時計が3時を指している。しばらくしてドアチャイムが鳴る。
ドアを開くと両親が立っている。すぐに中に入ってもらう。新幹線に乗ってはるばる来たのだから疲れが見える。
ソファーに坐ったところですぐに話が始まりそうな気配がする。もう少し気持ちを落ち着けたい。
「綺麗に掃除がいきとどいているじゃないか、母さんが心配していた。広いから掃除が大変だろう。感心だ」
「顔色も良くて元気そうなので安心したわ。駅でおいしそうなお弁当を買ってきたから夕食に食べましょう」
「今日は泊っていくからな。サブルームでいいから」
「俺の部屋で寝てくれ。俺がサブルームで寝るから、シーツや枕カバーを取り換えておいたから、そうしてください」
「そうか」
「サブルームに誰かいるのか?」
「そのことなんだけど、お見合い話を持ってきたみたいだけど、俺には好きな人がいる。今日はせっかくだから二人に紹介したいと思って、サブルームに待たせている」
「そんな話をなんで前もってしないんだ」
「会ってみてくれ、丁度良い機会だから」
俺は歩いてサブルームのドアをノックして地味子に声をかける。
「出てきて、両親と会ってくれないか。紹介するから」
ドアが開いて地味子が出てきたが、その姿を見て俺は声がでなかった。
絵里香じゃないか!
慌ててサブルームの中を覗く。誰もいなかった。座卓の上にあの赤いメガネが置いてあった。
「まさか! 君は!」
絵里香はゆっくり歩いて両親の前に行って深くお辞儀をした。
俺は気が動転して何が何だか分からなくなっている。
今、目の前にいるのは正しくあの絵里香だ。間違いない。
あの憂いに満ちた眼差し、思わず撫でたくなるような髪。すべてあの絵里香だ。
今の今まで気が付かなかった。
あの地味子がこの絵里香?
俺は何てことをしていたんだ。
『心ここにあらざれば、見れども見えず!』か!
俺には何も見えていなかった。また、見ようともしていなかった。
俺はどうすればいいんだ。
深呼吸をする。
少し落ち着いて来た。
地味子が言っていた「あなたの責任」と言う意味がようやく分かった。すべて俺の責任だ。
「しし紹介します。こちらが石野絵里香さんです。ここ半年ここで一緒に生活しています」
「初めまして石野絵里香です」
「そんな話は聞いていないぞ!」
「いずれは結婚を考えています」
「おまえには店を継いでもらいたいと考えている。嫁もそれ相応の人と考えている」
「そんなに簡単に結婚を考えていいの、真一」
「彼女の前でその話はないだろう。失礼だろう」
「あなたには社長の嫁としての覚悟はあるのか?」
「その話は彼女には関係ない」
「関係なくはないわよ。私も大変だったから」
「俺は認めん。帰るぞ!」
「あなた、せっかく来たんですから、泊っていきましょうよ。石野さんともお話してはどうですか」
「いや、帰る。帰ってお互いに頭を冷やす。失礼する」
親父が席を立ったので、お袋もついていった。
「親父、落ち着いて、頭を冷やして考えてくれ! 俺の好きな人と結婚させてくれ!」
「おまえこそ、どこの馬の骨かしらん女と軽々しく結婚するというな! 頭を冷やすのはおまえの方だ!」
想定はしていたが、喧嘩別れになった。ただ、これでかなり時間は稼げる。
玄関から戻ると、絵里香がソファーに座っていた。
「悪かったな、いやな役目を頼んで」
「想像していたとおりでしたから」
「済まない。君が絵里香だなんて今の今まで全く気が付かなかった」
「私もだます気はなかったんです。でもすぐに本当のことを言わずに申し訳ありませんでした」
「俺は本当に今迄どうかしていた。見る目がないと言うか何にも見ていないというか嘆かわしい限りだ」
「いえ、同居の契約書に恋愛関係にならないという条項がありますから」
「すぐにでも契約書を改訂して削除しよう」
「それでいいんですか」
「そうしたい。そして俺と付き合ってくれないか?」
「いまさら付き合ってくれはないと思います。もう半年も一緒に暮らしているのですよ」
「そうだな」
「俺のことをどう思ってくれているんだ? あの時、俺の部屋に泊まってくれたじゃないか? 俺が好きだからじゃなかったのか?」
「どうしてか今も分からないのです。あのときどうしてあんな気持ちになったのか?」
「俺は絵里香が好きだったし、今もその思いは変わらない」
「あなたのことがよく分からないのです。一緒に暮らして、あなたの裏も表も見てきました。あなたがこの私をどう思ってくれているのか分からないのです」
「だから、付き合ってくれと言っている。付き合ってくれれば分かるようにする」
「私と絵里香のどちらと付き合いたいのですか?」
「どちらでもない君自身とだ」
「考えさせてください」
「俺も混乱している。考えてみてくれ。いずれにしてもこのまま同居は続けたいと思っている。契約を変更しよう。ただし解除はしない」
「それも考えさせてください」
「分かった」
そう言うと絵里香は部屋に戻った。それから部屋からずっと出てこなかった。
*******************
翌朝、絵里香は地味子に戻っていつものように朝食を作ってくれた。
「おはよう。元に戻ったんだ。絵里香のままでいてくれないのか?」
「はじめは地味にしてくれた方がよいとおっしゃっていました。契約どおりにしているだけです。見た目で気持ちが変わるのですか?」
「難しい質問だね。人は見た目が9割という。俺は絵里香に恋をしていたんだ」
「今の地味な私ではないのですね」
「そうかもしれない。じゃあ君は絵里香ではないのか?」
「今は白石結衣で、石野絵里香ではありません」
「使い分けている?」
「そんな器用なことはできません」
「絵里香が好きなら、今の私も好きなはずです」
「何と言って良いのか、どうしてか俺は絵里香が好きになったんだ」
「そうですか」
あれから地味子は頼んでも絵里香にはなってくれなかった。
それに付き合ってくれという話もしなくなった。
いわずもがなで、こうして同居して毎日顔を合わせているのだから当然のことかもしれない。
*******************
2日後、九州支社の機構改革のために1週間の出張が入った。
今、東京を離れたくなかった。地味子のことが気になっていた。
でも二人とも一人になって冷静になることも良いかもしれないと思っていた。
ところが、出張から帰ると地味子がマンションからいなくなっていた。
こともあろうに俺が出張している間に引越しをした。あれから彼女は機会をうかがっていたのかもしれない。
ダイニングテーブルの上に書き置きがあった。『賃貸雇用契約の解除をお願いします』とだけ書いてあった。
キーはコンシェルジェが預かっていた。携帯にかけてみるが通じない。メールも音沙汰なし。
それから会社にもいなくなっていて、派遣元の会社も退職していた。携帯は解約されていた。
隆一に頼んで絵里香の友人の山内さんと連絡を取ってみたが、彼女も連絡がとれないと言っていた。
行方が全く分からなくなった。
*******************
どうしたことか、地味子が俺から逃げるようにいなくなってしまった。なぜだ? 分からなかった。
そんなに嫌われていたのか? そうなら同居を半年も続けるはずがない。
それよりも好意を持ってくれていたはずだ。体調の悪い時は親身になって世話をしてくれた。
時給千円だったけど、好意は感じたし、好意がなければあんなにまでしてくれなかっただろう。
地味子は俺のすべてを見ていた! 確かにそうだ。
恵理も連れ込んだし、合コンで女の子を持ち帰っていた。すべて見られていた。
今さら俺と付き合ってくれはないだろう。よく考えるとそれは当然のことと思えた。
でもあの絵里香のことが忘れられない。あの憂いを含んだ眼差し、耳に残るあの悲しいような細い声、すべては俺に見る目がなかったからだ。
もうあきらめるしかないのか?
ドアを開くと両親が立っている。すぐに中に入ってもらう。新幹線に乗ってはるばる来たのだから疲れが見える。
ソファーに坐ったところですぐに話が始まりそうな気配がする。もう少し気持ちを落ち着けたい。
「綺麗に掃除がいきとどいているじゃないか、母さんが心配していた。広いから掃除が大変だろう。感心だ」
「顔色も良くて元気そうなので安心したわ。駅でおいしそうなお弁当を買ってきたから夕食に食べましょう」
「今日は泊っていくからな。サブルームでいいから」
「俺の部屋で寝てくれ。俺がサブルームで寝るから、シーツや枕カバーを取り換えておいたから、そうしてください」
「そうか」
「サブルームに誰かいるのか?」
「そのことなんだけど、お見合い話を持ってきたみたいだけど、俺には好きな人がいる。今日はせっかくだから二人に紹介したいと思って、サブルームに待たせている」
「そんな話をなんで前もってしないんだ」
「会ってみてくれ、丁度良い機会だから」
俺は歩いてサブルームのドアをノックして地味子に声をかける。
「出てきて、両親と会ってくれないか。紹介するから」
ドアが開いて地味子が出てきたが、その姿を見て俺は声がでなかった。
絵里香じゃないか!
慌ててサブルームの中を覗く。誰もいなかった。座卓の上にあの赤いメガネが置いてあった。
「まさか! 君は!」
絵里香はゆっくり歩いて両親の前に行って深くお辞儀をした。
俺は気が動転して何が何だか分からなくなっている。
今、目の前にいるのは正しくあの絵里香だ。間違いない。
あの憂いに満ちた眼差し、思わず撫でたくなるような髪。すべてあの絵里香だ。
今の今まで気が付かなかった。
あの地味子がこの絵里香?
俺は何てことをしていたんだ。
『心ここにあらざれば、見れども見えず!』か!
俺には何も見えていなかった。また、見ようともしていなかった。
俺はどうすればいいんだ。
深呼吸をする。
少し落ち着いて来た。
地味子が言っていた「あなたの責任」と言う意味がようやく分かった。すべて俺の責任だ。
「しし紹介します。こちらが石野絵里香さんです。ここ半年ここで一緒に生活しています」
「初めまして石野絵里香です」
「そんな話は聞いていないぞ!」
「いずれは結婚を考えています」
「おまえには店を継いでもらいたいと考えている。嫁もそれ相応の人と考えている」
「そんなに簡単に結婚を考えていいの、真一」
「彼女の前でその話はないだろう。失礼だろう」
「あなたには社長の嫁としての覚悟はあるのか?」
「その話は彼女には関係ない」
「関係なくはないわよ。私も大変だったから」
「俺は認めん。帰るぞ!」
「あなた、せっかく来たんですから、泊っていきましょうよ。石野さんともお話してはどうですか」
「いや、帰る。帰ってお互いに頭を冷やす。失礼する」
親父が席を立ったので、お袋もついていった。
「親父、落ち着いて、頭を冷やして考えてくれ! 俺の好きな人と結婚させてくれ!」
「おまえこそ、どこの馬の骨かしらん女と軽々しく結婚するというな! 頭を冷やすのはおまえの方だ!」
想定はしていたが、喧嘩別れになった。ただ、これでかなり時間は稼げる。
玄関から戻ると、絵里香がソファーに座っていた。
「悪かったな、いやな役目を頼んで」
「想像していたとおりでしたから」
「済まない。君が絵里香だなんて今の今まで全く気が付かなかった」
「私もだます気はなかったんです。でもすぐに本当のことを言わずに申し訳ありませんでした」
「俺は本当に今迄どうかしていた。見る目がないと言うか何にも見ていないというか嘆かわしい限りだ」
「いえ、同居の契約書に恋愛関係にならないという条項がありますから」
「すぐにでも契約書を改訂して削除しよう」
「それでいいんですか」
「そうしたい。そして俺と付き合ってくれないか?」
「いまさら付き合ってくれはないと思います。もう半年も一緒に暮らしているのですよ」
「そうだな」
「俺のことをどう思ってくれているんだ? あの時、俺の部屋に泊まってくれたじゃないか? 俺が好きだからじゃなかったのか?」
「どうしてか今も分からないのです。あのときどうしてあんな気持ちになったのか?」
「俺は絵里香が好きだったし、今もその思いは変わらない」
「あなたのことがよく分からないのです。一緒に暮らして、あなたの裏も表も見てきました。あなたがこの私をどう思ってくれているのか分からないのです」
「だから、付き合ってくれと言っている。付き合ってくれれば分かるようにする」
「私と絵里香のどちらと付き合いたいのですか?」
「どちらでもない君自身とだ」
「考えさせてください」
「俺も混乱している。考えてみてくれ。いずれにしてもこのまま同居は続けたいと思っている。契約を変更しよう。ただし解除はしない」
「それも考えさせてください」
「分かった」
そう言うと絵里香は部屋に戻った。それから部屋からずっと出てこなかった。
*******************
翌朝、絵里香は地味子に戻っていつものように朝食を作ってくれた。
「おはよう。元に戻ったんだ。絵里香のままでいてくれないのか?」
「はじめは地味にしてくれた方がよいとおっしゃっていました。契約どおりにしているだけです。見た目で気持ちが変わるのですか?」
「難しい質問だね。人は見た目が9割という。俺は絵里香に恋をしていたんだ」
「今の地味な私ではないのですね」
「そうかもしれない。じゃあ君は絵里香ではないのか?」
「今は白石結衣で、石野絵里香ではありません」
「使い分けている?」
「そんな器用なことはできません」
「絵里香が好きなら、今の私も好きなはずです」
「何と言って良いのか、どうしてか俺は絵里香が好きになったんだ」
「そうですか」
あれから地味子は頼んでも絵里香にはなってくれなかった。
それに付き合ってくれという話もしなくなった。
いわずもがなで、こうして同居して毎日顔を合わせているのだから当然のことかもしれない。
*******************
2日後、九州支社の機構改革のために1週間の出張が入った。
今、東京を離れたくなかった。地味子のことが気になっていた。
でも二人とも一人になって冷静になることも良いかもしれないと思っていた。
ところが、出張から帰ると地味子がマンションからいなくなっていた。
こともあろうに俺が出張している間に引越しをした。あれから彼女は機会をうかがっていたのかもしれない。
ダイニングテーブルの上に書き置きがあった。『賃貸雇用契約の解除をお願いします』とだけ書いてあった。
キーはコンシェルジェが預かっていた。携帯にかけてみるが通じない。メールも音沙汰なし。
それから会社にもいなくなっていて、派遣元の会社も退職していた。携帯は解約されていた。
隆一に頼んで絵里香の友人の山内さんと連絡を取ってみたが、彼女も連絡がとれないと言っていた。
行方が全く分からなくなった。
*******************
どうしたことか、地味子が俺から逃げるようにいなくなってしまった。なぜだ? 分からなかった。
そんなに嫌われていたのか? そうなら同居を半年も続けるはずがない。
それよりも好意を持ってくれていたはずだ。体調の悪い時は親身になって世話をしてくれた。
時給千円だったけど、好意は感じたし、好意がなければあんなにまでしてくれなかっただろう。
地味子は俺のすべてを見ていた! 確かにそうだ。
恵理も連れ込んだし、合コンで女の子を持ち帰っていた。すべて見られていた。
今さら俺と付き合ってくれはないだろう。よく考えるとそれは当然のことと思えた。
でもあの絵里香のことが忘れられない。あの憂いを含んだ眼差し、耳に残るあの悲しいような細い声、すべては俺に見る目がなかったからだ。
もうあきらめるしかないのか?