2月の半ばに部長に会議室に呼ばれた。
恐れていた転勤の内々示だった。赴任先はこともあろうに米国のニューヨーク事務所だった。
いままで手掛けていた海外メーカーとの技術提携の話が進んでいた。
詳細を詰めて合弁会社を立ち上げるために現地へ行って具体的な打ち合わせをする必要があった。
ひょっとすると一番詳しい僕が行くことになるのではと思っていたが、その通りになった。
就労ビザを取得するまでに時間がかかるので、赴任時期は4月になる見込みだ。
この先どうするか由紀ちゃんと相談しなければならない。どうするか僕は心に決めているが由紀ちゃん次第だ。
会議室から戻ると昼休みに由紀ちゃんを電話で呼び出して、今日帰ったら大事な相談があると告げた。
僕が真剣な顔をしているので由紀ちゃんの表情が硬くなった。
◆ ◆ ◆
今日はプロジェクトの会議の総括に時間が長くかかったので、帰りが遅くなった。
由紀ちゃんは定時に帰れたみたいで夕食を作って待っていてくれた。
遅くなった夕食のテーブルにつくと心配そうに聞いてくる。
「大事な相談って何ですか」
「異動の内々示があった。4月にニューヨーク事務所に転勤することになった」
「よかった。転勤の話で、何かもっと悪い話かと思った」
「悪い話って?」
「別れ話?」
「そんなこと言う訳ないだろう。そんなこと考えていたなんて」
「ごめんなさい、冗談です」
「それで、由紀ちゃんはどうする?」
「ついて行ってもいいですか?」
「もちろん、僕もそうしてほしいと思っている」
「そうします」
「会社は辞めるしかないと思うけどいいのか?」
「はい、一緒に居たいし、私も外国で生活してみたいです」
「よかった、こちらに残って仕事しますと言うかと心配していた」
「会社を辞める覚悟はお付き合いを始めた時からすでにできています。もし、別れたら会社にはいたくないですから」
「そんな覚悟までしてくれていたのか、僕はそこまで考えていなかった」
「私にとって、一番大事にしたいことは、仁さんと一緒にいることです」
「それなら、早速明日から手続きを進めよう」
「どうするんですか」
「まず、入籍する。それから二人で赴任する準備を始める。由紀ちゃんの退職する手続き、パスポートの申請、引越しの準備など。その前に部長に由紀ちゃんとのことを話しておかなければならない。明日、早速部長にこのことを話しておくよ」
「分かりました。でも仁さん、ひとつだけ、その前にしてほしいことがあります」
「何?」
「ちゃんと聞きたいんです」
「……? ごめん。僕はこういう独りよがりのところがある。相手の気持を考えないで自分のことしか考えていない。それで何度も…。
由紀、僕と結婚してほしい。僕のお嫁さんになって下さい。いつまでもそばにいてほしい。お願いします。絶対に由紀ちゃんを幸せにします。どうかお願いします」
「はい、喜んでお受けします。こちらこそよろしくお願いします」
由紀ちゃんが抱きついてくる。それをしっかり受け止めて抱きしめる。
由紀の身体が折れそうになるくらいに抱き締める。
そして何度も何度もキスをする。
由紀ちゃんの目から涙が一筋流れ落ちた。由紀ちゃんが泣いたのをこの時初めてみた。
◆ ◆ ◆
次の日、部長のところへ行って、隣の部の米山さんと結婚して赴任先に一緒に行きたいので3月末で退職させたいと話した。
部長は単身赴任も可哀そうだから彼女の退職はしかたないねと言ってくれた。それから内々に研究開発部長のところへも挨拶にいった。
◆ ◆ ◆
数日後、二人で区役所に行って婚姻届けを提出した。
そして、戸籍ができるのを待って、由紀ちゃんのパスポートを申請した。
結婚式は赴任先のニューヨークの教会で二人だけで挙げることにした。
◆ ◆ ◆
今日は二人で婚約指輪と結婚指輪を買うために銀座へ来ている。土曜日の午後は歩行者天国だ。
由紀ちゃんには付き合ってからも、同棲してからも、高価なプレゼントはしていなかった。
誕生日とクリスマスには僕がしてほしいと思った可愛いネックレスやブレスレットを贈った。
高価なものにすると由紀ちゃんが返って気を使うと思ったからだ。
それでもとっても喜んでくれて、ずっと今も身につけてくれている。
「ごめんね、いままで安物のプレゼントで」
「いいえ、値段なんか関係ありません。大事にしています」
「今日は好きな指輪を選んで」
「可愛いデザインで、いつでもつけていられるものがいいです」
由紀ちゃんは、婚約指輪は小さなダイヤが周りにちりばめられているタイプに、結婚指輪は細めで筋が縦に何本か入ったタイプを選んだ。
選び終わった顔は本当に嬉しそうだった。
二人は手を繋いで歩行者天国をゆっくり歩いている。婚約指輪が由紀ちゃんの指で光っている。
正面から赤ん坊を胸に抱いた女性と40歳半ばと思われる男性が連れ立ってゆっくり歩いてきてすれ違った。
赤ん坊を抱いた女性と一瞬目があった。
間違いなく凛だった。
彼女は一瞬目を閉じて、僕に合図したようだった。
僕も気が付いたが、目を合わせただけにしてすれ違った。
由紀ちゃんもそばにいた男性も気付かなかったと思う。
凛もそうしたかったのだと思う。
凛は赤ん坊を抱いて幸せそうだった。
生まれて3か月くらいか、着ぐるみから男の子らしかった。
隣の男性は僕が想像していたとおりの真面目そうな人だった。隣を歩く凛と赤ちゃんが愛おしいらしく時々目をやっていた。
幸せになっていてくれてよかった。これからも幸せでいてほしい。
凛も僕の横に歩いていた由紀ちゃんに気が付いただろう。あの時の地味子ちゃんだと気づいただろうか?
由紀ちゃんは人を癒すタイプの娘だから、僕にぴったりの娘だと思ったかもしれない。
僕にとっては、凛を失ったから見つけられた大事な宝物だ。
突然の再会だったけど、心のどこかで気にしていたことがすっきりして気が晴れた。
由紀ちゃんは凛とすれ違ったあと、後ろを振り向いていたが僕には何も言わなかった。
僕は由紀ちゃんの手をしっかりと握って歩いて行く。
もう振り返ることはしないでおこう。
凜も振り返らなかっただろう。
お互いに前を向いてしっかり歩いて行こう。
これで「愛人を失ったオッサンが失恋した地味子を嫁にするまでのお話」はおしまいです。めでたし、めでたし。
恐れていた転勤の内々示だった。赴任先はこともあろうに米国のニューヨーク事務所だった。
いままで手掛けていた海外メーカーとの技術提携の話が進んでいた。
詳細を詰めて合弁会社を立ち上げるために現地へ行って具体的な打ち合わせをする必要があった。
ひょっとすると一番詳しい僕が行くことになるのではと思っていたが、その通りになった。
就労ビザを取得するまでに時間がかかるので、赴任時期は4月になる見込みだ。
この先どうするか由紀ちゃんと相談しなければならない。どうするか僕は心に決めているが由紀ちゃん次第だ。
会議室から戻ると昼休みに由紀ちゃんを電話で呼び出して、今日帰ったら大事な相談があると告げた。
僕が真剣な顔をしているので由紀ちゃんの表情が硬くなった。
◆ ◆ ◆
今日はプロジェクトの会議の総括に時間が長くかかったので、帰りが遅くなった。
由紀ちゃんは定時に帰れたみたいで夕食を作って待っていてくれた。
遅くなった夕食のテーブルにつくと心配そうに聞いてくる。
「大事な相談って何ですか」
「異動の内々示があった。4月にニューヨーク事務所に転勤することになった」
「よかった。転勤の話で、何かもっと悪い話かと思った」
「悪い話って?」
「別れ話?」
「そんなこと言う訳ないだろう。そんなこと考えていたなんて」
「ごめんなさい、冗談です」
「それで、由紀ちゃんはどうする?」
「ついて行ってもいいですか?」
「もちろん、僕もそうしてほしいと思っている」
「そうします」
「会社は辞めるしかないと思うけどいいのか?」
「はい、一緒に居たいし、私も外国で生活してみたいです」
「よかった、こちらに残って仕事しますと言うかと心配していた」
「会社を辞める覚悟はお付き合いを始めた時からすでにできています。もし、別れたら会社にはいたくないですから」
「そんな覚悟までしてくれていたのか、僕はそこまで考えていなかった」
「私にとって、一番大事にしたいことは、仁さんと一緒にいることです」
「それなら、早速明日から手続きを進めよう」
「どうするんですか」
「まず、入籍する。それから二人で赴任する準備を始める。由紀ちゃんの退職する手続き、パスポートの申請、引越しの準備など。その前に部長に由紀ちゃんとのことを話しておかなければならない。明日、早速部長にこのことを話しておくよ」
「分かりました。でも仁さん、ひとつだけ、その前にしてほしいことがあります」
「何?」
「ちゃんと聞きたいんです」
「……? ごめん。僕はこういう独りよがりのところがある。相手の気持を考えないで自分のことしか考えていない。それで何度も…。
由紀、僕と結婚してほしい。僕のお嫁さんになって下さい。いつまでもそばにいてほしい。お願いします。絶対に由紀ちゃんを幸せにします。どうかお願いします」
「はい、喜んでお受けします。こちらこそよろしくお願いします」
由紀ちゃんが抱きついてくる。それをしっかり受け止めて抱きしめる。
由紀の身体が折れそうになるくらいに抱き締める。
そして何度も何度もキスをする。
由紀ちゃんの目から涙が一筋流れ落ちた。由紀ちゃんが泣いたのをこの時初めてみた。
◆ ◆ ◆
次の日、部長のところへ行って、隣の部の米山さんと結婚して赴任先に一緒に行きたいので3月末で退職させたいと話した。
部長は単身赴任も可哀そうだから彼女の退職はしかたないねと言ってくれた。それから内々に研究開発部長のところへも挨拶にいった。
◆ ◆ ◆
数日後、二人で区役所に行って婚姻届けを提出した。
そして、戸籍ができるのを待って、由紀ちゃんのパスポートを申請した。
結婚式は赴任先のニューヨークの教会で二人だけで挙げることにした。
◆ ◆ ◆
今日は二人で婚約指輪と結婚指輪を買うために銀座へ来ている。土曜日の午後は歩行者天国だ。
由紀ちゃんには付き合ってからも、同棲してからも、高価なプレゼントはしていなかった。
誕生日とクリスマスには僕がしてほしいと思った可愛いネックレスやブレスレットを贈った。
高価なものにすると由紀ちゃんが返って気を使うと思ったからだ。
それでもとっても喜んでくれて、ずっと今も身につけてくれている。
「ごめんね、いままで安物のプレゼントで」
「いいえ、値段なんか関係ありません。大事にしています」
「今日は好きな指輪を選んで」
「可愛いデザインで、いつでもつけていられるものがいいです」
由紀ちゃんは、婚約指輪は小さなダイヤが周りにちりばめられているタイプに、結婚指輪は細めで筋が縦に何本か入ったタイプを選んだ。
選び終わった顔は本当に嬉しそうだった。
二人は手を繋いで歩行者天国をゆっくり歩いている。婚約指輪が由紀ちゃんの指で光っている。
正面から赤ん坊を胸に抱いた女性と40歳半ばと思われる男性が連れ立ってゆっくり歩いてきてすれ違った。
赤ん坊を抱いた女性と一瞬目があった。
間違いなく凛だった。
彼女は一瞬目を閉じて、僕に合図したようだった。
僕も気が付いたが、目を合わせただけにしてすれ違った。
由紀ちゃんもそばにいた男性も気付かなかったと思う。
凛もそうしたかったのだと思う。
凛は赤ん坊を抱いて幸せそうだった。
生まれて3か月くらいか、着ぐるみから男の子らしかった。
隣の男性は僕が想像していたとおりの真面目そうな人だった。隣を歩く凛と赤ちゃんが愛おしいらしく時々目をやっていた。
幸せになっていてくれてよかった。これからも幸せでいてほしい。
凛も僕の横に歩いていた由紀ちゃんに気が付いただろう。あの時の地味子ちゃんだと気づいただろうか?
由紀ちゃんは人を癒すタイプの娘だから、僕にぴったりの娘だと思ったかもしれない。
僕にとっては、凛を失ったから見つけられた大事な宝物だ。
突然の再会だったけど、心のどこかで気にしていたことがすっきりして気が晴れた。
由紀ちゃんは凛とすれ違ったあと、後ろを振り向いていたが僕には何も言わなかった。
僕は由紀ちゃんの手をしっかりと握って歩いて行く。
もう振り返ることはしないでおこう。
凜も振り返らなかっただろう。
お互いに前を向いてしっかり歩いて行こう。
これで「愛人を失ったオッサンが失恋した地味子を嫁にするまでのお話」はおしまいです。めでたし、めでたし。