久しぶりに出勤して昼休みに一息ついていると、隆一が俺の席のところまで来てくれた。
「インフルエンザに罹ったんだって?」
「ようやく治った。もう大丈夫だ。あの地味子にはとても世話になった。いい子を同居人に選んだよ」
「そうか、俺もそう思う。真一とは気が合うんじゃないか? 俺はおまえにお似合いだと思うけどな」
「まあ、気軽に話せるし、気遣いがいらないから楽だ」
「どうだ、考えてみては?」
「なにを?」
「彼女と付き合ってみたらどうだ」
「いまも同居しているのだから、付き合うはないだろう。それに全く色気を感じない。その気になれない」
「まあ、そうかもしれないが、俺はいいと思うけどな」
隆一の言っていることが今ひとつ分からなかった。
それより絵里香のことが気になっている。インフルエンザで寝込んでいる間、俺は絵里香にメールを入れなかった。
人を恋焦がれるにはそれ相応の気力が必要だ。寝込んでいる間はそういう気力がなくなっていた。
そういう時は弱気になっているので連絡しない方が無難だ。まあ、連絡を入れないで引いてみるのも良いのかも知れないと思っていた。
今日は欠勤明けだから朝から何かと忙しかった。7時過ぎになってようやく時間が取れた。それで絵里香にメールを入れてみた。
[しばらく連絡できなかったけど元気にしている?]
すぐに返信があった。
[はい、元気にしています。お元気でしたか?]
すぐに返信する。
[インフルエンザに罹ったけど、ようやく治った。週末に会えないか?]
[この前と同じ場所、時間でよろしければ]
[了解、待っている]
思わずデートの約束をとりつけることができた。引いてみるのも時には必要だったのか?
*******************
金曜日の午後8時、約束の時間に絵里香は現れた。今日もシックな落ち着いたダークグレーのワンピースに可愛いベストを着ている。
「会ってくれてありがとう」
「私も誰かと少しお話がしたくて」
「相談事があるのなら、相談にのるけど」
「そんなものはありません。ただ、誰かとお話がしたかっただけです」
「リハビリの一環かな」
「そうかもしれません」
「私は元カレと別れてから私のどこが気に入ってもらえたのか考えていました」
「それでどうだったの、どこを気に入ってもらっていたのか分かったの?」
「きっと私の見た目が気に入っていただけだったんです。私の内面というか私自身を気に入っていたのではなかったように思いました。いろいろありましたが、表面的にしか私を見てもらえていなかったから、心から好いてもらえていなかったのだと思いました」
「どのくらい付き合っていたの?」
「1年位でしょうか?」
「私はすべてを見てもらっていたつもりでしたが、彼は表面的にしか私をみてくれていなかったのだと思います」
「彼の責任と言いたいのか」
「私の見せ方が悪かったのかもしれません。彼に見る目がなかったのかもしれません。分かりません」
「それで俺に何を聞きたい?」
「あなたには私を見る目があるのでしょうか?」
「俺に見る目があるかどうかは分からない。それに君とそれほど付き合っている訳ではないからね。それで君はどうなんだ。男を見る目があるのか? 自分ではどう思っているんだ」
「私も分かりません」
「まあいい、今日はこれからカラオケにでもいかないか?」
「そうですね。歌を歌って憂さ晴らしもいいかもしれません」
「それなら、俺のマンションに来ないか?」
「あなたのマンションにですか?」
「カラオケがある」
「本当ですか?」
「それに俺の住んでいるところも見てもらいたい。連れ込んで君をどうかしようと思っている訳ではない。俺を知ってもらいたいだけなんだ」
「カラオケだけと約束していただけるのなら、行ってもいいです」
「そうか、ありがとう」
「じゃあ、ちょっと電話させてくれ。同居人がいるんだ。都合を聞いてみる」
俺は席を立って、地味子に電話を入れる。出ない。携帯が切られているか、圏外とのアナウンス。
地味子からは帰宅は10時以降になるとメールが入っていた。9時前だから、今ならまだ帰っていないだろう。
「電話に出ないけど、まだ帰っていないみたいだ。大丈夫だから行こう」
「同居している人がいるんですか」
「俺の従妹だから心配ない」
「それならなおのこと安心です」
ひょっとするかなと誘ってみたが、絵里香は来る気になってくれた。マンションに案内する。
受付にはまだコンシェルジェがいた。軽く挨拶して前を通り抜ける。絵里香はあまり緊張していないようだった。安心している?
でもエレベーターに乗ると緊張した様子で話しかけてきた。
「すごいマンションですね」
「親父の所有で、俺が維持費を負担して住んでいる。従妹を同居させてその代わりに掃除、洗濯をしてもらっている」
「維持費って結構かかるんですか?」
「前に住んでいた1LDKのマンションよりも随分かかる」
「こんな豪華なマンションに住めていいですね」
すぐに32階についた。玄関ドアを開けて中に招き入れる。地味子はやはり帰っていなかった。
「左の部屋が俺の部屋で、右の部屋が従妹の部屋だ。ここがリビングダイニングでカラオケはここに置いてある」
「広いですね」
「ソファーに坐っていてくれないか。コーヒーを入れるから。砂糖とミルクはどうする?」
「ブラックでお願いします」
コーヒーメーカーにセットしてソファーに戻り、カラオケの準備をする。
「歌いたい曲を決めておいて」
コーヒーを取りにキッチンへ行く。もうできていた。カップに注いで持っていく。
「決まった?」
「『レモン』をお願いします」
「俺もそのあと歌わせてくれ」
「いいですよ。初めて聞かせてもらえますね」
コーヒーを一口飲んでから、絵里香が最初に歌った。この前に聞いた時と同じで情感がこもっていて聞き惚れた。
次に俺が歌った。絵里香はジッと俺の顔を見て聞いてくれた。割とうまく歌えたと思う。
「上手ですね。情感が籠っていて、いいですね」
「ほめ上手だね。他に歌ってみたい曲はないの?」
「それじゃあ、『君を許せたら』をお願いします。このまえより上手くなっていると思いますので、聞いてもらえますか?」
「この前もすごくよかった。是非聞かせてほしい」
絵里香は、今度は俺を見つめて歌ってくれた。
言うとおり、この前よりもずっと上手くなっていた。聞いていると身につまされる曲だ。俺好みで歌ってみたい曲だ。
「いいね、2曲ともいい曲だ。こんな歌が好きなんだね」
「悲しい曲が合っているように思います。歌っていると歌の中にいるような気持になって」
「歌に酔っている?」
「そういうんじゃなくて、身につまされるというか、悲しくなります」
「ロマンチストなんだ」
「自分を悲劇の主人公のように考えるのかもしれません」
「じゃあ、俺が悲劇のヒロインを助ける王子様になってあげる」
「私はお姫様ではありません。ただの失恋したOLです」
絵里香に近づこうとすると彼女は逃げるように立ち上がって窓際へ行って外を見た。
ここからの夜景はとても綺麗だ。初めて見た時はいつまでも見ていていた。
「夜景がきれいだろう」
「いいですね。遠くまで見えますね。こちらは海の方向ですか?」
「天気の良い昼間だと東京湾がみえる」
「しばらく見ていていいですか」
「ああ、好きなだけ見ていていいよ」
俺も立ち上がって窓際に行く。
絵里香が身構えるのが分かる。それでもかまわずに後ろから肩を両手でつかんでそれから抱き締める。華奢な身体だ。
「だめです。放してください。約束が違います」
「好きなんだ。気持ちがおかしくなるくらいに好きなんだ。こんな気持ちは初めてだ」
「私のどこが好きなのですか?」
「分からない。本能的にと言った方がよいかもしれない。理由なんか後から考えればいい」
「ほかの人にもそうおっしゃっているのでしょう」
「本当に好きなんだ、今日は泊っていってくれないか?」
「何をおっしゃっているんですか?」
「真面目に言っている。そうでないとおかしくなりそうなんだ」
「従妹さんが帰ってくるのでしょう」
「大丈夫だ。気にしないと思う。こっちへきて」
手を引いて絵里香を俺の部屋に連れて行く。抵抗はするが断固とした拒絶はしていない。
ここは強引にでも、今を逃すともうこういう機会はないと思った。
部屋に入って抱き締めるとあきらめたのかおとなしくなった。それでキスをしてゆっくり離れた。
「泊まっていってほしい」
これで逃げ出せばそのまま帰そうと思った。
「それほどおっしゃるのなら泊ります。シャワーを浴びさせてください」
「バスルームはそのドアの向こうにある。バスタオルはそこに置いてあるから」
絵里香は黙って入っていった。
俺の熱意が通じたのか? どうして泊って行く気になってくれたのだろう?
シャワーの音が聞こえた。もう我慢できなくなって服を脱いでバスルームへ入った。
裸の絵里香がシャワーを浴びていた。でも彼女は驚かなかった。
俺が入ってくることを予測していた? そう思うと俺は返って落ち着いて冷静になった。
「すぐに替わります。少し待って下さい」
「ああ、ごめん」
俺は絵里香がシャワーを浴びているのをじっと見て待っていた。
絵里香は洗い終わるとバスタオルを身体に巻いて出て行った。それを唖然として見ていた。
肝が据わっている。不思議な娘だ。それで俺もすっかり落ち着いた。
シャワーで身体を洗い終わるとキッチンへ行って冷たい飲み物を持ってきた。
絵里香はベッドに腰かけている。
「飲む?」
「いただきます」
絵里香は半分くらい一気に飲んでそのボトルをサイドテーブルに置いた。
俺もそれを見ながら喉を潤した。一息ついてもっと冷静になろうと思う。
絵里香が俺をじっと見ているので腕を伸ばして抱きしめた。絵里香が耳元で囁く。
「ちゃんと避妊してください」
「ああ、分かっている。心配するな」
それだけ確認すると絵里香が抱きついて来た。俺たちはお互いを貪るように愛し合った。
*******************
絵里香は俺に背中を向けて横になっている。俺は後ろから抱えるように彼女を抱いて、余韻に浸っている。
愛し合っているとき、彼女はえも言われぬ声を出していた。喉の奥から絞り出すような細い声だった。
悲しくて泣いているのか、快感からなのか分からなかった。ただ、魂に響くような声だった。今でも耳に残って離れない。
「悲しかったのか? 泣いているのかと思った」
「よく覚えていません」
「ありがとう」
「私のことが分かりましたか?」
「いろいろなことが分かった。それでますます好きになった」
「でも私の一部しかまだ見ていません」
「付き合ってもっと見てみたいし見せてほしい」
「見る目がないと見えません。見ようとしないと見えません」
「面白いことを言うね。楽しみにしている」
「私をしっかり抱き締めて寝てください」
「ああ、いいよ」
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
*******************
朝、気が付くと抱き締めて寝ていたはずの絵里香がいなかった。
いつかの恵理ように早起きして地味子と話でもしているのかとリビングダイニングへ行ってみた。誰もいなかった。
まだ、外は薄暗い、時計を見ると5時を過ぎたところだった。
夢を見ていたはずがない。昨夜は絵里香と愛し合って一緒だった。抱き締めて寝ていたのは間違いない。部屋に戻って、また眠った。
次に目が覚めたら8時を過ぎていた。これでも土曜日の今日は早く起きた。昨夜の余韻でまだ少し身体が興奮しているのかもしれない。
そうだメールしてみよう。
[昨夜は泊ってくれてありがとう。黙って帰ったんだね]
すぐに返事が入る。
[黙って帰ってごめんなさい。起こすと悪いと思って。始発で帰りました。昨夜はよい思い出になりました。ありがとうございました]
まずまずの内容の返信だった。彼女は家に帰っていたので安心した。
ただ、どこに住んでいるかも知らないし、携帯の番号もまだ教えてくれない。
身繕いをして部屋着に着替えてリビングダイニングへ行く。地味子が朝食を用意していた。
「おはようございます」
「おはよう」
「昨夜は誰かお泊りでしたか?」
「ああ」
「そうですか。4時過ぎに玄関ドアの音がしてどなたかが出て行かれたようです」
「そうか、気が付かなかった。始発に合わせて出て行ったのかもしれない」
「白石さんは、昨夜は何時ごろ帰って来たんだ。連れて帰ると連絡しようと思ったけど、携帯がつながらなかった」
「カラオケで気が付かなかったのかも知れません。帰ってきたのは11時を過ぎていたと思います」
「また、女性を泊めたのですか?」
「まあ、そうだ」
「この前の恵理さん?」
「いや、別の娘だ」
「浮気症ですね」
「いや、今度は本気だ」
「そうなら、その人も喜んでいるでしょう」
「それが分からないんだ」
「つかみどころがない、不思議な娘なんだ」
「気になりますか?」
「ああ、仕事が手につかないくらいにね」
「うまくいくといいですね」
「そうだね、ありがとう」
地味子だと何でも気楽に話せる。これだと彼女を連れて来て鉢合わせしても大丈夫だ。
両親が上京してくることになった。
結婚して後を継げと親から強いられている。お見合いの話もいくつかあるという。でも今はまだここで気ままな生活をしていたい。
それを避けるために考えてきた方策がある
。好きな人と同棲していることにする。いずれ結婚するつもりだと言えば、両親が反対するに決まっている。それで時間が稼げる。
良い相手が見つかればその人と結婚したい。今はその相手が絵里香だと思うようになってきている。
あれから彼女のことが気になってしかたがない。絵里香には正直言ってとても惹かれている。
あのどことなく憂いのある雰囲気が気になってしかたがない。
でもあれ以来会っていない。何かと理由をつけて会ってくれないからだ。会うのを避けているみたいだ。
絵里香ときちんと付き合ってみたい。その気持ちの方が強い。
これから何回も会っていればきっともっと気持ちを通じ合えると思っている。今は時間が必要だ。
それでもだめならあきらめるしかないが、やれるだけやってみたい。
こんな気持ちを残したままで、他の女性と見合いをしたり、結婚をしても良いことはないし。相手に失礼だ。ここは時間を稼ぐしかない。
「白石さん、お願いがあるんだけど、リビングダイニングに来てくれないか?」
「どうしたんですか?」
地味子がリビングに出てきた。相変わらずのださいトレーナースタイルだ。
「親父とお袋がこの週末にここに押しかけてくることになった」
「それがどうかしたのですか?」
「故郷へ帰って見合い結婚をして、実家の後を継げとうるさいんだ」
「私とは関係のない話ですが」
「俺がここを出ていくと白石さんもここを出ていかなければならなくなるぞ。それでもいいのか?」
「いつかはそうなるでしょうから、覚悟はできています。でも今すぐと言う話でもないでしょう」
「そのとおり。今、俺はその気がない。好きな娘ができたんだ。だから時間が必要なんだ」
「ちゃんと付き合っているんですか?」
「何で俺が君に彼女との関係を説明しなければならないんだ」
「私にお願いってなんですか?」
「彼女の代わりに俺の恋人になって両親に会ってもらいたいんだ」
「本人に頼めばいいじゃないですか」
「頼めるくらいなら君に頼んだりしないだろう」
「ほかに何人も恋人の役を引き受けてくれる人がいるじゃないですか? あの恵理さんに頼んだらどうですか?」
「恵理に頼んで本気になったらどうする。後始末がもっと大変だ」
「私なら、後始末は簡単だとおっしゃるんですか?」
「もともと恋愛関係にはならないと賃貸雇用契約書に書いてある」
「確かに書いてあります」
「衣服や準備にかかる費用は俺がすべて負担する」
「私ならお金で済むと言う訳ですか?」
「契約の範囲内だと思うけど、時給は10倍出してもいいから、どうしても引き受けてくれないか?」
「引き受けた後はもっと難しいことになるかもしれませんが、良いのですか?」
「どういう意味だ? 俺の恋人になりたいのか?」
「いいえ、私よりもあなたの問題です」
「お引き受けする前に聞いておきたいのですが、あなたはその人のことをどう思っているのですか?」
「本当は俺にもよく分からないんだ。でも彼女にとても惹かれるんだ。初めての経験だから何といってよいか分からない」
「気持ちが固まっているわけではないんですか?」
「よく分からないんだ。だから時間が欲しい」
「時間稼ぎのためですか?」
「親に恋人と同棲しているところを見せると少なくとも見合いはあきらめるだろう。今はそんな気にはなれない。時間稼ぎと言えばそうかもしれない」
「私はどうすればいいんですか?」
「両親は俺の好みを知っている。俺の好みの服装、髪形などをそれらしくしてほしい。きっと信じる」
「両親はいつここへいらっしゃるんですか?」
「土曜日の3時に来ると言っている。そしてここに泊まりたいと言っている」
「ここに泊まるんですか?」
「そうだ」
「私との同居を言っていないのですか?」
「言う訳ないだろう」
「じゃあ、私はどうすればいいのですか?」
「両親は俺の部屋に泊める。ダブルベッドだから二人でも寝られるし、俺が来る前はそうしていたらしい」
「あなたはどうするんですか」
「ソファーでもいいが、それはまずい、恋人と一緒に住んでいるということにしたいから、君の部屋に泊めてくれ」
「困ります」
「頼むよ、誓って何もしないから」
「少し考えさせてください」
地味子は自分の部屋に入って行った。
俺はこの提案を引き受けてもらおうと必死だった。それだけ絵里香に惹かれていることに気が付いた。
コーヒーでも飲もうとコーヒーメーカーをセットする。こういう時はコーヒーを飲んで落ち着くのが一番だ。
小一時間ほどして地味子が部屋から出てきた。部屋に入った時とは違って何かふっきれたようすだった。
「お引き受けします。土曜日の午前中に一緒に出掛けてあなたの気に入った服を買って下さい。帰ってから準備します」
「ありがとう」
「これはあなたの責任ですることです。これだけは承知しておいてください」
それを聞いて安心した。これで絵里香と付き合う時間が確保できたと思った。
*******************
土曜日の9時に母親から電話が入った。これから新幹線で出かけるという。着くのは3時頃だと言う。
それを聞いて二人で今日の服装のためにショッピングに出かけた。
俺は以前に絵里香が着ていたようなシックなワンピースを選んだ。
地味子と絵里香は身長も体つきも似ている。費用は俺が支払った。
それから絵里香がしていたような髪形を説明して同じ髪形にしてくれるように頼んだ。
地味子は髪をカットして帰るというので、お金を渡して、俺は一人でマンションに戻った。
12時前に地味子が戻ってきた。
「お昼は何か召し上がりましたか?」
「いや、余り食欲がない」
「サンドイッチを買って来ました。一緒に食べませんか?」
「ああ、一切れもらうとするか? コーヒーを入れてあげよう」
「ありがとうございます」
サンドイッチを一切れ口に入れる。緊張しているのか、あまり食べる気にならない。
「それで、これからのことだけど、両親が3時ごろに来るから、これから準備をして、俺が呼ぶまで自分の部屋にいてほしい。両親に事前の説明を終えてから、君を紹介するから、恋人の振りをしてくれていればいい。特段、話もしなくていい。すべて俺が話す。いいね」
「分かりました」
「ああ、それからメガネは外してね。それからお化粧もしっかりしてね、頼むよ。成否は白石さんにかかっているから」
「分かっています」
地味子は準備のために部屋に戻った。
そういえば、俺はメガネを外した地味子の顔を一度も見たことがなかった。
時計が3時を指している。しばらくしてドアチャイムが鳴る。
ドアを開くと両親が立っている。すぐに中に入ってもらう。新幹線に乗ってはるばる来たのだから疲れが見える。
ソファーに坐ったところですぐに話が始まりそうな気配がする。もう少し気持ちを落ち着けたい。
「綺麗に掃除がいきとどいているじゃないか、母さんが心配していた。広いから掃除が大変だろう。感心だ」
「顔色も良くて元気そうなので安心したわ。駅でおいしそうなお弁当を買ってきたから夕食に食べましょう」
「今日は泊っていくからな。サブルームでいいから」
「俺の部屋で寝てくれ。俺がサブルームで寝るから、シーツや枕カバーを取り換えておいたから、そうしてください」
「そうか」
「サブルームに誰かいるのか?」
「そのことなんだけど、お見合い話を持ってきたみたいだけど、俺には好きな人がいる。今日はせっかくだから二人に紹介したいと思って、サブルームに待たせている」
「そんな話をなんで前もってしないんだ」
「会ってみてくれ、丁度良い機会だから」
俺は歩いてサブルームのドアをノックして地味子に声をかける。
「出てきて、両親と会ってくれないか。紹介するから」
ドアが開いて地味子が出てきたが、その姿を見て俺は声がでなかった。
絵里香じゃないか!
慌ててサブルームの中を覗く。誰もいなかった。座卓の上にあの赤いメガネが置いてあった。
「まさか! 君は!」
絵里香はゆっくり歩いて両親の前に行って深くお辞儀をした。
俺は気が動転して何が何だか分からなくなっている。
今、目の前にいるのは正しくあの絵里香だ。間違いない。
あの憂いに満ちた眼差し、思わず撫でたくなるような髪。すべてあの絵里香だ。
今の今まで気が付かなかった。
あの地味子がこの絵里香?
俺は何てことをしていたんだ。
『心ここにあらざれば、見れども見えず!』か!
俺には何も見えていなかった。また、見ようともしていなかった。
俺はどうすればいいんだ。
深呼吸をする。
少し落ち着いて来た。
地味子が言っていた「あなたの責任」と言う意味がようやく分かった。すべて俺の責任だ。
「しし紹介します。こちらが石野絵里香さんです。ここ半年ここで一緒に生活しています」
「初めまして石野絵里香です」
「そんな話は聞いていないぞ!」
「いずれは結婚を考えています」
「おまえには店を継いでもらいたいと考えている。嫁もそれ相応の人と考えている」
「そんなに簡単に結婚を考えていいの、真一」
「彼女の前でその話はないだろう。失礼だろう」
「あなたには社長の嫁としての覚悟はあるのか?」
「その話は彼女には関係ない」
「関係なくはないわよ。私も大変だったから」
「俺は認めん。帰るぞ!」
「あなた、せっかく来たんですから、泊っていきましょうよ。石野さんともお話してはどうですか」
「いや、帰る。帰ってお互いに頭を冷やす。失礼する」
親父が席を立ったので、お袋もついていった。
「親父、落ち着いて、頭を冷やして考えてくれ! 俺の好きな人と結婚させてくれ!」
「おまえこそ、どこの馬の骨かしらん女と軽々しく結婚するというな! 頭を冷やすのはおまえの方だ!」
想定はしていたが、喧嘩別れになった。ただ、これでかなり時間は稼げる。
玄関から戻ると、絵里香がソファーに座っていた。
「悪かったな、いやな役目を頼んで」
「想像していたとおりでしたから」
「済まない。君が絵里香だなんて今の今まで全く気が付かなかった」
「私もだます気はなかったんです。でもすぐに本当のことを言わずに申し訳ありませんでした」
「俺は本当に今迄どうかしていた。見る目がないと言うか何にも見ていないというか嘆かわしい限りだ」
「いえ、同居の契約書に恋愛関係にならないという条項がありますから」
「すぐにでも契約書を改訂して削除しよう」
「それでいいんですか」
「そうしたい。そして俺と付き合ってくれないか?」
「いまさら付き合ってくれはないと思います。もう半年も一緒に暮らしているのですよ」
「そうだな」
「俺のことをどう思ってくれているんだ? あの時、俺の部屋に泊まってくれたじゃないか? 俺が好きだからじゃなかったのか?」
「どうしてか今も分からないのです。あのときどうしてあんな気持ちになったのか?」
「俺は絵里香が好きだったし、今もその思いは変わらない」
「あなたのことがよく分からないのです。一緒に暮らして、あなたの裏も表も見てきました。あなたがこの私をどう思ってくれているのか分からないのです」
「だから、付き合ってくれと言っている。付き合ってくれれば分かるようにする」
「私と絵里香のどちらと付き合いたいのですか?」
「どちらでもない君自身とだ」
「考えさせてください」
「俺も混乱している。考えてみてくれ。いずれにしてもこのまま同居は続けたいと思っている。契約を変更しよう。ただし解除はしない」
「それも考えさせてください」
「分かった」
そう言うと絵里香は部屋に戻った。それから部屋からずっと出てこなかった。
*******************
翌朝、絵里香は地味子に戻っていつものように朝食を作ってくれた。
「おはよう。元に戻ったんだ。絵里香のままでいてくれないのか?」
「はじめは地味にしてくれた方がよいとおっしゃっていました。契約どおりにしているだけです。見た目で気持ちが変わるのですか?」
「難しい質問だね。人は見た目が9割という。俺は絵里香に恋をしていたんだ」
「今の地味な私ではないのですね」
「そうかもしれない。じゃあ君は絵里香ではないのか?」
「今は白石結衣で、石野絵里香ではありません」
「使い分けている?」
「そんな器用なことはできません」
「絵里香が好きなら、今の私も好きなはずです」
「何と言って良いのか、どうしてか俺は絵里香が好きになったんだ」
「そうですか」
あれから地味子は頼んでも絵里香にはなってくれなかった。
それに付き合ってくれという話もしなくなった。
いわずもがなで、こうして同居して毎日顔を合わせているのだから当然のことかもしれない。
*******************
2日後、九州支社の機構改革のために1週間の出張が入った。
今、東京を離れたくなかった。地味子のことが気になっていた。
でも二人とも一人になって冷静になることも良いかもしれないと思っていた。
ところが、出張から帰ると地味子がマンションからいなくなっていた。
こともあろうに俺が出張している間に引越しをした。あれから彼女は機会をうかがっていたのかもしれない。
ダイニングテーブルの上に書き置きがあった。『賃貸雇用契約の解除をお願いします』とだけ書いてあった。
キーはコンシェルジェが預かっていた。携帯にかけてみるが通じない。メールも音沙汰なし。
それから会社にもいなくなっていて、派遣元の会社も退職していた。携帯は解約されていた。
隆一に頼んで絵里香の友人の山内さんと連絡を取ってみたが、彼女も連絡がとれないと言っていた。
行方が全く分からなくなった。
*******************
どうしたことか、地味子が俺から逃げるようにいなくなってしまった。なぜだ? 分からなかった。
そんなに嫌われていたのか? そうなら同居を半年も続けるはずがない。
それよりも好意を持ってくれていたはずだ。体調の悪い時は親身になって世話をしてくれた。
時給千円だったけど、好意は感じたし、好意がなければあんなにまでしてくれなかっただろう。
地味子は俺のすべてを見ていた! 確かにそうだ。
恵理も連れ込んだし、合コンで女の子を持ち帰っていた。すべて見られていた。
今さら俺と付き合ってくれはないだろう。よく考えるとそれは当然のことと思えた。
でもあの絵里香のことが忘れられない。あの憂いを含んだ眼差し、耳に残るあの悲しいような細い声、すべては俺に見る目がなかったからだ。
もうあきらめるしかないのか?
地味子がいなくなってから2年後、俺は会社を円満退職した。俺は35歳になったところだった。
それまでは実家とは恋人の絵里香がいるからと言って何とか遠ざかっていられた。
そしてその間にいなくなった白石結衣を随分探したがとうとう見つからなかった。
しかし、故郷の父が突然倒れて会社を引き継いでやらなければならなくなった。
辞表を出した時、企画部長は随分引きとめてくれたが、白石結衣を失った今はもう東京に思い残すことはなくなっていた。
隆一は昨年会社を辞めて故郷に戻って実家の老舗の菓子店を継いでいた。引き上げるときに送別会を主催してやった。
「隆一がいなくなると寂しくなる。随分と世話になった。感謝している」
「真一も早く帰ってこいよ、故郷はいいぞ」
「隆一は入社した時から、ずっとこの時を考えていたよな、迷いもなくて偉いよ。そんな心境には今でも達していない。いずれそうなることもあるかもしれないが、その時は相談にのってくれ」
「いや、俺は高校の時から随分迷っていたんだ。真一には言わなかったけどな。大学へ行ってから、学費や生活費がかなりかかることが分かって驚いた。今までのほほんと学校へ行って好きなことをしていたが、すべて親のお陰だと思った」
「それは親の務めだろう」
「同級生で家庭の都合で大学進学をあきらめたやつがいた。俺よりも成績が良いのにすぐに就職した。俺は恵まれていると初めて分かった。それを両親に話すと、親父が自分も親に大学まで出してもらったが、この店のお陰だと言っていた。だから店を継ごうと言う気になった」
「そんなこと初めて聞いたぞ」
「言うまでもないことだ。真一はそんなことは分かっていると思っていた。このことは親との約束を果たすだけだ。俺を東京の大学へ出してくれて、何不自由のない生活をさせてくれた。そして今まで好きなようにさせてくれた。自分の力も外で試せた。これで悔いはない」
「それでいいのか?」
「ああ、これが俺の定めだと思っている。ここまでにしてくれたのは、ずっと続いている今の店のお陰だ。おれは店を継いでその恩を返そうと思うし、返さなければならないと思っている」
「隆一は偉いな、俺はまだまだその心境に至っていない」
その送別会の時、婚約者を連れて来て皆に紹介していた。
半年前に故郷でお見合いして婚約中とのことだった。しっかりした好感のもてる女性だった。
お見合いも良いかなとその時初めて思った。
あのとき隆一と話したことが現実になろうとは思いもしなかった。俺も歳をとったということか?
親父が倒れた時に帰省したが、隆一が見舞いに来てくれた。
そのときに、会社を辞めて帰ることを相談した。
隆一は「その気になったのなら迷うことなどない。帰って店を継いだらいい」と言ってくれた。
それで俺も迷いが吹っ切れた。
俺が帰ってくる2か月前に父は退院して家に戻っていた。親父は脳梗塞で左半身が不自由になっている。
仕事ができないことはないが、ひところよりもずっと体力が低下していて事務所に座っているのが精一杯のようだった。
戻ってから1か月ほど経って、俺がひととおり仕事の廻しを覚えたころ、お見合いの話があった。
同業組合の伝手で、相手は老舗菓子店の社長の姪だと言う。
東京の大学を出て、しばらくは東京で会社勤めをしていたが、2年前に戻ってきて、今は母親の実家の菓子店を手伝っているとのことだった。
親父がどうしても身を固めてくれというし、お袋もとても良い人がいるからというので、お見合いをしてみる気になった。
間に入っている吉本さんが来て、履歴書と写真の説明をしてくれた。
去年からお見合いをしているがご縁が無くて、お見合いだけでもしてくれれば自分も顔が立つと言っていた。
写真を見れば分かるが、とても地味な娘さんで東京暮らしをしていたお宅の御曹司のお気に入るかどうか自信がないと言う。
それで履歴書と写真を見せてもらった。
相手の名前は「白石結衣」だった。
何度も名前と履歴書を読み直す。
同性同名もあるが、前に彼女から聞いたことのある大学名は同じだった。
すぐに写真で確かめる。
間違いなくあの地味子だった。
でもなぜ絵里香の姿ではないのか、あの方が魅力的で可愛いのに不思議だった。
この写真と同じ容姿でお見合いすれば、かなりの確率で断られると思ったからだ。
同郷だったのか。そういえば地味子に出身地を聞いたことはなかった。まあ、関心もなかったので聞こうともしなかった。
会話はお互いに標準語を使っていたので分からなかった。
すぐに世話人に是非会わせてほしいとお願いした。
彼は俺からの意外な依頼に半信半疑であったが「まとまると嬉しい、これもご縁だ」といって帰って行った。
もちろん母親にも父親にも、今度の見合いの相手があの時紹介した「石野絵里香」と同じ人だとは言わなかった。
写真を見てもお見合いの場でも、あの写真の姿ならば絶対にあのとき紹介した娘とは分からないだろう。
ひとつだけ懸念があった。彼女はこのお見合いの話を断るかもしれない。
でもそれなら自宅も勤務先も分かったので、会いにいけば良いと思ったら気が楽になった。
あのいなくなった時の寂しさ虚しさが思い出された。もう俺から逃げられないし絶対に逃がさない。
後日、世話人からお見合いの日程について相談があった。ということは先方もお見合いを承知したということだ。
日程の調整はすぐについた。場所は人目につきにくい料亭の一室を借りて行うことになった。
そこは組合の会合にも使っている気心の知れた店だ。組合が俺の歓迎会をここでしてくれた。
*******************
俺とお袋は会場に約束の時間よりもかなり早く着いた。先方はまだ着いていなかった。
時間丁度に先方が世話人と共に現れた。
あの時と変わらない地味な服装だ。度の強いあの赤いメガネもしている。
世話人が済まなさそうに俺の顔を見てから、彼女を紹介してくれた。
「こちらが白石結衣さんです。お母さまの体調が不良で今日はお一人でお見えです」
「篠原真一です。はじめまして、よろしくお願いします」
「白石結衣です。こちらこそよろしくお願いします」
「お母さまが体調不良と言うことですが、大丈夫ですか?」
「2年ほど前から体調を崩しまして、私は母を助けるために東京から帰って参りました。もう一人でも生活できるまでには回復しました」
彼女が突然姿を消した訳が分かった。
「今、伯父さんの店のお手伝いをしていると聞きましたが?」
「父が亡くなってから母は伯父の店の手伝いをしていましたが、体調を崩しまして、それからは私が手伝っています」
「手伝いといいますと?」
「経理の手伝いです。大学でも経営、経理などを学びましたので」
「そうでしたか」
いろいろな辻褄が合ってきた。
まだ、聞きたいことが山ほどあるが、それをお袋の前や世話人の前で聞く訳にもいかない。
「吉本さん、二人だけでお話させてもらえませんか? 母さん、それでいいかい、聞いておくことはない?」
「あなたのお見合いだから、あなたがそうしたいのなら、それでいいわ。ゆっくり気のすむまでお話したらいいわ、白石さんもそれでよろしければ」
「私は構いません」
それを聞くと、お袋は世話人の吉本さんと部屋を出ていった。二人になるとすぐに話始める。
「君が急にいなくなった訳が今初めて分かった。どうして言ってくれなかったんだ」
「あなたに言ったところでどうにかなる話ではなかったからです」
「俺は君がいなくなってから随分探した。でも見つからなかった」
「すみません、過去と決別したかったので、そうしました。私は都会へ出てみたくて、母に無理を言って東京の大学へ行かせてもらいました。でも都会の絵の具に染まってしまって、東京で就職までしてしまいました。母の苦労を考えないで自分の我が儘を通しました。
でもセクハラで恋人に振られて会社も辞めなければならなくなりました。せっかく篠原さんに好かれたと思ったら、ご両親に結婚を反対されました。罰が当たったのだと思いました。だから母が身体を壊したのが分かると、すぐに母の力になろうと思って、過去と決別して故郷へ帰る決心をしたのです」
「俺も過去の人となったのか?」
「それじゃあどうすれば良かったのですか?」
「そうだね、あのままでは親にも反対されてどうしようもなかったからね。君がいなくなって、踏ん切りがついたのだと思う。俺も君と同じように過去と決別して故郷へ帰ってきた。倒れた父親の力になろうと思って」
「こんな形で再会するとは思いもしませんでした」
「どうしてお見合いを受けてくれたの?」
「はじめは篠原真一と聞いて、同性同名かと思いました。写真を見て驚いたんです。まさか同郷だったとは、気が付きませんでした。しかも老舗のお菓子屋さんの息子さんだなんて、これはきっと何かのご縁だと思いました」
「会社ではこのことは一切秘密にしていたからね。最近は個人情報が守られるから自分で言及しないと誰にも分からない」
「確かに老舗のお菓子屋さんの店名は知っていても、社長の苗字は知りませんからね」
「ひとつ、聞きたいことがある。どうして、あんなに可愛いのに、お見合い写真は地味な姿で撮っているの? しかもメガネをかけたりして」
「見かけで好きになられたくないんです。だからこれまでも会う前にほとんど断られました。会っても断られました。それでもいいんです」
「俺が言えたことではない。俺も同じだったから。あの半年、俺は君の何を見ていたんだろうと思った。何も見えていなかった。あんなに優しく親切にしてくれていたのに、気づこうとも好きになろうともしなかった。俺はそんな男だ。捨てられて当然だと思った」
「でもあなたは私と半年の間、誠実に暮らしてくれました」
「契約に従っただけだから。俺はそういう男だ」
「お見合いのお返事、あなたはどうされますか?」
「どうするって、今更言うまでもない。是非お付き合いしてほしい。頼む。どうか付き合ってくれ。もう親の反対もない」
「私もお付き合いしたいとお願いするつもりです。ただし、今の地味なままで良ければですが」
「俺はそのままでいいけど、どうしてこだわるの?」
「あの絵里香を好きになられるのが怖いんです。見かけだけを好きになられるのが怖いんです」
「俺はもう見かけだけで好きになることはない。いやというほど思い知った。でもね、今、思い返すと、君がマル秘の原紙を届けてくれた時、きっと俺は君に何かを感じたんだ。それは自分でも分かる。だから同居を提案した。そのときはその何かが分からなかっただけだと思うようになった。その時の気持ちを信じたい」
「私も同じかもしれません。すぐに同居を承知しましたから」
「これも何かのご縁だろう。定めと言ってもいいかもしれない。素直に従った方がよさそうだ」
「私もそうしたいと思います」
それからしばらく二人はこの離れていた2年間のことを話した。
俺はずっと彼女を探していたこと、あれから合コンにも行かなくなったこと、彼女がいつ帰って来ても良いようにサブルームを空けたままにして、それからは同居人を住まわせなかったことを話した。
地味子は嬉しそうにその話を聞いてくれた。
地味子もあの億ションでカラオケを練習したことやHビデオを見たことなどを時々懐かしく思い出していたことを話してくれた。
俺はそれを聞いてあのころを思い出していた。
頃合いを見て、二人は吉本さんとお袋に声をかけた。
そして地味子はお袋に挨拶を済ませると吉本さんと一緒に先に帰っていった。
二人を見送ってから、お袋が話しかけて来た。
「二人で何を話していたの?」
「ここへ帰って来る前の東京でのことを話していた。彼女は東京では随分苦労したみたいだ。親不孝をしていたから罰が当たったと言っていた。俺も同じようなものだったと話した」
「よさそうなお嬢さんじゃない。見た目はとっても地味で、あなたの好きなタイプではないように思うけど、どうするの?」
「人は見た目だけじゃないよ。いい娘だと思うので、是非お付き合いしたい。吉本さんにそう伝えて下さい」
「あなたも東京で苦労したのね、人を見る目が変わったみたいだから。分かったわ、そう伝えます」
お袋が吉本さんに交際の希望を伝えると「ご縁があって良かった。これで肩の荷が下りた」と喜んでいたという。吉本さんには、本当にお世話になりました。
こうして、二人の新たな交際が始まった。
交際を始める最初のデートをどうしようかと考えた。
街中で二人が歩いていると結構人目につく。それでドライブはどうかと思った。
地味子に相談すると行きたいと言ってくれた。
土曜日は仕事があるというので、日曜日の朝から出かけることにした。
親父が倒れてから乗っていなかった車を使わせてもらっているが、ハイブリッド車で燃費が良い。
9時に白石家まで迎えに行くことになっている。旧市街の住宅地にあった家はすぐに見つかった。
そんなに大きな家ではなく、ごく普通の家だった。それに家の前の道路は一方通行で広くない。
駐車していると他の車が通れないので、急いで降りて玄関のドアホンを押す。
すぐに返事があり、あの地味子が包みを抱えて出てきた。
その後から母親らしき女性が出てきた。落ち着いた感じの女性だ。
「結衣の母親の白石澄子です。わざわざお迎えに来ていただいてありがとうございます。結衣がお世話になります。どうかよろしくお願いいたします」
「初めまして、篠原真一です。お嬢さんをしばらくお預かりします」
「娘にはもう少しオシャレをしないと篠原さんに失礼だと言ったのですが、そういうことに無頓着でお気を悪くなさらないで下さい」
「いえ、そういうところが白石さんらしくて良いと思っています。お気になさらないで下さい」
そうこうしているうちに車が一台来たので、すぐに二人は車に乗って出発した。
「今日は天気も良いので、海岸を回って来たいと思っているけど、いいかい?」
「そうですね。しばらく海を見ていなかったのでいいですね。お弁当を作って来ましたので、お昼は弁当をゆっくり食べられるところを探し下さい」
「白石さんのお弁当か、楽しみだ」
「あり合わせで作りましたので、お口に合えばいいですが」
「同居していた時に朝食や夕食を作ってくれたけど、おいしかったから大丈夫だ」
ここでは20分も走ると海の見えるところへ来る。どんどん海沿いを走って行く。
地味子は外の景色を嬉しそうに見ている。俺も日本海を見るのは久しぶりだ。
ドライブに連れて来てよかった。ようやく二人きりになれた。地味子がもう手の内にあるという安心感がある。
「白石さんは運転免許を持っているの?」
「はい、ここへ帰ってきて2か月くらい経つと、どうしても必要と分かったので取りました」
「そうだね、ここでは自動車がないと何かと不便だからね」
「どんな車に乗っているの?」
「母が乗っている軽自動車です。市内だけですからそれで十分です。それに家の前は道が狭いですから」
「免許を持っていらっしゃったんですね」
「ああ、大学を卒業する4年生の夏休みにここへ帰ってきてとった。親父が就職したら取れないから取っておけと言うので」
「この車は篠原さんのですか?」
「親父の車だ。今日は借りてきた。俺もここへ帰ってきてからすぐに教習所へ3日ほど通って練習した。ペーパードライバーだったので免許は当然ゴールドだけどね」
「安全運転でお願いします」
「もちろん、大切な人を乗せているからね」
10時前にまず行こうと思っていた水族館に着いた。
「水族館はどうかと思って来たけどいいかい?」
「水族館なんて小学校以来です」
「ここのジンベエザメが有名なので見たいと思っていたんだ」
「私も見てみたい」
そのサメはとても大きかった。そして水槽はもっと大きかった。
二人とも優雅に泳ぐ姿に見入ってしまって時間を忘れた。
「見ていると癒されますね」
「そうだね。ゆったり泳いでいる。見ていると確かに癒される。でも俺があのサメだったら」
「サメだったら?」
「きっと退屈して死んでしまうかもしれない」
「あなたらしいですね」
「まあ、ここにいれば餌は貰えるし、外敵もいない。でも恋をしようとしても相手がいない。可哀そうだ」
「もう一匹入れてあげればいいのにね」
「なかなか捕まえられないのだろう。俺もこうして君を捕まえるのに苦労したからね」
「恋の相手に出会うのはどこの世界でも大変なのでしょう」
「そうだね、だからこの再会を大切にしたい」
「私もそう思っています」
館内を見て回った。いつの間にか手を繋いでいた。どちらからと言う訳でもなく自然につないだみたいだ。
気が付くともうお昼近くになっていた。
「どこかでお弁当を食べましょう」
「近くに海水浴場がある。季節外れだから人がいないだろう。行ってみないか」
「海岸に座って海を見ながら食べましょう」
すぐに目的の海水浴場についた。広い駐車場には車が数台とまっているだけだ。
これなら落ち着いて海岸で食べられる。地味子は敷物も用意してくれていた。
波打ち際から少し離れた場所で食べることにした。海の方から吹く風が心地よい。
地味子の作った幕の内弁当をご馳走になる。
「おいしい、君の手作りの料理を久しぶりに食べた。ありがとう」
「すみません、それ全部私が作った訳ではありません。母が半分くらい作ってくれました」
「黙っていれば分からないのに正直だね。でもお母さんも料理が上手だね」
「母は料理が上手なので私が教わっただけです。今日はお弁当を作って行きなさいと言われてその気になりました。母の言うとおりですね。篠原さんが喜んでくれましたから。母の言うことを聞いてよかったです」
「それで、出来たらその篠原さんはやめてくれないか? 昔のことを思いだすから。よかったら真一さんとか、名前で呼んでくれないか?」
「確かにそうですね。それでよろしければそう呼びます。私も結衣と呼んでいただけますか?」
「呼び捨てはどうも気が引けるから結衣さんと呼ぶことにしよう」
呼び方を変えるだけで親近感が増す。でも今はどうしても「結衣さん」としか呼べない。いつになったら「結衣」と呼べるのだろう?
確かに今座る時も並んでは座ってはいない。弁当を真ん中に置く形で距離を置いて対座している。
もっと近づきたいがきっかけがない。いや、きっかけは作るものか?
お弁当を食べ終わると、海外線をずっと走り続けて突端の岬まできた。
この岬は海から昇る朝日と海に沈む夕陽が同じ場所で見られることで有名だ。
確かに両側に海が広がっている。灯台があるので二人でそこへ歩いて行く。人がいなくてとても静かな所だ。
「見晴らしがすごくいい。気持ちがいいわ」
地味子が見渡す限りの海を眺めている。目の前の地味子の後ろ姿を思わず抱き締めてしまった。
地味子が驚くように身体を硬くするのが分かった。でも逃げようとはしなかった。ただ、じっとしているだけだった。
その抱き締めていた時間がどのくらいだった覚えていない。ほんの一瞬のようでもあるし、すごく長い時間だったような気もする。
地味子が動こうとするので、こちらを向かせてキスをした。
地味子はそれに従った。メガネがキスの邪魔をする。
そのキスの時間もどのくらいだった覚えていない。
俺は地味子の顔が見たくなって唇を放した。
地味子は恥ずかしそうに下を向いた。
地味子の顎に手を添えて上を向かせた。
初めて近くで地味子の顔を見た。
化粧はほとんどしていない。メガネをかけているが目は可愛い。鼻も形が良い。よく見ると可愛い顔だ。小さめの口にピンクの唇。
また、その唇にキスをする。そして強く抱き締める。
地味子はもうなすがままになっている。
唇を放してからも抱き続ける。放したくない。
後ろで子供の声がした。
あわてて地味子が離れようとするので、力を緩めた。
二人は何食わぬ顔で距離をとった。でも手は繋いでいる。二人とも手は離さなかった。
二人のそばを子供たちが駆け抜けていった。そのあとから両親が追い付いて来た。
俺は地味子とキスをして抱き合えたことで、もう頭が一杯になってボーとして、来た道を歩いていた。
地味子も黙って手を繋いで歩いている。顔を見るのが照れくさい。
ようやく車に乗り込んだ。
ずっと誰かに見られていたような気がして落ち着かなかった。乗り込んでほっとした。
助手席を見ると地味子もほっとしたようすだった。
手を握るとこちらを向いたので、またキスをした。地味子もそれに応えてくれた。嬉しかった。
「そろそろ帰ろうか? 帰りは来た道とは違う道にするから」
「それがいいです」
帰り道はほとんど話をしなかった。でも心は通い合っていると思った。地味子もそう思っていたのだろう。ずっと穏やかな表情で海を見ていた。
信号待ちの間に手を伸ばして地味子の手を握ると地味子もしっかり握ってくれた。
休憩に海辺のレストランに入ってコーヒーを飲んだ。
ここでもほとんど話をしなかった。テーブルの上で手を握り合っていただけだった。
あれだけ会いたかったのに、話したかったのに、今はこうして二人でいるだけでよかった。
4時を少し過ぎたころに、地味子の家に着いた。
母親が出てきたので、帰りのレストランで買ったお土産を渡した。お弁当のお礼でもある。
立ち話をしているとすぐに車が来たので急いで車を出した。
楽しいドライブだった。今度は紅葉を見に二人で山へ行ってみたい。
月曜の昼頃、得意先の外回りを終えて事務所に帰ってくると携帯に電話が入った。地味子からだった。
携帯番号の交換はすでにしていた。電話は夜遅くが多かった。こんな時間にかかってきたことはなかった。席を外して電話を受けた。
「真一さんですか、結衣です」
「どうしたの、今頃?」
「ちょっと噂話を耳に挟んだものですから、ご存知かと思って」
「噂って何ですか」
「真一さんのお店のことです。うちの従業員の噂話を偶然立ち聞きしました。私と真一さんがお見合いしてお付き合いしていることが知られていました。
そして、真一さんのお店の経営がうまくいっていないので、私の伯父の援助を受けるために私と付き合っていると言うのです。あのカッコいい御曹司が地味な結衣さんと付き合うのは何かあるというのです。
私はそんなに不釣り合いでしょうか? それに腹が立ったこともありましたが、それより、お店が上手くいっていないと噂になっているのが心配なんです。そういう噂をご存知でしたか?」
「店がひところよりもうまく行っていないのは親父から聞いていたが、実際、どの程度なのかはまだ詳しく聞いていないんだ。これまでは仕事を覚えるのを優先していたから、経営は少し後でもよいかと思っていた。親父も事務所に出て仕事をしているから」
「それなら早く確かめた方がよいと思います」
「分かった、そうする。ありがとう。それよりさっきの不釣り合いは絶対ないから気にしないでいてほしい。そのうちに見返してやろう」
「はい、そう言ってくださって嬉しいです」
経営状況について親父に確かめる必要がある。親父のいる社長室をノックする。
「真一です」
「入ってくれ」
「外回りから帰ってきました。お話があります」
「まあ、座れ。話ってなんだ」
「店の経営状態なんだけど、詳しく聞かせてもらないか?」
「そうだな、店の仕事がひととおり分かったら話そうと思っていた。俺もあの病気以来、気力も体力もなくなった。おまえに早く引き継いでもらいたいと思っている。
ここ数年、収支が徐々に悪くなってきた。新幹線が開通して、売り上げ増が見込めるので、思い切って工場を拡張して、新ラインを増設した。
設備投資にかなり金がかかり借り入れもしたので負債が増えた。だが、期待したようには新製品の売り上げが伸びていない。それと使い込みが分かった」
「使い込み?」
「経理の石原さんはお前も知っているだろう。俺の高校の後輩で長くこの店の経理を任せていた」
「ああ、知っている。戻ってきていなくなっていたから、理由を聞くと今年亡くなったと聞いていたけど」
「去年、がんで入院したんだが、末期がんでもう手遅れだった。それで経理ができる信用のおける人を公認会計士に頼んで紹介してもらった。
その人が、経理がおかしいと教えてくれた。架空の領収書が何枚も見つかったというのだ。実際に経理をしてみないと公認会計士では分からないと言っていた。
その額は年間1千万円ほどもあった。遡って調べてもらったが、始めは少額だったのが、ここ数年は1千万円ほどだった」
「それでどうしたんだ」
「入院している石原のところへ行って、使い込みを問いただした」
「本人は認めたのか?」
「すぐに認めて謝罪した。家の建て替えなどでお金が必要だったと言っていた。そんな人の道に反することをしたのでがんになって罰が当たった。後悔していると涙を流して謝っていた」
「それでどうしたんだ」
「お金を返したいが家の建て替えに使ってしまっており、こんな病気になって入院の費用も必要ですぐには返せないと言っていた。それで退職金代わりだ、返金はもういいと言ってきた。それから2か月後に亡くなった」
「親父らしいな」
「長年、この店を盛り立ててくれたからな、そう思うことにした」
「親父も経理を任せきりにしたのがまずかったな」
「俺も歳をとって、気力と体力が衰えてきたから、すべて見切れていなかった」
「新製品も上手くいっていないようだね」
「新製品のために工場を拡張したが、売り上げが思うように増えていない。全体の収支が悪化しているが、工場の収支も悪化している。
俺が脳梗塞で倒れる前に工場の拡張を決めたが、その後いろいろあってストレスからか脳梗塞になってしまった。新製品は工場長の太田にすべて任せてある」
「工場もまかせきりか? 気になるので少し調べてみていいか?」
「気の済むようにしてくれ。もうおまえに任せる」
今の主力の製品は親父が会社を引き継いでから親父と工場長の太田さんが工夫して開発したものだった。
それまですべての製品は本店で作っていたが、売上が伸びたので郊外に今の工場を建てたのを覚えている。
午後になって工場へ出かけた。これまでは挨拶に来て、ざっとしか工場を見ていなかった。ひと昔前よりも、ずっと広くなって設備も新しいものが設置されていた。
事務所へ行くと太田工場長と秋山主任が口論している。俺の姿を見るとすぐに止めて秋山主任は出て行った。
「何かありましたか?」
「いいえ、特にありません。専務ようこそ、今日はなにか御用ですか」
俺は帰郷した時の臨時取締役会で専務取締役になっていた。因みに社長は親父、副社長はお袋、太田工場長は取締役、亡くなった経理部長の石原さんも取締役だった。今はうちも株式会社になっている。
「工場の収支が悪化していると社長に聞いたので帳簿を見せてもらいに来ました。社長にすべて任されているから承知してほしい」
「それはありがとうございます。ご覧になって改善箇所があればご指摘下さい」
工場長は帳簿類を担当者に出させて事務所を出ていった。帳簿類にざっと目を通すが不可解な所は見つからない。
最近は原料費が高騰していると聞いている。採算が悪くなるのは仕方がないが何か方策を考えないといけない。
もう少し詳しく検討してみたいので、昨年度の帳簿類を事務所から本店へ持ち帰ることにした。帰ってから、秋山主任に電話した。工場の様子を詳しく聞きたかったからだ。
「先ほどは失礼しました。専務、何かありますか?」
「専務と言うな、真一さんくらいで勘弁してくれ。直樹、折り入って相談があるんだが、今週でも夜に空いた時間があったら俺に付き合ってくれないか?」
秋山直樹は俺の中学校の同級生で高校を卒業後、調理専門学校に入ってお菓子の勉強をしてから俺の店に就職していた。
「何時でもいいですよ。私も聞いてもらいたいことがありますから」
「それなら丁度良かった。じゃあ金曜日の夜7時に横山町のおでん屋さんで」
「了解しました」
*******************
おでん屋には7時少し前についたが、直樹はもう奥の席に座って俺を待っていた。
「もう着ていたのか、奥に個室をとってあるからそこで」
二人はすぐに個室へ移った。ビールとおでんの盛り合わせを頼んだ。ビールが来るとすぐに乾杯して飲み始める。
「わざわざきてもらったのは工場の話を聞かせてもらいたいと思ったからです」
「ちょうど、よかったです。私も話を聞いて貰いたかったのです。社長に直接とも思ったのですが、病気をして体調を崩されているので困っているところでした」
直樹が言いうところによれば、ここ1~2年、工場長が周りのいうことを聞かなくなって、自由にモノが言える雰囲気でないという。
1年半前に異物混入事件があって、副工場長の飯田さんが責任を取ってやめてからだと言う。それ以来、副工場席は空席になっているという。
副工場長の飯田さんがいるときは、皆で意見を出し合っていたのに、それからは、工場長は意見を聞かずに独断で物事を進めるようになったようだ。
今の新製品も彼の意見で作られたという。直樹からすると少し古臭い商品で、新製品と言っても斬新しさがなく売れ行きが伸びないのもそのためだと言っていた。
俺は工場で何か変わったことがあったら、すぐに内々に教えてくれるように、俺の携帯の番号を教えた。また、直樹の携帯の番号も教えてもらった。
土曜日に出勤するとすぐに工場の昨年度の帳簿類のチェックを始めた。
特段、不審な箇所は見当たらなかった。とはいうものの、俺は経理の専門ではない。
専門家といえば結衣さんがいる。すぐに携帯に電話する。
「真一ですが、お願いを聞いてもらえますか?」
「何ですか? お役に立てることがありますか?」
「うちの店の工場の経理関係の帳簿を見てほしい。不審なところがないかチェックしてもらえないか?」
「競争相手の店の経理に大事な帳簿を見せてもいいんですか?」
「専務取締役の俺の判断だけど、社長に任せると言われている。いつなら都合がいいですか?」
「今日は土曜日で午後は休みですから午後からならいいです」
「こちらも午後なら休みで事務所には誰もいなくなるから、2時ごろうちの事務所へ来てもらえないか」
「分かりました。2時に伺います」
2時に結衣さんが来てくれた。幸い誰にも見られなかったようだ。
帳簿に目を通してもらった。一見何も矛盾はないが、気になることがあると言う。
原料の仕入れ値が自分の店よりもかなり高いと言う。最近は原料が値上がりしているが、これほどは高くなってはいないと言う。
仕入れ先を調べてみると大村商事となっている。住所と電話番号が分かったので、電話してみると電話には出るが話の要領を得ない。
会社のある住所へ二人ですぐに行ってみたが、普通の民家だった。
結衣さんは、これは大村商事が納入価格を高くして不当に利益を得ている可能性があると教えてくれた。
実際に大村商事が原料を搬入しているか、直樹に電話して聞いてみた。原料は今までどおり横山商事が搬入しているとのことだった。
月曜日に横山商事に行って工場に直接、搬入している訳を聞いたが、大村商事から直接、搬入するように依頼されているとのことだった。
2年前から節税対策のために、取引に大村商事を介したいと太田工場長から直接依頼があったそうだ。
因みに大村商事への納入価格を聞いたが、結衣さんの店と同じ価格だった。
そうなら帳簿を操作していると考えられる。工場長と工場の経理が係わっていることは間違いない。結衣さんが計算してくれた額は年間1千万円近くの額になっていた。
すぐに親父いや社長に報告した。
社長は「そうか」と言っただけで、溜息をついて「俺の目が届かなかった。すべて俺の責任だ。専務はどうしようと考えているのか」と聞いた。
俺は心の内を率直に話した。ただ、社長は工場長がいないと工場が回らなくなるのが心配だと言っていた。
それで直樹にその場で電話して、もし工場長がいなくなったら製品の製造に支障があるか聞いてみた。
彼が言うには、製造や品質管理はすべて自分と部下とパート社員でしているので全く差支えないとのことだった。
工場長は何をしているのかと聞いたら、最終製品を食べて味をチェックするだけで、問題ありと指摘されたことはないと言っていた。
それを社長に話すと安心したようだった。専務にすべて任せると言った。親父も気弱になったものだと思った。
それで資料を整えて、工場長と経理担当を問い正すことに決めた。
まず、金曜日の午後に工場経理担当の鈴木を本店に呼び出して社長室で経理の不正について問い正した。
社長と専務の俺、専務の臨時秘書ということで結衣さんにも来てもらった。この時、親父ははじめて結衣さんに会った。
経理担当の鈴木は入店5年目だった。帳簿を見せて、大村商事を通じて高い価格で原料を購入して不当に差額を得ていたことを問い正すとあっさりとそれを認めた。
鈴木は、工場長に言うことを聞かないと辞めさせると脅されて2年前からやむなく従ったと言った。
そして差額の10%を貰っていたとも話した。もらったお金はすべて返すから許してほしいと懇願していた。
すべての会話は録音しておいた。本人には明日土曜日は休んで家にいるように言っておいた。工場長に連絡したら警察沙汰にするから絶対にするなと言っておいた。
次に、仕事に差しつかえのないように相談があると言って、土曜日の午後2時に太田工場長に本店の社長室へ来るように連絡した。
2時に太田工場長が社長室へ現われた。社長と専務がそろって座っているので緊張するのが分かった。
「これからの会話はすべて録音させていただきます。こちらは私の臨時秘書をしてもらっている白石結衣さんです。経理が専門で工場の帳簿類をチェックしてもらいました。疑問点があったので、工場長に来ていただきました。白石さん疑問点の説明をお願いします」
結衣さんが順を追って淡々と疑問点を説明していく。
原料の価格が高いことは自分が菓子店の経理をしているから分かったと話した。
大村商店がダミー会社であることも調べて分かったとも話した。
見る見るうちに工場長の顔が引きつってくるのが分かった。
「すでに経理担当の鈴木君が不正を認めています。正直にお認めになってはいかがですか? お認めにならないのでしたら、警察沙汰になりますが、こちらはそれも覚悟しています」
「私が悪かった。金はすべて返しますから、どうか警察沙汰にはしないでください。子供も孫もいますから」
「お認めになるのですね」
「申し訳なかった。家の建て替えでつい金がほしくなってしてしまったことです」
「それではダミー会社にプールしてある残ったお金を返して下さい。それからすぐに会社から身を引いて下さい。そうしてくれれば、社長は工場長には長い間世話になったので、警察沙汰にはしないと言っています。いかがですか?」
太田工場長は顔を上げて社長の顔を見た。社長はゆっくり頷いた。
それから工場長に今日付けで取締役の辞任届を書いてもらった。
また、不正に得たお金の返金の念書を書いてもらった。工場長は深く一礼して社長室を出て行った。
「辛いな、苦楽を共にした仲間を辞めさせるのは」と社長がしんみりいった。
翌週の月曜日、工場へ行って、朝一番に従業員全員に集まってもらって、工場長が一身上の都合で取締役工場長を辞任したことを知らせた。
工場長は専務の自分が兼任すること、それから秋山主任を副工場長に昇任させることを発表した。
それから経理の鈴木君を営業に異動させることも知らせた。
また、本店の事務部門を工場へ移す予定も発表した。
直樹は突然の昇任に驚いて俺のところへ飛んできた。
「どうしてですか? 私に務まりますか?」
「そう思うから昇任した。俺と一緒に新製品を作ってくれないか?」
「そうなら喜んでお受けします。よろしくお願いします」
その日の午後一番で本店の事務所員全員を集めて、同じ内容を全員に知らせた。社長が立ち合った。
それから1週間後に取締役会と株主総会を開いた。
親父が社長を退任して会長に、俺が専務取締役から社長になった。
副社長はお袋が留任、経理担当取締役に不正を見抜いてくれた経理部長の山下さんがなった。営業部長は留任、取締役工場長は社長の扱いとして空席とした。
本店事務部門の工場敷地内移転も決めた。