミラーに写ったものに再び突然肝を冷やされた。
「ブラム。脅かさないでよ。それに車の中ではシートベルト締めてよね」
後部座席にベールを被ったブラムが腕を組んでふんぞり返って座っていた。
「麗しのアメリア。君は相変わらずつっけんどんだ。まるでトゲに囲まれたバラのようだよ。美しいが近寄ると痛い目にあう」
「ところで要件は何? いい話? それとも悪い話?」
「理由なしに君に会いに来てはいけないのかい? 折角地上界に降りているんだ、また昔みたいにどこかへ一緒に出かけないか。あの時の君は私に甘えてとてもかわいかった」
「そんな昔のこと。それに私はあなたに裏切られたも同然。あなたは私を捨てた」
「誤解だ。だがそう思われても仕方ないことはしてしまったのは認める。それでも心の底ではまだ私を愛してくれてるだろう」
「そんなことはどうでもいいわ。とにかく今はコールのことが気がかり。何か情報を得たの?」
「安心しなさい。コールはベアトリスのライフクリスタルを手に入れられない。彼は失敗する」
「それに越したことはないけど、なぜそれが判るの?」
「私の勘とでも言っておこうか」
「ちょっと悪ふざけもいい加減にして。どうしていつもそんなにいい加減なの。それにいつも振り回される身にもなってよ」
「私はいつも真剣だよ。昔からずっと。そして今回も。君を愛していることだって嘘偽りはない。専ら君に拒否されて悲しいけどね」
「よく言うわ。私が本当に側にいて欲しかったときあなたは私から去ってしまったじゃない」
「それについてはすまないと思っている。私も辛かった。でもいつか理解して貰える日が来ると思ってる。その日はそんなに遠くないかもしれない」
「さあどうかしら。それに別れたあの人のことまだ引きずってるんでしょ」
「エミリーのことか……」
「過去にあなたが一番愛した人だったわね。あなたはあの人に愛想つかされて…… そして捨てられた。彼女も苦しんでいたわ。そして彼女はもうこの世にはい ない。自殺だった…… あなたと彼女のせいで、その後、私はかき回されてしまった。あなたが中途半端なことするから私も不幸になってしまったわ」
嫌味を込めて意地悪くなりながらも、アメリアは言ってしまったことを悔やむかのように顔を歪ませた。
「全ては私の責任だ。だがすまないが彼女のことは君とは話したくない」
「もうなんとも思ってないわよ。私だっていつまでも過去のことにこだわりたくないの。だからあの時、私はあなたの言うことを聞いた。その見返りにいつまでも私を付きまとうあなたと縁を切りたかったから。でもそれがきっかけでまだ縁が続くなんて皮肉なものね」
「あの時、リチャードが現れそして邪魔されて、ベアトリスのライフクリスタルを奪い損ねたことか」
「そうよ、あなたは私にベアトリスを抹殺しろと命令したも同然だった。ライフクリスタルが彼女の命そのものだなんて知らされずに、ただホワイトライトの資格を奪えとだけしか言われなかった。リチャードがあの時現れなかったら私はベアトリスを知らずに殺していたのよ」
「ダークライトのリチャードがホワイトライトを救った…… 本来なら奪う立場なのに」
ブラムは軽く笑った。
「何がおかしいの。あなたたちが勝手に作ったルールでベアトリスは命を脅かされてるのよ」
「仕方ない。それが我々のルールだから。彼女は気の毒だが運が悪すぎたとしか言えない。彼女は我々の世界では不吉の存在であり締め出され、この世界では、 ダークライトの格好の餌食となり力を奪われれば我々を脅かす懸念となる。抹殺は苦肉の策。ホワイトライト界の秩序を保つには仕方がない。彼女がホワイトラ イトの力を目覚めさせなければ、10歳を過ぎれば自然と力は消滅し、普通の生活が約束されていた。そのギリギリでヴィンセントによって目覚めてしまった。 何もかも奴のせい」
アメリアは反論する言葉を失ってしまった。だが淡々と語るブラムに憤りを感じる。
「だから私達は必死でベアトリスを守りたいの。抹殺なんて絶対にさせない。あなただって、本当はそれを避けたいんでしょ。だからベアトリスのライフクリスタルを自ら奪えずに理由も言わず私に押し付け、卑怯な手を使った」
「卑怯な手か…… まさにその通りだ。私は卑怯ものさ。君の言う通りだ。命令されても私は、自ら、同士の命は奪えない。しかしこれも私の仕事でありどんな 方法をとってもやり遂げねばならなかった。半分ホワイトライトでありながらそのことを良く知らない君の存在はあの時ありがたかったよ。結局は失敗してし まったがね」
「あなたってどこまでも冷血なのね。目的を達成させるためには手段を選ばない」
「そうさ、その通りさ。だが君は、こんな私の助けを求めた。君こそ目的のためには手段を選んでないじゃないか。みんなそうなんだよ。優先順位ってものがある。何かを犠牲にしてまで、何かをやり遂げたい。そういうものじゃないのかい」
「そうね。そうかもしれない。でもあなたはもう私達に加担したのと同じ、上のものにばれればあなたの地位も危うくなるんでしょ。あなたが自らの手で使命を果たせないのなら、私達と一緒にベアトリスを守るしかない。それがあなたの今の優先でしょ」
「だからできる限りのことをしているじゃないか。だが派手に手助けができない、君の言う通りばれれば私の立場が危うくなるからね。私は最後の手段で何かあれば自ら手を下すが、それまではサポートという形を取らせて貰う」
「それでもいいわ。手助けが必要なのは素直に認める」
「しかしいつまでこういうことが続くのかね。君にも限度というのがあるだろう」
「その後はパトリックが引き継いでくれる。二人はそのうち……」
「結婚っていうことか。パトリックもあの時隠れて我々のやり取りを見ていた唯一事情を知るディムライト。しかもベアトリスに惚れている。中々好都合な存在だ」
「そうなの…… あの時彼もあそこにいたのね。だから何もかも知っていたと言う訳ね」
「しかし、ベアトリスは果たして結婚に前向きなのかい? ヴィンセントもこのまま黙って見てるとは思えないが」
「それこそあなたが言う、何かを犠牲にしてまで何かをやり遂げるってことじゃないのかしら。ベアトリスを守るにはヴィンセントには理解して貰うしかな い。ヴィンセントが近づけなければベアトリスはいずれ諦め、パトリックを受け入れるようになるわ。あれだけ愛されて大切にされたら女っていつしか心なびくものよ」
「君もそういう人がいるのかい?」
「もしいたらあなたは気が気でなくなって心配?」
「ああ、もちろん」
「そういうときだけ都合がいいもんだわ。さんざん放っておいたくせに」
嫌味をちくりと言いながらもアメリアの表情から寂しげな陰りがみえた。
アメリアの車が家に着くと、ブラムは無理に作ったような微笑みを浮かべてミストを蹴散らすように消えていった。
アメリアはドライブウエイに車を止め、消化不良の気持ちを押さえこもうと暫くハンドルを握って運転席に座っていた。
落ち着きを取り戻すと、助手席においていた鞄から携帯電話を取り出し、リチャードに電話をかける。
コールに関しての情報はないか確認するためだった。
特に変わったことはないとリチャードの口から直接聞くが、全く新たな動きがないのも不気味でならない。
そして見間違えたものが頭から離れず、リチャードにも一応報告した。
「一瞬のことだったから、見間違えの線が強いんだけど、あまりにもコールの姿を思い出さされて少し怖かったわ」
「そっか、しかしなんかちょっと引っかかる。その隣に居た女だけど、ストレートロングの黒髪だったんだな。コールの恋人だったマーサと被るところがある」
「でも側にいたのはちょっと体を鍛えた高校生くらいにみえたわ。バックミラーを見たとき、赤毛の男が近くにいたのかもしれない。コールは機敏な動きで移動するから」
「もしその女がマーサだとしたら、動きを監視して近くにいたということも考えられる。場所はどの辺だ、一応調査しておこう」
アメリアは場所を告げると電話を切った。
腹が減ったとヴィンセントが台所に現れると、リチャードは背広に袖を通して出かけようとしていた。
「また事件か」
ヴィンセントが聞く。
「ああ、コールがうろついてる情報が入った。調べてくる」
「俺も一緒に行くよ。家にいても気が滅入るだけだし、いざというときには力にもなる。気晴らしに暴れてもみたい」
「遊びじゃないんだぞ」
リチャードは警告するが、ヴィンセントはちゃっかりとついていった。
アメリアが目撃したという場所に車を止め、二人は手分けして辺りを調査し始めた。
ヴィンセントが住宅街を歩き回っていると、暫くして、後ろから声を掛けられた。ポールだった。だがそれは外面だけで内面はコール。まさにこの時探していた人物だったが、ヴィンセントはまだ気がつかない。
「よお、こんなとこで、何、歩き回ってるんだ」
「なんだ、ポールか。ちょっと人探しだ。この辺りで赤毛の怪しげな男は見なかったか」
「は? なんだそれ。そんなの見たことないけど、なんでそんな男この辺りで探してるんだ?」
場所を特定されたことに多少驚いたが、本人を目の前にばれてないことがおかしく笑いそうになるのをコールは堪えていた。
「ちょっとな」
「ふーん、どうでもいいけどね。それより、お前ベアトリスになんかしたのか。アイツ益々おかしくなってきたぞ。自殺しないように見張っとけよ」
「自殺? どういうことだ」
「お前、気がつかないのか。彼女、かなり精神をやられている。何かに直面して、それから逃げようとしている感じだ。あれ以上問題を抱え込んでしまったら、 彼女はつぶれるかもしれない。原因はお前じゃないのか。お前に冷たくされて、ショックとか、それとも他に抱えている問題があるのかもしれないが」
意味ありげにコールは言った。
もし自分が原因だったとしたら──。ヴィンセントが思い当たるのは真実を受け入れようとしていたベアトリスを否定してしまったことだった。
ヴィンセントはいたたまれなくなって、顔を背けて歯を食いしばっていた。
「そんなに辛いんだったら、ベアトリスの側にいてやればいいじゃないか(できればだがな)」
コールは鼻で笑っていた。
そのとき、後方からリチャードが近づく。コールは一瞬ひやりとしたが、リチャードも気がつかないことに気を取り直し小馬鹿にした目つきで言った。
「あんた誰?」
「ヴィンセントの父親です。君はヴィンセントの友達かい?」
「まあ、そういうところかな。同じクラスをいくつか取ってるだけだが。それじゃ俺、帰るな。ヴィンセントまたな」
コールはリチャードも欺き笑いを堪えて、少し肩を震わせていた。
リチャードを尻目に得意げに去っていった。
その後姿をリチャードは鋭い目で見ていた。
アメリアが言っていた体を少し鍛えた高校生の表現と一致するだけに、怪しく感じていた。
「今の子はフットボールの選手でもしてるのか。かなり体を鍛えてそうだが」
「あいつはこの間まで脂肪の塊だったんだが、ここ最近急激に痩せやがった。以前も話したけど、俺に絡んで来た奴ってあいつなんだ。体も痩せて中身も別人みたいになっちまいやがった」
「別人?」
リチャードは何か引っかかったが、ダークライトの気は一切感じなかったと暫く後姿を見ていた。もう少し調べた方がいいかと思ったとき、ヴィンセントが話の腰を折った。
「なあ、親父。ダークライトの気も感じないし、やっぱりアメリアの見間違いだったんだよ。それより俺、腹減った。飯食いに連れてってくれ」
「仕方ないな」
リチャードはすっきりしないまま、その場を離れた。
その後二人はレストランへ向かう。そこでヴィンセントは自棄食いした。未成年なので酒が飲めないが、お変わり自由なストロベリーレモネードを何杯も飲んでいた。
リチャードはまだまだ子供だと呆れてみている。しかしベアトリスのことで悩み、問題を抱えている息子が不憫でならなかった。
ヴィンセントは黙々と食べる。プロムが最後のチャンスだとばかり、ベアトリスと二人っきりになることだけを考えていた。
日がすっかり落ち、空には星が無数に広がる空の下、草原の中でブラムは根の生やした木のように動かずじっと立っていた。
アメリアにエミリーのことを言われ心をかき乱されていた。
アメリアの言う通り、エミリーはブラムが過去に恋焦がれた女性だった。その思いはまた蘇り、会いたい気持ちが募っていく。
「まさかアメリアにあんな風に言われるとは……」
ブラムは一点の輝く星を見る。太陽の光があるうちは気づかれもせず、暗くならないと輝かない星の光。だがその輝きは夜力強く光る。誰にも気づかれない自分の本心のようだとふと笑った。
アメリアの誤解が解けても、決して許されることがないのはブラムには充分すぎるほど判っていた。だがブラムは自分を貫く。
「私は誰にでもいい加減な奴だと思われやすい性質のようだ。その方が自分には都合がいいのかもしれない。しかし本当の私を知ってくれていたのはエミリー、 君一人だった」
夜空の星を観客に見立て独り言を呟いた。
ブラムが忘れられない女性、エミリー。彗星の尾のようにずっといつまでも後を引き続けていた。
しかしこの時は忘れようと、ブラムも必死に無になろうとしていた。暫し過去のことは封印しておきたかった。
気を取り直し、ブラムはベアトリスのことを考える。目つきが急に厳しくなった。自分がこの時やらなければならないことは何か再確認しているようだった。
時は5月に入り、初夏を通り過ごした暑さがやってきた。そして学校ではプロムの話題が後を絶たなくなった。
相手が既に決まっているものはワクワク、ドキドキと気持ちが浮かれ、まだ決まってないものはハラハラと焦りが出てくる。諦めているものは、アルバイトがあるからとわざとバタバタと忙しさを演じた。相手がいれば、仕事など入れないというものである。
この時期、相手がいないものは誘って貰いやすく友達に噂を広めて貰う。
例えば、「友達の友達が言ってたけど、あの子があなたに興味があるみたいでプロム一緒に行きたいって言ってたのを聞いた」とかという言い方をする。
この友達の友達が言ってたというところがキーポイントなのである。これだけ離れた間柄ならそれは噂らしく聞こえるというものだ。本当は本人がそう言ってくれと言っても。
その噂が故意で行われていてもそれは皆見て見ぬフリ。方法はどうであれとにかく相手を見つけるためにみんな必死だった。
これが結構効果があり、それを聞いた相手は電話をして誘いやすくなるという。学校は至るところでそんな意図的な噂が飛び交っていた。
ベアトリスは本来なら参加しないはずだったが、パトリックとの約束で、急遽参加する事になり、すでにドレスも全ての準備が整っていた。
しかし、あまり乗り気ではなく、周りが騒いでいても見てみぬふりをしていた。
話す相手もいないこともあるが、元々人ごみに出るのが苦手だった。
そんなところにドレスアップして行くのは気が進まない。しかしパトリックを誘ってしまった手前、取り消すわけにもいかず、不安の気持ちを抱いたまま本番を迎えようとしていた。
ヴィンセントが誰を誘うか気にならないと言えば嘘になる。何も考えないようにすればするほど、プロム自体が頭の中から消えていくのだった。
何も考えなくとも、本番はパトリックに任せていればそれでいいと、最終的には投げやりになっていた。
プロムは通常男性が先頭に立ってエスコートする公式なデートの場であって、女性に気配りができないといけない。
その点パトリックはベアトリスには適役ともいえ、もちろんパトリックはこの日を楽しみにしている。
そしてその時ヴィンセントが参加することも知っている。もう賭けなど必要とはしないが、ベアトリスがきれいさっぱりヴィンセントを忘れることができる特別な日になるとパトリックは陰で笑みを浮かべていた。
しかし、ヴィンセントは違っていた。
ヴィンセントがサラと参加するのには計画があった。ベアトリスと二人っきりになるチャンスを作り、これに賭けていた。
サラもまたそれに協力する。ベアトリスとパトリックの邪魔をして、ヴィンセントをベアトリスと二人っきりにさせる。それだけが目的だった。
「とうとう本番は今週の土曜日よ。準備はいい?」
サラがヴィンセントと廊下で話している。
「ああ、覚悟はできている。少し高校生には無理があるかもしれないが、めったにできることでもないし、ディムライトの君の厚意に感謝するよ」
「当日は、私の両親はどちらも仕事でいない。家には身の回りの世話をしてくれる人がいるだけ。その人はノンライトだから、あなたのダークライトの気は感じないわ。だから安心して迎えに来て」
「ああ、君の両親がいれば、俺が現れればパニックになるだろうからちょうどいい。でも君は金持ちの娘なんだな。父親が医者、母親がホテル経営者だとは」
「ディムライトがライトソルーションを手に入れると能力はノンライトと差がつく。そしてお金の稼ぎ方に賢くなるってことよ。プロムの会場も私の母の経営するホテルのチェーン。何かと融通が利くわ」
「当日、君が父親から手に入れた睡眠薬をベアトリスとパトリックの飲み物に入れる」
「そうよ。ベアトリスが眠ってる間に彼女の体の中のライトソルーションを燃やして、そして私が用意した部屋であなたとベアトリスは朝まで二人っきり。後はあなた次第」
「最初聞いたときは無理な設定にぎょっとしたが、今はそれを望んでしまう。いや、別にそのなんだ、そいうことではなく……」
「何を言ってるの? 別にあなたがどうしようと私の知ったことではないわ。あなたたちがきっちり話し合うためにも、ベアトリスのシールドは邪魔。それを取 り除いて思う存分近づいて二人で話し合えばいい。なんならそのまま二人でどこか遠くへ行けば? 誰にも邪魔されないくらい遠くへ」
「えっ?」
「それくらいの覚悟でこのチャンス逃さないでよね」
「あっ、ああ、わかった。ありがとう。だけどその間パトリックはどうなるんだ」
「ベアトリスはライトソルーションのせいで、睡眠薬の効き目はせいぜいもって2,30分くらい。でもパトリックなら朝までぐっすりよ。ホテルには私のこと を知ってるスタッフもいるし、疲れて寝てしまったといって運ぶの手伝って貰うわ。ホテルの部屋なら一杯あるし、私もそこでパトリックの寝顔をみて一緒に朝 まですごすわ。その後のことは考えてないけど、とにかくあなたは朝までベアトリスと一緒にいられるってことよ。だから必ず成功させてよね」
「わかった。俺も後のことはその時でいい。とにかくベアトリスの誤解を解かなければ。このままでは本当にパトリックとくっ付いてしまいそうだ」
「私もそれは嫌だわ」
二人は真剣な表情で語っていたが、ふと顔を見合わせると笑ってしまった。自分たちの腹黒さを笑うことで浄化しようとしているようだった。
ヴィンセントとサラが話している様子を仲睦まじくと取らえて、ベアトリスは遠くから隠れるように見ていた。
ため息が出るが、自分が選んだことの結果であり、ヴィンセントも仲がいい相手ができたことでよかったと納得しようと必死だった。
ただその相手が自分の良く知る人物なのが複雑なところだった。
しかし知らない相手であっても同じ気持ちでいただろうと思うと、真実も知らないまま、二人に気がつかれないように歩いていっ た。
今度はその様子をジェニファーがベアトリスの知らないところで見ていた。
かつての自分が味わった気持ちをベアトリスが味わっていると思うと、少し気分が晴れる。ベアトリスに対しての憎しみもやや和らいでいた。
それに影響され、ジェニファーに仕掛けられた影も勢いをなくし、ただ大人しくジェニファーの中に滞在するだけとなっていた。
そして最後にニヤリと笑みを浮かべ、全てを見ていたものがいた。ポールに扮したコールだった。
高校生達が繰り広げるドラマなど何一つ興味がなかったが、ベアトリスのライフクリスタルをもうすぐ手にできると思うと血が騒ぐ。
ライフクリスタルを手に入れる前夜祭だと、プロムも一騒動起こしてかき乱すつもりでいた。
人々をパニックに陥れ、自分の欲しいものを手に入れる最高の日になりそうだと笑いが腹からこみ上げてきていた。
「みんなの忘れられない最高の日にしてやるよ」
コールはそう呟いて、ロッカーの前でリップクリームをつけているアンバーの元へと行った。
アンバーはロッカーの扉の裏側の鏡を見て、唇を重ねてリップクリームをなじませてるところだった。
鏡に突然赤毛の男の顔が映りこみそれが近づいてくる。誰だろうと後ろを振り返ったときポールが側にいてキョトンとした顔になった。
「なんだよ、俺が側にきちゃ悪いか。気分がいいから折角相手してやろうと思ったのに」
「えっ、何よその言い方。こっちが相手してあげるわよ」
アンバーは訳がわからないままも、つい素直になれずに意地を張る。その時は深く鏡に映っていた人物について追求しなかった。
本番当日まではそれぞれの思いの中過ぎていく。
そして決戦の時がとうとうやって来た。この日に何かを期待し、企んでいるものは真剣勝負で挑む。
一番中心人物であるベアトリスだけが、始まる前から早く終わって家に戻って来たいと願っては憂鬱になっていた。
そんな当日の土曜日の遅い朝のこと。
パトリックの作ったブランチをベアトリスとアメリアは食べていた。
「夕方6時からでしょ、プロム。ここは何時に出るつもり?」
アメリアが聞いた。
「会場まで余裕をもって3,40分としたら、5時過ぎくらいかな。他の参加者はグループでその前にどこかで集まってると思うけど、ベアトリスは行かなくていいのかい」
パトリックはどこへでもお供すると嬉しくてたまらない様子で浮かれていた。
「私はただ参加するだけだから、直接そこに行くだけでいい。それにあまり長居もしたくない」
ベアトリスは対照的に、元気がない声でぼそぼそ答えた。
「あら、折角のプロムなのよ。大人の仲間入り、豪華なデートができるチャンスよ。きっと行けば楽しくなるわ。そしてパトリックが完璧にエスコートしてくれ る。思いっきり甘えてくればいいのよ」
「アメリア、なんかほんとに変わった。以前ならそんなこと絶対言わなかった。よほどパトリックのことが気に入ったのね(結婚を認めるくらい)」
ベアトリスの言葉で今度はアメリアが黙り込んでしまった。二人の仲を取り繕うと言い過ぎてしまったと自分でも不自然さに気がついていた。
「やだな、二人ともどうして暗くなるの。僕はすごく楽しみでどれだけこの日を待ってたことか。今夜は必ず素晴らしい夜にすることを誓うよ。僕のタキシード姿を見たらベアトリスだって放っておけないんだから」
「それじゃ私も後でベアトリスのドレスアップの手伝いをするわ。パトリックがドキドキするくらいね」
アメリアは気を取り直して笑顔をベアトリスに向けた。
ベアトリスも二人に合わせようと笑顔を作る。そしてパトリックを見つめる。
「そうよね、私も今夜は楽しむようにするわ。自分の想像もつかないことが待ってるかもしれない」
「そうだよ。僕は絶対君にがっかりなんてさせないからね」
ベアトリスはパトリックの嬉しそうに笑う笑顔を見て、自分が受け入れたことなんだと再確認していた。パトリックを好きになろうと自分に言い聞かせているようだった。
同じ頃、ヴィンセントもまた、挑むようにこの日を迎えた。
冷蔵庫をあけ、にんじんを手に取りそのままかじって食べだした。それをリチャードがからかった。
「滅多に生でかじったこともないにんじんなんか食べて、今日はそれだけ特別だってことか。だけどプロムデートは誰を誘ったんだ。それとも誘われて断れな かったんじゃないのか。お前がベアトリス以外の女性を誘うこと自体考えられない。こんなパーティに参加しようとするのもなんかお前らしくないというの か……」
「うるさいな。放っておいてくれ」
「まさかお前、よからぬ事を考えてないだろうな。要らぬことを言われたらすぐにそういうのがお前の癖だ」
ヴィンセントはさすが自分の父親だと思った。読みが鋭い。しかし気づかれてはまずいとひたすらにんじんをバリバリ食べだした。
「腹が減ってるんだよ。いつもこの冷蔵庫の中はろくなものがはいってないじゃないか。そんなこと言う前に何か食べられるものでも買って入れておいてくれ」
「そう言えばその通りだ。すまん。この家は家具もないし、本当に何もないところだ」
話が違う方向に行ってヴィンセントはほっとした。
「今日は俺、遅くなる。友達と朝まで騒いでくる」
「ああ、わかってるよ。プロムはそういう夜だ。だが、プロムデートには紳士的にするんだぞ。まあお前はそんなことないと思うが」
ヴィンセントはなんて答えて言いか判らず、ひたすらにんじんをかじっていた。
実際のプロムデートのサラとは何の問題もないが、計画実行後の相手はベアトリスであり、ホテルの部屋で二人きりとなると、内心紳士的にいられるか正直わからなかった。つい要らぬことを考えてしまった。
想像したことに罪悪感を感じるのか、ヴィンセントは頭を掻き毟るように引っ掻かずにはいられなくなった。そして横目でコーヒーを飲むリチャードをジロジロみていた。
ばれたら追い出されることも覚悟して、そんなことを怖がっている暇はないと、もうこのプロムに自分の人生を賭けるつもりでいた。
「なんだお前、さっきからにんじんかじりながらジロジロみて。まるであのウサギのキャラクターみたいだな」
「What's up, Doc? (なんか変わったことある?)」
ヴィンセントはどうにでもなれと開き直ってそのキャラクターの口癖を真似した。
リチャードはコーヒーカップをシンクの中に置き、仕事場に向かう準備をする。ヴィンセントに笑顔で楽しんで来いと声を掛けて出て行った。
「明日はあの笑顔が鬼になって、そして俺は地獄行き…… って筋書きかな」
ヴィンセントは気持ちを奮い起こすために自分の頬をピシャピシャと叩いていた。
そしてプロムまであと数時間と迫った。まるで決戦のように、それぞれの野望を抱き力が入る──。
時計の針はプロム開始の時間に刻々と迫っていった。
参加するものは心躍らせてドキドキしているというのに、支度するギリギリまで自分の部屋のベッドの上で寝転がり、ベアトリスだけは時計を見つめてため息を一つこぼしていた。
「ベアトリス、そろそろ支度しないと間に合わないわよ。早く私の部屋にいらっしゃい」
いつまでも準備をしようとしないベアトリスをせかすようにアメリアが呼びに来た。
ベアトリスは立ち上がり、アメリアの部屋へ向かった。
パトリックがその様子を見ながら廊下でニヤニヤしているとアメリアは忠告する。
「いい、準備が完全にできるまで、覗きはだめよ」
「はいはい。その時を楽しみにしてますよ」
アメリアはベアトリスを自分の部屋に入れ、気合を入れるような眼差しを向けニコッとした。自分以上にテンションが高くなってるのを見ると、ベアトリスはアメリアが自分の代わりにプロムに行けばいいのにと思ってしまった。
アメリアの手伝い方は、プロのスタイリストかと思う程、爪の手入れ、髪のスタイリング、そしてメイクと全てをこなす。
ベアトリスはベッドに腰掛け、されるがままになっていたが、無表情で感情が抜け落ちていた。
時々部屋の隅にある壷に目をやっては、自分の知ってはいけない真実に悩まされ心を締め付けられた。
「どうしたの? 全然楽しくないみたい。何かあったの? もしかして…… ヴィンセントのこと?」
アメリアは手元を止めて、心配そうにベアトリスを見つめた。
「ううん、ヴィンセントのことはもうどうでもいいの。もう忘れた。今はパトリックのこと真剣に考えてるわ」
ベアトリスは目を少し伏し目にして寂しげに語る。アメリアにはそれが無理をしていることくらいすぐに判った。
だが、助言も確認も何もできない。重苦しい空気を吸いながらアメリアは苦しいながらもそれでいいと肯定するしかできなかった。
「そう、ベアトリスがそう決めたのなら、私も何も言えないわ」
「アメリアは一度学校に来たことがあったね。私の友達を知っておきたいとかいって、私が、ジェニファーとヴィンセントを紹介したんだよね。今だから言うけど、アメリアはあの時ヴィンセントにあまりいい印象を持ってないように見えたんだ」
「そうだったかな。親代わりとしては異性の友達はやっぱり警戒してしまうところがあったのかもしれない」
「アメリアはいつも私に対して何かを心配していた。だけどパトリックがやってきたとき、あんなに警戒していたのに、あっさりと彼のこと気に入っちゃったんだね。それだけパトリックが信用できるって思ったんでしょ」
「そうね、彼の両親とは面識があったし、パトリックも全く知らない子ではなかったわ。それに暫く一緒にいたから彼のことよく見えたっていうのもあるわ」
「そっか、だから結婚を認めたってことなのか」
アメリアは言葉を失い、手元が完全に静止した。
「私、偶然書類を見ちゃったんだ。最初はショックと怒りで裏切られた気持ちになったけど、今はそれでもいいかって思ってるんだ。私みたいな何もできない人 間にはもったないくらいのいい話だよね。しかもパトリックは私のこと好きでいてくれてとても大切にしてくれる。こんないい条件ほんとないよね」
「ベアトリス……」
「私がここを出たらアメリアも楽になるよね。だから私、パトリックと……」
ベアトリスが言いかけたことを我慢できず、畳み掛けるようにアメリアは言葉を発した。
「私は、親代わりとして書類を作ってしまった。あれは私にもしものことがあったとき、パトリックが適任だと思ったからなの。あなたの意見を無視してこんな ことが許されるなんて本当は思ってないわ。でも私はこれからのことを思うと、これももう一つの方法かもしれないってそう思ったらあの書類を……」
アメリア自身、矛盾を充分承知した苦しい言い訳だった。
「もう、いいの。アメリアを責めるために言ったんじゃないの。私も気がついたの。ヴィンセントとはすれ違ってばかりで、私が思うほど彼はなんとも思ってな いんじゃないかって。そう思うのは辛かったけど、これ以上苦しむのも嫌だった。だから距離を置くことにしたの。そしてもう一つ、きっかけになったことがあ る。それは私が背負ってるものがあるって気がついたこと」
アメリアの顔が真っ青になった。
「アメリアもパトリックも何かを隠してるんでしょ。私が知ったら困ること。私が問い詰めたらパトリックはいつか話してくれるって言ったけど、彼のあまりにも真剣な態度でそれを知るのは私には耐えられそうもないって直感で感じたの」
アメリアはただ驚いていた。ベアトリスがここまで知って、自分に話してくるのが恐怖でならない。逃げ道がないと追い詰められていくようだった。次第に目も赤くなり、涙が溢れ出しそうになってきた。
「アメリアのそんな表情を見てたらやっぱり隠し事があるんだってまた確信しちゃった。よほど私が知っちゃいけないことなんだね。だったら私も知りたくない。このままでいたい」
「ベアトリス、本当にごめん。ごめんなさい」
アメリアはとうとう泣きだしてしまった。そしてベアトリスを抱きしめた。
「以前なら知りたいって無理にでも聞き出そうとしたかもしれない。だけど私、これ以上何かを抱え込むともう耐えられないんだ。ずっとずっと体に鉛を抱えて いるような気分なの。だからもう私も聞かないし、私が放棄したんだからアメリアも隠してるからとか罪悪感なんてもたないでね。あっ、こんなことしてたら遅れちゃう。早く準備しなくっちゃ。アメリアも泣いてないで最後まで手伝って」
アメリアはぎゅっと唇を噛んで落ち着こうとしていた。ベアトリスはそれすら目をそらし、もう何も考えないことにした。
ベアトリスの思考回路は遮断されたように、都合が悪いことだけは排除された。そしてどんどん心から感情が消えていく。無理に笑うことすらできなくなっていくよ うだった。
楽しいはずのプロムのドレスアップだが、アメリアはただ必死でベアトリスを着飾っていた。
ベアトリスはどこを見ているのかわからない焦点をぼかした瞳で黙って従っていた。
そこにはワクワクするような気分など見当たらない。ベアトリスもアメリアも言葉を交わせず沈黙が暫く続いた。
準備が整ったとき、アメリアはベアトリスをウォークインクローゼットの中の鏡の前に連れて行く。
「ほら、とてもきれいよ」
「ほんと、私じゃないみたい。ありがとう。アメリア」
光沢のある薄っすらとした優しげなピンク色のドレス。肩は露出され、胸のふくらみが強調される。下は沢山のレイヤーがあるふわっとしたフレアタイプのドレス。アクセントに大きなリボンが左前についていた。
「ベアトリス、今日は思う存分楽しんでらっしゃい」
「うん。判ってる」
ベアトリスは安心させようと一生懸命に笑おうとするが、それは却ってアメリアを苦しめた。我慢できずに、ベアトリスを強く抱きしめてしまった。
「アメリア、大丈夫だから。もう忘れよう。私がそれでいいって言ってるんだから、アメリアは何も気にすることはないんだって」
ベアトリスはもう一度鏡の中の自分を見つめる。ドレスアップした姿は別人だった。
虚ろな目でみる自分の姿は、表面はきれいに飾り立てても、中身は空っぽで空疎に見えた。
しかし自分が選んだことに、もうとやかくいうこともなかった。
全ては流されるままに、そして自分という自我を閉じ込めた。
居間では黒のタキシードに着替えたパトリックがそわそわしながら待っていた。
部屋のドアが開く音がすると、ぱっと目を大きく見開きその瞬間を楽しみにドキドキしだした。そして後ろを向いて大人しく立ち自分の襟元を正して、にやけていた。
「パトリック、お待たせ」
ベアトリスが声を掛けると、ゆっくりとパトリックは振り返る。その瞬間、声を失い、ベアトリスに目が釘付けになり動かなくなった。
「パトリック? どうしたの? もしかして気に入らなかった?」
「違うよ。その反対。あまりにも美しいから、僕、その、心臓止まった気分」
「ありがとう。パトリックもとても素敵」
パトリックはピンクのバラの花をあしらったコサージュをベアトリスの左腕に飾り付ける。ベアトリスも赤いバラのブートニアをパトリックの襟元につけた。
アメリアが二人の姿を写真に収めていた。
「二人とも本当に素敵よ」
「それでは、責任を持ってベアトリスを今夜預からせて頂きます」
パトリックは真面目な顔つきで、アメリアに訴える。最後まで紳士的でいると誓っているようだった。
二人は車に乗り込み会場へと向かった。
プロムがある日は、着飾ったカップル達が団体でレストランや誰かの家に集まってパーティが始まる前に先に食事を済ませたり、本番の前のウォーミングアップで友達と軽く騒ぎあう。至る所で華やかなドレスやタキシードに身を包んだ高校生達を見かけることも多い。
リチャードも外で仕事中、着飾った高校生達を見かけていた。
自分の息子もプロムに参加してるんだと軽く同僚と話しているときだった。
事件の連絡が入り、緊張感が走った。現場に出かければダウンタウンの近くの川に死体が上がっていた。損傷が激しかったが、リチャードはダークライトの残り香を一瞬で感じ取った。
鋭い目つきで、目の前の遺体を隅々まで見渡す。遺体は鑑識に回さないと身元がわからないが、半信半疑になりながらも、急ぎ足で心当たりのある場所へとやってきた。
そこはザックのアンティークショップだった。店は閉店と書かれたサインが窓際に飾られている。中は荒らされた様子もない。
近辺の聞き込み捜査を開始すると、ザックの店はここ数週間閉まったままだと知らされた。
「ザックは年も取りダークライトでも全く力をなさないタイプだ。まさか何かコールと関連性でもあるというのか」
リチャードは更にマーサの店へと足を運んだ。
リチャードは自分の勘を頼りに確認を急いだ。
「ベアトリス、会場に着いたよ。なんだか僕も緊張するよ」
パトリックがホテルの駐車場に車を停める。辺りは同じように駐車し、車から出てきた着飾ったカップルが駐車場の暗いコンクリートの建物の中で花を咲かせたように目立っていた。
パトリックが先に車を降り、助手席に回るとベアトリスの車のドアを開け、手を差し伸べた。ベアトリスは彼の手を取り、覚悟を決めたように、力を入れて立ち上がった。
二人が会場に向かって歩いていると、後ろから声を掛けられた。
「よぉ、ベアトリス! へぇ、なかなか、いかしてるじゃないか。いつものお前じゃないな。最後の…… いや最高の日にふさわしい艶姿だぜ」
ポールの皮を被ったコールだった。隣でアンバーが露骨に気を悪くしていた。早く行こうと催促するが、コールはベアトリスの側から離れたくないと、一緒に行動をしようとした。
これにはアンバーだけでなくパトリックも驚く。ベアトリスの手を握り、急ぎ足になった。それでもコールはぴったりとついてきた。
そしてホテルの会場の入り口に来たときだった。ベアトリスが目を見開いて突然立ち止まった。
目の前にはアイボリー色のタキシードを来たヴィンセントがクリムゾンのカクテルドレスを纏ったサラと一緒に会場に入ろうとしている。
ベアトリスは見なかったことにしたかったのに、パトリックが積極的にベアトリスをそこへ連れて行く。ヴィンセントがいることで賭けを思い出させようとしていた。
「パトリック、ちょっと待って。もうちょっとしてから会場に入ろう。今はその……」
ベアトリスの言葉など耳に入ってないように、パトリックはサラに声をかけた。
「やあ、サラだったよね。君も来てたんだ」
その言葉でサラとヴィンセントは振り返る。サラはパトリックの姿に惚れ惚れするような表情でにこやかになり、ヴィンセントを放っておいて、パトリックの側に寄って話しかけた。
ヴィンセントは少し離れてベアトリスの姿に暫し見とれていた。だがベアトリスはヴィンセントから目を逸らした。
後ろでコールが待機していた。アンバーは何が起こってるのかわからずそれぞれの様子を唖然とみていた。
ヴィンセントがベアトリスに近づくと、パトリックは顔をしかめた。
──なぜヴィンセントがベアトリスに近づけるんだ。
パトリックは辺りを見回すと、アンバーの存在に気がついた。アンバーが嫌な顔をしているのを見て、ベアトリスのシールドに影響を与えていると思い込んで しまい、本当の原因がサラだとはこのときまだ気がつかなかった。
「ベアトリス、とても美しいよ。あの時の白いドレスもよかったけど今日のドレスもかわいいね」
ヴィンセントが優しく微笑んで語った。
「あの時の白いドレス?」
ベアトリスは、はっとした。彼のアイボリーのタキシードには見覚えがあった。そして自分がその時白いウエディングドレスを着ていたのを思い出す。
──どういうこと。あの時の夢のことヴィンセントが知ってるなんて考えられない。でもなぜ……
ベアトリスが混乱しているとき、パトリックが意地悪い笑みを浮かべヴィンセントに向けた。
「サラ、紹介してくれないか、君のプロムデートを」
「ああ、この人はヴィンセントといって、ベアトリスのクラスメートよ。今回私がプロムに参加したくて無理に相手として私がお願いしたの。だって行きたい人と行けないから誰ともいかないとか言ってたのよ。勿体無いじゃない。だから、渋々って感じで無理に参加させちゃった」
それを聞いてベアトリスは驚いてヴィンセントを見つめた。ヴィンセントはその通りだと頷いていた。
パトリックは嫌な方向に流れる懸念を感じて、ベアトリスを自分の側に引っ張った。彼女は自分のものだとアピールしているつもりだった。
ヴィンセントはパトリックといつものように暫く睨みあってる間に、サラはベアトリスに近づき女同士を強調してさっさと会場に足を向けた。
大人しく先についてきたのはコールだった。慌てて、アンバーが駆け寄ると、ヴィンセントとパトリックもこんなことはしていられないと後を追いかけた。
会場の入り口に一歩踏み入れると、そこは舞踏会のように華やかに飾られ、着飾った人々でごった返しになっていた。
前にはステージも設けられ、催しの準備が整っているのか飾りや小道具が置かれ何かが用意されてそうだった。これからまさに大イベントが始まる雰囲気がどこを見ても伝わってくる。
大きなホールの中では6人掛けの丸テーブルが幾つも並べられ、それぞれ席についていた。アンバーがジェニファーを見つけ側に行こうとしてもコールは無視をしてベアトリスと一緒のテーブルについた。
「ちょっとポール、なんでこの人たちと一緒に座るのよ」
「仕方ねぇだろ、ジェニファーの隣にはブラッドリーがいるんだから。アイツ俺のこと恐れてるし、離れてやった方がいいんだよ」
アンバーはそうだったと諦めて、がっくり感が拭えなかった。諦めて大人しくコールの右隣に腰掛けようとさらに自分の右隣のパトリックに軽く会釈をして席に着いた。
コールの目の前にはベアトリスがいる。隣のアンバーよりもベアトリスばかり見ていた。アンバーは益々不機嫌になり、ベアトリスを見ては露に不快感を見せ付けて睨んでいた。
アンバーの負の感情のためにヴィンセントがベアトリスの側に来てもシールドが効かないと、側に座るアンバーにパトリックは苛立っていた。
サラはベアトリスに負の感情を持ってることをパトリックに悟られないことでアンバーに感謝したい気持ちだった。この計画がうまく行きそうとニヤリと笑っては目の前のパトリックをチラリと見つめた。
ヴィンセントは左隣に座るサラを飛び越えてベアトリスに熱い視線を送り続ける。この日何が起こるかもう後には引けないと最初から飛ばしてい た。
またそれを見たパトリックはヴィンセントの態度に心かき乱された。そして疑念が沸々とわいてくる。
──あいつ、何か企んでいるに違いない。サラも無理に頼んだとはいえ、自分のプロムデートが他の相手に気を取られて、どうしてあんなに平気で僕を見て笑っ てられるんだ。さっきはヴィンセントがプロムに参加した姿をベアトリスに見せることに気を取られて深く考えなかったが、よく考えたら、ディムライトがダー クライト と一緒に行動すること自体変だ。まさかサラも一枚噛んでるのか。
ヴィンセントの右隣にはコールが座っている。コールはパトリックとヴィンセントがベアトリスの取り合いに必死になってる様子に気がつき、最後に笑うのは 自分だと、二人を嘲け笑っていた。
ベアトリスはこのテーブルのメンバーに落ち着かず、ただ下を向いていた。そしてヴィンセントが言った言葉に惑わされていた。
──自分しか知らない夢なのに、ヴィンセントは知ってるような口ぶりだった。でも、あの時ヴィンセントが口にした言葉…… まさかそんなことありえない
閉じ込めていた思いがヴィンセントを目の前にしてまたくすぶり始める。
そして、プロムの開始。
会場が一気に盛り上がる中、このテーブルだけはベアトリスを見つめるそれぞれの目が怪しく光る。各々の計画のために──。
会場は色とりどりに着飾った高校生達が、各々の思いを抱き、いつもは味わえないパーティに酔いしれていた。
ステージでは催しが始まり、それに合わせて盛り上がる人もいれば、無視 して好き勝手に騒いでいる人もいたりと楽しみ方も人様々だった。
全てのものが正装しているために、パーティは格式高く、見る者全てが豪華で夢のような一時を過ごしている。
そう、誰もが楽しく過ごしているはずだった。しかしベアトリスが座るテーブルだけは違った空間のように重たい空気がどんよりと漂っていた。
パトリックは油断ならないとヴィンセントを警戒し、火花を散らせるように見つめている。
ヴィンセントは計画を成功させたいためにパトリックに注意を払いながら、平常心を装うが、時折ベアトリスを見つめては実行のときのことを考えると緊張感で目つきが真剣になっていた。
そこにコールがまた視線を投げかけていやらしく笑みを口元に浮かべている。
ただならぬ雰囲気が漂い、ベアトリスは落ち着かず下を向いていると、サラが話しかけた。
「ねぇ、ベアトリス、少し痩せたんじゃない?」
サラはベアトリスの体をまじまじ見つめて言った。
「そうかな。そうだったらいいけど」
「だけど、ベアトリスって結構胸あるんだね」
サラは少し嫉妬の目で眺めてしまう。自分でも気になって見てるくらいだったので、パトリックは当然ジロジロ見ていたと思うと、無性に悔しくなってきた。
それでもこの日の計画を無事に終わらせたいと、それだけを考えて無理に笑顔を顔に浮かべる。
二人が女同士の会話をしている最中も、パトリックとヴィンセントは気が抜けないとテーブルを挟んであからさまに睨み合っていた。
アンバーは仲良くない連中と同じ席に座っていることに不満を抱き、始まったばかりなのに折角のプロムが台無しだと嫌な顔をして、テーブルに肘を突き、頬に手をあて拗ねていた。
「アンバー、つまんなさそうだな。まだ時間もたっぷりあるし、それじゃ踊ってやろうか」
コールがそういうと、アンバーの顔は晴れやかになり、勢いよく立ち上がった。
「お前も来いよ、ベアトリス。そこのパートナー誘って。だけど本当はヴィンセントと踊りたいんじゃないのか」
これにはパトリックが憤慨した。即座に立ち上がり、コールの前に立ちふさがる。
「君、失礼じゃないか」
「パトリック、止めて! この人にかかわっちゃだめ」
ベアトリスが二人の間に入り、パトリックの体を押さえた。
「ポール、パトリックは私の大切な人なの」
ベアトリスの言葉に、パトリックはすぐに落ち着きを取り戻し、身を引いた。
「ふん、相変わらず煮え切らないぜ、お前は。正直になればいいものを」
コールはアンバーを連れてダンスホールへと向かった。
ベアトリスは何事もなかったようにパトリックしか見ていないという目を向けた。必死にパトリックが大切だと訴えている。
そしてパトリックの手を取り、自らダンスホールへと向かった。
サラはそれを危機感とばかりに眉間に皺を寄せて見ていた。
「ヴィンセント、気合を入れないといけないわよ。ベアトリスは本気でパトリックのことを考えているわ」
「えっ、どうしてそんなことがわかるんだ」
「ポールとかいう人の言葉に挑発されて、必死にそうじゃないと打ち消そうとしてる。目立つことが嫌いなベアトリスが自分からダンスホールにパトリックを連れて行ったのよ。これって、それだけムキになってパトリックとの関係を深めようとしてるっていうのがわからないの」
ヴィンセントは言葉を失った。
「だけど、あのポールって人、なんか怪しい。なんだろう、あの人、妙にベアトリスに絡んでくるというのか、ただの意地悪ってだけじゃない感じがする」
「あいつ、昔はあんな奴じゃなかった。太ってて自分に自信がなくて大人しかったのに、急に別人になっちまいやがった」
「だけど、今はあいつのことを議論してる場合じゃないわ。勝負はこれからよ。それに今が飲み物に睡眠薬を入れるいいチャンス」
サラはホテルのスタッフに手を上げると、新しい飲み物を持ってこさせた。テーブルに赤いカクテルを思わせるような飲み物の入ったグラスが置かれた。ヴィ ンセントは辺りを見回し、ばれないように気を配りながら、パトリックとベア トリスのグラスにサラが薬を入れるのを手助けした。
薬は赤い液体の中で怪しく混ざり合う。ヴィンセントとサラにだけ毒薬の様に見えた。
「後はあの二人がこれを飲み干すように仕向けないと」
サラがそう言うと二人はグラスを静かに見つめていた。
ベアトリスはパトリックをダンスに誘ってみたものの、どうしていいのかわからなかった。焦りながら気まずい思いを抱き、苦笑いして誤魔化していると、パトリック が大丈夫だと微笑み、ベアトリスの腰に手を回し体を左右にゆっくりと動かした
「僕の腰に手をまわして、僕に合わせるように体を動かしてごらん。それだけで踊ってるように見えるから」
背筋が伸びたパトリックは優雅に体を動かす。踊ることよりもベアトリスと二人で密着して向かい合ってることの方が嬉しいとばかりに笑っていた。
パトリックの笑顔にベアトリスも次第とリラックスしていく。
──パトリックに合わせてついていけば本当に楽だ。
そう思ったとき、またコールがアンバーと踊りながらわざと絡んできた。
「さっきは変なこと口走ってすまなかったな。あまりにもベアトリスがじれったいから、つい意地悪してしまった。だけどあんたはなんでベアトリスが好きなんだ。彼女に隠された魅力でもあるのか。例えば自分の利益になるとか」
ニヤリと意地悪い笑みを浮かべてパトリックを挑発する。
「君は謝りながらも、とことん失礼な奴だな。君の質問に何一つ答える義務はない」
「まあ、いいさ。ベアトリス、その男には気をつけるんだな」
「気をつけるのは君のことのようだが」
「それも、そうだ。一番気をつけるのはこの俺様だ。そうだった。ははははは」
コールは愉快とばかりに大笑いする。
パトリックは頭のいかれた奴だと軽蔑の眼差しを向けた。
アンバーはコールに合わせながらも、この状況にどう反応していいのかわからず、困惑したまま黙って踊り続けていた。
ベアトリスは、コールが以前言っていた言葉を思い出し、妙に気になり始めた。
──あの人、私のことについて何かを知っていて、そして悩みを解放してやるとか言っていた。こんなにも絡んでくるのは何か意図があってのことなの? だけど利益になるってどういうこと?
ベアトリスが沈んだ顔になっているのをパトリックが気づくと踊るのをやめた。
「大丈夫かい。僕が無理に頼んだばっかりに嫌な思いさせてしまったね」
「そんなことない。こんなにきれいに着飾って、パトリックと一緒に来れたんだもん。よかったと思ってる。パトリックは頼れるし、一緒にいてて安心す る。本当にありがとう」
ベアトリスの笑顔を見ると、パトリックは事をはっきりさせたくなり話を切り出した。
「一つ聞いていいかい、ベアトリスが思いを寄せていたのは、あのヴィンセント…… って男なんじゃないかい」
パトリックは、初めて事実を知ったフリをする。
「もう隠す必要もないから正直にいうと、その通り。でももういいの。私はパトリックの側に居たいから、彼のことはどうでもいいの」
「えっ? それは本当かい」
「うん」
「それじゃ、結婚のことも」
「前向きに考えてる。あっ、だけど、今すぐにはちょっと、まだ高校生だし」
「ああ、式は先でもいい。君が側にずっといてくれるなら」
あまりの嬉しさに、パトリックは飛び上がって発狂しそうになった。それを必死に押さえるが、顔のにやけが止まらない。
暫く二人の世界に浸り見つめて突っ立っていると、混み合ったダンスホールでは邪魔だとどんどん端においやられ、仕舞いにはフロアーから追い出されていた。二人は居場所がないと笑ってしまい、そして席に戻ることにした。
席に戻ると、パトリックはヴィンセントに勝利の笑みをきつく投げかけ、ベアトリスの手を握ってわざと見せ付けた。
ヴィンセントはパトリックの策に冷静さを失い焦りを感じ、テーブルの下で片足をゆする。サラが足で軽く蹴っては落ち着けと牽制していた。
サラにもこの状況は耐えられない。望みの綱はヴィンセントの行動にかかっていると思うと、年下でありながらも司令塔のように指図をせずにはいられなかった。
ヴィンセントもサラも睡眠薬が入ったグラスに視線を注ぐ。
早く飲めとどちらも心の中で願っているが、パトリックもベアトリスもそのグラスに見向きもしなかった。
時間だけが刻々と過ぎ、グラスの氷も溶け出した。
痺れを切らしたサラは次の作戦を考える。
「ねぇ、乾杯しようか」
サラは自分のグラスをもちベアトリスに向けた。
「何に乾杯するの?」
ベアトリスは、ただ合わせてグラスを持つが、あまり乗り気ではなかった。
「とにかくなんでもいいわよ。折角のパーティなんだから」
サラは無理にベアトリスのグラスに自分のグラスをぶつけ、そしてパトリックにも催促する。
パトリックも圧倒されて一応グラスを手にして、サラのグラスと合わせた。
サラはヤケクソになって飲み干すが、ベアトリスもパトリックも唖然とそれを見ているだけで一向に飲まない。
イラッとしながら、サラはまたヴィンセントの足をテーブルの下で蹴った。
ヴィンセントも何とかしなければと自分のグラスを手にして宙にあげる。
「今夜という日が素晴らしい日となるように、僕も乾杯」
ヴィンセントがそういうと、パトリックはそれにのせられてニヤリと笑った。
「ああ、そうだな。今夜は本当に素晴らしい日だよ。特にベアトリスと僕にとっては。乾杯しなくっちゃな」
パトリックはベアトリスとグラスを合わせた。
ヴィンセントはパトリックの鼻の付く態度に腹を立てながらも、とにかくそれを飲めと歯を食いしばって耐えていた。
そしてパトリックが飲み始めると、ベアトリスもつられて飲みだした。
ヴィンセントもサラも固唾を呑んでその様子を見ていた。
その時パトリックはふとこの状況がおかしいことに気がついた。
──ちょっと待て、今ここにベアトリスに負の感情を持っているあの女性がいない。しかし、なぜヴィンセントはこんなにベアトリスの近くで平然としていられるんだ。まさか、負の感情を持っているのはサラなのか?
パトリックは半分も飲まないうちにグラスを置いた。
ヴィンセントはチェッと小さく舌打ちする。
ベアトリスも全てを飲み干してないことにサラも焦りを感じ出した。もう勢いで実行するしかないとサラが立ち上がった。
「ベアトリス、ちょっと付き合ってくれない」
「ちょっと待って、どこへ行くんだ」
パトリックがサラに警戒の眼差しを向けた。
「やだ、女性にそんなこと聞くなんて。もちろん化粧室に決まってるでしょ」
パトリックが何も言えないまま、サラはベアトリスの手を取って無理やり引っ張っていった。そしてヴィンセントに何かを伝えるような視線を投げかけた。計画の実行の合図だった。
残されたヴィンセントとパトリックは対峙し合う。
「正直に話せ。何か企んでいるんじゃないのか」
パトリックが噛み付かんばかりに攻撃の目を向けた。
「なんのことだ」
「なぜベアトリスの側に平然とお前がいられるんだ。サラが負の感情を持ってるからじゃないのか」
「だったらどうなんだよ」
「それを利用してお前が何か企んでいるってことじゃないのか」
「俺は別に何もしてないじゃないか」
「ああ、今はな。でももう何をしたところで無駄さ。ベアトリスは僕の側にいたいと言ってくれた。それに僕との結婚を前向きに考えてくれている。だからもう僕たちの邪魔をしないでくれ」
「俺はまだ彼女の口からは何も聞いていない。お前が諦め悪いように、俺も諦めが悪いものでね」
二人が険悪な雰囲気の中、コールとアンバーが席に戻ってきた。
「おっ、なんか一触即発って感じだな。ところでベアトリスはどうした?」
「トイレ!」
ヴィンセントとパトリックは声を揃えて言った。二人はお互いを殴り飛ばしたいほどに苛立っていた。
その頃、リチャードはマーサの店のドアを叩いていた。
怪しげな色合いに光るネオンのサインの電源が入っていない。ドアノブをガチャガチャするが中から何の応答もなかった。
気を研ぎ澄まし、辺りにダークライトの気配が残ってないか確かめ、うろうろしていたときだった。
近辺に住んでいる年寄りのおばあさんがお節介に声をかけ てきた。
「あんたマーサのいい人かい?」
「いえ、私はただの知り合いでして」
「どうでもいいけど、マーサは今若い男に夢中だよ。しかも高校生くらいのね。今日もデートなんじゃないかな。昼間も来ていたようだ」
「高校生?」
「ああ、最近頻繁に現れていたよ。私もね、あまりにも若い男の子だったからちょっと気になって観察してたんだけど、その子もマーサに恋をしてからなのか最初は太っていたのに、急に痩せ出して、かなり体が締まっていったよ。恋はマジックだね」
「痩せた? ばあさん、その高校生だけどどんな感じの子だ」
「そうだね、ちょっと人を小馬鹿に見るようなきつい目つきで、体が締まってからはフットボール選手みたいになってたね」
「まさか…… 」
リチャードは顔を青ざめた。
──あの遺体がザックだとしたら、コールはザックを使ってノンライトに成りすまし、ヴィンセントに近づいた。そしてザックは口封じに殺された。そう考 えればヴィンセントが言っていた絡んでくる奴がいると言う話の辻褄が合う。アイツはヴィンセントから情報を得ようとしてたんだ。あのときアメリアが言って いたコールの姿を見たときの話もバックミラーを通じてだった。なぜ気がつかなかったんだ。ザックが力のないダークライトだと思い込みすぎて見落としてい た。油断していた。なんてことだ。
自分の思っていることが正しければベアトリスが危ない。慌ててプロムが開かれているホテルへとリチャードは足を向けた。
ベアトリスはサラに引っ張られてホテルのエレベーターに乗せられた。
「どこへ行くの?」
「実は部屋を取ってあるの。ほらこんな格好でしょ、お化粧崩れにも気を遣わないといけないし、大人数のパーティだとトイレって混み合うから、ゆっくりできるように個室のトイレを確保したって感じね」
ベアトリスは唖然と聞いていた。
エレベーターが止まると、サラは真剣な顔になり、部屋へ向かう。ベアトリスはただ言葉なく後をついていった。
カードキーを差込みドアを開け、二人は部屋へ入る。サラの緊張感が高まり、事がうまく行くことを願いベアトリスを見つめて静かに微笑した。
ベアトリスは何も知らず、部屋を見渡した。
クィーンベッドが一つあり部屋の真ん中辺りに置かれている。ベッドの前には引き出しつきの棚、その上には大きなテレビも置かれ、窓際には小さなテーブル とゆったりと座れる椅子が二つ置かれていた。その端にはデスクがあった。
壁紙や絨毯の色合いも暖かみのある暖色で落ち着き、高級感が漂っていた。
「きれいなお部屋なんだね」
ベアトリスが窓際に寄って景色を眺めている。そして大きく欠伸をした。その欠伸をサラは見逃さなかった。
「ベアトリス、ちょっと疲れたんじゃない? 時間かかるかもしれないからベッドで少し横になってていいよ。それじゃ、バスルームでちょっと身支度してくるね」
サラがバスルームのドアをバタンと閉めると、ベアトリスはベッドの端に腰掛けた。座りながら窓の景色を見ている。
そしてまた欠伸が出て、それが短い間隔で何度も出るようになってしまった。
「やだ、なんか眠たくなってきた」
堪えようとするが、強い睡魔が瞼を重くする。何度抵抗しても、その眠気は決して追い払えなかった。そして10分経ったころには、ベッドに体を横たわらせ眠りについていた。
バスルームのドアをそっと開け、サラはベアトリスの様子を見る。ベッドに倒れこんだように横になっているベアトリスを見ると、息をふぅーっと吐いた。
「薬が効いたみたいね。だけど、あまり長く持ちそうにないわ」
サラはベアトリスの足をベッドに乗せ体をごろんと押してベッドの中央付近に来るように寝かせてやった。横向きになりベアトリスは無防備に眠っていた。
「これを見たらヴィンセントは理性を保てないかも」
そんなこと言ってる暇はないと、サラは大急ぎで会場に戻って行った。
同じ頃、ヴィンセントと睨み合いを続けていたパトリックが睡魔に襲われ、こっくりと何度も首をうなだれ始めた。
ヴィンセントが静かに笑う姿が何重にもダブってみえていた。
「くそっ、急に眠たくなってきやがった。しかも抵抗できないくらい、体が沈むように眠たい。ヴィンセント、まさかお前、飲み物に何かいれた…… ん じゃ……」
パトリックは立ち上がろうとするが、突然がくっと電池が切れたロボットのようにテーブルの上に顔を伏せて崩れた。
ヴィンセントは静かに立ち上がり、テーブルを後にする。
「おい、ヴィンセント、どこへ行くんだ。お前こいつに何をしたんだ」
ヴィンセントはコールを無視した。そしてこれからが本番と気合を入れた。
ホテルの廊下でサラと出会う。言葉を交わさず、目だけで合図をしてすれ違った。
テーブルにサラが戻ってくると、コールは怪しげに見ていた。
「おい、ベアトリスはどうしたんだ?」
「あら、先に戻ってるっていってたけど、まだ戻ってなかったのね」
サラはパトリックの側に寄り、辺りを見回してホテルのスタッフを呼んだ。
「ん? お前ら一体何を企んでいるんだ。ベアトリスはどこなんだ」
サラもまたコールを無視をする。そしてホテルのスタッフが二人が現れると、パトリックの腕をそれぞれの肩に抱えてどこかへと運ぼうとしていた。サラはその後をついていった。
「ちょっと待てよ」
コールが立ち上がろうとすると、アンバーが彼の腕を掴み、睨みつけた。
「もう、いい加減にして、私がプロムデートなのに、ベアトリスのことばかり。もう我慢ならない。最後まで私に責任もって付き合ってよね」
「おい、放せよ」
「嫌っ!」
アンバーも必死ですがりついていた。
上昇中のエレベーターの中でヴィンセントはタキシードの襟元を正した。これからが勝負と、強張った表情でかなり緊張している。
エレベーターが止まり、ドアが開く。それぞれのドアの部屋番号を確認しながら、サラから予め与えられたカードキーを持つ手に力が入った。
そして頭に描いていた番号と一致するドアの前に立つ。一度大きく深呼吸をしてカードキーを挿入し、カチッとロックが解除された音と共に、ドアノブ附近に付いていたビーズほどの小さなランプが赤から緑へと変わった。
息を飲んでドアをそっと開けた。
心臓がドキドキと激しく高鳴り痛いほどだった。ベアトリスのシールドも働き体も締め付けられる。それをぐっと堪えて、部屋に進入──。
ベアトリスが何も知らず眠らされてベッドに横たわっている姿が目に飛び込むと、罪悪感が突然襲い一度顔を背けてしまった。
息苦しくなり、蝶ネクタイを外した。
体をくの字にかがめながら、暫く顔を背けたままだったが、過去に二度ベアトリスに近づけても満足に何もできなかったと思うと、ヴィンセントは腹の底から力を込めて覚悟を決めた。
ベアトリスと向かい合い、右手をあげて、指をパチンと鳴らすと、青白い炎がベアトリスに放たれた。
あっという間に青白い炎はベアトリスを包み込み、体の中のライトソルーションを激しく燃やしていく。
ごくりと唾を飲み込み、ヴィンセントは不安になりながら燃えるベアトリスを静かに見つめていた。
ベアトリスは何も気がつかず、炎に覆われながらも安らいで寝ている。やがてその火は勢いをなくし、そしてすっと消えていった。
ヴィンセントはゆっくりとベアトリスに近づき、苦しくないのを確認した。
ベアトリスの頬に触れようと、手を伸ばす。その手は神聖なものに触れるかのように恐々と震えていた。
温かく柔らかい頬に触れると、ほっとした笑みが自然とこぼれたが、次の瞬間突然表情が厳しくなった。それが何を意味しているか、ヴィンセントにはよくわ かっていた。
ベアトリスがもっとも危険な状態。
もう後には引けない、そして失敗もできない。このチャンスを逃せば、ベアトリスはパトリックのものとなってしまう。
相当な覚悟を持ち、ヴィンセントは暫くベアトリスの顔を眺めていた。ベアトリスが目覚めるその時を静かに待った。
パトリックが二人のホテルのスタッフに抱えられ、エレベーターに乗せられようとしているときだった。
突然ぱっと目が覚め、抱えられている手を払いのけた。
一瞬のうちに置かれている立場を把握する。
「何をするんだ」
パトリックは少しふらつきながら、普段見せない恐ろしい怒りの目を側に居たサラに向けた。
「卑怯じゃないか。飲み物に薬なんか入れて、僕を眠らせるなんて。ベアトリスはどこにいる。ヴィンセントは? まさか、あいつベアトリスを眠らせて手を出そうとしてるんじゃ」
サラは血の気が引いた。睡眠薬入りの飲み物を半分しか飲んでないとはいえ、異常な程に効き目が短かったことに計算が狂った。
サラの誤算だった。パトリックはベアトリスと一緒に住んでいる間、ライトソルーションの影響を受けたバスルームで、ベアトリスと同じように表面から吸収 していた。普通のディムライトよりも摂取量が増え、その能力も増し、薬の効き目も効果が薄れた。
サラはその場で崩れるように泣き出した。何度もごめんなさいと繰り返した。パトリックに嫌われてはもうお終いだった。
パトリックは機転を利かす。脅してはいけないと急に優しい態度を見せ、サラに近づき肩に軽く手を置いた。
「サラ、落ち着くんだ。全てはヴィンセントが企んだことなんだろう。君は利用されただけなんだ。ベアトリスはどこにいるんだ。お願いだから教えて欲しい。 正直に答えてくれたら僕は君の事を許すよ」
パトリックの巧みな言葉にサラは呑まれ、部屋のカードキーを渡し、フロアーとルームナンバーを呟いた。
パトリックはそれを受け取り、エレベーターのボタンを押して、開いたドアに滑るように乗り込み、フロアーのボタンを拳で叩いた。
上昇する間、フロアーの数字を睨みつける。目的の階につくと、ドアが開く前から真正面に立ち、少しの隙間をこじ開けるように飛び出した。
慌てて、つんのめりそうに走りながら言われた部屋の番号を見つける。そしてカードキーを差込み、部屋に入り込んだ。
物音に驚きヴィンセントが振り返ると、そこにはパトリックが恐ろしい表情で立っている。計画の失敗に髪が逆立ちそうなぐらい驚き、ヴィンセントは目を大きく見張っていた。
パトリックはベッドに横たわるベアトリスの側でヴィンセントが立っているのを見ると、腹の底から煮えくり返った怒りが噴出する。
「ヴィンセント、なんて卑怯な。見損なったぜ」
パトリックはヴィンセントに近づき、殴りかかろうとすると、ヴィンセントは素早く避け、パトリックの腕を掴んだ。
「くそっ! あっ、お前、ベアトリスのシールドを……」
ヴィンセントがベアトリスの側で平然としていることにパトリックがすぐに気がついた。
「ああ、解除したよ。こうするしか俺はベアトリスに近づけない」
「お前、何をやってるのかわかってるのか」
「ああ、判ってるさ。何もかも承知の上さ」
パトリックはもう片方の手で殴りかかろうとするがどちらもヴィンセントに掴まれ手の自由を失った。
「放せ」
「殴られるのはごめんだ」
二人が怒りをぶつけ言い争いに気をとられているとき、ベアトリスは目が覚めるが、暫く状況を把握できずにベッドでぼーっと横たわっていた。
──あれ、ヴィンセントとパトリック?
「卑怯なことをしておいて、何が殴られるのはごめんだ。やはりお前はダークライトだ。やり方が汚すぎる」
──ダークライト? どっかで聞いたことがある。
「ディムライトのお前だって卑怯なところがあるだろうが。お前の親がベアトリスの正体に気がついたとたん彼女の親に金と権力を見せびらかせてその地位を約 束し、ベアトリスの意思も無視して親同士で勝手に婚約させちまいやがった。地位を手に入れるためなら手段を選ばない。そしてお前もホワイトライトの力が欲 しかったんじゃないのか。だから親の言いなりになって婚約した」
──ディムライト? 私の正体? ホワイトライトの力が欲しくて婚約?
「違う、僕はお前があの夏現れる以前からずっとベアトリスのことが好きだった。お前があの夏僕たちの町にやってこなければ、ベアトリスはこんなことにならなかったんだ。全てはダークライトのお前のせいだ」
──あの夏、ヴィンセントが町にやってきた? どういうこと?
「全ては俺が引き起こしたことなのは認める。だが俺もベアトリスがホワイトライトだと気づく前から彼女のことを好きになっていた。ずっとずっとその気持ち を抱いて今に至る。だが、俺がダークライトのせいで、彼女に近づけなかった。不公平じゃないか。彼女のシールドを取り除かない限り、俺は近づくことも自分 の気持ちも伝えられない。それなのに、お前はアメリアの弱みに付け込んで、ベアトリスとの結婚を認めさせた。そっちこそ卑怯じゃないか」
──二人は何を言ってるの。
「それは自分の都合だろ。そこまで僕に責任転嫁されても困るぜ」
「俺が近づけないことを良いように利用してそう仕向けただけだろ。俺がベアトリスと意識を共有したとき、彼女は俺を抱きしめてくれた。そして意識が戻ったとき一番に俺の名前を呼んだのをお前も聞いたはずだ」
「ヴィンセント、見苦しいぞ。それは過去のことだ。今は違う。今は彼女は僕を選んだんだ。それに、お前の父親がベアトリスの両親を殺したこと知ったらどうなると思う」
──ヴィンセントのお父さんが私の両親を殺した?
「違う。親父は誰も殺してなんかいない。あれは……」
ベアトリスはもう黙って聞いていられなくなった。
「止めて! 一体どういうことなの。何を話しているの。これが私の知ってはいけない真実なの?」
ベアトリスはベッドから体を起こした。両親の死因を聞いてショックで放心状態になっていた。
「ベアトリス、聞いていたのか」
パトリックが、しまったと顔を歪めた。
ヴィンセントも掴んでいたパトリックの手を離し、自分の頭を抱える。我を忘れて言い争ってベアトリスが起きていたことに気がつかなかったことを悔やんだ。
「二人は知り合いだったの? そしてあの夏ヴィンセントが私の住んでた町に来ていたの? 私も小さい頃にヴィンセントに会ってたってことなの?」
ベアトリスはもう真実から逃げられなくなった。ヴィンセントとパトリックを交互に見て、失望を抱いたように潤んだ瞳で震えている。沈黙が暫く続く。
パトリックが近づいてベアトリスに触れようとする。
「触らないで、側に来ないで」
ベアトリスはコールが言っていた言葉を思い出した。
『その事故、ほんとに事故だったと思うかい? そしてどうして子供の時に婚約させられたかも不思議に思わないのかい?』
頭の中が混乱する。一つ判ったことは、自分は何かに利用されているということだった。
──だったら私は一体何者?
「ベアトリス、落ち着いて」
パトリックが焦りながら対応する。
「落ち着くのはお前の方だろうが」
ヴィンセントがつっこんだ。
「お前は黙っていろ。元はといえば全てお前が引き起こしたこと。お前が卑劣な方法でベアトリスに手を出そうとしたからこうなった」
「俺はただ、ベアトリスと二人きりになりたかったんだ」
「だからといってこんな手を使うことないだろう。卑怯者」
「こんな手でも使わないと二人っきりになれなかったんだよ」
パトリックは腹立たしさでヴィンセントに殴りかかる。不意をつかれてヴィンセントは頬を殴られると、一気に怒りが湧き起こり、応戦した。
目の前で激しい殴り合いをする二人に、ベアトリスの心に怒りが吹き荒れた。それと同時に眠っていた力が呼び覚まされる。
「もう二人とも止めて!」
そう叫んだとき、眩しいばかりの閃光が爆発のごとくベアトリスの体から四方八方に放たれた。
ヴィンセントもパトリックもその眩しさに目をやられて動けなくなった。ベアトリスは自分自身が恐ろしくなり、気が動転して部屋から飛び出した。
ちょうど階に来ていたエレベーターに乗り込んだ。
ヴィンセントとパトリックの視界が徐々に元通りになると、目の前にベアトリスがいないことに気がつき、慌てて、部屋を飛び出し追いかけた。
ベアトリスが乗ったエレベーターのドアが直前で閉まるところを見て、不安に襲われた。
「ベアトリス!」
二人とも大声で叫ぶ。パトリックはそのまま、次のエレベーターを焦る気持ちの中待っていたが、ヴィンセントは階段を使った。そして飛ぶように駆け下りた。
その頃コールはアンバーにまだ手を引っ張られたまま、テーブルから動けないでいた。
「アンバー、いい加減に放せ」
「嫌よ」
「しょうがねぇーな」
コールは口笛を吹いた。すると突然目の前にゴードンが現れ、赤い目で辺りを見回していた。
アンバーは突然現れた男にビックリして、手を緩めた。コールがその隙にアンバーから離れた。
「ゴードン、暴れる時間だぜ。頼むぜ」
ゴードンは各テーブルに次々に瞬間移動しては、テーブルの飲み物や食べ物を投げつけた。ゴードンの動きが早いために皆、目の前の人物にされたと思い込 み、衣装を汚されたものは仕返しとばかりに手当たり次第のものを投げつけた。誰もが怒り喧嘩をし始めると、あっという間に辺りは蜂の巣を突付いたような大 混乱となっていった。こ れも余興の一種だと思うものまでいて自ら参加するものも現れた。
そして、ベアトリスがロビーに到着すると、すぐに電話を探した。化粧室の隣に電話があるのを見つけると、コレクトコールでアメリアに電話をする。
「アメリア、お願い。迎えに来て」
「どうしたの? ベアトリス」
そのときジェニファーが化粧室から出てきた。ベアトリスには以前ほど抱いていた怒りはなく、落ち着いた行動で無視をしてそのままふんと通りすぎていく。 しかし体に潜んでいた影がベアトリスの正体に気がつき、自らジェニファーの体を抜け出した。
ベアトリスは何者かに見られている気配と、肌を突き刺す殺気を感じ後ろを振り返った。
そこに、恐ろしい形相の黒い影が自分に襲い掛かろうとしていたのを見ると、悲鳴をあげた。
「キャー」
その声はちょうどエレベーターから降りたパトリック、階段を下りてロビーに到着したヴィンセント、そして辺りをうろついていたコールにも届いた。
三人はすぐに駆けつける。
ベアトリスは電話の受話器を投げつけ必死に逃げる。
「ベアトリス、どうしたの? 何があったの」
ただならぬ事態にアメリアは顔を青ざめ、車に飛び乗りホテルへと向かった。
「あの時と同じだ」
ベアトリスは全てが夢じゃなかったと気がついた。
「ベアトリス!」
パトリックがデバイスを取り出し、光の剣を構えて影に立ち向かう。
ベアトリスは身を縮めながらそれを見ていた。
影はパトリックの攻撃をかわし、そして容赦なくパトリックに襲い掛かった。
そこへヴィンセントも加わり、手だけ黒く変化させ長い爪を影に向かって引っ掻いた。
影はそれも避けるがすぱっと体の一部が切られて動きが鈍くなった。
一瞬の怯みをついてパトリックが影の頭に剣を貫くと、影は消滅していった。
ベアトリスは息をするのを忘れるぐらい、その光景に目を見開き、二人を凝視していた。
「ベアトリス大丈夫か」
パトリックが声をかける。
ヴィンセントも心配そうにベアトリスを見つめている。
「嫌っ、側に来ないで、お願い、一人にして」
ベアトリスは走り出す。混乱して怖くなり、この状態でまともに二人と話などできないと思うと逃げることしかできなかった。
「ベアトリス!」
ヴィンセントもパトリックも同時に叫んでいた。
コールは一部始終見ていた。影が自ら襲ったことでベアトリスのシールドがなくなっていることに気がつくと、チャンスだとばかりに笑みを浮かべ、その瞳は邪悪に輝きだした。決行の時が来たと脳内で歓喜の音楽が流れていた。
ベアトリスは無我夢中でホテルの外に飛び出すと、そこで人とぶつかってしまった。
「ベアトリス…… じゃないか」
「あなたは、ヴィンセントのお父さん」
──どういうことだ、ベアトリスのシールドが完全に解除されている。
ヴィンセントとパトリックが後を追ってくる姿にリチャードが気がついた。
「何かあったのかい」
優しそうな目でベアトリスを気遣うが、ベアトリスは急に怯え出した。
──この人、私の両親を殺した?
ベアトリスは咄嗟にリチャードをも避けた。
そしてさらに走り出す。
そこに車が滑り込むように止まって助手席のドアが開いた。
「ベアトリス、さあ、乗れよ。送っていってやるよ。悩みのない場所にな」
コールだった。
「だめだ、ベアトリスその男に近づいちゃいかん」
リチャードがベアトリスを捕まえようとすると、ベアトリスはそれに恐れて、却ってコールの車に乗り込む選択しかなくなってしまった。
ベアトリスは車に乗り込んでしまった。そしてドアが閉まり、車は猛スピードで走り去っていく。
「しまった」
リチャードが慌てた。
コールの車は後を追いかけられないくらいにあっという間に視界から消えていった。
その時、ホテルがパニックに陥ったように沢山の悲鳴が一つになって大きく辺りを震撼させた。ゴードンは影も呼び寄せ、辺りは殴り合いの派手な喧嘩になっ ていた。
冷静なリチャードが顔を歪ませて焦った。
「一体ホテルで何が起こってるんだ。とにかくヴィンセント、よく聞け、何がなんでもベアトリスを見つけろ。あの車に乗っていた男はコールだ」
「なんだって。どうみたってアイツはポールじゃないか」
ヴィンセントが驚いた。
「あの男がコールだって? どういうことなんだ」
パトリックは驚きのあまり、呼吸困難になりそうだった。
「大変な誤算をしていたんだ。コールはノンライトに成りすましていた。それがお前のクラスメートだったんだ。まんまとコールの策略に我々はひっかかってしまったんだ」
リチャードが悔しさを滲ませながら、ベアトリスを救える方法を同時に模索する。
「くそっ、なんで気がつかなかったんだ。あんなにポールがおかしくなってたのに、ダークライトの気ばかり気にしすぎて目に見える事を見逃していたなんて」
ヴィンセントは己の愚かさを呪い、ベアトリスのことが心配で気が狂いそうになっていた。体を震わせ、息を激しくしては爆発しそうな怒りを必死に体に封じ込めていた。
「今、後悔している暇はない。なんとしてでもベアトリスを見つけなければ、ライフクリスタルを奪われてしまう。きっと共犯者がいるはずだ。そいつが会場を荒らしているに違いない。そいつを捕まえて場所を聞くんだ」
パトリックが助けられる方法があると二人に叫んだ。
「ゴードンか」
リチャードはゴードンを探しに混乱している会場に乗り込んだ。その後をヴィンセントとパトリックも続く。会場は既にプロムの華やかさはなく、狂気に満ち溢れた闘技場となっていた。
リチャードに対する不信感からベアトリスは逃げることだけを考え、目の前に差し出されたコールが運転する車を助け舟とその時は思った。
車に乗り込んだものの、暫く走ってから、落ち着いてよく考えれば、隣で車を運転している人物は自分の天敵であるとハッとする。ベアトリスは正気に戻り自分がしていることを酷く後悔しだした。
向かいの車がすれ違う時に発せられるライトの光がポールに成りすましているコールに反射する。
光の当たり具合で顔の凹凸の明暗が頻度に変化し、笑っているのにそれは狂気に満ちて気味が悪かった。
ベアトリスは機嫌を伺いながら不安に問いかける。
「ポール、どこへ行くの? あの、やっぱりホテルに戻りたい」
「ベアトリスは優柔不断だ。一人で抱え込んで一人で悩んで、そして振り回されすぎて、自分で解決できずにすぐ逃げて、結局は後悔して、またスタート地点に戻る。それの繰り返し」
コールは呟くように喋っていた。
ベアトリスは全くその通りだと、何も言えなくなった。
「あーあ、またふさぎ込んじまった。自分がいい加減いやになるだろう。なあ、もうそういうのやめたいと思わないか?」
痛いところをつかれてベアトリスは下を向いて黙り込んでいた。
「ほら、自分でもわかってるじゃないか。苦しいんだろ。自分のことですら信じられずにダメだと思い込んでいる。そんな自分が嫌いでたまらないんだろう。 黙ってないでなんとか言えよ」
「その通りよ。何をやってもうまくいかない。自分を信じることもできない。人に頼らないと何もできない。私はダメな人間よ。だからポールも私にイライラしていじめたくなるんでしょ」
ベアトリスはヤケクソになって叫んでしまった。
「そうだな。じれったいのはイライラさせられるけど、俺はベアトリスに興味があるんだ。だからお前を救ってやりたいなんて思ってたりするぜ。それが俺にも役に立って一石二鳥ってところなんだが」
「私を救う? どうやって」
「それは後のお楽しみ。とにかくまずは自分自身のことを良く知ってみたらどうだ?」
「私自身のことを知る?」
「ああ、知りたいと思わないか? なぜヴィンセントもお前のプロムデートも執拗にお前を追い求めるのか。お前が一体何者なのか、そして両親の事故のことや、婚約のこと、気にならないのか? 今こそ逃げないで向き合うときじゃないのか」
ベアトリスの頭の中は混乱していた。ホテルの部屋でヴィンセントとパトリックが言い争っていたことを考えていたが、ところどころのキーワードがよくわからない。
もう真実は一歩手前まで見えてきている。ベアトリスはじっと目を瞑り、体に力を込めていた。これ以上それから逃げられないと思うと、全てを知る覚悟をして、コールに首を向けた。
「あなたは私のことを知っているの? だったら教えて」
ベアトリスが真剣な表情でコールを見つめると、コールは前を向いたままニヤリと口元をあげた。
「いいだろう。教えてやろう。まずはお前の正体からだ。以前話したことがあるだろう。この世の中大きく分けてどんな人間がいるかって。そしてその一番上に いる、天上人、すなわちホワイトライトのことだ。それがお前だ。そして力を与えられたもの、ディムライトが、あのパトリックという男。最後に邪悪なもの、 ダークライトと呼ばれるのがヴィンセントだ」
「天上人…… それが私?」
「そうだ。お前は自分の地位を告げられずに隠されてこの世で生活している。周りがお前を守っていたのさ。心辺りはないか? 例えば特別な水を飲まされたとか」
「水! あの壷の水。あれを私も飲んでいた?」
「あれはライトソルーションと言って、お前が飲むと身を守るためにホワイトライトの力を押さえ、邪悪なダークライトから遠ざける見えないバリヤーを体に張 り巡らすのさ。それがあるとダークライトはお前を感知できない。ただ近くに寄ったダークライトには攻撃力を与える。だからダークライトのヴィンセントは近 寄ると体を焼かれるように苦しくてお前に近づけなっかたってことだ。心当たりあるんじゃないか」
ベアトリスは手で顔を覆った。自分の仮説どおりだったと思うと涙があふれ出してくる。
「ヴィンセント……」
「ああ、アイツも苦しんでたよ。なんか今回変なこと企んでいたようだったけど、奴なりにお前と一緒に居たくて必死だったんだろうな。きっとこれが初めてのことじゃないはずだ。その前にも色々と何かを仕掛けては一緒に過ごそうとしてたんじゃないのか」
ベアトリスは物置部屋で一緒に過ごしたことを思い出すといたたまれなくなった。
「さあ、次は何について話そうか。まだまだ知ることは一杯あるぜ」
コールは不気味に笑いながら、あの屋敷へと向かっていた。自分の姿に戻ったとき、ベアトリスのライフクリスタルを手に入れることを楽しみに、チラチラと時々ベアトリスを見ながら運転していた。
ホテルの会場内は無法地帯となり、男女隔てることなく誰もが殴り合い、物を投げ合って収集がつかなくなっていた。
「ヴィンセント、影をおびき出す空間を作れ」
リチャードが指図すると、ヴィンセントは集中して、辺りを真っ赤に染め上げ、普通の人間が耐えられないくらいの圧迫したゼリー状のような空間を作り上げた。
次々に人々は不快な空間で意識を失い床に倒れこんでいく。
影が入り込んだ人間が倒れこむと、次々と体からあぶりだされるように出ては宙に漂っていた。
ヴィンセントは爪でそれを次々に切り裂き、パトリックはデバイスから出る光の剣で突き刺して退治していく。
リチャードはゴードンを見つけ、素早く駆けつけると首根っこを掴んだ。
ゴードンの背中から影が出てくると、指をパチンと鳴らして、それを一瞬で燃やした。
ゴードンはだらっと首をうなだれて意識を失っていた。
全てが片付き、空間はまた元に戻った。辺り一面、人が重なり合って倒れこんでいる。足の踏み場も難しいところだった。
「当分は彼らも目を覚まさないだろう。起きたときに何を思うかだが、とんでもないプロムになってしまったもんだ」
リチャードは周りを見回していた。
「そんな同情してる暇はねぇよ。ベアトリスを助けに行かなくっちゃ。おい、お前起きろ」
ヴィンセントはゴードンの頬を何度も叩く。
「とにかくここではなんだから外に出よう」
パトリックが会場を離れてホテルのロビーに出る。ロビーにいた人たちはプロムパーティの混乱で慌しく右往左往していた。そこでうろたえてるアメリアとかちあった。
「パトリック! 一体何が起こってるの? ベアトリスはどこ?」
「アメリア…… 申し訳ございません。僕がついていながら、ベアトリスは……」
その先が言葉にできなかった。
ヴィンセントも後から現れ、アメリアに気がつくと思わず顔を背けてしまった。そしてリチャードがゴードンを引きずりながらアメリアの前に現れた。
「その男は私の首を絞めた男。まさかベアトリスはダークライトに連れ去られたの?」
「アメリアすまない。油断していた。コールがベアトリスを連れて行ってしまった」
アメリアは、ショックで全身の力を失いバランスを崩し倒れると、パトリックとヴィンセントが慌てて支えた。近くにあったソファーにアメリアを座らせる。
アメリアは頭を抱えながら嘆いた。
「どうして、こんなことになるの。あなたたちが一緒にいながら何をしてたの」
ヴィンセントが下を向きながら弱々しい声で事の発端を説明し出した。そしてリチャードの鉄拳が飛ぶ瞬間パトリックがヴィンセントの前に立ちはだかり庇っ た。
「いえ、これはヴィンセントだけの責任じゃありません。真実を洩らした僕にも責任があります。どうか今は落ち着いて下さい。まずはベアトリスの救助が先です」
「いや、責任は私にもある。変化を目の前にしながらコールの計画を見抜けなかったのは私の過失だ」
リチャードも拳をおろし悔やんだ。
「責任はどうでもいい、とにかく早くベアトリスを救って。このままじゃ殺されてしまう」
アメリアは発狂しそうになりながら、目に涙を一杯溜めていた。
「とにかくコイツを起こさないと」
パトリックはデバイスを取り出し、それから出る光をゴードンに向けた。
全く明かりのない豪邸の前でベアトリスを乗せた車は停まった。大きなその屋敷は暗闇で何かに取り憑かれた雰囲気を持ち、ベアトリスは息を飲んだ。心に浮かんだ感情は素直に怖い──。
「まだ話が聞きたいんだろ、だったらついてこい。次はもっと面白いものが見られるぜ」
コールはすーっと暗闇にすいこまれるように豪邸の中に消えていく。辺りは闇そのものだった。
時折風が吹くと草木がすれた音に脅かされ、ベアトリスもドキッとし た弾みでコールの後について行っ た。
大きくて立派な建物だが、外見と同様、中も古ぼけてどこをみても不気味だった。床には大きく何かをこぼした黒ずんだ染みが浮き上がってみえた。
深く考えないように急ぎ足でコールの側についた。
コールが案内した部屋へ入ると、薄暗いが蝋燭の光がぼんやりと部屋を照らし、ベッドに人が寝ている姿とその側で女性が座っているのが見えた。
「あっ、意外と簡単につれて来たんだね。その子がベアトリスなんだね」
マーサがベアトリスの前に立ちまじまじと顔を見つめた。ベアトリスはたじろぐ。
「こいつはマーサだ。俺はちょっとこれから支度があるので、それまでこいつと退屈しのぎに話してな」
「一体何をするつもり?」
ベアトリスはここまで来ておいて後悔で一杯だった。
「まあ、みてなって。さてこの体ともお別れか。まあ今となってはそんなに悪くもなかったかな」
「そうだね、なかなかよかったかも…… なんていったら不謹慎かい?」
マーサは意味ありげな笑いを見せていた。
ポールの姿はこれで最後と、コールは左手の黒い輪っかのようなものを外し、寝ている本当の自分の腕につけた。そのとたんにポールの体から黒い気体のようなものがすーっと出てきて横たわっているコールの体へとすっと入り込んで行った。
ポールの体は気を失ったようにバタンと床に倒れた。その瞬間、寝ていたコールの目がぱっと見開いた。
「コール!」
マーサが嬉しさのあまり名前を叫んだ。
ベアトリスは何が起こっているのかわからずに、ただ驚いて息を飲んだ。床で転がってるポールが死んだように見えて、怖くなって青ざめていた。
「くそっ、長いこと自分の体を留守してたら、思うように動かせない」
「落ち着きな、コール。すぐ元通りになるよ。慌てることないじゃん」
「マーサ、ベアトリスが退屈しないように、過去の記憶を呼び覚ましてやってくれ」
マーサは了解と、水晶玉を取り出した。
「あんた記憶をリチャードに塗りつぶされてるんだろ。その闇を取り除いてやるよ。あいつ酷いよな。あんたの両親を殺した上に、過去の記憶を封じ込めちゃうんだから。さすがダークライトの帝王だよ」
「ほんとにヴィンセントのお父さんが私の両親を殺したの?」
「ああ、あんたのボーイフレンドの記憶を見たことがあるんだけど、彼はしっかりその様子を見てた。ついでにあんた、眼鏡をかけた冷たい感じのする女に殺されかけてた」
「えっ、アメリアが私を?」
「とにかくそこのソファーに座りな。あんたかなり色んな奴らにコントロールされてるみたいだね。可哀想に」
ベアトリスはマーサに体を押されて、よたつくようにソファーに無理やり座らされた。マーサもその隣に腰掛け静かに笑いを見せると、いいことなのか悪いこ となのか判らずベアトリスは強張った顔になった。
水晶を目の前に見せられそれが怪しく光る。何度も自分に向けられたので、それを持てという意味だと気がつくと、恐々と受け取った。両手で水晶を抱え、マーサもベアトリス の手を包むように上から抱え込んだ。
二人は一緒に水晶を持った。光が二人の顔を照らし青白く暗闇の中で浮いて見えた。
「いいかい、リラックスするんだ。ほら、見てご覧、あんたの手から黒い影が水晶に吸い取られてるよ。かなりの強い闇だ。でもこの闇、私には美味しいんだ。 これが私の力を強くしてくれる」
水晶が真っ黒くなっていくと光がさえぎられたが、うねる煙のような闇の隙間からところどころ光が洩れていた。それに反応するかのようにベアトリスの記憶が蘇り色んな場面が洩れる光に合わせてフラッシュしだした。
子供の頃のヴィンセントの顔。初めて会ったときのこと。一緒に遊んだ夏。そしてヴィンセントの母親の死の場面とヴィンセントが怒りをコントロールできな くて自分が必死で抱きしめていたことも思い出し、全ての記憶が繋がった。
ベアトリスは目を瞑り、じっと動かなかった。水晶を持つ手が震え、そして涙が頬を伝わる。
「私にも見えるよ、あんたの記憶。あんたあのボーイフレンドより、リチャードの息子が好きなんだね」
マーサの指摘でベアトリスは反射的に目を開け突然立ち上がり、水晶玉から手を離して落としそうになった。マーサが慌てて掴んだ。
「ちょっと気をつけてよ。これがないと私商売できないんだから」
ブツブツと文句をいっていた。
その時、ベッドからコールが起き上がった。
ホテルのロビーではスタッフや宿泊客が騒がしく慌てふためいていた。めちゃくちゃになったプロムパーティと気絶した人々の手当てに尋常じゃない切羽詰った緊迫が漂っていた。
それを引き起こした中心人物たちはそんなことは全く重要じゃないと、自分達の問題に頭を抱える。
ベアトリスを救うにはゴードンから場所を聞き出さなければならない。
誰もが気を失ってだらりと首をうなだれているゴードンを各々の思いの中で見つめていた。
パトリックの持つデバイスから煙のような光が出ると、それをゴードンの鼻へ向けた。
ゴードンはその煙を鼻から吸うと、目をぱっと開いた。
「あれ? ここどこ。あっ、リチャード。殺さないで、殺さないで」
頭を庇うように手を掲げて、ゴードンは怯えていた。
「ゴードン、コールはどこだ。正直に言えば、許してやる」
「おいら、おいら……」
ゴードンは状況を把握できず、コールのことも裏切れず、ただ震え上がっていた。
ヴィンセントは苛つきゴードンの胸倉を掴み、恐ろしい形相で睨んだ。
「よせ、そんなことをしても無駄だ。これ以上脅かすな」
ヴィンセントはリチャードに施されるが、苛立ちまで押さえられずに力強く手を離した。
リチャードは根気よく続ける
「ゴードンよく聞くんだ。コールはお前に影を仕掛けていた。そんな奴を庇うのか。そして目的を達成するためにザックを殺したんじゃないのか」
「あっ、ザック、ザック!」
ゴードンは思い出し、子供のように泣きじゃくった。
「落ち着くんだ。ゆっくりと何があったか話すんだ」
「オイラはコールと一緒にライフクリスタルを手に入れて賢くなって皆を見返してやるんだって」
「そっか、それで」
「でも、リチャードが邪魔で難しかった。そこでザックを使ってコールは高校生に成りすまし、ヴィンセントから情報を得ようとしたんだ。そしたらザックを口封じに殺してしまった。おいらそれから何をしたか覚えてない」
「その間コールの本当の体はどこにあったんだ?」
ゴードンは答えに詰まり躊躇している。判断に困りながらそれ以上喋らなくなった。
「親父、そんな生ぬるいことしてたらいつまで経ってもコイツは本当のことを言わない。こんな馬鹿に優しくする必要なんてないんだ」
ヴィンセントは一刻も無駄にできない状況に怒り、イライラを吐き出した。
「あっ、オイラのこと馬鹿だって言った。お前、嫌いだ。オイラもう何も言わない。殺すんなら殺せ」
ゴードンは自分の嫌いなキーワードに開き直り、拗ねて床に胡坐をかいて腕を組んで座り込み、口を頑なに閉じてしまった。
「おい、ヴィンセント、事を荒立てるな、余計に酷くなっちまったじゃないか。どうすんだよ。このままじゃベアトリスは……」
パトリックは絶望感で体を振るわせた。歯をぎゅっと食いしばり、高ぶる感情を拳に詰めてぐっと握りつぶす。
「ベアトリスは今、シールドが解除されているのよね。それならまだ救える方法がある。彼女次第だけどパトリックかヴィンセントどちらかがベアトリスの元へいけるかもしれない」
アメリアが二人に小さく呟いた。
パトリックがはっとして目を見張った。そしてヴィンセントを咄嗟にきつく睨む。
「なんだよ、急に睨みやがって。どういう意味だ」
「お前は知らないみたいだな。それならそれでいい。俺が消えたときは恨むなよ」
「消える?」
ヴィンセントは一度経験があるのにその意味について何も知らなかった。
リチャードも状況を把握して、何も言わず背広のポケットから携帯電話を取り出し、ヴィンセントに手渡した。アメリアも自分のをパトリックに渡す。
「なんだよ、急に携帯電話なんか」
「ベアトリスの場所がわかったら、連絡をするに決まってるだろうが。お前は持ってるだけでいい。僕が電話する」
話が見えないとヴィンセントは不思議がっていた。パトリックはその顔を見ると説明する気にもなれなかった。
心の底ではヴィンセントが消えることを恐れている。それがベアトリスの本心を表すことをパトリックはわかっていた。
コールは首を左右にふり、大きく伸びをして、ベッドからゆっくりと立ち上がった。
蝋燭の火の明かりの中に照らされる見知らぬ男。黒い塊に見え、目だけがギラリと光りベアトリスを捉えている。
さらに床に転がっていたポールの体を邪魔だと容赦なく蹴飛ばした。
ベアトリスの高鳴る心臓は体から発する危険信号。これほどの恐怖を味わったことがないほどに震え上がった。
無意識に後ずさるが、壁にぶつかるともう逃げ道がないことを思い知らされ戦慄が走った。
「まだ少ししびれるが、やっと動けるようになった。ベアトリス待たしたな」
「あなたは誰?」
「姿が変わるとやはり判らないものか。ヴィンセントもリチャードもすっかり騙されたくらいだもんな。俺はコールさ。さっきまでポールの体に居たけどな。 これが俺の本当の姿だ」
「どういうこと?」
ベアトリスが床に転がってるポールの姿を見たとき、彼はちょうど意識を取り戻し上半身が起き上がった。
辺りを見回し、状況を把握すると慌てて立ち上がり突然悲鳴をあげた。
「折角俺が雰囲気変えて一目置かれるようにしてやったのに、これじゃ元の木阿弥か」
コールが睨みを利かすと、更にポールは怯え上がった。
「コール、いい加減にしてやりなよ。さっきまでその体だったんだから、愛着とかないのかい? 私も全く関係ないっていいきれないからね。あんた結構いい体してたよ」
マーサが薄ら笑いを浮かべてポールに近づき、そっと胸元を指で撫ぜた。
ポールは自分の体を見ては、腹や胸を触り、そして腕を曲げて筋肉が盛り上がることに驚いていた。
「痩せてる…… 一体、僕はどうなったんですか。なぜタキシードを着ているんでしょう」
ポールはキョトンとしてコールを見つめた。
「どうだ、その体気に入ったか。お前は生まれ変わったんだよ。どうでもいいから俺の目の前から消えてくれ。それとも殺されたいか」
「あっ、いえ、出て行きます」
ポールは一目散にドアに向かって、逃げていった。
「これでわかっただろう。俺はアイツに成りすましていただけなんだ」
「何のためにそんなことを?」
ベアトリスは質問した。
「ヴィンセントから情報を得て、ホワイトライトのあんたを探すためだったんだよ」
「私を?」
「そうさ、俺はヴィンセントと同じようにダークライトさ。以前に言っただろう、悪魔だって。その悪魔が欲しがるもの、それがホワイトライトの持つライフク リスタルなのさ」
「私、そんなもの持ってないわ」
「それが、持ってるんだよ」
コールは素早くベアトリスの前に移動し、彼女の心臓を指差した。
「ここにな。お前の命さ」
ベアトリスはやっと自分がなんのために連れてこられたか理解したがもう遅かった。
「嫌っ!」
逃げようとするが、前にコールがふさがっては身動きできない。
「今さら逃げてどうするんだ。悩みを一杯抱えて苦しいんだろう。俺がそれを取り除いてやるっていったじゃないか。あんたは目を瞑っているだけでいいんだ。 安心しな。すぐに楽にしてやるから」
コールの顔が薄明かりの中で不気味に生える。ベアトリスは恐怖で息が止まりそうになるほど怯えた。もう動くことができなかった。
顔を背け、目を強くギュッと瞑る。
──これが逃げてきたことへの結果。そして私はこのまま人生を終える……
「いい子だ。そうだ、そうやっていればすぐに楽になる。何もせずに俺に任せるだけで、お前はこの苦しみから解放される」
──何もしないでこのまま終わる? そんなの嫌!
ベアトリスは突然目を見開いた。コールの迫る手を突然掴んでもてる限りの力で噛んだ。
コールは悲鳴をあげたとき、一瞬の隙をついて突き飛ばし、コールからすり抜けてドアに向かった。
「ベアトリス、やってくれるじゃないか。窮鼠猫を噛むってところか。しかし、俺には通用しないんだよ」
素早い動きは、目にも止まらずにあっという間にベアトリスの目の前に現れた。
コールは不気味な笑いを浮かべて、容赦なく手を振りかざしベアトリスの頬を殴り飛ばした。ベアトリスは跳ね返るように後ろに飛ばされ、床に倒れこむ。
「ちょっとコール、少しは手加減してやんなよ。女の子なんだよ」
マーサは庇う割には面白がって笑っていた。
ベアトリスの頬は赤く腫れ、口の中が切れて血が出ていた。
「なぜ、最後まで苦しもうとするんだ。抵抗しても無駄なことがわからないのか」
コールはベアトリスと同じ目線にしゃがみこみ、彼女の顎を指で持ち上げお説教する。
「ほんとにお前は最後まで苛つかせてくれるよ。そんなに苦しみたかったら、お望みどおりにそうしてやる」
コールはまたベアトリスの頬を叩く。ベアトリスはそれでも立ち向かおうとコールを睨みつけた。心の中は悔しさと怒りで爆発寸前だった。最後まで諦めるものかと必死に歯を食いしばった。
「まだ抵抗するのか。逃げてばかりのお前が最後に立ち向かうとは皮肉なもんだな。しかし無駄だけどな」
コールの手が再び振りあがったときだった。突然ベアトリスから光が放たれた。その光に目をやられて、コールは一瞬怯んだ。
ベアトリスは尽かさずドアに走りより、部屋を飛び出した。
「くそっ、あいつ、ホワイトライトの力を使いやがった」
暫くコールの目が見えなくなった。ベアトリスはその間に部屋を飛び出し、出口求めて必死に玄関のドアめがけて走った。
しかしドアを開けたときだった、目の前にコールが立っている。ベアトリスが驚く暇もないまま、突然首を掴まれそのまま強く押さえられた。徐々に後ろに追いやられて最後に力強く床に倒された。
「言っただろ。無駄なんだよ。俺はダークライトだ。悪魔なんだ。俺から逃げられるわけがないんだ。お前がここまで抵抗するとは思わなかった。その努力は認めてやろう。しかし、お遊びはここまでだ。お前のライフクリスタル頂く」
ベアトリスは今度こそもうダメだと思った。首を押さえられ、息も苦しい。意識が遠のく中、最後だと覚悟したとき、一番会いたい人が頭に浮かんだ。
抵抗していたベアトリスの体から力が抜けると、コールは首を押さえていた手を離す。ベアトリスの胸から何かを吸い取るようにコールが彼女の心臓めがけて 手をかざし、恍惚とした取り憑かれた眼差しでその瞬間を待つ。柔らかい光りがベアトリスの胸から放たれると、それはコールの掲げている手に引き寄せられ た。そしてコールの手の中で形を形成していくように徐々に膨らんでいった。
コールは上機嫌で声を高らかに上げて笑っていた。
「やめろ!」
声と同時にコールは後ろから何者かに掴まれ思いっきり投げ飛ばされた。そのせいで吸い取られていた光はまたベアトリスの胸へと戻っていった。
「あと一歩のところで完全なライフクリスタルとなり奪い取れるところだったものを誰だ邪魔するのは」
頭を上げたとき、目の前にいた人物にコールは驚いた。
リチャードは一刻も争うこの事態に自らの焦りを押さえ、根気よくゴードンを説得しているが、表情には余裕がなく切羽詰ったジレンマを押さえ込もうとする反動で眉間に皺が寄っていた。
コールの居場所を聞きだすためにはゴードンの口を割らせないことには始まらない。脂汗を掻き、時々それを拭って深い息を吐きながら、それでも必死でゴー ドンをなだめていた。
ヴィンセントはじれったいと足をがたつかせてそれを見ている。パトリックもさすがに堪忍袋の尾が切れそうになり、ゴードンを殴り飛ばしたくなっていた。
「お前の父親、なんて悠長なことを」
パトリックがヴィンセントに耳打ちする。
「いや、あれは切れる寸前だ。それを必死に我慢してやがる。本当なら殴ってでも吐かせたいんだろうが、一応刑事だから公の場ではできないだけだ」
「だったらお前が変わりに殴れよ」
「俺だってそうしたいが、親父がああしている以上、俺も殴れるわけがないだろうが。ああ、くそっ」
「こんなことしている間にベアトリスの命が危ない」
「お前のデバイスはホワイトライトの感知に使えないのか」
「これは護身用だ。ダークライトには反応するが、ホワイトライトには関係ない」
二人は落ち着かずに好き勝手に話している。そして一緒になってゴードンを睨み付けた。
「ところでさっきの話だが、消えるってどういうことだ?」
ヴィンセントの質問にパトリックは息をぐっと詰まらせた。
自然に湧き起こる不安がパトリックの嫉妬をかき立てる。ホワイトライトの思い人を呼び寄せる力のことを素直に言えない。それがヴィンセントであった時のことを恐れている。
個人的な感情からヴィンセントに説明するのも腹立たしく黙り込んでしまった。ヴィンセントは何も知らずパトリックの説明を待っていたが、説明する前にそれは現実に目の前で起こってしまった。
「今、ベアトリスが俺を呼んだ……」
ヴィンセントがそういった時、異変が起こった。
「そんな、ヴィンセントが消えていく」
ヴィンセントに触れようとパトリックは咄嗟に手を出すが、手ごたえもなくすーっと消えていった。
パトリックは呆然と立ちすくんでしまった。
アメリアは申し訳なさそうな表情でパトリックに近寄ると、肩に手を置いた。
「パトリック、今はベアトリスの救出だけ考えて。早くヴィンセントに電話を掛けて居場所を聞いて」
パトリックは震える手で携帯電話を操作した。
「ヴィンセント、どうしてお前がここに」
コールは邪魔が入って怒りを露にした。
「俺もそんなこと知るか! 気がついたらここにいたんだ」
ヴィンセントはベアトリスに走りより抱きかかえた。
「ベアトリス、大丈夫か」
「ヴィンセント?」
ベアトリスは涙を一杯溜めて、ヴィンセントに抱きついた。
「もう大丈夫だ。怖かっただろう。こんなに怪我して…… 立てるか?」
ベアトリスは小さく頷き、ヴィンセントに支えられヨロヨロと立ち上がる。
ヴィンセントは盾になるようにベアトリスを自分の後ろに立たせてコールを睨みつけた。
「コール、ベアトリスをこんな目に遭わせやがって、許さない」
「お前に何ができる。言っておくが、力は俺の方が上だぜ」
その時、突然、携帯電話がヴィンセントのジャケットのポケットから鳴り響いた。
一瞬の隙をつかれてコールが素早くヴィンセントに飛び掛ってきた。
ヴィンセントは咄嗟にベアトリスを後ろに押し、体を構えてコールの攻撃を受けとめる。
コールは素早い動きでヴィンセントの後ろに回りこみ、首に腕を回して羽交い絞めにして強く締め上げた。
ヴィンセントは動きを封じ込まれ、苦しそうにうめき声を上げた。その側でまだ携帯電話の音が鳴り響く。
「なんだ、もう終わりか。電話にも出られないな」
「くそっ!」
ヴィンセントの首はきつく締め付けられる。力の差は歴然だった。コールと互角に戦うには己の醜い姿をさらけ出すしか方法がない。
だが、ベアトリスを目の前にしてそれを躊躇していた。
「ヴィンセント!」
ベアトリスは我慢できずに走り寄り、コールの背中を夢中で叩く。
「マッサージにもなってないぞ、ベアトリス」
コールは片手でベアトリスを払いのけた。ベアトリスは宙を舞うように部屋の隅まで飛ばされ、ドシンと言う音とともに体を強く打って気を失ってしまっ た。
「ベアトリス!」
ヴィンセントはもうなりふり構っていられなかった。全身が黒い塊となり、つりあがった目つきと尖った牙を持つ野獣へと変身する。
動きに邪魔だと上半身に身につけていたものを引き剥がし、そしてコールの腕を取り、投げ飛ばした。
コールはくるっと宙を回転してバランスよく着地した。
「とうとう本性を現したか。ダークライトの中でも変身するタイプは数少ないが、野獣になるものは下等でクズだ。その中でも卑しい部類とされている。そんな姿で戦わねばならないほど、お前も落ちぶれたもんだ」
「ああ、笑えばいいさ。こんな姿にならなくても俺は元々落ちぶれた奴さ」
今度はヴィンセントがコールに飛び掛る。二人は取っ組み合い、激しく殴り合う。ヴィンセントは腕を高くあげ爪をむき出しにして降りかかり、コールの胸元を引っ掻くが、コールに避けられ服をかすっただけだった。
コールは余裕の笑みを浮かべ、ヴィンセントをさらに挑発する。ヴィンセントは闇雲にコールにダメージを与えようとするがさっと交わされて無駄な動きが多くなっていた。
思うように動けないヴィンセントを嘲笑うかのように、コールは素早い動きで後ろに回りこみ、ヴィンセントの首を羽交い絞めにしようとした。
「さっきと同じ手は喰らうか」
ヴィンセントも機敏に動き身をかがめすぐさまコールの首を掴み床に倒して押さえ込んだ。それでもコールはまだ笑みを浮かべていた。
「甘いな」
コールは足でヴィンセントを蹴り上げ、隙を突いてすり抜けた。どちらも引けを取らずに互角に戦う。応戦は暫く続いた。
携帯電話は破れた服のポケットの中でまだ鳴り響いていた。
「ヴィンセントは何をしているんだ。早く電話に出ろ」
ヴィンセントが消えてから電話を掛けるが一向に繋がらない。
パトリックは自分を見失うほど心を乱していた。電話をアメリアに渡すと、ゴードンの側に行き八つ当たりするように腹部に何度も蹴りを入れた。
「パトリック止めるんだ」
リチャードが止めに入るが、パトリックはリチャードも振り払い怒り狂っていた。
「パトリック、落ち着きなさい」
アメリアが叫んだ。
パトリックはデバイスを取り出し、光の剣をゴードンの喉に向けた。
「さあ、言え、ベアトリスはどこにいる」
ゴードンは震え上がった。口を開くどころか恐ろしさのあまり全ての機能が停止していた。
パトリックは我慢ならずに剣を振りかざし、ゴードン目指して振り下ろしてしまった。
ゴードンは頭を抱え込んで泣き叫ぶ。
剣は確かに何かを切った手ごたえがあった。赤い血がぽたぽたと滴り落ちるのを見たとき、パトリックは正気に戻った。
リチャードが自分の左腕を犠牲にしてゴードンを庇っていた。
「パトリック、私情の怒りでそのデバイスを使ってはいけない。それは自分の身やホワイトライトを守るための護身用だろ」
パトリックはハッとした。その場でただ突っ立ってリチャードの傷口を青ざめて見ていた。
「リチャード、どうしてオイラを庇った」
ゴードンが不思議そうにリチャードを見つめる。
「お前は根は素直な奴なのを知ってるからだ。ゴードン、もう誰にも利用されるな。ライフクリスタルを手にしても賢くなんてならないんだぞ。賢くなりたかっ たら、誰の言いなりにもならずに自分の意思で判断するだけでいいんだ。お前は決して馬鹿なんかじゃないんだぞ。そんな言葉に惑わされるな」
「オイラ、ライフクリスタルなくても賢くなれるの?」
「ああ、もちろんだ」
「リチャード、だったらオイラ言う。コールが居る場所。だから全てのこと許して欲しい」
「判った。お前は影に操られていただけだ。自分の意思でやったんじゃない」
リチャードは遂にゴードンを説得し、居場所を聞き出した。
しかしリチャードの傷口は思った以上に深く切り込まれていた。血がまだ止まらない。リチャードはネクタイを外し、自分の傷口を固く縛った。痛いのか、顔が少し歪んでいた。
パトリックは罪悪感で胸が一杯になり、それに押しつぶされた表情で必死に頭を下げた。
「すみません。僕がいけないんです。あなたにそんな傷を負わせてしまって」
「大丈夫だ。私がこれくらいでやられると思うか」
リチャードは余裕で笑顔を見せた。
「場所はわかったわ。とにかく急ぎましょう」
アメリアは一刻も時間を無駄にできないとせかした。
「オイラ、一人ならそこへ瞬間移動で連れて行ける」
ゴードンが提案する。
「それなら僕を連れて行ってくれ」
パトリックが名乗りを上げた。
リチャードもそうしてくれと目で知らせると、ゴードンは頷いてパトリックとすぐに消えていった。
「アメリア、私達も急ごう」
二人も現場に向かった。
ベアトリスは意識を取り戻し、頭を押さえながら体を起こした。目の前で凄まじい音を立てながら、暗闇の中、二つの影がぶつかり合っているのが見えた。
フラフラしながら立ち上がり、目を凝らした。
「あれは、あの時見た野獣…… ヴィンセント……」
ベアトリスは驚きも恐ろしさも何もなかった。やっと真実に向き合えた喜びが心に湧く。
だが喜んでもいられない。二人が戦っている様子はどうみてもコールの方が優勢にみえた。ベアトリスは祈りながら、ヴィンセントを見守る。
ヴィンセントは戦いに慣れてなかった。力は互角でも、実践になれたコールの方が技術的に上だった。
「どうした。野獣に変身しても大したことないじゃないか。得意の破壊は使わないのか」
コールに嘲笑われるが、コールの動きの速さでは破壊力を使っても、狙ったとたんにかわされるのが落ちだった。折角の攻撃力を持っていてもコールには通用しない。
──親父の言った通りだ。コールの方が断然強い。俺はどうしたらいいんだ。このままじゃ……
ヴィンセントの息が上がってきた。このまま持久戦になれば負けるのが見えていた。
部屋の隅でベアトリスが祈るように見ている。野獣の姿を見ても落ち着いて、心配しているのが伝わってくる。
──俺はベアトリスを守る。そのためにこの力があるんだ。
気持ちを奮い起こし、渾身の力を込めて、捨て身になり接近してコールの攻撃をわざと受け、至近距離から破壊の力を向けた。
凄まじい青白い光とスパークがコールに向かって行く。
コールは避けきれずそれを咄嗟に受け止めるしか逃げ道はなかった。
コールも負けてはいない。打ち消すバリアーを両手から放ち、破壊のパワーと押し合った。だがヴィンセントの攻撃力の方が強く、コールは爆発と共に押しや られて壁に叩きつけられ大きくダメージを受けてしまった。
口から血が流れ体はぐにゃりと床に転がり動かなくなった。
──やったか。
ヴィンセントは息をハアハアさせて身をかがめて立っていたが、コールをやっつけたことに安心してがくっと膝を突いてしまった。
ベアトリスが思わずヴィンセントに走り寄る。そして野獣の姿のままのヴィンセントに抱きついた。
「ヴィンセント。無事でよかった」
「ベアトリス…… 俺が怖くないのか」
「怖いですって? どうして。言ったでしょ。私はヴィンセントが何者でもいいって、どんな姿でもヴィンセントはヴィンセントだから真実を受け入れるって。 それに私、昔の記憶を取り戻したの。ヴィンセントとあの夏一緒に過ごしたこと全て思い出した」
ヴィンセントはベアトリスの言葉を聞くや否や、我を忘れて力強く抱きしめた。ベアトリスもずっとずっと押さえていた感情を解放して無我夢中で抱きつき返した。
そしてその時、ゴードンとパトリックが現れ、パトリックは目の前の光景をまともに見てしまった。ベアトリスが野獣の姿のヴィンセントと抱きついている。
ヴィンセントの全てを受け入れたベアトリス。
燃えるような嫉妬がパトリックを襲った。気が狂いそうになるのを必死に押さえ込もうと震えていた。
ゴードンはパトリックを連れてきたが、異様な雰囲気を察知して突然何かに怯え出し、逃げるようにまたぱっと姿を消した。
ゴードンが感知した危険はパトリックの背後にじりじりと迫る三体の影だった。パトリックは目の前の光景に気を取られて危機を感知できずにいると、影は遠慮なくパトリックの体にすっと馴染むように入り込んでいった。
パトリックの目が赤褐色に染まった。
そして笑い声が部屋の隅から響くとコールがむくっと立ち上がった。