その日のクラスが全て終わると、ベアトリスは一日が無事に終わったことにほっとして、ふうっと息が自然に洩れた。
 何よりも、ヴィンセントから手紙を貰って頬が緩む。
 ベアトリスも会って聞きたいことは山ほどあった。自分が立てた仮説の真実を突き止めたい気持ちも忘れてはいなかった。
 だが、またヴィンセントと話ができると思うと、仮説や真実などもうどうでもよくなるくらい舞い上がって浮かれていた。
 真剣に考え、悩んでいたことを忘れるほどヴィンセントからの連絡は一瞬にして全てを吹き飛ばし、自分に都合がいいようにしか受け取れなかった。
 ベアトリスは帰り支度をしているヴィンセントをそっと見つめた。
 その時ヴィンセントが振り返り、その瞳はベアトリスを優しく捉えていた。
 ベアトリスも目を逸らすことなくその視線を受け入れた。
 するとヴィンセントの口が動いた。
 『またあとで』
 そしてヴィンセントはさっさと教室から出て行った。
 ほんの1、2秒の出来事だったが、ベアトリスは泣きたくなるくらい嬉しく、暫く席から立てなかった。いや、余韻を楽しんでいただけなのかもしれない。心はヴィンセントで一杯だった。
 どれくらいの時間が経ったのか感覚もつかめず、気がつけばベアトリスはクラスに一人ポツンと取り残されたように座っていた。
 いい加減、家に帰ろうと席を立ったときだった、ジェニファーが走って教室に戻ってきた。ベアトリスに気づくと、体に力を入れゆっくりと自分の席に向かい、置き忘れていたカーディガンを手にした。
 ベアトリスは息を飲むように緊張しながら声をかけるべきか思案していた。
 だが、ジェニファーは突然ベアトリスにキーっと突き刺すような視線を向け、人が変わったようになった。
「ジェニファー、私、あの」
 ベアトリスは何を言っていいのかわからず、ただ声をかけてその場を繕うとしていた。でもなぜか肌にさすような危機を感じる。まるでジェニファーが自分に飛び掛って襲いそうな気がしていた。
 ジェニファーは一歩一歩ベアトリスに近づいていた。緊迫した空気が漂い、ベアトリスは追い詰められた小動物のようにジェニファーの気迫に負けて後ろずさった。
 突然ジェニファーの息が荒く苦しそうに喘ぎ出し、胸を押さえて前かがみになるとそこに留まりながら顔を下に向けて歯を食いしばっていた。
「ジェニファー、どうしたの。大丈夫?」
 ベアトリスの声に反応した瞬間、顔をさっとあげ、野犬が歯をむき出しにして唸るような表情を向ける。
 異常な程に怒りをぶつける目、そして敵意をむき出しにした歪んだ表情に、ベアトリスはぎょっとした。まるで狂犬病に犯された犬を見ているようだった。
「ジェニファー?」
 ベアトリスは心配のあまり近づく。ジェニファーは体にたいまつを振られたように後ろにのけぞった。
 その時、話し声が教室に近づいてきた。誰かが来る。ドア附近でその音ははっきり耳に届いた。
「あ、いたいた」
 パトリックの声だった。
側にはサラが一緒にいた。ベアトリスを迎えに来て門の外で待っていたパトリックに声を掛け、案内してきたようだった。
 パトリックは気軽に教室に足を踏み入れるや否や、デバイスのアラームが小さく音を立て、それに反応して一瞬にして緊張した。
「ベアトリス!」
 ディバイスを手に持ち、素早い動きでベアトリスの前に立ちふさがった。ジェニファーに挑むようにデバイスを武器のように胸元で見せ付けた。
 しかしすぐ怪訝な顔になった。
 ──おかしい、彼女はダークライトではない。だがどういうことだ。
 ジェニファーはまたはっと正気に戻り、状況を飲み込めないまま、小走りに去っていく。ドア附近でサラとぶつかりそうになり逃げるように教室を出て行った。
「大丈夫か、ベアトリス」
 パトリックは振り向くと同時に、手に持っていたデバイスを慌てて隠すようにまたジーンズのポケットにしまいこんだ。
 ベアトリスは信じられないとでも言いたげに呆然としていた。
「今の子はなんなんだ? かなりベアトリスに敵意を抱いていたように見えたけど。まさかいじめられてたのか」
 ベアトリスはあの状況をまともに説明することもできず言葉を失っていた。
「彼女は、ベアトリスの親友のジェニファーでしょ」
 サラが口を挟んだ。
「親友? あれが? そうは見えなかったぜ」
「元親友って言った方がいいのかな。ちょっと三角関係でややこしくなっちゃったんだよね」
 サラは余計なことを言い出した。
「三角関係? どういうことだ?」
 パトリックの質問にサラは知ってる範囲で答えた。そしてそこにヴィンセントという名前をしっかりいれてパトリックの反応を伺った。
 ベアトリスがヴィンセントと一緒に授業をサボり、ヴィンセントに思いを寄せるジェニファーがそれを気に入らなくて怒ってることをまるで自分が見たことのようにサラは話した。
「サラ、やめて。それにどうしてあなたがそんなこと知ってるの」
 ベアトリスは部外者の口から言われることにショックを受け、肩を震わす。
 パトリックも、以前聞いたヴィンセントの話と照らし合わせて、あの時抱いた感情をまた蘇らせていた。
「ご、ごめんなさい。でしゃばって。でも学校ではかなり噂になってたから」
 ベアトリスの反応よりも、パトリックが顔を引き攣らせているのをみて、サラは慌てて自分を庇うように弁解した。
 ベアトリスは顔を歪まして首を横に振り、否定したい気持ちを抱えつつ、学校で笑いものになる程、自分達の出来事が広まっていると再確認させられた。
「サラ、お願い、私の話を人にはしないで。これは私の問題なの。パトリックも鵜呑みにしないで。さあ、もう帰ろう」
 ベアトリスは帰り支度をして、教室を出ると二人も無言でついていった。
 校舎を出るとサラが気を取り直して明るく話しかけた。
「あの、よかったら、一緒にアイスクリーム食べにいかない?」
「ごめん、今そんな気分じゃないんだ。また今度ね。でもパトリック、折角だからサラと行って来れば?」
 ベアトリスの言葉にサラは敏感に反応した。もしかしてと淡い期待を抱く。
「いや、君を置いて行ける訳がないだろう」
 あっさりと断られ、サラはがっかりすると共に、ベアトリスを睨んでいた。ジェニファーもきっとこんな感じだったのだろうと思うと、ジェニファーの気持ちが容易に理解できた。
 帰る方向が違うサラは名残惜しそうにパトリックの顔を見ながら、バイバイと手を振って去っていった。何度も後ろを振り返りながら、パトリックの後ろ姿を寂しげに見ていた。

「わざわざ、迎えに来てくれなくてもよかったのに」
 ベアトリスがポツリと言った。
「ちょっと用事で近くまで来たら、ちょうど学校終わる時間だったから」
「見え透いた嘘を」
 パトリックはつっこまれて笑っていたが、学校の中でも危険が迫る状況に不安を抱いて、覇気のない笑いになっていた。
 ダークライトでもないただのノンライトが、嫉妬や憎しみだけでディバイスが危険を察知するほどの力を出すのが信じられないでいた。
「ベアトリス、さっきの女の子だけど、なんだかかなりベアトリスのことを嫌ってそうだった」
「うん……」
 ベアトリスは曖昧な返事をした。
 かつては親友であり、つねに優しかったジェニファー。原因は自分にあるとしても、あそこまでジェニファーが変わってしまうのはとても衝撃的だった。もちろんその要因はコールが偶然仕込んだ影とジェニファーの元々抱いていたベアトリスを憎む気持ちのせいだが、それを知らないベアトリスはこの先どうしていい のか途方に暮れていた。
 そしてサラが自分の話を口にしたことで、学校で噂になるほど人の関心を集めていることも拍車をかける。
 ヴィンセントから貰った手紙を思い出すと、自分だけ浮かれていたことに罪悪感を覚え、それが間違いであるかのように感情が萎んでいく。
 ジェニファーも苦しんでいると思うと、自分だけこそこそと ヴィンセントと接触するのを躊躇いだした。何より、人目についたときの周りの目も気になってしまう。必ず何か言われるのが目に見えていた。
 ──このままではずっと最悪のままだ。どうすればいいんだろう。
 朝からどんよりした曇り空だったが、その時、白いものがこぼれるように空から降ってきた。
「うわぁ、雹が降って来た」
 パトリックがベアトリスの肩に手を回し、早く歩くように示唆した。それと同時に雹からベアトリスを守ろうとしている。素直に頼りたくなるほど、彼の手は優しく頼もしかった。
 ──一体自分は何を求めてるんだろう。あれだけ心に迷いはないといいつつ、またパトリックを頼っている。
 ベアトリスはもつれるような足取りになりながら早足で歩いていた。
 はっきりしないベアトリスに喝をいれるかのように一筋の光が突き刺すと、雷が苛立つ剣幕で轟音を落とす。
 ベアトリスは体を収縮させ怯えた。パトリックは笑い声と共に大丈夫だともっと強く肩を抱き寄せる。
 雷の怖さと、心の弱さでパトリックに助けを求めるようにベアトリスは抱きついてしまった。
「ご、ごめん。ついそこに抱きつくものがあったから」
 すぐにパトリックから手を離す。
「なんだよそれ、電信柱でもよかったような言い方。遠慮なく僕を頼ってくれていいんだぜ。そのために僕はここにいるんだから。さあとにかく急ごう」
  雹は勢いをつけ、全ての物に八つ当たりするように叩きつけてきた。
 二人は歩いてられないと、街路地に植えてあった木の下に身を寄せる。
 パトリックは雹から庇うようにしっかりとベアトリスを胸の中に収めていた。
 ベアトリスは落ち着いて、抱かれるままにぼんやりと雹をみていた。無数の白い粒が、建物の屋根に当たり、滑るように転がり落ち地面ではねている。じっとみてると生き物のような動きに見えてきた。こぼれた白いビーズは辺りをあっという間に白くした。
 雨でもない雪でもない氷の塊。どっちにもなりきれずに無数の苛立ちをぶちまけてるように見える。空から行き場のない思いが雹となって降り注ぐ光景は自分の心と重なっていた。
 ジェニファーが見せた行動はベアトリスを不安に陥れると同時に、ヴィンセントに簡単に近づくなと警告されてるようにも感じる。
 ヴィンセントと接触すれば、ジェニファーを傷つけ、人々はまた好き勝手に噂し、そしてそれに自分も苦しくなっていった。そこまでして思いを貫いていいものだろう かとまた迷い出した。
 中途半端な気持ちで覚悟を決められないまま、その思いをぶつければこの雹と同じになってしまう。雨や雪と違って、雹は当たれば傷つけるように痛い。
「そういえば、昔、グレープフルーツくらいの大きさの雹が降ったって聞いた事がある。あれはかなりの被害が出たそうだ。こんな小さな粒でも歩けないくらい迷惑だよな。雹は突然降ると困るからね。ちょっと冷えてきたようだけど、ベアトリス寒くないかい?」
 パトリックは温めようと力を入れて抱きしめた。全てのことから守ろうとしてくれる気持ちが伝わってくる。ベアトリスの心に降り注ぐ雹がとけていくような気がした。
「パトリックのお陰で暖かい。ありがとう」
 ベアトリスは目を閉じた。そしてパトリックの体に腕を回して抱きついた。
「また何かに怯えて、僕は電信柱かい?」
「ううん、違う。パトリックの優しさが嬉しくて、それに対してのお礼」
「お礼か。悪くないよ」
 ベアトリスはパトリックのことを少し考えた。気持ちを受け入れられずに否定ばかりしていたが、パトリックが気遣ってくれることに対してまだ感謝の気持ちを表していない。素直に感謝の気持ちだけは表現したかった。
 だが、この時、もしも自分がパトリックを受け入れたらどうなるのだろうという疑問も軽はずみに抱いてしまった。
「ベアトリス、雹が止んだよ」
 ベアトリスはパトリックの言葉ではっとすると、彼から離れ、頭に浮かんだ言葉をかき消すように先を急いで歩き出した。
 あたり一面の氷の粒は歩くと同時にバリバリと音を立てる。自分の心を踏んでいるような気がして、優柔不断な自分に腹を立てさらに雹を踏み潰す。
  ヴィンセントを思う気持ちには嘘はつけない。しかしその想いを抱けば抱くほど、窮地に追いやられていくようだった。
──ヴィンセントの真実を知ったとき、きっと後に引けない何かが待っていると思う。そしてそれが自分にとっていいことなのか悪いことなのか今は判らない。 想いを貫いてまでそれを知るべきなんだろうか。それとも気づかないフリをしてそっとしておくべきことなんだろうか。
 迷いながら、注意を払わずに歩いてるときだった。四つ角交差点のストリートを渡りかけたとき、右折してきたバイクが雹にタイヤを取られて滑るように ベアトリスに突っ込んだ。
 重いものが叩きつけられる音が鈍く響いた。