「ただいま」

リビングの扉を開けると、ソファにだらしなく寝転んでいた父が
「ああ」と振り返った。

「これ、何語?」

「ロシア語」

先月は、アラビア語だった。もうちょっと前は、ポルトガル語。
要するに、父は語学番組ならなんでもいいのだ。
こうやってぼんやり眺めるのにちょうどいいらしい。

ぼんやり眺めるなら、ほかにもいろいろありそうなものだけど、
父いわく「余計なメッセージが込められていないのがいい」のだという。

いまだにこの人の考え方がよくわからないのは、
単に一緒にいる時間が少ないからというだけではないような気がする。

ローテーブルの上には、
甘い炭酸のペットボトルとポテトチップス、それと大福の食べかけ。
この三つは、家でだらける時の父の必須アイテムだ。

どう考えても体に悪そうだし、糖質ばっかり摂りすぎ。
医師の不摂生って言うけど、その通りだと思う。
わざわざそんなこと言わないけど。

ローテーブルのゴミを片付けていると、父が唐突に呟いた。

「またあれか」

父の話し方は、呆れるほどわかりにくい。
主語や述語をすっ飛ばした片言みたいな話し方だから。
長く喋ると寿命が縮む呪いでもかけられているのだろうか。

「あれって、バンジージャンプのこと?」

テレビに目をやったまま、父がうなずく。

「お父さんも来年やってみる?」

「心臓止まっちまうわ」

いつも無表情な父が、わずかに顔をしかめた。
この人にも苦手なものがあったのかと、不思議な気持ちになる。

「海は平気なのに?」

「海と飛び降りは別だろ」

「飛び降りって」

私が笑うと、父もつられて口の端を歪めた。一応、これでも笑ってるのだ。

「海を泳いでると、空を飛んでるみたいな感じがするって話、
聞いたことがあるけど?」

「スキューバはそうかもな」

「お父さんがやってたやつ、なんだっけ」

「ウィンドサーフィン」

「ウィンドサーフィンは? 違うの」

「あれは海の表面の遊びだから」

よくわからない父の理屈を流してキッチンへ向かうと、

ソファの父がいつもより大きめの声で言った。