「遅くならないうちに、さおりちゃんをお返ししなくちゃ」

過去のさおりではなく、目の前の私を思いやる言葉が嬉しかった。

「これ、返すね」

借りたジャージを脱ごうとすると、健太くんに止められた。
「寒いから、着てってください」

「あら、夏服?」

「ちょっと冬服をクリーニングに出しちゃって」

「そんな汚れたジャージじゃ悪いわね。ちょっと待ってて」

リビングを出て戻ってきたお母さんは、水色のストールを差し出した。
うちにあるアルバムと同じ、私も好きな、少し憂いを帯びた水色。

「きれいな色。でも、お返しできないから……。
もうすぐ遠くに行くので」

もう会えないかもしれない。
はっきり言わなかったけれど、お母さんには伝わったみたいだ。

お母さんが悲しそうに目を伏せる。
けれど、自分の気持ちを振り払うように笑顔を作って見せた。

「いいの。あなたにあげる」

お母さんが、広げたストールで私の体をそっとくるむ。

「この色の名前、知ってる?」

「水色じゃないんですか?」

「フォーゲット・ミー・ノット・ブルー。
忘れな草色って言うの」

「忘れな草色……」

「恋人のために花を摘みに行って川に流された青年が、
『僕を忘れないで』って叫んだから、
忘れな草って名前になったんだって。
その青年、ちょっとおっちょこちょいよね」

「ふふ」と笑ってから、
不意にお母さんがふわりと私を抱きしめた。
忘れたと思っていたお母さんの匂いと感触が、一瞬で蘇る。

まさか、こんな日が来るなんて。

「あなたに会えてよかった。
生きていると、思いがけないことがあるのね。
まるでご褒美みたい。
苦しくても生きてきたことへの」

そうだ。これはごほうびなんだ。
お母さんにまた会えたのも、弟ができたことも。

お母さんの腕が、「忘れないで」と言っている気がした。