木曜日に久しぶりに出勤した。1週間前に飲んだ同期2人が昼休みにそっとやってきた。

「大変な目に遭ったみたいだね、悪かったな、誘って」

「いや、こっちの体調が悪かったのかもしれない、君たちは大丈夫でよかった」

「同じものを飲んで食べていたはずだけどね」

「でもかなりいろいろ飲んだし、いろいろ食べたからね」

「でも、無事退院出来てよかった。俺たちももう若くないから、無理できないな」

「そうだね、さすがに今回の入院は身に染みたよ。でもいろいろなことを考える良い機会になった気がする」

「それならよかった。次の飲み会は来月にでも、お前が十分回復してからにしよう」

僕の元気そうな顔を見て安心して戻って行った。気が置けない奴らだ。同期の仲間は大切にしたい。

それから野坂さんがやってきた。

「入院していたそうね」

「急性腸炎で6日間」

「あなたらしくないわね。少し油断した?」

「そうかもしれない。いや、体力が落ちてきたのかもしれない」

「そうね、私たちはピークを過ぎてこれから落ちて行くのかもしれないわね」

「お互い気をつけよう」

野坂さんが立ち去るのを待っていたように、地味子ちゃんもやってきた。

「もう大丈夫ですか?」

「昨日はありがとう。お陰ですっかり元気になった。お礼がしたいけど、明日の金曜日空いていれば、食事をご馳走したい」

「もう大丈夫なんですか? お気遣いはご無用です。いつもお世話になっていたのでお返しです」

「僕の気が済まないので、どうかな、空いているのなら付き合ってほしい。大事な話もしたいから」

「良いですよ」

「それなら、新橋に和食の店があるから、そこで和食をご馳走しよう。久しぶりにおいしいものを食べたいんだ。和食ならお腹にも優しいので大丈夫そうだから。明日6時半にビルの出口で待ち合わせしよう」

「分かりました。ご馳走になります」

◆ ◆ ◆
次の日6時半にビルの出口で待っていると、地味子ちゃんが出てきた。相変わらずの地味なスタイルだ。

「お待たせしました」

「仕事は大丈夫?」

「折角の機会ですから、頑張って終わらせました」

大通りへ出て、すぐにタクシーを拾って新橋へ向かう。

以前、仕事で使ったことのある和食の店で、4人ぐらいで会食できる掘りごたつの個室を予約しておいた。

「どうぞ、ゆっくりして」

「良い所を知っているんですね」

「まあ、この年になるとこんな店も知っているってとこかな」

「落ち着いていて素敵です」

「ホテルの高級レストランもいいけど、こんな落ち着いた感じも良いかなと思って。二人で周りに気兼ねなくゆっくり話ができるから」

「でも何を話したらいいか思いつきません」

「何でもいいんだ、米山さんと話していると心が休まるから。料理は勝手に頼んでおいたけど、飲み物は何がいい?」

「じゃあ、折角だから日本酒をいただきます」

「冷でいい?」

「はい」

先付けが運ばれてきて、冷の日本酒もグラス2つと共に用意された。それから、時間をおいて料理が運ばれてくる。

「本格的な和食って初めてです」

「そうなんだ。僕は仕事の席で接待したりされたりで、でも忘年会や新年会や送別会で和食にすると大体ひととおり出てくるけどね」

「でも、初めからまとまって幾つか置いてあるし、こんなに一品ずつでてくることはないですよ」

「ゆっくり話ができるように一品ずつ時間をおいて料理が出されるんだ」

「じゃあ、話をしないといけないですね」

「そんなに無理しなくて自然体でいいよ。そうだな、なんでも聞いていいよ」

「入院したのは初めてだったんですか」

「そうだ。まさかこの年で入院するとは思わなかった。油断した」

「どう油断したんですか?」

「あの晩はまずお酒をいろいろ飲み過ぎた。生ビール、黒ビール、焼酎のお湯割り、日本酒、ほかに水割り」

「さすがに多すぎますね。1種類にした方がよかったかもしれませんね」

「いつもはビールだけにしている。ビールだと量が飲めないし、深酔いしないし、お腹にも優しい気がする」

「どうして、いろいろ飲んだのですか?」

「料理がいろいろ替わったので、ついいろいろ飲んでみたいと思った、魔が差したのかな」

「じゃあ、仕方ないですね。どういう料理だったんですか?」

「ブリとマグロの刺身、それにホタテの刺身、どうもこの貝が悪かったかもしれない。魚も肉も内部は無菌だけど、外側が汚染されていることがある。特に貝は海水にじかに触れているので危ない。それからてんぷらに串カツと締めに焼きそば、終わりにかけて脂っこいものが多くなったので、これも悪かったかなと思っている」

「確かに脂っこいものは胃にもたれますから」

「それから、疲れていたのかも? それにもう若くないから」

「そんなことないです。先輩はまだ若いです」

「そう言ってくれてありがとう」

地味子ちゃんには、どうして飲み過ぎ食べ過ぎをしたのかの理由は話さなかった。

これは彼女には全く関係のないことで、誰も言わずに僕の胸にしまっておくことだ。

「ところで、米山さんは以前相談にのってあげた彼とのことがうまくいかなかったんだよね。今、付き合っている人はいないということでいいんだね」

「その節はいろいろ相談にのってもらったり、機会を作ってもらったりして、ありがとうございました。でもうまくいかなくて申し訳ありませんでした」

「いいんだ、それで。それよりも大事なお願いがあるけど」

「なんですか、先輩のお願いなら、何でも引き受けますが?」

「米山さん、僕と付き合ってくれないか?」

「ええ…」

「今、付き合っている人がいないのなら、僕と付き合ってくれないか? どうかな」

「どうして私なんかと?」

「米山さんがすごくいい娘だと分かったから、君と話していると心が休まるし」

「先輩は野坂さんと付き合っているんじゃないんですか」

「いいや、野坂さんとは同期の友達だ。時々飲みに行ったりするけど付き合ってはいない」

「私はてっきりお二人は付き合っていらっしゃるものと思っていました」

「誤解だ」

「そうだったんですか」

「だったら、どうかした」

「お付き合いの申し込み、喜んでお受けします。私、本当は先輩のこと、入社した時から素敵な人だなって憬れていました。でも野坂さんのような素敵な人がいるみたいで、あきらめていたんです。だから、今、ただの友達と聞いて、混乱してしまいました」

「混乱しているって?」

「もし私でよかったら付き合って下さい。こちらからもお願いします」

「ありがとう。よかった。受け入れてもらえて。ご馳走した甲斐があった」

「ご馳走されたからお受けしたんじゃないですから、念のためですけど」

「分かっているよ。良い機会になったということ。それも入院したからかな? 『災い転じて福と為す』の典型だね」

それからは打ち解けて話ができた。楽しい食事だった。

ホテルのレストランでの食事もいいけど、こういう和室での食事も落ち着いてよかった。周囲を気にしなくていいし、誰にも邪魔されずに話ができる。

ただ、始めに信頼関係がなければ個室で二人というのは難しいけど、もともと二人には信頼関係がすでに醸成されていたのだと思う。

店を出て、二人で新橋駅まで手を繋いで歩いた。

時刻はもう9時近くになっている。地味子ちゃんから手を繋いできたのだけど、手は自然と恋人つなぎになった。

はじめはぎこちなかったけど、駅につくころにはもう恋人のようになじんできた。

地下鉄はこの時間はまた混み始めている。なんとか二人並んでつり革がつかめた。僕はお酒が入っているからか、身体を寄せ合いたいそんな気分だった。

表参道で半蔵門線に乗り換えた。今度はとても混んでいたので離れ離れになった。

そして、僕は高津で今日はここまでと地味子ちゃんと別れた。

家へ帰って一休みする。

地味子ちゃんに受け入れてもらえてほっとした。

今度は自分から勇気を出して申し込んだ。今まではいろいろと迷いが出てこれができなかった。だから、大切な人を失ってきた。

もう失敗はしたくない。心地よい疲労の中で、地味子ちゃんが家へ着いた頃にメールを入れる。

[今夜はありがとう。日曜日にデートしないか?]

すぐにメールが帰ってくる。

[ありがとうございました。嬉しかったです。日曜日のデートお受けします。どこにしますか?]

すぐに返信する。

[10時に東急大井町改札口に集合、行先は品川水族館]

すぐに返信が来る。

[楽しみにしています。お体を十分休ませてください。おやすみなさい]

最後の返信をする。

[ありがとう、おやすみ]

地味子ちゃんから野坂さんとのことを聞かれた。

実際、彼女には好感を持っている。また、彼女も僕に好感をもっているはずだ。だから、時々飲みに行ったりしている。

彼女は美人で頭もよい、服装のセンスもよい。女性としての魅力は十分にある。一緒に歩くと皆振り返るくらいの美人だ。

でもどこか惹かれないところがある。それが何かはっきりしない。

だから、深い関係にはならなかった。彼女も僕に対してそう思っているに違いない。

言ってみれば同志のような関係だろうか。お互い相談にのれる間柄だが、癒し合うような関係ではない。

地味子ちゃんとは全く違う。地味子ちゃんと話していると心が癒される。

僕はそういう癒しを求めているんだと思う。凜にもそれを求めていた。