嫁にするなら訳あり地味子に限る!

次の土曜日、美沙ちゃんとの二回目のデート。

前日まで雨が降って心配したが、朝から晴れ上がっている。美沙ちゃんの言ったとおりになった。

場所はこどもの国。一電車早く着いたみたいで、美沙ちゃんはまだいなかった。

次の電車で大きめの籠を持った女の子が降りてくる。向こうも手を振っているので、美沙ちゃん間違いない。

もう初夏だから、今日はピンクのTシャツに白のミニスカート、白いスニーカー、この前とは違ったデザインの赤いイヤリングをしている。

「それ、お弁当? 重そうだね。ありがとう、僕が持つよ」

「時間に間に合ってよかった。お弁当に時間がかかりました」

「ありがとう、無理させたみたいで、今日の費用は僕が全部払うことにしてほしい」

「気にされるのなら、それでお願いします」

入口で二人分の入場券を買って、ゆっくり園内に入ってゆく。自然に手を繋いでいる。

晴れた空、ビル街と違って郊外は空が広くて空気が澄んでいる。ゆっくり歩く。

美沙ちゃんにはいつも癒される。横目でみながら、並んで歩いていると自然と胸に目が行く。意外に大きい。いままで会社では気が付かなかった。

ジッと見ていると目が合って慌てて目をそらす。

「こうして歩いているなんてなんだか夢のようです。今日もお弁当を作っている時、本当にお弁当を作っているんだと思って嬉しくなってしまいました。こうして、お付き合いしているのが信じられないです」

「初めてコピー室で会った時、美沙ちゃんとデートすることになるとは思ってもみなかった。でも、美沙ちゃんといるとほっとする。こんな気持ちは今までになかった」

「私もそばにいるだけでほっとします」

二人ゆっくり歩いて行く。

「もうすぐ、動物園です。確かウサギやモルモットがいます。餌もやれると思いましたけど」

「子供は喜ぶね」

「大人も癒されると思いますよ」

動物園に着くとすぐに餌を買った。コーンのかけらみたいな餌。

美沙ちゃんがまるで子供のように嬉しそうに餌をやっている。

その様子を父親のように見守っている。

すぐに餌がなくなって僕の餌を取りに来た。そして、また嬉しそうに餌をやっている。

「家で飼ってみたいけど」

「世話が大変だよ。それに死ぬまで面倒を見てやらないといけない。飼うとなると相当な覚悟が必要だね」

「相当な覚悟が必要ですか」

「後悔しないようにね」

それから、近くの牧場へ向かった。牛と羊が見える。牛乳を作っているそうだ。

ここのソフトクリームがおいしいというので、買って食べることにした。

「確かにおいしいね」

「小さいころ、ここでよく買ってもらいました」

「ソフトクリームなんて久しぶりだけど、おいしいね」

それから、また二人手を繋いでゆっくりと園内を歩いて行く。

そろそろお昼になったので、お弁当を食べられる場所を探す。

丁度良い木陰を見つけて、持ってきたシートを広げて座った。

お弁当を開けると、お重が2つ、一つにはおにぎりと稲荷寿し、もう一つには幕の内弁当のような卵焼き、鮭の塩焼き、唐揚、つくねなどが入っている。

「いただきます。随分手間がかかったと思うけど、ありがとう」

「冷凍食品も使っていますから。それほどでもありません、お口に合いますか?」

「おいしい。お弁当を作らせて申し訳なかったね」

「食べてもらいたくて、作るのが楽しかったです」

全て平らげて、お腹が一杯になったところで、お昼寝をした。

このごろはもう夏のように日差しが強くなっているが、木陰はそよ風が吹いて心地よい。隣で美沙ちゃんも目を閉じている。

あたたかな柔らかい物が唇に触れたので目を開けると、美沙ちゃんが目を閉じてキスをしていた。美香ちゃんも目を開けたので目があった。

でもキスしたまま美沙ちゃんはまた目を閉じた。僕もそのまま目を閉じてジッとしていた。美沙ちゃんが顔を離した。

「眠っている顔を見ていたら、どうしてもキスしたくなって、ごめんさない」

「いや、柔らかい唇だね」

「ごめんなさい。今しかないと思ったので」

「謝ることないよ、良い思いをさせてもらった」

「ごめんなさい」

「嬉しかったよ、可愛い子からキスしてもらって」

美沙ちゃんが照れて下を向いている。こういうことになろうとは全くの想定外であったから、どう対処してよいかわからない。

「じゃあ、あそこでボートに乗らないか?」

「はい」

敷物を畳んで籠に入れる。食べて飲んだので随分軽くなっている。

それから二人でボートに乗った。美沙ちゃんは恥ずかしがって口を利かない。

それから、サイクリングコースに行って自転車に乗った。このころになるとようやくまた話をするようになった。

3時を過ぎたころにこどもの国を後にした。

「これからどうする?」

「少し疲れたので、このまま帰ります」

「夕食をご馳走しようか?」

「いいえ、まだお腹が一杯です」

「じゃあ、今日は駅までということにしよう」

「そうさせてください。ご免なさない」

美沙ちゃんは疲れたみたいだった。朝早く起きてお弁当を作って、広い園内を歩きまわったのだから。

溝の口駅で電車の中から見送った。僕もお腹が空いていないので、コンビニで夜食にサンドイッチを買って帰った。

家について、ベッドに横になる。随分歩き回ったので疲れた。その心地よい疲労に浸っていると、美沙ちゃんからメールが入る。

「今日はとっても楽しかったです。良い思い出ができました。ありがとうございました。」

すぐに返信のメールを送る。

「ありがとう、とても嬉しかった」

美沙ちゃんの唇の柔らかい感触が今も残っている。別れてからも癒される。いい子だ。

それから、休日の土曜日は交互に行きたい場所でデートを重ねた。

次に行ったのは美香ちゃんの希望で上野公園の近代美術館と動物園。

僕の希望で少し遠かったけど、寅さんの葛飾柴又。

美沙ちゃんの希望で品川水族館。

僕の希望で夜の横浜みなとみらいに行った時、観覧車の中で今度は僕から美沙ちゃんにキスをした。良い感じだった。美沙ちゃんは嬉しそうだった。

デートを重ねると少し心配になったので聞いてみた。

「デートを割り勘にしたり、お弁当を作ってもらったりしているけど、お金は大丈夫。お給料は僕よりはずっと少ないと思うけど」

「ご心配は無用です。私は自分にとって今一番大切なことにお金は使うべきだと思っていますから」

「父がいつも言っていました。出す必要のないものに出さないのは倹約、出すべきものに出さないのがケチだと。私は倹約をしますが、ケチにはなりたくありません」

「なるほど、美沙ちゃんは本当に芯がしっかりしているね」
「今度の土曜日に多摩川で花火大会があるけど、家に来ないか? 部屋から花火が見えてきれいだから」

「部屋から見えるんですか?」

「花火大会があって初めて見えるのに気が付いた」

「行きます。一緒に花火が見てみたいです」

「それなら、6時に来てくれる。飲み物と食べる物を用意しておくから」

土曜日、僕は朝から落ち着かない。美沙ちゃんが僕の部屋に来るのは、風邪で寝込んだ時以来だ。

部屋で二人切りになってみたいと思ったが、今まで部屋に誘うことはしなかった。でも、思い切って誘った。

美沙ちゃんは受け入れてくれた。おそらく前に言っていたように相当な覚悟をして。

二子玉川のスーパーへ行って、おいしそうなオードブルのセットと赤ワイン、ジュース、缶ビール、缶酎ハイなど購入して、冷蔵庫で冷やしておく。

部屋の掃除、洗濯、片付けを済ませる。ベッドのシーツを替える。ベランダを掃除する。ベランダのガラス戸を磨く。テーブルと敷物を用意する。

グラスをもう一度洗う。部屋に消臭剤を撒く。トイレを掃除する。お風呂を掃除する。本棚を整理する。万が一のためにあれがあるのも確認しておいた。

準備が終わったのが3時過ぎ。疲れた! 

ベッドに横になったら眠ってしまって、気が付いたらもう5時になっていた。もう一度部屋の中を見て回る。部屋の温度を確認。準備OK!

6時丁度にチャイムが鳴った。入口のドアロックを解除するとしばらくして部屋のチャイムが鳴る。

入口のカメラには浴衣姿が映っていたが、ドアを開けると黄色地に大きな赤い花模様、真っ赤な帯の浴衣姿の美沙ちゃんが立っていた。

浴衣が良く似合っている。髪はアップにしていて、白いうなじが色っぽい。美沙ちゃんは色白だ。

ゾクッとして震い付きたくなるような衝動に駆られるが、ぐっと我慢して奥に招き入れる。

美沙ちゃんは窓際まで歩いて行って外を見ている。

「花火の準備がしてあるのが見えますね。本当にここは特等席ですね。楽しみです」

「まだ明るい今のうちに飲んだり食べたりしよう。暗くならないと始まらないから、7時過ぎまで時間がある」

「準備するのをお手伝いします。おいしそうなチーズがあったので、持ってきました」

「お酒は何にする? ビール、赤ワイン、缶チュウハイ、ジンジャエール、ジュース、何でもあるよ」

「赤ワインをいただきます。ここなら酔っ払っても心配いりませんから」

「僕も付き合うよ」

二人で赤ワインを飲んで、美沙ちゃんのチーズやオードブルを食べる。日没が近いが、外はまだ30℃以上ある。室内は冷房が効いて快適だ。

二人はベッドに寄りかかって、日が沈んで外が少しずつ暗くなっていくのを見ている。美沙ちゃんのグラスのワインが少なくなっているので注いであげる。

「この赤ワインおいしいですね。少し酔いが回ってきたみたいで、肩により掛かっていいですか」

「いいよ。僕も気持ちよくなってきた」

お互い寄りかかる。いろいろ食べてお腹が膨れたのとアルコールが入ったので、眠くなった。知らないうちに二人もたれ合って眠ってしまった。

「ドーン」と大きな音で目が覚めた。もう外はすっかり暗くなっている。美沙ちゃんも気が付いたみたいで、目が覚めたところだった。

「花火が始まったよ」

「眠っていたみたいですね」

「ベランダへ出よう」

ガラス戸を開けてベランダに出ると、ムッとした暑さだけど、時々、川風が吹いて不快なほどではない。どんどん花火が上がる。

はじめは立ってみていたけど、部屋の端に二人腰を下ろして寄りかかりながら花火を見ている。

「とってもきれい」

「良く見えるね。部屋の明かりを落としたほうが見やすいと思う」

部屋の明かりを落とした。美沙ちゃんは花火に夢中だけど、僕の手を握ってくる。肩に頭を寄せてくる。

腕に美沙ちゃんの柔らかい腕が密着するので肩に手を廻す。美沙ちゃんが身体を預けてくる。良い感じだ。

花火より神経がそっちの方に向かっている。でもこうして身体を寄せ合っているとなぜか落ち着く。

美沙ちゃんの顔をそっと見ると、とっても穏やかな顔をして花火を見ている。いつのまにか美沙ちゃんは僕の腰に腕を廻している。

花火が終わった。長いようであっという間だった。終わってからもしばらく二人は動こうとしなかった。このままこうしていたかったから。

どちらからでもなく、自然にキスをした。美沙ちゃんが抱きついて来る。こちらもしっかり抱きしめる。

「今日は泊ってほしい」と耳元で囁くと、頷く。立ち上がって二人でベッドへ向かう。

倒れ込むと、耳元で美沙ちゃんの「避妊してください」と小さな声。

「分かっている」と言うと「無茶苦茶にしてください」としがみついて来た。

この部屋は3階だから、明かりを消していても街灯のあかりが入ってきて、薄明るい。

美沙ちゃんは僕の腕を枕にして背中を向けて寝ている。僕が後ろから抱えているかたちになっている。

二人とも余韻に浸って動かない。

「美沙ちゃん、ありがとう」

「嬉しかった。しばらくこのままでいいですか」

「ずっとこのままでいいよ」

「私の話を聞いて下さい」

「何?」

「どうか今のことで責任を感じたりしないでください。私が望んだことですから」

「どういう意味?」

「私が嫌になったらいつでも離れて行っていいですから」

「なんで今そういうことをいうのかな?」

「私、もう期待しないことにしているんです。だって、明日になったら別れようと言われるかもしれないし、死んでいなくなってしまうかもしれないから、もうそういうのはいやなんです。

だから期待しないことにしたんです。でも今日の一日は大切にしたいんです。今は間違いなく私のものですから」

「言っている意味は分かる。明日のことを考えるより、今日を今を大切に過したいということだね、全く同感だ」

「分かってもらえますか?」

「分かる。そしていつでも今が今日が一番いい時なんだ。そう思っていると今を大切にできるし、今を一生懸命に生きられる」

「分かってもらえて嬉しいです」

美沙ちゃんがまたしがみついて来た。

夏の夜明けは早い。4時ごろには明るくなってくる。腕の中で美沙ちゃんが安らかな顔で寝ている。

美沙ちゃんは丸まって背中を向けて寝ていて、それを僕が後ろから抱きかかえるようになってる。

夜中にまどろみながら何度も抱き合ったり離れたりしていたような気がする。この形が一番落ち着くみたいだ。

美沙ちゃんの身体の温もりを感じるし、髪の匂いがする。この匂いも好きだ。こうしていると落ち着くし癒される。

寝顔を見ていたらまた眠ってしまって、ベッドから抜け出していったのに気が付かなかった。浴室のドアの音で目が覚めた。

美沙ちゃんはTシャツとショートパンツに着替えていた。やはり相当な覚悟をしてきていたんだ。着替えを準備していた。

「おはよう」

「おはようございます。朝食を食べてから帰ります。昨日の残りで朝食と昼食を作りますから、食べて下さい」

「休みだからゆっくりしていけばいいのに」

「帰ってお洗濯やお掃除をしなければなりませんから。今週の土曜日には私の家へ泊まりに来てください。夕食を作りますから。今度は中華にします」

「もちろん喜んで」

「紙袋貸してください。浴衣を畳んで持って帰りますから」

「その浴衣、とっても似合っていたね、それにとっても色っぽい」

「母が作ってくれました」

「着替えも準備して来てくれたんだね」

「花火の浴衣で朝帰りするわけにはいきませんから、女の身だしなみです」

「ありがとう」

美沙ちゃんは朝食の後片付けをしてから帰って行った。
午後6時はまだ明るいし暑い。まだ、30℃以上はあるだろう。汗を拭きながらアパートに到着。

駅前でデザート用にアイスクリームを買ってきた。手には小さなバッグ。泊まりに来てくれといわれているので着替えと旅行セットを持参している。

6時過ぎにドアをノック。美沙ちゃんの返事。

「お待ちしていました」

冷房が効いていて涼しくてホッとする。

美沙ちゃんはTシャツに膝までのパンツにエプロンをしている。メガネはかけていない。

「はい、アイスクリーム」

「ありがとうございます。暑かったでしょう。すぐにシャワーを浴びて下さい。バスタオルは中にあります」

テーブルの上にはすでに料理が並んでいる。

促されてシャワーを浴びに。浴室はビジネスホテルにあるようなバスタブ、洗面所、トイレが一体になったタイプ。

熱いシャワーが気持ちいい。

身体を拭いていると、これを着てくだいと男物の浴衣と帯をドア越しに渡された。

それを着てテーブルの前に座る。

「ごめんなさい。それ父のものですが、着ていて下さい」

「ぴったりだ。浴衣は小さい時に着たことがあるけど、大人になってからは温泉に行った時ぐらいだ、ゆったりしていいね」

「冷たいビールをどうぞ」

「ありがとう。今日はご馳走になります。それに泊まって行っていいんだよね」

「料理と私だけですが、ゆっくりしていって下さい」

「それで十分。いただきます」

料理は、エビチリ、マーボ豆腐、チンジャオロースー、餃子、チャーハンと中華スープ。

和食もおいしかったけど、中華も味付けがよくておいしい。

「美沙ちゃんはこんなに可愛いのに、どうして会社ではあんなに地味にしているの?」

「3年前に退院してから、すべてを忘れようと、ここに引越しをして、派遣先も今の会社に変えてもらいました。服装も目立たないように今のように変えました」

「服装まで変えることないのに」

「もう男の人とは付き合いたくなかったし、女子社員も地味にしているとこちらを気にしません。それに私服だと毎日、服装を変えなければなりません。同じ服だとお泊りをしてきたみたいなので。それに衣料代が馬鹿になりません。

今の服装だと毎日同じでも会社ではそんなに違和感がありませんから。それでも毎日少しずつは変えているんですよ」

「なるほど、でもそれじゃ少し寂しいね、友達はできたの?」

「友達をつくろうとは思いませんでしたが、お話をする人は何人かできました」

「でも付き合っている人がいないと寂しかったんじゃない」

「付き合ってまた捨てられるのが怖くて」

「でも、こうして僕と付き合ってくれている」

「交際を申し込んでいただいた時には随分悩みました。でも、自分に正直になろうと思ってお受けしました」

「でも一方では、この前もお話しましたが、あきらめているんです。この先を期待してないんです。今を大切にするだけと、そう決めてお受けしたんです」

「だから、いつでも一生懸命なんだ」

「お付き合いを始めてから、毎日が楽しくて、楽しくて、今こうしていることが嬉しくて」

「僕も美沙ちゃんと一緒にいると楽しいし、いつも癒されているから、離したくない」

「気楽に付き合っていただければそれでいいんです」

「お互いにセカンドラブだから、ファーストラブはうまくいかないけど、セカンドラブは成就するというよ」

「今この時を大切にしてお付き合いしていくだけです」

お腹が一杯になった。食べきれなかった料理を美沙ちゃんが片付ける。冷凍保存しておくと言う。

洗い物を片付けて、二人で口直しにアイスクリームを食べた。

「お布団を敷きましょう。二組あります。時々母が泊まっていきますので」

「僕も手伝うよ」

6畳の部屋だから布団を二組敷くと部屋一面が布団になる。この前風邪で泊まってあげた時もそうだったが、まるで、修学旅行の部屋みたいになっている。

「もう一度シャワーを浴びて来ていいかな」

「どうぞ、私もその後シャワーを浴びます」

先にシャワーを浴びて身づくろいをして、布団に寝転んだ。

美沙ちゃんがシャワーを浴びて、浴衣に着替えて出てきた。

ピンク地に小さな赤い花の浴衣を着ている。髪をアップにしている。

横に座るともう我慢できなくなって、押し倒してキスをする。

浴衣の袖から白い腕が出て、左手首の大きな切り傷が目に入った。

この傷、なんとかならないかと思ったら、思い切り吸っていた。

「そんなにすると痛いです」

「この傷から毒を吸い出してやる、悪い思い出を吸いだしてあげる。ジッとしていて」

両手を押さえつけて、傷を吸い続けていると、美沙ちゃんが泣き出した。

「もういいんです。もういいんです。とっても嬉しい。もうすっかり忘れました」

力を緩めると美沙ちゃんが抱きついて来た。

美沙ちゃんは僕に後ろから抱かれて腕の中で寝ていて動かないけど、左手首を自身の右手で押さえている。

「もう、忘れたといったけど、まだ、傷を気にしてるね」

「こんなこと聞いてもいいかな。元彼とはどのくらい付き合っていたの」

「半年ぐらいです」

「それなら、僕たちがコピー室で会ってからと同じくらいじゃないか」

「もう同じくらいになります」

「パソコンを廃棄する時、データを消すソフトがあるけど、どうするか知っている?」

「いいえ」

「元の消したいデータに何回も上書きするんだ、何回も、何回も」

「どうなるんですか」

「そうすると元のデータを復元できなくなる。僕も美沙ちゃんの悲しい思い出にこれから楽しい思い出を何回も何回も上書きしてあげる。

でも、もう半年になるからプライベートで20回は上書きしている。その上、仕事で付き合った日もあるから、50回くらいは上書きしていると思う」

「もう十分に上書きしてもらっています」

「いや、もう少しだと思っている。これからは未知の新しいデータの書込みをいっぱいして行ってあげるから、もうすぐ完全に元のデータを復元できなくなる」

「嬉しい。お願いします。もっともっと上書きしてください」

美沙ちゃんは泣きながら抱きついて来る。
【9月1日(木)】10時、席に戻ってきた竹本室長が岸辺君と手招きしている。なんだろう。

「ちょっと話がある。会議室へ一緒に来てくれ」

フロアーの端にある小さな会議室に二人で入る。内密の話はここですることが多い。

「岸辺君、来月10月1日付で関西の茨木研究所へ行ってもらうことになった。本部長と先ほど決めてきた。人事にはこれから回す。これは1か月前の内々示だ」

「仕事は何ですか?」

「茨木研究所の研究企画室長ということで行ってもらう」

「承知しました」

「岸辺君の後任には笹島君が横浜研究所から来ることになった。プロジェクトの引継ぎを頼む。正式な内示は10日前だから口外しないように、いいね」

「分かりました」

急な異動の話だった。席に戻っても仕事が手につかない。地味子ちゃんが「どうかしましたか」と聞いてくる。

「いや、大したことはないけど、室長から難しい相談をされたのでね」と答える。

転勤は良しとして地味子ちゃんをどうしよう。

それから午前中は仕事もせずに、ずっと考えた。

午後、席に戻った地味子ちゃんの耳元に小声で話す。

「明日の晩、仕事が終わったら食事をしないか、大事な話がある」

「いいですが、プライベートな話ですか?」

「グレーゾーンだから」

「グレーゾーンですか? 分かりました」

「待ち合わせ場所と時間は携帯にメールを入れるから」

この時はこれからどうするかはもう決めていた。

今日の分の仕事を片付けておかないといけない。2時から会議を設定している。

地味子ちゃんと会議室に向かう。仕事に集中! 

3時には会議を終えて、会議録のまとめをいつものように地味子ちゃんに頼む。地味子ちゃんはすぐに取りかかる。

4時には出来上がって、室長に報告して今日の仕事はお仕舞にした。

5時になると、今日はちょっと用事があるのでと言って、すぐに退社した。

【9月2日(金)】昼過ぎに地味子ちゃんの携帯へメールを入れる。

[ビルから少しのところにあるタクシー乗り場で5時15分に待ち合わせ]

すぐに[了解]のメールが入る。

5時過ぎに地味子ちゃんが「お疲れさま、お先に」と言ってまず退社する。

5分ほどしてから退社してタクシー乗り場へ向かう。

地味子ちゃんがタクシー乗り場で待っていた。

すぐにタクシーが来た。僕が先に乗って地味子ちゃんが後から乗る。これは仕事でタクシーに乗る時のスタイル。

この時間だから会社の人に見られても仕事で出かけたように見える。地味子ちゃんもそれが分かっている。

タクシーに乗るとホテル名を告げる。地味子ちゃんの膝の手をそっと握る。

「今日は業務じゃないんですか?」

「グレーゾーンということで」

握った手はそのまま、地味子ちゃんもそのままにしている。

ホテルに着くと、最上階のダイニングルームへ。

入口で名前を言うとウエイターが案内してくれる。

丁度日没のころで、これから夜景がきれいになる。

ウエイターが飲み物を聞く。地味子ちゃんはジンジャエール、僕はビールを注文。

料理は予約のとおりだと確認した。それと肉料理のときに赤ワインを頼んだ。

地味子ちゃんは嬉しそうに外の景色を見ている。

「大事な話ってなんですか」

「まず、食事をしよう。お腹が空いた。それから話す」

食事は定番のフランス料理のフルコースを頼んでおいた。

「おいしいです。さすがに有名ホテルですね」

「おいしいね」

「ホテルで二人で食事するのは初めてですね」

「今日は僕が全額払うから」

「いいんですか」

「グレーゾーンだから」

「じゃあ遠慮なくご馳走になります」

割り勘にするから、今までホテルで高価な食事などしなかった。今日は特別の日。

料理が終わって次はデザートになる。外は夜景がきれいだ。

地味子ちゃんは夜景が気に入ったみたいでジッと外を見ている。

「大事な話だけど。昨日、室長から異動の内々示があった。10月1日付で場所は関西の茨木研究所だ。研究企画室長ということで、もちろん受けた」

「そうだったんですか、ご栄転ですね、おめでとうございます」

「それで、美沙ちゃんに一緒に来てもらいたいんだ」

「私も転勤するんですか?」

「いや、僕と結婚して付いてきて来てほしいんだ。どうかな、お願いします」

「ええ…それって、プロポーズですか?」

「それ以外に何がある」

「あまりにも突然の話で驚きました」

「驚くことはないでしょ、ずっと付き合っていたのだから」

「私は岸辺さんと結婚できるとは思っていません。つり合いがとれませんから」

「でも付き合ってくれたじゃないか」

「付き合いたかったからです」

「それならいいじゃないか」

「はい。嬉しいんですが、まだなぜか実感がないんです」

「いいんだね」

「はい」

「ありがとう。よかった。じゃあ、これを是非受け取ってほしい。婚約指輪と結婚指輪は二人で買いに行こう。これは昨日買ってきたものだ。開けてみて」

美沙ちゃんは包みを解いておそるおそるケースの蓋をあける。そこには3重チェインのシルバーのブレスレットが入っている。

「それをその太いベルトの腕時計の代わりにしてほしいんだ」

それを見て美沙ちゃんが突然大声で泣き始めた。

周りのテーブルから視線が集まる。困った。

この状況は、別れ話を切り出された地味な女の子が泣いているにしか見えない。

慌てた僕は隣のテーブルの女性に向かって「すみません、プロポーズしたら泣いてしまって」と小声でだけど周りに聞こえるように言った。

すぐに視線はざわめきに変わった。

そこへウエイターがデザートに、蝋燭を1本灯したケーキを持ってきた。

美沙ちゃんが泣きやんだ。ケーキにはハートのマークの中にありがとうの文字。

「ご婚約記念のケーキです。ごゆっくりどうぞ」

「美沙ちゃん、蝋燭を吹き消して! 二人で食べようよ」

美沙ちゃんは長い間、蝋燭を見つめていた。

そして「記念に写真を取っておきます」と言ってスマホで写真をとった。

それから、そっと吹き消して「ありがとうございます。とっても嬉しいです」と言った。

それから、美沙ちゃんの腕時計を外して、ブレスレットを着けてあげた。

「これから、毎日いつも着けていても良いですか? 会社でも」

「もちろん、そのためにプレゼントしたんだから。その傷を癒してあげると言う僕の誓いの印と思ってくれればいい。なくしたらまた新しいのを買ってあげる」

「絶対に無くしません。大切にします」

美沙ちゃんは何度何度も腕をかざしてブレスレットを見ていた。気に入ってくれてよかった。

「明日は土曜日だけど、11時ごろに僕の家へ来ないか。これからのことを相談したいから」

「じゃあ、お弁当を作って11時にお邪魔します」

それから、ホテルを出て、手をつないで駅までゆっくり歩いた。

何も話さなかったけど、心は通い合っていた。

いつものように、電車を乗り継いで、電車で分かれた。

今日はグレーゾーンだから。

二人とも家に帰って一人になってこの余韻に浸りたいと思っている。
【9月3日(土)】昨晩、帰宅してから少し余韻に浸ってはいたが、あと転勤まで1か月しかないので、スケジュールを考えてみた。

赴任前に結婚式を挙げて入籍、会社への手続き、引越しなどを考えるとスケジュールがタイトだ。

9月1日(木)内々示
9月2日(金)プロポーズ
9月3日(土)結婚式の打合せ
・・・・
9月20日(火)異動内示
9月30日(金)赴任日、送別会?
10月1日(土)引越搬出(移動)
10月2日(日)引越搬入
10月3日(月)着任

11時に美沙ちゃんがお弁当を持って家に来た。

ドアを開けるとニコニコしたプライベートモードの美沙ちゃんがいる。今日もとっても可愛い。

部屋に入れるとすぐに後ろから抱きしめて、それからキスをする。美沙ちゃんが抱きついて来る。

昨日の帰りは手を繋いで歩いただけだったから、なおさら抱き合いたい。

どれくらい抱き合っていただろう。ようやく気持ちが治まってきた。

美沙ちゃんがコーヒーを入れてくれる。飲みながらこれからの予定を相談する。

「これが、決まっているスケジュール。その間の予定を決めたいけど」

「相当に忙しいですね」

「今日の予定だけど、これからネットですぐにでも結婚式を上げられる式場を探す。それから、午後は婚約指輪と結婚指輪を買いに行く」

「はい」

「明日の日曜日に結婚式場へ行って申込みと打合せをする。それから、美沙ちゃんのお母さん夫婦に挨拶に行くのはどうかな。だからお母さんに明日の予定を聞いてみてくれる?」

「母には昨晩帰ってから、潤さんにプロポーズされてお受けしたことを報告しておきました。とても喜んでくれました。今、電話してみます」

美沙ちゃんはベランダに出て電話をしている。すぐに戻って来た。

「明日の6時に二人で待っているとのことです。夕食を準備してくれるそうです」

それからネットで簡単に結婚式を上げられる式場を探した。

2,3か所見つかったので電話で確認する。

9月18日(日)午後4時に空きがあった。とりあえず押さえさせてもらって明日10時に打合せの予約を入れた。

ここまでは順調。スケジューリングは仕事でいつもタイトな中で調整しているから慣れている。

「結婚式にはお母さんご夫妻、それと僕は竹本室長に出席をお願いしようと思う。式の後、5人で食事すればいいんじゃないかな。それと婚姻届の証人の署名はお母さんと竹本室長にお願いしよう」

「それは良い考えです」

「結婚式の日の晩は都内のホテルに泊まろう。次の日、区役所に婚姻届を出しに行こう」

「素敵です」

「それから次の週には内示が出ているから、休日に2人で転勤先の住まいの下見に行こう」

「はい」

「それから引越しの予約をしておかないといけないね。自分の荷物の整理をしておいて」

「確かに随分忙しいですね。スケジュールどおりになるように頑張ります」

「美沙ちゃんが辞めることは、室長に結婚式の出席をお願いするときに話しておくけど、美沙ちゃんはしばらく口外しない方が良いと思う。もちろん、結婚の話もしない方がいい。送別会があるからそこで発表しよう。それまでは内緒にしておこう」

「分かりました。言うとおりにします。さすがにすごい気配りですね」

「美沙ちゃんに不愉快な思いをさせたくないから、それまで自然に振舞っていて」

「ありがとうございます。ブレスレットは着けていてもいいですか」

「もちろん、そうしてほしい」

美沙ちゃんが作って来てくれたお弁当を食べてから、銀座へ婚約指輪と結婚指輪を買いに出かけた。

婚約指輪は給料の3ケ月というが、美沙ちゃんは気にいったものを買ってほしいと言って、かなり安いものを選んだけど、デザインがほぼ同じで値段が高めのものを僕は買うことにした。

小さなダイヤモンドが指輪を取り巻いて、キラキラ輝いている。美沙ちゃんの指にぴったりのサイズがあったので、それをそのまま指にはめて帰ることにした。

結婚指輪も美沙ちゃんが選んだデザインにした。サイズ合せと文字をいれるので1週間後に出来上がるとのこと。

美沙ちゃんはまだ嬉しそうに婚約指輪をかざしてみている。これで一つ片付いた。

それから、腕を組んでウインドウショッピングしながらぶらぶら歩く。

「今日は僕のところに泊っていかないか? 婚約したんだから、二人でゆっくり過ごしたい」

「はい、でも着替えなどを取りに一旦家へ帰ります。それから夕食のために何か買ってきます。簡単ですが夕食をつくります」

「ありがとう」

帰って、スケジュールを整理する。

9月1日(木)内々示
9月2日(金)プロポーズ
9月3日(土)スケジュール打合せ、婚約指輪・結婚指輪購入

9月4日(日)結婚式場打合せ、お母さん夫婦への挨拶
9月5日(月)室長への婚約の報告と式への出席、婚姻届の署名を依頼

9月18日(日)4時結婚式、食事会
9月19日(月)婚姻届提出

9月20日(火)異動内示、会社への扶養申請、住居紹介依頼
9月25日(日)転居先下見
9月26日(月)茨木研究所打合せ?

9月30日(金)赴任日、社内挨拶回り、送別会
10月1日(土)引越荷物搬出、赴任地へ移動、駅前のホテル宿泊
10月2日(日)引越荷物搬入
10月3日(月)着任

これなら何とかいける。よかった。

美沙ちゃんが戻ってきた。服を着替えて来ている。手にバッグとスーパーのレジ袋を持っている。

部屋に入るとすぐに抱きしめてキス。美沙ちゃんがしがみ付く。

気が済むまで抱き合ってキスを続ける。

二人の気持ちが落ちついたころ、美沙ちゃんが夕食の準備を始めた。

「まだ、暑いのでソーメンにします。それに鶏肉の照り焼きと和風サラダ」

「おいしそう」

「この前に泊まったときに冷蔵庫と冷凍庫の中を調べておいたので、あり合わせで作りますが、すぐに出来ます」

料理の手際が良い。すぐに座卓に料理が並ぶ。缶ビールで乾杯。

「この指輪すごく素敵で気に入っています。ありがとう」

「デザインが良いね」

「私、指輪をすることがなかったので、落としてしまわないか心配で、あれからずっと右手で触ってはまっているのを確認しています」

「落ちないと思うけど、そんなに喜んでもらって大切にしてくれて、嬉しいよ」

「こうして触っていると嬉しくて、嬉しくて、ありがとう」

食事が済んで、美沙ちゃんが後片付けをしている間に、僕はベッドメイキング。

「先にシャワーを使わせて下さい」と言って、美沙ちゃんが浴室へ入った。すぐに続いて浴室に入る。

「一緒にシャワーを浴びたい。洗ってあげるから」

「いや、恥ずかしい」

美沙ちゃんがしゃがみ込んだ。こちらもしゃがみ込んで抱きしめてキスをする。

美沙ちゃんはもうあきらめたみたい。「じゃあ洗って下さい」と立ち上がった。

浴室に一緒に入るのは初めてで、裸の美沙ちゃんを明るい所で見るのも初めて。

いつも明かりを落として抱き合い愛し合っていたので、色白の身体がまぶしい。

スポンジに石鹸をつけて、背中を洗い、前を向かせて胸から洗ってやる。

もう観念したようになすがままになってくれている。

石鹸を洗い流すと今度は僕を洗ってくれる。

背中から前、下半身も洗ってくれた。

それから、2人また抱き合ってキス。

それから、バスタオルでお互いの身体を拭き合って、僕はバスタオルにくるまった美沙ちゃんを抱きあげて、ベッドへ運んだ。

嬉しそうに僕の顔を見ている。それから二人だけの長い夜を過ごした。

美沙ちゃんの肌は指が吸い付くように柔らかい。触れているととても心地よく、それだけで癒される。

女性経験はプロの女性を含めると少なくはなかったが、こんな肌の娘は初めてだった。

人肌が恋しくなると言うが、美沙ちゃんに触れているとその意味が良く分かる。

こうして肌をふれあって寝ていると安らかな気持ちになる。

背中を向けて丸まって、後ろから抱かれている美沙ちゃんはジッとして動かない。

「疲れたの?」

「いいえ、こうして肌が触れ合っていると、心地よくて、安心して、ずっとこのままでいたくて」

「同じことを考えていた」

「本当?」

「ああ」

「ずっとこのままでいよう」

二人はいつの間にか眠りに落ちたみたい。
【9月4日(日)】6時に目が覚めた。

美沙ちゃんも同じころに目が覚めたみたいで、寝がえりをうってこちらを向いたので、目が合った。

「おはよう」といって、我慢できずに抱きしめる。

美沙ちゃんも抱きついて来るので、また愛し合う。

目が覚めたら、もう8時になっていた。

そうだ、結婚式場の打合せが10時からだった! 二人同時に気が付いて飛び起きた。

10時に原宿にある結婚式場に到着。

当日は4時から結婚式と写真撮影のみ、それから近くのレストランで5名での会食の予定。式場を下見して、衣装合わせ。

美沙ちゃんはカタログで衣装を選んでから別室で試着して寸歩合わせ。

ちょっと確認して下さいといわれて、別室に行くとウエディングドレス姿の美沙ちゃんがいた。

とってもきれいで可愛い、本当に惚れ直した。

僕の方はやはりカタログでグレーのスーツを選んで試着した。サイズはぴたり。

美沙ちゃんが見に来てOKのサイン。

それから近くのレストランへ行って5名での会食のための個室と料理を予約して打合せは終了。

お昼になっていたので、近くのハンバーガーショップでハンバーガーを食べて、すぐにそれぞれの家へ帰宅。

美沙ちゃんの母親夫婦のお家の訪問時間は6時なので5時40分に梶ヶ谷駅の改札口に集合することにした。

丁度約束の時間に駅についた。美沙ちゃんはもう改札口で待っていた。

駅前の店で手土産のケーキを買う。

駅から5分ぐらいのところに築年が古いマンションがあった。

入口に管理人室があるだけで、セキュリティーのための自動扉などない。

エレベーターで4階に上がる。405号室のドアをノック。

お母さんが中に案内してくれる。かなり広くて3LDKだとか。

リビングに案内されるとご主人が待っていた。

「ようこそ、美沙さんの母親の夫の野上義和です」

「始めまして、岸部潤です。今日はご挨拶にお伺いしました。また、お食事にご招待いただき、ありがとうございます」

野上さんは落ち着いた雰囲気の人だった。テーブルの上には料理が置かれていた。

和食を用意してくれたとのことで、前に美沙ちゃんがご馳走してくれたものと似かよっている。

席につくとすぐに野上さんがビールを注いでくれる。

「今日の午前中に結婚式場に行って打合せてきました。式の日時は美沙さんからお聞になっていると思いますが、9月18日(日)の午後4時からです。

5時30分から式に出席してくれる私の上司の竹本企画開発室長とお二人と私たち二人の5人での会食を予約してきました。よろしくお願いします」

「美沙ちゃんの結婚式に出席させていただきありがたいです。まあ、食事をしながら、私から家内親子との係わりについての話しを聞いて下さい」と言って話し始めた。

咲子さんと美沙ちゃんはニコニコして聞いていた。

野上さんは小さな建設会社を経営していて今は長男に社長を譲って引退して会長になっているとのこと。

野上さんは45歳の時に奥さんを病気で亡くした。その時17歳の男の子と15歳の女の子がいたが、二人の世話を契約していた大工の横山さんの妻の咲子さんが引き受けることになった。

当時、横山さん親子は近くに住んでいて、咲子さんは30歳で美沙ちゃんは8歳だったとか。それから8年間、長男が大学院を卒業し、長女が大学を卒業するまで、自分の子育てをしながら、家事を引き受けてくれたとのこと。

子供たちが独立して家を出てからも、食事の世話などをしてくれていた。そして、8年前に夫の横山さんが事故で亡くなった。

残された咲子さん親子に、今までの恩返しと事故のお詫びにできるだけのことをしようと会社の事務の仕事をお願いしたり、会社の寮にも住んでもらった。

そして3年前に引退する時に、子供たちとも相談して、咲子さんに結婚を申し込んだ。

その時、美沙ちゃんと3人で住もうといったのだけれど、美沙ちゃんが遠慮して一人暮らしを始めた。

美沙ちゃんが自殺未遂をしたときには、無理にでも一緒に住んでいればと後悔したという。

こうして美沙ちゃんが岸部さんと結婚することになってこんなに嬉しいことはないと言った。

それから、咲子さんと結婚するときに、自分と15歳も年が離れているので、死んだ後に困らないように、咲子さんに、このマンションを譲ると遺言状を書いたそうだ。

子供たちにはそれぞれ自宅やマンションを与えてあるので、二人とも承知しているとのこと。

この前も長女に初孫が生まれたときにも咲子さんが孫と長女の世話してくれて長女がとても感謝していたとのこと。丁度美沙ちゃんが風邪を挽いて寝込んでいた時だった。

野上さんの話を聞くとやはり小さな建築会社でも社長を務めていただけのことはある。人の気持ちが分かり、心遣いができる人だったので、安心した。

お母さん夫婦を訪問してよかった。美沙ちゃんはあのお母さんの性格を引き継いでいることがよく分かった。道理で料理もおいしい訳だ。

【9月5日(月)】朝、室長が9時少し前に席に着くとすぐに話に行った。

「室長、お話ししたいことがあるので、会議室で聞いていただけますか」

「何か重大な話か?」

「実は、横山さんと結婚することにしました。転勤が決まったので、関西に一所に来てもらおうと、急遽プロポーズして婚約しました。9月18日(日)4時から結婚式を挙げることにしました。それで、室長に結婚式に出席していただけないかと思いまして」

「そうか、おめでとう。喜んで出席させてもらうよ。岸辺君とは入社以来の付き合いだけど、いつまでも独身でいるから心配していた。良かったじゃないか。仕事はよくできていい子だけど、ブランド好きの岸辺君が地味な横山さんとよく結婚する気になったね」

「そのうちに分かっていただけると思います。それで彼女を9月末で退職させます。彼女の方から派遣会社を通じて会社に届け出させます」

「承知した。実は薄々ひょっとするかなと思っていた」

「なぜですか?」

「そう、君たちが風邪でダウンしてからかな、お互いに見舞いに行っただろう。あのころからかな」

「分かりましたか?」

「横山さんの君を見ている目が変わったし、前にも増して仕事に一生懸命になった。君の彼女を見ている目も変わった。それにお互いに会社で冗談を言わなくなっただろう。プライベートで付き合っていると、会社で冗談なんか言わなくなるものだ」

「なぜ、そこまで気がつくんですか」

「僕も家内と職場結婚をしたから」

「そういえば以前、奥さんは研究所でもらったといっていましたね」

「僕が30歳の時、研究者として1人前になったので、新卒のアシスタントを付けてくれた。これが可愛い子で、またよく気が付く。それで内緒で付き合って、1年後にはやめさせて嫁にした。だから分かる」

「いやあ、参ったなあ。でも二人の結婚のことは当面内密にしておいていただけませんか? 社内の手続きはしますが、発表は送別会の時にでもしようと思っていますから」

「承知した。でも気を付けた方がいいよ。うちのもあの時は可愛かったが、今はすっかり尻に敷かれている。横山さんもしっかりしているから気を付けろ」

「彼女なら尻に敷かれても良いです」

「のろけるな、今のうちだけだ、子供ができたら豹変するから、本当に気を付けた方が良いぞ」

そんなこと美沙ちゃんに限って絶対にないと思って席に戻った。
【9月18日(日)】結婚式の当日、美沙ちゃんが10時に僕のマンションへ来た。

今日の打合せをして、お昼を一緒に食べてから、式場へ向かい2時に到着した。

係りの人との打合せを済ませて、美沙ちゃんと僕は着替えにそれぞれ別室へ。

母親夫婦と竹本室長には3時に式場に来てもらうことになっている。

僕は着替えが済むと控室へ行って母親夫婦と竹本室長に挨拶を済ませる。

美沙ちゃんは着付けに時間がかかっている。咲子さんが様子を見に行った。

暫くして、ウエディングドレスを着た美沙ちゃんが入ってきた。とっても可愛い。

僕は衣装合わせの時に見ていたので、驚かなかったが、竹本室長の驚く様子が印象的だった。

そして「岸辺君が結婚したいと思ったのがよく分かった。君は見る目があるねえ」と言った。

それから皆で式場に向かった。

美沙ちゃんは野上さんとバージンロードを歩いて来た。

式は順調に進んだ。

美沙ちゃんの顔は上気して目の周りと頬がピンクに染まっている。

野上さん夫婦も嬉しそうだった。

誓いのキスをしたとき、美沙ちゃんの目から涙がこぼれたのが今でも目に焼き付いている。

式が終わると、二人の結婚記念写真を撮影、全員の写真はそれぞれのスマホで撮ってもらった。

これで、すべて終了。着替えを済ませてから、5人で会食の会場のレストランへ向かう。

会食では話が弾んだ。皆、気の置けない人ばかりなので、楽しい食事だった。

咲子さんは美沙ちゃんが小さい時のころの話をしてくれた。

竹本室長は僕が研究所に入って二人で苦労したことなどを話していた。

親しい人だけの食事会は成功だった。

野上夫妻と竹本室長をタクシーで見送ると、二人は渋谷のホテルに向かった。

美沙ちゃんは高層のホテルの部屋は、夜景はきれいだけど落ち着かないというので、低層階の部屋にしてもらった。確かに落ちつく。

部屋に着くとすぐにキスをして暫く抱き合う。

それから二人でシャワーを浴びてベッドへ、しばらくはゆっくり休みたい。

今日は結婚式、会食と続いて緊張していたのか二人ともかなり疲れていて、なかなか愛し合う気になれない。

「ひとつ教えて下さい。プローズしてもらった後に出てきたケーキにありがとうと書いてあったんですけど、お受けしないとは考えなかったのですか?」

「交際を申し込んだ時も、花火を見に来ないかと誘った時も、そして美沙ちゃんを抱いた時も、受け入れてくれたから大丈夫と思っていた」

「随分、自信家なんですね」

「それから」

「それから?」

「美沙ちゃんは今を今日を精一杯生きるといつも言っていたから、このプロポーズされたこの時を大事にしたいと思うに違いない、大事にしない訳がない、だから絶対に受けると確信していた」

「そのとおりでした。さすがに潤さんです。もうかないません」

「でも、突然大声で泣かれたのは全くの想定外で慌てた」

「嬉しくて、嬉しくて、もう感情を抑えることができませんでした」

「あわただしかったけど、式を挙げてここまで来た。明日、婚姻届を出せば美沙ちゃんは完全に僕のものだ」

「今でもすべて潤さんのものです」

美沙ちゃんが抱きついて来る。

【9月19日(月)祭日】ぐっすり眠れた。目が覚めたら6時。

美沙ちゃんもほとんど同じころに目覚めたみたいだけど、ジッと身体を寄せて動かない。肌が触れあって心地よい。

「もう少しこうしていよう」

「このままこうしていたい」

また、二人はまどろんだみたいで、今度は気が付くと8時だった。

さすがにもうこれ以上は眠れない。おはようのキスをして身づくろいを始める。

9時に朝食のラウンジに降りていくと、朝食を食べている人はまばらになっている。もうほとんどの人は朝食を終えたみたいだった。

ビュッフェスタイルで食べたいものを適当に集めてゆっくり食事。今日は休日だけどこれから二人で区役所に婚姻届を出しに行く。

10時にチェックアウトして、溝の口駅の近くの区役所へ向かう。

昨日、式が済んでからお母さんと竹本室長に署名捺印してもらった婚姻届、必要書類、身分証などすべて準備してある。

窓口で書類が確認されて受理された。婚姻届受理証明書を発行してもらった。これで社内手続きは進められる。

美沙ちゃんのアパートは駅の反対側だけど、見送り方々、立ち寄って行くことにした。

部屋の中にはもういくつか引越しの段ボールが積み上げられていた。

美沙ちゃんがコーヒーを入れてくれる。二人で貰った書類を見ている。

「本当に潤さんの奥さんになったんですね。今日から岸辺美沙ですね」

「美沙ってどういう意味?」

「父は沙というのは仏教で使われていてありがたい字だと言っていました。慈悲深い心の美しい女の子になってほしいと付けたのだそうです」

「潤ってどう意味なんですか」

「人に潤いを与える人になってほしいと付けたそうだけど、呼びやすいのと響きも良いからとか言っていた」

「人柄に出ていますね」

「美沙ちゃんもね、一緒にいると心が癒される」

「一つ聞いてもいいですか?」

「いいよ、何?」

「潤さんは元カノと別れてから、女の人がほしくならなかったのですか?」

「健康な男だからね、しかたないでしょ」

「それでAV見てたんですか?」

「もう勘弁してくれ、はい、そうです。それに」

「それに?」

「それにプロの女性にご厄介になっていた。月1くらいかな、仕事の暇な時に」

「そういえば、会議が終わって一段落したころに、午後に休暇を取っていましたね。まさかその時ですか?」

「そう、ウイークデイの午後は空いているから、休日は混んでいるので、それに休暇も使わないといけないから」

「まさか私と付き合ってからはないですよね!」

「本当にありませんし、これからも絶対にありません。もう美沙ちゃんがいるから」

「誓って?」

「誓って!」

そう言うと、美沙ちゃんが抱きついてきた。もう誰にも遠慮はいらない。ただ、愛し合う。

それから、お昼になったけど、朝食が9時でそれもお腹いっぱいに食べたので、冷凍してあったケーキを二人で食べた。

折角の機会だから、関西へ持っていく家具や荷物のすり合わせをした。美沙ちゃんも僕も家財が少ないのですぐに終わった。

もうすぐ二人だけの生活が始まるけど、あと10日ばかりは、プライベートは休日だけ! を継続して別々に生活することにした。
【9月20日(火)】転勤の内示があった。業務部へ婚姻届受理証明書をもって、扶養家族の申請に行った。

業務室の係りの女性に内密にしておいてくれるように頼んだが、守秘義務があるから心配しないでもいいですよと言っていた。

それから転勤に伴う住居の手配も依頼をした。こうしておけば会社から契約している不動産会社へ依頼が行き、二人用の住居を探してもらえる。

条件は2LDK, 駅から歩いて5分程度、茨城研究所から通勤時間30分程度とした。

【9月23日(金)】業務室から転勤先の住宅候補が2件紹介されてきた。茨木駅前の物件と高槻駅前の物件。

吉本君が席を離れたので、地味子ちゃんに小声で相談する。

「関西の住まいが2件、紹介されたので、二人で見に行かないか?」

「はい」

「26日(月)に茨木研究所で引継ぎの打合せをすることになっているので、25日(日)に行こうと思う」

「それでいいです。一緒に行きます」

「君は日帰り、僕は一泊する」

「分かりました」

【9月25日(日)】二人で物件を見に出かけた。

茨木駅の駅前の不動産屋さんに着いたのが、11時。すぐに歩いて5分くらいの賃貸マンションに案内してくれる。

玄関はセキュリティーがしっかりしている。部屋は5階だった。2LDKの間取り。築5年と言うだけあって最新の設備がついている。

美沙ちゃんは気に入ったようで「ここでいいかなあ」と言った。でも、もう1件見てからきめることにした

次の物件は2駅離れた、高槻にあった。ここは大阪と京都の中間地点で新快速も停車して便利は良い。駅前の不動産さんが案内してくれる。やはり歩いて5分くらい。

近くにショッピングセンターがあるので買い物にも便利だ。12階建ての7階の2LDK。

セキュリティーも前の物件と同じで、部屋の造りや配置もほとんど同じ。ベランダからの見晴らしが良い。ただ、賃料が少し高い。

「どっちでもいいけどこっちかな」

「茨木の物件は研究所に近くていいけど、近すぎる。ここは買い物にも便利だし、新快速も停まるから京都、大阪、神戸方面にも便利がいい」

「こっちにします?」

「通勤時間も30分以内だと思う。そうしようか、ここに決めた」

ここに決まったので、美沙ちゃんはもう一度、室内を丁寧に見て回っている。

「お風呂の広いのがいいし、ベランダからの眺めもいい」

「でも、高槻は夏はかなり暑いと聞いているけど大丈夫かな?」

「大丈夫、暑いのは平気だから」

美沙ちゃんは不動産屋さんから、部屋の図面を貰って何やら書き込んでいる。

十分に見たからこれで大丈夫というので、不動産屋さんに手続きをお願いして、退出した。

高槻駅へ行くと、丁度新快速が来たので、乗車。次の停車駅は新大阪。すごく便利と美沙ちゃんが感心していた。

新大阪駅で新幹線に乗る美沙ちゃんを見送って、僕は予約してあった、新大阪駅前のホテルにチェクイン。

美沙ちゃんの気に入ったマンションが見つかって良かった。
【9月30日(金)】今日は朝から1日、後任の笹島君と仕事の引継ぎの打ち合わせ。

打合せには吉本君と地味子ちゃんと後任の業務室の派遣の女子社員も出ている。

笹島君は有名大学卒で独身。ぼくの4年後輩にあたる。研究所では同じ部に所属していたので、気心は知れている。

研究センスもよく、人当たりも良いので確かに本社向きだ。上はよく見ている。本社勤務は初めてだから丁寧に要領を説明する。

地味子ちゃんが辞めることは内示の時に吉本君には話をしておいた。

「横山さんには随分助けられた。横山さんがいなくなると後任の笹島さんは困ると思います」

「そう思って、室長にはすでに後任を頼んであるから、手配してくれていると思う」

「横山さんは寿退社ですよね。婚約指輪と結婚指輪をしているし、あの太い腕時計の代わりにかわいいブレスレットをして、ここのところ、ニコニコして機嫌がいいから。何か聞いています?」

「いや、プライベートなことは聞かないことにしている」

「でも蓼食う虫も好き好きですよね。あんな地味な子が好きな人もいるんですね。ご主人の顔が見てみたい」

「そうだね、どんな人かね」

地味子ちゃんの後任については、大分前に室長に相談していた。室長は「横山さんの後任は何とかする、誰がいいか、横山さんに聞いて指名してくれ」と言った。

地味子ちゃんに後任を相談すると「業務室に神田弥生という、同じ派遣会社から来た女子社員がいて、年は私より下で20歳位だけど、気が利いて仕事ができるので、彼女なら間違いありません」と勧めた。

彼女とはお昼ごはんを一緒に食べるようになって親しくなったとのことだった。

室長に横山さんの推薦ですと所属と名前を告げると、できるだけやってみようと言ってくれた。

時間がかかったが、何とか手続きが間に合って、朝、挨拶に来た。業務室で扶養申請を受け付けてくれた女子社員だった。

地味子ちゃんと同じ感じで、地味だけど、しっかりしていて地味子ちゃんが推薦しただけのことはある。

地味子ちゃんからどのくらい情報を得ているのか分からないが、嬉しそうでニコニコしている。

引継ぎの打合せは4時過ぎに終わった。笹島君には、分からないことや困ったことがあったら、いつでも電話を入れて相談するように言っておいた。

これで引継ぎは終了。肩の荷が降りた。それから、急いで関係部署に転勤の挨拶に回った。

転勤と言うのは良いシステムかもしれない。同じ仕事を続けていると、仕事上の貸し借りができて来るし、しがらみも多くなる。後任に託してリセットすることも必要だ。

6時からの送別会は会費制で行われる。同じビル内にある貸しホールにテーブルを準備して、お寿司、ケータリングのオードブル、つまみ、飲み物などを持ち込んで立食で行うのが通例になっている。

参加が負担にならないように安価にすませる。時間も長くて1時間半くらいでお開きになる。形式的と言えば形式的な送別会。

5時になったので、地味子ちゃんが「では会場で」と退席する。すでに室内と関係部門への挨拶は済ませている。

6時少し前に、室に残っていた人が会場へ向かう。幹事と4~5名が5時から会場の準備をしてくれている。

会場は20~30人位のパーティーに丁度良い大きさで、マイクも準備されている。僕は主賓だから前の中央に室長と司会者と並んで立っている。

うしろの方に着替えをした地味子ちゃんがそっと入ってきたのが見えた。そっと入ってきたのと、プライベートスタイルになっているので、誰も地味子ちゃんに気付いていない

司会者が「横山さんがまだみたいです」というので「もうきているよ」と言って「横山さん、前に来て」と手招きする。

可愛い女の子が部屋の隅をとおって中央に出てきた。

みんな「あれ!横山さん?」とあっけにとられて見ている。司会者が話始める。

「それでは、時間になりましたので、はじめます。岸辺さんが10月1日付で茨木研究所へご栄転、横山さんが今日付けて退職されますので、企画開発室の送別会を始めます。その前に岸辺さんからお話ししたいことがあるというので、お願いします」

「皆さん、本日は送別会をしていただいてありがとうございます。この場をお借りして私の方から皆様にご報告いたしたいことがあります。私、岸辺潤とここにいる横山美沙は9月18日に竹本室長にお立合いいただいて結婚式を挙げ19日に入籍しました」

会場からどっと驚きの声が上がる。

「業務に支障がないようにと今日まで内密にしてきました。ご理解いただきたいと思います。それから部下の横山と交際するにあたり、地位を利用したパワハラ、セクハラなどは一切ありませんでしたので、念のため申し上げておきます。今後ともよろしくお願い申し上げます」

美沙ちゃんが笑っている。

「それでは横山さん、いや岸辺さん、一言お願いします」

会場が静まり返る。

「皆さんの前で結婚のご報告をするとは、ここに配属になった時には思いもしませんでした。岸辺さんはこんな私に対等な立場で交際してほしいと言ってくれました。上司の立場を利用したことはありません。

でも交際中にセクハラはありました。もちろん社外でのことですが。転勤の内々示のあった後にプロポーズされたときは大声で泣いてお受けしました。

それからあっという間に今日ここにいます。主人共々今後ともよろしくお願いいたします」

会場から拍手とおめでとうの声が上がった。

「竹本室長、一言お願いします」

「ご結婚おめでとう。岸辺君がアシスタントに横山さんを取ってきてほしいと言ってきたけど、来てもらうと、皆も知ってのとおり、すごく地味な子でした。

でも仕事はよくやってくれて、岸辺君もプロジェクトがスムースに進むようになったと喜んでいました。

1か月前に岸辺君に転勤の内々示を出すとすぐに横山さんと結婚すると言ってきたので驚きました。内心、仕事はできるがあんな地味な子のどこがいいのかなと思っていました。

結婚式の立ち合いを引き受けて式に出ましたが、今見てのとおり、別人かと思うほど、花嫁が可愛くてとにかく驚きました。

その時、岸辺君の人を見る目に感心しました。どうか二人赴任先でも仲良くやってほしい。終わり」

「ありがとうございます。それでは室長の音頭で乾杯します。室長よろしくお願いします」

「ご両人のご結婚を祝して乾杯」

乾杯後の雑談が始まった。事前にあまりしゃべり過ぎないようにしようと二人でしめし合わせていた。美沙ちゃんも質問にはほどほどに答えているが、とっても嬉しそうだ。

美沙ちゃんの左手首にはブレスレット、薬指には婚約指輪と結婚指輪が光っている。

僕は結婚を内密にしておくため、美沙ちゃんに断って結婚指輪を会社では送別会まで着けなかった。

吉本君がとんで挨拶に来た。

「すみません、岸辺さんに失礼なことを言ってしまいました。でも人が悪いですよ、教えくれてもよかったでしょう。部下なのに」

「悪かった。仕事に差し支えると思ってのことだから、許してくれ。それに室長にも同じことを言われたから、気にしなくていいよ」

「そう言われると気が楽になります」

「結婚式で彼女を見た時の室長の顔もさっきの吉本君と同じ顔をしていた。実を言うと僕も変身した彼女を見た時はそうだったから」

「そうですよね、驚きますよね」

「そういうことだ。まあ、笹島君と神田さんとはうまくやってくれ」

二人への花束贈呈で送別会は終了した。美沙ちゃんに名誉挽回の機会を作ってやれてよかった。僕の人を見る目の良さも紹介出来て大成功だった。

二人は花束を抱えて駅に向かう。このビルともこれでしばらくお別れだ。でも感慨に浸っている時間はない。

明日は引越しの荷物を搬出して、高槻に向かわなければならない。これから、帰ってからそれぞれ最後の荷造りをすることにしている。