「やっぱり考えられない!」
 ベアトリスは立ち上がって叫んだ。
 ここが病院だということも忘れ、目立つのが嫌いだというのに派手にパフォーマンスしている。
 はっと気がついたとき、恥ずかしさと自分の迷惑行為でいたたまれなくなった。しゅんとあっという間に萎んでヘナヘナとまたソファー座り込んだ。
 隣でパトリックが複雑な表情をしながら、しぶしぶと婚約証明書となるものをジーンズのポケットにしまいこんだ。
「ベアトリス、僕にチャンスをくれないか。ずっと会えなかった時間を取り戻したい。まずはお互いを知ることから始めよう。僕もこんな紙切れ見せて悪 かった。これじゃ脅迫だよね。そんなことよりもベアトリスの気持ちが大切なのに」
 パトリックは憂いを帯びた横顔をベアトリスに向け、前を見るが焦点を合わさず、反省している態度を取った。
 その表情は見るものに罪悪感を植えつける。
 いつまでも動かず、寂しい表情を見せつけ、沈黙という落ち着かない状況を演出していた。
 ベアトリスは何か声をかけなくてはと義務感を押し付けられた気分になり、気まずい雰囲気を取り繕ろうとよくも考えずに適当に言葉を発してしまった。
「あっ、その、そうよね。まずはお互いを良く知って、その、それからよね…… 」
 それを聞くや否や、パトリックの顔がさっと明るくなった。そう言い出すのを待ってたのかニカっと白い歯を見せた。
「そっか、僕にチャンスをくれるんだ。じゃあ僕たちは今から恋を育む恋人同士ってことでいいよね」
「えっ? そういう意味じゃなくて! ちょっと」
 ベアトリスは強く抱きしめられ、白目をむくくらい驚きジタバタした。そのときパトリックは耳元で優しく囁いた。
「愛してる、ベアトリス」
 耳元で愛を囁かれてベアトリスは意表をつかれ静止した。
 抱きしめられた体はもっと強くパトリックの腕に締め付けられる。心臓だけがドキドキと激しく高鳴っていた。
 ベアトリスはこの状況をどうしようか迷ってるときだった。パトリックがまた耳元で囁いた。
「ベアトリス、弾力があって気持ちいい」
 迷わずパトリックを強く押しのけ、ベアトリスは立ち上がり無言でスタスタと歩いていった。
 パトリックはクスクス笑いながら、後をついていく。
──どうせ私は太って弾力があるわよ。
 気にしていることを言われつい自棄になってしまったが、パトリックには罪はない。
 結局は自己嫌悪に陥り、深くため息が出てしまった。
 そんな湿った顔のままではいけないと、アメリアの病室の前に来たとき、少し立ち止まった。
 その時、ちょうどアメリアの部屋から出てきたスーツを着た男性二人組みとかち合った。
 二人はベアトリスに気づくと、刑事の証であるバッジが入ったホルダーをさっと見せ、早速軽く質問を浴びせられた。
 アメリアの事情聴取に来て、詳しいことを訊きたがったが、ベアトリスが答えられる範囲は限られていた。
 すでに他の目撃証言と同じだとわかると、二人の刑事は軽く礼を言ってすぐに切り上げて去っていった。
 刑事との話で、アメリアが首を絞められていたショッキングなシーンがフラッシュバックしてしまい、恐怖心が蘇ると共に、重苦しく憂鬱な気分が舞い戻ってくる。
 それを読み取ったパトリックが優しくベアトリスの肩に手を置いた。
 気を遣って自分を労っているパトリックの顔を見ると、心の重苦しい部分が少し軽くなる気がした。一人でいたらその重さに潰されて苦しかったかと思うと、突然現れたパトリックに少し感謝の気持ちが湧くようだった。
 結局自然とパトリックを受け入れてしまい、アメリアの病室へと手招きしてしまった。
「アメリア、手続き終わったわ。とにかく帰る準備しようか」
「そうね、ここに居るより家にいた方がいいわ。タクシーを手配しましょう」
「それから、あのね…… 」
 ベアトリスが躊躇いながらどう説明しようかいいにくそうにしていると、そんなことはお構いなしにアメリアの視界に入るようにパトリックはしゃしゃり出 た。
 アメリアは目を細め、嫌悪感を露骨に見せる。
「お久しぶりです。といっても面識は殆どありませんが。アメリアのことはよく存じております」
「あなたはマコーミック家の息子ね。なぜここにいるの」
「はい。パトリックです。ベアトリスの婚約者の。やっと彼女を探しあてました。連絡もずっとくれずに酷いじゃないですか」
 アメリアはため息をついた。
「あの婚約は無効よ。ベアトリスは誰のものでもないの」
 アメリアがはっきりと言い切ったことに、ベアトリスは嬉しくなり、威張るように胸を張ってパトリックを見た。パトリックはそれにも動じないで余裕の微笑を返し反論する。
「僕が何も知らないとでも? あなたがあのとき何をしたか、他にも知ってる者がいると考えたことないんですか?」
 パトリックは優しい笑顔を見せながら、それとはアンバランスなチクリとさすものの言い方をした。
「どういう意味?」
 アメリアの表情が強張った。
「いえ、あなたが私に口を挟める義理じゃないと思いまして。それだけ言いたかったんです」
 パトリックがアメリアの弱みを握っているような口ぶりにアメリアは黙り込んだ。
「ちょっと、二人して一体何を話してるの? さっぱりわからないわ」
 ベアトリスが、二人のやりとりをピンポン試合の玉を追いかけるように見ていた。
「あなたに反対されようと、そんなことはどうでもいいんですけどね。僕は素直にベアトリスが好きなだけです。必ずベアトリスのいい夫になれるように頑張ります」
 パトリックはガッツポーズを取り、その決意は背中の後ろから燃え滾る炎が見えてきそうだった。この男に何を言っても無駄だとベアトリ スは頭を抱えた。
 アメリアは慎重にパトリックを見ていた。
 優しそうで好青年風だが、計算したような相手を見透かす鋭い発言をする。かなり頭が切れるとアメリアはすぐに感じ取った。先ほどのパトリックの言葉にも半信半疑だがアメリアには心当たりがある。やっかいなものが来たとイライラが募った。
「それじゃ、僕がお二人を家へお連れしましょう。僕はちょうどいいときに現れたって感じですね」
 パトリックはベアトリスに同意を求めるように笑顔を見せた。
「いいえ、結構よ。あなたの世話にはならない」
 冷たくアメリアが断る。
「それじゃ誰の世話なら受け入れるんですか。あの男の助けだったら素直に受け入れるというのですか。先ほど病院から出て行くのみましたけどね。そう言えばあの時も居ましたね、あなたの側に」
 アメリアは目をそらす。半信半疑だと思っていたことが確信に変わった。
──この子はあのときのことを知ってる。リチャードのことも。だから私を試している。私の弱みを握ってるといいたいのね。
 アメリアはこの脅しで完全に出鼻をくじかれた。
 様子を見ようと大人しくすると、パトリックはすぐに空気を読んだ。
「ごめんなさい。僕はそういうつもりで言ったんじゃないんです。僕もベアトリスやあなたと係わりがあるということを判って貰いたかった。それだけです」
 ベアトリスは二人の会話についていけず、不満げな顔をしてると、パトリックが優しく肩を抱き寄せた。
「だってアメリアはベアトリスの大切な家族だろう。そしたら僕にとっても家族同然。お世話するのが僕の義務。ねぇ、ベアトリス」
 ごまかされたような、筋が通ってるような、やっぱり訳のわからないような、パトリックの言葉と行動に、ベアトリスは自分の理解力に問題があるのかさえ思ってし まう。
 さっぱり訳がわからないが、パトリックとアメリアの間には何かあるというのだけは感じていた。
「わかったわ。あなたの親切を有難く受けるわ。ただし、あなたをベアトリスの婚約者だと認めた訳ではないから」
 アメリアが素直に聞き入れる。この状態では何もできないとパトリックの出方を少し見て、それからどうするか考えるつもりでいた。
「ええ、今はそれでいいです。いつかきっと僕のよさがあなたにもわかってもらえるときが来るでしょう」
 自信たっぷりにパトリックは答えた。
 話の内容についていけなかったが、厳しく容赦しないアメリアの気持ちをあっさりと変えてしまったパトリックに、ベアトリスは驚いた。
 パトリックを見つめれば素直に嬉しいと喜んでいる。
 ミステリアスな部分もあるがベアトリスはこの笑顔が憎めなかった。寧ろ好感をもち、心強いとさえ思っていた。特にこんなにいろんなことが沢山一度に起こってはベアトリスも誰かに甘えてみたいという気持ちが芽生える。
 懐かしい幼なじみのよしみもありパトリックに肩を抱き寄せられて嫌じゃないと思える自分がいた。

 パトリックの車は薄っすらと水色のメタリックがかったSUV車で、乗り心地は良く、アメリアは後部座席で動かず目を閉じてじっとしていた。
 ベアトリスが案内人役になり道を知らせると、パトリックは楽しそうに運転し、退屈させないようにとラジオのDJのように話をしていた。
 物事を良く知り、また饒舌なこともあり、ベアトリスはパトリックの話に魅了されていた。
 長い間会っていなくとも、小さい頃一緒に過ごしたこの幼馴染は、なんの違和感もなくすっと溶け込んでしまった。
 あまりにも当たり前すぎて、ベアトリスはパトリックのペースに乗せられてることも気がつかないほどだった。
 家に着くとパトリックはアメリアを支えベッドまで運んだ。
 ベアトリスがやるよりも遥かにスムーズに事を運んでいく。
 アメリアをベッドに座らせ、ふっと一息をついてパトリックは辺りを見回した。タンスの上の花瓶のようなものに目が止まる。
 それは水泡が幾つも入り込んで いる分厚いグラスのようなもので作られ、青緑色をしていた。大きさは両手で持たないと持ち上げられないサイズで、形はオーソドックスに首の辺りにくびれがあり、下に行くとふくらみを持つ壷だったが、そのくびれの部分には真珠のよ うな丸いものが数個飾られて光沢を帯びた光を発していた。
 中途半端に水が三分の一程度入っているのも見逃さなかった。
 アメリアはそれを見られるのが嫌なのか、喉を鳴らすように、一度咳払いをした。
「とにかくありがとう。今から着替えるから席を外して貰えない」
 パトリックはすぐに察しがついて、部屋の外に出て行った。
「アメリア、着替え手伝おうか」
 ベアトリスの言葉にアメリアは首を横に振ろうとすると、痛いとばかり体を硬直させた。ベアトリスは笑ってしまった。
「もう、意地張らないの。私だって役に立つことあるんだから。でもパトリックが居てくれたお陰で私すごく助かっちゃった。あの人まだよくつかめないけど、 悪い人 じゃなさそう。あっ、だからといって婚約者だなんて私も認めたわけじゃないからね」
 ベアトリスはアメリアの着替えを手伝いながら言った。アメリアは静かに聞いていた。
「ねぇ、アメリア、パトリックと昔なんかあったの?パトリックはアメリアのこと何か知ってそうだったけど…… 」
「何でもないわ」
 アメリアはそっけなく答える。それに対してベアトリスはまたかと不満を募らせる。
「でもさ、いつも私の知らないこと一杯ありすぎて、最近周りだけがぐるぐる動いてるように感じるの。それにアメリアが事件に巻き込まれてるとき、 電話に出てた人もそう。あのときヴィンセントの声も聞こえた。もしかしてあれはヴィンセントのお父さんなの? だけどなぜあのときあの人と電話なんかしてたの? アメリアとどういう関係?」
 この質問をされることはアメリアには想定内だった。どうすべきかも分かっていた。
「ああ、あれは偶然で、仕事関係の話だったの。時々警察が事情を知りたがったりするの。事件性があるものは特にね。ヴィンセントの父親とは知らなかったわ」
 アメリアは平気で嘘をつく。
「そっか、アメリアは弁護士だもんね。それにヴィンセントのお父さんは刑事さんって私も最近知ったとこ。そっか警察が絡んでくることもあるんだ。でもすごい偶然だね。まさかヴィンセントのお父さんだったなんて…… 」
 ベアトリスはあっさりと誤魔化されてしまった。
 疑うことももっと掘り下げて真実を知ろうとしないこともアメリアには都合がよかったが、嘘で塗り固められたものが剥がれ落ち、そして真実だけが残ったその時のことを考えると恐ろしくなる。
──いつかは剥がれる。その時私は……
 アメリアはいつも心の中の恐れに潰されそうだった。打ち勝つためには表面から厳しくならざるを得なかった。
 ヴィンセントという名前を呟くのが辛いのか、いつの間にかベアトリスの表情が暗くなっていた。
 アメリアがどう声を掛けようか迷っていたとき、いい香りが漂ってきた。二人して顔を見合わせる。
「あれ? なんかいい匂い」
 ベアトリスは様子を見に匂いのする方向へ足を運ぶと、キッチンでパトリックが鼻歌を交えて料理をしていた。
「ちょっと、パトリック何してるの?」
「ん? お昼ごはん作ってるの。お腹空いてるだろ」
 パトリックはフライパンを一振りして器用に中身をひっくり返している。テキパキと料理をする姿にベアトリスは暫し唖然としていた。
「ぼーっと見てないで、お皿とってよ」
 パトリックに指示されて、ベアトリスは慌てて、戸棚からお皿を出す。まだ言葉が出てこない。
「あっ、もしかして僕に見とれてる? エヘヘ、いい夫になれそうだろう」
 パトリックの無邪気に笑う笑顔にベアトリスは圧倒される。そして確かに自分よりは料理が上手いのは一目瞭然だった。そう思うと少し悔しくなった。
「ちょっと、人んちで勝手に料理しないでよ」
「いいって、いいって、そんなに僕に気を遣うことないんだから」
「どこが気を遣ってるっていうのよ。呆れてるんでしょ」
 そうしている間にもさっさと料理していた。パトリックに何を言ってもことごとくいいように解釈されてペースに飲み込まれてしまう。これほどの強引さはどこから出てくるのだろうとまじまじ見つめるが、またそれがパトリックの思う壺だった。
「あっ、僕に惚れた?」
 もう返す言葉もでず、すきにすればいいとあきれ返ってしまった。
 パトリックはそんな事もお構いなく、思うままに陽気に振舞っていた。またその笑顔はどんな状況でもベアトリスの心を軽くしてくれた。
 そしてふと気がついた。自分らしさのままで気兼ねなくなんでも言えることを──。
 パトリックの前では何でも思ってることが言えた。それがすごく心地よく、ベアトリスからも自然の笑みがこぼれる。
「やっぱりベアトリスは笑った方がかわいい。君もその笑顔は昔と変わってないね」
 ベアトリスは照れくさくなった。そしていつしか自然に一緒に料理をしていた。

「できあがり! それじゃこれ、僕がアメリアのところに持っていくから」
「あっ、それは私が…… 」
「ベアトリスは、悪いけど、そこにあるレモンを絞っといて」
 トレイに食事を載せ、パトリックはベアトリスをかわして強引に持って行った。ベアトリスは仕方なくレモンを半分に切り、しぼり器で絞る。
 その間に、パトリックはノックをしてアメリアの部屋に入っていく。
 ウエイターになりきって料理を見せていた。アメリアがベッドから身を起こすと、それを目の前に置いた。
 そこには空っぽのグラスも添えられていた。
 パトリックはタンスの上に置かれた壷を持ち、それをグラスに向け中に入っていた水を注ぎだした。
「さあ召し上がれ」
「パトリック、あなた…… 」
「あなたの傷が癒えるまで、僕にベアトリスを任せてくれませんか。この残りの水も彼女に飲ませます。それにしても、このライトソルーションの豊富なこと。 ディムライト達が見たら目の色変えて飛びつきそう」
「ディムライトがお金よりも欲しがる水。あなた達が摂取できる量は決められてるものね。私達にはその量でも不自由分だけど、あなた達からみたらざっと十年 分くらいありそうよね」
「この壷はホワイトライトの世界と繋がって、湧き水のように水が送り込まれてくるんですね。僕達は小さな杯に溜まった水滴を舐める様なもの。こんなに多くのライトソルーション見た事がない」
 パトリックはその壷を両手で持って揺らし、水の音を楽しんでいるようだった。
 そして頭の位置まで持ち上げそれを覗き込む。水から放たれるキラキラした光はパトリックの瞳に反射していた。
「あなたもその水が欲しいの?」
「僕がこれを欲しい? こんなもの僕にはなんの価値もありません」
「それじゃ、どうしてベアトリスと結婚したいと思うの。あなたの両親がベアトリスの両親にお金と地位を約束し、そして婚約という形を作った。いわゆるお互いの利益を考えた意味もない婚約だった。あなたも当時子供ながらそれを納得してのことだったんじゃないの」
「あなたはノンライトとホワイトライトの間に生まれし者、それでもディムライトの間ではその存在はホワイトライトと等しく誰も逆らえない。そしてあなた はディムライトを見下している。あなたのような目から見ればそう捉えられても仕方がない。それに僕はそう思われてると判っててもそれを利用した。親同士が決めた婚約は僕にも都合がよかった。僕はベアトリスの側にずっと居たかったから、ただそれだけ」
「そう、あなたも本気でベアトリスが好きってことね」
「『あなたも?』って、そっか、アイツのことか。もっと早く気づくべきだった。ベアトリスが安全に暮らせる場所を考えたらあの親子の近くだったってこと か。灯台下暗しってこのことだったのか」
 パトリックは壷を持ってアメリアの部屋を出て行こうとする。アメリアが不安そうな顔になった。
「壊さないって。とにかくベアトリスはこれを飲まなければダークライトがわんさか押し寄せてくるんでしょう。まあ、僕に任せて。悪いようにはしないから。 それよりもちゃんとそれ食べといてよ。変なプライド捨ててさ」
 パトリックは楽しそうに鼻歌交じりで部屋を出て行った。
 アメリアは食事をじっと眺めていた。
 パトリックにかき回されるのは癪だったが、何も言わなくても自分の思うことをパトリックが自ら行動してくれるのは有難かった。
 悪い奴ではないと、フォークを手に取り食事に手をつけた。そしてあの水をぐぐっと一気に飲む。まるで自棄酒を浴びているかのようだった。

 パトリックはベアトリスに見つからないように壷を後ろに隠し、キッチンに入っていく。
「ベアトリス、玄関で物音がしたんだけど、誰か来たんじゃないの」
 パトリックはベアトリスの気をそらすためによくある嘘をつく。
 不思議そうな顔をしてベアトリスは見に行った。その間にとパトリックは壷の水をピッチャーに注ぎ、ベアトリスに絞らせたレモン汁を手早く混ぜ、少量の砂糖を入れてレモネードを作り出した。
 壷はさりげなくキッチンカウンターの隅に置く。まったく違和感がない。だが玄関を見に行ったベアトリスがすぐに戻ってこなかった。
「嘘なのに、一体何してるんだ」
 パトリックも玄関まで見に行った。
 扉が開いたままでそこにはベアトリスの姿がない。慌てて、外へ飛び出すとベアトリスは表庭でじっと一定方向をみていた。
「ベアトリスどうした。本当に誰か来たのか?」
「ううん、なんでもない。私の気のせいだった」
 パトリックはベアトリスの肩に手を置き、二人は家の中へと入っていった。
 その先のブロックの角で、人影らしきものが動いた。
 握りこぶしを作り、何かを殴りたいと震えている。感情を飲み込みぐっと堪えると背中を丸めどこかへ去っていった。

 ベアトリスは考え事をしながらテーブルの席に着いた。そこに並々注がれたレモネードがどんと置かれた。レモネードの入ったグラスを手に取り、ベアトリスは一口飲んだ。
「酸っぱい」
 その酸っぱさが自分の思いと重なり、急にごくごくと飲みだした。それは冷たく体に浸透していく。
「おいおい、どうしたんだ。何も一気に飲まなくても」
 普通の飲み物じゃないだけにパトリックは苦笑いになってしまった。
 ベアトリスは焦点を合わせず前を見つめる。
──あのときヴィンセントが近くに居たかと思った。そう思ったら体が熱くなって苦しくて…… 
 レモネードの酸味は思いを封じ込めてくれるかのようだった。
 それ以上に自分の大切なものを手の届かないところにしまいこんでいく感じがする。
「ねぇ、このレモネード。何か特別なものが入ってるの?」
 ベアトリスが聞くと、パトリックはドキッとした。この時ほどいいジョークが考えられず、パトリックは笑うだけだったが、ベアトリスはじっと空のグラスを見つめていた。
 ヴィンセントは益々遠いところにいってしまう──。訳もわからずそんな思いがこみ上げる。酸っぱいレモネードの後味は寂しさと悲しさが胸いっぱいに広がった。