「宮野さ、金曜のあれはなんなの?」
珍しく晄汰郎のほうから話しかけてきたと思ったら、週が明けた月曜日も安定した真顔で尋ねられたのは、自分でも不思議で仕方がない、例の突発的な行動のことだった。
『……また、渡すから。受け取ってもらえるまで、何回でも。……じゃあね』
一言一句、覚えている。
全速力で坂道を駆け下りたことも、まさか今さら自分のほうが晄汰郎を意識してしまうなんてと驚愕したことも、全部全部、今さっきのことのように。
だから会いたくなかった。でも、同じクラスなのだから、逃げも隠れもできない。
そんな、今一番顔を合わせたくない相手がズカズカと席にやって来たのは、二時限目の授業後、間もなくのことだった。
常に冷静沈着、真顔がフォーマットのような晄汰郎でも、金曜のことが少なからず気になっていたのだろう。
晄汰郎の行動に完全に意表を突かれた私は、正面から真っすぐに見下ろしてくる彼をぽかんと口を開けて見上げたまま、しばし固まってしまった。
「……」
「……」
そんな私たちの間に沈黙が走る。
心の準備ができていれば、もしかしたら席を立つなり目を逸らすなりして避けられたことだったかもしれない。
でも、まさかクラスメイトの前で晄汰郎がアクションを起こすとは思っていなかったし、何より私は今まさにその本人のことを考えていたから、咄嗟にはどうすることもできなかった。
友達にしつこく報告をせがまれ、じゃあ昼休みに詳しくと、とりあえず時間を稼ぐことにしたのは登校後すぐのこと。
それまでに金曜日に起こったことをいい感じに捻じ曲げなければならない。事実をありのままに話すには、どうにもショックが多すぎる。
「で、なんだったの、あれは」
再度尋ねられて、今度は目が泳いだ。おまけに椅子からお尻が浮きかける。
けれど晄汰郎が、まるで〝逃がすか〟とでも言いたげに机に両手を付いて身を乗り出してくるから、完全に逃げ道を塞がれてしまった。
ちらりと彼を見ると、その強引とも取れる動作とは裏腹に、どこか切羽詰まっているような気もするから、わけがわからなくなる。
「……な、なんだったの、って」
「俺のこと、本気で好きになったの?」
「は?」
視線を明後日のほうに向けてはぐらかそうとすると、間髪入れずに聞かれて、またばっちり目が合ってしまう。
しまった、これじゃあ晄汰郎のペースだとハッと我に返ったときには、けれど、もう遅い。
「ちょっと」
「えっ、えぇっ?」
野球部で鍛えられた反射神経がものを言ったのか、目にも止まらぬ速さで晄汰郎に腕を取られてしまい、あれよあれよという間に教室を連れ出されてしまう。
クラスメイトや友達からの「何事?」「どうした?」という視線を体中に嫌というほど浴びながらの連行は、それだけで顔から火が出そうなほど恥ずかしい。しかも足がもつれて前につんのめりそうになってしまい、もう踏んだり蹴ったりだ。
もうすぐ次の授業だというのに、晄汰郎は一体どこに連れて行こうとしているのだろうか。
とにかく恥ずかしいから、もうやめてほしい。お願いだから。ほんとマジで。
休憩中の生徒で賑わう二年生の階の廊下をずんずん連行されながら、私はもう、頭が真っ白だった。金曜日の自分でも説明のつかない奇怪な行動といい、今のこの晄汰郎のわけのわからない行動といい、本当にわけがわからない。
他クラスの同級生たちに見られるというあまりの恥ずかしさも重なって、頬は皿に火照り、瞳にも薄っすら涙が滲んだ。
「ちょっ、えっ……?」
そんな私のことはちっとも気に留めやしてくれずに、やがて先週と同じ別棟の空き教室へ連行した晄汰郎は、先に私を中へ通し、自らは後ろ手で戸を閉め、鍵までかけた。
カチャンと響いた施錠の音に我に返った私は、さっきのように真っすぐに見つめてくる晄汰郎に尻込みし、反射的に後ずさる。
まさか月曜日の朝っぱらから何かしようなんて考えてはいないだろう。けれど怖いものは怖い。
だって鍵もかけられたのだ。十分、何かされている気がしてならない。
「五分、十分でどうこうするか、バーカ。教室だとうるさくて落ち着いて話せないから、静かなところに移動したんだよ」
すると晄汰郎が、ふっと微笑をこぼした。
あからさまに警戒する私を見てバカだと思っているのだろうか、鼻で笑われたような気がして、私の頬はまたカッと熱くなった。
「聞きたいのは、ひとつだけ。金曜のあれはなんだったの? 俺はどうすればいいの?」
そんな中、再度、今度はゆっくりと、噛みしめるように晄汰郎が尋ねた。
私の警戒心を解くためなのだろう、戸のそばから離れる様子もなく、降参するときのように両手を顔の横に上げている晄汰郎は、不覚にもちょっとだけ可愛くて困る。
「……」
「……」
月曜の午前中特有の、これからはじまる憂鬱な一週間に向けて無理やりテンションを上げているかのような喧騒が、まるで嘘のようにひっそりと静まり返る空き教室は、壁時計の秒針がチクタクとただ時を刻んでいるだけだった。
遠く本校舎のほうから生徒たちの笑い声や廊下を走る足音がぼんやり聞こえて、かえってこの教室の中の静寂が際立つ。
耳に痛い静寂というものを経験するのは、これが初めてかもしれない。
目の前にはつい三日前、唐突に意識するようになってしまった晄汰郎が、私が何か言葉を発するのをじっと待っている。
もし納得するようなことが言えなければ、晄汰郎はきっと、そこをどいてはくれないだろう。
降参のポーズは相変わらず可愛いけれど、やっていることは、ひどく強引だ。
てか、一体これはどういう状況なの。
私は眩暈を覚えそうになるのを必死で踏みとどまり、働かない頭を働かせた。
『……また、渡すから。受け取ってもらえるまで、何回でも。……じゃあね』
その自分でも説明しようのない突発的な宣言は、晄汰郎には聞こえたかどうか、わからないと思っていた。むしろ聞こえていてほしくなかった。だって本当に、なんであんなことを言ったのか、わからないのだから。
けれど、週が明けてみればこれだ。
せっかく作った本命お守りを「いらない」と突き返しておきながらこれだなんて、男子の――いや晄汰郎の頭の中がわからない。
「……ていうか、晄汰郎こそ、なんなの。私のこと、本気で好きだったりするの?」
手のひらで転がされているような気がして悔しくなった私は、教室でされた質問と同じ質問をそっくりそのまま返す。
素直に答えてなんかやりたくない。それ以前に、好きかどうかなんてまだわからない。
興味本位で近づいたことは、確かに私が悪かったから謝る。それで晄汰郎を混乱させたことも、私が悪かった。
だけど、私の出方を待ってから言葉を返そうとしている晄汰郎のずるさが、どうしても釈然としない。
男らしくないと言えばそれまでだと思う。けれど私は、晄汰郎はそんな男じゃないと思っていた。
勝手に裏切られたような気分になるのも間違っていると思う。だって私が勝手に作り上げた理想だし、あまりに身勝手すぎる願望なのだから。
それでも、晄汰郎には試すようなことをしてほしくなかったのも本音だ。
野球に一直線に打ち込むように。クラスメイトに頼られるように。誰かの一言に簡単に自分のスタンスを崩さないでほしい。今どき珍しい愚直なまでのその感じが、逆に格好いいんだから。
「……教えてあげないよ。私がなんであんなことを言ったのかも、晄汰郎をどう思ってるのかも、絶対に教えてなんてあげない」
言うと晄汰郎から「それも宮野の計算のうち?」と皮肉った質問が返ってきた。それには答えずにいると、ちょうどスカートのポケットに入れていたスマホが震え、静かな教室にその機械的な音がやけに大きく響いた。
見なくてもわかる。友達からの心配の声だろう。それに、そろそろ戻らないと、本当に授業に遅れてしまう。そうしたら、友達にも先生にも、何を言われるかわからない。
「……もう行こうよ」
短く息を吐き、皮肉は無視して晄汰郎に近づく。
もうとっくに顔の横から下ろされていた彼の両手は、代わりに体の脇でだらんと力なくぶら下がっているだけだった。
鍵に手を伸ばすと、仕方なく、といったふうに晄汰郎が鍵を開けて体をよけた。ガラガラと戸を引いてくれるのは、ここまで強引に連れてきた、せめてものお詫びだろうか。
「……とりあえず、行こ」
そう言って私は教室への廊下を引き返す。
……どうしてこうなったんだろう。
足を止めて振り返ってみても、けれどそこには、すぐ後ろをついてきているはずの晄汰郎の姿は見えない。
どうせ同じ授業を受けるのにサボるつもりなんだろうか。坊主でゴリラのくせに。そんな度胸もないくせに。
だから嫌なんだ。夜行遠足も、お守りも、月曜日も、恋とかいう目には見えない不確かな感情に振り回されるのも、全部、全部。
別棟から二年生の階の廊下に戻ると、他クラスの男女五人グループが窓のそばで声を上げて笑っていた。彼らが見ているのは、なぜか人っ子ひとりいないグラウンドだ。
彼らのポンポン飛び交う会話を聞くに、どうやらクラスメイトの男子が後輩女子に本命お守りをもらったらしく、偶然居合わせた彼らが、その一部始終を目撃したらしい。
しきりにグラウンドを見ているということは、そこで活動している部活のどれかなのだろう。
男子も後輩女子も、まさか見られていたなんて夢にも思っていなかったはずだ。
ここにも夜行遠足前特有の恋のあれこれがあったんだと思うと、一人じゃないんだとちょっとだけ勇気づけられる。
でも、自分が二人の立場だったらと思うと、とてもじゃないけれど他人事とは思えない気分だ。
私もさっき、晄太郎に似たような目に遭わされた。あれじゃあ、私たちの間に何かあったとクラス中に言っているようなものだ。
「おおー、晄汰郎じゃん! いつも相変わらず絶妙な坊主頭してんねー!」
と、唐突に一人の男子が廊下の向こうに声を張り上げた。ちょうど彼らの近くを歩いていた私も聞き慣れた名前に思わず振り返る。
「おー、統吾。お前は相変わらず、いつも絶妙にダサチャラいな。似合ってねーんだよ」
「うっせーなー」
「ははは」
坊主でゴリラの晄汰郎と、ダサチャラいらしい統ちゃん――統吾という名前らしい男子の異色の組み合わせに、振り返りつつも動かし続けていた私の足はとうとう止まる。