(春日山城・天守閣跡)



 私が生まれたのは、雪深い真冬の未明のことだった。


 その日も相変わらず、雪は静かに降り続いていた。


 冬の夜明けは遠く、辺りはまだ真っ暗だった。


 当然自分がこの世に生まれ出でた時の記憶などないのだけど、その場に居合わせた侍女の話によると。


 私はおぎゃあと一声大きく泣いて、その後ぴたっと泣き止んだという。


 体格も普通の赤子よりは立派で、健康そうだったとのこと。


 「元気な、姫君にございます!」


 侍女が床に伏す母に告げた。


 「姫ですか……」


 まだ苦痛から立ち直れない母が、顔だけを上げて私を見た。


 その瞳には明らかに失望の色が浮かんでいた。


 何としても男子を産みたかった母。


 妊娠中も腹の中で活発に動いている胎児を、勝手に男子だと思い込んでいたようで。


 しかし生まれてきたのは、残念ながら女であった私。


 「男の子だったらよかったのに……」


 私は終生、その言葉を投げかけられる運命にあった。

(春日山城天守閣跡より、現在の上越市内を臨む)



 私の一番昔の記憶は、冬の夜静かに降り続く雪景色。


 全ての音を包み込み、世界を白く染める。


 辺りは雪で閉ざされた。


 だけど私には、寒くてつらかったという記憶はない。


 常に暖炉には薪が豊富に入れられ、部屋を温かくしていた。


 そしていつも母と姉が側にいて、私を慈しんでくれた。


 女三人で身を寄せ合い、冬の寒さをはねのけていた。


 雪深い冬。


 幼い私の背丈をはるかに上回る量の雪が、毎年辺りを埋め尽くしていた。


 しかし雪が溶け、春が来れば、一帯は華で埋め尽くされた。


 そして夏は暑く、太陽に焼かれた。


 秋になると山々は、鮮やかに染められ。


 また冬がやってくる。


 四季の流れが鮮やかだった。 それは、ある夏の日のことだった。


 いつも通り庭を飛び出し、山を駆け。


 泥んこになって、家に戻った。


 「姫さま、何て姿に!」


 土や草にまみれた私を見て、侍女たちが慌てた。


 着物を取り替えようとしたのか、水で汚れを洗い落とそうとしたのかは分からないけれど、私を捕まえようとしたが。


 私はひらりと身をかわし、母の待つ部屋へと戻ろうとして走った。


 軒先にたどり着き、縁側に飛び上がろうとした。


 するとそこに、姉が正座している。


 「姉上?」


 呼びかけると姉は、引きつった表情を浮かべていた。


 私が部屋の奥を見たところ……。


 年を取った見知らぬ男が、母を扇子で殴っていた。


 しかも二度、三度と繰り返し。


 母はなすがままに打たれている。


 姉は縁側でうつむき、涙をこらえている。


 一体どういうことだろう。


 見知らぬ老人(に私には見えた)が人の家に入り込んできて、傍若無人に振る舞っている。


 何て無礼な奴だろう!


 もしかしてこれが、盗賊というものだろうか? 母上に何をする?


 許せない!


 私はちょうど庭に落ちていた木の棒を手にして、屋敷へと駆け出した。


 「無礼者め~!」


 私は縁側に飛び上がり、部屋に飛び込んだ。


 「何だ?」


 年取った男は驚いた表情で、こっちを振り返った。


 母はさらなる驚愕の表情で。


 「母上に何をする!」


 私は木の棒で、思い切り男を殴った。


 「うわっ!」


 ゴツン!


 不意を突かれたようで、棒は男の額のど真ん中に当たった。


 「姫っ、何をするのです! おやめなさい!」


 母は私を止める。


 どうして?


 私は母上を助けるために……。


 「姫だと……」


 男は額から流れる血をぬぐいながら、私の方を見た。


 「何てことだ、こんな山猿のような姿に。お前の育て方が悪いから」


 「黙れ、無礼な奴! 猿だと?」


 私は猿呼ばわりされ、ますます不愉快になった。


 その時、


 「おやめなさい!」


 背後から姉が駆け寄り、私を抱きかかえた。 「姉上、お離しください。この無礼な奴を私は成敗いたします!」


 私は姉の腕の中で、もがいた。


 だが六歳年上の姉の力に、この頃の私は全然かなわなかった。


 「姫、控えるのです!」


 母も私に命じた。


 「御屋形様(おやかたさま)の、御前ですよ!」


 おやかたさま?


 おやかたさまとは誰?


 「父上の御前よ!」


 姉が小声で補足した。


 父上……?


 私は意味が分からなかった。


 思えば私の幼い記憶からは、父という存在が欠落していた。


 側にいたのは母と姉、そして家に仕える者たちとその家族だけだった。


 それが私の世界の全てだった。


 そこに「父」という存在感は、皆無だった。


 父上って何?


 おやかたさま?


 母も姉も、非常にこの男に脅えている。


 怖い人なのだろうか?


 「全く……。この有様では、嫁にも行けなくなる!」


 男は吐き捨てるように母に怒鳴った。


 「ヨメってどこの国だ?」


 私がとんちんかんな質問をしたところ、姉が慌てて私の口を塞いだ。 「とにかく! 姫たちの養育はきちんといたせ! それが正室(せいしつ;正妻)であるそなたの勤めであろう?」


 「申し訳ありません……」


 母はひたすら謝っている。


 傲慢この上ない男に対して。


 そして男はドカドカと足音を響かせて、廊下を歩き去っていった。


 そういえば。


 何となく思い出した。


 今年の正月。


 姉と共に、正月の宴に母に連れて行かれた。


 行き先は、同じ敷地内だったような気がする。


 私は母や姉と共に、その部屋の端に座らされた。


 周囲には様々な大人たちと、彼らが連れている子供たちがたくさん座っていた。


 そして部屋の中央には、ふんぞり返ったように座っているあの男が!


 装束があの時とは全く異なるので、すぐには気付かなかった。


 おやかたさまと名乗るあの男を中心に、その部屋の全ては回っているようだった。


 あの時も、今も……。

(史跡・春日山城址)



 その年の秋だった。


 私はまたしても母に連れられ、姉と共に「おやかたさま」の居住する春日山城(かすがやまじょう)本丸へと出向いた。


 ちょうどその夜は、中秋の名月。


 城内居住の一族や主な重臣たちを集めて、月見の宴を催すのだった。


 夕刻、私たちは本丸内の広間に到着した。


 室内から庭園が見渡せるよう、邪魔なふすまなどは全て取り払われている。


 ちょうど西の空には、鮮やかな夕焼けが。


 程なく綺麗な満月が、東の空から姿を現すのが期待できた。


 ふと辺りを見渡すと、すでに席は埋め尽くされている。


 座る場所がない。


 困った。


 あ、あの真ん中の席が空いている!


 私はその、空いている席目がけて走り出した。


 「姫、待ちなさい!」


 私の耳には、母の止める声が届かなかった。


 周りでは、宴の準備をする人たちが、皆忙しそうに動き回っていた。


 すでに席についている人たちは、周囲の人たちとのおしゃべりに夢中で、私が「真ん中の席」を狙っているのに気がつかなかった。 「よいしょっと」


 真ん中の席に座った瞬間、周囲の人たちがいっせいに私の方を見た。


 一瞬沈黙が走った。


 皆それぞれ、困惑した表情を浮かべている。


 私は何も解らなかった。


 ただその席の座布団は他のどの席よりも立派で、ふかふかしていた。


 その席から宴の場全体が見渡すことができる、一番見晴らしのいい場所だった。 


 「姫っ、そこから離れなさい!」


 母が私の元へ駆け寄ろうとした。


 青ざめた表情で。


 どうして?


 せっかくいい場所を見つけたのに。


 その時だった。


 私の頬に、いきなり激痛が走った。


 「……!」


 「ばか者! 長尾(ながお)家当主の席で何をしておる!」


 私は「おやかた様」に思いっきり頬を引っ叩かれ、小さな体は枯葉のように吹っ飛んだ。


 「また末の姫か! そなた、どんな教育をしておる!」


 「申し訳ありませぬ!」


 おやかたさまに怒鳴られ、母は床に頬を付けそうな程の土下座をして詫びている。 「わしの席に、よくものうのうと……」


 痛む頬を押さえたまま、恐怖で動けなくなった私。


 震えながらただ、おやかたさまを見上げていた。


 父であるこの男を。


 そんな私を、おやかたさまは蹴ろうとしたのか、足を挙げてきた。


 私は恐怖で身動きが取れない。


 「父上、おやめください」


 まさに蹴りを入れられそうになった時。


 若い男が私とおやかたさまの間に割り込んできた。


 「若様」


 母上が「若様」と呼びかけた、この若い男。


 私の母違いの兄らしい。


 おやかたさまの嫡男で、この家の後継ぎ。


 兄とはいっても、かなり年が離れている。


 母上とそんなに違わないのではないだろうか。


 おとなしそうな風貌で、おやかたさまにはあまり似ていない。


 「なんじゃ、弥六郎(やろくろう)。邪魔するな」


 この兄は、弥六郎という呼び名らしい。


 そんな兄に対しおやかたさまは、不愉快そうな表情を浮かべる。 「父上、まだ幼い姫のやった事。この弥六郎に免じて許していただけないでしょうか」


 「うむ。宴の前にあまり怒ると、酒がまずくなる。お前たちも自分たちの席に戻るがいい。今宵の月に免じて許すとしよう」


 おやかたさまは母に、席に戻るように命じた。


 すると、


 「せっかくの宴なのに、気分を害しましたわ。御子のしつけくらい、きちんとできないのかしら?」


 おやかたさまの横に居た若い女が、顔を歪ませて不愉快な言葉を母に浴びせた。


 「申し訳ありませぬ」


 ただひたすら詫び続ける、母。


 「もうよせ。酒がまずくなる」


 おやかたさまに制されて、その女は母を一睨みして、顔を背けた。


 下品そうでいやな女だった。


 母よりはちょっと若いみたいだけど、母の方がこんな女なんかよりずっと美しい。


 「元気なのはいいが、お転婆も度が過ぎたらダメだぞ」


 兄は私の頭を撫で、笑顔で母の元へと返してくれた。


 優しそうな人。


 それが年の離れた兄・弥六郎への第一印象だった。 その夜は見事な満月が、夜空に浮かび上がった。


 楽師が幻想的な音楽を奏でる。


 だけどその夜の私は、月の美しさに感嘆する気持ちよりも。


 父、すなわちおやかたさまに殴られた頬の痛さ。


 一方的に振るわれた、暴力に対する恐怖。


 父の側にべったり寄り添う、下品な女への怒り。


 そんな女、そして父に対し、悲しいくらいに卑屈に振る舞う私の母。


 それらに対する怒りとやるせなさが心に交差して、幼い胸は締め付けられそうだったことがいつまでも忘れられなかったのだ。

(春日山城山頂へと向かう道)


 また正月となった。


 この国の冬は、今年もまた深い雪に覆われた。


 正月は毎年恒例、場内及び遠方からも親戚筋や重臣たちがおやかたさまの元へと集まり、宴が開催される。


 雪の中を、遠路はるばる。


 大人たちは酒を飲んで、大騒ぎ。


 子供たちはやがて退屈になってきて居眠りを始めたり、子供同士で集まったり。


 母は別の女性たちと、会話を楽しんでいる。


 私はまだ幼く、他の子供たちとも打ち解けられずにいたので、姉にべったりくっついていたところ、一瞬姉が席を外した。


 その時だった。


 「おい、久しぶりだな。フチューのオトコオンナ」


 振り向くとそこには、親戚筋の男の子がいた。


 確か……、上田の新六(しんろく)とか呼ばれていて。


 私よりも二歳年上のはず。


 しかし一月生まれの私は、同世代の子供たちの中でも大柄で、二つ年上の新六ともそんなに体格差がないほどだった。


 私たちの家系は、親戚が多岐に渡って分かれていた。


 この上田家の新六なる者は、同族とはいえ、かなりの遠縁筋に当たる。


 私の家系は、府中(ふちゅう)家と呼ばれていた。


 「なんだ男女とは」


 私は新六に問い返した。


 「みんな噂してるぞ。府中の末の姫は男みたいだ、って」


 確かにこの頃の私は、体が大きくて活発だったため、男の子と間違われてばかりだった。


 「それのどこが悪い?」


 私はばかにしたように、新六に聞き返した。


 「姫だったらなー、もっとおとなしくしてなきゃいけないんだぞ。お前の姉上みたいに」


 六つ年上の姉上は、私とは全く異なり、おしとやかでお姫さまらしかった。


 「お前本当は、男じゃないのか?」


 そう言って新六は、私の着物の裾をめくり上げようとした。


 子供のたわいもないイタズラ。


 だけど四歳の私には、非常に不愉快なことだった。


 「何をする、新六のバカ!」


 私はゲンコツで、新六の頭をポカリと殴った。


 頭のど真ん中に命中。


 程なく新六は、大声を上げて泣き出した。


 部屋中の視線が、こっちに集まった。


 「またお前か!!」


 騒ぎを聞きつけて、おやかたさまが駆けつけてきた。


 「どうもお前は、元気が有り余っているようだな!」


 怒鳴られた。


 殴られる!


 覚悟をした。


 「申し訳ありませぬ!」


 「父上、お許しください!」


 母と姉が急いで戻ってきて、また土下座をしておやかたさまに詫びていた。


 だけどこの日は、


 「それにしても新六、年下のしかも姫に負けて大泣きとは、男として恥ずかしいぞ!」


 怒りは新六の方へ向けられた。


 「上田の長尾家の跡取りとして、もっとしっかりいたせ!」


 新六はおやかたさまに、尻を叩かれていた。


 するとさらに大泣きする始末。


 新六の両親も飛んできて、必死で泣き止むようなだめていた。


 このとき私は、ちょっと気になった。


 新六の両親に対するおやかたさまの態度が、さほど高圧的ではないのだ。


 私たちや家臣たちに向けるものとは全然違う。


 理解できるのはもっと先のことだけど。


 我らが府中家と新六たちの上田家とは、同族として対等な関係にあったのだ。


 たまたまこの時代、おやかたさまの勢力が際立っていたため、府中家の勢力が強かった。


 おやかたさまが一族のリーダー的存在だった。


 しかし家柄としては、府中家と上田家は対等。


 「将来の上田家当主として恥ずかしくないよう、しっかり鍛えておくのじゃ。将来の花嫁に今から頭が上がらないようでは、この先思いやられるぞ」


 おやかたさまは、新六の両親に告げていた。


 将来の花嫁?


 おやかたさまが何気なく口にしたその言葉の意味を、私は明確に理解できてはいなかった。

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